『桜の護王』

segakiyui

文字の大きさ
3 / 30

2.護王(2)

しおりを挟む
「嵯峨さん?」
 嵯峨はなぜかひどく顔を強ばらせて、じっと前方を見据えている。おそるおそる、その視線の先を見て、洋子も緊張した。
 寮の入り口近くの暗がりに、小さな影が動いたようだ。
「何でしょう?」
 洋子が声をかけると、嵯峨ははっとした顔で振り返った。
「え」
「いえ、あそこに何かいるのかなと思って」
「どこに?」
(嵯峨さんが立ち止まったのは、あの影のせいじゃなかったのか)
 多少気抜けしながら、洋子は影を指さした。
「あれ、です」
「犬、じゃない?」
「犬、ですか?」 
 洋子は目をこらして、見つめ直した。
(犬にしては、ちょっと大きいよね)
「うん、大丈夫よ、犬みたい」
「はあ」
 嵯峨が歩きだすのに、洋子もしかたなしについていく。
 影は入り口近くの植え込みの陰でじっと動かなくなったようだ。
(護王ほど大きくない)
 見定めて、洋子はほっとした。 嵯峨がその前を平然と通り過ぎるのに力を得て、急ぎ足に過ぎて行く。
(え?)
 だが、その陰をのぞき込んで、洋子はぎょっとした。
 座り込んでいるのは、どう見ても四、五歳ぐらいの男の子だ。黒いTシャツに紺の短いズボンをはいている。よく見ると、朝方道路で居た子どものように思える。
 男の子は、洋子が自分を見つけるのを待ってでもいたようだ。黒くて濡れた、それこそ子犬のような目で洋子を見返し、にこっと笑って立ち上がった。人なつっこい仕草で片手を上げ、バイバイ、と手を振って見せる。
 つい、つられて手を振り、男の子が駆け去るのを見送っていると、嵯峨が不審そうに尋ねてきた。
「どうしたの、手なんか振って」
「え、だって、ほら、今あっちに男の子が…あれ?」
 嵯峨に指し示そうと一瞬目を逸らせた間のことだった。男の子の姿が視界からきれいに消えていた。
「今、そこに」
「いなかったでしょう? さっきの犬も見間違いだったのかしら、いないわね」
「だって」
(犬童子)
 唐突に洋子の頭の中にその三文字が浮かんだ。
「いぬわらわ」
「何?」
「いえ、何でも」
 急いで洋子は辺りを見回した。男の子の姿はどこにもない。ましてや、護王のいる気配もない。
 けれど、どこか遠い暗がりから、じっと護王が見ているような感覚があった。
「何でもありません、早く寮に入りましょう」
 洋子は振り切るように嵯峨をせかした。
「そうね」
 嵯峨が慰めるようにいった。
「疲れてるのよ。今日は早くお休みなさい」

「あ、ああ」
 嵯峨と下の更衣室で着替えて別れ、のろのろと四階までエレベーターで上がり、部屋の前まで来て洋子は気がついた。
「しまった…鍵…」
 朝、この部屋を出たときには綾子がいた。発表が終わってから会場で返してもらえばいいと思っていたから、受け取っていない。
「はあ…」
 思わず部屋の戸口で座り込みそうになる。白衣を脱いだせいなのか、緊張が途切れて疲れが一気に出た。
『白衣を着てる間は寒さも感じないよね、あたしらってプロだあ』
 綾子の声がまた耳の奥に響く。
 真冬の道で二人、深夜勤務に出るために体を寄せあって歩いていた。舞い散ってきた粉雪が白衣の上に羽織った綾子の紺のセーターの肩に降り懸かる。それを払ってやると、さんきゅ、と笑った顔に、十数年前のもう一つ別の顔が重なった。
 もういない、幼い笑顔。もういない、もう一人のあやこ。
「…くそっ」
 舌打ちして体を起こす。忘れたつもりはなかったけれど、それでも無意識に綾子の存在に重ねて安心していた自分に、そしてその両方を手の届かぬままにまた失った無力さに、歯噛みするほどの悔しさが募る。
 唇を噛み締めて立ち上がり、ひょっとして綾子は鍵をかけ忘れていなかったかと微かな望みを託して、部屋の引き戸に手をかけた、そのとたん。
 がらっ。
「え…?」
 ふいにドアは別の力で横に滑った。はっとして顔を上げた一瞬、目に入ったのは黒一色、激しい風がその後ろから吹き出し、洋子の動きを封じる。
「あ、あっ」
 それ以上の声は上げられなかった。立ちすくんだ一瞬に差し出していた手首を握られ部屋に引き込まれる。
(樹の、匂い)
 顔を抱き込まれ押し付けられた体からはツンとした清涼な香りがした。抱え込まれる背後でドアが閉められ、鍵がかかる音がする。それと同時に、きゅ、と一瞬軽く体を抱き締められた。
 熱くて、自分が沈みそうな温もり。
「姫さん」
 どこかたどたどしい幼い声が耳もとで響く。
「俺の、姫さん」
 切なげな声は夢の中の声と重なった。
「もう、どこも行かんとって」
 声は掠れて不安そうに消え、するりと探るように、首筋に顔が寄せられる。動きにはっとして、洋子は急いで腕を突っ張った。
「……何も、せえへん……でけへんよ」
 護王は小さくつぶやくと、すぐに抱擁を解いた。両側に腕を開き、窓の方へ後ずさる。怖がらせていないかと不安がる表情で、洋子をまっすぐに見て続けた。
「話がしたいだけや。あんたに、姫さんに桜里へきてもらわな、あかんから」
「…は?」
 今すぐにでも後ろに回した手で鍵を外し、部屋から飛び出そうとしていた洋子は動きを止めた。
「桜…里?」
「…そやから」
 相手は急に疲れたように肩から力を抜いた。垂らした手をだるそうに持ち上げ、のろのろと短い髪を額から後ろへ撫でる。混乱している思考を無理矢理まとめていくような仕草だ。僅かにうつむいた姿勢で、今度は洋子に視線をあわさないまま、つぶやくように低い声で続ける。
「俺は、姫さんの、護王やから。あんたを傷つけたりは…せえへん」
「殺そうとしたのに?」
 思わず洋子が突っ込むと、ぎくりとした様子で動きを止め、護王は怯えたような目を上げた。病棟では自信に満ちて、ほとんど傲慢にも見えたほどの強い気配が、今は融けて消えてしまいそうなほど弱々しい。
「そうや……そうやな」
 両手を力なく落とし眉をひそめると、泣き出しそうな表情が瞳を覆った。が、それは一瞬のこと、くく、と微かな苦笑を漏らすと、もう一度護王は深い溜息をついた。
「ほんまにそうや…いっつも護ることすらでけへん…そやから置いてかれるんかなあ…?」
 独り言をつぶやいて、よろめくように揺れた体がとん、と窓枠にあたった。
(あ…)
 落ちる。
 上半身が不安定に傾ぎ、仰け反ってそのまま窓から落ちてしまう、そんな気がして、洋子は思わず部屋に踏み込んだ。その動きで我に返ったのだろう、はっとした顔で体勢を立て直したが保てず、護王はくたくたと窓枠に寄り掛かり座り込んでしまう。
「は…あ…っ」
 両足の間に頭を落とすようにして、吐き出すような深い息をついた。洋子を軽く抱え込めるほどの体がどんどん萎んで小さくなっていくようだ。身動きもしない、ことばも続けない。
「……疲れてるみたいだね」
「え…ああ…」
 洋子の声に護王はぼんやりとした瞳を上げた。眠そうに瞬きする目はとろんとしていて、表情も覇気がない。虚ろな顔で自分がどこにいるのか訝るように周囲を見回したが、ふいにくす、くす、と半端な笑い方をしながら、再び頭を膝の間に落としこみつつ、
「ずっと……寝てへん……寝られへんかってん」
 淡い声でつぶやいた。
「寝てない?」
「うん……寝るとなあ……鬼がきよるし…」
「鬼?」
 それはあんたのことじゃないの、そう言いかけたのを危うく自制した。中身を抜かれたぬいぐるみよろしく窓際にへたり込んでいる相手に、もう数歩、近寄る。
「鬼が来て……俺を食いよる……中身を…食い荒らしよるし…」
 中身を食い荒らす。
 洋子は眉をしかめた。不愉快な表現だ。胸の中を波立たせる。
 もう数歩近寄ってみると、そこはもう護王の真隣、それでも不思議と怖くはなくて、そろそろと洋子はしゃがみこみ、相手をそっと覗き込んだ。
 膝に乗せた両腕に今にもくっつきそうなほど垂れた首。髪の毛がくしゃくしゃと乱れて顔にかかっている。意外にしっかりした顎の輪郭に肉の薄い耳。頬はこの前より痩けて、青みがかって生気がない。まぶたはもう閉じられていて、長いまつげが濃い陰を落としている。半開きになった唇から微かな息が規則正しく響きだしている。
(眠ってる?)
「…護王?」
 返事はない。
「護王」
 忍び込んだ部屋で家人を前に眠り込む殺人犯など聞いたことがない。
「ちょっと! 話があるんじゃなかったの?」
 二度三度声をかけると、びくっとした様子で護王は体を起こした。
「あ…」
 すぐ側にいる洋子に気づいて瞬きする。
「眠いの?」
「え…俺…」
 必死に眠気を払おうとするように、護王は瞬きを繰り返した。だが、否応なく下がってくるまぶたに抵抗しきれないらしい。首をゆるく振りながら、体を起こす。
「……なんか……おかしなあ…ここは…」
 もう夢現の声音でつぶやいて、背後にもたれた。くた、と首を仰け反らせて目を閉じ、そのままずるずると横へずれていく。
「なんで……眠なるんか…なあ…」
「え、ちょっと、」
「…ごめ……姫さ…俺……眠い…」
 ふわっと開いた口から邪気なく漏れたことばを最後に護王は横ざまに倒れ込んだ。畳の上に転がってしまい、身動き一つせずにすぐに深く眠り込んでいく。
「寝ちゃった…?」
 洋子はあっけに取られてしばらく茫然としてしまった。
「えーっと…」
(どうしたもんだか)
 一日とんでもない様々なことに巻き込まれて、頭も心もついてこない。
「…くしゅっ!」
「!」
 考え込んでいたところに、ふいに護王がくしゃみをして寒そうに体を竦め、洋子は飛び上がった。開いたままの窓から冷えてきた夜気が吹き込んでくる。
 少し悩んだが、気持ちを決めて護王の体を回り、窓を閉めた。胎児のように丸くなっている護王に溜息まじりに上掛けをかけてやる。
「ふ…」
 護王の口元に時ならぬ幸せそうな笑みがいきなり広がった。無邪気な明るい笑み。襲いかかってきたときの殺気を微塵も感じさせない、絶対の安全圏に自分がいると安心しきっている小さな子どもの笑み。
「姫さん…そこにおったん…」
 頼りなげな声でつぶやくと、鼻先を上掛けに埋めるように、なお深く布団を抱き締め眠り込んでいく。
「安心、してるんだ…」
 洋子は呆れた。
「ここで私が警察を呼んだら、とか考えてないのかな」
(どうしてここまで、安心して眠れるんだろう)
 ふいにそう思った。
 洋子は他人が側にいると眠れない。唯一の例外は綾子だけ、それも理由はわかりすぎるほどわかっていて、きっと妹に似ているからだ。
(安心して眠れたことなんて…ほとんどなかったな)
 少なくとも一人暮しをするまでは。
 綾子が部屋に出入りするようになってからまた多少は緊張したけれど、すぐに慣れることができた。それはきっと、綾子の無防備な、絶対の信頼を置くと言いたげな振る舞いのせいだったのだろう。
 洋子は護王をじっと見た。
 同じような安心が、護王の体から広がっている。今襲われたらきっと何もできずに深い傷を負うだろうに。
 その柔らかで温かな気配が、もういなくなってしまった人とあまりにもそっくりで、胸が詰まった。
 洋子は顔を背けて立ち上がり、カップにインスタントコーヒーをいれた。迷ったけれども、部屋の鍵はかけたままにしておき、いつでも逃げられるようにドアを背中にしながら、テーブルを護王との間に挟んで座る。逃げ方まで心得ている自分の生い立ちがちょっと苦しい。
「姫さんの、護王…か」
 ふる、と小さく首を振って広がりかけた闇を払い、気持ちよさそうな寝息をたてている護王を凝視しながら、コーヒーを含む。
 護王は話をしにきた、と言った。自分は何もしない、できないと言った。
「単なる身軽な変質者って線もあるけど」
 だが、殺すつもりならさっき殺しているだろう。洋子はぼんやりしていて抵抗らしい抵抗もできなかったし、危害を加えるつもりなら、こんなところまで忍び入る能力があるのだ、洋子が騒ぐ前に始末をつけられただろう。
「それに…桜里」
 それは綾子の故郷の村の名前だ。珍しい地名だったのでよく覚えている。村の奥の方に巨大な桜があって、何でも昔、それを目安に落ち武者が逃げ延びて、その近くに村を作ったそうだ。
 護王の言うことが本当ならば、護王はそこから洋子を迎えにきたことになる。
(どうして、綾子の村に私が行かなくてはならないんだろう)
 もちろん、近々綾子の遺骨を持って出向くつもりはしていたから、別に行くこと自体は困らない。だが、村が綾子ではなく洋子を求めているというのがわからない。
「こいつの妄想ってこともある、よねえ」
 結局何がなんだかわからない。
 不安ではあるけれども、護王が多少眠って目を覚ますのを待つしかないのかもしれない。
 ぼんやり考えていた洋子は、突然響いたノックの音に飛び上がった。
「葛城さん?」
「あ、はい!」
「電話です」
「すみません!」
 急いで時計を見ると、夜の十時を回っている。
(誰だろう、こんな時間に)
 綾子以外に電話をかけてくる人間は思いつかない。洋子の両親がかけてくることはさらにあり得ない。
 ためらってくうくう眠り続けている護王を見たものの、相手は熟睡モード、ちょっとやそっとでは起きないだろう。
 洋子は大きく一つ息をつき、廊下に出た。
(病棟からかな)
 急に患者が入って休みが取り消しになったのだろうかと思いながら、洋子は受話器を取り上げた。
「はい、お電話変わりました」
『えーと、葛城、さん?』
 一瞬、何かの勧誘かと思った洋子は、続いた声に目を見開いた。
『あの、こんばんは。日高です』
「日高…先生」
 途中で気づいて、あわてて声を小さくする。
「どうなさったんですか。何か、病棟で」
『いや、あの、あんなことがあったから、大丈夫かなと思って』
 日高は穏やかに、
『師長さんに聞いたら、嵯峨さんと帰ったけど、元気がなかったようだったと言うし。明日からの勤務も休むんだって?』
(日高先生が、気にかけてくれていた)
 洋子は思わず微笑んだ。
「はい、あの、師長さんが、お休みを下さるっていうことで」
『そうなの、僕はてっきり、今日のことで辛くなったのかと思って。このまま辞めてしまうんじゃないかと心配したんだ』
「あ、あの、その」
 嵯峨なら優しい声で、ありがとうございます、とそつなく答えるところなのだろうが、洋子は思いがけない日高の気持ちにことばを継ぐのが精一杯だ。
(日高先生が心配しててくれて、電話までくれた)
 体がほこほこと温まって、何だか元気がでてきたような気がした。
「大丈夫です。少し休んで、また頑張りますから」
『うん、そうだね。病棟に君の顔が見えないとさみしいよ、何だか』
(うわあ)
 どき、と動きを止めた心臓を飛び出した血液がみるみる顔に集まってくるようだった。何か気の利いた返事を返そうと焦っていると、
『明日休みなら、そうだ、ちょっと出掛けないか。大西さんのことを忘れるわけじゃないけど、君が沈んでたら、きっと彼女も悲しむよ。おいしいものでも食べに行こう。おごるから』
「あの、いいんですか」
 立て続けに優しいことばを重ねられて洋子は大胆になった。
「あの、大事な人に誤解されたりして、困りませんか」
 一瞬、電話の向こうが静かになって、まずいことを言ったのかとひやりとした。
「あ、いいです、すみません、変なこと言って」
『あははっ』
 ふいに日高が笑った。
『何を言い出すかと思った。大事な人って恋人のことかな? 僕にはまだいないよ、誰から聞いたんだい』
「いえ、あの、日高先生はすてきだから、もうてっきりお付き合いが」
『残念だけどね。それに、あれこれ噂をたてられる身だから、そうそう気軽に声もかけられなくて』
 日高は思わせ振りに続けた。
『だから、この電話も結構緊張してかけてるよ。無理をさせてないかなって』
「無理だなんて、そんな」
 洋子は見えない相手に首を振った。
「もし、ほんとに、もしよかったら、行きたいです」
『よかった。じゃあ、明日のそうだな、十一時ごろなら抜けられるから、みどりが丘公園、知ってる? あそこの噴水の近くで会おう。店だといろいろと目立つし、後でうるさいからね』
「はい、十一時、みどりが丘公園ですね。わかりました」
『じゃあ、楽しみにしてるよ』
 日高の声が受話器の向こうで途切れても、洋子はしばらくぼんやりと受話器を握っていた。
(こんなこともあるんだ)
 心の中で優しくつぶやく。
「日高先生が心配しててくれた」
 広がってくる嬉しさに、自分がひどく頼りない気持ちでいることを再認識した。
(無理もないか…綾子が殺されて…護王なんてわけのわからないのが出てきて)
「あ!」
 そこでようやく部屋に放り出してきた人物に思い当たった。
 急ぎ足に部屋に戻ったが、中は静まり返っている。
「…護王…?」
 ドアをそっと開けて声をかける。返事はない。まだ眠っているのだろうか。
「護王…」
 だが、部屋はもぬけの空だった。布団がきちんと畳まれていて妙な感じだ。窓はきちんと閉められているし、廊下でも姿を見なかった。
「出ていったのかな」
 窓を開けて外を覗いた。春先にしては冷たい風が開いた窓に気づいたように吹き寄せてくる。寮の回りの道路にも、周囲の樹の陰にも、護王の姿は見当たらない。
「話を聞き損ねた」
 ただ、護王は洋子に桜里に来てほしい、と言っていた。ならば、遅かれ早かれ、また姿を見せるのではないだろうか。
「待つしかないか」
 洋子は吐息をついて窓を閉め、寝仕度を始めた。

 気がつくと、真っ暗な世界に洋子は居た。
 足元も、はるか頭上も、右も左もわからない暗闇。
(どうしてこんなに暗いんだろう)
 その中で洋子は考えていた。
(発表もうまくいったし、師長さんにも嵯峨さんにもほめられたし、日高先生に誘われもしたのに)
 でもね、とどこかで声がささやいた。
(綾子はいったいどうなるの)
 闇がかすかに身震いをしたようだった。
(ああ、そうだ)
 あんなひどい殺され方をした綾子。
(いったい誰が綾子を殺したんだろう。どうして綾子を殺したんだろう)
 黒ずくめの護王の姿を思い出した。枝からベランダへ降りた滑らかな身のこなし、ためらいなく洋子の首に手をかけた冷酷さ、冷えた黒い瞳の殺意。
 どれを取っても、殺人を犯してもおかしくない男、に見えるだろう。
(けれど護王は綾子を殺していない)
 むしろ、綾子を殺した犯人を殺したいほど憎んでいて、追いかけている。
(でも、それなら、誰が綾子を殺したんだろう? いったい何のために?)
 日高は実験に加わっていて関係がない、となると、村上刑事の言うように、病院内にいる誰かということになるのだろうか。けれど、あの綾子が殺したいほど憎まれるなんて想像できない。
(もし、村上刑事より先に、護王が犯人を見つけたら、私を襲ったみたいにその人を殺しにいくんだろうか)
 洋子の問いに答えるように、視界の端でぽうとかすかに光が灯った。
(あんなところに桜の木がある)
 吸い寄せられるように側に近づいていって気がついた。
(ああ、これは、いつもの、あの桜だ)
 凜として、冴え冴えとした気配で、満開の淡い色の花びらが大きく夜空に広がっている。
 けれど、今その下にいるのは綾子ではなかった。
 護王だ。
 護王が桜の下で膝をついている。
 顔を両手で覆って深く体を折り曲げ、どうやら泣いているようだ。
『姫さん…』
 低くかすれた声。
『姫さん……また…行ってしもたんか…』
 胸を切なくするような囁きが続いた。
 どこか癖のあることば遣いも、声の甘さを深めて、聞くものの胸をきりきりと締めつけてくるようだ。
『………また俺を…一人で置いて行ったんか』
 嘆きに呼応するように、桜がはらはらと散った。
 護王の黒いシャツにもジーンズにも、かすかに震えている髪にも肩にも首筋にも、淡い色の花びらが慰めるように降り続ける。
 ふいに、洋子は『護王』の意味に気がついた。
(そうか、あれは主の護り手、なんだ)
 護り手が、ただ一人の仕えるべき主の姿を失って、嘆き悲しんでいる。
『犬童子、はよ行って、姫さん探してきてくれ。このままやと、俺は、俺は』
 囁きは唐突に吐くような叫びになった。
『狂う…!』
 護王の体を震えが走り抜けた。内に潜む激しい衝動を必死に堪えようとするように、自分で自分を抱き締め、身悶えしている。
 叫びに応じて、護王の側に、どこからか小さな子どもが飛び出した。走りながら、体を前に伏せ蕩けるようにに姿を変えて、一匹の真っ黒な子犬になって夜を駆け抜けて行く。
『姫さん! 姫さん…! 俺…もう耐えられへん…!』
 体を抱き締めたまま、何ものかに搦めとられたように、どう、と護王が地面に崩れた。全身を縮めて丸くなり、呻くように泣いている。嘆きに呼ばれるかのように、その体に桜はますます激しく散る。
 悲鳴に似た叫びを聞きながら、洋子は自分が涙を流しているのに気がついた。
 悲しいのではない、辛いのではない。
 ただ、苦しんでいる護王がひどく哀れでいとおしくて。
(護王、それほど嘆くなら……そのままでは救われぬから)
 ふいに、ひどく懐かしい、けれど今の洋子には違和感のある声が、今また暗闇の桜の下でもがき苦しむ男に向かって、ひそかに応じた。
 はっとしたように動きを止めて、跳ね返るように両手をつき、護王が洋子を振り返る。
 見開いた相手の目に凍りついた。
 黒く長いまつげに囲まれた護王の目には瞳がなかった。
 朱色の玉。
 特別な宝石に似た、二つの真っ赤な炎。
 その禍々しい光を放っている目が、迷子になって嘆き悲しんでいるような幼い子どもの顔に、涙を流しながら埋め込まれている。
『姫さん……そこにいたんか…?』
 洋子の姿をどう見たのか、護王がほっとしたような声を上げた。
 両眼の光がみるみる和らいだ。色を失い、やがて、深く沈んだ大きな黒い瞳を宿した目に戻る。惑うようなすがるような、そしてどこか甘えるようにさえ見える濡れた目。
(護王)
 洋子の声に相手はびくりと身をすくめた。
 自分が晒していた狂態がどう見えていたのかをようやく悟ったように、護王は青白い顔になった。唇を震わせて視線を逸らせ、それでも洋子の目から逃れられないと気づいたように座り込む。取り返しのつかないことをした、そんな顔でうなだれ打ちしおれ、まるでその場で消え失せたいと願うように、膝を抱えて顔を伏せた。
 黒い服でひきしまって見える体が、より一層内側に引き込まれるように縮んでいく。小刻みに体を震わせているのは、手酷い叱責を覚悟してるかのようだ。
『姫さん、俺は、もう、あかんわ』
 吐き捨てるような声が自分を嘲笑うように響き、やがて激しい嗚咽に変わった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

俺様上司に今宵も激しく求められる。

美凪ましろ
恋愛
 鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。  蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。  ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。 「おまえの顔、えっろい」  神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。  ――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。 **2026.01.02start~2026.01.17end**

橘若頭と怖がり姫

真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。 その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。 高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。

ケダモノ、148円ナリ

菱沼あゆ
恋愛
 ケダモノを148円で買いました――。   「結婚するんだ」  大好きな従兄の顕人の結婚に衝撃を受けた明日実は、たまたま、そこに居たイケメンを捕まえ、 「私っ、この方と結婚するんですっ!」 と言ってしまう。  ところが、そのイケメン、貴継は、かつて道で出会ったケダモノだった。  貴継は、顕人にすべてをバラすと明日実を脅し、ちゃっかり、明日実の家に居座ってしまうのだが――。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

ヤンデレ王子を闇落ちから救ったら愛執まみれの独占欲に囚われました

大江戸ウメコ
恋愛
幼い頃に精霊の祝福である未来視の力が開花し、「夫である第二王子ナハルドに殺される」という己の運命を知った伯爵令嬢ツィーラ。この悲惨な未来を変えるべく、ツィーラは彼を避けようとしたが、ひょんなことから婚約者に選ばれてしまった! ならば、ナハルドが将来闇落ちしないよう、側で彼を支えることを決意する。そんな努力の甲斐あって、ツィーラへの好意を隠さず伝えてくるほど、ナハルドとの関係は良好になった。だけど、彼の並々ならぬ執着心のすべてを、ツィーラはまだ知らなくて――

DEEP FRENCH KISS

名古屋ゆりあ
恋愛
一夜を過ごしたそのお相手は、 「君を食べちゃいたいよ」 就職先の社長でした 「私は食べ物じゃありません!」 再会したその日から、 社長の猛攻撃が止まりません!

君までの距離

高遠 加奈
恋愛
普通のOLが出会った、特別な恋。 マンホールにはまったパンプスのヒールを外して、はかせてくれた彼は特別な人でした。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

処理中です...