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Chapter.82
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「ただいまー」
21時過ぎに帰宅してリビングのドアを開けた攷斗は、「あれ?」と小さく声を出す。
電気は点いているのに誰もいない。
リビングへ来る途中にあるトイレや浴室の明り取りから光は漏れていなかった。
不思議に思い室内に入ると、ソファの上でひぃなが体を丸め、眠っていた。
(猫みたい)
フッと笑顔が浮かぶ。寝顔を見ようと正面に回り込んで、攷斗が息を詰まらせた。
ひぃなの肌に伝わる数本の涙を見たからだ。
悲しい夢を見ているのか、涙はこうしている間にも新たに流れ落ちている。起こそうか迷ってやめて、床に座って頭を撫でる。
二度、三度。
その動きに誘導されたように、ひぃながゆっくり瞼を開けた。まぶしそうに細めた間から、焦点の合わない瞳が攷斗を見つめる。
「おはよう。起こしてごめん」
小さく言うと、ひぃなは眠たそうにゆっくりとまばたきを繰り返し、覚醒しない声で話し始めた。
「…ごめんなさい…ごはん…まだ……」
「大丈夫、食べてきたから。帰るの遅くなってごめん」
「せんたくも、まだ、できてない……」
「大丈夫。俺がやるから」
「ごめん…なさい…」
幼い子供のような口調で、ひぃなが新たに涙を流した。どうやら寝ぼけているようだ。
「別にいいんだって、甘えて。頼ってもらえるように色々がんばってるんだからさ」
「うん……」
かすれた、甘えるような、聞いたことのない声色が耳をくすぐる。
頭を撫でながらふと気付く。
「もしかして、熱、ある?」
おでこに手を当てると、さほど冷たくない手のひらに熱を感じた。頬も熱い。
そういえば二、三日前に、丁度良い味付けの料理を薄いと言っていた。そのときから熱があったのだろうか。
「ベッド行こう。そんで、熱計ろう? 起きれる?」
「ん」
ゆっくりと身体を起こすが、少し揺れている。
支えるようにして立ち上がらせる。薄いシャツ越しに触れる身体が熱い。
「部屋、入るね」
引っ越し当日以来のひぃなの部屋は、とても綺麗に使われている。
ベッドに横たわらせて、「すぐ戻る」とリビングへ移動した。確か付き合いで入れた置き薬の救急箱がどこかにあるはずだ。納戸をのぞいてすぐに見つける。中を漁って体温計と風邪薬を、冷蔵庫から常備している冷却シートとミネラルウォーターを取り出してひぃなの部屋に戻った。
まぶたをとじてベッドの上で丸まっているひぃなに、そっと声をかける。
「ひな。起きてる?」
手際よく冷却シートのフィルムを剥がしながら攷斗が問う。
「……ん」
頬を赤く染めて、うつろな瞳で攷斗を捉えるひぃなの髪を流して、おでこにシートを貼り付けた。
「体温計、持ってきたけど……」
ケースから取り出して電源を入れるが、受け取る気配がない。
「ちょっと…ごめん……」
シャツのボタンをいくつか外して、隙間から滑り込ませて体温計を脇に挟む。
なるべく見ないようにしているが、やはりどうしてもその内部は見えてしまう。幸い、というかなんというか、シャツの下にキャミソールを着ていたので、下着は見えない。
腕を閉じて、正確に熱が測れるようにする。
(ちょっとこれ、なんの拷問)
同居以前からだが、同居してから更に忍耐力を鍛えさせられている攷斗には、目の前のひぃなが甘い果実のように思えてならない。
(いやいや、相手は病人だよ)
ペットボトルのキャップを開け、薬の用意をしてからベッドの側面を背もたれに床に座る。
本棚にはファッション誌や少しの漫画と一緒に、ビジネス文書作成や経理、ペン習字のテキストが並んでいる。
(がんばってんだな)
ピピピピッ、と同じ感覚で何度かアラームが鳴る。体温を計測出来た合図だ。
「何度もごめんね」
入れたときと逆の手順で体温計を抜き取る。40度近い数字が表示されていて、ちょっとぎょっとする。
(よく耐えてたな)
「やっぱ熱あるね。薬飲んでほしいんだけど、ご飯なんか食べた?」
ひぃながゆっくりと首を横に振る。
「食欲ある?」
再度、同じ動き。
(うーん、まぁしょうがないか……)
「そのままだとつらいだろうから、薬飲もう?」
ベッドに乗り、ひぃなの身体を抱きかかえ上半身を起こす。自分の身体を支えにひぃなの身体を固定した。
「手、借りるね」
背後からひぃなの手を持ち上げ、ひぃなの手のひらに錠剤を落とす。
「飲める?」
子供に投げかけるような優しい口調で攷斗が問いかけ、ひぃなの顔を覗き込む。
「ん……」
力の入らない身体を攷斗に預けたまま、おぼつかない手つきで口に入れた。攷斗が支えるペットボトルを両手で持って、水で薬を流し込む。
「着替えられる? そのままだと寝づらいよね」
ゆっくりと、うなだれるようにうなずいたので、ひぃなを寝かせてクロゼットからいつも着ている部屋着を出して渡した。
「今日はこっちで寝るね。布団持ってくるから、着替えてて。ゆっくりでいいから」
テキパキこなさないと邪念が湧いてきそうで、ついつい口調が紋切り型になってしまう。
「気分悪くなったらすぐ教えてね」
攷斗が部屋から出ると、ひぃなは怠い身体をもそもそと動かして着替えを始める。そこに自我はあまりない。ただぼんやりと、そう言われたからそうする、という信号が脳から体に伝達しているような感覚。
シャツとスカート、少し汗ばんだ肌に張り付くストッキングを脱ぎ、ベッドの足元にまとめて置いた。枕元に置かれた部屋着に着替えて座ったままうつらうつらしていると、
「ひなー。入るよー」
攷斗の声が聞こえ、少ししてから入室した。
21時過ぎに帰宅してリビングのドアを開けた攷斗は、「あれ?」と小さく声を出す。
電気は点いているのに誰もいない。
リビングへ来る途中にあるトイレや浴室の明り取りから光は漏れていなかった。
不思議に思い室内に入ると、ソファの上でひぃなが体を丸め、眠っていた。
(猫みたい)
フッと笑顔が浮かぶ。寝顔を見ようと正面に回り込んで、攷斗が息を詰まらせた。
ひぃなの肌に伝わる数本の涙を見たからだ。
悲しい夢を見ているのか、涙はこうしている間にも新たに流れ落ちている。起こそうか迷ってやめて、床に座って頭を撫でる。
二度、三度。
その動きに誘導されたように、ひぃながゆっくり瞼を開けた。まぶしそうに細めた間から、焦点の合わない瞳が攷斗を見つめる。
「おはよう。起こしてごめん」
小さく言うと、ひぃなは眠たそうにゆっくりとまばたきを繰り返し、覚醒しない声で話し始めた。
「…ごめんなさい…ごはん…まだ……」
「大丈夫、食べてきたから。帰るの遅くなってごめん」
「せんたくも、まだ、できてない……」
「大丈夫。俺がやるから」
「ごめん…なさい…」
幼い子供のような口調で、ひぃなが新たに涙を流した。どうやら寝ぼけているようだ。
「別にいいんだって、甘えて。頼ってもらえるように色々がんばってるんだからさ」
「うん……」
かすれた、甘えるような、聞いたことのない声色が耳をくすぐる。
頭を撫でながらふと気付く。
「もしかして、熱、ある?」
おでこに手を当てると、さほど冷たくない手のひらに熱を感じた。頬も熱い。
そういえば二、三日前に、丁度良い味付けの料理を薄いと言っていた。そのときから熱があったのだろうか。
「ベッド行こう。そんで、熱計ろう? 起きれる?」
「ん」
ゆっくりと身体を起こすが、少し揺れている。
支えるようにして立ち上がらせる。薄いシャツ越しに触れる身体が熱い。
「部屋、入るね」
引っ越し当日以来のひぃなの部屋は、とても綺麗に使われている。
ベッドに横たわらせて、「すぐ戻る」とリビングへ移動した。確か付き合いで入れた置き薬の救急箱がどこかにあるはずだ。納戸をのぞいてすぐに見つける。中を漁って体温計と風邪薬を、冷蔵庫から常備している冷却シートとミネラルウォーターを取り出してひぃなの部屋に戻った。
まぶたをとじてベッドの上で丸まっているひぃなに、そっと声をかける。
「ひな。起きてる?」
手際よく冷却シートのフィルムを剥がしながら攷斗が問う。
「……ん」
頬を赤く染めて、うつろな瞳で攷斗を捉えるひぃなの髪を流して、おでこにシートを貼り付けた。
「体温計、持ってきたけど……」
ケースから取り出して電源を入れるが、受け取る気配がない。
「ちょっと…ごめん……」
シャツのボタンをいくつか外して、隙間から滑り込ませて体温計を脇に挟む。
なるべく見ないようにしているが、やはりどうしてもその内部は見えてしまう。幸い、というかなんというか、シャツの下にキャミソールを着ていたので、下着は見えない。
腕を閉じて、正確に熱が測れるようにする。
(ちょっとこれ、なんの拷問)
同居以前からだが、同居してから更に忍耐力を鍛えさせられている攷斗には、目の前のひぃなが甘い果実のように思えてならない。
(いやいや、相手は病人だよ)
ペットボトルのキャップを開け、薬の用意をしてからベッドの側面を背もたれに床に座る。
本棚にはファッション誌や少しの漫画と一緒に、ビジネス文書作成や経理、ペン習字のテキストが並んでいる。
(がんばってんだな)
ピピピピッ、と同じ感覚で何度かアラームが鳴る。体温を計測出来た合図だ。
「何度もごめんね」
入れたときと逆の手順で体温計を抜き取る。40度近い数字が表示されていて、ちょっとぎょっとする。
(よく耐えてたな)
「やっぱ熱あるね。薬飲んでほしいんだけど、ご飯なんか食べた?」
ひぃながゆっくりと首を横に振る。
「食欲ある?」
再度、同じ動き。
(うーん、まぁしょうがないか……)
「そのままだとつらいだろうから、薬飲もう?」
ベッドに乗り、ひぃなの身体を抱きかかえ上半身を起こす。自分の身体を支えにひぃなの身体を固定した。
「手、借りるね」
背後からひぃなの手を持ち上げ、ひぃなの手のひらに錠剤を落とす。
「飲める?」
子供に投げかけるような優しい口調で攷斗が問いかけ、ひぃなの顔を覗き込む。
「ん……」
力の入らない身体を攷斗に預けたまま、おぼつかない手つきで口に入れた。攷斗が支えるペットボトルを両手で持って、水で薬を流し込む。
「着替えられる? そのままだと寝づらいよね」
ゆっくりと、うなだれるようにうなずいたので、ひぃなを寝かせてクロゼットからいつも着ている部屋着を出して渡した。
「今日はこっちで寝るね。布団持ってくるから、着替えてて。ゆっくりでいいから」
テキパキこなさないと邪念が湧いてきそうで、ついつい口調が紋切り型になってしまう。
「気分悪くなったらすぐ教えてね」
攷斗が部屋から出ると、ひぃなは怠い身体をもそもそと動かして着替えを始める。そこに自我はあまりない。ただぼんやりと、そう言われたからそうする、という信号が脳から体に伝達しているような感覚。
シャツとスカート、少し汗ばんだ肌に張り付くストッキングを脱ぎ、ベッドの足元にまとめて置いた。枕元に置かれた部屋着に着替えて座ったままうつらうつらしていると、
「ひなー。入るよー」
攷斗の声が聞こえ、少ししてから入室した。
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