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5.もう一人の姫(1)
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荷物の運び出しは翌々日には済んだ。もともと荷物らしい荷物はない。一人分の食器と一人分の衣類、それに本やCDがいくらか。
「これで終わりなんか?」
「うん」
詰まった段ボール箱を部屋に運び入れて、護王がこちらを振り向く。日射しが強くなってきている日中のこと、汗ばんだ額に短い髪の毛が一筋ニ筋張りついている。肩あたりまで捲りあげたTシャツの背中がよじられたようにくしゃくしゃになっていて、腕もしっとりと光っていた。
うなずく洋子に護王が眉を寄せる。
「何?」
「いや……こんな少ないもんかな、と思て……綾香のかって、もう少しあったような」
「綾、子?」
相手のことばに紛れ込んだ名前に心臓を掴まれた気がした。
「あ、いや、違う」
はっとした顔で護王が瞬きして、ことさらはっきり聞こえる口調で言った。
「あや、か………俺の……知り合いで…」
凝視している洋子ににわかにうろたえて顔を背けながら、
「なんか、ほら、化粧品とか、いろいろあるやんか、女て…服かて少ないし」
「ああ…」
洋子は笑った。
「寮にいるとね、そうそう物は要らないの」
(…あやか……)
聞いたことのない女名前は気になったが、きょとんと振り向く護王があまりにも無防備な表情なのに、吐息をついて段ボールを開けながら答えた。
「特に私なんか、新人のころからシビアだったからなあ……毎日二十四時間勤務だったこともあるよ?」
「毎日、二十四……?」
瞬きして一瞬考え込んだ護王はむっとしたように洋子を睨んだ。
「あほ…そんなん、ずっとおるんやないか」
からかわれたと思ったのだろう、唇を尖らせる。
「そうだよ?」
「へ?」
「簡単なこと」
洋子はまた笑った。
護王の表情はくるくる変わる。始めのころの冷徹で無表情なところはどこに消えてしまったのか、虚ろな穴のように見えた瞳さえ、数日一緒にいるだけで幾種類もの表情が読み取れて、またその一つ一つがそれまで動かなかっただけに目を奪うほどに新鮮で……自然と笑みがこぼれてしまう。
「言ったでしょ、シビアだったから、仕事が残って病棟から帰れなかったのも日常茶飯事だったわけで」
「…なんや……」
あっけにとられてから護王は破顔した。ばすん、とベッドに腰を降ろし、なおもくつくつ笑う。
「それひょっとして、とろかったから帰れへんかった、言うんちゃうか」
「そうとも言う」
「変なやつ……」
護王は目にかぶさった髪をかきあげながら嬉しそうに目を細めた。
「だから、看服以外、服はなくても困らない。寮に戻るのは眠るときだけだし、眠るときはトレーナーにジャージですむ。ああ、でも、そうだな、夜食買いにコンビニに行くときには多少整えるよ、これぐらいはね」
ウィンクして見せると、護王は一瞬目を見開き、笑うのをやめて固まってしまった。すぐに顔を逸らせて、今度は一転からかい口調になる。
「そやからかー、そのかっこ」
「え?」
洋子は自分の姿を見回した。白のTシャツ、洗い晒したジーパンはそういう仕立てではなくて、事実洗い晒したものだ。
「病室の着替えもジャージとかばっかしやったし」
護王はうんうんと納得したようにうなずいた。
「服もジーパンが多かったし、ミニスカとかワンピとかなかったし」
「…まあね」
一瞬引きつりそうになった顔を洋子は護王から背けた。段ボールの中身を出しているのに集中しているように手を動かす。
本当は唯一お気に入りだったワンピースが日高とのデートに着ていったもの、だった。スカート類が少ないのはもちろん着ていく場所がないというのもあったが、綾子と出かけるにしても不安がつきまとっていたせい、とも言える。
(もし、何かあったら)
何があるわけもなかったのに、『何か』が起こればスカートにヒールでは身動き取れない、地面を強く蹴って逃げ、或いは隙を見て体当たりして窮地を脱するためには、足元が不安定ではだめだ、そんなことを頭のどこかでずっと考えていたように思う。
(そうか)
緊張してたんだ。
あやこを失って、家を出て、綾子と出逢って、看護師として働きながら、ずっとずっと緊張していた。
再び失うことになりそうで。
けれど、それが絶対に許せなくて。
だから、いつもどこかでずっと気を張り詰めて、次の『万が一』には間に合うように、綾子を守りきれるように、そう準備し続けていた。
それは、叶わなかった、けれど。
「…それだけ……病棟におったんやったら……」
満ちた沈黙に、唐突にぽつりと護王がつぶやいて、洋子は振り返った。ベッドに腰を降ろした相手が、前屈みになってじっとこちらを見つめているのに気づく。
瞳は笑っていない。深くて柔らかい色だ。
「看護師……好きやったんやろ?」
息を呑んだ。
「嫌でたまらんかったら……おられへんかったよな?」
「……さあ……どうだろ」
はぐらかしたつもりが声が掠れた。緩みかけた目を慌てて背け、段ボール箱の中を覗き込む。奥の方にあるものがうまく取れないというふうを装って膝をつき、上半身をことさら深く、顔が見えないぐらいに落とし込んで、洋子は応えた。
「……まあ……たぶん…」
喉が詰まってことばが途切れた。
(くそ)
冬木やなおこの顔が視界に光を帯びて駆け抜ける。異変を察知し体に走る緊迫感、飛び交う怒号や泣き声に揺さぶられながら、一瞬で対応を判断し仲間を振り返る充実感。手際のよくない新人だった、なかなか病棟勤務にはまりこめなかった、叱られて怒鳴られて苦情や文句を降り注がれて。
それでも、夜勤で見回ったとき、怖いんです、と縋られた患者の震えを覚えている。助けてくれとしがみつかれた腕の力を覚えている。自分の力不足に泣きながら怒りながら、それでもほんの僅かの奇跡を求めて続ける救急蘇生、視界の端の涙に塗れた家族の顔を覚えている。
そうだ、ずっと緊張していた。
最悪の事態を招かないために。最悪の結果を回避するために。
無力な自分を感じながらも一歩だって引く気はなかった、自分の背後にいるのはあやこ、奪い去られた命そのものだったから。
けれど、それが何だったのだろう。
それがどれほどの苦痛だったのだろう。
傷みに見合うものをいつも自分は受け取っていた。容赦のない死の前に立ち塞がることのできる仕事を、心底誇りに思っていた。
だが、そこには、もう、戻れない。
「……姫さん」
「っ」
温かなものが背後から自分を抱き締めてきて動けなくなった。背中から回された左腕が洋子を抱え、右腕が滑り込んで洋子の左頬を探る。
「……一人で……泣かんとって…?」
右の耳もとで柔らかな声がつぶやく。
「あんたの傷み……俺にちょうだい…?」
流れた涙で濡れた護王の手が、そっと洋子の顎を掴み振り向かせる。潤んだ洋子の視界に、眉をひそめて自分の方がつらそうに微笑む護王の顔が入ってくる。抱きかかえられた背中でとくとくと打つ鼓動が少しずつ早まっていく。包む体の熱が高まる。
「俺はあんたの護王やろ?…あんたを……護る…命にかえても護る……約束する」
命にかえても。
洋子が果たせなかった祈りが胸を切なく締めつける。
(だめだ…)
必死に掲げていた気概を優しく外す深いつぶやきに気持ちがとろける。
「姫さん……」
近づく唇に目を閉じ口を固くつぐむ。吐息がかかる。そっと唇に押しつけられた柔らかなものがじれったがるように一度離れた。
「なあ…」
甘えるような声が何をねだっているのか、わかっている。けれどそれを認めるのは恥ずかしくて。逃げ出したいほど恥ずかしくて。なのに身動き一つとれなくて。
それでもついに、吐息を乗せて、護王、と口を開こうとしたその矢先。
ぴいんぽーん。
「!」
ぎく、と洋子は凍りついた。思わず目を開けると、間近に護王の顔があってなおさら硬直する。全身の血が一気に顔へと駆け上がってくる。ところが、相手は平然とした顔で洋子を見つめながら、もう一度、と言わんばかりに目を伏せた。いつもは印象的な黒い目に弾かれて意識に残らないまつげの濃さが目に飛び込む。
「あ…」
逃げかけた動きはすぐに強く封じられた。中途半端に体を引き上げられているせいか、膝が震えを増していく。なのに、今度は目が閉じられない。あまりにも、相手の顔が幸福そうな笑みに綻んでいくのに見愡れてしまった。
だが。
ぴいいいいんぽおおおおおおーん。
再び間の抜けた音が部屋中に響き渡った。
そればかりか、がんがんがんがん、と激しくドアを叩く音に続いて、
「護王!! いるんやろ、居留守使わんと出てき!!!」
高い声が最大音量で響いた。
「え……?」
今度ばかりはぎょっとした顔になって護王が動きを止め、体を起こして玄関のドアの方を伺い、眉を寄せる。
「綾香?」
(あや、か)
「護王! ちょっと、聞いてんの!!」
「ちいいっ!」
顔を歪めて舌打ち一つ、それでも未練がましく洋子の体を手放さない護王を追い詰めるように、
「出てこおへんやったら、叫ぶでー。おっまわりさーーーん、ここに殺人犯がいますううーーー!」
「うわっ!」
さすがに護王が腕を緩めた。僅かにできた身体の隙間、そこに入り込んだ風に力を得たように洋子が身を引くと、不承不承といった様子で護王が立ち上がる。
「ちょっと、待っとって」
立ち上がりかけた洋子を、護王がぎくりとしたように制した。真剣な顔で床に座り込んでいる洋子を見下ろし、
「話してくるし。姫さんにも後でちゃんと話すし」
「う…ん」
「待っとって? な?」
「うん」
洋子が今度ははっきりうなずくと、護王はほっとしたように急ぎ足で部屋を出た。
だが、洋子がはっきり返答したのは納得したからではない。相手を安心させるためだ。護王が側を離れていくと、後ろ姿を追って戸口をすり抜け、居間に向かう。
護王は洋子の動きに気づいていなかったようだ。振り返りもせずに玄関に近づき、一気にドアを開け放つと、向こうにいた少女が転がるように護王の胸に飛び込んできた。
「護王、みーっけ!」
「……綾香」
飛びついた体を押し返すそぶりもなく、護王が溜息をつく。
「なんやな……いったい」
「なんやって……御挨拶やなあ……姫さん、見つかったんやろ?」
びく、と護王が体を震わせる。護王を見上げた相手が眉をしかめてつぶやいた。
「どないしたん、怖い顔して。花王紋も確認したんやろ? 里にそう言うてきたやん」
(花王、紋)
洋子は思わず左肩を押さえた。
騒ぎですっかり忘れていた。護王は洋子の肩のあざで彼女を殺すのを思いとどまったのだし、それは『姫さん』の徴だと言っていたのだ。それが何を意味するのか、そして『姫さん』が何なのか、洋子はまだ護王に確認していない。
洋子の動きに気づいたのだろう、少女が体をずらせて護王の向こうから顔を覗かせた。
「!!」
世界がたった今滅亡すると言われても、これほどの衝撃があったかどうか。
「あ、あれ、もう一人の姫さん?」
「え!」
少女は茶色の猫っ毛をふわふわと肩に揺らせながら、見覚えのある甘い微笑を投げてよこした。ぎょっとした顔で洋子を振り返る護王の顔が見る見る青ざめる。そして、洋子も、その状況がどうにも飲み込めずに瞬きを繰り返した。
「初めてお目にかかります」
相手は抱きとめた護王の腕にしっかり掴まったまま、ぺこりと形だけ頭を下げて笑った。
「大西綾香。綾子ちゃんの双児の妹です、よろしく。綾は綾子の綾、香は香りの香なん、間違えんといてね」
「…大西……? …綾香…?」
喉が干上がって声がうまくでない。
洋子は綾子そっくりの顔で笑う茶色の瞳に呑まれたように茫然と突っ立っていた。
「綾香…かあ……」
洋子は暮れてしまった部屋の中でぼんやりと座っている。電気をつければいいのだろうが、どうにも立ち上がる気力がわかない。部屋に荷物も放り出したままだ。いや、今となっては、荷物を解いていいものかどうかもわからなくなってきた。
薄暗い部屋のテーブルには、綾香が残した一枚の写真がある。浴衣姿の幼い少女二人で、お揃いの朝顔の模様がかわいらしい。右側が綾子、左側が綾香と言われても、すぐに見分けがつかないほどそっくりな二人の少女の写真。
綾子はもともと桜里で双児として生まれたのだそうだ。けれど、閉鎖的な里では双子というのは居心地が悪かったらしく、結局綾子を連れて大西夫婦は里を出た。綾香が残されたのは、その背中に花王紋が早くから出ていたせいで、これがある里の娘は祭礼に大事な役割を果たすとされ、巫女の扱いを受けるらしい。綾子の両親が死んでしまって、一旦は里に戻った綾子だったが、言わばそこにはもう一人の自分がいるようなもの、さすがに居づらかったのか、そうそうに村を出ていったらしい。
祭礼は近々執り行なわれるのだが、巫女が二人必要なのだそうだ。巫女は花王紋を持っている血筋と定められていて、本来ならばもう一人の巫女をする予定だった娘が事故死してしまった。
里には他にもうふさわしい娘がいなかった。困った里人達は協議し、ひょっとしたら双子の綾子にも花王紋が出ているかもしれないということで、綾子を探しに護王が里を離れたらしい。
だが、その綾子がこちらで事件に巻き込まれて死んでしまった。
これは伝統としての祭礼は中止にし、形だけでも二人の巫女を整えるしかないかと案じていたところ、護王からもう一人、花王紋の娘を見つけたと連絡が入った。里の血筋ではないのに花王紋があるのも不思議なことだが、護王が見つけたのなら確かだろう、とりあえず確認しろとのことで綾香がやってきたのだと言う。
『里には若いのがあんまり残ってへんしね』
綾香がいたずらっぽく笑った。綾香自身もいっときは違う街で大学に通っていたのだが、祭礼がらみで呼び戻されて、今は里で暮しているのだと言う。綾子よりも遥かに幼く見える容姿は田舎暮しの呑気さやろかと続けた綾香を、護王は険しい顔でドアから押し出した。
『ちょっと出てくるわ……行こ、綾香』
青く見えるほど緊張した顔で告げて、護王と綾香が出て行ってから、もう四、五時間になるだろうか。一向に帰る気配がない。
(綾香…って……そういえば…)
洋子、とは呼ばれていないなあとふいに思い当たって、洋子はゆっくり瞬きした。
護王が洋子のことを呼ぶ名前は、いつも『姫さん』だ。
しかし、さっきの綾香の話でいくと、護王はただ単に祭礼に必要な『姫さん』役の人間を探していた、ということになる。
(花王紋さえあればよかったってこと、だよね?)
そして、綾香が飛びついてきたのを拒む気配さえなかった護王の後ろ姿は『そういうこと』が当たり前だったことを思わせるのに十分で。そしてまた、護王が『姫さん』探しに部屋を用意してまで奔走していたのは、他でもない綾香の果たす役割を全うさせるためとも言えるわけで。
いつか、あの寮の前で、切なそうに探していたのは、綾子が見つからないと綾香が困ることを思ってのことだったのかもしれない。それに、綾香の引っ越しも手伝っていた気配もあるし、何よりも最後に綾香がむっとした顔で先へ行く護王の隙を見て、洋子に囁いたことばが気持ちを凍らせている。
『迷惑かけたんとちゃう? あいつ、あたしのことやと、つい誰でも利用するし』
え、と意味を量りかねて綾香を見返した洋子に、それこそ綾子そっくりに頬を明るく染めて綾香は言った。
『祭礼が終わらへんと一緒にならへん、言うてんねん。ちゃんとしてな、て。そやけど、男やろ? つい我慢でけへんってこともあるやろ? まさか、花王紋の「姫さん」に手ぇ出すはずないと思うけど、あんたかて結構きれいやし、なあ?』
ちらっと洋子のジーパン姿を舐めた眼を細めて、綾香はくすくすっと楽しそうに笑った。また、その顔も機嫌のいいときの綾子そっくりで。
(なんだか……苦しい…)
綾子そっくりの綾香が幸福そうに笑うのは嬉しい。もう二度と会えないと思っていた笑顔を見られることが無条件に嬉しい。そして、綾香が護王の側に寄りそうように、抱えられるように遠ざかっていくのも、その無上に幸せそうな様子にほっとする。けれども、同時に、わけのわからない痛みが胸の内側にしこりを作っていくのがわかる。
冷え冷えとした固くてとげとげしい塊だ。手で触れられそうにはっきりしている感じがするのに、それをしっかり掴んだら意外に脆く砕けて周囲を汚してしまいそうだ。
「なんだか……なあ…」
感覚がどんどんぼやけていくような気がする。
それは危険な徴候だ。ずっと昔、あやこを失って父親に飛びかかったとき、それから、その後運び込まれた病院で、似たようなものを感じたことがある気がする。
附随しているものは真っ暗な沈黙。そして、その沈黙は底の方に殺意を秘めている。
(まずいよなあ)
洋子は立ち上がった。竦む足を無理に動かして部屋の灯をつける。つけてから、しまった、と思った。誰もいない部屋ががらんとしているのを逆に認識してしまい、またぐらりと危ういバランスが揺れていく。
(何か…してないと)
必要なことをしていないと、だめだ。
洋子は身を翻した。必要かどうかはわからないが、部屋の荷物を解いて片付けようと思った。だが、段ボールに手をかけたとたん、昼間の感覚が蘇った。自分が本当に看護師から離れるしかないのだと理解した瞬間の傷みを、抱きとめてくれた護王の温もりと低い声。「約束する」……だが、いったい、何を?
へた、と足が崩れた。
(何を、している?)
荷物を解いて、それから?
ゆっくりと周囲を見回す。白いベッド、整えられた家具とカーテン、丁寧に主を待って守られてきた『姫さん』の部屋。
(それから、ここで、何を、する?)
誰が、から間違っている様子なのに?
落とした手がかさっとしたものに触れて、洋子は我に返った。手にしているのは綾子の里の住所を書いた紙と村上の携帯の番号だ。
「あ……」
そう言えば、退院してから村上に電話をしていない。
(つい忘れてた)
楽しくて。
無意識に続けたことばにどきりとする。
(護王と居るのが、楽しくて)
洋子は唇を噛んだ。急いで立ち上がり、居間に入って隅のボードの電話を取り上げる。メモを見ながら受話器を上げて番号を押した。数回の呼び出しの後、唐突に声が飛び込んでくる。
『はい、村上ですが?』
落ち着いた穏やかな声にふっと気持ちがおさまった。
「あの……すみません…葛城」
『洋子さん』
「!」
洋子、の名前を同時に声で重ねられて眼を見開いた。
『よかった、今どこにいるんです?』
「あ……えーと、ごめんなさい、知り合いの家に…」
『話したいことがあって…でも、そうのんびりもしていられなくなりました』
「は?」
『すぐに会いたいんですが。どこにいます? どこに行けば会えますか?』
「あ…あの…」
洋子は居間を振り返った。相変わらず護王と綾香の帰ってくる気配はない。かといって、ここへ呼び込んでいいものかどうかわからない。第一、下の玄関のオートロックを外す暗証番号がわからない。
(ああ…そうか)
ふいにすとん、と洋子の胸に落ちたものがあった。
綾香は護王に案内を請うことなくここへ上がってきた。彼女は下のドアの暗証番号を知っていたということだ。そして、それは、何度かここに出入りしていたということになる。
(何度も、か?)
居間に比べて落ち着いた『姫さん』の部屋の気配は、綾香によるものかもしれないとようやく思いつく。
(じゃあ、ここへ入れるわけにはいかないなあ)
ポケットを探るとチャリ、と微かな音がした。この部屋の合鍵は持っている。昨日出入りに不自由しないようにと護王がくれたのだ。けれど、オートロックの暗証番号は知らないから、次にここに戻ってこれるかどうかはわからない。
(どこにも……戻れない…か?)
今の自分そっくりだと苦笑いして洋子は返事を待っている村上に声をかけた。
「病院の看護師寮の近くに居るんです。今から出ますから、どこで落ち合ったらいいか教えて下さい」
「これで終わりなんか?」
「うん」
詰まった段ボール箱を部屋に運び入れて、護王がこちらを振り向く。日射しが強くなってきている日中のこと、汗ばんだ額に短い髪の毛が一筋ニ筋張りついている。肩あたりまで捲りあげたTシャツの背中がよじられたようにくしゃくしゃになっていて、腕もしっとりと光っていた。
うなずく洋子に護王が眉を寄せる。
「何?」
「いや……こんな少ないもんかな、と思て……綾香のかって、もう少しあったような」
「綾、子?」
相手のことばに紛れ込んだ名前に心臓を掴まれた気がした。
「あ、いや、違う」
はっとした顔で護王が瞬きして、ことさらはっきり聞こえる口調で言った。
「あや、か………俺の……知り合いで…」
凝視している洋子ににわかにうろたえて顔を背けながら、
「なんか、ほら、化粧品とか、いろいろあるやんか、女て…服かて少ないし」
「ああ…」
洋子は笑った。
「寮にいるとね、そうそう物は要らないの」
(…あやか……)
聞いたことのない女名前は気になったが、きょとんと振り向く護王があまりにも無防備な表情なのに、吐息をついて段ボールを開けながら答えた。
「特に私なんか、新人のころからシビアだったからなあ……毎日二十四時間勤務だったこともあるよ?」
「毎日、二十四……?」
瞬きして一瞬考え込んだ護王はむっとしたように洋子を睨んだ。
「あほ…そんなん、ずっとおるんやないか」
からかわれたと思ったのだろう、唇を尖らせる。
「そうだよ?」
「へ?」
「簡単なこと」
洋子はまた笑った。
護王の表情はくるくる変わる。始めのころの冷徹で無表情なところはどこに消えてしまったのか、虚ろな穴のように見えた瞳さえ、数日一緒にいるだけで幾種類もの表情が読み取れて、またその一つ一つがそれまで動かなかっただけに目を奪うほどに新鮮で……自然と笑みがこぼれてしまう。
「言ったでしょ、シビアだったから、仕事が残って病棟から帰れなかったのも日常茶飯事だったわけで」
「…なんや……」
あっけにとられてから護王は破顔した。ばすん、とベッドに腰を降ろし、なおもくつくつ笑う。
「それひょっとして、とろかったから帰れへんかった、言うんちゃうか」
「そうとも言う」
「変なやつ……」
護王は目にかぶさった髪をかきあげながら嬉しそうに目を細めた。
「だから、看服以外、服はなくても困らない。寮に戻るのは眠るときだけだし、眠るときはトレーナーにジャージですむ。ああ、でも、そうだな、夜食買いにコンビニに行くときには多少整えるよ、これぐらいはね」
ウィンクして見せると、護王は一瞬目を見開き、笑うのをやめて固まってしまった。すぐに顔を逸らせて、今度は一転からかい口調になる。
「そやからかー、そのかっこ」
「え?」
洋子は自分の姿を見回した。白のTシャツ、洗い晒したジーパンはそういう仕立てではなくて、事実洗い晒したものだ。
「病室の着替えもジャージとかばっかしやったし」
護王はうんうんと納得したようにうなずいた。
「服もジーパンが多かったし、ミニスカとかワンピとかなかったし」
「…まあね」
一瞬引きつりそうになった顔を洋子は護王から背けた。段ボールの中身を出しているのに集中しているように手を動かす。
本当は唯一お気に入りだったワンピースが日高とのデートに着ていったもの、だった。スカート類が少ないのはもちろん着ていく場所がないというのもあったが、綾子と出かけるにしても不安がつきまとっていたせい、とも言える。
(もし、何かあったら)
何があるわけもなかったのに、『何か』が起こればスカートにヒールでは身動き取れない、地面を強く蹴って逃げ、或いは隙を見て体当たりして窮地を脱するためには、足元が不安定ではだめだ、そんなことを頭のどこかでずっと考えていたように思う。
(そうか)
緊張してたんだ。
あやこを失って、家を出て、綾子と出逢って、看護師として働きながら、ずっとずっと緊張していた。
再び失うことになりそうで。
けれど、それが絶対に許せなくて。
だから、いつもどこかでずっと気を張り詰めて、次の『万が一』には間に合うように、綾子を守りきれるように、そう準備し続けていた。
それは、叶わなかった、けれど。
「…それだけ……病棟におったんやったら……」
満ちた沈黙に、唐突にぽつりと護王がつぶやいて、洋子は振り返った。ベッドに腰を降ろした相手が、前屈みになってじっとこちらを見つめているのに気づく。
瞳は笑っていない。深くて柔らかい色だ。
「看護師……好きやったんやろ?」
息を呑んだ。
「嫌でたまらんかったら……おられへんかったよな?」
「……さあ……どうだろ」
はぐらかしたつもりが声が掠れた。緩みかけた目を慌てて背け、段ボール箱の中を覗き込む。奥の方にあるものがうまく取れないというふうを装って膝をつき、上半身をことさら深く、顔が見えないぐらいに落とし込んで、洋子は応えた。
「……まあ……たぶん…」
喉が詰まってことばが途切れた。
(くそ)
冬木やなおこの顔が視界に光を帯びて駆け抜ける。異変を察知し体に走る緊迫感、飛び交う怒号や泣き声に揺さぶられながら、一瞬で対応を判断し仲間を振り返る充実感。手際のよくない新人だった、なかなか病棟勤務にはまりこめなかった、叱られて怒鳴られて苦情や文句を降り注がれて。
それでも、夜勤で見回ったとき、怖いんです、と縋られた患者の震えを覚えている。助けてくれとしがみつかれた腕の力を覚えている。自分の力不足に泣きながら怒りながら、それでもほんの僅かの奇跡を求めて続ける救急蘇生、視界の端の涙に塗れた家族の顔を覚えている。
そうだ、ずっと緊張していた。
最悪の事態を招かないために。最悪の結果を回避するために。
無力な自分を感じながらも一歩だって引く気はなかった、自分の背後にいるのはあやこ、奪い去られた命そのものだったから。
けれど、それが何だったのだろう。
それがどれほどの苦痛だったのだろう。
傷みに見合うものをいつも自分は受け取っていた。容赦のない死の前に立ち塞がることのできる仕事を、心底誇りに思っていた。
だが、そこには、もう、戻れない。
「……姫さん」
「っ」
温かなものが背後から自分を抱き締めてきて動けなくなった。背中から回された左腕が洋子を抱え、右腕が滑り込んで洋子の左頬を探る。
「……一人で……泣かんとって…?」
右の耳もとで柔らかな声がつぶやく。
「あんたの傷み……俺にちょうだい…?」
流れた涙で濡れた護王の手が、そっと洋子の顎を掴み振り向かせる。潤んだ洋子の視界に、眉をひそめて自分の方がつらそうに微笑む護王の顔が入ってくる。抱きかかえられた背中でとくとくと打つ鼓動が少しずつ早まっていく。包む体の熱が高まる。
「俺はあんたの護王やろ?…あんたを……護る…命にかえても護る……約束する」
命にかえても。
洋子が果たせなかった祈りが胸を切なく締めつける。
(だめだ…)
必死に掲げていた気概を優しく外す深いつぶやきに気持ちがとろける。
「姫さん……」
近づく唇に目を閉じ口を固くつぐむ。吐息がかかる。そっと唇に押しつけられた柔らかなものがじれったがるように一度離れた。
「なあ…」
甘えるような声が何をねだっているのか、わかっている。けれどそれを認めるのは恥ずかしくて。逃げ出したいほど恥ずかしくて。なのに身動き一つとれなくて。
それでもついに、吐息を乗せて、護王、と口を開こうとしたその矢先。
ぴいんぽーん。
「!」
ぎく、と洋子は凍りついた。思わず目を開けると、間近に護王の顔があってなおさら硬直する。全身の血が一気に顔へと駆け上がってくる。ところが、相手は平然とした顔で洋子を見つめながら、もう一度、と言わんばかりに目を伏せた。いつもは印象的な黒い目に弾かれて意識に残らないまつげの濃さが目に飛び込む。
「あ…」
逃げかけた動きはすぐに強く封じられた。中途半端に体を引き上げられているせいか、膝が震えを増していく。なのに、今度は目が閉じられない。あまりにも、相手の顔が幸福そうな笑みに綻んでいくのに見愡れてしまった。
だが。
ぴいいいいんぽおおおおおおーん。
再び間の抜けた音が部屋中に響き渡った。
そればかりか、がんがんがんがん、と激しくドアを叩く音に続いて、
「護王!! いるんやろ、居留守使わんと出てき!!!」
高い声が最大音量で響いた。
「え……?」
今度ばかりはぎょっとした顔になって護王が動きを止め、体を起こして玄関のドアの方を伺い、眉を寄せる。
「綾香?」
(あや、か)
「護王! ちょっと、聞いてんの!!」
「ちいいっ!」
顔を歪めて舌打ち一つ、それでも未練がましく洋子の体を手放さない護王を追い詰めるように、
「出てこおへんやったら、叫ぶでー。おっまわりさーーーん、ここに殺人犯がいますううーーー!」
「うわっ!」
さすがに護王が腕を緩めた。僅かにできた身体の隙間、そこに入り込んだ風に力を得たように洋子が身を引くと、不承不承といった様子で護王が立ち上がる。
「ちょっと、待っとって」
立ち上がりかけた洋子を、護王がぎくりとしたように制した。真剣な顔で床に座り込んでいる洋子を見下ろし、
「話してくるし。姫さんにも後でちゃんと話すし」
「う…ん」
「待っとって? な?」
「うん」
洋子が今度ははっきりうなずくと、護王はほっとしたように急ぎ足で部屋を出た。
だが、洋子がはっきり返答したのは納得したからではない。相手を安心させるためだ。護王が側を離れていくと、後ろ姿を追って戸口をすり抜け、居間に向かう。
護王は洋子の動きに気づいていなかったようだ。振り返りもせずに玄関に近づき、一気にドアを開け放つと、向こうにいた少女が転がるように護王の胸に飛び込んできた。
「護王、みーっけ!」
「……綾香」
飛びついた体を押し返すそぶりもなく、護王が溜息をつく。
「なんやな……いったい」
「なんやって……御挨拶やなあ……姫さん、見つかったんやろ?」
びく、と護王が体を震わせる。護王を見上げた相手が眉をしかめてつぶやいた。
「どないしたん、怖い顔して。花王紋も確認したんやろ? 里にそう言うてきたやん」
(花王、紋)
洋子は思わず左肩を押さえた。
騒ぎですっかり忘れていた。護王は洋子の肩のあざで彼女を殺すのを思いとどまったのだし、それは『姫さん』の徴だと言っていたのだ。それが何を意味するのか、そして『姫さん』が何なのか、洋子はまだ護王に確認していない。
洋子の動きに気づいたのだろう、少女が体をずらせて護王の向こうから顔を覗かせた。
「!!」
世界がたった今滅亡すると言われても、これほどの衝撃があったかどうか。
「あ、あれ、もう一人の姫さん?」
「え!」
少女は茶色の猫っ毛をふわふわと肩に揺らせながら、見覚えのある甘い微笑を投げてよこした。ぎょっとした顔で洋子を振り返る護王の顔が見る見る青ざめる。そして、洋子も、その状況がどうにも飲み込めずに瞬きを繰り返した。
「初めてお目にかかります」
相手は抱きとめた護王の腕にしっかり掴まったまま、ぺこりと形だけ頭を下げて笑った。
「大西綾香。綾子ちゃんの双児の妹です、よろしく。綾は綾子の綾、香は香りの香なん、間違えんといてね」
「…大西……? …綾香…?」
喉が干上がって声がうまくでない。
洋子は綾子そっくりの顔で笑う茶色の瞳に呑まれたように茫然と突っ立っていた。
「綾香…かあ……」
洋子は暮れてしまった部屋の中でぼんやりと座っている。電気をつければいいのだろうが、どうにも立ち上がる気力がわかない。部屋に荷物も放り出したままだ。いや、今となっては、荷物を解いていいものかどうかもわからなくなってきた。
薄暗い部屋のテーブルには、綾香が残した一枚の写真がある。浴衣姿の幼い少女二人で、お揃いの朝顔の模様がかわいらしい。右側が綾子、左側が綾香と言われても、すぐに見分けがつかないほどそっくりな二人の少女の写真。
綾子はもともと桜里で双児として生まれたのだそうだ。けれど、閉鎖的な里では双子というのは居心地が悪かったらしく、結局綾子を連れて大西夫婦は里を出た。綾香が残されたのは、その背中に花王紋が早くから出ていたせいで、これがある里の娘は祭礼に大事な役割を果たすとされ、巫女の扱いを受けるらしい。綾子の両親が死んでしまって、一旦は里に戻った綾子だったが、言わばそこにはもう一人の自分がいるようなもの、さすがに居づらかったのか、そうそうに村を出ていったらしい。
祭礼は近々執り行なわれるのだが、巫女が二人必要なのだそうだ。巫女は花王紋を持っている血筋と定められていて、本来ならばもう一人の巫女をする予定だった娘が事故死してしまった。
里には他にもうふさわしい娘がいなかった。困った里人達は協議し、ひょっとしたら双子の綾子にも花王紋が出ているかもしれないということで、綾子を探しに護王が里を離れたらしい。
だが、その綾子がこちらで事件に巻き込まれて死んでしまった。
これは伝統としての祭礼は中止にし、形だけでも二人の巫女を整えるしかないかと案じていたところ、護王からもう一人、花王紋の娘を見つけたと連絡が入った。里の血筋ではないのに花王紋があるのも不思議なことだが、護王が見つけたのなら確かだろう、とりあえず確認しろとのことで綾香がやってきたのだと言う。
『里には若いのがあんまり残ってへんしね』
綾香がいたずらっぽく笑った。綾香自身もいっときは違う街で大学に通っていたのだが、祭礼がらみで呼び戻されて、今は里で暮しているのだと言う。綾子よりも遥かに幼く見える容姿は田舎暮しの呑気さやろかと続けた綾香を、護王は険しい顔でドアから押し出した。
『ちょっと出てくるわ……行こ、綾香』
青く見えるほど緊張した顔で告げて、護王と綾香が出て行ってから、もう四、五時間になるだろうか。一向に帰る気配がない。
(綾香…って……そういえば…)
洋子、とは呼ばれていないなあとふいに思い当たって、洋子はゆっくり瞬きした。
護王が洋子のことを呼ぶ名前は、いつも『姫さん』だ。
しかし、さっきの綾香の話でいくと、護王はただ単に祭礼に必要な『姫さん』役の人間を探していた、ということになる。
(花王紋さえあればよかったってこと、だよね?)
そして、綾香が飛びついてきたのを拒む気配さえなかった護王の後ろ姿は『そういうこと』が当たり前だったことを思わせるのに十分で。そしてまた、護王が『姫さん』探しに部屋を用意してまで奔走していたのは、他でもない綾香の果たす役割を全うさせるためとも言えるわけで。
いつか、あの寮の前で、切なそうに探していたのは、綾子が見つからないと綾香が困ることを思ってのことだったのかもしれない。それに、綾香の引っ越しも手伝っていた気配もあるし、何よりも最後に綾香がむっとした顔で先へ行く護王の隙を見て、洋子に囁いたことばが気持ちを凍らせている。
『迷惑かけたんとちゃう? あいつ、あたしのことやと、つい誰でも利用するし』
え、と意味を量りかねて綾香を見返した洋子に、それこそ綾子そっくりに頬を明るく染めて綾香は言った。
『祭礼が終わらへんと一緒にならへん、言うてんねん。ちゃんとしてな、て。そやけど、男やろ? つい我慢でけへんってこともあるやろ? まさか、花王紋の「姫さん」に手ぇ出すはずないと思うけど、あんたかて結構きれいやし、なあ?』
ちらっと洋子のジーパン姿を舐めた眼を細めて、綾香はくすくすっと楽しそうに笑った。また、その顔も機嫌のいいときの綾子そっくりで。
(なんだか……苦しい…)
綾子そっくりの綾香が幸福そうに笑うのは嬉しい。もう二度と会えないと思っていた笑顔を見られることが無条件に嬉しい。そして、綾香が護王の側に寄りそうように、抱えられるように遠ざかっていくのも、その無上に幸せそうな様子にほっとする。けれども、同時に、わけのわからない痛みが胸の内側にしこりを作っていくのがわかる。
冷え冷えとした固くてとげとげしい塊だ。手で触れられそうにはっきりしている感じがするのに、それをしっかり掴んだら意外に脆く砕けて周囲を汚してしまいそうだ。
「なんだか……なあ…」
感覚がどんどんぼやけていくような気がする。
それは危険な徴候だ。ずっと昔、あやこを失って父親に飛びかかったとき、それから、その後運び込まれた病院で、似たようなものを感じたことがある気がする。
附随しているものは真っ暗な沈黙。そして、その沈黙は底の方に殺意を秘めている。
(まずいよなあ)
洋子は立ち上がった。竦む足を無理に動かして部屋の灯をつける。つけてから、しまった、と思った。誰もいない部屋ががらんとしているのを逆に認識してしまい、またぐらりと危ういバランスが揺れていく。
(何か…してないと)
必要なことをしていないと、だめだ。
洋子は身を翻した。必要かどうかはわからないが、部屋の荷物を解いて片付けようと思った。だが、段ボールに手をかけたとたん、昼間の感覚が蘇った。自分が本当に看護師から離れるしかないのだと理解した瞬間の傷みを、抱きとめてくれた護王の温もりと低い声。「約束する」……だが、いったい、何を?
へた、と足が崩れた。
(何を、している?)
荷物を解いて、それから?
ゆっくりと周囲を見回す。白いベッド、整えられた家具とカーテン、丁寧に主を待って守られてきた『姫さん』の部屋。
(それから、ここで、何を、する?)
誰が、から間違っている様子なのに?
落とした手がかさっとしたものに触れて、洋子は我に返った。手にしているのは綾子の里の住所を書いた紙と村上の携帯の番号だ。
「あ……」
そう言えば、退院してから村上に電話をしていない。
(つい忘れてた)
楽しくて。
無意識に続けたことばにどきりとする。
(護王と居るのが、楽しくて)
洋子は唇を噛んだ。急いで立ち上がり、居間に入って隅のボードの電話を取り上げる。メモを見ながら受話器を上げて番号を押した。数回の呼び出しの後、唐突に声が飛び込んでくる。
『はい、村上ですが?』
落ち着いた穏やかな声にふっと気持ちがおさまった。
「あの……すみません…葛城」
『洋子さん』
「!」
洋子、の名前を同時に声で重ねられて眼を見開いた。
『よかった、今どこにいるんです?』
「あ……えーと、ごめんなさい、知り合いの家に…」
『話したいことがあって…でも、そうのんびりもしていられなくなりました』
「は?」
『すぐに会いたいんですが。どこにいます? どこに行けば会えますか?』
「あ…あの…」
洋子は居間を振り返った。相変わらず護王と綾香の帰ってくる気配はない。かといって、ここへ呼び込んでいいものかどうかわからない。第一、下の玄関のオートロックを外す暗証番号がわからない。
(ああ…そうか)
ふいにすとん、と洋子の胸に落ちたものがあった。
綾香は護王に案内を請うことなくここへ上がってきた。彼女は下のドアの暗証番号を知っていたということだ。そして、それは、何度かここに出入りしていたということになる。
(何度も、か?)
居間に比べて落ち着いた『姫さん』の部屋の気配は、綾香によるものかもしれないとようやく思いつく。
(じゃあ、ここへ入れるわけにはいかないなあ)
ポケットを探るとチャリ、と微かな音がした。この部屋の合鍵は持っている。昨日出入りに不自由しないようにと護王がくれたのだ。けれど、オートロックの暗証番号は知らないから、次にここに戻ってこれるかどうかはわからない。
(どこにも……戻れない…か?)
今の自分そっくりだと苦笑いして洋子は返事を待っている村上に声をかけた。
「病院の看護師寮の近くに居るんです。今から出ますから、どこで落ち合ったらいいか教えて下さい」
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