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3.泥人形(2)
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「えーと、そのまま入ってね、スリッパなんて上等なものはありません」
緊張している洋子をほぐそうとしているのか、日高は家に入ってからも、ずっと軽口を叩き続けている。
男の一人暮らしにしては、玄関の下駄箱の上には小さな造花が飾られているし、リビングへ続く廊下の壁にもミニタペストリーのようなものがかかっている。どちらも市販品というよりは、誰か女性の手によるもののようだ。
「きれいな部屋ですね」
「そう?」
ひょいと、頭をぶつけないためだろう、無意識に体を軽く前へ倒しながらキッチンに入った日高が、立ち止まって振り向いて笑った。
「何かごちゃごちゃおいてあるだろ。かあさんがフリーマーケットや何かですぐ買ってくるんだよ。要らないって言ってもむだなんだ」
一瞬ちらっと日高の瞳を陰が掠めたような気がした。だが、すぐに柔らかな微笑を浮かべてみせて、
「だから、最近は放ってる。ああ、そっちに座っててくれる?」
「はい…フリーマーケットですか」
洋子は息を吐いた。
示されたリビングのソファに腰を下ろして、そっとあたりを見回す。
茶色のフローリングにラグがところどころに敷かれている。濃い緑と茶色でまとめられた部屋は、上品で落ち着いた感じだ。壁には数枚の小さなフレームの絵がかかり、テーブルにはガラスの鳥が飾られている。
(何か、意外)
日高の部屋はもっと雑然としているような気がしていた。
(部屋の中に昨日の服なんかが落ちてたり、カレンダーがめくりそこねてあったり)
けれど、この室内は、独身男性というより、もう所帯を持って暮らしている者の部屋のようだ。いくら整頓好きでも放り出されていそうな、雑誌一冊さえ落ちていない。
(ショールームみたい)
洋子は落ち着かないまま、少し腰を浮かせた。
リビングに続いているキッチンに向かって、
「お手伝いしましょうか?」
声をかける。
がしゃん、と瓶の触れ合う音がして、
「大丈夫だよ。バジルスパゲッティって好きかな? ワインもあるけど」
「あ、何でも好きです」
(日高先生が作って下さるんだから)
それは口に出さず、洋子は再びソファに腰を降ろした。
(いつ打ち明けよう)
ため息をついて、膝の上で指を組む。
ふいに気になって、背後の窓を振り返った。
大きくて広い掃き出し窓、、その向こうのベランダではマンション最上階の眺めを存分に満喫できる。
巨大都市ほどの高層建築ではないけれど、このあたりでは十分高い地上十階。
(さすがの護王も、ここまでは来れないよね)
洋子はもう一度ため息をついた。
安堵のため息だったはずなのに、寮の風呂場で感じた、かすかな痛みが胸の底にしこっている。
(護王が来れない)
なぜかそれが不安なものに変わっていくのに、洋子は驚いた。
(私は護王を待ってる…なぜ?)
『俺の、姫さん』
そうつぶやいた柔らかな掠れた声が蘇る。大切なかけがえのないものの名をつぶやくような、その甘さが胸に堪える。
(でも…なぜ?)
「さあて」
疑問はキッチンから二つの皿を持ってきた日高の声に遮られた。
「葛城さんに気に入ってもらえるかな」
にこにこ笑いながら、日高がテーブルに皿を置く。
グリーングレイの縁取りの素朴な白皿に、鮮やかなトマトの赤とピーマンの緑が映える。バジルの独特な、どこか日本茶に似た香りが湯気とともに立ちのぼった。
「うわあ、きれいですねえ」
お世辞ではない、つい出てしまった洋子の感嘆の声に、キッチンからワインとグラスを運び込もうとしていた日高がぎくりとしたように立ち止まった。
「日高先生?」
洋子はきょとんと日高を見た。
日高は何か突然、氷のようなものをぶつけられたといいたげな表情で、目を見開いている。
「どうしたんですか?」
「あ、ああ」
再度の問いかけに、日高は瞬きをした。凍りついていた人形がふいに溶けて動き出した、そんなどこかぎくしゃくとした動作でワインとグラスを置く。
「ちょっと、びっくりしたんだ」
「え?」
ちら、と日高は何かを言いたげな、そのくせそれに気づかれることを恐れるような、どこか不思議な目で洋子を見た。
「なんだか、時が戻ったみたいで……時間はとまらないのにね」
「時間は、とまらない……?」
日高は身を屈めたまま、首を振った。
「前にそっくりな出来事があったんだ。だから。けれど、そんなわけ、ないよな」
は、と微かに笑った、その声のシニカルな響きに、洋子は眉をひそめた。
(日高先生、前にそっくりな出来事があったんだ)
それはやっぱり女性との出来事だったのだろうか。
洋子は考えて、ふと、それこそ今の日高とよく似たことばを聞いたような気がした。
(どこかで、同じようなことを)
記憶の片隅で、何か黒い予感がうごめいている。
「えーと、あ、フォークがないか」
つぶやいて、再びキッチンに戻る日高の後ろ姿を目で追いながら、洋子は一所懸命に感覚を追おうとした。
(あれは、つい最近、ううん、最近どころじゃない、つい、さっき、あれは)
次の瞬間、そっくりなことばを誰がつぶやいたのか思い出して、洋子は息を呑んだ。
(嵯峨さんだ)
『時間はとまらないものなのね』
暗く陰った嵯峨の瞳。
「はい、お待ちどうさま」
にこやかに笑って、フォークを渡す日高の顔を見つめ、無意識にフォークを受け取りながら、洋子は思わぬ衝撃に動揺していた。
(これってどういうことなんだろう)
あまりにもそっくりなことば、あまりにもそっくりな二人の気持ち。
それは、以前一緒に感じたことだから、ではないのか。
「さめないうちに食べてよね」
「あ、はい」
すすめられるまま、色鮮やかなスパゲッティにフォークをからめていく。そのフォークにからまる細いパスタとともに、洋子の思考も一つの場所へゆっくりと搦め取られていくような気がした。
(これは、何の符号だ?)
搦め取られ巻取られていく思考の先にある闇がごぞりと立ち上がってくるような気がする。そしてその闇は、別の闇へと洋子を引きずり込んでいく……知りたくない真実に。
思いの禍々しさに、洋子は体が竦むのを感じた。
(でも、日高先生と嵯峨さんが同じようなことをいったからって、すぐに二人を結びつけて考えることはない、よね?)
必死に考え直そうとしている洋子に、日高がさりげなく尋ねた。
「ずいぶん早くから街に出てたの?」
「いいえ」
考え込んだまま、洋子は答えた。
「昨日の今日だから、もう少し遅くまで寮にいると思ってたよ」
「ええ、そのつもりだったんですけど」
(どうしよう)
ここへ来るまでは、綾子のことも嵯峨のことも、日高に相談すれば何かいい道が見えて来るかと思っていたが、それをしていいのか悪いのか、わからなくなってきた。
「何か、あったの」
ためらいを見抜いたように日高がことばを継いで、洋子はどきりとした。思わず顔を上げると、じっとこちらを見つめていたらしい、探るような日高の目とぶつかった。
「うん?」
優しく穏やかな声、柔らかな微笑み。
(まるで、嵯峨さん、みたいに)
何も不安がることないはずなのに。
「いえ、別に」
洋子は日高の視線に耐えられなくなって、目を逸らせた。フォークに巻きつけたスパゲッティを無理やり口の中へ押し込む。
そうして答えられない理由を作ったつもりだった。
「そう」
日高は静かに同意した。
「僕はまた、寮で何かあったんじゃないのかと思ったよ」
あまりにも確信ありげに聞こえて、洋子は口を動かすのを止めた。
「刑事が事情を聴きにきたんだってね」
日高は静かに料理を口に運んでいる。
「あんなことがあったすぐ後に聴くなんて、ひどいよね」
するすると日高の口にスパゲッティが吸い込まれていく。オリーブ油で光った唇が淡々とことばを続けた。
「何を知ってるの?」
洋子は顔を上げた。
日高も手を止めて、こちらを見ていた。
温かで明るい日差しが部屋一杯に差し込んで、整ったリビングは平和で穏やかでくつろげるようにしか見えない。
だが、その静けさの中に、洋子は今まで見えなかった光景がくっきりと浮かび上がってくるのを感じた。
(何で、こんなものが、見えてくる……?)
泣きたくなるような思いで、洋子は視界に入ってきた光景を凝視した。
日高の頭の向こうにキッチンの入り口がある。サンドベージュの麻ののれんがかかっているが、それがたまたまのようにドアの取っ手に引っ掛かって、キッチンの中まで見えている。
リビングとは違って白と灰色で統一されたシステムキッチン、灰色の冷蔵庫が置かれているのがわかる。
冷蔵庫の扉には小さなフックが取りつけてあって、よくあるようにエプロンがかかっていた。日高が使っているにしては小さな、淡いブルーのデニムのエプロンだ。既製品ではなくて手製のものらしく、ポケットに飾り文字の縫い取りがある。
そのエプロンを洋子は知っている。いや、知っているどころではない、洋子もお揃いのを持っている。
ずっと昔、綾子と一緒に作ったのだ。縫い取り文字は小さくて読めないはずだが、洋子の目にはほつれた隅の一カ所まで見える気がした。
『あやこ・お』
(綾子のエプロンだ)
たった一度ケーキを届けに来た綾子が、エプロンを持参するわけがない。ましてや、勝手知ったように、他人の冷蔵庫にかけておくはずがない。
(日高先生と綾子は付き合ってたんだ)
ことばが事実となって染み込んで来るまで、ずいぶん時間がかかった。
「何を見てるの?」
日高がゆっくりと振り返った。すぐに洋子が見ているものに気づいたふうで、向こうを向いた姿勢のまま、
「そうかあ、あのエプロン、君も知ってるんだね」
のんびりとつぶやいた。
(君も?)
日高が再び顔をこちらに向けるのを、洋子は次第に震えて来る体を押さえようとしながら見守った。
振り返った日高の目は細くなって感情が読めなくなっている。ただ、奥できらめいている色がとても冷たいことだけはわかる。
なのに、ことばはやはり優しかった。
「食べないの? 冷めるよ」
「君もって…どういうことですか」
聞かなければいいのに、洋子の口は勝手にことばを紡いだ。
日高がおやおやといいたげに、またおどけた様子で眉を上げて首を振る。
「知らないの? そんなことないよね、良子が話してるんだろう?」
細めた目でにっこり笑った。
「だから、今朝、良子から逃げ出したんだよね?」
良子。
日高は名字をいわなかった。それで洋子には通じていると信じている。
そして、確かに、その上についている名字が何か、洋子はすぐに思い浮かべることができた。
嵯峨、良子。
(今朝、逃げ出したって、どうして日高先生は知っている?)
洋子は日高を見つめた。
日高の優しい微笑が今はこのうえもなく恐ろしい顔になりつつあった。
「良子もあのエプロンが綾子のだって知ってたよ。私はどうなるの、だって。聞くんじゃないよ、まったく、興ざめだよね」
突き放した声だった。
「恋人に新しい女ができたなら、身を引くのが年齢の賢さってもんじゃないのかな」
日高は平然とスパゲッティを口に運んでいる。
「一つ勘違いすると、女ってのはどこまでも鬼になれるんだねえ、綾子の次が君なら許せないってさ。何が許せないのかわからないって突っぱねたら、君に話すってさ。だから、君は何もかも聞いてるはずだよね、良子から。綾子を殺したのが僕だってことも」
日高はワインを開けた。
コルク栓をていねいに抜き取る様子は、洋子がここから逃げられるとは思ってもいないという自信に満ちている。抜いたコルクの香りを確かめ、静かにワインを自分と洋子のグラスに注いで、自分のグラスを差し上げた。
「でも、まあ、これで一通りかたがついたことになるからね。お祝いをしようよ」
「お祝い…?」
洋子が震えながら尋ねるのに、日高は満足そうににんまりと笑った。
「綾子はいない。だから、良子とのことをあれこれ聞かれることもない。良子もいない。朝、風呂場で首を切ってたそうだよ。だから、この先もめることもない」
「嵯峨さんが…」
洋子のことばは喉に詰まった。
では、洋子が逃げた後、嵯峨はあのまま、あそこで自殺してしまったのか。それとも……護王がそれとさとられずに始末してしまったのか。
「そして」
ごくん、と日高はワインを飲んだ。
「今ここに、最後の関係者がいるってわけだ」
十二分にことばの効果を考えた口ぶりだった。
「綾子も良子もいないから、今なら僕はフリーだよ。料理もできるし、将来有望、優しくて財産もある。綾子のことは良子がかぶってくれるだろうから、この先僕が巻き込まれることもない。葛城さんさえ協力してくれたらね」
にやりと初めて下卑た笑みが日高の人の良さそうな顔を覆った。
(この人は何を言ってるんだろう)
洋子はゆっくりかぶりを振った。
(こんな人を好きになって…こんな人の家に来てしまって、挙句に綾子も嵯峨さんもひどい目にあって)
優しくて穏やかで温かそうな笑顔の『かかし先生』。その奥にあった姿は見かけと何一つ重なっていない……それがどうして見抜けなかったのだろう。
(寂しかった、嵯峨さん?)
若さが失われていくのを、時間が限られていくのを、ただ見ているだけだと思い詰めて。
(自分を確かめたかったの、綾子?)
院内でも評判の、前途有望な人気のある医師と付き合うということを、メリットと考える気持ちがあったのか。
それともただ、二人とも、日高が好き、だったのか?
ただ、その『好き』は日高の中にまで届かなかったみたいだが。
日高のどこにも届かなかったみたいだが。
「だめ? どうしてなのかなあ、単純なことでしょう。女はやっぱり頭が悪いってことかな」
「かわいそう…」
「え?」
日高は洋子のつぶやきに笑みを消した。
「かわいそうだ、綾子も、嵯峨さんも」
「かわいそう?」
まるで、高速度フィルムを見ているようだった。
日高の顔がみるみるよじれてねじ曲がり、ひきつれていくように見えた。
「誰が、かわいそうだって」
ぬっと立ち上がり、洋子を見下ろした日高の形相は、見ていられないほど猛々しいものになっている。
「かわいそうなのは、あいつらじゃない、僕だ!」
日高は突然叫んだ。
「僕が何をどんなに尽くしても、一つも喜ばないじゃないか! 僕ほどの男が、料理まで作ってやってるのに、おいしいの一言もいえないんだぞ! 部屋をほめたり、料理をほめても、ちっとも喜んでいないじゃないか! どれだけ頑張っても、どこまでも頑張れって言い続けるんだ!」
日高の中に溜まっていたものが次々と連鎖を起こして爆発していくようだった。
「だから、ちょっとでも喜んでくれた相手を選んだら、裏切っただの、ごまかしただの、いったい、おまえ達は何様のつもりなんだ!」
「!」
ふいに日高が叫びながら両手を広げて抱え込もうとするように飛びかかってきて、洋子は逃げた。とっさに振り回した手が、抵抗を予想していなかったのか、日高の顔を殴りつける。
「このっ!」
かっと目を見開き日高が叫んだ。
「殴った、殴ったな、僕を! この僕を!」
ソファから跳ね起きて飛び離れた洋子を、頬を赤く染めた日高が追いかける。走り回るには狭いリビングを、洋子はソファを間に右へ左へと逃げ回った。残念ながら逃げるのは得意だ、きっと日高が思うより洋子はずっと経験値がある。家の中の何をどう盾にしてどう動けば逃げ切れるのか、体がしっかり覚えている。
すぐに捕まえられると思ったのだろう、日高は少し驚いた顔になり、やがて険しい表情になった。
(おまえ達…?)
相手の隙を狙いながら身を翻す洋子の耳に、目の前の洋子に叫んでいるようでいて、その実、洋子の知らない誰かに向かって叫んでいるような日高の声が繰り返す。
(いったい、誰に向かって…?)
もう少しで掴まるというところ、あわやで身を逸らせてよけた洋子を追った日高の脚が激しくぶつかって、テーブルの上の皿とガラスの鳥がはね飛び、中身を散らせながらワインが倒れ、ラグを派手に染めた。
それを見た日高の顔にうろたえた色が広がった。
「ああ…汚れた…また叱られる…お前はいつまでたってもきちんとできないって母さんに言われる…」
虚ろで暗い声でつぶやき、日高はくるっと振り返った。洋子を睨みつけ、
「くそおおっ!」
部屋中に響き渡る声で吠える。
「ここは僕の部屋なんだ! 汚すな! 触るな! もうたくさんだ!」
叫びながらラグを蹴散らし、日高はより凄まじい顔でソファを素早く回ってきた。
(母さん…? 母親に怒鳴ってる?)
日高の目は黒々と光を吸い込み表情がない。その暗さは昨日病室で洋子を襲った護王に似て、絶望と殺気に満ちている。
(ここから…でなきゃ……)
玄関への空間は日高が執拗に遮っている。ならば、隣の部屋に逃げ込んで機会を伺うしかないか。そう考えた洋子の視線を読み取ったのだろう。日高がふいにソファを駆け上がるようにして洋子に襲いかかってきた。
「っ!」
必死に向きを変えようと床を蹴り、そこは初めて入った家のこと、ラグで脚を滑らせ、勢い余って転がった。跳ね起きようとしたその上から、日高が覆いかぶさって来る。
「あっ…」
「捕まえた、捕まえたぞ! ははっ! はははは!」
日高は体重をかけたまま、すぐに洋子の両腕をとらえた。手首を握り込み、膝で押さえるや否や、高く引きつった声で笑いながら日高は手を振り上げた。
「お仕置きだ!」
「う!」
ぱあんっ!
衝撃で顔が激しく揺さぶられる。目の前が暗くなり、口の中に血の味が広がる。
「そら、もう一発!」
日高がけらけらと笑いながら再び手を振り上げる気配、身動きできずにその痛みを受け入れなくてはならない恐怖に洋子の体が凍って竦む。
(あやこ…!)
と、そのとき、どんどんどん、と激しいノックが響いた。
ぎょっとしたように日高が動きを止めた。
どんどんどん、と再び大きな音がした。そのままドアを破りかねないような勢いだ。
舌打ちをした日高は、いきなり立ち上がると洋子の腹を強く蹴った。
「ぐう」
目の前に閃光が飛び、洋子はうめいて体を折った。胃の中のものがすべて逆流して来るような気がした。
吐き気と痛みをこらえていると、
「動くなよ、声もたてちゃいけない。どのみち逃げられないよ。寮で良子が死んだとき、君がおかしな様子で飛び出して行ったと、みんな知ってるからね…君が一番疑われている……怪しいんだ」
日高がくすくす笑って耳もとにささやいた。低く嘲笑うような声、病棟でいつも優しく温かく患者や看護師に話し掛ける声に音色だけはそっくりで、その無気味さにぞくりと体中の皮膚が粟立った。だが、それにも増して、日高の告げたことばが洋子の気力を萎えさせた。
(私が一番……疑われてる…?)
確かに風呂場にいたのは洋子と嵯峨だけだ。片方が死に、片方が急に飛び出したまま行方不明になったとあっては、警察も洋子を被害者だと考える前に加害者の可能性を追うだろう。
(そんな…)
洋子が日高のマンションに来ていることなど誰も知らない。洋子は潔白を示せない。
「じっとしてるんだ。じっと。そうすれば、殺しはしないさ」
くすくす笑いながら、日高は髪の毛をなでつけ、服装を整えて離れて行く。
(ここで、殺される?)
洋子は目を閉じた。逃げ回ってあちこち打ったせいだろうか、体中がずきずきして痛い。頬はもちろん、腫れ上がってひりひりしている。それでも、その痛みがどこか茫然と遠ざかっていってしまう気がするのは、どこにも救いがないという思いからだ。
綾子を殺した犯人も、そのつまらなくて馬鹿馬鹿しい甘えた動機もわかったのに、何の制裁も加えてやれない。そればかりか、全ての罪をなすりつけられて命を終えるかもしれない。
(くやしい…)
男に生まれていればよかった。
久々に忘れていたことばが蘇った。
引きずり出されるように、昔の記憶が脳裏で弾け飛ぶ。
洋子の家は両親が子育てを知らない家だった。三つ下の妹、あやこと、いつもお腹を空かして、でかけたっきり帰ってこない親を待った。学校で必要なお金ももらえなかった。とうに死んでしまった祖父の知り合いがときどき家に訪ねてきてくれて、お金や食べ物を差し入れてくれた。
ネグレクトと暴力。
できるだけ早く、社会に出て働いてあやこと二人生きていくつもりだった。自立とかそんなのではなく、ただ生き延びるために「家を出ること」が必要だった。
だが、洋子が中学に入った翌年、妹は家で酔っぱらって不機嫌だった父親に暴行を受けた。学校から帰ると、あやこが大量に吐き戻してトイレの便器にすがっていた。救急車で運んだが手遅れだった。内臓破裂。そのまま数十分放置されていたのではないか、と医師はつぶやいた。
洋子の内側で何かが永久に切れた。洋子はいぎたなく部屋で寝そべっていた父親に飛びかかったが、逆に手酷く殴られ、さすがにうろたえた母親の通報で病院に収容された。
何があっても耐えしのんで生き抜いて、いつか父親を力の限り叩きのめし、這いつくばらせてやりたかった。母親を彼女の好きな高脂肪の食べ物の中へ突き落とし、埋めてしまいたかった。そのためならば、自分なんてどうなったってかまやしない。その恨みと憎しみで洋子はかろうじて生き延びた。
ずたずたの洋子がそれでも何とか心身共に社会に戻ってこれたのは、病院から転送された小さな施設のスタッフの優しさゆえだ。
彼らは洋子を受け止めてくれた。千切れた魂を拾い集めるように、そっと洋子を育て直してくれた。だからこそ、洋子は今、こうして看護師になっている…のだ。
(なのに……)
きり、と歯が鳴った。
(なのに……また…何もできないで…何もしないで…)
腹はねじれるように痛んで苦しかったが、このままで終わらせる気はなかった。
洋子はのろのろと床に転がった割れ砕けた皿ににじり寄った。尖った破片を探して握り込み隠し持つ。固い感触が掌に食い込んだが、痛みは感じなかった。
日高が戻ってきたとき、それが唯一の反撃できる機会だ。相打ちにしてでも、日高が当然のように受け取るつもりでいる「明るい未来」とやらに一筋の暗黒を刻んでやる。この先幾夜も悪夢にうなされるような、暗がりに潜む陰にすぐさま洋子を思い出して怯えるような恐怖を。
そう思い定めて息を整え、洋子は薄く笑った。
(いつでも踏みにじられる人間ばかりじゃないってことを教えてやる)
つぶやく自分の胸の奥に、ふつふつと滾る闇を感じた。それは冷ややかな喜びに跳ね回り、心臓の鼓動を高ぶらせていく。
看護師であるならば、それは感じてはいけないもの、人を癒すことではなくて、人を傷つけることに喜びを感じるこの気持ちは……ふいにそう気づいて洋子は眉をひそめた。
(もう……看護師には戻れない…なあ…)
岡村主任、倉敷師長や患者さん達の顔…それに、国家試験に受かったことを我が事のように喜んでくれた施設のスタッフの顔が脳裏を過って胸を締めつけた。
(ここで……殺されたら…どうせ…戻れない…か……ばかだな…)
苦笑いはできるのに、体がぐったりして動いてくれない。苛立たしさと虚しさが募っていって、萎えてしまう気力を引き戻そうと洋子は欠片を握ったこぶしに力を込めた。ぬる、と指先が掌を滑る。落とさないようになおも必死に握りしめる。
「ちょっと待って……はい、何でしょうか」
日高が玄関で今までの争いが何もなかったように穏やかな対応をしているのが聞こえる。できることなら今すぐ悲鳴を上げて異変を知らせたい。だが、口が開かない、強ばって凍りついてしまっている。
(怖いんだ……死ぬって思ってるのに…まだ…殴られるのが怖いんだ…)
洋子は唇を噛んだ。
「宅配です、ハンコを頂けますか」
「ああ、ちょっと待って」
日高と業者のやりとりが、次第に遠くで聞こえる。殴られたせいなのか、それとも気持ちが限界を越えてしまったのか、意識が薄れてきているようだ。
(このまま気を失うなんて…いやだ…)
洋子がよりきつく唇を噛みしめたとき、
「あ、待て、こら」
ぱたぱたぱたっと軽い足音が玄関から走り込んできて、洋子の側で立ち止まった。はっはっはっというせわしない呼吸音に変わって、耳のあたりを何かがくすぐる。
(何?)
うっすらと目を開けた洋子に、黒い小さな毛糸玉のようなものが映った。
「こら、困るじゃないか、犬が入ったぞ、あれを…がふっ…げっ…」
日高の不快そうな声は突然妙なうめきで途切れた。
ふんふん、と鼻を鳴らすような音は耳元でまだ響いている。
洋子は瞬きした。
すりすりと体をすりよせてきている温かな毛の塊は、瞬きすると、なぜか小さな男の子に変わっていた。
(あれ…?)
男の子は、洋子が目を開けたのに気づいて、ひょいと顔を上げた。
大きな真ん丸な目で嬉しそうに笑ったが、洋子の頬の傷を見ると、びっくりした顔になって瞬きした。みるみる泣きそうになって、小さな手で洋子の頬をなでてくれる。強ばって緊張していた口が、その柔らかな仕草に少し融けた。
「……うん…だいじょう…」
ぶ、のことばは、ぬうっと姿を現した黒い人影に再び喉に詰まった。
(日高)
用事を済ませた日高がもどってきたのかと無意識に身を竦めて、それが間違いだったとすぐに気づいた。
(護王…?)
あいかわらずの黒いシャツと黒いジーンズの護王は、床に転がっている洋子を見つけると一瞬大きく目を見開いた。一動作で近づきながら、間近に来るとゆっくりとした動きで無言で洋子の前に膝をついた。壊れ物を持ち上げるようにそっと洋子の体の下に手をさし入れかけ、途中で向きを変えて洋子の頬の傷と唇の端をそうっとなでる。
「もう、口、噛むな」
掠れて震えた声で低く命じた。
「血ぃ、出てるし」
洋子が握り込んだ手に気がついたのだろう、訝しげにこぶしを開かせてみて中身を覗くと、眉をしかめて呻くように悲痛な声を上げた。
「こんなもん……握って……あいつに…反撃しかけるつもりやったんか…?」
眉根を寄せた苦しげな顔で、護王は体を折り曲げ、そっと片手で洋子を抱きかかえた。残る片手で洋子の掌からそっと丁寧に皿の破片を抜き取り、捨てる。その間中、護王の体はちりちりとした電気のようなものが走っているように震えている。
「切れてるやんか……手ぇ、ずたずたやんか…何考えてんねん」
幼い声が恨みがましく続けた。
「何で俺を呼ばへんかったんや……もっとはように……なんで呼んでくれへんかった…?」
口ごもって何かを堪えるように目を伏せ、顔を背けたまま、護王は微かな声で付け加えた。
「…あほぅ…」
ふいにそのことばが洋子の強ばりを解いた。張り詰めていた気持ちが緩みとろける。視界が揺れて熱く滲む。開いたままの目からぽろぽろと涙が零れ落ちて頬を伝う。
「護王…」
護王は洋子の声によりきつく眉を寄せた。怒ってでもいるような険しい表情で、洋子の右手を自分の口元に引き寄せる。ざら、と掌を舌でなめられて、洋子は走った痛みに体を強ばらせた。思わず手を引きかけたのを制される。
「逃げなや……破片が残ってると傷が治りにくなる」
ぺっと側のじゅうたんに朱色の唾を吐いた護王の目が揺らめくように洋子を捉え直した。だが、まっすぐに自分を見つめている洋子の目に怯んだように目を伏せ、微かに赤くなって顔を背けた。
「もう大丈夫やし…あいつは殴り飛ばした。気ぃ失っとるわ。しばらく起きられへんやろ」
「…うん…」
(助かったんだ)
体がどんどん弛んでいく。涙がどうにもとまらない。
「もう…大丈夫やし」
「うん…」
(生きてる)
抱いてくれている護王の体が温かい。心臓の鼓動がはっきりと伝わってくる。
(生きてるんだ…)
洋子は笑った。
「そやから…」
護王は困ったような顔で振り向き、洋子が笑っているのに凍りついたように動きを止めた。瞬きし、それでも何か見えない糸に絡まれているようにそろそろと首を傾げて洋子を覗き込む。
「頼むし…もう泣かんとって…そやないと、俺…」
つぶやいて、ごくん、と護王は唾を呑み込んだ。何かとても話しにくそうだ。けれど、その薄く染まった護王の顔を見ているのは、とても平和で幸せなことのように思えて、洋子はますます笑みを深めた。
「うん……」
(もう…死ななくていい…)
胸の中でぽうんとそのことばが浮かび上がる。
犯人はわかった。洋子は殺されなかった。
あやこが笑う。綾子が笑う。ゆらゆらとした陽炎になった嵯峨がいつものように笑いかけてくれる。
それはもう……決して戻らない光景では、あるのだけれど。
「姫さん…?」
(もう……誰も…死なないで…)
「ちょっ……姫さんっ! 姫さ…!!」
護王が叫ぶ声はみるみる洋子の意識から遠ざかった。
緊張している洋子をほぐそうとしているのか、日高は家に入ってからも、ずっと軽口を叩き続けている。
男の一人暮らしにしては、玄関の下駄箱の上には小さな造花が飾られているし、リビングへ続く廊下の壁にもミニタペストリーのようなものがかかっている。どちらも市販品というよりは、誰か女性の手によるもののようだ。
「きれいな部屋ですね」
「そう?」
ひょいと、頭をぶつけないためだろう、無意識に体を軽く前へ倒しながらキッチンに入った日高が、立ち止まって振り向いて笑った。
「何かごちゃごちゃおいてあるだろ。かあさんがフリーマーケットや何かですぐ買ってくるんだよ。要らないって言ってもむだなんだ」
一瞬ちらっと日高の瞳を陰が掠めたような気がした。だが、すぐに柔らかな微笑を浮かべてみせて、
「だから、最近は放ってる。ああ、そっちに座っててくれる?」
「はい…フリーマーケットですか」
洋子は息を吐いた。
示されたリビングのソファに腰を下ろして、そっとあたりを見回す。
茶色のフローリングにラグがところどころに敷かれている。濃い緑と茶色でまとめられた部屋は、上品で落ち着いた感じだ。壁には数枚の小さなフレームの絵がかかり、テーブルにはガラスの鳥が飾られている。
(何か、意外)
日高の部屋はもっと雑然としているような気がしていた。
(部屋の中に昨日の服なんかが落ちてたり、カレンダーがめくりそこねてあったり)
けれど、この室内は、独身男性というより、もう所帯を持って暮らしている者の部屋のようだ。いくら整頓好きでも放り出されていそうな、雑誌一冊さえ落ちていない。
(ショールームみたい)
洋子は落ち着かないまま、少し腰を浮かせた。
リビングに続いているキッチンに向かって、
「お手伝いしましょうか?」
声をかける。
がしゃん、と瓶の触れ合う音がして、
「大丈夫だよ。バジルスパゲッティって好きかな? ワインもあるけど」
「あ、何でも好きです」
(日高先生が作って下さるんだから)
それは口に出さず、洋子は再びソファに腰を降ろした。
(いつ打ち明けよう)
ため息をついて、膝の上で指を組む。
ふいに気になって、背後の窓を振り返った。
大きくて広い掃き出し窓、、その向こうのベランダではマンション最上階の眺めを存分に満喫できる。
巨大都市ほどの高層建築ではないけれど、このあたりでは十分高い地上十階。
(さすがの護王も、ここまでは来れないよね)
洋子はもう一度ため息をついた。
安堵のため息だったはずなのに、寮の風呂場で感じた、かすかな痛みが胸の底にしこっている。
(護王が来れない)
なぜかそれが不安なものに変わっていくのに、洋子は驚いた。
(私は護王を待ってる…なぜ?)
『俺の、姫さん』
そうつぶやいた柔らかな掠れた声が蘇る。大切なかけがえのないものの名をつぶやくような、その甘さが胸に堪える。
(でも…なぜ?)
「さあて」
疑問はキッチンから二つの皿を持ってきた日高の声に遮られた。
「葛城さんに気に入ってもらえるかな」
にこにこ笑いながら、日高がテーブルに皿を置く。
グリーングレイの縁取りの素朴な白皿に、鮮やかなトマトの赤とピーマンの緑が映える。バジルの独特な、どこか日本茶に似た香りが湯気とともに立ちのぼった。
「うわあ、きれいですねえ」
お世辞ではない、つい出てしまった洋子の感嘆の声に、キッチンからワインとグラスを運び込もうとしていた日高がぎくりとしたように立ち止まった。
「日高先生?」
洋子はきょとんと日高を見た。
日高は何か突然、氷のようなものをぶつけられたといいたげな表情で、目を見開いている。
「どうしたんですか?」
「あ、ああ」
再度の問いかけに、日高は瞬きをした。凍りついていた人形がふいに溶けて動き出した、そんなどこかぎくしゃくとした動作でワインとグラスを置く。
「ちょっと、びっくりしたんだ」
「え?」
ちら、と日高は何かを言いたげな、そのくせそれに気づかれることを恐れるような、どこか不思議な目で洋子を見た。
「なんだか、時が戻ったみたいで……時間はとまらないのにね」
「時間は、とまらない……?」
日高は身を屈めたまま、首を振った。
「前にそっくりな出来事があったんだ。だから。けれど、そんなわけ、ないよな」
は、と微かに笑った、その声のシニカルな響きに、洋子は眉をひそめた。
(日高先生、前にそっくりな出来事があったんだ)
それはやっぱり女性との出来事だったのだろうか。
洋子は考えて、ふと、それこそ今の日高とよく似たことばを聞いたような気がした。
(どこかで、同じようなことを)
記憶の片隅で、何か黒い予感がうごめいている。
「えーと、あ、フォークがないか」
つぶやいて、再びキッチンに戻る日高の後ろ姿を目で追いながら、洋子は一所懸命に感覚を追おうとした。
(あれは、つい最近、ううん、最近どころじゃない、つい、さっき、あれは)
次の瞬間、そっくりなことばを誰がつぶやいたのか思い出して、洋子は息を呑んだ。
(嵯峨さんだ)
『時間はとまらないものなのね』
暗く陰った嵯峨の瞳。
「はい、お待ちどうさま」
にこやかに笑って、フォークを渡す日高の顔を見つめ、無意識にフォークを受け取りながら、洋子は思わぬ衝撃に動揺していた。
(これってどういうことなんだろう)
あまりにもそっくりなことば、あまりにもそっくりな二人の気持ち。
それは、以前一緒に感じたことだから、ではないのか。
「さめないうちに食べてよね」
「あ、はい」
すすめられるまま、色鮮やかなスパゲッティにフォークをからめていく。そのフォークにからまる細いパスタとともに、洋子の思考も一つの場所へゆっくりと搦め取られていくような気がした。
(これは、何の符号だ?)
搦め取られ巻取られていく思考の先にある闇がごぞりと立ち上がってくるような気がする。そしてその闇は、別の闇へと洋子を引きずり込んでいく……知りたくない真実に。
思いの禍々しさに、洋子は体が竦むのを感じた。
(でも、日高先生と嵯峨さんが同じようなことをいったからって、すぐに二人を結びつけて考えることはない、よね?)
必死に考え直そうとしている洋子に、日高がさりげなく尋ねた。
「ずいぶん早くから街に出てたの?」
「いいえ」
考え込んだまま、洋子は答えた。
「昨日の今日だから、もう少し遅くまで寮にいると思ってたよ」
「ええ、そのつもりだったんですけど」
(どうしよう)
ここへ来るまでは、綾子のことも嵯峨のことも、日高に相談すれば何かいい道が見えて来るかと思っていたが、それをしていいのか悪いのか、わからなくなってきた。
「何か、あったの」
ためらいを見抜いたように日高がことばを継いで、洋子はどきりとした。思わず顔を上げると、じっとこちらを見つめていたらしい、探るような日高の目とぶつかった。
「うん?」
優しく穏やかな声、柔らかな微笑み。
(まるで、嵯峨さん、みたいに)
何も不安がることないはずなのに。
「いえ、別に」
洋子は日高の視線に耐えられなくなって、目を逸らせた。フォークに巻きつけたスパゲッティを無理やり口の中へ押し込む。
そうして答えられない理由を作ったつもりだった。
「そう」
日高は静かに同意した。
「僕はまた、寮で何かあったんじゃないのかと思ったよ」
あまりにも確信ありげに聞こえて、洋子は口を動かすのを止めた。
「刑事が事情を聴きにきたんだってね」
日高は静かに料理を口に運んでいる。
「あんなことがあったすぐ後に聴くなんて、ひどいよね」
するすると日高の口にスパゲッティが吸い込まれていく。オリーブ油で光った唇が淡々とことばを続けた。
「何を知ってるの?」
洋子は顔を上げた。
日高も手を止めて、こちらを見ていた。
温かで明るい日差しが部屋一杯に差し込んで、整ったリビングは平和で穏やかでくつろげるようにしか見えない。
だが、その静けさの中に、洋子は今まで見えなかった光景がくっきりと浮かび上がってくるのを感じた。
(何で、こんなものが、見えてくる……?)
泣きたくなるような思いで、洋子は視界に入ってきた光景を凝視した。
日高の頭の向こうにキッチンの入り口がある。サンドベージュの麻ののれんがかかっているが、それがたまたまのようにドアの取っ手に引っ掛かって、キッチンの中まで見えている。
リビングとは違って白と灰色で統一されたシステムキッチン、灰色の冷蔵庫が置かれているのがわかる。
冷蔵庫の扉には小さなフックが取りつけてあって、よくあるようにエプロンがかかっていた。日高が使っているにしては小さな、淡いブルーのデニムのエプロンだ。既製品ではなくて手製のものらしく、ポケットに飾り文字の縫い取りがある。
そのエプロンを洋子は知っている。いや、知っているどころではない、洋子もお揃いのを持っている。
ずっと昔、綾子と一緒に作ったのだ。縫い取り文字は小さくて読めないはずだが、洋子の目にはほつれた隅の一カ所まで見える気がした。
『あやこ・お』
(綾子のエプロンだ)
たった一度ケーキを届けに来た綾子が、エプロンを持参するわけがない。ましてや、勝手知ったように、他人の冷蔵庫にかけておくはずがない。
(日高先生と綾子は付き合ってたんだ)
ことばが事実となって染み込んで来るまで、ずいぶん時間がかかった。
「何を見てるの?」
日高がゆっくりと振り返った。すぐに洋子が見ているものに気づいたふうで、向こうを向いた姿勢のまま、
「そうかあ、あのエプロン、君も知ってるんだね」
のんびりとつぶやいた。
(君も?)
日高が再び顔をこちらに向けるのを、洋子は次第に震えて来る体を押さえようとしながら見守った。
振り返った日高の目は細くなって感情が読めなくなっている。ただ、奥できらめいている色がとても冷たいことだけはわかる。
なのに、ことばはやはり優しかった。
「食べないの? 冷めるよ」
「君もって…どういうことですか」
聞かなければいいのに、洋子の口は勝手にことばを紡いだ。
日高がおやおやといいたげに、またおどけた様子で眉を上げて首を振る。
「知らないの? そんなことないよね、良子が話してるんだろう?」
細めた目でにっこり笑った。
「だから、今朝、良子から逃げ出したんだよね?」
良子。
日高は名字をいわなかった。それで洋子には通じていると信じている。
そして、確かに、その上についている名字が何か、洋子はすぐに思い浮かべることができた。
嵯峨、良子。
(今朝、逃げ出したって、どうして日高先生は知っている?)
洋子は日高を見つめた。
日高の優しい微笑が今はこのうえもなく恐ろしい顔になりつつあった。
「良子もあのエプロンが綾子のだって知ってたよ。私はどうなるの、だって。聞くんじゃないよ、まったく、興ざめだよね」
突き放した声だった。
「恋人に新しい女ができたなら、身を引くのが年齢の賢さってもんじゃないのかな」
日高は平然とスパゲッティを口に運んでいる。
「一つ勘違いすると、女ってのはどこまでも鬼になれるんだねえ、綾子の次が君なら許せないってさ。何が許せないのかわからないって突っぱねたら、君に話すってさ。だから、君は何もかも聞いてるはずだよね、良子から。綾子を殺したのが僕だってことも」
日高はワインを開けた。
コルク栓をていねいに抜き取る様子は、洋子がここから逃げられるとは思ってもいないという自信に満ちている。抜いたコルクの香りを確かめ、静かにワインを自分と洋子のグラスに注いで、自分のグラスを差し上げた。
「でも、まあ、これで一通りかたがついたことになるからね。お祝いをしようよ」
「お祝い…?」
洋子が震えながら尋ねるのに、日高は満足そうににんまりと笑った。
「綾子はいない。だから、良子とのことをあれこれ聞かれることもない。良子もいない。朝、風呂場で首を切ってたそうだよ。だから、この先もめることもない」
「嵯峨さんが…」
洋子のことばは喉に詰まった。
では、洋子が逃げた後、嵯峨はあのまま、あそこで自殺してしまったのか。それとも……護王がそれとさとられずに始末してしまったのか。
「そして」
ごくん、と日高はワインを飲んだ。
「今ここに、最後の関係者がいるってわけだ」
十二分にことばの効果を考えた口ぶりだった。
「綾子も良子もいないから、今なら僕はフリーだよ。料理もできるし、将来有望、優しくて財産もある。綾子のことは良子がかぶってくれるだろうから、この先僕が巻き込まれることもない。葛城さんさえ協力してくれたらね」
にやりと初めて下卑た笑みが日高の人の良さそうな顔を覆った。
(この人は何を言ってるんだろう)
洋子はゆっくりかぶりを振った。
(こんな人を好きになって…こんな人の家に来てしまって、挙句に綾子も嵯峨さんもひどい目にあって)
優しくて穏やかで温かそうな笑顔の『かかし先生』。その奥にあった姿は見かけと何一つ重なっていない……それがどうして見抜けなかったのだろう。
(寂しかった、嵯峨さん?)
若さが失われていくのを、時間が限られていくのを、ただ見ているだけだと思い詰めて。
(自分を確かめたかったの、綾子?)
院内でも評判の、前途有望な人気のある医師と付き合うということを、メリットと考える気持ちがあったのか。
それともただ、二人とも、日高が好き、だったのか?
ただ、その『好き』は日高の中にまで届かなかったみたいだが。
日高のどこにも届かなかったみたいだが。
「だめ? どうしてなのかなあ、単純なことでしょう。女はやっぱり頭が悪いってことかな」
「かわいそう…」
「え?」
日高は洋子のつぶやきに笑みを消した。
「かわいそうだ、綾子も、嵯峨さんも」
「かわいそう?」
まるで、高速度フィルムを見ているようだった。
日高の顔がみるみるよじれてねじ曲がり、ひきつれていくように見えた。
「誰が、かわいそうだって」
ぬっと立ち上がり、洋子を見下ろした日高の形相は、見ていられないほど猛々しいものになっている。
「かわいそうなのは、あいつらじゃない、僕だ!」
日高は突然叫んだ。
「僕が何をどんなに尽くしても、一つも喜ばないじゃないか! 僕ほどの男が、料理まで作ってやってるのに、おいしいの一言もいえないんだぞ! 部屋をほめたり、料理をほめても、ちっとも喜んでいないじゃないか! どれだけ頑張っても、どこまでも頑張れって言い続けるんだ!」
日高の中に溜まっていたものが次々と連鎖を起こして爆発していくようだった。
「だから、ちょっとでも喜んでくれた相手を選んだら、裏切っただの、ごまかしただの、いったい、おまえ達は何様のつもりなんだ!」
「!」
ふいに日高が叫びながら両手を広げて抱え込もうとするように飛びかかってきて、洋子は逃げた。とっさに振り回した手が、抵抗を予想していなかったのか、日高の顔を殴りつける。
「このっ!」
かっと目を見開き日高が叫んだ。
「殴った、殴ったな、僕を! この僕を!」
ソファから跳ね起きて飛び離れた洋子を、頬を赤く染めた日高が追いかける。走り回るには狭いリビングを、洋子はソファを間に右へ左へと逃げ回った。残念ながら逃げるのは得意だ、きっと日高が思うより洋子はずっと経験値がある。家の中の何をどう盾にしてどう動けば逃げ切れるのか、体がしっかり覚えている。
すぐに捕まえられると思ったのだろう、日高は少し驚いた顔になり、やがて険しい表情になった。
(おまえ達…?)
相手の隙を狙いながら身を翻す洋子の耳に、目の前の洋子に叫んでいるようでいて、その実、洋子の知らない誰かに向かって叫んでいるような日高の声が繰り返す。
(いったい、誰に向かって…?)
もう少しで掴まるというところ、あわやで身を逸らせてよけた洋子を追った日高の脚が激しくぶつかって、テーブルの上の皿とガラスの鳥がはね飛び、中身を散らせながらワインが倒れ、ラグを派手に染めた。
それを見た日高の顔にうろたえた色が広がった。
「ああ…汚れた…また叱られる…お前はいつまでたってもきちんとできないって母さんに言われる…」
虚ろで暗い声でつぶやき、日高はくるっと振り返った。洋子を睨みつけ、
「くそおおっ!」
部屋中に響き渡る声で吠える。
「ここは僕の部屋なんだ! 汚すな! 触るな! もうたくさんだ!」
叫びながらラグを蹴散らし、日高はより凄まじい顔でソファを素早く回ってきた。
(母さん…? 母親に怒鳴ってる?)
日高の目は黒々と光を吸い込み表情がない。その暗さは昨日病室で洋子を襲った護王に似て、絶望と殺気に満ちている。
(ここから…でなきゃ……)
玄関への空間は日高が執拗に遮っている。ならば、隣の部屋に逃げ込んで機会を伺うしかないか。そう考えた洋子の視線を読み取ったのだろう。日高がふいにソファを駆け上がるようにして洋子に襲いかかってきた。
「っ!」
必死に向きを変えようと床を蹴り、そこは初めて入った家のこと、ラグで脚を滑らせ、勢い余って転がった。跳ね起きようとしたその上から、日高が覆いかぶさって来る。
「あっ…」
「捕まえた、捕まえたぞ! ははっ! はははは!」
日高は体重をかけたまま、すぐに洋子の両腕をとらえた。手首を握り込み、膝で押さえるや否や、高く引きつった声で笑いながら日高は手を振り上げた。
「お仕置きだ!」
「う!」
ぱあんっ!
衝撃で顔が激しく揺さぶられる。目の前が暗くなり、口の中に血の味が広がる。
「そら、もう一発!」
日高がけらけらと笑いながら再び手を振り上げる気配、身動きできずにその痛みを受け入れなくてはならない恐怖に洋子の体が凍って竦む。
(あやこ…!)
と、そのとき、どんどんどん、と激しいノックが響いた。
ぎょっとしたように日高が動きを止めた。
どんどんどん、と再び大きな音がした。そのままドアを破りかねないような勢いだ。
舌打ちをした日高は、いきなり立ち上がると洋子の腹を強く蹴った。
「ぐう」
目の前に閃光が飛び、洋子はうめいて体を折った。胃の中のものがすべて逆流して来るような気がした。
吐き気と痛みをこらえていると、
「動くなよ、声もたてちゃいけない。どのみち逃げられないよ。寮で良子が死んだとき、君がおかしな様子で飛び出して行ったと、みんな知ってるからね…君が一番疑われている……怪しいんだ」
日高がくすくす笑って耳もとにささやいた。低く嘲笑うような声、病棟でいつも優しく温かく患者や看護師に話し掛ける声に音色だけはそっくりで、その無気味さにぞくりと体中の皮膚が粟立った。だが、それにも増して、日高の告げたことばが洋子の気力を萎えさせた。
(私が一番……疑われてる…?)
確かに風呂場にいたのは洋子と嵯峨だけだ。片方が死に、片方が急に飛び出したまま行方不明になったとあっては、警察も洋子を被害者だと考える前に加害者の可能性を追うだろう。
(そんな…)
洋子が日高のマンションに来ていることなど誰も知らない。洋子は潔白を示せない。
「じっとしてるんだ。じっと。そうすれば、殺しはしないさ」
くすくす笑いながら、日高は髪の毛をなでつけ、服装を整えて離れて行く。
(ここで、殺される?)
洋子は目を閉じた。逃げ回ってあちこち打ったせいだろうか、体中がずきずきして痛い。頬はもちろん、腫れ上がってひりひりしている。それでも、その痛みがどこか茫然と遠ざかっていってしまう気がするのは、どこにも救いがないという思いからだ。
綾子を殺した犯人も、そのつまらなくて馬鹿馬鹿しい甘えた動機もわかったのに、何の制裁も加えてやれない。そればかりか、全ての罪をなすりつけられて命を終えるかもしれない。
(くやしい…)
男に生まれていればよかった。
久々に忘れていたことばが蘇った。
引きずり出されるように、昔の記憶が脳裏で弾け飛ぶ。
洋子の家は両親が子育てを知らない家だった。三つ下の妹、あやこと、いつもお腹を空かして、でかけたっきり帰ってこない親を待った。学校で必要なお金ももらえなかった。とうに死んでしまった祖父の知り合いがときどき家に訪ねてきてくれて、お金や食べ物を差し入れてくれた。
ネグレクトと暴力。
できるだけ早く、社会に出て働いてあやこと二人生きていくつもりだった。自立とかそんなのではなく、ただ生き延びるために「家を出ること」が必要だった。
だが、洋子が中学に入った翌年、妹は家で酔っぱらって不機嫌だった父親に暴行を受けた。学校から帰ると、あやこが大量に吐き戻してトイレの便器にすがっていた。救急車で運んだが手遅れだった。内臓破裂。そのまま数十分放置されていたのではないか、と医師はつぶやいた。
洋子の内側で何かが永久に切れた。洋子はいぎたなく部屋で寝そべっていた父親に飛びかかったが、逆に手酷く殴られ、さすがにうろたえた母親の通報で病院に収容された。
何があっても耐えしのんで生き抜いて、いつか父親を力の限り叩きのめし、這いつくばらせてやりたかった。母親を彼女の好きな高脂肪の食べ物の中へ突き落とし、埋めてしまいたかった。そのためならば、自分なんてどうなったってかまやしない。その恨みと憎しみで洋子はかろうじて生き延びた。
ずたずたの洋子がそれでも何とか心身共に社会に戻ってこれたのは、病院から転送された小さな施設のスタッフの優しさゆえだ。
彼らは洋子を受け止めてくれた。千切れた魂を拾い集めるように、そっと洋子を育て直してくれた。だからこそ、洋子は今、こうして看護師になっている…のだ。
(なのに……)
きり、と歯が鳴った。
(なのに……また…何もできないで…何もしないで…)
腹はねじれるように痛んで苦しかったが、このままで終わらせる気はなかった。
洋子はのろのろと床に転がった割れ砕けた皿ににじり寄った。尖った破片を探して握り込み隠し持つ。固い感触が掌に食い込んだが、痛みは感じなかった。
日高が戻ってきたとき、それが唯一の反撃できる機会だ。相打ちにしてでも、日高が当然のように受け取るつもりでいる「明るい未来」とやらに一筋の暗黒を刻んでやる。この先幾夜も悪夢にうなされるような、暗がりに潜む陰にすぐさま洋子を思い出して怯えるような恐怖を。
そう思い定めて息を整え、洋子は薄く笑った。
(いつでも踏みにじられる人間ばかりじゃないってことを教えてやる)
つぶやく自分の胸の奥に、ふつふつと滾る闇を感じた。それは冷ややかな喜びに跳ね回り、心臓の鼓動を高ぶらせていく。
看護師であるならば、それは感じてはいけないもの、人を癒すことではなくて、人を傷つけることに喜びを感じるこの気持ちは……ふいにそう気づいて洋子は眉をひそめた。
(もう……看護師には戻れない…なあ…)
岡村主任、倉敷師長や患者さん達の顔…それに、国家試験に受かったことを我が事のように喜んでくれた施設のスタッフの顔が脳裏を過って胸を締めつけた。
(ここで……殺されたら…どうせ…戻れない…か……ばかだな…)
苦笑いはできるのに、体がぐったりして動いてくれない。苛立たしさと虚しさが募っていって、萎えてしまう気力を引き戻そうと洋子は欠片を握ったこぶしに力を込めた。ぬる、と指先が掌を滑る。落とさないようになおも必死に握りしめる。
「ちょっと待って……はい、何でしょうか」
日高が玄関で今までの争いが何もなかったように穏やかな対応をしているのが聞こえる。できることなら今すぐ悲鳴を上げて異変を知らせたい。だが、口が開かない、強ばって凍りついてしまっている。
(怖いんだ……死ぬって思ってるのに…まだ…殴られるのが怖いんだ…)
洋子は唇を噛んだ。
「宅配です、ハンコを頂けますか」
「ああ、ちょっと待って」
日高と業者のやりとりが、次第に遠くで聞こえる。殴られたせいなのか、それとも気持ちが限界を越えてしまったのか、意識が薄れてきているようだ。
(このまま気を失うなんて…いやだ…)
洋子がよりきつく唇を噛みしめたとき、
「あ、待て、こら」
ぱたぱたぱたっと軽い足音が玄関から走り込んできて、洋子の側で立ち止まった。はっはっはっというせわしない呼吸音に変わって、耳のあたりを何かがくすぐる。
(何?)
うっすらと目を開けた洋子に、黒い小さな毛糸玉のようなものが映った。
「こら、困るじゃないか、犬が入ったぞ、あれを…がふっ…げっ…」
日高の不快そうな声は突然妙なうめきで途切れた。
ふんふん、と鼻を鳴らすような音は耳元でまだ響いている。
洋子は瞬きした。
すりすりと体をすりよせてきている温かな毛の塊は、瞬きすると、なぜか小さな男の子に変わっていた。
(あれ…?)
男の子は、洋子が目を開けたのに気づいて、ひょいと顔を上げた。
大きな真ん丸な目で嬉しそうに笑ったが、洋子の頬の傷を見ると、びっくりした顔になって瞬きした。みるみる泣きそうになって、小さな手で洋子の頬をなでてくれる。強ばって緊張していた口が、その柔らかな仕草に少し融けた。
「……うん…だいじょう…」
ぶ、のことばは、ぬうっと姿を現した黒い人影に再び喉に詰まった。
(日高)
用事を済ませた日高がもどってきたのかと無意識に身を竦めて、それが間違いだったとすぐに気づいた。
(護王…?)
あいかわらずの黒いシャツと黒いジーンズの護王は、床に転がっている洋子を見つけると一瞬大きく目を見開いた。一動作で近づきながら、間近に来るとゆっくりとした動きで無言で洋子の前に膝をついた。壊れ物を持ち上げるようにそっと洋子の体の下に手をさし入れかけ、途中で向きを変えて洋子の頬の傷と唇の端をそうっとなでる。
「もう、口、噛むな」
掠れて震えた声で低く命じた。
「血ぃ、出てるし」
洋子が握り込んだ手に気がついたのだろう、訝しげにこぶしを開かせてみて中身を覗くと、眉をしかめて呻くように悲痛な声を上げた。
「こんなもん……握って……あいつに…反撃しかけるつもりやったんか…?」
眉根を寄せた苦しげな顔で、護王は体を折り曲げ、そっと片手で洋子を抱きかかえた。残る片手で洋子の掌からそっと丁寧に皿の破片を抜き取り、捨てる。その間中、護王の体はちりちりとした電気のようなものが走っているように震えている。
「切れてるやんか……手ぇ、ずたずたやんか…何考えてんねん」
幼い声が恨みがましく続けた。
「何で俺を呼ばへんかったんや……もっとはように……なんで呼んでくれへんかった…?」
口ごもって何かを堪えるように目を伏せ、顔を背けたまま、護王は微かな声で付け加えた。
「…あほぅ…」
ふいにそのことばが洋子の強ばりを解いた。張り詰めていた気持ちが緩みとろける。視界が揺れて熱く滲む。開いたままの目からぽろぽろと涙が零れ落ちて頬を伝う。
「護王…」
護王は洋子の声によりきつく眉を寄せた。怒ってでもいるような険しい表情で、洋子の右手を自分の口元に引き寄せる。ざら、と掌を舌でなめられて、洋子は走った痛みに体を強ばらせた。思わず手を引きかけたのを制される。
「逃げなや……破片が残ってると傷が治りにくなる」
ぺっと側のじゅうたんに朱色の唾を吐いた護王の目が揺らめくように洋子を捉え直した。だが、まっすぐに自分を見つめている洋子の目に怯んだように目を伏せ、微かに赤くなって顔を背けた。
「もう大丈夫やし…あいつは殴り飛ばした。気ぃ失っとるわ。しばらく起きられへんやろ」
「…うん…」
(助かったんだ)
体がどんどん弛んでいく。涙がどうにもとまらない。
「もう…大丈夫やし」
「うん…」
(生きてる)
抱いてくれている護王の体が温かい。心臓の鼓動がはっきりと伝わってくる。
(生きてるんだ…)
洋子は笑った。
「そやから…」
護王は困ったような顔で振り向き、洋子が笑っているのに凍りついたように動きを止めた。瞬きし、それでも何か見えない糸に絡まれているようにそろそろと首を傾げて洋子を覗き込む。
「頼むし…もう泣かんとって…そやないと、俺…」
つぶやいて、ごくん、と護王は唾を呑み込んだ。何かとても話しにくそうだ。けれど、その薄く染まった護王の顔を見ているのは、とても平和で幸せなことのように思えて、洋子はますます笑みを深めた。
「うん……」
(もう…死ななくていい…)
胸の中でぽうんとそのことばが浮かび上がる。
犯人はわかった。洋子は殺されなかった。
あやこが笑う。綾子が笑う。ゆらゆらとした陽炎になった嵯峨がいつものように笑いかけてくれる。
それはもう……決して戻らない光景では、あるのだけれど。
「姫さん…?」
(もう……誰も…死なないで…)
「ちょっ……姫さんっ! 姫さ…!!」
護王が叫ぶ声はみるみる洋子の意識から遠ざかった。
0
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