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第1話 「地味な姉より可愛い妹がいい」と言われまして
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煌びやかなシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床を照らし出している。
王宮の大広間には、着飾った貴族たちの笑い声と、優雅なワルツの旋律が満ちていた。
香水の甘い香りと、グラスが触れ合う軽やかな音。
ここは王国の創立記念パーティー。国中から選ばれた高位貴族のみが参加を許される、一年で最も華やかな夜だ。
けれど、その光の輪の中に、私の居場所はなかった。
会場の隅、壁の花ですらない、給仕たちが控える影に近い場所。
私は一人、手にしたグラスの中の果実水をじっと見つめていた。
私の名前は、エルナ・フォレスティ。
この国の筆頭公爵家の長女であり、国を守る結界を維持する「聖女」の役割を担っている。
そして、この国の第一王子であるカイル殿下の婚約者でもあった。
あった、というのは、まだ過去形ではないはずなのだけれど。
私の視線の先、ホールの中央では、金色の髪を輝かせたカイル殿下が、一人の少女と親しげに踊っていた。
ピンクブロンドの緩やかな巻き髪。
砂糖菓子のように可愛らしい顔立ち。
男性の庇護欲をかき立てるような、上目遣いの甘い視線。
それは、私の義理の妹、ミューアだった。
殿下の腕に手を回し、楽しそうにクルクルと回る彼女は、まるで絵本から抜け出したお姫様のようだ。
対して私はどうだろう。
聖女の正装である、飾り気のない純白のローブ風ドレス。
腰まで伸びた髪は、ミューアのような明るい色ではなく、夜の闇を溶かしたような黒髪だ。
化粧も最低限、アクセサリーも聖女の誓いにより身につけることは許されていない。
地味な姉と、華やかな妹。
周囲の貴族たちが扇子で口元を隠しながら、私と彼らを交互に見比べている視線が痛いほど突き刺さる。
「……あら、お姉様。またそんな陰気な顔をして。せっかくのパーティーが台無しですわよ」
曲が終わり、カイル殿下にエスコートされて近づいてきたミューアが、鈴を転がすような声で言った。
その瞳には、隠しきれない優越感が浮かんでいる。
「ミューア、言葉を慎みなさい。エルナは疲れているだけだ」
カイル殿下がミューアを諌めるように言うが、その言葉には私への労りは微塵も感じられない。
むしろ、迷惑な荷物を見るような冷ややかな響きがあった。
「申し訳ありません、殿下。……連日の祈祷で、少し魔力を消耗しておりまして」
私は淑女の礼をとり、精一杯の強がりを口にする。
嘘ではなかった。
ここ数ヶ月、王国の周囲に発生する瘴気が濃くなり、私は寝る間も惜しんで結界の維持に努めていた。
食事を摂る時間すら惜しく、聖堂の冷たい石床に膝をつき、ひたすらに祈りを捧げる日々。
今日のパーティーだって、本当なら欠席したかった。
結界から離れることは、それだけ国の守りを薄くすることになるからだ。
でも、王太子の婚約者として、創立記念パーティーへの参加は義務だと強制されたのだ。
「ふん、またその言い訳か」
カイル殿下は鼻を鳴らし、不愉快そうに眉を寄せた。
「エルナ、君はいつもそうだ。公務だ、祈りだ、結界だと理由をつけて、私の誘いを断り続ける。私よりも、石の像に向かってブツブツと呟いている方が楽しいらしいな」
「そ、そのようなことはありません! 私は、聖女としての務めを……」
「務め、務め、務め! 聞き飽きた!」
殿下の怒声が響き渡り、周囲の喧騒が一瞬にして静まり返った。
音楽隊も演奏を止め、ホール中の視線が私たちに集まる。
カイル殿下は、私の言葉を遮るように手を振り上げた。
その横で、ミューアが怯えたふりをして殿下の腕にしがみつく。
「きゃっ、カイル様、落ち着いてくださいまし。お姉様だって、悪気があってなされているわけではありませんわ。ただ、少し……不器用で、愛想がないだけですもの」
「ミューア、君は優しすぎる。こんな可愛げのない女を庇うなんて」
殿下はミューアの頭を愛おしげに撫でると、一転して氷のような視線を私に向けた。
そして、大広間の全員に聞こえるような大声で宣言したのだ。
「エルナ・フォレスティ! 貴様との婚約を、今この時をもって破棄する!」
頭が真っ白になった。
婚約破棄。
その言葉の意味を理解するのに、数秒の時間を要した。
「……で、殿下? 今、なんと……」
「聞こえなかったのか? 婚約破棄だと言ったのだ。そして同時に、貴様から『聖女』の称号を剥奪する!」
会場がざわめきに包まれる。
聖女の称号剥奪。それは、建国以来一度も起きたことのない前代未聞の事態だった。
聖女は神託によって選ばれるものであり、王族といえども簡単に変更できるものではないはずだ。
「な、何を仰るのですか! 聖女の役目は、私が生まれた時から……」
「黙れ! 貴様のその陰気な態度、そして国民への愛の欠如。それが聖女にふさわしくないと判断したのだ!」
カイル殿下は一歩前に踏み出し、私を指差した。
「聖女とは、人々の心に希望の光を灯す存在だ。だが、貴様はどうだ? いつも暗い顔をして、聖堂に引きこもり、国民の前に姿を見せようともしない。そんなものが聖女と呼べるか!」
「それは……結界を維持するためには、聖堂の増幅装置から離れられないからです。私が離れれば、魔物たちが……」
「嘘をつくな!」
殿下の怒鳴り声に、私は肩を震わせた。
「調査団からの報告は上がっている! ここ数年、貴様が聖堂にこもっている間も、魔物の被害は減るどころか増えているとな! 貴様が祈っているふりをして、実際には何もしていないことは明白だ!」
そんな。
被害が増えているのは、瘴気の濃度が異常な速さで高まっているからだ。
私が祈りを捧げ、結界を張り続けているからこそ、この程度で済んでいるのに。
もし私が祈りを止めていたら、今頃王都は魔物の群れに飲み込まれているはずだ。
弁明しようと口を開きかけたが、それよりも早く、ミューアが声を上げた。
「お姉様、もう嘘はやめましょう? 私、知っていますの。お姉様が夜な夜な、怪しげな黒魔術の本を読んでいたこと」
「は……? ミューア、何を言って……」
「隠さなくてもいいんです! カイル様にもっと愛されたいからって、魅了の魔法を使おうとしていたんでしょう? でも、カイル様の愛は真実の愛だから、邪悪な魔法なんて効かなかったんです!」
ミューアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
その演技力の高さに、私は呆然とするしかなかった。
黒魔術? 魅了?
そんな暇があるなら、一分一秒でも長く眠りたいというのが本音だ。
私が読んでいたのは、古びた結界術の専門書だ。瘴気の浄化効率を上げる方法を模索するために。
しかし、周囲の反応は違った。
「まさか、黒魔術を……?」
「そういえば、あの方の髪の色、不吉な黒色だしね」
「妹君の言う通りかもしれないわ」
ひそひそという悪意ある囁きが、波のように広がっていく。
誰も、私が毎日どれだけの魔力を消費し、どれだけの痛みに耐えて国を守っているかなど知らないのだ。
彼らにとって聖女とは、ただニコニコと笑って手を振るだけのお飾りなのだから。
「聞け、皆の者!」
カイル殿下が勝ち誇ったように腕を広げた。
「真の聖女は、ここにいるミューアだ!」
その言葉に、会場から「おお……」という感嘆の声が漏れる。
「ミューアの周りには、いつも花が咲き乱れるような明るさがある。彼女が微笑むだけで、人々の心は癒され、勇気が湧いてくる。これこそが『聖なる力』ではないか! 魔力などという見えない数値ではなく、人々に愛される力こそが、聖女の証なのだ!」
殿下の無茶苦茶な理論に、私は眩暈がした。
聖女の結界術は、明確な魔力操作と高度な術式によって成り立つものだ。
愛嬌や笑顔で魔物は撃退できない。
「可愛いから聖女」だなんて、そんな馬鹿げた話が通じるわけが……。
「素晴らしい! カイル殿下万歳! 新聖女ミューア様万歳!」
通じてしまった。
会場の貴族たちが、一斉に拍手を送り始めたのだ。
彼らは皆、私の陰気さよりも、ミューアの華やかさを選んだ。
あるいは、次期国王であるカイル殿下に逆らうことを恐れたのか、単にミューアの愛らしさに目が眩んだのか。
「お姉様……ごめんなさい。でも、これが運命なんですの」
ミューアが私の耳元で、周りには聞こえないような小声で囁いた。
その口元は、三日月のように歪に笑っている。
「お姉様が真面目に祈っている間、私はカイル様とたくさんお話しして、たくさんデートして、心のケアをしてあげましたの。努力の方向を間違えましたわね、お姉様」
彼女は再びパッと離れると、悲劇のヒロインのような顔を作った。
「カイル様、お姉様をあまり責めないであげてください。きっと、才能のない自分が惨めだっただけなんです」
「ああ、ミューア。君はどこまで心が清らかなんだ。……それに比べて、姉の方は」
カイル殿下は私を見下ろし、冷酷な宣告を下した。
「エルナ・フォレスティ。貴様は聖女の名を汚し、王家を欺いた大罪人だ。本来なら極刑に処すところだが、長年のよしみで命だけは助けてやる」
殿下の指が、北の方角を指し示した。
「北の果て、極寒の地『ノースエンド』へ追放する! あそこを治める辺境伯……いや、『呪われ公爵』レオンハルトのもとへ嫁ぐがいい!」
会場が、先ほどとは違う種類のざわめきに包まれた。
レオンハルト・アイスバーン公爵。
王国の北限を守護する公爵家の当主でありながら、その体に強力な呪いを宿していると噂される男。
彼に近づく者は凍りつき、その城には生きた人間は一人もいないと言われている。
「氷の魔物」「歩く災害」と恐れられる人物だ。
そこへ嫁げということは、実質的な死刑宣告に等しい。
魔獣が跋扈する極寒の地で、呪われた公爵の生贄になれということだ。
「……本気、なのですか?」
震える声で尋ねる私に、カイル殿下は嘲笑で答えた。
「当然だ。あの呪われ公爵には、以前から嫁の貰い手がいなくて困っていたからな。陰気な元聖女がお似合いだろう。感謝しろ、最後に王家の役に立てるのだから」
「おめでとうございます、お姉様! 公爵夫人だなんて、素敵ですわ!」
ミューアが無邪気を装って手を叩く。
私の心の中で、何かがプツンと切れる音がした。
悲しみではない。怒りでもない。
それは、憑き物が落ちたような、奇妙な虚脱感と……安堵だった。
ああ、もういいんだ。
毎日毎日、身を削るようにして魔力を絞り出し、吐血しながら祈り続ける日々。
「地味だ」「暗い」と罵られながら、それでも国の平穏のために尽くしてきた義務。
それらすべてから、解放されるんだ。
私はゆっくりと顔を上げた。
殿下が期待していたような、泣き叫ぶ姿も、許しを請う姿も見せない。
背筋を伸ばし、真っ直ぐにカイル殿下とミューアを見据える。
「……承知いたしました。その命、謹んでお受けいたします」
私の静かな声に、カイル殿下が少しだけ眉を動かした。
取り乱すと思っていたのだろう。
「ただし、一つだけ訂正させていただきます」
「な、なんだ?」
「私は、祈っている『ふり』などしておりません。私がこの場を去れば、王都を覆う結界は消滅します。その意味を、どうかお忘れなきよう」
「はっ! まだそんなハッタリを! ミューアがいれば結界など造作もないことだ。さっさと失せろ!」
衛兵たちが私の両脇を掴む。
私は抵抗せず、そのまま引き立てられていった。
大広間の扉が開かれ、冷たい夜風が吹き込んでくる。
最後に一度だけ、私は振り返った。
煌びやかなシャンデリアの下、新しい聖女を抱き寄せて笑う愚かな王子。
そして、彼らを祝福する盲目な貴族たち。
彼らの目には見えていないのだろうか。
王城の窓の外、夜空の向こうから、どす黒い靄のようなものが、ゆっくりと、しかし確実に王都へと降下してきているのが。
あれは、高密度の瘴気だ。
私の祈りが途絶えたことで、上空の結界に亀裂が入ったのだ。
「……さようなら」
私は小さく呟いた。
もう、私の知ったことではない。
これからは、あの可愛らしい妹が、その「愛される力」とやらで国を守ればいいのだ。
まあ、あの程度の魔力では、蚊一匹防ぐこともできないだろうけれど。
私は衛兵に押され、馬車へと乗り込んだ。
目指すは北の果て。
死と呪いが支配すると言われる、氷の公爵領。
不思議と、恐怖はなかった。
この温かくも冷酷な王都にいるよりは、凍てつく地の方が、よほど清々しい気がしていたからだ。
馬車が動き出す。
窓から見える王城が、次第に遠ざかっていく。
その輝きが、今まさに燃え尽きようとする蝋燭の灯火のように見えたのは、私の皮肉な心がさせた錯覚だったのだろうか。
こうして私は、国を捨て、名を捨て、北へと旅立った。
そこで待っているのが、予想もしなかった溺愛と、本当の幸せだとは、まだ知る由もなく。
(第1話 完)
王宮の大広間には、着飾った貴族たちの笑い声と、優雅なワルツの旋律が満ちていた。
香水の甘い香りと、グラスが触れ合う軽やかな音。
ここは王国の創立記念パーティー。国中から選ばれた高位貴族のみが参加を許される、一年で最も華やかな夜だ。
けれど、その光の輪の中に、私の居場所はなかった。
会場の隅、壁の花ですらない、給仕たちが控える影に近い場所。
私は一人、手にしたグラスの中の果実水をじっと見つめていた。
私の名前は、エルナ・フォレスティ。
この国の筆頭公爵家の長女であり、国を守る結界を維持する「聖女」の役割を担っている。
そして、この国の第一王子であるカイル殿下の婚約者でもあった。
あった、というのは、まだ過去形ではないはずなのだけれど。
私の視線の先、ホールの中央では、金色の髪を輝かせたカイル殿下が、一人の少女と親しげに踊っていた。
ピンクブロンドの緩やかな巻き髪。
砂糖菓子のように可愛らしい顔立ち。
男性の庇護欲をかき立てるような、上目遣いの甘い視線。
それは、私の義理の妹、ミューアだった。
殿下の腕に手を回し、楽しそうにクルクルと回る彼女は、まるで絵本から抜け出したお姫様のようだ。
対して私はどうだろう。
聖女の正装である、飾り気のない純白のローブ風ドレス。
腰まで伸びた髪は、ミューアのような明るい色ではなく、夜の闇を溶かしたような黒髪だ。
化粧も最低限、アクセサリーも聖女の誓いにより身につけることは許されていない。
地味な姉と、華やかな妹。
周囲の貴族たちが扇子で口元を隠しながら、私と彼らを交互に見比べている視線が痛いほど突き刺さる。
「……あら、お姉様。またそんな陰気な顔をして。せっかくのパーティーが台無しですわよ」
曲が終わり、カイル殿下にエスコートされて近づいてきたミューアが、鈴を転がすような声で言った。
その瞳には、隠しきれない優越感が浮かんでいる。
「ミューア、言葉を慎みなさい。エルナは疲れているだけだ」
カイル殿下がミューアを諌めるように言うが、その言葉には私への労りは微塵も感じられない。
むしろ、迷惑な荷物を見るような冷ややかな響きがあった。
「申し訳ありません、殿下。……連日の祈祷で、少し魔力を消耗しておりまして」
私は淑女の礼をとり、精一杯の強がりを口にする。
嘘ではなかった。
ここ数ヶ月、王国の周囲に発生する瘴気が濃くなり、私は寝る間も惜しんで結界の維持に努めていた。
食事を摂る時間すら惜しく、聖堂の冷たい石床に膝をつき、ひたすらに祈りを捧げる日々。
今日のパーティーだって、本当なら欠席したかった。
結界から離れることは、それだけ国の守りを薄くすることになるからだ。
でも、王太子の婚約者として、創立記念パーティーへの参加は義務だと強制されたのだ。
「ふん、またその言い訳か」
カイル殿下は鼻を鳴らし、不愉快そうに眉を寄せた。
「エルナ、君はいつもそうだ。公務だ、祈りだ、結界だと理由をつけて、私の誘いを断り続ける。私よりも、石の像に向かってブツブツと呟いている方が楽しいらしいな」
「そ、そのようなことはありません! 私は、聖女としての務めを……」
「務め、務め、務め! 聞き飽きた!」
殿下の怒声が響き渡り、周囲の喧騒が一瞬にして静まり返った。
音楽隊も演奏を止め、ホール中の視線が私たちに集まる。
カイル殿下は、私の言葉を遮るように手を振り上げた。
その横で、ミューアが怯えたふりをして殿下の腕にしがみつく。
「きゃっ、カイル様、落ち着いてくださいまし。お姉様だって、悪気があってなされているわけではありませんわ。ただ、少し……不器用で、愛想がないだけですもの」
「ミューア、君は優しすぎる。こんな可愛げのない女を庇うなんて」
殿下はミューアの頭を愛おしげに撫でると、一転して氷のような視線を私に向けた。
そして、大広間の全員に聞こえるような大声で宣言したのだ。
「エルナ・フォレスティ! 貴様との婚約を、今この時をもって破棄する!」
頭が真っ白になった。
婚約破棄。
その言葉の意味を理解するのに、数秒の時間を要した。
「……で、殿下? 今、なんと……」
「聞こえなかったのか? 婚約破棄だと言ったのだ。そして同時に、貴様から『聖女』の称号を剥奪する!」
会場がざわめきに包まれる。
聖女の称号剥奪。それは、建国以来一度も起きたことのない前代未聞の事態だった。
聖女は神託によって選ばれるものであり、王族といえども簡単に変更できるものではないはずだ。
「な、何を仰るのですか! 聖女の役目は、私が生まれた時から……」
「黙れ! 貴様のその陰気な態度、そして国民への愛の欠如。それが聖女にふさわしくないと判断したのだ!」
カイル殿下は一歩前に踏み出し、私を指差した。
「聖女とは、人々の心に希望の光を灯す存在だ。だが、貴様はどうだ? いつも暗い顔をして、聖堂に引きこもり、国民の前に姿を見せようともしない。そんなものが聖女と呼べるか!」
「それは……結界を維持するためには、聖堂の増幅装置から離れられないからです。私が離れれば、魔物たちが……」
「嘘をつくな!」
殿下の怒鳴り声に、私は肩を震わせた。
「調査団からの報告は上がっている! ここ数年、貴様が聖堂にこもっている間も、魔物の被害は減るどころか増えているとな! 貴様が祈っているふりをして、実際には何もしていないことは明白だ!」
そんな。
被害が増えているのは、瘴気の濃度が異常な速さで高まっているからだ。
私が祈りを捧げ、結界を張り続けているからこそ、この程度で済んでいるのに。
もし私が祈りを止めていたら、今頃王都は魔物の群れに飲み込まれているはずだ。
弁明しようと口を開きかけたが、それよりも早く、ミューアが声を上げた。
「お姉様、もう嘘はやめましょう? 私、知っていますの。お姉様が夜な夜な、怪しげな黒魔術の本を読んでいたこと」
「は……? ミューア、何を言って……」
「隠さなくてもいいんです! カイル様にもっと愛されたいからって、魅了の魔法を使おうとしていたんでしょう? でも、カイル様の愛は真実の愛だから、邪悪な魔法なんて効かなかったんです!」
ミューアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
その演技力の高さに、私は呆然とするしかなかった。
黒魔術? 魅了?
そんな暇があるなら、一分一秒でも長く眠りたいというのが本音だ。
私が読んでいたのは、古びた結界術の専門書だ。瘴気の浄化効率を上げる方法を模索するために。
しかし、周囲の反応は違った。
「まさか、黒魔術を……?」
「そういえば、あの方の髪の色、不吉な黒色だしね」
「妹君の言う通りかもしれないわ」
ひそひそという悪意ある囁きが、波のように広がっていく。
誰も、私が毎日どれだけの魔力を消費し、どれだけの痛みに耐えて国を守っているかなど知らないのだ。
彼らにとって聖女とは、ただニコニコと笑って手を振るだけのお飾りなのだから。
「聞け、皆の者!」
カイル殿下が勝ち誇ったように腕を広げた。
「真の聖女は、ここにいるミューアだ!」
その言葉に、会場から「おお……」という感嘆の声が漏れる。
「ミューアの周りには、いつも花が咲き乱れるような明るさがある。彼女が微笑むだけで、人々の心は癒され、勇気が湧いてくる。これこそが『聖なる力』ではないか! 魔力などという見えない数値ではなく、人々に愛される力こそが、聖女の証なのだ!」
殿下の無茶苦茶な理論に、私は眩暈がした。
聖女の結界術は、明確な魔力操作と高度な術式によって成り立つものだ。
愛嬌や笑顔で魔物は撃退できない。
「可愛いから聖女」だなんて、そんな馬鹿げた話が通じるわけが……。
「素晴らしい! カイル殿下万歳! 新聖女ミューア様万歳!」
通じてしまった。
会場の貴族たちが、一斉に拍手を送り始めたのだ。
彼らは皆、私の陰気さよりも、ミューアの華やかさを選んだ。
あるいは、次期国王であるカイル殿下に逆らうことを恐れたのか、単にミューアの愛らしさに目が眩んだのか。
「お姉様……ごめんなさい。でも、これが運命なんですの」
ミューアが私の耳元で、周りには聞こえないような小声で囁いた。
その口元は、三日月のように歪に笑っている。
「お姉様が真面目に祈っている間、私はカイル様とたくさんお話しして、たくさんデートして、心のケアをしてあげましたの。努力の方向を間違えましたわね、お姉様」
彼女は再びパッと離れると、悲劇のヒロインのような顔を作った。
「カイル様、お姉様をあまり責めないであげてください。きっと、才能のない自分が惨めだっただけなんです」
「ああ、ミューア。君はどこまで心が清らかなんだ。……それに比べて、姉の方は」
カイル殿下は私を見下ろし、冷酷な宣告を下した。
「エルナ・フォレスティ。貴様は聖女の名を汚し、王家を欺いた大罪人だ。本来なら極刑に処すところだが、長年のよしみで命だけは助けてやる」
殿下の指が、北の方角を指し示した。
「北の果て、極寒の地『ノースエンド』へ追放する! あそこを治める辺境伯……いや、『呪われ公爵』レオンハルトのもとへ嫁ぐがいい!」
会場が、先ほどとは違う種類のざわめきに包まれた。
レオンハルト・アイスバーン公爵。
王国の北限を守護する公爵家の当主でありながら、その体に強力な呪いを宿していると噂される男。
彼に近づく者は凍りつき、その城には生きた人間は一人もいないと言われている。
「氷の魔物」「歩く災害」と恐れられる人物だ。
そこへ嫁げということは、実質的な死刑宣告に等しい。
魔獣が跋扈する極寒の地で、呪われた公爵の生贄になれということだ。
「……本気、なのですか?」
震える声で尋ねる私に、カイル殿下は嘲笑で答えた。
「当然だ。あの呪われ公爵には、以前から嫁の貰い手がいなくて困っていたからな。陰気な元聖女がお似合いだろう。感謝しろ、最後に王家の役に立てるのだから」
「おめでとうございます、お姉様! 公爵夫人だなんて、素敵ですわ!」
ミューアが無邪気を装って手を叩く。
私の心の中で、何かがプツンと切れる音がした。
悲しみではない。怒りでもない。
それは、憑き物が落ちたような、奇妙な虚脱感と……安堵だった。
ああ、もういいんだ。
毎日毎日、身を削るようにして魔力を絞り出し、吐血しながら祈り続ける日々。
「地味だ」「暗い」と罵られながら、それでも国の平穏のために尽くしてきた義務。
それらすべてから、解放されるんだ。
私はゆっくりと顔を上げた。
殿下が期待していたような、泣き叫ぶ姿も、許しを請う姿も見せない。
背筋を伸ばし、真っ直ぐにカイル殿下とミューアを見据える。
「……承知いたしました。その命、謹んでお受けいたします」
私の静かな声に、カイル殿下が少しだけ眉を動かした。
取り乱すと思っていたのだろう。
「ただし、一つだけ訂正させていただきます」
「な、なんだ?」
「私は、祈っている『ふり』などしておりません。私がこの場を去れば、王都を覆う結界は消滅します。その意味を、どうかお忘れなきよう」
「はっ! まだそんなハッタリを! ミューアがいれば結界など造作もないことだ。さっさと失せろ!」
衛兵たちが私の両脇を掴む。
私は抵抗せず、そのまま引き立てられていった。
大広間の扉が開かれ、冷たい夜風が吹き込んでくる。
最後に一度だけ、私は振り返った。
煌びやかなシャンデリアの下、新しい聖女を抱き寄せて笑う愚かな王子。
そして、彼らを祝福する盲目な貴族たち。
彼らの目には見えていないのだろうか。
王城の窓の外、夜空の向こうから、どす黒い靄のようなものが、ゆっくりと、しかし確実に王都へと降下してきているのが。
あれは、高密度の瘴気だ。
私の祈りが途絶えたことで、上空の結界に亀裂が入ったのだ。
「……さようなら」
私は小さく呟いた。
もう、私の知ったことではない。
これからは、あの可愛らしい妹が、その「愛される力」とやらで国を守ればいいのだ。
まあ、あの程度の魔力では、蚊一匹防ぐこともできないだろうけれど。
私は衛兵に押され、馬車へと乗り込んだ。
目指すは北の果て。
死と呪いが支配すると言われる、氷の公爵領。
不思議と、恐怖はなかった。
この温かくも冷酷な王都にいるよりは、凍てつく地の方が、よほど清々しい気がしていたからだ。
馬車が動き出す。
窓から見える王城が、次第に遠ざかっていく。
その輝きが、今まさに燃え尽きようとする蝋燭の灯火のように見えたのは、私の皮肉な心がさせた錯覚だったのだろうか。
こうして私は、国を捨て、名を捨て、北へと旅立った。
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(第1話 完)
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設定かなりゆるゆる?
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