笑わないこけし

バルス

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第三章:玲子(レイコ・30歳)

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健太がマッチングアプリで「玲子(れいこ)」と出会ったのは、  
2024年6月12日、木曜日の夜だった。  

彼女のプロフィールは、極めて地味だった。  
・写真は、カフェの窓際で、ノートを開いて書いている様子。  
・趣味:「読書」「映画鑑賞」「聞き役になること」  
・自己紹介欄には、  
> 「あまり自分をアピールしないタイプですが、  
> 人の話を聞くのは、とても好きです。  
> あなたのお話、ぜひ、聞かせてください。」  

健太は、その文章を見て、鼻で笑った。  

「聞き役?  
——つまり、俺の話術を、ただの受信機として使う女か。  
ちょうどいい。」  

彼は、早速、メッセージを送った。  
> 「今、銀座のバーで、ちょっとしたトラブルがあって……  
> でも、あなたのプロフィールを見て、思わずメッセージしました。  
> あなたの静かさが、今、とても心地いい。」  

通常なら、この手の「トラブル」話は、相手を誘導するための伏線だった。  
だが、玲子の返信は、予想を裏切った。  

> 「トラブル、大丈夫ですか?  
> お話を聞かせてもらえると、安心します。」  

健太は、思わず、スマホを離した。  

——これは、初めてのケースだった。  
「ウケる」ことを期待して投げた嘘が、  
「心配される」ことに使われたのだ。  

彼は、一瞬、戸惑ったが、すぐに、  
「この女は、俺の嘘を、まだ『真実』だと信じている」  
と解釈した。  

そして、彼は、この「信じている女」を、  
自分の最後の観客だと決めた。  

デートは、健太の定番である「クーポン割引のイタリアン」。  
予約時間は、19時。  
健太は、18時55分に到着。  
彼は、いつもより丁寧に髪を整え、  
「年収2000万円の経営者」のマインドを、  
心の奥で、静かに呼び覚ました。  

玲子は、18時58分に現れた。  
青のワンピース。  
髪は、耳にかけられた小さなヘアピンでまとめられていた。  
目は、穏やかで、しかし、どこか、鋭さを秘めていた。  

「お待ちしました。」  
「いや、こっちこそ。  
実は、今月、ちょっとした資金繰りの問題で……」  
「そうですか。  
でも、あなたが、こんな場所を予約してくれたって、  
それだけで、嬉しかったです。」  

健太は、その言葉に、思わず、目を見開いた。  

——彼女の目は、嘘を見抜いていない。  
だが、それ以上に、  
彼女の目は、彼の「嘘をつくこと」そのものに、  
まるで、興味を示しているように見えた。

「あなた、昔、お笑いやってたんですよね?」  
「……え? どうして、知ってるんです?」  
「プロフィールに、『芸人時代の経験を、営業に活かしています』って、  
ちょっと謙虚に書いてありましたよね?」  

健太は、思わず、自分のプロフィールを思い出した。  
——彼は、そう書いたことはなかった。  
「芸人時代」など、一切、触れていなかった。  

「……その、どこに、そんなこと書いてあるんです?」  
「あっ、そうでしたか?  
——もしかして、他の人のプロフィールと、ごっちゃになっちゃったかも。  
ごめんなさい。」  

玲子は、そう言って、ほんのりと頬を染めた。  
その仕草は、どこか、演技のように見えた。  
だが、健太は、その瞬間、  
「この女は、俺のことを、ちゃんと知ろうとしている」  
という、甘い確信に包まれていた。  

——彼女は、彼の「嘘」を、ただの嘘として見ていない。  
彼女の目には、彼の嘘の裏にある「何か」が、  
「芸人としての、未完成の才能」として、映っていた。  

彼は、その夜、玲子をホテルに誘わなかった。  
代わりに、彼は、自分の「芸人時代」の話をしてみた。  
本当の話——  
・オーディションで落ち続けたこと  
・先輩芸人に「お前は、ウケないタイプ」と言われたこと  
・最後のライブで、客席から「帰れ!」のヤジが飛んだこと  

彼は、その話を、軽やかに、そして、どこか誇らしげに語った。  
「でも、あの時、俺は、気づいたんです。  
笑いって、舞台の上だけじゃない。  
——日常の、小さなやり取りの中に、  
俺の笑いは、ちゃんと、息づいてるって。」  

玲子は、ただ、静かにうなずいた。  
その目は、健太を、じっと見つめていた。  
それは、まるで、  
彼の話が、どこまで「嘘」で、どこまでが「真実」かを、  
静かに、克明に、観察しているような目だった。  

健太は、その夜、玲子の家に送り届けた後、  
スマホを手に、ひとり、笑った。  

「やっと、俺の才能を、理解する女が現れた……  
——これこそが、俺の、最後の、本当の観客だ。」  

彼は、そう思った。  
そして、その思いは、彼の支配欲を、  
静かに、確実に、膨らませていった。  
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