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松子の冒険 -三所信用金庫仏の座支店物語-

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 日々の買い物はひと通り生鮮食料品が揃っているスーパー・ヨシワラを外せないが、肉類は商店街連合会との取り決めにより西川口精肉店で購入することになっているので、松子はスーパー・ヨシワラを出てから右に折れて仏の座商店街を西川口精肉店に向かって歩き始めた。松子が中洲衣料店から無償提供された衣類を身に着けるようになってから、今日が3日目であり初日の取り乱してしまいそうな恥ずかしさはもうないものの、やはり行き交うおじさんの舐めるような目に晒されるとしゃがみ込みたくなるほど恥ずかしくなる。もっとも松子がしゃがみ込もうものなら、ミニのスカートからティバックのショーツでかろうじて覆われた松子の白くて丸いお尻の下半分がはみ出す恐れがあるので絶対にしゃがむことはできない。見知らぬ男性からナンパされたり、盗撮されたりしないよう商店街全体で奥様達を守る旨の誓約書を連合会から貰っているが、やはり夫の亀次郎は心配らしく今日も妻をストーカーをしながらどこからか松子を見守ってくれているはずであった。求められているのはあくまでも若いセクシーな奥様としての装いであり、うっかりサービス業の方と間違われても困るので今日はフレアワンピースのイギリス風チェック柄でノースリーブの可愛いものを着ている。家を出る時に鏡の前で念入りにスカート丈をチェックしたので普通に歩く分には際どくもお尻を晒すことにならないのは確認済みだ。中洲衣料店から渡された衣装には、店主の趣味としか思えないような普通に着ているだけでお尻がはみ出すほどの短いマイクロミニのスカートもあるが、そんな過激なものを身にまとう度胸は松子にはまだない。30メートル程後方に松子を熱心に見守る亀次郎の姿がチラチラ見え隠れする。亀次郎としては愛する妻のセクシーな姿を他人には見せたくはないが、心のどこかで自慢したい気持ちもこれありという複雑な心境であるらしく、初日は15人のオヤジが松子のお尻を注視していたとご丁寧に人数まで正確にカウントしていた。元々は自分の企画書で始まったと言っても良いのに愛妻のこととなるとコントロールが効かないようで、買い物から帰宅するともう待ちきれない様子で松子のお尻にしがみついては何回も挑んできたので、これも夫婦円満のひとつの在り方なのかもと男心の不思議さに松子も戸惑いつつも、夫を夢中にさせているという喜びがあった。ただ、松子は夫の仕事の役に立ちたいという気持ちで恥ずかしいけれども引き受けたことであり、男性達から注目されても舞い上がってはいけないと思っていたし、妻としての本分は亀次郎のために美味しい料理を作り、亀次郎が仕事に専念できるよう身の回りの世話をしっかりとやることだと肝に銘じていた。
 亀次郎が自分の後ろ姿を食い入るように見守っているのだと思うと、松子も心なしか安心かつ幸せな気持ちになって、商店街という衆目の中ではあるが亀次郎にサービスというか、少しヤキモキさせてあげようかなといういたずら心も出るゆとりが3日目にして生まれていた。商店街の唯一の本屋である新開書店の日よけシェードの下に書架があり、女性週刊誌が平積みされていたので、雑誌を選ぶ振りをして手を伸ばして体を前に倒してみた。亀次郎からはティバックショーツを履いた松子のお尻の下部が少しだけ見えているはずである。そうか、今日の下着はGストリングなので後ろからだとショーツを穿いていないと勘違いして亀次郎さん後で大変なことになるかもと思ったら、もう少しサービスしたくなって膝に手をおいてお尻を突き出し、スーパーのレジ袋を左手から右手に持ち替えるタイミングでお尻をプリンと振ってみた。見守ってくれている亀次郎への”見て”という愛のサインであったが、亀次郎ばかりでなく、松子ファンの多くの商店街店主のオヤジたちも、松子を見守るという大義名分のもと見て見ぬふりをしながら、そのタイミングには店の奥から松子のお尻を食い入るように注視しており、松子のボリュームある丸い半ケツを拝んだオヤジたちの鼻の下が一斉に伸びたのを松子は知る由もなかった。松子は西川口精肉店のおじいちゃんの満面の笑みに迎えられて、ひき肉200グラムを連合会との取り決めどおり定価の3割引きで購入した。今晩の夕食は亀次郎好物のハンバーグであるが、亀次郎は夕食まで待てないだろうなと松子は自然とニンマリしていた。
 果たして松子が帰宅してからきっかり5分後に亀次郎が帰ってきて、「あら、亀次郎さんも出ていたのですか。」松子のワザとらしい問いかけに返事することもなく、荒い鼻息でキッチンに走り込んできて、「マーちゃん、その恰好可愛いし、良く似合っているのだけど。」と言いながら、四つん這いになって松子のスカートの中を夫の特権で覗き込み、「だよな、そりゃそうだよな、履いているのだよな。」と、まずは松子のノーパン疑惑を確認して安堵していた。それから、「マーちゃん、前かがみになるとお尻が丸見えになってしまうから注意しなきゃ。」と少し不機嫌そうに言った。「なんだ亀次郎さん今日も見ていたの。」と驚いた振りをすると、「僕がお願いしたことだから、責任者として当然のことでしょう。」鼻息荒く少し威張っている。「あら、亀次郎さんはミツ子さんやアツ子さんの後も付いて回っているの。それってもう変質者ですよ。」と茶化したら、「そうか、マーちゃんだけ見守るというのも片手落ちだよな。」と本当に他所の奥様達のお尻を付け回しかねない勢いだったので、「昼間のことだし、商店街の皆さんもちゃんと見守ってくれているのでそんなに心配しなくても大丈夫ですよ。」松子は亀次郎の監視業務をやんわりと辞退してみた。亀次郎は、「うーん。」と言いながらも、「でもショーツは別にティバックでなくても良くはないか。」と複雑な心境を披露したが、「中洲衣料店から提供されたショーツは全部ティバックでしたよ。」と松子が言うと、「そりゃ単なる中洲のハゲ親父の趣味だな。」と悔しそうに言い、「抗議しておくか。」と独り言ちした。「大丈夫ですよ、私ティバック意外と好きだし、見えないようにちゃんとチェックしてから出かけているから。」松子が言うと、亀次郎は「マーちゃんちょっと前かがみになって。」と言って、「ほら、マーちゃんがちょっと体を前に倒すだけでお尻が見えちゃうんだよ。」フンフン鼻息を荒くしながら文句を言った。「えーっ。ホントなの。気づかなかった。今日見られちゃったかな。どうしよう、恥ずかしい。」とお尻を振りながら言うと、もう亀次郎はもう堪らず松子のお尻に顔をスリスリ始めていた。「明日からは気を付けるね。」松子がお尻の双丘で亀次郎の顔を挟むと、亀次郎は嬉しそうに何か「ウゴウゴ。」言っていたが、声がくぐもって内容までは分からなかった。亀次郎さんの言う通りにしていればよいのだと松子はあまり深く考えないようにしているが、亀次郎さんも板挟みで色々と大変なのだろうなと松子は優しい気持ちでポヨンポヨンとお尻で亀次郎をあやしていた。

 Ⅱ

 松子は生まれてから結婚した二十歳までの20年間自分を不幸せな娘だと感じたことは一度もないが、取り立てて人より恵まれたものだと感じたこともない、いわゆる平凡かつ人並みな20年だったと思う。農機具製造・販売メーカーに勤め、麦焼酎での晩酌が一番の楽しみの父とスーパーの総菜コーナーに依存しているとはいえ、毎日毎日ご飯を作ってくれる少し口うるさい母の間にひとり娘として生を受け、子供の時には良く地元の三所遊園地に連れて行ってもらった。クラスメイトの和江ちゃんからディズニーランドのパレードの話を聞くと羨ましいとは思ったけれど、疲れた顔をしている父の折角のお休みを1日全部潰してしまうのは心苦しかったし、怖いアトラクションに乗るよりは三所遊園地の動物ふれあいコーナーでモルモットを抱っこしている方が安心できた。三所山下小学校、三所第二中学校に通い、目立たない生徒だったけど、皆と一緒の可愛い文房具は母がブツブツ言いながらも全部揃えてくれたので仲間外れにされることもなかった。成績は中の中、父も母もそんなものだったと特に勉強しなさいとも言われず、それでも皆が行く塾には通わせてくれた。進学したのは三所商業高校。担任の先生は普通高校の方が良くはないかと言ってくれたけど、和江ちゃんも商業高校に行くというし、パソコンや簿記の資格も取れるというから迷いはなかった。高校生活はちょっと不満だった。もともと細い方ではなかったけどちょっと(かなり)太って顔も丸くなった。クラスメイトから苗字のまま押車関ってお相撲さんみたいな呼ばれ方もした。メイクもしたかったけど、そのためには痩せることが絶対条件だと3年間ダイエット頑張っていたらろくにメイクもできないまま高校生活が終わってしまった。和江ちゃんがネイル上手だったので、松子も教えてもらいながらやったが爪だけデコレイトしてもとあまり派手にはできなかった。あんなにダイエット頑張ったのに何故痩せないのだろうと悲しかったが、学校が終わってから行くクレープ屋さんは絶対に断れないミーティングなのだから仕方ない。中学生の時にはクラスの男子から告白され、なんとなく良い感じになって男女のグループで遊びに行ったこともあったけど、高校の3年間はボーイフレンドなし。商業高校は女子が多く、男子の絶対数が少ない。クラスには近くの私立男子校の生徒と付き合う子が結構いたけど、不良っぽい人が多そうで怖かった。そう言えば、一度待ち伏せみたいなことをされて、付き合ってくれないかと言われたけど、恥ずかしいのと怖いのとで相手の顔もろくに見ずに逃げ出した。私立高校の制服だった。何もないよりは高校時代のイベントとして記憶できたので誰かは知らないが少し感謝している。母は勉強しなさいとは言わないが、挨拶だけはちゃんとしなさいと小さい頃からうるさく言われていたので、学校でも近所でも友達や知り合いの人には必ず挨拶をした。気づいたら笑顔でおはようございますと言うのが習慣になっていた。これは母の躾のたまものである。学校で誰かとちょっと気まずいことがあっても、それはそれ、挨拶は挨拶でやっていたらなんとく仲は元に戻っているし、近所のおばさん達からも、松子ちゃんは本当に明るくて良い子だと言われてきた。口うるさいおばさん達に寄らず触らず絶妙なバランスを取るのは遠くからの挨拶が一番だ。
 挨拶のおかげで学校の先生達からの覚えもめでたく、地元での就職希望を出したら押車だったら大丈夫だからと何が大丈夫なのかの説明もなく三所信用金庫を勧められた。一応家族とも相談しますと言って両親に相談したが、家から通える支店になったら良いのにね、ともう勤務先の心配をしていた。先生に受けてみますと伝えたら、三所信用金庫は学校推薦だと採用は間違いないからと資料を渡され、日程に従って会社訪問して適性試験と面接を受けて10月に入ったら早々に採用内定をもらった。折角買ってもらったリクルートスーツは数回しか着られなかったが、11号という松子にとっては屈辱的サイズだったこともあり黒歴史としてタンスの中に封印された。仲の良かった皆と卒業旅行にも行けたし、就職が決まってからのダイエットはこれまでにない成果が出た。鏡に映ったちょっとシュッとなった顔を見て、結構いけるかもとほくそ笑んだ。
 松子は、父は父なりに母は母なりに両親から愛情を注がれ、特に反抗期もなく、登校拒否もせず、健康かつメンタルに支障をきたすこともなく成長した。松子は都会に憧れず地元に親しみ、そして自分を平凡な人間だと認識し、これからの生活も大きな変化が訪れないように望んだ。仕事をちゃんとやり、周りから可愛がられて、しばらくしたら地元に住む普通の男性から求婚され、ハワイに新婚旅行に行き、出来れば実家の近くに住み、専業主婦となって子供を二人ぐらい産んで旦那様と子供と仲良く暮らす母みたいなスーパーの総菜を上手に使う主婦となることを望んでいた。

 三所信用金庫は三所市と隣の褄取市及び県庁所在市に18店舗のみを有する全国的に見れば下位に位置する信用金庫であったが、両市の中小企業経営者にはなくてはならない金融機関である。バブルの時、都市銀行が貸すだけ貸して、弾けたとたん被害者面して債権回収を始めた時に、地元企業の最後の防波堤となったのは三所信用金庫だった。中小企業のオヤジたちは本業に専念しろと煩くいう信用金庫から離れ、都市銀行支店の若い行員の口車に乗り多額の金を借りて様々な投資を行った。結局素人のオヤジたちは最後のババを引かされただけだった。文句を言おうにもオヤジたちとゴルフだ酒だ女だと楽しく騒いだ若い行員達はどこか遠くに消えてしまい、やけに冷静な銀行員が担保証明書と無理な返済計画を携えて慇懃に返済を迫った。当時の三所信用金庫理事長、雁首床次郎は地場企業なくして金庫起たずの名言を唱え、一度離れた顧客であっても中小企業や個人事業者の再建計画を職員に任意で作らせ、フンバロウ三所のスローガンのもと全金庫職員をもって一件、一件対応させた。不幸にも体力が持たずに潰れた会社もあったが、それでも多くの中小企業は金庫からの借り換えで危機を回避し、辛くても将来に向けての歩みを始めたのであった。それ故、雁首床次郎の名は三所市に永遠に刻まれ、亡くなった翌年市内の三角木馬公園に床次郎にあまり似ていない胸像が建てられた。いまでも、三所信用金庫は地場の中小企業にとって尊敬と親愛の念を持って信金さんと名を呼ばれる金融機関であった。松子も新入社員研修で長々とその経緯を聞かされたが、睡魔もあって良く分からなったというのが正直な感想であった。
 松子が配属された支店は県内18店舗のうち、本店近くの仏の座支店であった。支店が位置する仏の座商店街は、江戸時代の殿様、薄葉公の菩提寺万光寺の門前町から発展した通りであり、戦前、当時の住職が本妻と妾に併せて15人の子供を産ませたことから、別名種付け万光寺として子授けの寺として有名になり、産めよ増やせよの国策にも乗り、県内外から祈願に訪れる人も多く、参拝客相手の食堂やお土産物屋も立ち並ぶにぎわいを見せた。また、戦後の高度成長期には近隣住民の生活資材を提供する通り市場として生鮮食料品から日用雑貨まで広く扱う商店街として発展した。仏の座の名の由来はこの一角が寺と向かい合うように少し小高くなっていることから仏さまがお座りになった場所と言い伝えられていると商店街の入り口に墨痕新しく書かれているが、これは最近になって作られた話で、野原だったこの地に仏の座がたくさん生えていたからそう呼ぶようになったのが本当らしい。ただ、絶倫住職が亡くなり、後を継いだ長男の住職が胃弱で顔色が悪く、おまけに姑の嫁いびりに耐えかねた奥さんが離婚の置き土産に住職の精子が薄いため子供ができなかったと近所に言い触らすという出来事があり、またその年の台風で先代住職が建てた張りぼて子宝如来像が倒れて壊れるということも続き、どうも御利益は見込めないという噂が立ち参拝客は少なくなった。また、規制緩和という言葉に日本中が踊らされた時代に大店法が廃止され、複数の大型店舗が三所市の中心街に進出、その後、郊外に大型流通資本によるショッピングモールが進出し、中心街とモールの集客競争に埋没する形で仏の座商店街の利用者は減少の一途を辿っていた。ただ、商店街の店主達もまさか自分たちに降りかかる問題とも理解しないまま、規制緩和という言葉に浮かれ政権党候補者の票の取りまとめまで熱心にやっていたので自業自得の面もあった。
 三所信用金庫仏の座支店は仏の座商店街と近隣の猿谷商店街の個人事業主たちを中心に周辺の製造業者を顧客として、千に遠く満たない会員数ではあったものの地域密着金融機関として馴染まれており、周辺の一般家庭も便利な近所の金融機関として公共料金の引き落とし等財布代わりに利用していた。近年の経済長期停滞による都市銀行の従来の大企業向けの貸し付けから、高い利鞘を狙った個人貸付への転換攻勢にも、フェイス・トゥ・フェイスで築いた信頼関係で良く持ち応えていた。また、三所市の中小企業経営者や個人事業主は前々理事長、雁首床次郎の理念と恩を忘れておらず、地場中小企業経営者及び個人事業主と三所信用金庫の関係は仲の良い夫婦のような信頼関係があり、いつ逃げ出すか分からない見栄えの良いホステスが入り込む隙を見せない正妻としてのメンツが三所信用金庫にはあった。しかしながら、どんな仲の良い夫婦も亭主の収入がなくては成立しない話であり、三所信用金庫仏の座支店は日々客足が遠のく仏の座商店街の個人事業主の事業収入の増を図り、安定的な事業運営を後押して、新たな貸し付けを生み出すことが必要となっていた。松子が仏の座商店街の浮上戦略において大きな役割を果たすことになるのは先の事である。

 三所信用金庫仏の座支店の朝は壁に掲げられた金庫理念の唱和から始まる。行員達は自分の机の横に立ち、後方に立鼎支店長と松葉副支店長が並ぶ、口火を切るのは支店の中で最も歳若の職員と決まっており松子の役目である。松子は元気な声で「おはようございます。」と言ってから、「お尻の穴を締めてご唱和願います。」と発声する。出勤最初の日に先輩預金係の花菱トモ子が最後のお勤めを果たして、「明日からは押車さんの役目だから。」と嬉しそうに言われた。お尻の穴のくだりは、前々理事長、雁首床次郎がバブル崩壊後の都市銀行とのバトルに際して、全行員に向かって、ケツの穴を締めてやれ、絶対にあきらめるなと涙を流しながら檄を飛ばしたという伝承から発しており、雁首イズムを受け継ぐ証としてこうした形で残されたが、ケツは少々下品だからと呼び方がお尻に変えられた。三所信用金庫本店及びすべての支店の朝はお尻の穴を締めてという可愛い声が飛び交うのである。もちろん松子は最初驚いて、そんな恥ずかしいこと皆の前で絶対言えないと思ったが、上司に当たる預金係長の深山タツ子が松子の心を見透かしたように「やってごらんなさい。やったら押車さんなりに感じるものがきっとあるから。」とやさしく言ってくれた。それで恥ずかしいながらも何日かお役目を続けていたら、松子がお尻の穴を締めてというと、松子はもちろんのこと皆の背がキュッと伸びるのが分かった。姿勢を良くしなさいという言葉以上に、お尻の穴を締めると背が伸びて姿勢が良くなることが分かって、お客様に対応している時も務めてお尻の穴を締めるようにした。もうひとつは、度胸が付いたということである。朝一番にお尻の穴なんて恥ずかしいこと言ってしまったのだから、もう失うものなど何もないと変な勢いがついて、お客様にもどんどんお声掛けができるようになった。深山係長にそのことを話すと、深く頷いて「頑張りなさい。」とお尻をポンと叩かれた。そして「良いお尻しているのね。」と言われた。松子の発声に続いて、松葉副支店長が三所信用金庫理念を読み上げ皆がそれに続く。ひとつ、相互扶助を目的として地域社会繁栄への奉仕を行います。ひとつ、金融事業を通して地域中小企業の健全な発展に寄与します。ひとつ、地域の皆様のパートナーとして一歩踏み込んだ奉仕を行います。そして、理念が掛かれた額に向かって皆が深くお辞儀して、支店長、副支店長に向き直る。やたらに奉仕、奉仕というところだなと最初は思った松子であったが、お客様に対応していると、心に油断があるとお客様対応がおろそかになってしまうと自分なりに納得する出来事もあり、それ以降、心を込めて大きな声で理念を唱えるようになった。立鼎支店長から簡単な訓話があり、松葉副支店長から事務連絡を受けて朝礼が終わる。
 松子の家は三所市の割と中心部にあり、三所信用金庫仏の座支店に出勤するためには、猫舌交通の万光寺行きのバスに乗り、仏の座商店街入り口まで片道30分の行程であった。両親が心配する程のこともなく、新規採用の女子行員は皆自宅から通勤可能な支店に配属されていた。勤務時間は8時40分から17時10分であったが、朝礼が8時半から始まるので行員はそれまでには出勤しなければならなかった。金庫は朝9時に開店するので、朝礼が始まる8時半には開店準備を終わらせておく必要があり、若い松子と花菱トモ子は7時半過ぎには出勤して、窓を開けて空気の入れ替えや、湯沸かし、書類出しを行う。身の回りの清掃は自分で行うよう松葉副支店長は常々行員達に口うるさいが、松子はきれいな雑巾で皆の机も朝に拭くようにしている。支店長室の机やテーブルはいつもピカピカだが、意外と副支店長の机はパンの食べかすなどで汚れていることが多い。週3日、月、水、金の朝の時間に来てくれる三条清掃サービスの間夫さんとはすぐに仲良くなった。間夫さんはおばさんなのに重い清掃用具を軽々と使ってフロアー掃除をし、トイレもピカピカにする。掃除の時間には平気で支店長を支店長室から追い出すプロだ。仕事が終わると給湯室でお茶を一杯飲んで帰る。その時に松子にお菓子をくれるので、ありがたく貰って休憩中にトモ子さんと頂いている。間夫さんが来ない日は、松子が金庫の正面入り口の掃き掃除をやることに決めている。警備会社から派遣されている廓さんが目を光らせているのでごみが落ちていることはないが、お客様をお迎えするのにちゃんと履き目は入れておきたかった。廓さんは警察OBらしく、巡回に来てくれる警察官が廓さんにペコペコしているのは頼もしかった。廓さんともすぐに仲良くなった。怖そうな顔をしているが、大きな声で挨拶をしたらニッコリしてくれる。警察官になったばかりの息子さんがいるので「松子ちゃんみたいな良い娘が嫁に来てくれたら。」と冗談半分、本気半分で言う。8時55分、廓さんが正面入り口脇に姿勢良く立ち、9時ちょうどに立鼎支店長自らが自動ドアのスイッチを入れ、お客様をお迎えする。たとえ誰も並んでいなくても支店長は10分間正面入り口でお客様をお待ちする。この時間松子はお尻の穴を締めて支店長の挨拶に併せていらっしゃいませとお客様をお迎えする。
 松子は仏の座支店の預金課に配属されている。窓口のお姉さんと呼ばれるが格好よく言うとテラーだ。入出金・税金・振込みなどをお客様の伝票に基づき正確に処理していく。まだまだマニュアルは離せず松子がもたつくと先輩テラーの椋鳥シマ子、千鳥アツ子そして花菱トモ子が後方事務からサポートしてくれた。貯金窓口は2つ有り、4人でローテーションを組んでいたが、その後ろでは深山タツ子係長がドンと座り、目配りを欠かさず、お客様からの苦情はスッと通称0番窓口を開けて深山スマイルといわれる笑顔でピシャリと対応してくれるので窓口が滞ることはなかった。最初は苦情をおっしゃっていたお客様も納得してお帰りになる姿をみて、深山係長は凄いと松子は尊敬の目を向ける。松子の素直な視線は深山係長にも心地よいものであり、テラーの教育に厳しい深山係長も松子には少しだけ甘かった。深山係長の見せ場は店舗が閉まった15時以降に来る。お客様が書いた入出金額や振込金額の数字と、実際に銀行員が処理した数字があっているかを確認していくいわゆる勘定確認作業である。金融機関において金銭ミスは許されないことだとテラー達は教え込まれている。松子たちも間違いのないよう緊張感を持って確認しながら業務をこなしているが、人間である以上ミスのリスクはゼロではない。深山係長は打ち出されたリストと伝票をすごいスピードで付き合わせていく、そして最終の入金と振り込みを処理金額リストと確認して間違いがありませんでしたと確認時間を添えて高らかに、「15時32分ゴメイ。」と宣言する。15時からの深山係長の確認中は直接関係のない融資課や渉外課の行員もデスクワークをしながら神妙に深山係長の声を待つ。ひょうきんな融資課の宝船さんが居れば、深山係長のゴメイの声に合わせて「ウオィ。」と声を出してパチパチと拍手をする。深山係長は立ち上がって茶臼預金課長に一礼した後、振り返りニッコリ笑って「皆さんお疲れ様でした。」と松子たちテラーをねぎらってくださる。トモ子には「そろそろ慣れなさいよ。」と言われるが、松子はその度嬉しくて涙ぐんでしまう。
 通常であればゴメイが出た後、テラーたちは定時までテレマーケティングといってお客様に定期預金にしませんかとか最近カードローンの商品が出たのですがいかがですかといった電話を掛ける仕事が待っている。信用金庫に限らず銀行を利用するということは個人情報を一程度オープンにしていただくということなので、お客様の資産を踏まえての勧誘ということになるが、融資課の指導の下、主に一般のお客様を対象に行っていた。ただ、松子だけは立鼎支店長の考えもあり、松葉副支店長の下で総務兼任としての仕事をするようになっている。総務と言っても給与、申請書類等はすべてオンラインで本店管理となっているので、松子のやることは総務関連の本店総務部や広報部との連絡や、副支店長に指示された支店内の細々としたお世話係であった。行員達は文房具の要望や行内の掲示物等を松子経由でお願いすることになり、松子は自然と預金課だけでなく支店すべての行員と親しく話をするようになり、支店の一員として馴染んでいった。皆も押車さんではなく自然と松子ちゃんと名前で呼ぶようになった。三所信用金庫の業務を支える勘定オンラインシステムは猿山通信サービスが運用しており、仏の座支店にも石清水典次が猿山通信サービスからの出向行員として、渉外課の情報係として座っていたが、彼がどんなにパソコンに詳しくても、職分を超えた業務の実施は出向元から厳しく制限されている関係で、松子が副支店長を始め課長以上のおじ様行員のパソコントラブルを商業高校で得た知識で対応していた。ただ、松子の知識は市販ソフトの中身に限られていたため、松子の能力を超えるトラブルついてはどうしようもなく、松子が石清水にこっそり尋ねると、日頃は口数の少ない石清水が松子にはにこやかに教えてくれるので、「石清水さんは松子ちゃんが好きなのではないか。」と花菱トモ子から冷やかされた。また、松子は総務併任という立場から、支店長室のお客様や融資課や渉外課の行員が接客ブースでお客様と打ち合わせをする際は、窓口業務の時以外は深山係長に了解を取った後、率先してお茶を出すように心がけていた。仏の座支店の新人行員さんは愛らしいと評判も上々であったが、松子は商業高校で女性社会の厳しさを痛感しており、先輩テラーから教えを乞うという立場を忘れないよう努めていた。残業は基本的になく定時の17時10分には、行員達に挨拶して通用口から帰宅の途につくがその時間にはヘトヘトになっており、先輩テラー達からちょっとお茶して帰りましょうと誘われると嬉しそうな顔はするが内心早く帰りたくて仕様がなかった。
 松子が忙しく厳しい支店業務を笑顔でこなしていくモチベーションは、もちろん立鼎支店長はじめ先輩行員達からの厳しくも愛ある指導に精一杯応えたいという思いもあったが、なんといっても、松子が採用時に提出した制服のサイズが見栄をはった9号であり、もし入らないなら何日でも絶食する覚悟だったが、ダイエットの効果もあり、お尻はちょっとキツキツだったが松子のボディはぴったりと9号に収まった喜びによる。三所信用金庫の女子行員の制服は薄いチェックのベストで襟元とポケットがピンクのラインで縁どられており、ラインと同色のスカートも極端なタイトではなく裾は少しゆとりを持たせた作りになっていた。下に着るブラウスは丸襟で白のリボンが付いていた。会社訪問の時になんて可愛い制服だろうと思っていたが、更にサイズダウンした制服を自分が身にまとう喜びであった。会社訪問の時に先輩行員の働く姿を見て可愛いと思ったように、お客様から可愛い行員さんと見られているかもしれないと想像するだけで嬉しかった。そのためには姿勢を良くして笑顔を忘れてはいけないと思っていた。

 先輩の千鳥アツ子は美人テラーだった。窓口で顔なじみの社長さん達は松子が対応すると、松子ちゃんもう一個ティッシュくれよと気軽に話しかけてくるが、アツ子さんから〇〇様と呼ばれると社長さん達は何も言わずにカウンターの前に行き、神妙な顔をして視線をアツ子さんの顔に張り付けていた。アツ子さんは特に笑顔も見せずにありがとうございましたと柔らかいが低いトーンでお礼を言う。アツ子さんの髪は明るめの栗色に染められており、お化粧もきっちりとしていた。髪は窓口の時はきちんと後ろに束ねられているが、セミロングの髪を揺らしてセンスの良い服で退社する姿は女優さんみたいにカッコよかった。アツ子さんがお休みの日は社長さん達が今日は美人さん休みなのかいとカウンターから覗き込んで残念そうな複雑そうな顔をするので、アツ子さんは皆から美人さんと呼ばれているらしい。更衣室で背中に視線を感じて振り向くとアツ子さんがじっと松子を見ていた。何か失敗したかしらとドギマギしながらアツ子さんに向かい合ってお尻の穴に力を入れると、アツ子さんはハッと笑顔に変えて、「松子ちゃん日曜日時間取れるかしら。」と聞いてきた。松子が「大丈夫です。」と答えると、「家分かるかしら。」と聞かれた。仏の座支店緊急連絡網の住所欄で結構近所だなということを覚えていたので、「多分行けます。」と答えると、「じゃあ日曜日はゆっくりお寝坊してもらって、午後の2時ぐらいに来てくれるかな。迷ったら電話してね、お買い物にでも行きましょう。」とニッコリ笑った。アツ子さんは本当に綺麗だ。アツ子さんみたいな素敵な女性とお買い物に行けるなんて、これが社会人というものかと変に感動してしまった。
 アツ子さんは三所市中心部の繁華街エリアの近くに住んでおり、松子の家から歩いても30分も掛からない所なのだがブロックまでは分からなかったのでタクシーを使ってナビで目指すマンションの下まで行ってもらった。オートロックシステムのマンション玄関でアツ子さんの部屋番号を押すと、名前も聞かずにどうぞと開けてくれた。アツ子さんに聞くと「カメラが付いているから。」と言われて、「私欠伸していませんでしたか。」と心配したら、「可愛かったよ。」と笑われた。アツ子さんの部屋は1LDKでモノトーンを基調にスッキリ整理されており、目立つのはリビングのベッドとデュアルモニターのパソコンぐらいで、テレビすらなかった。松子の部屋のようにぬいぐるみとかお土産の人形とか余分なものがまったくなかった。「素敵な部屋ですね。」と言ったら「松子ちゃんが来るので汚くしていたら笑われちゃうから全部クローゼットに放り込んじゃった。」と言われたが、アツ子さんの部屋はシンプルでおしゃれだった。お土産の近所のお菓子屋さんの大福を渡したら、「松子ちゃんはコーヒー、紅茶。」と聞かれた。迷わず「紅茶が良いです。」と言ったら、「どれが好きかな。」といくつか並んだ缶を見せられてビビった。喫茶店みたい。松子の家の紅茶は黄色のパックしかない。紅茶を頂きながら、「今日はどこに買い物に行くのですか。」と聞いたら、アツ子さんは「Aimerにでも行ってみようか。」と有名なランジェリーショップの名を出した。アツ子さんはそこで下着買っているのだと思ったら、「松子ちゃんに良さそうなもの選んであげる。」と言われた。「そんな高級品買えませんよ。」と言ったら、「ショーツはシームレスにした方が良いよ。」と言われた。「エッ。」って驚くと、「うちの制服裏地なしでしょう。生地が詰まっているから透けることはないし、スッキリ見せてくれるから悪くはないけど、ラインには気を付けた方が良いよ。」。ゲッ、私パンティライン出ていたんだ恥ずかしい。「松子ちゃんはヒップの位置も高いし、形がきれいだから小さ目なノーマルタイプを履くと余計アウターが目立っちゃう。レースのボックスタイプにするかティバックにした方が良いよ。」。9号はちょっとお尻が無理しているなとは松子も自覚しているところである。「アツ子さんはどんなの履いているのですか。」と聞くと。「職場はティバック、皆もそうじゃないかな。」。「えっ、皆って深山さんもそうなのですか。」。「深山さんは元祖だよ。私が入った時にティバックにしなさいって勧めてくれたのは深山さんだもの。」。大人の世界だ。それからアツ子さんはオレンジ色のスティクチークのやり方を教えてくれて、なんとなく大人っぽくなった松子は、アツ子さんとAimerにショーツを買いに行った。シームレスランジェリーの3枚まとめレディースセットは思ったよりも安かった。アツ子さんの部屋を出る時に、洗面台に青色の歯ブラシがピンクの歯ブラシに並んでいたのでガン見していたら、アツ子さんは何ということもなく、「時々泊っていくから。」と石清水の名を出した。「えっえっえっ。」と声を裏返したら、「別に隠してないから。」と言われた。「結婚されるのですか。」と聞いたら、「どうだか。」と他人事のように言って、「そのうち嫌でも色んなことが聞こえてくるようになるよ。」と意味深なことを言った。松子は今日1日で急に大人の仲間入りをさせてもらったような気になっていた。
 翌月曜日松子は迷ったが結局ティバックショーツを身に着けた。ティバックといってもセクシー系ではないのでフロントはちゃんとしているし、後ろが少し心もとないがパンティストッキングを履いたら大丈夫そうだった。姿見に映った後ろ姿を見てこれはたまらんなと自分で推薦の言葉を添えた。制服のスカートもお尻がスルっと入って心なしか9号にマッチした体形になったような気がした。出勤したアツ子さんは後ろに回ってOKサインを出した後、ポンポンとお尻を叩き、「本当に良いお尻している。」と付け加えた。
 アツ子さんの部屋に行った日から松子は少し変わった。松子自身が変わったというよりも周りの人たちの松子に対する接し方が変わったのかもしれない。ただその変化はごく微細なもので、松子自身気付かないぐらいの変化であった。相変わらず仏の座支店の行員やお客様の中小企業の社長や個人店主から松子ちゃんと呼ばれ、可愛がられていたが、仏の座支店のお嬢さんから女性に対しての扱いに変化してきていた。松子がお客様のお手伝いでの整理番号を入力している時に、精肉店の西川口さんのおじいちゃんがありがとう松子ちゃんといってお尻をさわりとひと撫でして、松子が小さい声で「もう。」と怒るのは仏の座支店のひとコマとして変わりはないが、「もう。」と言った後、松子は無意識にお尻を1回プリンと振るようになった。以前は笑っていた常連の店主達が、「じいさん、たいがいにしておけよ。」と声を掛けるようにもなった。松子はその声を聴きながら、本当は社長さん達もお尻触りたいのだよねと店主達の偽らざる気持ちも感じるようになった。定期預金にしてくれたらお尻触っても良いですよと言ったら、替えてくれるかしらと深山係長が聞いたら眉をひそめそうなことも平気で考えるようになった。もっとも、松子は仕事にゆとりをもって取り組めるようになってきたからだと考えていた。松子は人生の最初かつ最高の開花期を迎えていた。
 三所信用金庫の人事異動は融資課や渉外課は定期的に本店、大型支店、普通支店の間で行われていたが、女性行員が多い貯金課の場合、昇格以外は基本的に本人の希望に沿って行われていたので、結婚による退職や配偶者の転勤に伴う移動による欠員を埋めるために新人を配属するケースが多かった。松子も飛田さんという行員が結婚を契機として退職した欠員を埋める形で仏の座支店に配属されていた。一番の仲良しは松子の2年先輩にあたる花菱トモ子でトモ子は市内の女子高を卒業していた。トモ子はちょっとおっちょこちょいで、松子が入行以来2度聞いた現金と帳簿に違いがありますという意味の深山係長のイサンですという恐怖の言葉は2度ともトモ子の処理ミスであった。もし松子のミスだったら松子は申し訳なくて絶対に泣いてしまうと思うのだが、トモ子は原因が明らかになると、「アチャー。」と大きな声を出して、「やっちゃった御免なさい。」と明るく謝る。原因が分かって皆ホッとしたタイミングで謝られるので、皆からも「勘弁してよトモちゃん。」くらいの苦笑で済まされる。もっとも、深山係長からは何故そのミスが起きたのかの要因分析から心構えまでみっちり絞られ、その日は少しブーたれているが次の日は何もなかったように朝から清掃の間夫さんと大騒ぎしている。お昼休みはローテーションで取るのでトモ子となかなか一緒にならないが、同じ組になったら必ず一緒にお弁当を食べる。松子は最初のうちは早く食べて机に戻らなきゃと焦ってお弁当を食べていたが、トモ子は「お昼休みはしっかり休まないと駄目よ。」とお菓子を勧めてくる。トモ子の後ろに隠れるようにして、良し悪しはあったが松子も職場のルールや仕事の進め方を学習していった。トモ子は明るいうちに家に帰るのはもったいないと思うのか、「お茶して帰ろうよ。」と松子をよく誘ってくれる。トモ子は歳上だが全然先輩ぶらないから緊張もせずに話ができる。支店の人間関係も色々教えてくれる。多分にトモ子の想像も入っているのでうかつには信用はできなかったが聞いているぶんには面白かった。松島副支店長ヅラ説はトモ子の解説を聞く限り真実味があり、次の日から松子の視線が自然と副支店長の髪に行ってしまい困った。ただ、アツ子さんと石清水さんのことはトモ子もまったく思い至らなそうで、「石清水さんっていつまでいるのかな、ニヒルな感じだよね。」とちょっとお気に入りの様子だ。松子は絶対にトモ子さんには言えないなと思いながら、私だけが二人の関係を知っているのだと少し優越感を感じていた。トモ子が気付かないのも当たり前で、松子も支店内でアツ子さんと石清水さんが話をしているのを見たことはなかった。彼氏のアピール合戦だった高校時代と比べ大人の恋愛は静かで深いのだと思うとキュンとしてしまう。でも、綺麗なアツ子さんとクールな石清水さんはお似合いのカップルだと思った。

 Ⅲ

 その若い男は見るからに挙動不審で、リックを片肩に掛けて入り口からロビーに入ってしばらくウロウロしながらカンターの中を何回か覗き込んでいたが、今度はブツブツ言って整理番号を取ってトイレに行った。深山係長がデスクの下にある黄ボタンを押したらしく、外に居た警備の廓さんがさりげなく入ってきて出入り口の横に立った。茶臼預金課長が席を立って裏口に回り、松葉副支店長が顔を上げてお客様の人数と位置を確認した。準警戒体制が瞬時に組まれた。男はトイレから出て来て申し込み用紙を取ってロビーの長椅子に座って、なおも落ち着きなくリックからファイルを取り出し膝において用紙に記入しながらカウンターの中を覗き込むような仕草を見せていた。窓口の松子は緊張しつつも普通に落ち着いて、落ち着いてと心に念じ、お尻の穴に力を入れてカウンターの番号を更新した。横の窓口のアツ子さんは平然としていた。男が椅子から立って松子のカウンターに歩み寄る。松子は「お待たせしました。」と笑顔を作って「ご用件承ります。」と若い男に声を掛けた。男は松子を見て、「アノー、エート。」と言って、「今日は鳴門さんお休みなのでしょうか。」と言った。松子が「えっ。」と言って聞き返すと、「支店の方に来てくれと言われていたので。」と困ったような顔をした。「渉外課の鳴門でしょうか。」。「たぶん、いや、すいません、良く知らないので。」と頭を下げたところで、渉外課の鳴門係長が足早にロビーに入ってきて、「すまん迎えに出たのだが。」と男に言って、男が手にした整理券を見て「じゃあ口座から作ってもらうか。」と独り言ちて、「松子ちゃん宜しくね。」と言った。どうやら鳴門係長のお客様らしい。準警戒体制は解除されて廓さんは不自然にならないようにロビーを一回りして外に出て行き、後ろの席のトモ子さんの緊張が解けたのが分かった。松子はニッコリ笑って「ご新規ですね。」と言って、「本日はご印鑑とご本人様であることが証明できるものをお持ちでしょうか。」と聞いた。出された申し込み用紙には合同会社ファームタンク代表、谷渡亀次郎とあった。農家さんかしらと思ったが、農家さんにしては頼りなくひょろりとした人だなという印象だった。「法人口座でしたら。」と言いかけたら、肩に担いだリックからファイルを出して「必要と思われるもの一式揃えてきました。足りなかったら言ってください。」と谷渡さんは頭を下げた。
 谷渡さんはそれから度々支店に来て、鳴門係長と接客スペースで打ち合わせをしていた。お茶出しすると、鳴門係長は「こいつ高校の同期でね、アジア総合研究所から独立してコンサル会社を作って、仏の座商店街に隣接するスズシロタウンに移ってきたんだよ。」と谷渡さんを松子に紹介してくれた。谷渡さんは律儀に立ち上がって「宜しくお願いします。」と頭を下げてから、「会社といってもアパートに看板を上げただけです。」と真面目な顔で言った。松子も慌てて頭を下げてコンサルって具体的に何をするのだろうという興味はあったが、松子の父親が仕事が続かない奴は駄目だと言っていたのを思い出し、若いのに折角入った会社を辞めてこの人大丈夫なのかしらと思った。
 それから松子が帰りの時刻に商店街入り口のバス亭まで仏の座商店街を歩いていると、ふらふらと歩いている谷渡さんを見かけることがあった。夕食の買い物なのかなと思ったが、いつも手ぶらで下ばかり見て歩いている時や上ばかり見て蛇行して歩いている時もあった。鳴門さんの知り合いなので、危険な人ではないのだろうけど、変な人であることは間違いなさそうだった。谷渡さんと鳴門係長の打ち合わせに鴨越渉外課長も入る時もあり、仏の座商店街連合会のスーパーヨシワラの吉原会長や主だった店主たちも参加する時も2度ほどあった。そんな時は支店の二階の会議室を使うのだが立鼎支店長も参加して結構な人数となった。鳴門係長から松子ちゃんお茶10人分お願いねと言われて持っていくと、谷渡さんはスライドを前にして一生懸命何かを説明しており、鳴門係長がイヤイヤやそれはと反論していた。商店街の人と立鼎支店長は皆腕を組んで二人の議論を聞くふうで、同じポーズのおじさん達が横に並んでいる姿が松子のツボにはまって笑いを抑えていたら、思わずヒャックとしゃっくりが出てしまった。吉原会長が「今日は松子ちゃんの貴重なものが聞けたな、録音しておけば良かった。」と言ったら、鳴門係長が「大丈夫です。」とICレコーダーを見せたので、皆が大笑いになった。松子は「困ります。」と言いながら少しだけツボの笑いを放出できた。谷渡さんだけは憮然として資料をにらんでいた。
 商店街の店主たちが引き上げたのを確認して、松子が湯飲みを片付けようと思って会議室のドアを開けたら、まだ谷渡さんと鳴門係長が残っていてボソボソと話をしていた。松子が「失礼しました。」と閉めようとしたら、鳴門係長が「松子ちゃん大丈夫だよ。」言ってくれた。終業時間も近づいていたので失礼して湯飲みを集めていたら、谷渡さんが「じゃあ押車さんにも聞いてみましょうよ。」と鳴門係長に言った。いきなり名前を呼ばれたのでビックリして二人の方を見たら、谷渡さんが、「押車さん仏の座商店街で買い物しますか。」と聞いてきた。「いいえ、ありません。」と答えたら、「それは何故ですか。」と聞かれた。谷渡さんが真剣な顔をしているので正確に答えなければないないと思い、少し時間を掛けて考えて、「私が商店街で買い物できる時間は夕方しかありません。買い物をしたら荷物を持って混んだバスに乗らなければなりません。通勤では大きなエコバックを持ち歩いていないので生鮮食料品のレジ袋を下げてバスに乗るのは少し抵抗があります。」と思ったことを言った。谷渡さんは頷きながら松子の言葉を聞いていたが、鳴門係長に顔を向けて、「所詮地元の人しか利用できない商店街なのだよ。」と言った。「アーケード作って雨に濡れないからという理由で客のパイ拡大は期待できない。アーケードが出来たからといって押車さんが買い物をしてくれるのか。してくれないよ。」。鳴門係長は顎を手に乗せてうーんと考えていた。谷渡さんは「参考になりました。ありがとうございました。」と言って松子に笑顔を向けた。谷渡さんが笑った顔を始めて見た。
 終業時間になったので、立ち上がって深山係長と茶臼課長に会釈したタイミングで鳴門係長から「松子ちゃんちょっといいかな。」と声を掛けられた。深山係長が何か言おうとしたので、松子は「大丈夫です。」と深山係長に言って渉外課のところに行った。鳴門係長は「遅くにごめんね。」と言って、空いている隣の椅子を勧めてくれた。「さっきの話の続きなのだけどね、レジ袋がね、今の白いペラペラしたやつじゃなくて何かしっかりしたものに変われば商店街で買い物するの。」と聞いてきた。松子はどうなのだろうと色々なパターンを考えて、「レジ袋が変わったから買い物するのかと聞かれたら、それは違いますとしか言えないのですけど、何か買わなきゃいけないという時に、例えば猫舌デパートが用意してくれるようなしっかりとしたレジバックに入れてくれるということが分かっていたら安心して買い物してバスに乗れると思います。」と答えた。鳴門係長は、「なるほどね、なるほど。」と言って、実は、と色々な話を松子にしてくれた。立鼎支店長と吉原会長の間で仏の座商店街の再生について話し合いがもたれたこと、鳴門係長が三所信用金庫の担当となったこと、商店街連合会との話し合いで分かったことは商店街で具体的なアイデアを持っていなかったこと、鳴門係長の紹介で谷渡さんが商店街再生コンサルタントとして参加したこと、三所信用金庫としては再生案が融資に繋がるようなものに出来ればと考えていること、谷渡さんは商店街の負担ありきではない浮揚策を模索していることなどを話してくれた。鳴門係長は、谷渡には「信用金庫が主導して成果を出すという意味を考えてやってくれよとは言ってあるのだけどね。」と笑った。松子にとって、鳴門係長が仕事の意味や背景を説明してくれるのはありがたかったのだけど、松子への問いかけや説明をしながら鳴門係長は自分の頭の中を整理しているだろうなと感じていた。詳しいことは分からないけど、松子がやっているミスなくやる窓口業務とは違って試行錯誤しながらも一から事業を生み出す仕事もあるのだと感心していた。係長はクールだなと思った。でも、谷渡さんが松子に言った、参考になりましたという言葉は、私の発言に向かって本気で言ってくれたのだよなと松子をなんとなく嬉しくさせてくれた。
 バス停から仏の座支店まで松子は毎日徒歩で往復していたのだが、よく考えると仏の座商店街の万光寺方面に行ったことがなかった。子供の時に親に連れられて万光寺に行ったことがあるので、その時に歩いているはずだが記憶にはなかった。鳴門係長と谷渡さんの言葉に刺激を受けた影響もあるが、日頃何も考えずに歩いていた商店街で何かすごいことが起きようとしているのだと考えるとちょっと探検気分で歩いて見たくなった。仏の座支店は商店街のちょうど中ほどにあるので、一番奥の万光寺の石段まで行ってUターンして商店街の入り口まで戻るといつもの3倍の道のりかと思うと少し躊躇したが、日常とは違う方向に踏み出しただけですごく新鮮な気分だった。バス停側はスーパーや食品の小売店、雑貨店が並んでその間に携帯ショップがあるような普通の商店街であったが、万光寺側に進んでいくと、製麺所や窯の直売店、民芸品ギャラリーもあり、製造業の店も多くあった。昔からあるような食堂やお土産屋さん、そして旅館の看板を掲げているところも通り沿いに並んでいたが、多くは既に営業していない様子が見て取れた。家屋のないスペースも万光寺に近づくにつれて目立つようになり、多くは駐車場になっていたが駐車している車は少なかった。商店街の突き当りには万光寺に上る参道の石段があったが、松子はUターンして来た道を戻った。松子も仏の座商店街がもともとは万光寺の門前町として発展したのだということは小学校のわがまち学習で習ったが、そういえば鳴門係長の話には万光寺の名前が出てこなかったなと不思議に思った。支店の前まで引き返して、やれやれと毎日の帰宅コースを辿り始めるとなんとなく背後に人の視線を感じるような違和感があった。誰かが同じ距離でぴったりと松子の後ろに付いて歩いているようだった。松子が歩調をゆるめると後ろの人も歩みが遅くなった。なんだか気味が悪いなと店を除く振りをして左目の端でその人物を捉えたら断定はできないが、どうも谷渡さんのような気がした。刑事ドラマではないけれど現場百回でアイデアを出しているらしく、谷渡さんは時々商店街を歩いているのを見かけることもあったので相変わらず熱心な人なのだと感心した。会議室のこともあったので、ひょっとしたら押車さんと後ろから声が掛かるのかと少し期待していたら、商店街の出口まで後ろを付いてきて、松子が道路を渡ってバス停から見たら何処かに消えていた。確かに谷渡さんだったよなと思ったら、先ほどの好意的な印象は消え、商店街を往復したことも意味のないことに思えてきてなんとなく腹立たしかった。なんなのあの人、気持ち悪いと松子の谷渡さんへの評価も下げてしまった。
 その日から数度谷渡さんを入れた渉外課の話し合いや、商店街の主だった人たちが入った会議が開かれたが、そのうち谷渡さんは支店に来なくなった。どうしたのかと思っていたらトモ子さんが別ルートから話を仕入れて来た。トモ子さんは、「商店街の入り口横に商店街に買い物に来たお客様専用の駐車場を作るらしいが、土地買収も含め必要な費用は三所信用金庫からの商店街連合会への融資らしいよ。」と教えてくれた。鳴門係長や谷渡さんがやっていた仕事だと思ったが、トモ子さんが何処から聞いたのか不思議だった。松子の「ハア。」という反応が物足りなかったのか、トモ子さんは「本当だって、この話は飛田さんから聞いたのだから。」と付け加えた。飛田さんって誰だっけと聞いたことがあるようなないような名前にとまどっていたら、「松子ちゃんが入る前にいた人、鳴門さんの奥さん。」と教えてくれた。あぁ、そうだ、私が入る前に支店に居た人だと理解したが、鳴門係長の奥さんだとは知らなかった。「鳴門さんと結婚したの。」と聞いたら、「そうだよ、姉さん女房、セクシー系、ボンボン。」とトモ子さんは胸の前で輪を書いた。「この前久し振りに飛田さんに誘われてお茶したら、最近旦那がまいっているって、職場でどうなのって聞かれちゃった。私に聞かれてもね。鳴門さん支店長から商店街再生の成果厳しく求められているらしくかなり愚痴っているみたいだよ。鳴門さんの最終ゴールはアーケードみたいなのだけど、これまでにないデザインのもの造ってそれ自体を売りにしてお客さん呼びたいらしい。そのためのマーケッティングだとかシミュレーション作りで、あの良く来ているなんとかさん。」。「谷渡さん。」。「そう、その谷渡さんに頼んだのだって。」。そうだったのだとあの日の話に合点がいった。でも、アーケードがなんで駐車場に変わったのだろうとトモ子さんに聞いたら、「谷渡さんが反対するものだから、商店街の人たちもなかなか踏ん切りがつかなかったらしいよ。それで駐車場に変わったらしい。」。トモ子さんの話は要領を得なかったが、谷渡さんの仕事はそれで終わったのだろうな。あんなに熱心にやっていたのに仕事って難しいのだなと思った。
 この時の経緯は、松子が谷渡亀次郎と結婚してから詳しく聞いている。亀次郎にとっては仏の座商店街のコンサルタントの仕事は独立してから最初の仕事であり、高校の同期であった鳴門係長が立鼎支店長や商店街連合会吉原会長に亀次郎を紹介して売り込んでくれたらしい。亀次郎が勤務していたアジア総合研究所は国内のコンサルタント会社では有数の大手であり、事業規模の大きいものしか相手にしない。そこで仕事をしていた亀次郎が商店街連合会の提示した予算で、やりますよということだったのですんなり決まったらしい。亀次郎が最初にやったことは基本的な数値を抑えていくことで、商店街連合会の吉原会長に頼んで、商店街連合会加入商店リストから商店主の年齢、売り場面積等で階層分けを行い、階層別にいくつかの商店をサンプルとして、その商店主の了解のもと契約している税理士から数年分の収支報告書をチェックさせてもらった。また、平日、土日別の時間別の商店街の人出数平均を割り出していった。また、鳴門係長からは、アーケード設置のために想定される経費や商店街の返済計画等も詳細に検討させてもらった。「その結論として。」と亀次郎が言った。「僕はアーケードの設置に反対したのだよ。アーケードを造って、まぁ、それだけじゃなんなのでプラス色々とやって、お客さんの数を現在の3割増しにすることは可能かもしれない。でも、何人に対しての3割かということが重要でね、例えば三所イロヨンモールの集客が1日1万人だとすると、3割増しでプラス3千人の財布から出ていく金額を考えて投資が何年で回収できるのかが決まってくる。仏の座商店街の人出が1日5百人、3割増えたとして150人の増加。その収益を商店街の各店で分配して、各商店のアーケード設置の負担金を回収するのに何年掛かるのか。20年掛かるとして、その20年という期間経営できるのか。そこには今の経営者の年齢や跡継ぎの問題も関わってくる。アーケード設置の資金は三所信用金庫が貸すので問題ありませんよというのはあまりに短絡過ぎる。だからアーケードには反対した。でも、僕を紹介してくれた鳴門君の立場もある。デザインアーケードの発想自体は悪くないと思う。近い将来アーケード設置を実現するために、基礎数値となる集客数を上げる切掛けとなるもの。商店街として少ない投資で、少なくとも継続してお客さんを呼べるもの。そして、鳴門君が金庫からの融資の実績として残せるものとして商店街入り口のお客様専用駐車場を提案した。この提案は契約外のことなのだけどね。」。亀次郎は松子のお尻を触りながら説明してくれた。

 三所信用金庫仏の座の立鼎支店長は究極のイエスマンと言われながらも、手堅い仕事で一歩一歩ポストを上げて行き、高校卒業入行組としては最高ポストの支店長ポストを得た叩き上げであった。支店長を大過なく務めると三所グループと言われる傘下地場企業の社長若しくは副社長ポストが用意されるはずであり、もっともトモ子さんの情報なので支店長の心の内までは斟酌できないが、立鼎支店長も最低でも支店規模に見合った融資成果を本店に示す必要があった。立鼎支店長を一言で表すと謹直であり、冗談の通じない人であった。松子は支店長の笑った顔も怒った顔も見たことはない。松子に話す時も静かな声で敬語を使うので、恐縮する分かえって松子は疲れてしまう。支店長に限らず副支店長そして課長達は松子達テラーには皆優しかったが、信用金庫という組織の中ではポスト序列は絶対らしく、支店長の言葉に異議を申し立てる男子行員は誰もいなかった。
 その日、勘定確認作業が終わって総務関係の業務指示を受けるために松葉副支店長の机の前に行くと「松子ちゃん支店長が呼んでいるよ。」と副支店長から言われた。入行以来松子は支店長室にひとりで呼ばれたことなどない。松子がビックリして「茶臼課長か深山係長が一緒でのほうが宜しいでしょうか。」と聞くと、副支店長は「大丈夫だよ、何か用事があるだけだろう。」と事もなく言ったので、買い物か何か頼まれるのかなと思って、支店長室のドアをノックして赤い絨毯の敷いてある支店長室に「失礼します。」と声を掛けて入った。何かの資料を読んでいた立鼎支店長は顔を上げて、「あぁ、押車さんお呼び立てして申し訳ありません。」といって、「どうぞ。」とソファに座るよう手で指示した。どうも買い物を頼まれるわけではないらしい。絶対に不味いことになりそうだ。大人なのだから何を言われても泣いちゃいけないと短時間で覚悟を決め、支店長が前のソファに腰を下ろすのを待って、松子も前のソファにお尻を斜め向きに半分乗せた。
 立鼎支店長はソファに座った松子に「谷渡さんはご存じですか。」と唐突に聞いた。何の話?と思いつつ、「渉外課の鳴門係長の所に良くいらしていた方ですか。」と松子が言うと、支店長は「うん、うん。」と頷いて、「彼には仏の座商店街連合会のコンサルタントとしてお世話になっています。」と進行形で話したので、谷渡さんの仕事はまだ終わっていなかったのだと思った。でも、何故支店長が谷渡さんのことを私に聞くのだろうと不思議に思っていると、支店長は「谷渡さんのことをどう思っていますか。」とそれこそ思ってもみなかったことを聞いてきた。松子は、「えっ。」と意味が分からず、「鳴門係長のお知り合いだと伺っています。」と答えると、「谷渡さんとお話をしたことがありますか。」と聞くので、「えーと、一度立ち話をしました。」と正直に言うと、支店長は「そうですか一度だけですか。」と意外そうな顔した。「実は先日商店街連合会の定期会合と懇親会があったので私もメンバーの一人として出席させていただきました。その時に谷渡さんと個人的にお話をする機会がありました。東京にある有名なシンクタンクをお辞めになって、その経験を三所市の発展のために活かしたいというなかなか熱心な青年です。」。松子も知っている話なので、知っていますという意味で頷くと、支店長切り出すきっかけをつかんだとばかりに、「実は、谷渡さんから押車さんとお付き合いさせてください。」と頼まれましてと驚くべきことを言ってから、「ただ、もうお二人はそれなりに仲良くなさっているのかと私も少し勘違いしていたようです。」と付け加えた。仲良くも何も他人ですと言いたかったが、言葉を飲み込んだ。お付き合いしたいのなら私に直接言うべきであって、最低でも支店長ではなくて私の両親に言うべき言葉だろうと不快だった。「あのう、私本当に谷渡さんのこと存じ上げないので良いとも悪いとも言えません。」と最大限の譲歩の言葉で不快感を隠して言うと、支店長は少し脈ありとでも勘違いしたのか、「えぇ、そうでしょうとも、是非谷渡さんに話をする機会を作ってやっていただけませんか。谷渡さん押車さんのことが忘れられないそうです。」。忘れられないって何をと松子が不思議そうに首を傾げたら、立鼎支店長がニコリともせずに、「お尻が忘れられないそうです。」と言った。
 支店長室から出て来た時、多分松子は屈辱で顔が真っ赤になっていたのだろう。松葉副支店長が驚いた顔をして松子を見たようだが、声は掛けられなかったので松子はスタスタと歩いて給湯室に行って、置いてあったお茶碗を洗って棚に仕舞い、シンクにクレンザーを垂らして金たわしでゴシゴシ磨いた。しばらく磨いていたらだんだんと冷静になってきて、顔の火照りも引いたようなので水を流したらシンクがピカピカになっていた。「落ち着いて、落ち着いて。」と口に出して言ってから、深呼吸して机に戻った。何事もなかったようにデスクワークをして、終業時間になったら、課長と係長に挨拶をして帰路についた。時間中、周りの行員達とも普通に接して、上手く感情を顔に出さずに振舞えたなと自分を褒めた。家に戻ってから、再び怒りが込み上げて来て母につっけんどんな態度になってしまったが、こういう時の家族なので我慢してもらおうと思った。夕食を終え自室に戻ってから、冷静に考えてみた。気に入らないこと。谷渡さんが松子に直接言わず、よりによって支店長経由で伝えられたこと。松子が好きというよりも、どうも松子のお尻が好きらしいこと。怒りの気持ちの80%。嬉しい事。何はともあれ、ひとりの男性に松子が好かれているみたいだこと。でも、本心かどうか分からないので、嬉しさ10%。不安なこと。谷渡さんはつかみどころがないというか、いまひとつ良く分からない人なので、不安が10%。こんなところかなと考えると、極端に救いようのない事態でもないのかなと思えてきた。後、谷渡さんが結構背が高くて、ルックスもまあまあかなと松子が思っていたことは考慮に入れないことにした。気に入らないことを谷渡さんがちゃんと解決してくれたら、私としても再考の余地ありかな。いずれにしても相手次第だと考えると気も楽になって、ゆっくりとお風呂に入れた。衝撃的な一日であった割には寝つきも良く。翌朝の目覚めもすっきりしていた。
 その日以降、特に何もなく、松子にとっては物足りなくも平穏な日が続いた。その場でお断りはしたのだが、「そうですか。」と言って、支店長は特に無理押しすることもなかった。私は押車さんに伝えましたから感が半端なく出ていた。それでも数日はまた何か言われるのではないかと怖さ半分、期待半分の気持ちがあったが、支店長の話はあれで終わりのようだった。分からなかったのは、何故支店長が谷渡さんのメッセンジャーみたいなことをやったのかということで、ひょっとして谷渡さんは支店長を簡単に動かす大物かもと考えたが、頼りなさそうな外見からするとそれはなさそうだった。次の接触は、またもや谷渡本人ではなく鳴門係長からであった。「松子ちゃん、家内がね、松子ちゃんを自宅に招待して手料理を振舞いたいと言っているのだけど。」。「えっ。奥様がですか。」。「ほら、家内は松子ちゃんの前に勤めていたわけだから。」と言ってから、鳴門係長は少し考えて、「まぁ、こういうことは正直に言うか。」と呟いて、「この前、支店長に呼ばれたでしょう。」と言った。「はい。」と答えると。「実は、商店街連合会の懇親会には僕も出ていてね、支店長と谷渡の話を横で聞いていた。もっとも噛み合わない話で、禅問答のような感じだったのだけど、浮世離れした二人の話がそのまま松子ちゃんに伝わるととんでもないことになるなと心配していた。そうしたら止めとけば良いのに支店長が松子ちゃん呼んだだろう。松子ちゃんが激怒して出て来てやっちまったかと。その後、松子ちゃんピリピリモードが続いて、周りも気を使って近づかずという感じでしょう。」。えっ、完璧に普通に振舞っていると思っていたのに、態度に出てしまっていたのかとショックだった。アツ子さんのように大人の女にはなるのは難しそうだ。「それで、こういうことは誤解のないように本人の口からちゃんと言わせた方が良いと思ってね。もっとも、家内が松子ちゃんに会いたいといっていたのは本当の話で、どうなるにしろ、谷渡と松子ちゃんを一度ちゃんと合わせた方が良いというのは家内の意見でもあるんだ。どうだろう今週の土曜、狭いところだけど我が家で食事でもしながら。」と言った。正直松子にとっては気の重い話であり、谷渡さんどうこうというよりは人様を介した話はもうお断りしたかったが、鳴門係長の好意、特に奥様の好意を無視してまで嫌悪するべきかどうか考えて、笑顔を添えて松子なりの返事をした。「はい、ありがとうございます。ご迷惑でしょうがお伺いさせていただきます。宜しければ奥様のお手伝いも兼ねて少し前からお邪魔してよろしいでしょうか。」。鳴門係長にとってはちょっと意外な返事だったらしく、「えっ。」と戸惑ったが、「松子ちゃんは料理も上手なのだね、家内も喜ぶと思うよ、じゃあ16時ぐらいで良いかな。」とホッとした顔で言った。松子のこの瞬時の判断は正しかった。
 土曜日、鳴門係長のマンションを時間に訪ねると、奥様のミツ子さんが満面の笑顔で出迎えてくれた。お土産の赤ワインを渡すと、「ワインは好きなの。」と喜んでくれた。初めましてと挨拶をすると、「私は松子ちゃんの事知っているよ。」と言われた。「職場訪問で来たときにとっても可愛い子だなと思っていたよ。」と言われて照れてしまった。「でも、綺麗になったね、痩せてびっくりしたよ。」と言われて益々照れてしまった。鳴門係長が居ないので聞いたら「邪魔だから外に追い出している。」と明るく笑った。「今日はお呼びだてしてごめんなさいね、早速お手伝いしてもらおうかな。」と言われたので、洗面所をお借りして手を洗い持参のエプロンをしてリビングと対面式のキッチンに入った。お品書きのメモが書いてあり白身魚の香草焼きとスペアリィブがメインで後サイドメニューが何品か書いてあり、これはちょっと太刀打ちできないレベルだなと思っていたら、「何かチャレンジしてみる。」と聞かれたので、「とんでもない。」と言って「今日はあくまでもお手伝いです。」と言ったらミツ子さんは楽しそうに笑った。トモ子さんから聞いていたので、ミツ子さんのバストはすごいのだろうなと思っていたが、想像より凄かった。一体何カップという感じで、エプロンはウエスト閉めるからバストが余計目立っていた。実際にキッチンでミツ子さんの横に立つと、バストの存在感が全然違うと思い知らされた。ミツ子さんがフレンドリーなのでここは後学のために聞かなきゃと思いカップを聞いてみたら、あっさりと「Hかな。」と答えてくれた。「このサイズまではメーカー品で買えるけど品揃えはないし、自然と買える服も限られるからそれはそれで大変だよ。」と明るく言われた。「でもね、亭主を筆頭にでかいのが良いと言ってくれるニーズもあるし、まぁ、人生トータルで考えたらプラスということにしている。肩は凝るけど結果オーライ。」。ミツ子さんは屈託がない。「松子ちゃんにはまずサラダを頼もうかな。野菜の選択は任せるから野菜室から適当に選んで。」。ミツ子さんは手を休めずに手際よく包丁を使いながら話をする。「鳴門係長とは仏の座支店でお知り合いになったのですか。」と聞いたら、「そうそう。」と言って、「酷いんだよ、結婚してからだけどね、私のどこが良かったのって聞いたら、おっぱい。即答だよ。他にはって聞いたら考え込んでいるの。失礼な話だよ。最初のデートは三所観光ホテルのプール。すけべ心見え見えで笑っちゃったよ。水着売り場にも付いてくるんだもん。男って馬鹿だねよねぇ。でもね、まぁ、考えてみたら、女だって男がイケメンかとか収入がとか表面的なところがきっかけでその気になって、お付き合いしながら中身を知っていくのだから似たようなものだね。」と言って、「ちょっと後ろ向いて。」と松子を後ろから観察して、「なるほどね、これが噂のお尻ね、夢中になるのが分かるような気がする。」と言った。松子が怪訝な顔をすると、「ウチのから聞いたのだけど、支店長から言われたのでしょう、お尻が忘れられないって。」。「それって、支店長を経由しただけで別に支店長の言葉ではないです。」と慌てて否定すると、「そりゃそうだ。」とミツ子さんは笑った。「支店長はね、仲人がやりたいだけなのよ。支店長というよりも奥様が、だね。うちの時も問答無用でそうだったしね。断れないし迷惑な話だよ。支店長の奥さんたちの間で数の競争があるみたいだよ。その競争に何の意味があるのかは分からない。でね、奥様からせっつかれたのかどうか知らないけど、商店街の懇親会の時に支店長が谷渡くんに聞いたらしいの、近々結婚の予定はないのですかって、そうしたら谷渡くん、気になる人はいるのですがって松子ちゃんの名前を出したらしいの。」。「あのう、私、谷渡さんとはほとんど話したこともないのですけど。」と松子が言うと、ミツ子さんは知っているという感じで「ウンウン。」と頷いて、「支店長もね、意外な名前を聞いたという感じで、押車さん、支店の押車さんですかと確認して、何か特別なことでもあったのですかって、これはもう仲人の新郎新婦紹介のエピソード話仕入れぐらいの気分で谷渡くんに聞いたら、谷渡くんが松子ちゃんのお尻が忘れられないって言っちゃったという話。ウチのは隣でビール吹いていたらしいけどね。支店長そのまま松子ちゃんに言ったらしいよとウチのやつから聞いてね、まぁ、なんというかさすがの立鼎支店長という話。」。松子はミツ子さんの話を聞きながら、思わずニヤリとしたが、思ったことは自分のことではなく、アツ子さんと石清水さんのこと支店長に話したら放っておかないだろうなという不遜な考えからであった。ミツ子さんは松子のニヤリを勘違いして「笑っちゃうでしょう。」と上手く会話を繋げられて満足そうであった。
 ミツ子さんは口も止めないけど手も止めずにコンロ2つとレンジを使いながら次々と料理を形としていく。松子がグリーンサラダを大皿に盛ったら、「ラップして冷蔵庫に入れておいて、センスいいじゃない。」と世辞を言い、「じゃあスペアリブの漬け込み汁作ってみる。」と玉ねぎを出した。「やったことないです。」と言ったら、「適当、適当。」と言って、「玉ねぎとショウガおろして、後は醤油とオイスターと酒と砂糖で味整えるだけ、やってごらん、味は見てあげるから。たまねぎは四分の一おろして、残りはオーブンで肉と一緒に焼いちゃおうか。」。アンニュイなアツ子さんに憧れるけど主婦のミツ子さんも格好良い。
「立鼎支店長の話は横に置いておいて。」と卵の入ったボウルを横に移動させながら、「谷渡くんは何度か家に来たこともあって、ウチのとお酒飲みながら議論しているのを私も聞いているけど、誠実な男だよ。ウチのから商店街のアーケードの話聞いたでしょう。支店の融資ありきだから商店街にはバラ色の話しするけど、谷渡くんはデメリット評価を絶対に譲らないものね。今の仏の座の商店全て入れ替えて良いのならアーケードも賛成するけど、今の商店を存続させるという基本線を崩すような事業融資はあり得ないと譲らなかったからね。後、良い大学出ているし、収入はどうか知らないけど信用金庫よりはよっぽど良いでしょうよ。」と少し羨ましそうにミツ子さんは言った。「それでね、ウチらのおっぱいが取り持つ縁じゃないけど、お互い知らない同士が知り合うキッカケは何でも良いと思うのよ。松子ちゃんの話が、松子ちゃんの知らないところで勝手に出されて、それで松子ちゃんが不快な気持ちになるのは当然だし、そのことについては、松子ちゃんからキッチリ言ってもらって、言い辛かったら私から言うし、そして谷渡くんからちゃんと謝罪してもらう必要がある。その上で、谷渡くんの話も聞いてみたらどうだろう。常識のない男だけど、悪い奴じゃないことはハッキリしているしね。それでごめんなさいなら、ごめんなさいって言ってもらえれば、ウチらが一緒に居るのだから、谷渡くんに変なことは絶対に言わせないし、松子ちゃんに迷惑が掛かるようなことには絶対させないから。」とミツ子さんは包丁を空中に刺しながら話をした。松子は、確かに男の人と知り合いになるキッカケって結構そんなものかもしれないと思えた。何はともあれ私は鳴門ご夫妻の前で谷渡さんの話を聞くだけで良いのだと思うと気が楽になり、素直に「はい、そうします。」と料理酒を計量スプーンに移しながら答えた。ミツ子さんは、「そうそう、松子ちゃんにはこの先似たような話が腐る程出てくるよ。」と言ってから「このお尻だもの。」と持っていた包丁を松子のお尻に向けた。ミツ子さんには逆らわないほうが良さそうだった。
 外で待ち合わせしたのか鳴門係長の帰宅と一緒に谷渡さんはやってきて、何を鳴門係長から吹き込まれていたのか知らないが、松子の顔を確認して安堵した顔をしてミツ子さんに「今日はお招きいただきありがとうございます。」と頭を下げたが、ミツ子さんから「何言っているの、昨夜も来たでしょう。」と言われると、「あっ、あっ、いや、そうでした、すいませんでした。」としどろもどろになっていた。松子が鳴門係長と谷渡さんに挨拶をした後、「お二人は仲が良いのですね。」と言うと、「谷渡くんは、押車さん本当に来てくれるのでしょうかと昨日の夜からうるさかった。」とミツ子さんがからかった。谷渡さんは赤くなって、「いや、決してそんなことは、そこまでひどくなかったと思うのですが、確かにそうかも知れません。」と言ってから、松子に「今日は折角のお休みのところ申し訳ありません。」と向き直った。鳴門係長が、「俺が招待したのだからそれは俺が言うべき言葉じゃないのか。」と皆を笑わせて松子をリラックスさせてくれた。ミツ子さんが食事の用意が出来ているからとリビングにセットされたテーブルを勧め、松子は谷渡さんと向かい合って着席した。鳴門係長と谷渡さんはビールで、ミツ子さんと松子は松子のお土産のワインで乾杯した後、ミツ子さんが「サラダは松子ちゃんの手作りだから。」と言うと、「押車さんは料理もお上手なのですね。」と谷渡さんが真面目な顔で言うので、それが松子のツボに入って笑いが止まらなくなった。ミツ子さんが「サラダを褒められてもねぇ。」と松子の笑いの意味を伝えても、谷渡さんは、「でも美味しいです。」と真顔だった。
 食事をしながら、鳴門係長が高校生の時の話を色々としてくれたけど、谷渡さんを褒めるというよりは冴えない奴だったという話で、存在感が薄く学校を休んでも欠席と認めてもらえなかった。クラスの女子から知らない人と言われた。同窓会の案内を貰ったことがない等々散々からかわれていた。その最中にミツ子さんは上手く谷渡さんの個人情報を聞き出してくれて、今年30歳になること、東京の有名私大を卒業していること。入った大手コンサルタント会社の利益率が高すぎる点疑義を出したら戦力外通告を受けたこと。ご両親は隣県にいらっしゃること。お兄様とお姉様がいてすでに結婚なさっていること。身長が180センチメートルに少し足らず靴のサイズは25.5だとキツイけど26だとちょっと大きいかなと感じることなど知ることができた。鳴門夫妻も知らなかった情報として、谷渡さんは大学生の時一年休学して東南アジア、南アジア、中央アジアをバックパッカーとしてウロウロしたのですよと教えてくれた。三人で「へぇー。」と言って、鳴門夫妻が「知らなかった。」と声を揃えた。鳴門係長が「何のためにそんなことをやったのか。」と訊ねたら、谷渡さんは「何でだろうね。」としばらく考えていたが、「人と話したかったのかな。」と言った。「別に日本でも人とは話せるでしょう。」とミツ子さんがワインを注ぎながら聞くと、谷渡さんは、頭を下げて更に考え込んで、「その時はそうは考えられなかったのかな。」と言った。「その時は僕を含めて日本人の価値観は似たり寄ったりだと感じていて、例えば政治体制とか国力とか宗教が違えば、特に宗教ですね、そうしたバックボーンが異なる人たちと話をしてみたかったのです。」と言った。「話をして何か分かったのかい。」と鳴門係長が聞くと、その時始めて谷渡さんは笑顔になって、「別に何かを分かろうと思って行ったわけではないし、僕みたいな凡人は感じることも限定的だったな。あえて言うなら人の多様性を認めようとする心構えかな。」と言った。ミツ子さんが「そんな国は危なくないの。」と聞いたら、「危なくはないですよ。2回ぐらいは死にかけましたけど。」とデング熱に罹って汚いベットで一週間生死をさまよったことと乗っていたトラックが横転して潰れた車のスペースに上手くはまって生き延びた話をした。「そんなところに松子ちゃん行けないよね。」とミツ子さんが話を振ってくるので、「ちょっと行ってみたいけど虫が多いところは遠慮したいです。」と答えたら、谷渡さんは慌てて「何処の国も首都の衛生環境は日本と変わりません。」と言って、「虫がいるところには間違ってもお連れしませんから。」と勢い込んで話すので、鳴門係長から「話が早すぎる。」と突っ込まれていた。松子もミツ子さんから生い立ちも含め色々聞かれたが、松子は平凡な家庭で生まれ、三所市から出ることもなく平凡に過ごして来ただけで特にお伝えすることなど何もなく恥ずかしかった。鳴門係長が「松子ちゃんどんどん綺麗になっていくのでビックリだよねぇ。」と言うので、「入った時そんなに酷かったですか。」と心配になって聞いたら、谷渡さんが代わりに何度も首を横に振ってくれた。
 後片づけをお手伝いして、鳴門ご夫妻にお礼を言って帰ろうとすると、谷渡さんも「じゃあ僕もこれでおいとまします。」と言って、「押車さん途中までご一緒して良いですか。」と聞いた。食事の最中の谷渡さんが醸し出す気持ちと言葉は松子にちゃんと向いてくれていたし、松子も心地よかったので素直に「ハイ。」と答えて二人で鳴門夫妻に謝意を述べマンションを後にした。ミツ子さんは笑って「また来てね。」と言ってくださったけど、核心の話はあまり進展しなかったせいか少し心配そうな顔をしていた。マンションのエントランスを出たところで、谷渡さんは、「今日はお会いできてうれしかったです。」と言ってから、「もし良かったらまた会っていただけますか。」と聞いてきた。松子の答えは決まっていたが、もう少し具体的に言って欲しいなと思って、「それはどういう意味でしょうか。」とできるだけ無邪気に訊ねてみた。谷渡さんはちょっと顔を赤らめて、「できればお付き合いさせていただければ嬉しいのですが。」と言ってくれた。松子が少し考える振りをしてから、「ハイ。お願いします。」と答えると、谷渡さんは「ホントですか、ホントですか。」と繰り返して、「良かった、良かった、ありがとうございます。」と喜んでくれた。「僕、初めて押車さんを見た時になんて可愛らしい人だと思ったのですよ。」と急に饒舌になったようだった。松子も嬉しかったが、釘は刺しておこうと思って、「そう思っていただけたのはお尻のおかげですか。」と聞いてみた。谷渡さんは、「あっ、あっ。」と言葉に詰まった後、「いぇ、それは、本心ではなく、あの時に、いや、本当に失礼なことを言ってしまいました。」と土下座しそうな勢いで謝るので、松子は「気に入っていただけるところがひとつでもあって良かったです。」と谷渡に優しい笑顔を向けた。谷渡の安堵した蕩ける笑顔を見て、谷渡さんって結構ちょろいかもと少し悪女になった気分だった。
 この日から、結婚までのプロセスはごく普通のカップルが通る道筋を辿って行ったと松子は思う。谷渡さんと会うたびに徐々にではあるが、松子も谷渡さんをパートナーとして意識するようになった。良い人であり、知識も豊富なのにどうも社会適応能力が欠ける危なっかしい谷渡さんがなんだか可愛らしく思えたり、しっかり支えてあげなければならないと思うと、谷渡さんの性格を端的に表す、煮え切らない態度も徐々に好ましく思えて来た。もっとも、松子自身も臆病な性質なので、何かにつけて止まって考えて静かに悩む谷渡さんのペースが安心できた。時間は掛かるが悩んだ末に出す谷渡さんの結論は、全てにおいてそれなりの理由に基づくものであり松子が尋ねると優しく自分がその考えに至った理由を教えてくれた。その全てを理解できないまでも、谷渡さんは松子をパートナーとして対等に扱ってくれているのだと思えて嬉しかった。デートはきっちり週に一回土曜日の午後で、お茶をしつつ一週間のお互いの報告をしてから、それからの数時間をどう過ごすか二人で決めて、映画やショッピングや三所遊園地などごくごく普通のカップルが行くところに行き、夕食を食べてお別れするという決まったパターンを繰り返した。松子には男性とお付き合いするということは、いきなりは困るけども、それなりのプロセスを踏みつつ徐々に親密度愛を深めていくものだろうとの覚悟と期待はあったが、谷渡さんは食事が終わると松子を送りがてら、どこでキスをしようかと場所探しにキョロキョロするばかりでそれ以上の進展がない。谷渡さんとのキスにも慣れて、最初の感動も薄れてきた頃に、松子も少し不安になって「あのー、この先はどうなるのでしょうか。」と谷渡さんに思い切って聞いてみた。つまり、その日は、松子はアツ子さん仕込みの下着の選択もムダ毛の処理も完ぺきな状態であり、いきなりの覚悟は流石にないものの、向き合うだけの体調面も万全であった。果たして谷渡さんは、「そうですよね。そうですよね。」と少し考えてから、「来週、松子さんのお宅に伺わせてください。」と言った。そうきたかと松子は内心複雑な思いであったが、谷渡さんならそういう返しになるかもという予想もなんとなくはしていた。松子は、それはそれで重要だなと思いつつ、何事も谷渡さんに任せておけば良いのだと人生の岐路にある割にはのんびりと受け止めていた。
 次の土曜日、谷渡さんは水羊羹の詰め合わせの大きな箱を抱えて松子の家を訪問した。谷渡さんとお付き合いを始めてすぐに両親には谷渡さんがどういう人であるかは説明済でちょっと自慢げにお付き合い宣言をしたのであるが、両親ともへぇーという感じで反応は薄かった。が、実際に娘のお相手に会うとなると父はどことなく心配そうで、母はなんとなく楽しそうであった。松子は谷渡さんがお嬢さんをくださいとまでは言わないにしても、何かそれに類することを言ってくれるのではないかと慎まし気な態度で谷渡さんの隣に座って両親との会話を聞いていたが、谷渡さんは普通に自己紹介をし、父と普通に仕事の話をして、母と普通に三所市での生活の話をして、また普通に挨拶をして帰っていった。谷渡さんが帰ってから、父が「真面目そうな男だが松子はちょっと早いんじゃないのか。」と早くも男親の心情を披露する一方で、母は私の勘だがと前置きしたうえで、「今後、松子にあれ以上の男性は現われないのではないか。」と娘を過小評価し、「売り時、決め時に年齢は関係ない。出会った時が適齢期であり一度見送るとハードルが上がるだけでロクなことにならない。」と松子の意見も聞かずにさっさと娘を嫁がせる気満々であった。
 母親にせかされたせいでもないのだが、半年後に押車松子は無事に谷渡松子となった。
 谷渡さんとのお付き合いは縁結びをしてくれた鳴門ご夫妻には再びの食事会で報告をしていたが、アツ子さんを見習って仕事は仕事、プライベートはプライベートとしてきちんと切り分けてやっていこうと考えて、谷渡さんとのお付き合いを支店の皆さんには黙っていて欲しいと鳴門係長にお願いし、仲の良いトモ子さんにも秘密にしていた。だが結納の翌日に鳴門係長がもう解禁だと周りに伝えたらしく、松子と谷渡さんとの交際は立鼎支店長と松葉副支店長を除き既に仏の座支店の全員が知っていたという衝撃の事実が判明した。朝、深山係長から「押車さん婚約おめでとう。」と言われ、周りにいた職員達からも口々に「おめでとう、良かったね。」と言われてびっくりしてしまった。トモ子さんからは「知っているのを隠しておくのが大変だった。」と逆に言われてしまった。「区切りが付いたら深山係長始め皆さんに報告するつもりだったのですが、皆さん何故ご存じなのですか。」と松子が尋ねると、トモ子さんが、「そりゃ、松子ちゃんが毎日あんなに浮かれてスキップしていたら誰だって何かあったなと思うわよ。鳴門さんを問い詰めたらすぐにゲロしたわよ。」と言った。えっと思って鳴門係長を目で探したらすでに逃走した後だった。
 清掃の間夫さんは我がことのように喜んでくれて、最後には泣かれてしまったのには参った。「辛いことがあったらいつでも帰ってきて良いのよ。」と明日にでも松子を支店から送り出しそうな感じだった。間夫さんにしてみれば、私がきれいにしている私の支店だからとそんな感じになるのかもしれない。警備の廓さんはひたすら遅かったかと息子さんを紹介する時期を逸したことを嘆いていた。谷渡さんのことは覚えていたようで、「あいつはどうも最初から怪しいと思っていた。」と犯罪者扱いだった。「今からでも遅くないからあいつのことをきちんと調べた直した方が良い。後輩が興信所やっているから紹介する。」と息巻いていた。仏の座商店街の人々にも噂が徐々に広がったようで、松子が帰宅時に商店街を歩いていると商店の奥さんたちから「松子ちゃん結婚するんだってね。」と度々聞かれた。どこで間違われたのか「玉の輿だってねぇ。」と羨ましがられもしたが、否定したら谷渡さんに申し訳ないような気がして、「エヘヘ。」と笑って済ました。
 立鼎支店長ご夫妻の媒酌により、松子は谷渡さんと華燭の宴をあげた。隣県に住んでいる谷渡さんのご両親はご挨拶に伺った時から、「こんなに可愛らしいお嬢さんが亀次郎のお嫁さんになってくれるなんて。」と大喜びで、谷渡さんはご両親から、「松子ちゃんを泣かせるようなことがあれば家の敷居は跨がせない。」と意味もなく叱られていた。明るいご両親と優しそうなお義兄さんお義姉さんとは上手くやっていけそうだった。お義姉さんは「亀次郎は本当にマイペースな子で少し普通でないのでお嫁さんを貰えるなんて想像もしなかった。」と言っていたが、普通の人は、これからお付き合いしたい人に君のお尻が好きなのだとは言わないだろうから妙に納得するところがあった。式の朝、松子は両親に改めて挨拶をしたが、新居がスズシロタウンの賃貸マンションになったこともあり、訪問先がひとつ増えたぐらいの雰囲気でお互いに別れの感情には程遠く、いってらっしゃいという感じで明るく振舞ってくれた。それでも父は感慨深そうに、「あっという間だったなぁ。」と松子の顔を見て少し寂しそうだったが、母はなんとなくしてやったり感がでていて自分が結婚するような高揚感に浸っていた。そういえば、母は谷渡さんが結婚の申し込みをする前から年収や実家との関係について谷渡さんに露骨に聞いていたが、母は母なりに松子のためを思い谷渡さんを査定し、それなりの合格点をくれたのだろうと思う。立鼎支店長が縁結びをやったような仲人挨拶にミツ子さんが憤慨したり、深山係長が松子の入店以来の支店での奮闘ぶりを紹介して松子が涙したり、トモ子さんが余興で高砂を朗々と謡い驚かされたりと色々あった披露宴であったが、トモ子さん談によると、アツ子さんが石清水さんにエスコートされてシックなドレスで披露宴会場に現れたのには皆驚いたらしい。支店長夫人が早速アツ子さんに式の予定を聞いていたとトモ子さんは披露宴の途中にわざわざ雛壇に来て教えてくれた。アツ子さんは「松子ちゃん綺麗だよ。」と耳元で言ってくれた。和江ちゃん始め松子の友人も多く披露宴に出席してくれたが、皆アツ子さんのことを、「あの人誰?。女優さんみたい。」と花嫁姿の松子をさて置きアツ子さんの美しさに感嘆しきりだった。結婚後、松子は家庭に入って谷渡さんを支えたいという希望だったが、深山係長の勧めもありしばらく三所信用金庫仏の座支店での勤務を続けることとした。融資係の宝船さんは「松子ちゃんの朝の発声が引き続き聞ける。それも新妻バージョンとなればたまりませんな。」と喜んでいた。
 新婚旅行は松子が人生設計で思い描いたハワイではなかったが、谷渡さんが松子のために用意したタイの離島で美しいビーチと海を見ながらゆったりと過ごすものであり、虫を絶対に部屋に侵入させないで欲しいという谷渡の要望から最上階のスィートルームが用意されていた。松子にとっては初の海外旅行かつ美味しいタイ料理とワインでおなか一杯ということもあり、緊張と疲れと満腹感とほろ酔いプラス二時間遅れの時差で初日のホテルでベッドに入ってシャワー中の谷渡さんを待っているうちに不覚にも寝てしまっていた。起きたらもう外が明るくなっており、いけないと思ってうつ伏せの体を起こそうとしたらお尻が重い。なんだろうと思って体を捻ったら、谷渡さんが松子のティバックのお尻を枕にして寝ていた。松子がどうしようかと思ってもぞもぞしていたら、谷渡さんも目が覚めたようで、「あっ。」と言って、慌てて頭を上げて「すいません。」と謝られてしまった。松子も「すいません、知らない間に寝てしまって。」と言ってから、谷渡さんが謝ったのは松子のお尻を枕にしていたことかと気が付いて、「あのー、よかったらもう少し寝ていらっしゃっても良いですよ。」と言って、「お尻の上で。」と小さい声で付け加えた。谷渡さんは、「ホントですか。」と満面の笑みになって、早速松子のお尻に顔を埋めて、「こんなに早く夢が叶うとは思いませんでした。」と幸せそうだった。松子はこの人はやっぱりお尻だけが目的で結婚したのかしらとちょっと複雑だったが、こんなに容易く旦那さんの夢をかなえてあげられる奥さんもそうそう居ないのではないかと、早くも良い奥さんになった気分であった。こういうのを尻に弾くと言うのかしらと思ったが、今の状態は乗せているのだなと思ったら恥ずかしくなってお尻をプリンと振ったら、谷渡さんの嬉しそうな顔が松子のお尻の上でバウンドしていた。その後、谷渡さんと松子は無事儀式を済ませて、松子は谷渡さんのことを亀次郎さんと呼び、谷渡さんは松子のことをマーちゃんと呼ぶようになった。なお、松子が着るかどうか迷った人生初のティバック水着は人の少ないホテルのプライベートビーチということもあり亀次郎のたっての要望に応えるべく披露したところ、亀次郎は写真と動画に収めまくって泳ぐどころではなかった。他の女性たちももう水着とは呼べないようなセクシーな水着を披露していることもあり、多くの外人さんから賞賛の言葉と無遠慮な熱い視線を向けられて松子は悪い気もせず、開放的な雰囲気に馴染むと丸出しのお尻をプリン、プリンと振りながらビーチを歩いて男たちの目を喜ばせた。


 Ⅳ

 スズシロタウンはバブルの最中に開発された新興住宅地であるが、建設した時期及び開発した企業が複雑に入り組んでおり、高度成長期に開発されたニュータウンとは異なり大邸宅もあれば建売住宅もあり、バランス悪く中層マンションも並んでいる統一性のない区画の街であったが三所市の中心部にもほどほど近くバスの便も良いので住居を構えるのに人気のある街であった。亀次郎はタウンのデザインアパートのひとつの広めの1DKに住んでおり、松子はちょっと狭いけど新婚の間ぐらいは現在のアパートに一緒に住まわせてもらって亀次郎さんとべったりの生活も良いかなと思っていたが、結納が終わって亀次郎と新居の話をした時に、亀次郎が「頭金ぐらいはありますから。」と鼻から新居のためのマンションを購入するつもりでいることに驚いた。「ローンも資産の一部ですし、買ったところで終の棲家というわけではなく、子供が出来ればその成長に合わせて買い換えて行けば良いのですよ。」と簡単に言う。松子は三所信用金庫仏の座支店の預金課の職員としてお客様の資産状況を一部ではあるが知る立場にあり、クレジットカードの引き落としが出来ずカード会社の連絡を受けて慌てて入金に来るお客様を見るたびに、最初は貧乏でもコツコツと貯金をしてなるべくなら借金のない暮らしをするほうが気持ち的にゆっくりと生活できて良いなと思っていたので、結婚早々住宅ローンを組もうとする亀次郎にビックリした。それも亀次郎が「三所信用金庫から借りますか。」と鳴門係長と松子への義理立てでローン先の利子率の比較検討もせずに軽々しく言うので、これは妻の立場からピシャリと引き締める必要があると考え、「私は亀次郎さんが今借りている部屋に住みます。」と宣言した。ただ、亀次郎も仕事のスペースと生活のスペースは分けたいという希望があり、確かに今の1DKで松子が亀次郎の仕事を邪魔することになってはいけないと思い直し、亀次郎の仕事部屋を確保できるマンションを新居として借りることに落ち着いた。亀次郎と二人で回る物件探しは本当に楽しくて決めるのがもったいないぐらいであったが、不動産屋がここはとっておきですと紹介してくれた亀次郎の今のアパートにほど近いスズシロタウンのマンションの3階の部屋から見える桜並木がとても綺麗で、松子が「一緒に散歩したいですね。」と亀次郎に言うと、亀次郎は不動産屋さんにここにしますとさっさと決めてしまった。仏の座商店街も徒歩圏内だし、通勤がてら運動もできるなと思い松子も賛成したが、スズシロタウンはその名の通りスズシロばかり生えていた三所市東部の丘陵地帯を住宅地として開発したものであり、アップダウンもそれなりにきつく、緑が多く残り、目には優しかったが出勤途中に松子が苦手な虫と遭遇するケースも多かった。
 三所信用金庫仏の座支店での松子は付けている名札が押車から谷渡に変わっただけで預金係としての仕事は変わらなかったし、結婚して仕事のパフォーマンスが落ちたなどと皆から思われるのは耐えられないので、松子は朝礼においてひときわ大きな声で三所信用金庫理念を読み上げ、奉仕の心を持って日々の仕事に熱心に取り組んでいた。松子が結婚後も仕事を続けたのは深山係長の強い勧めもあったが、一番大きかったのは松子が結婚のタイミングで仕事を辞めてしまうと新規採用者の補充の関係でどうしても仏の座支店に預金係の定員に欠が出てしまい、他の預金係の職員に迷惑を掛けてしまうことになるからだった。このことは、OGであるミツ子さんから聞いており、三所信用金庫の採用枠が決まる夏までぐらいに年度末での退職の意思表示をすればスムーズな人員の補充がなされ皆に迷惑を掛けることもないとアドバイスされていた。また、年度末まで今後どうするのかゆっくり考えれば良いのよと言われていたが、松子の中では今年度いっぱいで退職することを決めていた。二人の新居に亀次郎の会社を置いたので、亀次郎は外と家での業務が半々ぐらいの割合で仕事をしていた。朝食は松子が作るが、松子が出勤した後に亀次郎が片付けて、家で仕事をする時は掃除、洗濯も亀次郎が済ませてくれた。「帰ってきてからやりますから亀次郎さんはやらなくて良いですよ。」とお願いしても亀次郎は口では「ハイ、ハイ。」と言いながらも松子が帰宅すると洗濯物が干してあった。松子は、家事を女の仕事だと決めつける親の世代の考え方に従属していたわけではなく、亀次郎が率先して家のことをやってくれることも嬉しかったし、松子が亀次郎に対し感謝の気持ちを表すことで益々二人の関係は仲睦まじいものになっていたが、松子自身がこのままでは亀次郎が洗濯と掃除をやることに慣れてしまうのではないかと危ぶむ気持ちがあった。5年後10年後亀次郎が家事をやってくれることに対して今のような素直な感謝の気持ちを持つことができるのか松子は自信がなかった。疲れた時など夕食も出来合いのものを仏の座商店街で買って帰り、レンジで温めて出しても亀次郎は文句も言わずに食べてくれるが、そのことを亀次郎が当然のことだと思い始めたら嫌だなという思いがあった。折角亀次郎と新しい家庭を作るのだから二人にとって良い家庭にしたいという気持ちが松子には強く、良い家庭とは決して収入的に豊かであるということではなく、松子が亀次郎に感謝し、亀次郎が松子に感謝するお互いに思いやる関係が必要であり、夫婦の対等な関係とは少なくとも家事を対等に分担することではないと松子は考えていた。その気持ちも含め、切りの良いところで仕事を辞めて家事に専念したいことを亀次郎に伝えると、亀次郎はいつものごとくしばしウーンと考え込んでいたが、しばらくして、「じゃあマーちゃん、会社の経理を見て貰えますか。」と提案してきた。「僕にとっては掃除をしたりすることは気分転換にもなり大変だと思ったこともなく、仕事の支障にもなっていない。正直困っているのは経理関係の処理でね、会社の税務処理自体は花街税理士事務所に頼んでいるのだけど、税理事務所に出す経費伝票の整理が面倒というか、帳簿もいい加減になっているところがあって負担に感じていたのですよ。マーちゃんにもファームタンクの社員になってもらって会社から給与を出すようにしましょう。」。「でも私にまでお給料払っていたら会社が赤字になるんじゃないですか。」と松子が心配すると、亀次郎は「赤字にしなきゃ会社なんてやってられませんよ。」と笑っていた。「給与はマーちゃんが信用金庫を辞めてからになるけど、仕事の方は早速やってもらえませんか。」と経理関係のファイルを渡され逆に松子は忙しくなってしまった。「それまでは掃除と洗濯は僕がやりますから。」亀次郎は嬉しそうだった。

 松子の意思に反して、松子が三所信用金庫を退職できたのはその翌々年であり、結局仏の座支店に4年間勤務したこととなった。松子が早々に退職できなかった理由は、松子が退職を切り出すより先に、先輩の花菱トモ子が友人に誘われたからと言って、突然に北海道移住を宣言して支店内が大騒ぎになって、とてもじゃないが私も辞めますとは言える雰囲気ではなかったことによる。トモ子の友人は、少ないロットしか扱えないけど、良いと思える食材や食品を掘り起こしてネットで販売する会社を北海道で始めており、取扱品を増やすために本人は生産地回りに専念してネット販売の方はトモ子に任せたいらしく、相談があって即答でOKしたとトモ子から聞いた。松子は、「少し検討してから慎重に決めたらどうですか。」とトモ子に勧めてみたが、トモ子は「駄目なら駄目で良いの。北海道に住んでみたかったし、そいつのこと嫌いじゃないし。」とあっけらかんとしていた。「結婚前提で行かれるのですか。」と聞いたら、「まさか、嫌いじゃないけど結婚は無理かな、私面食いだから。」と笑い飛ばしていた。アクティブなトモ子らしかったが、トモ子の退職による年度途中の欠員で松子はテラーに専念してトモ子が抜けた穴をフォローしなければならず、深山タツ子係長までもがローテーションの谷間を埋める形で窓口業務を行う姿を見るにつけ、とてもではないが退職の相談などできなかった。トモ子は北海道で楽しくやっているらしく、しばらくして支店の皆に頑張ってますメールでネット購入会員の勧誘があり、松子も何度か食材を取り寄せてみたがその友人の目利きは確からしく良い品ばかりで、そのことをトモ子にメールで伝えると、へぇーそうなんだ、じゃあ私も食べてみようかなとトモ子らしい返信があり、とりあえず籍だけは入れてみたと文末にあった。トモ子が意識したものではなかったかも知れないが、戸惑うばかりの新社会人の松子にとって年の近いトモ子がいつも明るく接してくれたことで松子はどんなに救われたことか分からない。松子は心ばかりのお祝いの品を北海道のトモ子に送った。トモ子からはお得意様優待5%割引の返信があった。
 花菱トモ子が抜けた後のテラーは、翌年の新規採用で埋められた。松子の出身校である三所商業高校からの採用であり、松葉副支店長から、「松子ちゃんが当たりだったからね。是非商業高校からってお願いしたんだよ。」と恩着せがましく言われたが、そのことで松子に何かメリットがあるわけでもなく、当たりはずれって私は籤かいとちょっとムッとしたので、お礼の言葉を期待してそうな顔の松葉副支店長はとりあえずスルーした。深山係長から指示されたこともあり、松子は新規採用された駒掛ヒロ子に色々と教える立場となった。高校の先輩ということもあり、ヒロ子からは初日から松子先輩と呼ばれ面映ゆい気持ちになったが、ヒロ子がしおらしくしていたのは最初の一週間で、その後の3泊4日の新人職員研修から帰ってきたヒロ子が目をキラキラさせて松子に寄ってきて、「松子先輩聞きましたよ。自慢のお尻でハイスペックな東京から来た男を釣りあげたテラーが仏の座支店にいるでしょうって他の支店に配属された子から聞かれて、驚いてよくよく聞いたら松子先輩のことじゃないですか。詳しく教えてくださいよ。いいなぁ。信用金庫でそんな出会いがあるんですね。なんだかお年寄り相手の職場だと思っていたからビックリですよ。地元に残ったボーイフレンドなんてロクなやついないし、将来考えたらめっちゃブルーになっていたんですよ。」と一気にまくし立てられた。松子は他の支店で自分のことが話されていることに驚いて、「何、何、お尻で釣る?。私?、えっえっ。」と言葉に詰まっていたら、ヒロ子はため息をついて、松子をジロジロ見ながら、「先輩スタイル良いですもんねぇ。やっぱりこれぐらいにならないと男は寄ってこないですよね。その中から選べますもんね。今度ヒップアップのやり方教えてくださいよ。私先輩目指して頑張りますから。」と言われた。横で薄い笑いで聞いていたアツ子さんが、「松子ちゃんのお尻は努力して造れるものじゃなくてね、大きさ、形、位置の奇跡のバランスから生み出された、神様が創造したものなのよ。今度拝ませてもらいなさいよ。感動するから。」と言うと、ヒロ子は、「えー、千鳥さんは松子先輩の生尻見たことあるんですか、ずるい、私も見たーい。松子先輩今度見せてくださいよ。」とせがんだ。松子はあきれて、「見世物ではありません。」と先輩の威厳を込めて言ったが、ヒロ子は聞いておらず、アツ子さんに温泉に一緒に行ったんですかと訊ねてチャンスがあれば松子の生尻を観察する気満々だった。
 ヒロ子の能天気なお喋りを聞いているとヒロ子は辞めたトモ子さんと似た感じのギャル系なのかなと思っていたが、ヒロ子はオンとオフの切り替えがハッキリしていて勤務時間は私語も一切なく、仕事を早く覚えようとして業務マニュアルを読む時の速度と集中力には感心させられるものがあった。深山タツ子係長もヒロ子の仕事の覚えの速さに満足そうで、「さすがに商業高校で鍛えられてきた子は違うわね。」と漏らすのを聞くと、松葉副支店長が恩着せがましく言った時には何とも思わなかった母校愛が沸々と湧き上がるのは不思議なものだった。朝礼前の声出しも、松子が遠慮がちに引継ぎをすると、「三所信用金庫の伝統ですよね。」と言って、ヒロ子は恥ずかしがらずに大きな声でお尻の穴を締めてご唱和願いますと発声した。ヒロ子の発声を聞いた時、松子は私も職場の先輩としてこのフレーズを聞く立場になったのだと感慨深かった。ヒロ子は何に付けても積極的な性格らしく、アツ子さんにも使っている化粧品とかメイクブラシの使い方とか臆することなく質問して女子力のスキルを上げていた。終業時にも自分から先輩お茶して帰りましょうよと先輩テラー達に声を掛け、松子も度々誘われた。ヒロ子はそういう時馬鹿話もするが、仕事の話にも積極的で疑問点があればどんどん質問してきたが、松子のお尻の話は必ずセットで、聞かれるままに答えたヒップアップ体操やケアの効果についてヒロ子は義務のようにその進捗具合を報告してくるのだが、松子は、私に言われてもなぁと少し負担であった。亀次郎を始めとして、周りの人たちからやたらお尻を褒められるので松子も自分のお尻は良い形なのだろうとは思っていたが、女性週刊誌などで彼氏を虜にする小尻の作り方などの見出しを見るたびに、人より大きめの自分のお尻にコンプレックスもあり、服のサイズもお尻基準になってしまうことへの不満もあった。また、皆が松子のお尻を褒めれば褒めるほど私の価値はお尻だけなのかと、顔には出さないものの逆に不愉快な気持ちになることもあった。亀次郎にしても、確かにお尻が縁となって結婚できたのだろうけど、それはあくまでもきっかけであって、亀次郎とはお付き合いを通じて将来を委ねるに相応しい相手とお互い認め合ったからこそ結婚したのであり、お尻で釣ったなどと松子の知らないところで言われるのは心外であった。
「前々から亀次郎さんに聞こうと思っていたのですが。」松子から夕食時に真面目な顔で切り出されて、亀次郎は何か松子を怒らせるようなことをしてしまっただろうかと不安気な顔だったが、松子からヒロ子から言われた話も聞かされつつ、「私のお尻は亀次郎さんから見て正直どうなのでしょうか。」と問われて、安堵するとともに良くぞ聞いてくれましたとばかりに目が輝き、お尻について熱く語り始めた。「お尻の形はね、農耕民族と狩猟民族で大きな違いがある。日本人のような農耕民族は立ち止まっての屈伸作業が多いため骨盤が後傾している。その場合お尻が下に引っ張られるので一般的にいうとお尻が小さく垂れ気味になる。逆に欧米人のような狩猟民族は走りやすいように骨盤が前傾しているのでお尻が発達し易く大きく上向きになる。好みはそれぞれだろうけど、僕はしっとりとした控えめな日本人のお尻も好きだな。」”も”とはどういう意味ですかと口を挟もうとした松子を右手で制して亀次郎は続けた。「日本人のお尻も大きく4つのタイプに分けられる。まずは自然な丸味を帯びているお尻。”桃尻”とも言われる。マーちゃんのお尻はこれに該当するね。次に”四角尻”。筋肉と脂肪が腰回りからヒップの下まで付いてしまうと見た目に四角く見えてしまう。他に”ピーマン尻”というのもある。悪く言うと垂れ尻だね。お尻の筋肉が落ちたりたるんだりして重力に負けて下垂してしまったお尻。ただこのお尻はウエストが締まっているとそれなりにセクシーなお尻とも言える。熟女の魅惑のお尻だね。最後は”扁平尻”。ペタッと平べったいお尻。日本人も食生活の変化で骨盤が前に傾いている若い子も多くなってきたのだけど、日本人の場合お尻に脂肪が付きにくく、お腹に脂肪が付いてしまう。そうなると幼児体形になって薄いお尻になってしまう。若い子が小尻と勘違いしてしまうのはこのタイプのお尻だね。後、気を付けなければならないのは、無理にヒップを上げようとしてトレーニングを過度にやってしまうと脂肪ではなく筋肉が付いてしまう。そうなると滑らかで柔らかいというお尻の魅力を損なうことになるから注意しなければならない。僕の個人的な見解になるかもしれないが、美しいお尻の形と言うのは、お尻そのものも重要なんだけど、ウエストとお尻上部の肉の付き方に影響を受ける。マーちゃんのお尻は理想的な桃尻でね、ウエストからヒップに薄い脂肪が付いてなだらかで美しいんだ。余分な筋肉も付いておらず、触った時に手のひらにしっとりと脂肪が吸い付くようなまさしく大和撫子のお尻だね。そして、特筆すべきはマーちゃんの体から見てお尻が少し大きめというアンバランスさが逆にセクシーさを生んでいる。マーちゃんの歩く姿を後ろから見ると程よく大きい丸いお尻がプリンプリンとクロスするように揺れて左右のお尻の盛り上がりが規則正しく円を描くように上下するんだ。これはマーちゃんのお尻が上部からバランスよく綺麗に割れていて美しい桃の形だからだね。思わず我を忘れて後ろを付いていってしまうぐらい夢中にさせるんだよ。僕はマーちゃんのお尻を独占出来て本当に幸せなんだ。」。「はい。はい。」。”はい”を2回言う時は亀次郎をたしなめる気持ちを込めている。どうやらお尻で釣ったという周りの評価は、亀次郎のお尻へのこだわりが病的という前提条件は付くものの間違いではなさそうだった。気持ち的には複雑ではあるが、平凡な私にしてみれば何もないよりはお尻という価値があるだけましかもしれないな。お尻という言葉に修飾されるけど、結論として亀次郎さんは私に夢中ということで、松子は良しと思うことにした。
 その年の夏に松子は無事退職希望を茶臼預金課長を通じて支店長、副支店長に伝え、承認してもらえることができた。もっとも退職のことは前年に深山係長に相談しており、トモ子さんの急な退職に対応するため延長した事情は上司達も承知していたらしく、「無理を言って申し訳なかった。残りの半年宜しくお願いしますね。」と松子の退職は既定路線のように扱われ、自ら希望したことながら、谷渡さんに辞められると困るので考え直してくれないかとテレビドラマみたいな翻意を促すことを上司から言われたらどうしようと勝手な想像をしていた松子にはちょっと不満であった。ただ、深山係長からは、「誰にでも勧めることではないのよ。」とこれまでの経験を活かして非正規のハイテラーとして勤務時間を短くして勤める方法を勧められたが、松子は既に亀次郎の仕事の経理の手伝いを始めていたことから、その事情を深山係長に話した。深山係長は、「松子ちゃんみたいにお客様への細やかな心配りができるテラーは本当に貴重なのだけど、そういう事情があれば仕方ないわね。」と残念がってくれたことは松子の自尊心を満たしてくれて、残りの期間精一杯仕事を頑張りますと気持ちを新たにすることができた。退職が決まったことをアツ子さんに報告すると、アツ子さんは「そうなんだ。」と呟いてから、「松子ちゃん幸せだね。」と言ってくれた。猿山通信サービスからの出向行員はこの4月に石清水さんから西成さんという人に変わっており、松子としてはアツ子さんに聞きたいことが沢山あったが、アツ子さんが言わない限り聞いてはいけないような気がして松子は「はい。ありがとうございます。」としか返せなかった。
  
 Ⅴ

 仏の座商店街は古くは藩主薄葉公の菩提寺である臨済宗万光寺の門前町に端を発することは、商店街入り口の看板に墨痕新しく書かれているところであるが、万光寺と門前町を構成する商家や宿屋との関係が歴史的に見て常に良好であったかというと決してそうではなかった。古くは鳥羽伏見の戦いで攻め上ってきた官軍に対し、名君と言われた薄葉家第十二代当主軽光公は小大名ながらも徳川家譜代の名門として幕府に心情的な忠誠は持ちつつも、城下での戦闘を回避し領民の命と暮らしを守るため涙を流して官軍の錦の御旗の軍門に下ったのであった。多くの領民は軽光公の無念さを思い、官軍に歯向かわないまでも協力はしないとばかりに家の門を固く閉ざし、官軍の横暴にもじっと耐えたと三所市市政百年を記念して出版された「三所の歴史」に真偽の程はともかくも記されている。しかるに、藩主の菩提寺である万光寺はこともあろうか官軍の宿舎として境内を開放したことから、官軍が江戸に向けて進攻した後に門前町の町年寄りたちから大きな非難を浴びた。寺側としても官軍の要請に対してやむに已まれずという事情はあったが、明治になって住職が政府高官となった官軍将校とのツーショット写真を本堂に恥ずかし気もなく掲げたことから、門前町の店主たちは当時の住職と口も利かなくなったと伝えられている。また、戦前、種付け万光寺として子授けの寺として有名になって県内外からの祈願、参拝者が増えた時期に、当時の絶倫住職は本堂の修復と観音像の新設を計画し、その経費のほとんどを商店街からの奉納金で賄おうとした。商店街の賑わいはひとえに万光寺への祈願、参拝客のおかげであることは間違いなく、当時の店主たちは仕方なく高額の奉納金を収めたのだが、絶倫住職は美観を損なうとの理由で奉納者の名を参道階段の石柱に刻むことを拒否し、有志台帳の奉納をもって代えたことから、この時も寺と商店街の関係は決定的に劣悪なものとなった。もっとも、歴史的に見れば万光寺と仏の座商店街は良好な関係と言えないまでも相互依存の関係は維持してきたのだが、昭和の高度成長期以降、仏の座商店街が近隣住民の生活を支える市場通りへと変貌を遂げるに伴い、万光寺との繋がり自体が希薄なものとなっていったのは時代の流れであった。数件残っていた、万光寺への祈願、参拝数客を当て込んだ旅館は平成を迎える頃にはすべて廃業し、参道登り口の土産物屋が店を畳んだ時点で、仏の座商店街は万光寺の門前町として発展したという歴史的いわれを残すのみとなっていた。
 万光寺の住職は胃弱住職の姉の息子が後を継ぎ現在に至っているが、現住職の息子がアメリカの大学を卒業した後、跡継ぎとして戻って来ており、既に日本一厳しいと言われる京都の総本山での修業期間を終え、檀家の間では若住職と呼ばれていた。檀家回りにシボレーコルベットの8気筒エンジンの爆音を吹かして行くので最初は眉をひそめる檀信徒も多かったが、ゴニョゴニョと何を言っているのか分からない今の住職の読経に比べ良く通る声で滔々と唱える若住職の読経は格段に評判が良く、福原酒店のおばあさんが法事の際、若住職の美声読経を聞いているうちにワープして極楽浄土を見たと居眠りの言い訳にしたのでその法力も年寄り達に評判となった。年若にもかかわらず人当たりは柔らかで常に笑顔を浮かべて説法を行い、また長髪、長身で法衣姿が颯爽としていることから女性ファンが多く、三所市教育委員会が主催する講話会の機会を通じて三所敬老会婦人部と三所女子高にファンクラブが作られるという世代を超えた人気があった。夜の方もなかなかお盛んなようで、夜のクラブで複数の美女を連れている姿も度々目撃され、壇信徒からの苦言が寺に寄せられることもあったが、絶倫住職の血筋であり、少子化対策の波に乗った種付け万光寺復活の期待の声も高かった。また地元テレビのワイドショーにも経済コメンテーターとして法衣姿で度々ゲスト出演しており知名度もあった。言わば、アメリカの大学でMBAを修めた異色の若住職は長く忘れ去られた存在であった万光寺を立て直す久々のスター住職として期待されていた。
 若住職は仏の座支店の窓口業務が終わろうとする15時前に鳴門係長と一緒に正面入り口から法衣姿で入ってきた。既に窓口のお客様はなく、支店の中は職員が打つ事務機の音だけが控えめに鳴っていた。法衣姿は目立つので松子はすぐにテレビで見たことのある万光寺の若住職だと気付いたが、万光寺の取引銀行は地方銀行の三所銀行のはずで三所信用金庫とは別段取引がないことから、どうしたのだろうと訝しんだが、普段通り「いらっしゃいませ。」と窓口からにこやかに挨拶すると、若住職は立ち止まって松子の方を向いて合掌してお辞儀を返した。何故か隣の窓口に座っていたアツ子さんは無言で手元のファイルに目を落としたままであったが、若住職はアツ子さん姿を認めると、鳴門係長に「ちょっと失礼。」と断ってから、アツ子さんの窓口の前に来て、松子に向かって軽く会釈した後、「アッちゃん挨拶ぐらいしてよ。」と笑顔を向けた。アツ子さんは顔を上げて、「あら、来てたの。支店長をお待たせしたら失礼でしょう。早く行きなさいよ。」ニコリともせずに言うと、若住職は笑顔のまま、「その言葉使いはお客様に対して失礼じゃないですかねぇ。」と同意を求めるように松子を見た。松子がエッと驚いてアツ子さんと若住職を交互に見ると、アツ子さんは、「松子ちゃん相手にしなくて良いから。」と言って、「あのね、お坊さん、口座をお持ちの方が窓口のお客様なの。他のお客様の迷惑だからもう行ってもらえます。」冷たく言い放った。若住職が「客なんかいないじゃないか。」と呟いて、「じゃあお望みどおり口座作りますよ。」と返すと、アツ子さんはすかさず、「あら嬉しい、万光寺のメイン取引銀行にしていただけるんだ。お客様、ありがとうございます。」とニッコリした。若住職は苦笑しながら、松子に、「お姫様のお守も大変でしょう。」とアツ子さんに聞こえるように憎まれ口をたたいて、困惑する松子に笑顔を向けた後窓口を離れ、鳴門係長と連れ立って支店長室に消えた。
 15時になって正面入り口のシャッターが降りると、後ろのサポートシートに座っていたヒロ子が待ちきれなかったらしく、「あの人万光寺の若住職ですよね。現物初めて見ちゃったな。結構イケメンですよね。アツ子さん知り合いなんですか。」と聞いた。窓口に座っている時の私語は普段は深山係長から厳しくたしなめられるのだが、深山係長もさっきのやり取りには関心があるらしく何も言わないで耳を傾ける諷であったので、アツ子さんは後ろを向いて、ヒロ子と松子を交互に見ながら、「千鳥修一郎。知り合いと言うか、親戚ね。あっちが本家でこっちが分家。」とつまらなそうに言った。松子が、「そういえば万光寺のご住職の苗字も千鳥姓でしたね。アツ子さん万光寺さんのご親戚だったのですね。」と感心すると、「親戚と言っても、一年に一度正月明けに寺で顔を合わせるぐらい。あいつとは又従兄弟になるのかな。」。「その割には若住職、アツ子さんにやたら親密そうでしたね。」ヒロ子が冷やかすと、アツ子さんは、「やめてよ。本気で嫌なのよ。あのニヤケ顔見てると虫唾が走るの。」とアツ子さんには珍しく感情を出したので、若住職について他にも聞きたそうだったヒロ子も黙ってしまった。松子が給湯室に行くタイミングでアツ子さんも立ち上がって松子の隣を歩くようにして、「あいつ何だか良からぬこと考えているみたいだから、注意するように松子ちゃんから旦那様に言ってあげて。あいつ信用したら駄目だって。」と耳打ちした。意味が分からず、「何のことでしょうか。」と聞いたら、「詳しい話は旦那様から聞いて。」アツ子さんは松子の知らないことを何か知っているみたいだった。ずっと後になるが、アツ子さんが松子だけに教えてくれた若住職を嫌う理由は、子供の時に親戚の集まりがあった時、自然と年の近い二人で遊んでいたら、若住職、その当時の修一郎少年から言葉巧みにお医者さんごっこに引き込まれてしまい、パンツを脱がされて大事な所に指を入れられてしまったらしい。「修ちゃんも脱いでと言ったら、あいつ、僕はお医者さんだから脱がないんだよとニヤニヤしてるの、ホント最低な男でしょう。」険しく眉を歪めたアツ子さんもゾクっとする程セクシーだ。
 その夜、松子は若住職とアツ子さんの関係の話は省いて、万光寺の若住職が鳴門係長と連れ立って支店長室に来たことを亀次郎に告げて、「商店街連合会の関係かしら。」と水を向けてみた。亀次郎は「ほぅ。」と感心して、「マーちゃん良い勘しているね。」と褒めてから、「実は僕もこの前、鳴門君から彼を紹介されたんだよ。」と言った。「マーちゃんと出会った頃、僕が商店街のコンサルをやってたの覚えているだろう。商店街の入り口スペースに共同駐車場を作って、それはそれで集客の効果はじんわり出ているのだけど、調べる限りにおいて一足飛びにアーケードという話にはならないんだ。ただ、鳴門君としてはどうしても諦めきれない話らしく、再度、連合会のコンサルとして僕に参加してくれないかということで、吉原会長の了承は得ていると言うのだよ。僕も商店街の話は遣り残し感が強くてね。その後も色々と考えてはいたのだけど、引き受ける条件として商店街の再建策の検討に万光寺も参加してもらうことを鳴門君に提案したんだ。何と言っても仏の座商店街は万光寺の門前町から始まったものなのだし、アーケードを設置するのであれば、人の流れを中途半端に終わらせるのではなく万光寺の参道登り口まで伸ばすことまで視野に入れてやるべきだと思っていたんだ。万光寺にしても参拝客を増やす努力をしてもらわないといけない。経費負担の話は置いておくとしても、これまでのように万光寺の意向抜きで商店街だけで進める話じゃないと思ってね。アーケードというのは景観的な問題もあるしね。」。亀次郎はすっかりやる気になっているようだ。松子はアツ子さんの耳打ちが気になっていたので、「それで万光寺さんの若住職はどんな方でしたか。」と率直に聞いてみた。亀次郎は「ウン。」と言ってから、「連合会の吉原会長から派手で鼻持ちならない野郎だと聞かされていたから、どんな人かと思っていたのだけど、会ってみたら笑顔がさわやかな好青年だったよ、色々と苦労もしているみたいで謙虚で腰の低い人だった。」アツ子さんに聞かせたら人を見る目がないと一言で片付けられそうなことを言った。「そうそう、若住職、マーちゃんのことを知っているみたいで、支店の中で目立って可愛い方ですよね。あの方と結婚なさったのですか。羨ましいなぁ。って言われてしまったよ。」亀次郎は嬉しそうで、既に若住職の法力に丸め込まれているようだった。

 Ⅵ

 松子は翌三月に三所信用金庫を退職した。高校を卒業してからの丸四年間仏の座支店の預金係として無事勤めることができた満足感よりも、右も左も分からない金融の世界で松子を指導してくれた立鼎支店長を始めとする支店の方々への感謝の気持ちが強かった。特に、時に厳しく、時に優しく何も知らない松子に一から仕事を教えてくれた深山タツ子貯金係長には社会人として育てていただいたという師に対しての尊敬の気持ちがあった。その他、預金係の先輩たち、椋鳥シマ子、千鳥アツ子、花菱トモ子は松子を時に励まし、時にサポートしてくれながら、預金係の仲間として優しく受け入れてくれた。花菱トモ子は松子より一年先に退職して北海道に行ってしまったのだが、いつも明るく、時に図々しい花菱トモ子の存在が新人の松子にとってどんなに有難かったか計り知れない。三条清掃サービスの間夫さんや、警備会社の廓さんも松子ちゃん、松子ちゃんと自分の娘のように可愛がってくれた。信用金庫のお客様達も松子に常に笑顔を向けてくれて、松子の仕事に対してひとつひとつ、ありがとうと声を掛けてくれた。平凡で何の取柄もない自分が曲がりなりにも社会人として勤めることができたのは周りの方々の支えのおかげであったと感謝した。最後の朝礼で、立鼎支店長からねぎらいの言葉を頂き、唯一の後輩である駒掛ヒロ子から花束を貰って、支店の皆の前でお別れの挨拶をする時、松子は泣かなかった。確かに慣れ親しんだ職場を離れるのは寂しかったし悲しかったが、涙は自分の感傷のために流すもので、自分が居なくなった後の支店を支えてくださる皆さんに対して独りよがりな涙を見せるのは失礼だと思った。松子はこれまで至らない自分を支えてくださった皆に感謝の気持ちを自分の言葉で静かに伝えた、そして体を労わってどうか健康だけには留意してくださいとお願いした。これは松子の心からの気持ちだった。松子が最後に深々と頭を下げて顔を上げた時、絶対に松子ちゃんは泣くぞ泣くぞと期待していた皆の拍子抜けした顔があった。しばらく間を置いて、深山タツ子係長が、本当に大人になってと呟いて口を押えて嗚咽した。松子はその嗚咽を聞いたとたん、自分の涙腺が突然崩壊したのを感じ、大きな声で何か言葉にならない声を出していた。預金係の皆が走り寄って、力が抜けて座り込みそうな松子を抱きしめてくれた。皆の松子ちゃん、松子ちゃんと呼ぶ声を遠くに聞きながら松子は幸せだった。松子の退職セレモニーは仏の座支店退職テラーの失神騒動として長く三所信用金庫で語り継がれることとなった。
 松子が無事にというかちょっとした騒ぎの中で三所信用金庫を退職した頃から、仏の座商店街再生プロジェクトは本格的に稼働し始めたようで、亀次郎は専らこのプロジェクトに掛かり切りになっていた。夕食のハンバーグを食べながら亀次郎が松子に教えてくれたことは、仏の座商店街の再生には万光寺の参加が不可欠であるという亀次郎の意見を商店街連合会の吉原会長も納得し、三所信用金庫の立鼎支店長の仲立ちにより、万光寺と商店街連合会との間に歴史的和解が成立したこと。和解に先立ち戦前の本堂修復と観音像の建立への各商店からの奉納金に対して有志台帳の奉納で済ませた点につき現住職より商店街連合会に謝罪があったこと。このことにより、仏の座商店街連合会、万光寺及び三所信用金庫の共同プロジェクトとして第二期仏の座商店街再生プロジェクトがスタートしたこと。プロジェクトの運営は商店街連合会に事務局を置き、プロジェクト委託会社として合同会社ファームタンク代表、つまり亀次郎が事務局長となり、三所信用金庫からは仏の座支店の鳴門渉外係長が、そして臨済宗万光寺からは副住職の千鳥修一郎が実行委員として参加することとなったこと。「つまりね。」亀次郎は続けた、「要は、鳴門君と千鳥君と僕とでアーケードの設置投資に見合う商店街の集客力の向上についてアイデアを出していこうということになったんだよ。この点は僕が前から主張していることで、鳴門君には悪いけど今の商店街を存続させるという基本線を危うくするような融資はあり得ない。まずは集客力の向上で商店街の足腰を強くしてから、次のステップとして起爆剤のアーケードの設置に進むべきなんだ。その為にはプロジェクトに万光寺の参加は不可欠で、商店街と万光寺がこのプロジェクトでウィン・ウィンの関係になれば、商店街だけでなく万光寺も融資先として期待できるのだから、三所信用金庫にとっても決して悪い話じゃないんだ。急がば回れって感じでね。」。何事も慎重に考える亀次郎さんらしいと松子は思ったが、ちょっと気になって、二人の出会いの切っ掛けになった前回の商店街専用駐車場の設置による集客力の向上効果について亀次郎に尋ねてみた。亀次郎は少し渋い顔をして「効果はでているよ。」と言った。「効果は出ているし、それは数字的にも表れている。ただ、鳴門君や吉原会長から見たら、こんな僅かな増加じゃ物足りないって意見なんだ、でもマーちゃん、僅かな増加でもそれが定着すると集客力の基礎数値が上がったということで、すごいことなんだけどなぁ。イベントとかやってのお客さんを集めたということじゃなくて、日々の購買者の数が確実に上がっているということだからね。集客数が小さくても確実に上がるという正のルーティンが長期的な販売額に与えるインパクトはすごいことなんだ。そのあたりのことをなかなか理解してくれなくてね。鳴門君からは、信用金庫も立場を引いて谷渡の意見に同意したのだから、責任を持ってもっと効果が目に見えるような提案をしてくれないと困るよと言われているのだよね。でも、千鳥君の意見はちょっと違っていて、千鳥君は最初、僕が作ったデータを一瞥しただけで、へぇーっ凄い資料だなって感心して、ちょっと持ち帰って良いですかとデータを何日かかけて見てくれて、駐車場ぐらいで期待値のベクトルが上向きに変わるんですね、費用対効果から見て画期的なことですよ。低迷が続いていた商店街の集客が上向きになったのは三十年振りぐらいじゃないですか?。それにしても色々な視点から数値を拾ってますね。大変だったでしょう、一流のコンサルの方ってここまでやるんですねって評価してくれたんだ。でも、融資額を考えるともうひとつ何か正のインパクトが必要ですねって、さすがMBAは違うなと感心させられたよ。」アツ子さんが聞いたら目を吊り上げて怒りそうな評価と信頼を若住職に与えていた。ただ、松子としては亀次郎さんの友人として信頼していた鳴門係長の冷たい態度に比べて、万光寺の若住職が夫の仕事を褒めてくれた事実に対して、なんだ、若住職って結構良い人じゃないの?と夫婦揃って若住職の法力に丸めこまれていた。

 亀次郎と松子の新居のあるスズシロタウンから松子の実家までは仏の座商店街入り口まで歩いてバスに乗ると片道30分の行程であり、松子は退職すると母親から料理を習うために定期的に実家に帰省するようになった。料理のレパートリーの少なさは結婚当初から自覚していた。働いていた時はスーパーヨシムラの総菜コーナーにもちょくちょくお世話になっていたのだが、亀次郎の会社を手伝うとはいえ、家に居るのだからミツ子さん程までは行かなくとも極力手の込んだ料理を亀次郎さんに振舞いたいと思って、料理スクールに通いたい旨言うと亀次郎は少し考えた後、「お義母さんに教われば良いのではないですか。」と提案してきた。「何度か頂きましたけどマーちゃんのお義母さんは料理が上手ですよね。折角良い先生が居るのだから習わない手はないですよ。」。亀次郎と結婚してから、松子は近い実家に帰ろうとはせず、正月も隣県にある亀次郎の実家には泊まったが、自分の実家には新年の挨拶に立ち寄っただけだった。結婚をして新しい家庭を作ったのだから、私が頼るべきは夫である亀次郎さんであり、いつまでも親を頼りにしてはいけないという松子のささやかな覚悟と意地でもあった。そんな松子の想いも理解した上で松子の負担にならないように料理にかこつけて実家に帰ってご両親に顔を見せなさいとさり気なく背中を押してくれる亀次郎の優しさに松子は感謝した。ただ、独身の時に亀次郎が実家で出されて喜んで食べていた料理のほとんどは近所のスーパーの総菜であったような気がしないでもなかった。松子のお願いに、母は、あらまぁと驚き、父は、ほっほぅと喜んだ。母に台所で料理を習っていると父は食卓に座って松子の背中に向かってあれやこれやと近況を訊ねた。母と異なりスズシロタウンの新居には一度も顔を見せない父ではあったが、お父さんなりの気の使い方なのだろうな、本当は私に会いたかったのだなと思い、赤ちゃんが生まれたらちょくちょく実家にも顔を見せに行こうと考え直した松子だった。なお、母が総菜に頼っていたのは単に効率性と経済性を追求した結果であり、実は母の料理のスキルはかなり高かったのだと、同じく主婦として台所に立つようになった松子は知ることとなった。ほとんどのレシピは頭の中に入っており、調味料は一見目分量のように見えて最適な分量による味を作っていた。ミツ子さんもそうだが、プロの主婦は手の速さが違う。そこを褒めたら母は「反復は経験となり、経験は技となって料理が上達するの。料理を作ることは難しいことじゃないのだけど、今晩何にするかを決めるのは難しいわねぇ。」達人語録を残した。
 松子が母と作った筑前煮と金目鯛の酒蒸しをタッパーに入れて帰宅すると取り込んだ洗濯物の山を前に亀次郎が座り込んでいた。松子が「取り込んでくれてありがとうございます。後は私がやりますよ。」と言いながら荷物をダイニングテーブルに置いて洗面に向かうと、後ろから「マーちゃん。」と亀次郎が松子に声を掛けた。「何ですか。」と洗面所から返すと、「ちょっと来てもらえますか。」と亀次郎が気の張った声を出した。再び、「何でしょうか。」と言いながら松子が隣に座ると、亀次郎は目の前に取り込んだばかりの松子のショーツを広げてしげしげと凝視しながら「これってマーちゃんのパンティですか。」と聞いてきた。松子は吃驚して、目の前に広げられた自分のショーツを認めると慌てて置かれたショーツを回収して手の中に丸めて両手を後ろに回して隠した。「はい、私のものですけど、何か?。」と事態が把握できないまま聞くと、亀次郎は「知らなかった。」と呟いた。松子は良くは分からなったが、義務感も手伝って「何を知らなかったのですか。」と聞くと、亀次郎は「マーちゃんがそんなパンティ履いていたなんて知らなかった。」と残念そうな声で呻いた。えっと思ったが、そう言えばこのショーツはこの前の日曜日にアツ子さんとお茶をして、その帰りにAimerに寄って買ったもので、確かに昨日初めて履いたショーツであった。フルバックであるが総レースのショーツでフロントは可愛い刺繍で上手く隠しているもののバックは完全にスケスケであり、Aimerでこのショーツを手に取った松子をアツ子さんがチラ見して、やるわねと小さな声で推奨してくれたものだった。もちろん買った時は亀次郎の好みを意識して買ったのだが、昨日は履き心地を確かめるつもりで身に付けてみたものだった。亀次郎は「知らなかった。」と悲しそうな声で呟き、「マーちゃんは昨日このパンティを履いていたのですね。」と言って、「昨日はちょっと忙しくてそこまで気が回らなかったんです。」と付け加えた。松子は「そうなんですか。」と作り笑いを浮かべながら、私のショーツで人生が終わったようなような声を出すこの人は毎日私の下着をチェックしているのだろうか、陽気のせいで頭がおかしくなったのかもしれないと疑った。暫くの間、ショーツを後ろ手に隠した松子と亀次郎はお互いを探るように無言で見つめ合っていたがやがて亀次郎が「そんなに小さなパンティにマーちゃんのお尻が入るのですか。」と失礼なことを平気で尋ねてきた。「入ります。」と反射的に答えたものの、何も亀次郎のペースに合わせることもないのだと思い直して、「私のお尻は私が責任を持って入れます。それから、これからは私が洗濯をしますから、亀次郎さんは洗濯物に触らないでください。」と警告を発した。亀次郎はハッとした様子で、急に正気に戻ったらしく、「否、あっ、失礼しました。決してそんなつもりではなく、マーちゃんのパンティを見たらあまりにセクシーなので、色々と妄想してしまいました。本当にごめんなさい。」としょんぼりとしてしまった。亀次郎のしょんぼりした姿を見ると、松子はなんだか可哀そうになって、「伸縮性のあるストレッチ素材なので大丈夫なんですよ。」とショーツを亀次郎の目の前で広げて見せた。「ほら。」と言ってショーツを横に伸ばして見せると、亀次郎の目はショーツにくぎ付けになって、「もともと透けているのに履くともっと透けてしまうのでしょうか。」と聞いてきた。「さぁ、どうなんでしょうか、確認したことはないのですが。」と口を濁すと、亀次郎はコホンと咳ばらいをしてから、「マーちゃん、これはマーちゃんのお尻にとって非常に重要な問題なんです。是非確認してください。」と鼻息を荒くした。何が重要なのか松子はピンとは来なかったが、日頃より亀次郎の松子のお尻へのこだわりは熱いものがあるので、亀次郎の鼻息には、ははぁんとピンと来て、「はぁ。」と気のない素振りは見せつつも、内心はノリノリで「じゃあ亀次郎さんに確認してもらって良いですか。」と水を向けると、「いいですよ。えぇ、これはとっても重要なことです。何が重要かって本当に重要なんです。」と頭の中が煩悩でショートしたらしい亀次郎はうわ言のように繰り返した。バスルームでショーツを履き替えた後、スカートを捲り総レースにブリブリぴっちり収まったお尻を亀次郎の顔に向けて、「どうですか、透けちゃってますか。」とお尻を左右にプルンプリンと振ると、亀次郎は「マーちゃん、透けて、収まって、丸い桃が、ぴっちりと、綺麗に割れて。」と呻ぎ、鼻息を荒くして松子のお尻に縋りついてきた。今日はこのままの流れなのかなとほんわりウキウキしていた松子であったが、そうだ、ダイニングテーブルのタッパーを冷蔵庫に入れるの忘れていたと思い出し、「ちょっと待ってください。」とお尻をポンと後ろに突き出すと、松子のお尻に弾かれて亀次郎の嬉しそうな顔は後ろに吹っ飛んだ。

 Ⅶ

 亀次郎から「申し訳なさそうにお客さんを家に呼んで良いでしょうか。」と聞かれたのは気象台の梅雨明け宣言がないままに仏の座商店街が長期に渡るサマーセールを始めた7月上旬のことであった。二人の新居には松子の母を始めとして、友人や仏の座支店の預金係の元同僚達もちょくちょく訪れてくれていたが、亀次郎の関係者と言えば、新居を決めた時に亀次郎の母親が、ちょっと思い立ってとエアコンを業者に運ばせて来た時だけであった。この時は、義母は松子の吃驚しつつも感動した顔に満足して、邪魔にならない大きなお土産を色々考えたのよ。ドッキリ大成功と変な自慢をしてすぐに帰っていった。「はい、大丈夫ですよと答えて、どなたが見えられるのですか。」と亀次郎に聞くと、「いゃぁ、この前、鳴門君と千鳥君と打ち合わせしている時に、マーちゃんの料理が美味しくてとつい自慢したら、鳴門君がへぇー松子ちゃんが料理をねぇ、それは是非ご馳走してもらわないと。お前にはそれぐらいの貸しがあるよなぁ。」と言われてね、と亀次郎は言い訳から始めた。「ということは、鳴門係長がお見えになるのですか?。」と言いつつ、料理上手のミツ子さんの味に舌が慣らされている鳴門さんはなかなかの難敵だなと考えていたら、亀次郎は続けて、「そうしたら千鳥君が、そう言えば3人とも奥さんは三所信用金庫仏の座支店に勤務していたという縁もありますね。ここはひとつリーダーである谷渡さんにご足労いただいて、谷渡さんの家で奥さんたちも一緒に暑気払いとしゃれ込みましょうか。」と言い出したんだ。ということは全員で6名か、取り皿を買い足す必要があるなと考えながら、松子は何か釈然としないものを感じて、すぐにその理由に思い当たった。「千鳥さんは万光寺の若住職ですよね。あの方結婚なさっていたのですか?。それも奥様が仏の座支店勤務って誰なのでしょう。」と聞いたら、亀次郎は、「千鳥君がそう言うからそうなのでしょう。マーちゃんが入る前に退職した人かも知れませんよ。」あまり関心はなさそうだった。一瞬、若住職に興味津々だった駒掛ヒロ子の顔が浮かんだが、まさかね、とあり得ない組み合わせとして脳内処理された。いずれにしても、当日になればハッキリすることだと思って、松子は亀次郎の妻自慢を裏切ることにならないように何を作ろうかしらと迷いながら、こっそり母にもお願いしよう。大きなタッパーは実家にあったかしらと良からぬことを考えていた。
 当日の土曜日、亀次郎から飲み物は鳴門君と千鳥君が持ってきてくれるそうだよと聞かされていた松子は、調理器具の関係で仕込みは実家でやるからと亀次郎に苦しい言い訳をして、前日に母にお願いしていた料理を昼過ぎに持ち帰り、冷蔵庫に仕舞いつつ折角だから私も前菜の一品でも作ってみようと材料を並べていたら、ミツ子さんが、「松子ちゃんヘルプに来たわよ。」とクールネックカットソーで胸の谷間を見せるカジュアルながらセクシーないで立ちで現れた。「今回は旦那が無理言ったみたいでごめんね、松子ちゃんの邪魔したら悪いかなと思ったけど足りないより余る方が良いと思って。」料理の入ったタッパーをいくつか並べた。松子は「やっぱり心配ですよね。」と自戒しつつ冷蔵庫を開け、タッパーに入った料理を見せた。ミツ子さんは吃驚して「えっ、松子ちゃんやるじゃない。凄い、信じられない。」と褒めてくれた。松子はどう繕ったところでミツ子さんにはバレる話だと覚悟を決めて、「母の料理です。」。正直に言うと、ミツ子さんは目を丸くしてプッと噴き出した後、「ごめんなさい、松子ちゃんがあまりにも潔いので。」と謝ってから、「本当に谷渡君と松子ちゃんはお似合いの夫婦だなぁ。」褒めているのかどうか微妙なことを言ってからもしばらくは笑いが止まらない様子だった。ミツ子さんにお茶を出しながら、ミツ子さんなら知っているのかもと思い、万光寺の若住職の事を聞いてみた。ミツ子さんは「旦那からは何も聞いていないのだけど。」と前置きして「確か独身だと思うよ。三所市では一応有名人なのだから結婚したらそれなりの情報が出回るんじゃないの。」これもさほど関心はなさそうだった。「でも、奥さんが仏の座支店の方だっていうから私も気になって。」松子が言うと「それは嘘だね、若住職は私が支店に勤務している時にアメリカから帰国したと聞いたから、OGも含めて支店の誰かと結婚したなら私の耳に入らないことないもの。適当に話を合わせただけじゃないの。お坊さんなんて口八丁でお布施を巻き上げる職業でしょう。」。仏教会が聞いたら怒りそうなことを平気で言った。時間の30分前には亀次郎がアルコールを買い込んだ鳴門係長と連れだって帰宅した。鳴門係長と合うのは松子の退職以来であり、型通りの挨拶を済ませた後に危惧した通り松子の退職セレモニーでの失神騒動を話題にされた。亀次郎にもちょっと泣いて過呼吸状態になってピンチだったとその日の出来事としてさり気なくは伝えてはいたのだが、何も今更蒸し返さなくてもと松子がちょっと困った顔をしたら、ミツ子さんが敏感に松子の気持ちを察したらしく「松子ちゃんが仕事に全身全霊を打ち込んでいたからでしょうが。あんたみたいにちゃらんぽらんな仕事しかしてなくて、成果も上げていない男に言われたくないわよ。」と旦那に向かって早口にまくし立てた。鳴門係長は「ごめん、ごめん、久しぶりに松子ちゃんの顔見たら嬉しくてイジりたくなるんだよ。何と言っても仏の座支店の伝説のマドンナ最後のエピソードだからね。」とフォローにもならないことを言った。「女性は感性が敏感なのだから、退職とか離別とかの場は感傷的になるものなの。」ミツ子さんが旦那に説諭したが、松子はちょっと違うと思って思わず口を出した。「違うんです。あの時、私、なんて幸せなんだろうと思って、皆さんとお仕事ができて、あぁ、幸せだったなぁ、何か言わなきゃと思っていたら知らないうちに気が遠くなってしまったんです。」その時の心情を解説した。ミツ子さんは笑って「そこが松子ちゃんの凄いところだよね。多分松子ちゃん以外の女が同じことを言ったら、何あざとい事言っているのってなるけど、松子ちゃんが言うと本当のことに聞こえるもの。」ととんでもないことを言い出したので、慌てて「本当なんです。」。松子が言う言葉に「マーちゃんは結婚式の時に気を失いませんでしたよね。心から幸せとは思えなかったんですか。」。亀次郎がしょげた様子で言葉を重ねてきた。松子が、もう、ややこしい事言ってと亀次郎に少しイラっとして「幸せな時にいちいち失神していたら身が持ちません。」叫ぶ横で失言の責めから解放された鳴門係長が「そりゃそうだ。」と笑いながら合いの手を入れると、ミツ子さんが「そもそもアンタがつまらない事言うからでしょうが。」と旦那様をアンタ呼ばわりして収拾が付かない状況になったタイミングで呼鈴が鳴った。「千鳥さんですね。」。松子が混沌となった諍いの終了を3人に告げて玄関に小走りに寄ると「千鳥です。」と外から声が聞こえた。「はい、お待ちしていました。」。松子が玄関ドアを開けると、ブレザー姿の若住職の笑顔が現れ、その背中越しに立つ女性は思いかけず仏の座支店の真のマドンナであった。人間は全く予想外の事態が起こった時に体も予想外の反応を起こすらしい。松子は「えっ。」と声を漏らした後、衝撃で力が抜けて腰が砕けてしまった。千鳥修一郎がとっさに一歩踏み出して松子の腕を掴んで支えてくれたので、松子は玄関口でへたり込むだけで済んだ。アツ子さんが驚いて「松子ちゃん大丈夫?どうしたの。」と後ろから覗き込んだが、アンタが驚かすからだよと心の中だったが松子は憧れのアツ子さんのことを始めてアンタ呼ばわりした。松子はとりあえずソファーに座らせられて、寄り添うように隣に座った亀次郎は「マーちゃん大丈夫?貧血かな?。」とオロオロした。鳴門夫妻は松子の驚愕の理由を理解したらしく、ミツ子さんが代表して「まさかアッちゃんが来るとは思わなかった。」とアツ子さんに言った。アツ子さんは「御免ね、驚かせるつもりはなかったのよ、修一郎から松子ちゃんが料理を振舞ってくれるらしいから行こうよと誘われて、松子ちゃんの手料理が食べたくて付いてきてしまったのだけど、当然修一郎が私も参加することを事前に伝えていたものだと思っていたの。」ミツ子さんと松子の顔を交互に見ながら謝り、「でも、そんなに驚かなくても。」と付け加えた。ミツ子さんは、イヤイヤと顔を振って「松子ちゃんが驚いたのは、千鳥さんが奥さんを連れてくると聞いていたからなの。その状況でアッちゃんが来たらそりゃ驚くでしょうが。」と松子の腰砕けの理由を説明した。アツ子さんは眉をひそめて「えっ、何を勝手に決めているの。」と修一郎を睨んだが、「まぁ、そのことは食事を頂きながらおいおい話をしましょう。実は僕はワインはフランスよりもイタリアワイン推しでね、今日はとっておきを持ってきましたよ。」修一郎が持参した紙袋からワインを出すと、鳴門夫妻は「バローロ。」と声を揃えて、多分ワインの銘柄であろう名を叫んだ。「一度飲んでみたかったんだよ。」興奮する鳴門係長に続けて「いくらしたの?高かったでしょう。お金持ちは違うわねぇ、さぁ、入って入って。」ミツ子さんはパーティのホステス気取りで修一郎を招き入れた。アツ子さんは一瞬呆れたような顔をしたが「おじゃまします。」と松子に笑顔を向けて、お土産と有名店のケーキの包みを渡す時に、「優しい旦那様。松子ちゃん幸せだね。」松子と亀次郎にだけ聞こえるように囁いた。
 食事は大皿に盛られた、鶏ごぼう煮、カブのイタリアンソテー、回鍋肉、パエリア、小鯵の唐揚げ、白菜のあさり餡かけ、モッツァレラチーズとトマトとバジルのサラダ、ちらし寿司、フランスパンがキッチンに置かれて、各自取り皿で好きな料理を取ってダイニングテーブルで食べるスタイルとなった。母とミツ子さんが作った多国籍料理を前にしてどうしようと悩んでいた松子であったが、好き勝手に食べさせれば良いのよとミツ子さんがビュッフェスタイルを提案して、なるほどと松子はミツ子さんの知恵に感心してしまった。皆で乾杯した後、それぞれ取り皿を持って各種料理を前にして、まずアツ子さんが「松子ちゃん凄い。」と褒めてくれて、修一郎が「いやぁ、これは壮観かつ眼福ですね。」驚いた声を出した。鳴門係長は「これは旨そうだ。」と唐揚げに箸を伸ばしながら「なかなかに無秩序な料理のセレクションだな。」と痛いところを突いてきた。松子は良心の呵責もあり「実は。」と口を開きかけたところで、ミツ子さんが「何。松子ちゃんと私の料理に文句があるの?。あんた達は準備しろと言うだけで気楽だけど、作る方は色々と考えて大変なんだから。」と文句を言った。「マーちゃんは僕の体を気遣って基本和食を出してくれるのですが、週末とかには新しい料理にチャレンジしてレパートリーも増やしているんですよ。」。亀次郎が鼻の穴を膨らませると、アツ子さんが「それはご馳走様。」と笑い、修一郎はすかさず「可愛らしくて優しくて料理上手の奥様で谷渡さんはよくぞこの方を見つけたというところですね。」と持ち上げ、亀次郎の満面の笑みを前にして松子は強張った作り笑いをするしかなかった。松子は料理の真実を明らかにする機会を完全に逃してしまった。

 「別に公にすることでもないので黙っていましたが、アッちゃんは僕の許嫁ですよ。」という修一郎の爆弾発言に、慎ましく白菜のあさり餡かけを食べるアツ子さんを除く全員の動きが止まってしまったのは、皆が一通り料理の出来栄えを褒め、ミツ子さんが若住職とアツ子さんの関係を興味津々に問いただした直後であった。アツ子さんは余計な事をと白菜をつつきながら、「生まれた時に親同士が勝手に決めたことで、当事者である私が御免被りますと言っているのだからもう白紙なのよ。今の時代に生まれた時に結婚相手が決められてるって何なのよ。人権侵害よ。」抑揚のないトーンで否定した。松子は皆のためにちょっと前提を明らかにしておくべきと気を回し、「お二人がご親戚だとは昔お聞きはしていたのですが。」控えめに言い足すと、鳴門夫妻は「ヘッ。」と驚いた顔をした。「そう、修一郎が千鳥本家で私の家が分家で遠い親戚ね。だからと言って人の将来まで本家の意向で決められたら堪らないわ。」と言うアツ子さんに向かい修一郎が苦笑して、「千鳥の家の中ではそういう関係になりますが、アッちゃんのご母堂の旧姓は薄葉で、薄葉家14代当主の娘さんで現15代当主のお姉さんになります。つまり千鳥の分家が恐れ多くも主君筋からお輿入れいただき、その娘さんがアッちゃんになります。時代が時代であればアッちゃんは薄葉一族のお姫さまなんです。単なる坊主の千鳥の家柄とは格が違うんですよ。」と解説した。鳴門夫妻はぽかんと口を開けて「はぁ、知らなかった。驚いた。」と呟き、三所市に縁の薄い亀次郎は「薄葉家は名君を多く輩出した家柄ですよね。」とピント外れの世辞を言った。三所市出身の松子は郷土史の授業で度々目にする薄葉家のお姫様が目の前に居ることに感動していた。そういえば、若住職が仏の座支店を訪れた時に、松子に、お姫様のお守も大変でしょうと言ったことを思い出し、アツ子さんは本物のお姫様だったんだ。アツ子さんの美貌と気品は血筋だったんだと納得した。アツ子さん十二単とか来たら綺麗だろうなと誤った史実観でうっとりとなり「本物のお姫様。」と松子が目をキラキラさせてうわ言のように言うと、アツ子さんは既に若住職の法力に取り込まれた松子の目を覚まさせるために、松子の目の前でパチンと手を打って言った。「私の王子さまは坊さんではないわ。」
 「若住職は有名人だから薄葉家のお姫様と結婚したら大騒ぎでしょうね。」ミツ子さんが真面目な顔で言うと、修一郎は「いやいや、そんなことはないです。」と有名人の否定なのか、大騒ぎの否定なのか微妙な謙遜をした。「ミツ子さん変な事周りに言わないでよ、私本当に迷惑なのだから。」アツ子さんが釘を刺す横で、松子はアツ子さんと石清水さんはどうなったのだろうと考えていた。若住職は颯爽としたイケメンだからアツ子さんとは美男美女のお似合いのカップルなのだけど、無口でちょっと陰があってもさり気ない優しさを見せる石清水さんのほうがアツ子さんの横に立つ男性として好ましいような気がしていた。石清水さんとの話は、松子がアツ子さんと遠慮なく話が出来るようになったずっと後に「アツ子さんは石清水さんと結婚するとばっかり思っていました。」と言う松子の話に「笑える話なのよ。」とアツ子さんは教えてくれた。修一郎から求婚されたアツ子さんは石清水さんと付き合っているから無理と理由を付けると、なんと修一郎は石清水さんに合って、アツ子さんが薄葉家の血筋で、自分の許嫁なので身を引いてくれとお願いしたそうである。「普通は、何馬鹿な事言っているんだってなるじゃない。でも現実は石清水のやつ、そうですか。分かりましたって田舎に帰っちゃったの。お幸せにだってさ。呆れて涙もでなかった。なかなか松子ちゃんと谷渡さんみたいに上手くいかないね。」アツ子さんは寂しそうに笑った。ただ、松子は石清水さんの気持ちも少しは分かるような気がした。自分の彼女が薄葉家のお姫様だとカミングアウトされたらその先に予想される家と家との揉め事を配慮し、アツ子さんのことも考えて自ら身を引いたのではなかろうか。三所市においてはそれぐらい薄葉の名は大きいのである。石清水さんはどこまでもクールな人だったなと松子は思った。
 アツ子さんが本気で怒りそうなので、話題を変えるべきと判断したのか、鳴門係長が亀次郎と松子の馴れ初めについて話始めた。ただ鳴門係長は少しデリカシーに欠ける人なので、酔いも手伝ってか松子が危惧したとおりに松子のお尻が原因となった立鼎支店長も巻き込んだ騒ぎについて面白可笑しく話した。修一郎が「へぇー、、谷渡さんは目が高いというか鑑識能力がすごいというか、そんなことってあるのですね。鳴門夫妻も大変でした。」と笑った。「あんた達ね、そういうのセクハラと言うのだよ。」ミツ子さんが注意すると、「でもね。」とアツ子さんが割って入り、「松子ちゃんのお尻はね、エロとかそういうのじゃなくて神が造りたもうた創造物なのよ。例えるならミロのビーナスとか広隆寺の弥勒菩薩とかのレベル。後世のために美術品として石膏で固めたいぐらいなのよ。」顔を赤くして力説した。アツ子さんは少し酔っているようだった。「だから?。」ミツ子さんが不満げに聞くと「だから、美術品なんだから観賞はしても良いのよ。でも触るのは駄目、美術館は触るの厳禁でしょう。」とアツ子さんは解説した。ミツ子さんは思い当たる節もあるようで「それもそうね。」と納得してしまった。亀次郎はアツ子さんの話にいちいち頷き、話したそうにウズウズしていたがミツ子さんの納得した様子を切っ掛けにここぞとばかりに話し始めた。「そうなんですよ。マーちゃんのお尻は大殿筋でなく脂肪で桃尻を形作っているのがすごいのです。出っ尻と混同されては困ります。出っ尻は訪米人のような狩猟民族が走る目的のために筋肉で作られたものです。筋肉ですから金髪モデルのプリッとしたお尻も我々がイメージする柔らかいお尻ではないということは申し添えておきます。本来、農耕民族である日本人のお尻は立ち止まっての屈伸運動の関係で扁平になる確率が非常に高いので、おっしゃられたようにまさしくマーちゃんの桃尻の美しい形は神が作りたもうた創造物と言っても過言ではないでしょうね。」。「もう、いい加減にしてください。」と松子は妻のお尻自慢を始めた亀次郎の暴走を制止しようとしたが、残りの四人が興味深そうに首を縦に振るのに気を良くしたのか、亀次郎は松子に、「ちょっと今大事なところだから。」と右手で松子の口を封じ、「ではマーちゃんの桃尻がどうして生み出されたかは皆さんは分かりますか。」四人に問うた。皆が首を横に振るのを見て亀次郎は満足そうに頷き、「マーちゃんのお尻は体形に比して大きいのですが、増してマーちゃんの腹横筋の動きが非常に活発ではないのかと私は推察します。腹横筋が活発に動くと腰の、」と言いながら亀次郎は自分の腰の後ろを指さした。「この部分に脂肪が付きにくくなります。つまりウエストラインに脂肪が付かず自然と美しい桃尻が生まれるのです。」。アツ子さんとミツ子さんが自分の後ろの腰に手を当てて脂肪の付き具合を確認し、ミツ子さんがアツ子さんに何か耳打ちしたが、口の形はやばいと動いていた。「理想的な桃尻はそれだけでも美しいのですが、歩くと更に美しく見えます。」と亀次郎は続けた。「上部から綺麗に割れた美しい桃の形のお尻は歩くとプリンプリンとクロスするように揺れて左右のお尻の盛り上がりが規則正しく円を描くようにポンピングしながら上下します。マーちゃんの歩く後ろ姿を始めて見た時、僕はあまりの美しく魅惑的なお尻の動きに気付いたら無意識にマーちゃんの後ろを付けていました。これは僕だけでなく、僕の気付いた限りマーちゃんとすれ違う男達の視線は必ずマーちゃんのお尻に向けられ、加えてそのうちの少なくない男達が無意識にホゥと呟いてしまう現実を踏まえると、先ほどおっしゃった、」とアツ子さんを見て、「美術品という評価は正しいものと言えるでしょう。」亀次郎はドヤ顔で言った。亀次郎の熱弁に皆はなんとも言えない顔でしばらく黙っていたが、「私はね。」ミツ子さんが口を開いた。「谷渡君が誠実な男だっていうのは分かっていたし、本当に松子ちゃんが好きなんだと言うから、お互い知らない同士が知り合うキッカケは何でも良いと思うと松子ちゃんに言って、谷渡君のお尻フェチをかばうようなことも言ったのだけど、ここまでくると応援して良かったのかどうか不安になるわ。」と気遣うような顔を松子に向けた。松子は亀次郎の妻として夫の暴走を制止しつつもなんとか奇人変人としての分類から夫を救い出さなければならないと焦った。「私はお尻のことは良くは分かりませんけど、私は何も取柄がない平凡な人間で、こんな私でも亀次郎さんが褒めてくれる所があるというのは嬉しいのですが、人様の前で言うことではないですよね。」やんわりと亀次郎をたしなめた。「でもお尻が人様の前にあるのも現実だしね。」とアツ子さんはワイングラスを傾けて、「いいんじゃないの。旦那様がこんなにも熱く自分の奥さんを語れるなんて素敵じゃない。日本の男って外向けには家の愚妻がとか、ひどいのになるとお見せするようなものじゃないとか言って絶対に褒めないじゃない。谷渡さんが堂々と奥さん自慢するのを聞いてると、松子ちゃんはこんなにも愛されているんだな、幸せそうだなと私はなんだかほっこりしちゃうのだよね。」。アツ子さんの意見は確かに正論ではあったが、皆は頷きながらも何かしっくり来ないなと感じていたのも事実であった。その引っ掛かりを松子が一言で明らかにした。「でも、褒めてくれるのお尻だけなんですよ。」。

 それまで聞き役に徹していた千鳥修一郎が口を開いたのは鳴門係長が2本目のワインを開けた後だった。「先ほどの谷渡さんの話なのですが、」と控えめに会話に割って入り、「もう少し詳しく聞きたいところがあるのですが。」亀次郎に目を向けると、亀次郎は待ってましたという感じで「腹横筋の話ですね。」と嬉しそうに言うのを「違います。」と冷徹に否定して、「松子さんの後ろ姿を男達が追いかけていたというような話があったと思うのですが。」と言うと、亀次郎は少し気まずそうに、「あぁ、それね。」と呟き、「まぁ、正確に言うと追いかけていたのは僕だけなのですが、男達の視線がマーちゃんのお尻に集まっていたのは事実で、美しい女性や可愛い女の子とすれ違うと、オッと思って振り返ったりしますよね。普通は、綺麗だなとか可愛いなという賞賛と言うか敬意の念で女性の後ろ姿を確認すると思うのですが、マーちゃんの場合は後ろ姿のチラ見ではなく、明らかに振り返る時間が長いと言うかお尻にへばりつく様な下卑た視線を集めていたのでハラハラしました。マーちゃんは単に歩いているだけなのに。」その時の記憶が蘇ったのか自分のストーカー紛いの行為を棚に上げて非難の声をあげた。修一郎は頷いて、「変な話ではなく真面目な話として聞いて頂きたいのですが。」と前置きして、「先ほどのアッちゃんの話の時にも少し思っていたのですが、谷渡さんの奥様のお尻ってひょっとして人を魅了して虜にする価値あるものじゃないかって考えていたんです。」と言って亀次郎をニンマリさせた。名前を出されたアツ子さんは、「私何か言ったかしら。」と呟いて「あぁ、美術品レベルのお尻ってことか、うん、それは保障する。」と言ってから、「それがどうしたの。」と修一郎に先を促した。「我々は今、仏の座商店街の集客力の向上というテーマでプロジェクト内で色々と検討していて、谷渡さんから見せて頂いたデータによると商店街の専用駐車場の設置により小さいながらも確実に上向きになってはいるのですが、そこには駐車場建設と言う少なからぬ投資が必要とされた訳です。でも、ひょっとしたらもっと安易かつ投資抜きに集客力を上げる方法があるんじゃないだろうかと思ったんです。」と修一郎は言葉を切った。「勿体ぶらないで教えてよ。」ミツ子さんが催促したら、アツ子さんが「松子ちゃんのお尻か。」と代弁した。「えっ、どういう事ですか?。」松子が訳の分からぬまま自分のお尻が話題にされていることに不満の表情を見せると、言葉に詰まった修一郎の代りにアツ子さんが言った。「要は、松子ちゃんがバニーガールみたいな恰好をして仏の座商店街をお尻を振りながら歩いたらスケベな男達がお尻見たさに集まってくる。加えて、松子ちゃんはプロジェクトリーダーの谷渡さんの奥さんなのだから無料で活用できますね。ということよ。さもしい男の考え付きそうな話よ。」アツ子さんは鼻で笑った。修一郎は苦笑して「バニーまでは考えていませんでしたけど、松子さんが艶やかな服で頻繁に商店街を歩いたら噂になって人が集まるんじゃないのかなと思い付いたもので、でも言われてみると、確かに、商店街におじさん達が集まっても仕方ないですね。余計な話でした。」と頭を下げると、「否。」とそれまで熱心にワインを飲んでいた鳴門係長が割って入ってきた。「俺は面白いと思う。谷渡の資料によると商店街の利用者は70%超えだっけ、」亀次郎に確認して、「高齢者が購買層を占めているんだ。利用世帯の世帯主の多くは既に退職していると考えられるが、今の高齢男性は働いている頃から比較的家事にも参加してきた人が多い。新規の買い物客として開拓するのも面白いし、仲の良い夫婦なら一緒に買い物に来て、ご主人が好きな酒のつまみを選んだり、趣味のものを買ったりすることも有ると思う。もちろん商店街も男性層に向けた品揃えを準備する努力をしてもらう必要もあるが手付かずの層からの利用客の増加という観点から見ると期待できると思う。加えて、吉村商店街連合会会長は松子ちゃんのファンだ、プロジェクトに松子ちゃんも参加して商店街の為にバニーとなって一肌脱ぎますと説明したら、一も二もなく鼻の下を伸ばして賛成すること間違いなしだな。」鳴門係長は話しながら、だんだんとこれはイケると確信を持ち始めたのか声に張りが出始めた。「何でアンタたちのために松子ちゃんがバニーにならなきゃいけないのよ。」ミツ子さんが非難の声を上げたが、鳴門係長の頭の中にはプロジェクトのストーリーが出来つつあるらしく「バニーは例えの話さ、ほんのちょっとセクシーな装いで商店街で普通に買い物をしてもらえれば良いんだ、コンセプトは、そうだな何故かセクシーな若妻と出会える商店街ってとこかな、どうだ、男なら行ってみたいと思うだろう。」と自分のアイデアに酔っているようだった。「馬鹿じゃないの。私が言いたいのは松子ちゃんが何故そんな下品なことまでしなきゃいけないのかってこと。」ミツ子さんは松子のために憤慨してくれた。「別に下品とは思わないのだけど。」と言いさして、「色々と商店街集客向上に向けて検討していて、それなりに効果がでそうなアイデアも出しているのだけど、投資を前提とした話には事務局長たる谷渡が商店街の足腰を弱めることになりかねないという屁理屈でウンと言わないんだよ。商店街振興プロジェクト自体白紙に戻すかって話も出ているんだ。この状況で事務局長の奥様である松子ちゃんに少しばかり協力を願っても罰が当たる話でもないだろう。」。鳴門係長の発言に皆それぞれ思うところがあるらしく暫く沈黙が続いた。松子も時折見せる亀次郎の考え込む姿を見るにつけ、プロジェクトが順風満帆という感じてはないのだろうなと思っていたが、白紙に戻すという話が出ているとは知らなかった。亀次郎さんも辛い立場なんだなと心配して亀次郎の顔をそっと伺うと亀次郎はにやけていた。不謹慎にも松子が商店街をバニーの格好でお尻を振りながら歩いている姿を想像しているのは間違いなかった。「それで、協力するとして松子ちゃんのインセンティブはどうなるの。」ミツ子さんは松子のマネージャーになったようなことを言い出したので、松子が慌てて口を挟もうとすると、アツ子さんが松子の袖を引っ張って「後でね。」と松子を止めた。えっとアツ子さんを見ると目が面白そうに笑っており、明らかにこの顛末を楽しんでいた。もう、この酔っ払い。と松子は心の中で毒づいた。もう知らない。
 「松子ちゃんに報酬を出すのは難しいかな。」鳴門係長は言った。「商店街連合会は谷渡の会社と既に業務委託契約を結んでいる。奥さんである松子ちゃんにプラス報酬を出すとなると契約改訂という手続きが必要となるのだけど、プロジェクト自体が何も進んでいない状況で事業費を増やすというのは、あの渋ちんの吉原会長ではかなり難しいだろうな。」。「じゃあ、松子ちゃんはボランティアでやらされるということなの。」ミツ子さんが非難すると、鳴門係長は「報酬的なものは出せないだろうけど、何か現物支給的なものは必要経費として交渉する余地はあるかな、例えば商店街を歩く際の洋服とかは連合会に請求するとかは可能かもしれない。」と言って、「その辺りは事務局長である谷渡の交渉次第かな。」と亀次郎に責任転嫁した。「なんだ、プロジェクトといっても実際のところ谷渡君と松子ちゃん夫婦に丸投げじゃないの、真面目に考える必要はないからね。」ミツ子さんは亀次郎に忠告した。亀次郎は松子のお尻とバニーのコラボに未練はあるようだったが、「そうですね、マーちゃん一人に負担を掛ける訳にもいかないし、買い物をする時間も限られるだろうから、正直一人だと集客効果を実感するまでは行かないと思いますね。」とやっとコンサルらしいまともなことを言ったので、どうなることかと内心ハラハラしていた松子は安堵の息を吐いた。その時、「ねぇ、ねぇ。服は自分で選んで良いの?。」アツ子さんが口を挟んできた。「好きなブランドの服を商店街が提供してくれるのなら私も松子ちゃんと一緒にやっても良いかな。仏の座商店街でお買い物すれば良いのだよね、簡単な話じゃない。」と結構ノリノリであった。「でも、アッちゃん。話によるとそれなりに際どい格好を要求されるみたいよ。」ミツ子さんがたしなめると、「そりゃ松子ちゃんのお尻とまではいかないにしても、足見せぐらいでなんとかならないかな。ほら。」と座ったままスカートを捲って白い太ももを見せた。三人の男の目がアツ子さんのすべっとしたなめらかな足に釘付けとなった。どうもアツ子さんは酔うと陽気になる質らしかった。「ミツ子さんも参加すれば良いじゃない。胸の谷間を強調すれば男達がぞろぞろ付いてくるわよ。」アツ子さんがキャハと笑った。「仮装大会をやろうというんじゃないから勘弁してくれよ。」鳴門係長が顔をしかめると、「ちょっと、失礼じゃない。松子ちゃんのお尻と全然熱量が違うじゃない。」とミツ子さんが亭主に文句を言って、「私なら買い物した時に割引して欲しいな。毎日の事だからすごく助かるわ。」と主婦らしい視点でがめつい事を言った。鳴門係長は、やれやれといった表情でミツ子さんに分からないように男達に肩をすくめて見せたが、修一郎はそれには反応せずに「いけるかも知れませんね。」と真面目な顔で言った。「美女が三人揃って参加して頂けるということになると、色香漂う美しい奥様達が買い物をする商店街という口コミが広がる可能性は高いです。そうなると女性心理として、私だって負けないという奥様達が美しさを競ってくれるかも知れない。先ほどおじさん達の集客と言いましたけど、そんなさもしい話でなく、イケている奥様達が買い物をする商店街というイメージが出来れば自然と集客力は上がるのではないでしょうか。」。アツ子さんが「私はまだ奥さんじゃないのに。」とブツブツ言ったが、鳴門係長は「確かに。」と頷いて、「色々と整理することもあるが検討の価値はあるな。」と修一郎の説明に納得した顔で、亀次郎に「谷渡、企画書の叩き台を作ってくれないか。奥さんたちの要望も入れつつ、少ない投資で効果が見込まれる点強調してくれ。企画書は支店長も見るからお尻の話は置いといてなるべく上品にな。吉原会長のお楽しみの部分は口頭でいいだろう。」と注文した。「だから私は奥さんじゃないって。」アツ子さんが唇を尖らす横で亀次郎は額に指を付けて悩む素振りであったが、「ちょっと形にしてみるか。」顔を上げるとやり手のコンサルタントの顔になっていた。「松子ちゃんのおかげでなんとかなりそうな気がしてきたよ。」鳴門係長からお礼を言われたが、良く考えると松子は特に何も言ってはいない。ただ、若住職たる修一郎の法力なのか、この時の松子は不思議にも妻として亀次郎の手助けができることに少なからぬ高揚感すら覚えていた。それから、松子が危惧したとおり、酔っぱらったアツ子さんはプロジェクトがスタートする段になって、覚えてないのよねぇと冷たい笑みで否定した。

 Ⅷ

 亀次郎が苦心して作成した企画書は千鳥修一郎のマーケティング分析も入り、斬新かつ濃厚なプロジェクトとして立鼎支店長も感心した内容となったらしい。実施に向けて最も難関と思われていた商店街連合会の吉原会長も最初こそ、「金が掛かる話は儂の一存ではなぁ。」と渋っていたらしいが、鳴門係長が、「三所信用金庫仏の座支店のアイドルだった松子ちゃんがなんとですね、ここだけの話ですが、実は・・・。」とかなり際どい話を耳打ちしたところ、吉原会長の表情が一気に緩み、「松子ちゃんのアレか。」と鼻の下が伸び、「松子ちゃんの頼みと言うことであれば儂も嫌とは言えんな。よろしい、商店街の連中には反対はさせんから積極的に、否、是非やって欲しい。」と前のめりに賛成したらしい。『仏の座商店街イメージアップによる集客倍増プロジェクト』と名付けられたプロジェクト名は、「最初は”倍”じゃなかったのだけど、鳴門君が、どうせおっさん達は表紙しか見ないのだから書いた者勝ちだって、と根拠なしに付け加えたんだ。」亀次郎は渋い顔だったが、松子は、亀次郎の企画で寂しかった仏の座商店街に買い物客が溢れる姿を思い描き、谷渡さんのおかげで商店街が生まれ変わりました。さすがは谷渡さんです。と立鼎支店長や吉原会長を始めとする関係者の皆から夫が賞賛されるように、妻として頑張らなきゃと、何をさせられるのか良く分からないまま気負い立っていた。
 「ミツ子さんが希望した3割引きでの買い物は何の問題もなく商店街の全店で受け入れて貰ったよ。」亀次郎の説明に、「全商品ですか。」と松子は驚いた。「こちらは食料品だけのつもりでお願いしたら、商店街全体のプロジェクトだから店に差は付けないでくれって逆にお願いされてしまったよ。」。松子は毎月の買い物額を素早く計算して、年間いくら浮くのか素早く計算してニンマリした。多分この時松子の目は¥マークになっていたはずだ。母の買い物も頼まれてあげても良いかなとずるい事も考えていた。抜け目なく買い物の割引を要求したミツ子さんの主婦としての抜け目のなさに感心した。「提供する洋服の経費についても認められはしたのだけどね。」亀次郎は続けた。「これは無制限という訳にもいかないから一応上限額を設定したのだけど、アツ子さんの希望するイタリアのなんとかいうブランド・・。」「ピンコですね。」アツ子さんから話は聞いていたので松子はすかさず教えてあげると、「そう、そのなんとかっていう服が結構値が張ってね。」。松子が危惧したとおり、食事会が終わって数日後に千鳥修一郎から鳴門係長に、「お姫様は不参加の意向のようです。」と連絡があり、その話を聞いたミツ子さんが、「あんたが自分も参加するって散々煽ったから、私も松子ちゃんも参加する羽目になったんでしょうが。何無責任なこと言ってるのよ。」と一緒に呼び出された松子を横にしてアツ子さんに激怒した。松子は自分が怒られているかのように体を小さくしていたが、アツ子さんは「覚えてないのよねぇ。」と気だるそうに言って、「で、どんな話だったの?」と内容を確認して、「修一郎に都合良く回されているだけじゃないの。」と万光寺の若住職の名を出して、「乗っかってしまったものは仕方ないか。ピンコで手を打つか。」と言って、「私ひとり者だから商店街で買うものなんてほとんどないのだけど。」と不満げに付け加えた。松子は、若住職がミツ子さんが怒ることを見越し、アツ子さんも職場の先輩であったミツ子さんには無下に逆らえないと計算して、アツ子さんのことを亀次郎ではなく鳴門係長に伝えたのかも知れないと思い当り、スマートな笑顔に隠された若住職のしたたかさに感心した。「それで私の服は自前で準備すれば良いのですね。」松子が亀次郎の話を先読みして、旦那様におねだりする気満々で言うと、亀次郎は首を横に振って、「本来であればマーちゃんとミツ子さんにも好きなブランドの服を選んでもらえれば良いのだけど、商店街連合会でプロジェクトの説明をしていたら中洲さんが、マーちゃんのためならウチも参加するよって協力を申し出てくれたんだ。ミツ子さんとマーちゃんの服については無償で提供してくれるらしいよ。」と商店街の中洲衣料店の店主の名前を上げた。「それで、マーちゃんに服を見て欲しいから一度店の方に来てくれないかと言われているのだけど、今週中にも訪ねてくれないか。僕も一緒に行きたいのだけど今色々立て込んでいてね。日時は僕の方から伝えておくから。」亀次郎は懸案がひとつ片付いたという安堵の表情であった。中洲衣料店は三所信用金庫仏の座支店の顧客であり、当然松子も存在は知ってはいたがどちらかと言うと商店街購買層に則った年配者向けの婦人服を並べている衣料品店で、アツ子さんが薄葉家のお姫様だとしても、ピンコとはあまりにも違うんじゃないのと松子がガッカリしたのも事実であった。
 「松子ちゃん待っていたんだよ。結婚して益々綺麗になったんじゃないの。」松子が無遠慮にニヤつく中洲衣料店の禿げ店主に迎えられたのは翌週になってからであった。亀次郎から話があった後、「松子ちゃんどうする?。なんなら松子ちゃんの服もアッちゃんのように希望するものを揃えるように亭主にねじ込もうか。」とミツ子さんから気遣いの電話があった。ミツ子さん本人は3割引きの買い物で満足しているようで、「服は貰えるものは貰って、気に入ったら着ることにするよ。」と割と無頓着であった。松子としてもピンコと中洲衣料店の婦人服のどちらに手を上げるかと問われれば秒でイタリアのブランドを選択するのは当たり前の話なのだが、亀次郎の手掛けるプロジェクトがやっと動き出した時点で妻である自分の我がままで水を差すのは避けるべきと思い直し、「私も気に入ったら着るようにしますから大丈夫です。」とミツ子さんの気遣いにお礼を言った。ただ、決して喜んではいませんよというささやかな意思表示もあり、少し間を開けて中洲衣料店に足を運んだのだった。「松子ちゃんに見て欲しいのはこれなんだ。」と店主が持ってきたのは予想外に服のカタログだった。「協力するよとは言ったものの、俺の店は年配者向けのものがほとんどでね、松子ちゃんみたいな若奥さんが着れるようなものはほとんど置いてないんだ。それで、取り寄せにしようと思ってね。松子ちゃんの好きな服を選んでくれないか。」とカタログを松子に渡した。アツ子さんと扱いが違うとちょっとむくれていた松子であったが、ちゃんとそれなりに考えてくれるのだと機嫌を直して、「ありがとうございます。お手数をお掛けします。」と笑顔を振りまいて渡されたカタログを開いた。実は表紙を見た時から違和感はあった。綺麗なナースさんが笑っていた。パラパラとめくるとメイドや制服を着たモデルさんのポーズが可愛らしかった。「あのー、これ、コスプレのカタログじゃないでしょうか。」松子は笑顔を強張らせた。「オリジナル・コスチュームって言って欲しいな。」衣料店の店主は強気にうそぶいた。「吉原会長から松子ちゃんがバニーになるそうだからと衣装を頼まれたのだけど、さすがにそんなことないだろうと信金の鳴門さんに確認したら、バニーは吉村会長の妄想と言うか冗談でしょうけど、松子ちゃんの希望も聞いて、なるべく人目を引く様なものをお願いしますと言われてさ、俺なりに色々と悩んで行きついたのがこれなんだよ。」と恩着せがましく言って、「良く見てよ、確かにコスプレもあるけど、イベント衣装やアイドル衣装それに事務・受付制服まで制作してくれるオーダーメイド制作のカタログなんだ。」と該当するページを示した。確かにメイド服は無茶だとは思うが、既製品に比べ少し丈は短いもののそれなりのデザインで可愛い服が多かった。「結構な値段なんだよ。」と店主は弾みを付けて、「松子ちゃん、いくつか気に入ったものを選んでみてよ。全部揃えるのは無理かもしれないけど、後は任せてもらってさ。」。松子とて亀次郎が中心となったプロジェクト成功のためには、それなりの覚悟を持って参加しているところであり、中洲衣料店が折角協力するというのを無下にするのも良くないなと思い直し、なるべくおとなし目の衣装をいくつか選んだ。「会長はバニーかもしれないけど、俺的には松子ちゃんはこれだと思うんだよね。」と禿げ店主はカタログをめくり、体操服のスクールブルマを履いた女の子の写真を指さした。松子は呆れつつも、卑わいにニヤつくセクハラ親父たちの捌きは仏の座支店勤務で散々訓練してきたところであり、「はい、はい。体操服は商店街で運動会をやるようになったら着させてもらいますね。」と軽くあしらった。それでも、これはどうだろう、それよりもこっちの方がと選んでいるうちに店主の事をおじさんと呼べるほどには親しくなっていた。注文サイズの目安を付けるためと採寸もされたが、おじさんはヒップ周りだけ熱心に2度3度と測り直していた。
 三週間程過ぎて、注文した服が届いたと中洲衣料店から連絡があった。オーダーメイドにしては仕上がりが早く、「ちょっとした直しは店でも出来るから。」といい加減なことも言われて在庫品の取り寄せであることは見え見えであった。今回は亀次郎も付いてきたそうな素振りではあったが、受け取るだけですからとお客さんの少なそうな午前中に松子一人で店を訪れた。中洲のおじさんは、「早速だけど中身を確認してくれるかい。」と小さめの段ボールを開け、「薄いポリエステルを使うとどうしても服が安っぽく見えてしまってね、なるべく綿とか厚手の素材にしてみたんだよ。」ときれいに梱包された服を接客用のテーブルに並べた。タイトとフレアのワンピースをいくつか選んでいたのだが、おじさんの趣味と見えるミニスカートも混じっていた。最後に体操着が出てきたのには驚いたが、主婦のゆとりで笑ってやり過ごした。「松子ちゃん、試着していってくれないか。」とおじさんは試着室を指さした。松子は店での試着は想像していなかったので、おもわず「えっ。」と声を漏らしたが、確かに補正をお願いしなければならない場合は二度手間になるなと思い直して、「じゃあちょっと着てみますね。」と服の包みを抱えて試着室に入った。この日、松子はエアパンツのいで立ちだったのだが、パンツを脱ぐ段になって、うかつにも今日のショーツがティバックだと気が付いたが、さほど重要な問題でもないかと思い直し、一番上にあるフレアワンピースを身に付けた。試着室にある姿見で確認するまでもなくスカートの丈は短かすぎて前はなんとか隠れそうだがちょっと前かがみになると後ろはお尻が出てしまいそうだった。「おじさん、短かすぎるよ。」松子が試着室から文句を言うと、「大丈夫だよ裾出しするから。」と呑気な声に続いて、「松子ちゃん、どのくらい出すか測るから見せてもらって良いかな。」とおじさんの声が近づいた。まぁ、測るぐらいは良いかと裾を気にして起立の姿勢のまま松子が試着室のカーテンを開けるとメジャーを持ったおじさんが居て、松子を舐めるように見ながらニヤついて、「ほぅ。松子ちゃん似合うじゃないか。丈もそのくらいで良いんじゃないの。」と顔を引いて遠くから見るような恰好をした。「駄目、駄目。これじゃ後ろ見えちゃうよ。」と松子が恥ずかしそうに言うと、「ちょっと後ろ向いてみて。」おじさんが当然のように言うので、松子は戸惑いながらも両手でお尻の裾を押さえて後ろを向いた。おじさんは腰を屈めながら、「松子ちゃん、それじゃ測れないよ。」と笑ったが、ここで手を外すかどうか松子にとっては大問題であった。松子がそのままの格好で固まっているので、おじさんは気を使ったのか、「これはそのままにしておいて、他のも着てみるかい。」と言ってくれたが、松子は覚悟を決めて、「大丈夫です。」と裾を押さえていた手を外した。当然のごとくお尻に弾かれてスカートの裾が上がり、解放されたお尻にひんやりとした風を感じた、屈んだおじさんからは松子の生尻がバッチリ見えているはずで、果たして、「ありゃ、本当にお尻丸出しだ。それにしても松子ちゃんのお尻は綺麗に割れてるなぁ。イヒヒッ。」降って沸いた幸運におじさんの声が裏返った。最後のイヒヒッはエロ親父の歓喜の叫びであった。「ちょっと測らさせてもらうよ。」と言っておじさんは近づいてきたが、お尻の双丘に荒い鼻息を感じ、正面の姿見で確認するとおじさんは顔を屈めて松子のスカートからはみ出した丸い桃尻をニヤニヤしながら覗き込んでいた。ちょっと、ちょっと、おじさん図々しいよと松子は呆れたが、アツ子さんが松子のお尻を評して、美術品なのだから観賞はしても良いのよと決めつけたことも思い出し、おじさんもこんなに喜んでいるのだから見るぐらいは許してあげるかと諦めの心境でいると、「測るよ。」とおじさんの弾んだ声が聞こえてスカートの裾が捲られた。あーぁ、お尻丸出しじゃないのと恥ずかしさで思わずお尻を振ると、おじさんも我慢できなかったのか、つられるように剥き出しになった松子の生尻をクルンと撫ぜた。その瞬間、松子は思い切り体を捻って、ピシャリとおじさんの手を激しく叩いた。「触るのは駄目。美術品は触るの厳禁でしょう。」松子が叱責すると、中洲のおじさんは驚いてそのまま後ろにひっくり返った。松子がどうだとばかりにわずかな布で隠されただけの桃尻を突きだすとおじさんは目を丸くして、叩かれた手を摩りながら、「確かに美術品です。」とコクコクと首を上下させて、「以後、触れないように気を付けます。」と神による造形美を前に自分の不埒な行為を反省した。松子と中洲のおじさんの間に、見るのは良いが触るのは厳禁という奇妙な防犯ルールが成立したことで、おじさんは真面目に補正箇所をメモしながらも役得で遠慮なく松子の桃尻を覗き込み、松子も姿見を前にして安心して試着を楽しみつつ、時にはサービスポーズでおじさんの粘っこい視線に応えてあげた。最後にお礼の意味も込めて体操服に着替えるとおじさんは松子のぴっちりブルマ姿にあらん限りの賞賛を与えてくれて、下着の提供を申し出てくれた。

 Ⅸ

 万光寺の若住職である千鳥修一郎が自身の結婚についてカミングアウトしたのは、修一郎がゲスト出演していた地方テレビ局のワイドショーにおいてであった。若住職が出ているなとテレビを見ていた松子は驚いて仕事中の亀次郎を大きな声でリビングに呼んだ。女性アナウンサーが、「そう言えば、千鳥さんは最近慶事がおありのようで。」とにこやかに話を振ると、「まぁ、慶事と言うかなんと言うか、無事入籍を済ませまして、人並みに家族持ちになりました。」とわざとらしく頭を掻いた。「どちらの方と?」とアナウンサーが三所市の女性を代表して興味津々に聞くと、「一般の女性です。と言うか、幼馴染ですから、色恋抜きというか、家と家の関係で収まるところに収まったというところでしょうか。」と女性ファンを刺激しない配慮か、色恋抜きという言葉を強調した。女性アナウンサーは、「皆様もご存じのように、千鳥さんは米国でMBAを修められて経済コメンテーターとしてご活躍ですが臨済宗万光寺の副住職という顔もお持ちであり、万光寺は・・、」と寺の歴史を簡単に紹介し、「これで万光寺の系譜が繋がり、種付け万光寺としての新たな歴史が始まりそうですね。」と全国放送は出来ないコメントで締めくくった。「これってアツ子さんと結婚したということですよね。」と松子が興奮すると、「何も聞いてないなぁ。急な話ですね。許嫁と言っていたからそうなんでしょうね。」と亀次郎は特に関心なさそうだった。アツ子さんに直接聞いて良いものだろうかと悩んで、そうだ、まずミツ子さんに聞いてみようと思い立ち、電話でワイドショーの話をするとミツ子さんも全然知らなかったみたいで、「ゲッゲッ」っと驚いて、「夜にでもアッちゃんに聞いてみるから待ってて。」と突撃レポーター役を気安く引き受けてくれた。
 「お待たせ。」ミツ子さんから電話があったのは夜の9時過ぎであり、今か今かと待っていた松子は携帯に飛びついた。「相変わらずテンションは低かったけど、入籍はしたらしいよ。」ミツ子さんが主格抜きで話すので、「アツ子さんが、お相手は若住職、間違いないですね。」と確認すると、ミツ子さんは、「刑事ドラマじゃないのだから。」と笑って、「間違いありません。」と報告口調になった。松子にとってアツ子さんと石清水さんは初めて大人の恋愛を感じさせてくれた理想のカップルであり、千鳥修一郎がアツ子さんを許嫁と紹介しても、二人は苦難を乗り越えて成就する恋愛なのだと意味もなく信じていただけにショックであった。「本当にアツ子さんがそう言ったのですか。」と松子がくどく確認すると、ミツ子さんは声のトーンを押さえて、「何なのよ。松子ちゃん何か隠してない?。」と勘鋭く疑いを向けられてしまった。「いえ、あまり急だったもので、ビックリして。それにアツ子さんあまり若住職との話に気乗りしてないようだったから。」とごまかすと、「確かに、幸せです嬉しいですって感じではなかったわね。」とミツ子さんも納得した様子で、「でも、あの子ツンデレだから。」と松子の知らなかったアツ子さんの一面も教えてくれた。「アッちゃんはなんというか、周りに馴染まないというか、難しい子でね。薄葉のお姫様と聞いて納得はしたのだけど、本音をなかなか漏らさない子なんだよね。でも若住職には平気で文句言っている。幼馴染というのはあるのだろうけども、最も安心できる相手だったということじゃないの。若住職のアッちゃんに対するご執心もかなりのものだしね。」。アツ子さんは美しくて、スタイルが良くて、品が良くて、仕事が出来て、松子の憧れだった。アツ子さんから声を掛けて貰えることがどんなに嬉しかったことか。私、若住職に嫉妬しているのかな?。おめでたい話なのに複雑な心境だった。「信用金庫もそのうち辞めるってさ。あの子がウェブデザイナーとして二足の草鞋履いていたのは結構有名な話だったから。結婚したら在宅ワークでのんびりするんじゃないの。」ミツ子さんは松子が知らなかったアツ子さんの話をポンポン撃ち込んでくる。確かに、アツ子さんの部屋にはデュアルモニターのパソコンがあった。深夜にフロアライトの明かりに照らされるモニターを睨むアツ子さんを想像すると格好良すぎる。トレンディドラマのヒロインじゃないのと呆れるぐらいだ。そんなアツ子さんが何故信用金庫に勤めていたのだろうという不思議はあって、ずっと後にアツ子さんに聞いた。アツ子さんは、「仏の座支店は私の居場所だったから。」と事も無げに言った。「深山さんが居て、松子ちゃんや皆が居て、私に居ていいよっていってくれる唯一の場所だったから。」トレンディドラマのワンシーンのようなセリフに松子が感動して涙したのは言うまでもない。「お式はまだですよね。」と言う松子に、「式はやるのらしいけど、アッちゃんのお母様のご威光で薄葉家のお輿入れの儀式みたいなものらしい。我々庶民が考えるチャラララーンとは違うみたい。本人の話だと閉所で色々なことをやらされると言っていた。それと披露宴は恥さらしになるから絶対にやらないと息巻いていた。もっとも万光寺の事情もあるだろうから、何もしない訳にはいかないだろうね。その時は私たちも招待されるんじゃない。」とミツ子さんはアツ子さんの意向も無視して期待していた。「それよりさぁ新居何処だと思う。猿山スカイマンションだよ。」と三所市に建つ唯一のタワーマンションの名を上げた。「買える訳ないでしょうとは言っていたけど、怪しいもんだね。賃貸でもウチの3倍ぐらいだよ。お姫様は違うわ。」と羨ましさと妬みを爆発させていた。「若住職は万光寺には住まないのですか。」と松子が驚くと、「実家には住まないことが条件だってさ。抹香臭いのは嫌だって言っていた。若住職はマンションから寺に出勤するらしいよ。」とミツ子さんは報告を終えた。現代に舞い降りた薄葉家のお姫様のお輿入れである。アツ子さんの打ち掛け姿は綺麗だろうな、どんな髪型にするのだろう。皇室の宮様みたいにするのかな。チラとでも良いから見せて欲しいなと松子は石清水ショックのことなどすっかり忘れてうっとりしていた。

 実は、『仏の座商店街イメージアップによる集客倍増プロジェクト』の効果はさっぱりであった。松子は日頃より仏の座商店街で買い物をしているので、出動率は三人のうち最も高く、主にミニのワンピースやミニスカートをコーデして可愛い奥様のイメージで商店街で買い物をした。なるべく人の目は気にしないように自然に振舞ってはいたが、確かに視線を感じることは多かった。だがその多くは松子ファンの商店街のおじさん達のちょっとエロい応援のための視線であり、なんだか商店街の福利厚生のためにやっているみたいな危惧もあった。それでもおじさん達は松子にちょこちょこ話しかけたりもしてくれるので、松子の周りはそれなりに活気があって商店街が賑やかになったのかもと思ったりもしたのだが、亀次郎が集計する日々の集客チャートは一向に動こうとしなかった。ミツ子さんもニットのサマーセーターでHカップの胸を揺らし、大胆な胸元カットソーで見事な谷間を見せておっぱい星人のおじさん達が巨乳を目当てにミツ子さんの周りにひしめいたが集客グラフはさっぱり動かなかった。毛利元就ではないが三本の矢の最後、三所信用金庫を寿退社してフリーとなり、気兼ねなくプロジェクトに参戦した薄葉公末裔の姫君アツ子さんが切り札として投入された。アツ子さんはなんとシースルーのピンコのパンツや片足を大胆に出したアシンメトリーワンピースで商店街を闊歩し、商店街が興奮のるつぼと化した結果、なんと集客チャートは大きく下振れし、グラフを見たアツ子さんは失望のあまり、「私がやると迷惑を掛けるだけ。」と以降の参加辞退を漏らす騒ぎとなった。この時点でプロジェクト開始から2カ月が経過しており、プロジェクトリーダーである亀次郎は事態を打開すべく再び鳴門夫妻と千鳥夫妻をスズシロタウンの自宅に招集したのであった。
 ホットプレートを前にしてそれぞれが小さいステンレスボールの中でお好み焼きの生地と刻みキャベツを掻きまわしていた。亀次郎がホットプレートの温度を確認して、「そろそろ良さそうですよ。」と嬉しそうに告げると、鳴門係長はカチャカチャと音を立てて、ホットプレートの上に生地を乗せ広げながら、「松子ちゃん、この前の料理とは随分違うね。」と配られた発泡酒の缶も見ながら不平を言った。「すいません。急な話で、何を出そうか迷ってしまって。宮島見物に行ったお隣さんからおたふくソースをお土産で頂いたもので。」松子が言い訳すると、鳴門係長は被せて、「千鳥君もさぁ、ご祝儀をたっぷり貰ったんだろう。なんで今日はワインじゃなくて発泡酒なの。」と地元ニュースにもなった万光寺の若住職と薄葉家の姫君の豪華な披露宴との落差を嘆いた。「見栄の張りあいだけの披露宴には恥ずかしくて呼べないの。結婚報告会に本当に大事な人達を招待するから、松子ちゃんは旦那様とそちらに出てね。」とアツ子さんから頼まれた松子は薄葉家のお姫様の打ち掛け姿を残念ながら見られなかった。「いやいや、見栄を張っちゃってかなりの持ち出しなんですよ。昨日たまたま檀家の方から発泡酒のケースを菓子折りの代りにいただいたので。」と修一郎は申し訳なさそうに言い足した。「ちょっと、あんたが広げすぎると皆の生地が乗らないじゃないの。」とミツ子さんに怒られた鳴門係長は、「あーぁ。上手く行かないものだねぇ。」とぼやいた。「お見苦しいもの見せちゃって、チャートダダ下がりだもの責任感じるなぁ。せめてミツ子さん並みに影響なしだと救われるのだけど。」アツ子さんがポツリと呟くと、「その言い方なんか棘があるね。」とミツ子さんが返し一触即発の雰囲気が漂った。「ミツ子さん、ここどうぞ。」と亀次郎は自分の生地を隅に寄せてミツ子さんが焼くスペースを提供しつつ、「まだ、2カ月ですからね。駐車場の時だって効果が目に見えるようになるまでにはそれなりに時間を要したんですよ。」とポジティブな雰囲気作りを試みたが、「負の効果はもう見えているじゃない。」アツ子さんのひと言で黙り込んだ。「あのー。」松子は控えめに会話に割り込んで、「ミツ子さんもアツ子さんも感じてはいると思うのですが、注目は集めていると思うのです。ただそれが集客に繋がっていないというか・・。」と言うと、「視線が痛い、痛い。」とミツ子さんが笑い、胸を持ち上げて大きなフォルムを誇った。「それで、私、もう少し短いスカートでも良いかなと思っていて。中洲衣料品店からもっと着丈を詰めたものも頂いているので。」とプロジェクトリーダーの妻としての覚悟を示すと、「じゃあ、私はノーブラで歩くか。」とミツ子さんが冗談とも本気とも付かないことを言い、発泡酒を飲んでいたアツ子さんが「私はノーパンね。」と薄葉家の黒歴史を作りかねないことを言って皆を驚かせた。「あのね。」と鳴門係長が両手を上げて、なんならヌードになろうかと言い出しかねないヒートした奥様達をなだめつつ、「コンセプトはイケている奥様達が買い物をする商店街のイメージを創ることなんだ。露出狂の奥様達が出没する商店街で変態を集めて買い物客が増える訳ないだろう。」鳴門係長にしては至極真っ当なことを言った。「そうですね。なんだかもう一歩なのに、というじれったい感じもあって焦ってしまいました。」松子が素直に反省すると、「見られる快感に目覚めつつあったのに残念だわ。」とミツ子さんが場を和ませた。「当人である松子ちゃんの感触を信じるとすると、素材は良いのだから後はどう料理するかという料理人の話だろう。」と鳴門係長は続けたが、直ぐに奥様達を食材に例えた失言に気が付き、「失礼。ぴったりとした表現がなかったもので。」とミツ子さんの顔を伺いながら、「こちらから打って出るというやり方もあると思うんだ。SNSを使って仏の座商店街でこんな素敵な奥様達を発見といった具合に話題を広めて効果を見てみたらどうだろう。PRを専門にする企業に頼んでも良いし、なんなら俺が発信しても良い。」と提案した。「駄目だ。」亀次郎が素早く反応した。「コンプライアンスの点から賛成できない。主催者が仕掛けたと発覚した場合に詐欺行為と非難されても仕方ないことになる。特にSNSを使う時は身バレを覚悟しておいた方が良い。それに無理に作られたブームは所詮一過性のもので長続きはしないんだよ。」。「あれも駄目、これも駄目。それも駄目。お前は後ろ向きなことしか言わないよな。」鳴門係長は亀次郎に毒づき、「MBA様の意見は?アメリカで折角マーケティングを勉強してきたんだろう。何かないの。」と三枚目のお好み焼きを熱心に焼く修一郎に振った。修一郎は、「美味しいですね。キャベツしか入っていないお好み焼きって人生始めて食べましたよ。本当に美味しいのでびっくりですよ。」と松子に向かってニッコリした後、鳴門係長に向かって、「運しかないですね。」と説法のごとく言った。「マーケティングって所詮後付けの理論なんですよ。何を作って何をすれば売れるのか分かっていたら誰も苦労はしませんよ。ある商品がバカ売れしたとして何故そこまで人気になったのかなんて企業の担当者も実は分からないのですよ。でも売れたのは事実だから理由を後付けで考えるのです。この客層にマッチさせたからだ、特別なPRをしたからだって、だから売れたのだって。それでマーケティングが優れているなんて勘違いすると次の商品はまったく売れない。何故売れたのかの一番の答えは、運が良かったから。逆に何故売れなかったのかは、運が悪かったから。これが一番しっくりくるんですよ。」。「じゃあ、どうすりゃ良いのよ。」と鳴門係長が頭を抱えると、「運気が上がるように加持祈祷でもやりましょうか。」と修一郎はステンレスボールの生地を掻きまわしながら言った。「いずれにしても、素材は良いのだから、」と亀次郎は言いかけて、慌てて、「ごめんなさい。」と奥様達に謝った後、「効果が現れることを信じて、もうしばらく今のやり方を続けましょう。大変でしょうが、もうしばらく我慢してください。」と三人の奥様達に向かって頭を深々と下げた。松子はプロジェクトリーダーの妻として率先して大きく頷き、ミツ子さんとアツ子さんはつられて小さく頷いた。この後、皆は若住職の法力のすごさを思い知ることとなる。

 プロジェクトにとって幸運だったのは、三所信用金庫仏の座支店の預金係の全面的支援が得られたことであった。深山係長にとっては、千鳥アツ子も谷渡松子も新採の時から一人前のテラーとして育て上げたいわば秘蔵っ子達であり、その二人が仏の座支店の融資拡大プロジェクトのためになり振り構わず奮闘する姿に黙っていられず、協力を申し出ることは自然の流れであった。深山係長と椋鳥シマ子は若い時に三所市のディスコ、モンキークイーンでバラバラ女王を競ったライバルであったらしく、この歳ではさすがにボディコンは無理だけどと言いつつも、ペンシルスカートに透けたブラウスの出で立ちにふんだんにゴールドをコーデするとノーブルな奥様が誕生し、仏の座商店街で買い物をするセレブ奥様を演出した。決定的だったのは、深山係長から、旦那様のためにお尻で奮闘する松子の話を聞いた駒掛ヒロ子が感激して、松子直伝のヒップアップ体操の成果を商店街で披露する一方で、伝説のお尻を持つ松子先輩に出会える商店街として三所商業高校OGのためのパワースポットとして仏の座商店街をインスタグラムで紹介し、松子先輩を超えるファッションで仏の座商店街を訪れれば玉の輿成就のミソロジーを誕生させてしまった。ヒロ子のインスタグラムの効果はてきめんで、松子がミニのワンピースで買い物に行くと、見せパン無双のミニや下尻丸見せマイクロショートパンツのギャルが、「松子先輩ですかぁ。キャァーッ。」と奇声を上げて群がり、「松子先輩。一緒に写真良いですかぁ。」と失礼にも松子の後ろ姿と共に写真を撮り、その画像を仏の座商店街ナウとSNSで拡散した。万光寺若住職の千鳥修一郎は頃合い良しとして、プロジェクト成功祈願を願って加持祈祷を行い、ローカルテレビ局は、燃え盛る炎を前に汗を飛ばしてサンスクリット語で祈願する修一郎の鬼気迫る様子を地元を愛するイケメン住職の感動秘話として特番で放送した。松子自身も確かに手ごたえはあった。ただプロジェクトの初期に感じた上滑り感はやっぱり感じていて、購買層の集客にどの程度の効果が出ているのか疑心暗鬼であった。松子が、あれっと違和感を感じたのはキャベツお好み焼きパーティから更に2か月を経過した頃であった。最初はお洒落な女の人がいるなぁと思う程度であったが、しばらくするとイケてる奥様達が目立つようになり、商店街はファッションコロシアムの様相を呈し始め、商店街はセンスの良い女性の買い物客が目に見えて増えた。連れて亀次郎の集客チャートは右型上がりの傾向に転じた。
 修一郎が「キャベツのお好み焼きをご馳走になって良いですか。」とひとりでふらりとスズシロタウンの家を訪れ、「完璧にバズりましたね。」とあきれ顔でいくつかのツイートを見せた。有名女優もフォローしており、つぶやきは明らかにアツ子さんのファッションを意識していた。「加持祈祷ありがとうございます。効果満点でしたね。」と亀次郎が笑うと、「苛めないでください。雨乞いは雨が降りそうだからやるのです。」と修一郎も笑った。「奥様が。」と松子を見て、「奥様が覚悟を決めた時点でこの結末は見えていましたよ。谷渡さんも分かっていたのでしょう。」と禅問答のようなことを言った。「マーちゃんと出会ったことで僕の運が良い方向に流れ始めたのは感じていました。今回の話はその中のほんの小さな出来事に過ぎないのです。」と亀次郎が誇らしげに言うと、修一郎は頷いて、「本当に福マ。」と言いかけて、「本当に福尻ってあるのですね。今回は僕も勝ち尻に乗らせていただけました。」とポカンとする松子に合掌をして「僕もアッちゃんを大事にして運を逃さないようにしますよ。」と松子に向かって言った。「もう転がり始めましたから、止めようと思っても止まりませんよ。」キャベツのお好み焼きをたらふく食べて若住職は帰っていった。亀次郎はそれでも慎重にチャートを睨んでいたがチャートが基礎ラインの倍を超えて更に伸びを示し始めると、「マーちゃん、僕やりました。」と静かに勝利宣言を妻の松子に告げた。

 松子は生まれてからの二十数年間自分を不幸せな女だと感じたことは一度もないが、取り立てて人より恵まれたものだと感じたこともない、いわゆる平凡かつ人並みな二十数年だった。松子は都会に憧れず地元に親しみ、自分を平凡な人間だと認識し、これからの生活も大きな変化が訪れないように望んでいた。仕事をちゃんとやり、周りから可愛がられて、しばらくしたら東京から来た変な男性から求婚され、タイの離島に新婚旅行に行き、実家の近くに住み、専業主婦となって旦那様と仲良く暮らす母みたいなスーパーの総菜を上手に使う主婦となることを望んでいた。次は赤ちゃんかな。松子は幸せだった。

 -松子の冒険- 三所信用金庫仏の座支店物語  -完-
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