『桜の護王』

segakiyui

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3.泥人形(1)

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 翌朝目が覚めると、洋子は昨日にも増して、ぐったりと疲れていた。
 かけていた目覚ましは、無意識に止めてしまったらしい。いつの間にか、枕元から遠くに転がっている。
(ひどい夢を見た)
 耳の奥に、まだ護王の嗚咽が響いている。
(護王、か)
 のろのろ起き上がって布団から出て、ふと、夢の中の護王の瞳を思い出した。
 虹彩も瞳孔も何の区別もなく、真っ赤に光っていた二つの目。
(あれは人間の目じゃなかった)
 アニメやファンタジーなら、多少なりともきれいだと思えるのかも知れないが、つるりとしてそのくせ猛々しく光る紅の目は、ただただ不気味なものに見えた。
(マモノの目)
 ぞくりとして、洋子は体を震わせた。外を確認して誰もいないのを確かめてから、柔らかくてきらきらした太陽が降り注いでくるのに窓を開ける。
「いい天気」
 そう言えば、今日は日高と初デートだ。公園からどこへ行くのかはわからないが、どこへ出掛けるにしても、これほどの天気なら思う存分楽しめるだろう。
 ゆっくり深呼吸すると、光が体の中に染み通ってくるような気がして元気が出た。
「お弁当作ってもよかったな」
 一人ごちて、
(ずうずうしいか)
 胸の中で慌てて弁解する。
 窓を閉めようとしたとき、つ、と下の方を何かが走った気がして、洋子は急いでのぞき込んだ。寮の外側、ぐるりと回った道の真下をととと、と小さな塊が走って行く。
(子犬?)
 目で追って、洋子はぎくりとした。
 寮の端の方で、走っていった子犬をひょいと抱き上げたものがいる。洋子の視線を感じたように、すぐに物陰に隠れたようだが、確かに黒い姿が動いた。
(まさか、護王?)
 瞬間、とくん、と不思議な衝撃が胸で躍った。昨日洋子を抱き締めた、意外に温かな護王の体を思い出す。
 いつも黒ずくめの冷ややかな物腰だったから、温もりのない人形の体のように思っていたのに、ああやって抱かれてみると確かに生き物の温みがあった。あのときは意識していなかったのに、喘ぐような切羽詰まったリズムの鼓動も思い出し、胸で躍った衝撃がとくとくとくと早くなる。
(…切なそう…だったなあ…)
 襲ってきたときとはほんとに別人のようで、子どもみたいに眠り込んだ顔が整ってるだけに幼くて、寝顔を見ながら飲んでいたコーヒーが妙に甘く感じた。
(だから、あんな夢を見たのかもしれない)
 夢の中の護王は泣き崩れていた。自分を襲っている衝動に耐えかねて、必死に『姫さん』を呼んでいた。
(狂う…ってか)
 誰かを失って我をなくしてしまうような思い。その人を傷つけた相手の命を奪うほどの執着。
(激しいなあ…)
 そういう人間に想われることは、幸福だろうか不幸だろうか。
(どんな人だったのかな、『姫さん』って)
 ぼんやり考えて、はたと気づく。
 護王は洋子を『姫さん』と呼んだのではなかったか。あんたの護王、つまり、洋子こそが自分が仕える姫だと言ったのではなかったか。
(でも、そうなると、綾子はどうなる?)
 綾子をどうして護王は追っていたのだろう。
(桜里へ行けば、何かわかる?)
「あたっ!」
 ちく、と鋭い痛みが首に走って、洋子は思わず手で押さえた。昨日痣になっていた部分だと気づいて、部屋の鏡を覗き込む。寝巻きがわりのジャージの首元から見える痣は、昨日より鮮やかに浮き上がっているようだ。少し広がっていて、よくみると、桜の花のようにも見える。
「花王紋…」
 ふいに昨日護王がつぶやいたことばを思い出した。
(そう言えば、これをみつけてから、護王が態度を変えたんだっけ)
『何で…何でや……何で…お前が……いや…あんたが…姫さんの徴を持ってんねん……』
 そう、そう言えば、確かそう言っていた。
(花王紋が『姫さん』の徴…?)
 それに、昨日洋子を抱き締めた護王が顔を寄せたのは、他ならぬこの痣の場所だった。
(キス、されるのかと思った)
 微妙に顔が熱くなった。
 その熱を奪うように風が激しく吹き込んでくる。
「…っと、時間ないんだ、お風呂入ってこよ」
 洋子は急いで窓を閉めた。

 看護師寮は勤務時間の都合もあって、原則としては二十四時間、入浴できるようになっている。それでも、日勤が始まってすぐぐらいには一度掃除の時間が取られる。
 洋子は急ぎ足に階段を降りて、何とか清掃前に風呂場に滑り込んだ。
 泳げそうなほど広々とした浴槽に手足を伸ばしてゆっくり浸かる。
 目を閉じて体を広げていると、忘れるつもりなのに、再び夢のことが気にかかった。
(ずいぶん悲しそうで、苦しそうだった)
 真っ赤な目は気持ち悪かったが、それでも護王の嘆きの激しさは洋子の胸に強く響いた。
『姫さん、姫さん』
 切なげな呼び声が今もまだ耳にこびりついている。
(もし、綾子が『姫さん』だったとしたら……綾子にも花王紋があったってこと?)
「花王紋…かあ」
 そろそろとそのあたりを指で撫でる。大きく腫れていたり盛り上がったりしているわけではなかった。痛みはない、熱もない。いつ現れたのかもわからない。
 もし綾子の体に現れていたとしても、見えない部分なら気づかなかったかもしれない。 けれど、綾子の肩にも首にもこういう痣はなかった気がする。
「花王紋があれば…誰でも『姫さん』なのかな」
 つぶやいて、思わず手を止めてしまった。
(ってことは……私でなくてもいい、ってことだよね?)
 ちくんと、経験したことのない、棘のようなものが刺さった痛みを、胸の深いところに感じた。
「なんか、それって」
 その痛みが何なのか、どこから来たのか確かめようと、独り言を続けてみる。
「それって、つまり」
 がららっ。
 突然、風呂場の扉が開いて、洋子は口を噤んだ。
「あら、葛城さん?」
「…嵯峨さん…」
 長くてきれいな髪の毛を裸の白い肩になぶらせながら、嵯峨が立ち止まった。
「今おふろ?」
「はあい」
 緊張が一気に解けたのと、妙な独り言を聞かれていなかったかと気になって、洋子は中途半端な声を返した。慌てて湯舟から上がり、放り出していたタオルと石鹸を手に、洗い場に向かう。
 それでも、自分の声があまりにも抜けていたのに途中で気がついて、急いでお礼に切り換え、嵯峨に笑いかけた。
「昨日はありがとうございました」
「大変だったわね。眠れた?」
 軽く湯を浴びて、嵯峨は洋子の隣にやってきた。
「はい、何とか」
 答えながら、洋子は嵯峨の裸身を横目で見た。
 白くてまろやかな曲線、柔らかで温かそうに膨らんだ胸元や、意外にふっくらとした腰から足にかけてのラインを目で追って、思わず深々とため息をつく。
 もちろん、体つきなんて、しょせんは骨の上に乗っている皮一枚のことだけど。そして、人間の、つまりは女の価値は、それだけではないけれど。
 それでも、嵯峨のバランスの取れた体は洋子にとってうらやましい限りだ。
「今日は私もお休みだけど、どう、一緒にどこか出掛けましょうか」
 石鹸の泡を一杯に立てたタオルで、くるくると体を洗いながら、嵯峨が誘った。
「あ、すいません、今日はちょっと」
「ああ、出掛けるの」
「はい」
 洋子は名残惜しくうなずいた。
 嵯峨は病棟でも一番の看護師、いろいろとためになる話も聞けるだろうし、何よりもいつも優しい嵯峨と出掛けるのは心身ともにリラックスできるに違いない。
「彼と?」
 嵯峨がふんわりと微笑した。
「あ、いえ」
 洋子は慌てて首を振って目を逸らせた。
 ごしごしごしと、嵯峨に比べればうんと筋肉質な足を必要以上に擦りながら、
「そんなんじゃないです」
 小さな声で反論する。
(そうだよね、日高先生は、昨日の今日だから誘ってくれたんだよね)
 嵯峨の見事な体を見せつけられた後では、洋子への誘いも何だかお愛想以上の何物でもないような気がしてきた。それになぜだろう、護王が望んでいるのが『姫さん』であって、洋子自身ではないかもしれないという思いが、微妙に気持ちを沈ませている。
「いいわね」
 それには気づかず、嵯峨は小首を傾げて微笑んだ。
「嵯峨さんこそ」
 ざぶん、と勢いよく湯を浴びて、泡を流しながら洋子はいった。
「お出掛けされないんですか。お誘い、一杯あるんでしょう?」
 すぐに優しい返答を戻してくれると思った嵯峨がふいと黙って、洋子は思わず隣を見た。
 嵯峨は、蛇口の上にある鏡をじっと見つめている。つられて洋子も、鏡に映った嵯峨の顔を見つめた。
 白くてなめらかな卵形の輪郭に、細い筆で描いたような形のいい眉、アーモンド型の潤んで茶色がかった大きな目、細くてまっすぐな鼻と口紅を塗らなくても淡く色づいた唇が配置されている。
 どれもこのうえない極上品、それを丁寧に考え抜いた位置に置いたとしか見えない、それは見事な美女の顔だ。
「私、今年で二十九になるわ」
「は?」
 突然つぶやいた嵯峨が何を言いたいのかわからなくて、洋子は瞬きした。
「来年は三十よ」
「はい…」
 嵯峨はじっと鏡の中を凝視している。
 その目がなぜか暗く冷たくなっていくように見えて、洋子は不安になった。
「時間は止まらないものなのね」
「…」
 くるりと嵯峨が振り向いた。
 鏡を通して見つめていた顔がふいに正面に現れて、それもひどく荒々しい気配をたたえていて、怯んだ。見てはいけないものを見て、聞いてはいけないことを聞いている、そんな気がする。
 かたり、と突然、嵯峨は人形のように強ばった笑みをこぼした。
「あなたは若いのね。大西さんも」
(綾子?)
 なぜ、ここで綾子の名前がでてきたのかわからなくて、洋子は眉をひそめた。嵯峨が何について話そうとしているのかを計り兼ね、なおも黙り続ける。
「若いということを知らないのは、残酷なのよ」
 嵯峨は淡々と続けた。
「見えないところで、人を傷つけるから」
 茶色の瞳がじっと洋子を見つめている。
(嵯峨さん、何か、知っている?)
 すう、とあたりの温度がいきなり下がったようだった。煙っている室内の水滴が、スローモーションのようにゆったりと落ちるのが見えるほど、空気が重く濃密になった。
 嵯峨の目は暗く深い色のままだ。
 その目に、洋子は夢で見た護王の真紅の目を重ねて見ていた。望んでいたものがどうしても手に入らないと知った者の、恨みと憎しみと怒りに満ちた瞳の色。
 ふいに嵯峨が立ち上がった。湯気の中に、真っ白で整った裸身が、タオル一枚にも遮られずに、洋子の前に立ち塞がる。
「嵯峨さん?」
 見上げた洋子はおそるおそる声をかけた。
「努力も何もしないで、若さだけで何でも手に入れられると思ってるんでしょう」
 嵯峨は今まで見たこともない冷ややかな表情で見下ろしながら、静かに言った。
(これは)
 洋子の体の中を戦慄が走った。
(殺意だ)
 嵯峨の中にひたひたと満ちて来ているもの、それは昨日の護王が発していたものと同じものだ。
 少し前ならわからなかったかもしれない。けれども、護王とのやりとりがあった後では、考えるよりも先に体が覚えていて、ぴりぴりとした緊張感で反応した。
(まさか、まさか……嵯峨さんが?)
 喉が締めつけられた。護王の掌の感触が蘇る。全身の血が、いきなり開いた巨大な穴から果てしない虚空へ吸い込まれていくようだ。
 身動きできなくなった洋子を前に、平然とした顔で、嵯峨は、鏡の下に置いていたものを取り上げた。
 細くて薄い刃のカミソリ。
 ごくりと洋子は唾を呑んだ。          
(あれで喉を裂かれたら)
 血が吹き出してもここは風呂場だ。すぐに流して洗い落とせる。
 ベテラン看護師である嵯峨は、効果的に切れる場所を熟知している。カミソリで頚動脈を切り裂いてしまえば、悲鳴を響かせる暇もない。ましてや、温まって循環のよくなった体は、体中の血液を絞り出すのに五分とかからないだろう。
(でも、どうして)
「嵯峨さん…」
 洋子は掠れた声を絞り出した。情けないほど弱々しく震えている。
 嵯峨は答えない。
 手にしたカミソリを、静かな、穏やかともいえる瞳で見つめている。
(逃げなくちゃ)
 洋子は体に力をいれようとした。
(今度こそ、逃げなくちゃ)
 でなければ、殺される。
 その感覚は繰り返し重ねられているだけに強烈な確信となって、洋子の喉を詰まらせた。
「何を怖がってるの?」
 絶妙のタイミングで、嵯峨がぽつんときいて微笑んだ。
「あなたは、何でも手に入れられるのに?」
 すいと細めた嵯峨の澄んだ目がきらきらと輝いている。と、ゆっくりと、大粒の涙が、たおやかな微笑を浮かべたままの嵯峨の頬に静かに伝わっていった。
「さ…が…」
(嵯峨さん、どうしたんです)
 問いかけがことばにならずに、洋子の体から力が抜けた。
(何がいったい起こってるんです)
 嵯峨の中から、何かがぼろぼろと崩れていっているように見えた。
 それはあっという間に、取り返しのつかないほど大きく空虚な穴となって、嵯峨の内側を飲み込んでいく。
(逃げ、られない)
 その穴に洋子の力がすべて吸い込まれていくようで、くらくらしながら腰掛けから床にずり落ちかけた、その瞬間、
 ガシャン!
 鋭い物音が響いた。少し離れたところの風呂場の窓が割られ、激しい勢いで洗い場の方へ跳ね散った。
 魔法が解ける。
 洋子は床を蹴った。
 立ちすくんだ嵯峨の隣を走り抜けて、外に飛び出す。脱衣所で死に物狂いで服を掴み、人目もあらばこそ、そのまま四階まで裸のまま素足で駆け上がった。
 部屋に飛び込み、鍵をかける。
「なっなんなんだあっ」
 体中が寒さと恐怖でがたがた震えた。布団の中へもぐりこみ、ドアがノックされないか、人の足音が響かないか、きりきりしながら息を潜める。
 十分がたち、十五分がたった。
 何の物音もしない。
 深夜勤が帰ってきたらしく、少しざわめいたがそれだけのこと、後は再び静まり返った寮内には、異変らしいものの気配はない。
(どうしよう、どうしたらいいんだろう)
 嵯峨は確か五階のはずだ。
 もし、あきらめて部屋に戻っていたとしたら、今しかここから出られないかもしれない。もう少しすれば、半日勤務の者が帰って来る。普通なら、寮の入り口でことを起こすには危険すぎると考えるだろう。
 けれど、このまま夜が来たら。
 それこそ嵯峨の思うつぼになってしまうのではないだろうか。
(でも、どうして、どうして、嵯峨さん)
 がたがた震えながら洋子は布団から這い出た。タオルで慌ただしく体と髪をふき、用意していた服に着替える。
 何かのときにと思って買っておいた、そして今日日高とのデートにと思って用意した春物の小花を散らしたクリーム色のワンピースだが、とてももう、浮いた気分にはなれない。
 すぐに警察に電話しようかとも考えたが、寮からではかえって危ないかもしれない。どこかで嵯峨が潜んでいて、電話をかけている間に背後から襲われたら、洋子には防ぎようがない。
 警察が駆けつけてくれる前に、洋子は死体になっているだろう。
(とりあえず、日高先生に会って、どうしたらいいのか相談してみよう。すぐに信じてはくれないだろうけど、何かいい手を考えてくれるかもしれない)
 ようやく思いついたその発想に、洋子はしがみついた。
 まだ震えが止まらない体を一度しっかり抱き締めてから、鏡に向かって口紅をつける。
 淡いピンクの口紅なのに、よほど顔色が悪くなっているのか、ファンデーションを透かしても肌が青ざめていて、唇が不安定に浮いて見えた。
(どうして嵯峨さんがあんなことをしたんだろう)
 気を抜けば滲んで零れそうになる涙を、洋子は必死にこらえて立ち上がった。
 靴を手に、予備のスリッパを履いて、そっとドアを開け、右左と動くものがないか確かめる。
 人の気配はない。
 ハンドバッグには手持ちのお金と通帳を入れた。もしもの時には、少し寮から離れるつもりことも考えた。
 ちょうど誰かが上がってきたらしく、エレベーターが軽い音を立てて止まった。中から数人、深夜帰りの看護師が眠そうに出てくるのを横目に見ながら、洋子は部屋を出て鍵を閉めた。
 いつでももう一度部屋の中に飛び込めるように身構えて、エレベーターと廊下を交互に見る。
(今!)
 空っぽのエレベーターが閉まりかけたときに、洋子は廊下を走った。
 飛び込んですぐ、エレベーターががくんとおり始める。
 三階、二階、一階。
 開いた。
 外には誰もいない。
 洋子は用心深く周囲を見回した。階段の方にも、集会所の方にも人影はない。
 エレベーターのドアを押すようにして離れ、玄関で靴を履き、走りだす。
 真後ろに誰かの息が迫ってくるような気がして、必死に走り続ける。
 後ろの方で、遠い悲鳴が一度、聞こえたような気がした。

 日高との約束の時間まで、洋子は人混みの中を歩き続けた。
 少しでも速度を緩めると、待ち構えていた誰かに物陰に引きずり込まれそうな気がして、ハンドバッグを胸に抱え、ひたすら歩き続ける。角を一つ曲がるたびに視界の端に何かが動く、そんな気がして、何度か慌てて立ち止まる。
 だが立ち止まってみると、回りは忙しそうに行き過ぎる人の波、洋子にあわせて止まる気配の者はいない。
 しばらくそうやって必死に歩き回り、ついに疲れ切ってしまった洋子は、重い足を引きずるようにして喫茶店に入った。
 鏡の多い、窓の大きな明るい喫茶店だ。昼まだ少し早いせいか、二人ずつぐらいに仕切られた席には、あまり客は入っていない。
 洋子は吐息をついて、二人がけの席に腰を落とした。運ばれて来た水を一気に飲み干して、アイスティを注文する。
 ぱらぱらと目の前にかかって来た髪に、コンパクトを取り出してのぞき込むと、青白くやつれた顔が見返して来た。
(ひどい顔してる)
 無理もない。立て続けに起こった出来事に気持ちも心も振り切れそうだ。
(洗面所に行って、口紅だけでも直しておこうか)
 そう洋子が思った矢先、コンパクトの鏡の中をすっと黒い影が通り過ぎた。
(今の)
 慌てて顔を上げる。
 黒いシャツに黒く短い髪の毛、端整だけど冷ややかな横顔が、確かに店の中を動いた。
 あたりをきょろきょろと見回すが、鏡が多い店の造り、小さな仕切りの座席は巧みに作られ、互いの姿が見えそうで見えない。
 外の景色が反射して映り込んだのか、それとも、迷宮に迷い込んだように、鏡に遮られて相手の姿を見失っているだけなのか。
 運ばれた飲み物を慌ただしく吸い上げた。レシートをつかんで席を立つ。レジに向かって歩いていると、やっぱり視界の隅を黒い影が横切るのを感じた。
(いるんだ、護王が)
 お金を出す指が震えて、レジが不審そうな目を向けてくる。ごまかしでもしていると疑われたのか、やたらと丁寧に勘定されて、洋子は焦った。
(今度は何をしに来たんだろう)
 何をしに。
 過ったのは白く整って精気のない女の顔だ。
(嵯峨さん…)
 理由はわからない、けれど、綾子を殺したのはおそらく嵯峨だ。
 寮を出る時に聞こえた遠く微かな悲鳴は、もしかして、護王が嵯峨に対してあの殺意を向けたのではないか。そして、一度放たれた殺意の奔流は、夢のように歯止めなく人を屠る魔物として、護王を変化させてしまったのではないか。
 ぬら、と血に染まった体でこちらを振り返る護王のイメージが脳裏いっぱいに広がって、洋子は思わず体を震わせた。
 足早に店を出、約束の時間には早いが、みどりが丘公園に向かって歩く。
 今度は間違いなくはっきりと、後ろからつかず離れず距離を保つ気配が感じられた。それどころか、その気配は、みどりが丘公園に近づくに従って、どんどん迫ってくるようだ、 まるで、公園には行かせまいとでもするように。
(先生、日高先生!)
 心の中で助けを求めながら、泣きそうになってそれでも十分歩き続けたとき、ふいに肩に大きな手が乗った。
「きゃああああっ!」「うわあっ」
 弾けるような洋子の悲鳴に相手も大声を上げる。
 往来していた人の波とざわめきが、一瞬止まった。
「ちょっとちょっと、葛城さん」
 視界の端で、ひょろりとした背の高い姿が、困った顔で手をぶらぶらさせていた。
「あの、ごめんね? そんなに驚くとは思ってなくて」
「日高、先生…」
 洋子は泣き出した。
 何だ知り合いか。
 そんなぼやきを思わせるように、人が再び流れ始める。
「ごめんね、ほんと、すまなかったよ」
 人混みから離れるように、洋子の体を軽く押しながら小さな通りに入り込み、日高はぺこぺこと謝った。
「脅かすつもりはなかったんだよ、ほんとうに。たまたま早く抜けられたんだ。待ち合わせまではまだあるから、どこかで時間をつぶそうと思って歩いてたら、君が喫茶店から出て来たから。声をかけたんだよ、気づかなかったの?」
 洋子はかぶりを振った。深い安堵でことばにならない。
 日高はちょっとためらってから、そっと洋子の肩を抱いて、ポケットから出したハンカチを渡してくれた。
「ごめんね、ずいぶん怖かったんだね」
「……ううん、いいです…泣き出しちゃってすみません」
 しゃくりあげるのを堪え、ようよう応えて貸してもらったハンカチで涙を拭いていると、日高がふと思いついたように片目をつぶった。
「うん、じゃあ、泣かせたおわびだ。今日は僕の手料理をごちそうするよ」
「手、料理?」
 きょとんとした洋子に、日高は朗らかに笑いかけた。
「一人暮らしだとね、いろんなことがうまくなるわけ。ちょっとしたもんだって仲間内では評判なんだけど? 僕の家に来てもらわなくちゃならないんだけど、どう? こわいかな?」
 茶目っけたっぷりに付け加える。
「男の部屋だもんね」
「こわく、ないです」
 洋子は小さく答えた。
(もっと怖いもの、一杯見たもの)
 ぐっと顔を上げて、日高の顔を見上げると、相手の穏やかな微笑が眩く見えた。
「日高先生、だもの」
「おう、そりゃあ、ありがたい、と。待てよ、ありがたがっちゃいけないのかな? 男扱いされてないってことだよね?」
 日高のおどけた表情に、洋子はようやく笑うことができた。
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