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5.もう一人の姫(2)
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危険だとは思わなかった。
村上が指定してきたのは看護師のころよく使っていた、病院近くの二十四時間カフェだったし、綾子と一緒でも一人の深夜明けでも軽食をとりによく入っていたからだ。
ただ、春先の夜の肌寒さは思った以上で、洋子は着くまでにすっかり冷えきってしまった。昼間の陽気のまま半袖のTシャツで来た自分がうらめしい。
「ああ、ここです」
村上はすでに先に座っていた。入ってきた洋子ににこやかに手を振る。
戸口を入ってすぐ右側、店の表から直接見える場所ではないが、入ってきた人間も、外から入ってこようとする人間もよく見える場所だ。薄暗がりに慣れた目に、店の照明がまぶしくて洋子は目を瞬かせた。
「…こんばんは」
「こんばんは。元気そうですが……寒そうですね?」
村上は微笑み、すぐに背広を脱いだ。淡いベージュの春物、下には白いワイシャツと細めのネクタイだけだ。脱いだ背広を洋子に差し出す。
「どうぞ…あったかいものでも頼みましょう」
「…すみません…」
一瞬断ろうかと思ったが、かたかたと磨かれた床を叩く自分の足音が耳障りで、頭を下げて背広を受け取りTシャツの上に羽織った。今まで村上が着ていたせいか、ふわりと温い。知らず知らずに吐息をついた。
「…もう、体は大丈夫ですか?」
「はい」
運ばれてきたコーヒーを両手で包み、一口飲んで顔をしかめた。もっと甘さが欲しいと思って視線を送ったのに気づいたのか、村上がさりげなくシュガーポットを押しやってくれた。頭を下げて礼を返し、スプーンで砂糖を追加する。
「看護師、やめられたんですね」
「…はい…」
かき混ぜた砂糖の粒が渦に呑まれて消えていく。ふっと、護王はもう戻ってきたかな、と洋子は思った。
(かんけー、ないか)
気分がだるい。このまま砂糖と同じように、このカフェの空気に薄まって融けていってもいいような気がする。
だが、その気持ちは続いた村上のことばに緊張を取り戻した。
「…嵯峨、良子さん、のことについて、何か聞かれていますか?」
「……」
目を上げた。
村上はノンフレームの眼鏡の向こうから醒めた視線を送ってきている。優しく対応していても、心遣いが濃やかでも、これは十分に仕事のうちなのだ、と気づいた。
考えてみれば、既に犯人も掴まり、余罪立証中の事件の関係者を改めて訪問している理由がわからない。解決していれば、追い詰めるのは加害者だけでいいはずだ。
解決さえ、していれば。
(解決、していない?)
洋子は唾を呑み込んだ。
「……どういうことですか?」
「嵯峨さんがどういうことになったか、聞いておられますか?」
「……」
洋子は無言で首を振った。
入院中に何度も護王に尋ねたが「元気になったらな」としか応じてもらっていない。機会をとらえて出入りする看護師や医師にも尋ねたが、ことばを濁して答えてもらえなかった。
けれど、あの日高のことばから考えると、たぶん…生きては…いない。
「嵯峨さんは……亡くなられています」
村上がそっと洋子の思いを裏付けた。
「あなたが看護師寮から日高のところへ行かれた日に、寮の風呂場で自殺されていました」
「…」
「覚悟の自殺だったようですよ」
洋子は村上を見返した。嵯峨の死を『覚悟の自殺』などということばでまとめてしまう相手を睨みつけた。
だが、村上は淡々とした様子で眼鏡のガラスを光らせて俯き、傍らにあった鞄から封筒を取り出した。
「あなた宛です」
「!」
洋子は硬直した。村上が差し出した真っ白な封筒に手を出せないままに凝視する。
表面には看護記録でよく見ていた端麗な文字で『葛城洋子さまへ』と書かれてあった。
「どうぞ」
村上は封筒をテーブルに置いて、コーヒーカップを取り上げた。
「私室のテーブルにあったそうです」
村上の声は静かで冷静だ。動きを待つように、ゆっくりとコーヒーを含む。
そっと封筒を手に取った。封を切る指が震え、嵯峨の笑顔が封筒の表に何度も過っていく。
『葛城洋子さま
この手紙を読まれているということは、私の、そして日高の終わりをご存知だと言うことだと思います』
手紙はそう始められていた。
葛城洋子さま
この手紙を読まれているということは、私の、そして日高の終わりをご存知だと言うことだと思います。
私が日高と出逢ったのは、葛城さんが病棟へ入ってくる前、日高が学生の頃でした。
彼は大学の研修で病棟を訪れており、ようやく新人の域を越えつつあった私は、彼の患者に対する真剣な対応に好感を覚えました。言葉を交わし、お互いに大事にしているものが似ていると認め、付き合い始めるのに、それほど時間は必要ではありませんでした。
しかし、私はまだ男性の中に潜んでいる見えないものを見るほどには、十分成長していなかったのです。
日高が病棟で研修を終え、外部へ出向し、再び病棟に戻ってきたとき、私は彼の変化にすぐに気づきました。
知らない土地で厳しい患者に出逢い、優れた指導者に師事していれば、日高もまた、有能な医師として成熟したのかもしれませんが、彼は出向いた先で、歓迎され持ち上げられ敬われて帰ってきました。
本来ならば、あらゆる症例に向かいあい、次々と経験を積まなくてはならなかった時期に、彼は実力以上の評価だけを受け続けていたのです。
結果は私にとっても恐ろしいものでした。
彼は次々と診断ミスを繰り返しました。致命的なものにならなかったのは、ただひたすらに病棟の師長さん、主任さん、あなたや綾子さんを含む看護師達の監視と訓練の成果です。データを拾い、患者をチェックし、僅かな異変やずれも見のがさず。
医学的な判断も処置も自分達で行なうことは許されない看護師達が、その足りない部分を補おうとしてどれほどの努力を積み重ねているか、日高は全く理解しませんでした。彼が微妙にそれとなく研究実験に回されるようになったのを、葛城さんも気づいていたことと思います。
私は何度か彼と話し合いました。
日高は自分の能力が正当に評価されていないと訴えました。才能や家柄を妬んだ同僚からの嫌がらせを受けていて、実力を発揮できないだけだと言いました。
私もそれを信じたかった。日高が十分に力を発揮すれば、多くの患者が救われ、癒されるのだと思いたかった、綾子さんのように。
しかし、葛城さん、何よりも私は、嵯峨良子という一人の女である前に、患者の命を守る看護師でした。
嵯峨という看護師の目からみた場合、日高はあまりにも危険な医師でした。
看護師には診断や医学的処置は認められていません。医師の指示によって動くしかありません。たとえ、その診断をし、処置を指示する医師が明らかに間違いであり、愚かであったとしても、医師を越えて診断をし、処置をするわけにはいかないのです。
日高は患者の評判を自分の能力のバロメーターとして考えていました。甘いことばで、優しい対応で、患者の人気を保ってさえおけば、多少の問題は揉み消せる、そんなことまで考えるようになっていました。
私は日高に退職か、あるいは、しばらく時間をかけて研修するように勧めました。
それは、私が日高と一緒に生きていこうとする願いでもありました。
でも、日高には通じませんでした。
私が、日高の気持ちが綾子さんに傾いているのを不安がって、彼を自分のものとして拘束しようとしているのだと責めました。マンションに綾子さんを出入りさせ、そこに私を鉢合わせさせるようなこともしました。
綾子さんは、私が日高と付き合っていると知って、かなり驚かれたようです。けれど、日高が、以前からの付き合いをしつこく粘られて困っている、と説明したようで、何度か綾子さんから別れてほしい、と頼まれていました。
そこでどうして別れなかったのか。今も説明できません。
私は拒みました。
綾子さんに日高の状態を説明し、彼女からも日高を説得してくれるように頼みましたが、綾子さんは納得できなかったようで、あの発表の日、自分には日高が欲しがるものがあり、私にはそれがないのだから諦めてほしいと言われました。それは若さだと、私は思いました。前日に日高に別れ話を切り出されていたし、あの日、綾子さんが気持ちを話したがっていると言ったのも日高でしたから。
発表会までには話を終わらせましょう、と言われました。彼女が終わらせようとしているのがいったい何なのか、私にも彼女にも、ほんとうのところ、わかっていたかどうか。
言い争っていたときに、日高が来たのです。研究の合間にトイレへ行くと言って出てきた、と笑っていました。いつも通りの優しい顔でした。けれど、次には綾子さんを背後から抱き締めるように近寄って、首をメスで切り裂きました。飛び散った血をもう片方の手のタオルで押し当てて止め、そのまま綾子さんを私の方へ突き飛ばして、日高はすぐに走り去っていきました。
笑っていました。バカな女ばっかりだ、と。
傷は大きくなかったのですが、致命傷でした。抱きかかえてすぐに意識がなくなっていく綾子さんが、最後に呟いたことばは「研究発表」です。私は綾子さんが葛城さんの発表を見たがっているのだと思いました。愚かなことでしたが、抱えながらひきずって、会場の使われていないドアから押し込んで、すぐにそこを離れました。
なぜでしょう。
今思うと、何が私になくて綾子さんにあるのか、直接日高の口から聞きたかったのだと思います。病棟の地下更衣室で着替えれば済みました。すぐに綾子さんが見つかって騒ぎになりましたから。
これを書いているのは、たった今、日高が葛城さんに電話を入れたことを知ったからです。綾子さんと平行して、日高は私とも付き合っていましたし、葛城さんも気にしている、と言っていました。綾子さんの死に付け込んで、葛城さんと接近できる。日高がそう喜んでいる側で、私は自分も綾子さんの死を喜んでいるのに気がつきました。
自分は日高とは違う、そう思っていました。けれど、本当のところは、私も日高と同じく、医療の現場にいるべきではない人間でした。自分の望みのために誰かの死を願う気持ちを持っている……そう気づいた以上、私が日高に言える事もできる事もなくなりました。
せめて、葛城さんにだけは、私の気持ちを伝えたかったけれど、ひょっとすると、もう無理かもしれない。私はもう耐えられないかもしれない。あなたを見ていることが。あなたが持っている未来のまぶしさを思うことが。
あなたの発表の原稿を師長さんに見せて頂きました。立派でした。十分なものでした。看護師としてのあなたが、この先歩く世界の豊かさ美しさを感じました。しかし、それは、私にはもう二度と入れない世界でもありました。それは、私にとってどうしようもないものでした。
この手紙を、葛城さん、あなたに託したいと思います。警察に届けてもいい、燃やして下さってもいい、あなたに全ておまかせします。
看護とは、すばらしいものです。
一生をかけ、なお情熱尽きることない鮮やかな命の道だと思います。
それを汚すしかなかった自分の愚かさ疎ましさが、今はただただつらくてなりません。
あなたが歩かれる道の遥か後方でもいいからと、なぜ思えなかったのか。なぜ、日高にこだわって自分の道まで見失ってしまったのか。
万が一にも生き延びたら、私は生涯後悔し続けるでしょう。それを耐えられない、ここがきっと私の脆さなのでしょう。
結局、私は看護師として生きてはいなかった。
さようなら。
最後まで大切にして下さって、ありがとう。
嵯峨 良子
途中から零れ出した涙を、洋子は幾度も拭いながら読み続けた。
「嵯峨…さん…」
大輪の百合のような笑顔が、厳しく叱る視線が、うろたえた洋子をいつも支えた豊かな声が、繰り返し頭を過る。
「私なんか…だめです…」
手紙を胸に抱いて洋子はうめいた。
嵯峨が見据えた心の底の暗闇に、洋子も今どっぷりと浸かってしまっている。
ましてやもう病棟を離れ、看護師を辞め、既に行く先さえ失ってしまった洋子に、嵯峨の願いは重過ぎた。
「…それは、あなた宛の手紙だから」
村上が洋子が読み終えたのを見てとったように、静かに切り出した。
「捜査に必要なものだと思ってもあえて開封しませんでした。もっとも、勝手に開封して、あなたが知っていることをしゃべってくれなくなってしまう方が怖かったのですが」
「…私が……知っていること?」
あふれ出す涙で歪んで曇る視界を何とかはっきりさせようと、洋子はナプキンで目もとを擦った。
「日高は、綾子さんを殺したのは嵯峨さんで、あなたも嵯峨さんに狙われたので自分のマンションにやってきたのだ、と供述しています」
「そんな……嘘です」
「では、あなたはどうして日高のマンションに行ったのですか?」
「私は……」
洋子は俯いた。そう言われれば、確かにあの時には嵯峨を疑っていた。日高が誘ってくれて、護王のことも相談したかった。けれど、それをどこまで言えばいいのかわからない。
「寮の風呂場には何者かが石を投げ込んだ形跡がありました。黒服の男が走り去ったという証言もあります。しかし、その黒服の男は、あなたを日高のマンションから助け出し、二週間もの献身的な看護を続けた……もし、私の情報が間違っていないとしたら、あなたは今、その男のマンションに居るはずですね?」
洋子は目を上げた。村上はあいかわらず表情の読めない目で洋子を見つめている。
「その男は、何者ですか? あなたとどういう関係ですか?」
「彼は…」
洋子は言い淀んだ。
護王が何者かなどとは、それこそ洋子が知りたいことだ。
(私は本当に護王のことを何も知らない…)
「……私は……」
唇を噛む。脳裏に綾香を連れて廊下を立ち去っていく護王の背中が蘇る。
(……護王にとって……何…なのか、って…?)
洋子の混乱を感じ取ったのだろう、村上は溜息をついた。
「……今彼をどうこうしようと言うんじゃありません。ただ、あなたの所在を掴んでおかないと」
ことばを続けながら、村上は傍らの鞄から銀色の塊を取り出した。ありふれたデザインの携帯電話だ。それをテーブルに置き、そっと洋子の手元に押しやって声を低める。
「これを持っていて下さい。短縮で私の携帯に繋がります」
「え…?」
「早く」
急かされて洋子は慌てて携帯電話をポケットに入れた。それを確かめた村上が少しほっとした顔でうなずき、初めて苦々しい表情に顔を歪めた。
「……日高を逃がしました」
「…え……?」
洋子は瞬きした。
「まだ公にはできないんですが、一両日中には広まります。どうやら奴は里の方へ戻ったらしい。後を追いますが、万が一、あなたを再度狙うようなことになっては大変だ」
「どうして…私を…?」
体が震えだしているのを必死に止めようとしながら、洋子は問いを重ねた。
「里って…」
「花王紋」
「!」
護王からしか聞いていなかったことばが村上の口をついてぎょっとする。
「そういう痣がありますか?」
「……」
「なぜか、日高はそういう痣の女を狙っているようなんです。嵯峨良子さんにもありましたし、大西綾子さんにもあったようですし、日高の同僚が、やつが酔っぱらったときに花王紋の女を捕まえるのは大変だと口を滑らせたのを聞いています」
「まさか……だって…あれって…」
洋子は考えをまとめようとして必死に頭を働かせた。
「確か……桜里とか言うところの……そこの祭礼に必要だというだけの…」
「知らなかったんですか?」
今度は村上がいぶかしげな表情で尋ね返した。
「日高貴司も桜里の出身ですよ?」
急に全てが絡んだ衝撃に体がついていかなくて、洋子は村上に支えられながら護王のマンションに戻った。
気づくとあれからなお一時間が過ぎている。手紙を読み込むだけの時間を、辛抱強く待っていた村上には、嵯峨の遺書を渡した。
「嵯峨さんじゃないんです。証拠にはならないかもしれないけど、でも」
「わかりました」
洋子の顔色の悪さを気遣ってくれたのか、村上は頷いて手紙を受け取り、
「捜査に役立てて見せますよ」
そう請け合ってくれた。
マンションの玄関はオートロックで開かないが、もう護王が戻っているかもしれない。それに、他に行くところもない。護王が戻ってくるまでの時間をエントランスで過ごそう、そう思っていた。
だが、それは杞憂だった。
マンションの明るい広々としたエントランスに近づくと、その戸口に腕組みをしてもたれていた人物がむくりと体を起こした。冷える夜気に黒いTシャツ一枚で身を震わせるふうでもない。むしろ、村上の背広を羽織って支えられるように歩いてきた洋子にぴりぴりとした気配を漂わせて近づいてくると、
「寒かったんか」
ぼそりと呟いたとたんに、村上の背広を洋子から剥いだ。いきなり剥き出しにされて固まった洋子の腕を掴んで手荒く自分の背中の後ろに引き寄せ、背広を掴んだ手を無遠慮に村上に突き出す。
「迷惑かけたな」
「無茶しないほうがいい」
村上が眼鏡の奥で苦笑する。
「彼女が怯えているよ」
「……わかっとる」
護王がどんな表情をしたのか、前に立った村上が再び苦笑いした。
「じゃあ、洋子さんが凍えるといけないから失礼する……ああ、君、名前は」
ぴく、と護王の体が固まった。背中から離れようとする洋子の腕をきつく握る。
「大鷹省吾」
「いいマンションに住めてよかったね。それじゃあ」
村上は護王の挑戦的な対応に怯んだ様子もなく、飄々とした足取りで元来た道を戻っていく。
「行くで」
「あ…待って」
洋子はすぐに玄関の中に連れ込もうとした護王の動きを止めた。目一杯不愉快だと言いたげな顔で自分を見下ろす護王を見上げて頼む。
「お願い」
「…わかった」
くやしげな苛立つ瞳が洋子の視線を受け止め切れずに逸れる。
「あの…村上さん」
声がかかるのをわかっていたように、村上はくるっと振り返った。
「今日はありがとうございました」
「…いいんですよ」
村上が目を細め、何を思ったか、ちらっと意味ありげな視線を護王に流して、
「気をつけて下さいね」
「!」
かちんと音がしたほど護王の顔が険しくなった。そのまま平然と背中を向けて立ち去っていく村上を睨みつける。
「……護王」
「…」
洋子の声に護王は無言で向きを変えた。二の腕を掴んだままの手の力は緩まない。素早く暗証番号を入れると洋子をひきずるように連れていく。横顔が暗く強ばっていて振り向きもしない。何かとんでもない出来事のように動いている番号を見ていたが、目の前で開いたエレベーターに有無を言わせず洋子を押し込んだ。
扉が閉まる。洋子を見ないまま、低い声でつぶやく。
「どこへ行ってたんや」
「……あの……電話するように言われてて」
「村上瞬。谷崎署の刑事やったな」
「え…あ…うん」
どうして知っているのかと尋ねかけて、洋子は一度病室に来たのを護王が追い返したというのを思い出した。
「今さら何の用やねん」
「…あ…」
問われて、洋子の頭の中にさっきの出来事が蘇った。嵯峨の切ない願いや、自分の行き場のない気持ちや、綾子の報われなかった想いが、一時に胸に広がってことばが詰まる。
「あいつの……背広なんて…」
「え?」
「寒かったんなら、何で、部屋におらんかったんや」
きりきりしながら護王が殺気立った声でつぶやいた。
「ああ、あの……」
洋子が応えようとした矢先に、エレベーターが止まった。洋子の答えを聞く前に護王はエレベーターを降り、廊下を先へ進む。振り向きもしない背中から苛立ちが響いてきて、洋子は前へ進めなくなった。知らず知らずのうちに立ち止まってしまう。
「…姫さん?」
部屋に入ろうとした護王がようやく洋子が立ち止まっているのに気づき、いぶかしげな顔で呼び掛けてきた。
「寒いんやろ、入ろ?」
「…」
「姫さん?」
戸惑った顔が次第に不安そうに揺れてくる。端整な顔、真っ黒で潤むようなきれいな瞳、不安げな表情さえどこか艶があって。
けれど、その顔が心配するのは洋子だけではない。
「姫さんって何?」
吐き捨てた。
「え?」
何を聞かれたのかわからないと言った顔の護王に、洋子は唇を噛んだ。頭の中が加熱してぐるぐるしている。嵯峨が自殺して、日高が綾子を殺して、その日高は警察から逃げ出している。日高は花王紋の女ばかりを狙っていて、そしてまた護王も花王紋の娘を探していて。
「どうして護王は私が要るの?」
「それは……」
「護王が要るのは……私ではなくて、花王紋がある女、じゃないの?」
くら、と視界が揺れた。
村上が指定してきたのは看護師のころよく使っていた、病院近くの二十四時間カフェだったし、綾子と一緒でも一人の深夜明けでも軽食をとりによく入っていたからだ。
ただ、春先の夜の肌寒さは思った以上で、洋子は着くまでにすっかり冷えきってしまった。昼間の陽気のまま半袖のTシャツで来た自分がうらめしい。
「ああ、ここです」
村上はすでに先に座っていた。入ってきた洋子ににこやかに手を振る。
戸口を入ってすぐ右側、店の表から直接見える場所ではないが、入ってきた人間も、外から入ってこようとする人間もよく見える場所だ。薄暗がりに慣れた目に、店の照明がまぶしくて洋子は目を瞬かせた。
「…こんばんは」
「こんばんは。元気そうですが……寒そうですね?」
村上は微笑み、すぐに背広を脱いだ。淡いベージュの春物、下には白いワイシャツと細めのネクタイだけだ。脱いだ背広を洋子に差し出す。
「どうぞ…あったかいものでも頼みましょう」
「…すみません…」
一瞬断ろうかと思ったが、かたかたと磨かれた床を叩く自分の足音が耳障りで、頭を下げて背広を受け取りTシャツの上に羽織った。今まで村上が着ていたせいか、ふわりと温い。知らず知らずに吐息をついた。
「…もう、体は大丈夫ですか?」
「はい」
運ばれてきたコーヒーを両手で包み、一口飲んで顔をしかめた。もっと甘さが欲しいと思って視線を送ったのに気づいたのか、村上がさりげなくシュガーポットを押しやってくれた。頭を下げて礼を返し、スプーンで砂糖を追加する。
「看護師、やめられたんですね」
「…はい…」
かき混ぜた砂糖の粒が渦に呑まれて消えていく。ふっと、護王はもう戻ってきたかな、と洋子は思った。
(かんけー、ないか)
気分がだるい。このまま砂糖と同じように、このカフェの空気に薄まって融けていってもいいような気がする。
だが、その気持ちは続いた村上のことばに緊張を取り戻した。
「…嵯峨、良子さん、のことについて、何か聞かれていますか?」
「……」
目を上げた。
村上はノンフレームの眼鏡の向こうから醒めた視線を送ってきている。優しく対応していても、心遣いが濃やかでも、これは十分に仕事のうちなのだ、と気づいた。
考えてみれば、既に犯人も掴まり、余罪立証中の事件の関係者を改めて訪問している理由がわからない。解決していれば、追い詰めるのは加害者だけでいいはずだ。
解決さえ、していれば。
(解決、していない?)
洋子は唾を呑み込んだ。
「……どういうことですか?」
「嵯峨さんがどういうことになったか、聞いておられますか?」
「……」
洋子は無言で首を振った。
入院中に何度も護王に尋ねたが「元気になったらな」としか応じてもらっていない。機会をとらえて出入りする看護師や医師にも尋ねたが、ことばを濁して答えてもらえなかった。
けれど、あの日高のことばから考えると、たぶん…生きては…いない。
「嵯峨さんは……亡くなられています」
村上がそっと洋子の思いを裏付けた。
「あなたが看護師寮から日高のところへ行かれた日に、寮の風呂場で自殺されていました」
「…」
「覚悟の自殺だったようですよ」
洋子は村上を見返した。嵯峨の死を『覚悟の自殺』などということばでまとめてしまう相手を睨みつけた。
だが、村上は淡々とした様子で眼鏡のガラスを光らせて俯き、傍らにあった鞄から封筒を取り出した。
「あなた宛です」
「!」
洋子は硬直した。村上が差し出した真っ白な封筒に手を出せないままに凝視する。
表面には看護記録でよく見ていた端麗な文字で『葛城洋子さまへ』と書かれてあった。
「どうぞ」
村上は封筒をテーブルに置いて、コーヒーカップを取り上げた。
「私室のテーブルにあったそうです」
村上の声は静かで冷静だ。動きを待つように、ゆっくりとコーヒーを含む。
そっと封筒を手に取った。封を切る指が震え、嵯峨の笑顔が封筒の表に何度も過っていく。
『葛城洋子さま
この手紙を読まれているということは、私の、そして日高の終わりをご存知だと言うことだと思います』
手紙はそう始められていた。
葛城洋子さま
この手紙を読まれているということは、私の、そして日高の終わりをご存知だと言うことだと思います。
私が日高と出逢ったのは、葛城さんが病棟へ入ってくる前、日高が学生の頃でした。
彼は大学の研修で病棟を訪れており、ようやく新人の域を越えつつあった私は、彼の患者に対する真剣な対応に好感を覚えました。言葉を交わし、お互いに大事にしているものが似ていると認め、付き合い始めるのに、それほど時間は必要ではありませんでした。
しかし、私はまだ男性の中に潜んでいる見えないものを見るほどには、十分成長していなかったのです。
日高が病棟で研修を終え、外部へ出向し、再び病棟に戻ってきたとき、私は彼の変化にすぐに気づきました。
知らない土地で厳しい患者に出逢い、優れた指導者に師事していれば、日高もまた、有能な医師として成熟したのかもしれませんが、彼は出向いた先で、歓迎され持ち上げられ敬われて帰ってきました。
本来ならば、あらゆる症例に向かいあい、次々と経験を積まなくてはならなかった時期に、彼は実力以上の評価だけを受け続けていたのです。
結果は私にとっても恐ろしいものでした。
彼は次々と診断ミスを繰り返しました。致命的なものにならなかったのは、ただひたすらに病棟の師長さん、主任さん、あなたや綾子さんを含む看護師達の監視と訓練の成果です。データを拾い、患者をチェックし、僅かな異変やずれも見のがさず。
医学的な判断も処置も自分達で行なうことは許されない看護師達が、その足りない部分を補おうとしてどれほどの努力を積み重ねているか、日高は全く理解しませんでした。彼が微妙にそれとなく研究実験に回されるようになったのを、葛城さんも気づいていたことと思います。
私は何度か彼と話し合いました。
日高は自分の能力が正当に評価されていないと訴えました。才能や家柄を妬んだ同僚からの嫌がらせを受けていて、実力を発揮できないだけだと言いました。
私もそれを信じたかった。日高が十分に力を発揮すれば、多くの患者が救われ、癒されるのだと思いたかった、綾子さんのように。
しかし、葛城さん、何よりも私は、嵯峨良子という一人の女である前に、患者の命を守る看護師でした。
嵯峨という看護師の目からみた場合、日高はあまりにも危険な医師でした。
看護師には診断や医学的処置は認められていません。医師の指示によって動くしかありません。たとえ、その診断をし、処置を指示する医師が明らかに間違いであり、愚かであったとしても、医師を越えて診断をし、処置をするわけにはいかないのです。
日高は患者の評判を自分の能力のバロメーターとして考えていました。甘いことばで、優しい対応で、患者の人気を保ってさえおけば、多少の問題は揉み消せる、そんなことまで考えるようになっていました。
私は日高に退職か、あるいは、しばらく時間をかけて研修するように勧めました。
それは、私が日高と一緒に生きていこうとする願いでもありました。
でも、日高には通じませんでした。
私が、日高の気持ちが綾子さんに傾いているのを不安がって、彼を自分のものとして拘束しようとしているのだと責めました。マンションに綾子さんを出入りさせ、そこに私を鉢合わせさせるようなこともしました。
綾子さんは、私が日高と付き合っていると知って、かなり驚かれたようです。けれど、日高が、以前からの付き合いをしつこく粘られて困っている、と説明したようで、何度か綾子さんから別れてほしい、と頼まれていました。
そこでどうして別れなかったのか。今も説明できません。
私は拒みました。
綾子さんに日高の状態を説明し、彼女からも日高を説得してくれるように頼みましたが、綾子さんは納得できなかったようで、あの発表の日、自分には日高が欲しがるものがあり、私にはそれがないのだから諦めてほしいと言われました。それは若さだと、私は思いました。前日に日高に別れ話を切り出されていたし、あの日、綾子さんが気持ちを話したがっていると言ったのも日高でしたから。
発表会までには話を終わらせましょう、と言われました。彼女が終わらせようとしているのがいったい何なのか、私にも彼女にも、ほんとうのところ、わかっていたかどうか。
言い争っていたときに、日高が来たのです。研究の合間にトイレへ行くと言って出てきた、と笑っていました。いつも通りの優しい顔でした。けれど、次には綾子さんを背後から抱き締めるように近寄って、首をメスで切り裂きました。飛び散った血をもう片方の手のタオルで押し当てて止め、そのまま綾子さんを私の方へ突き飛ばして、日高はすぐに走り去っていきました。
笑っていました。バカな女ばっかりだ、と。
傷は大きくなかったのですが、致命傷でした。抱きかかえてすぐに意識がなくなっていく綾子さんが、最後に呟いたことばは「研究発表」です。私は綾子さんが葛城さんの発表を見たがっているのだと思いました。愚かなことでしたが、抱えながらひきずって、会場の使われていないドアから押し込んで、すぐにそこを離れました。
なぜでしょう。
今思うと、何が私になくて綾子さんにあるのか、直接日高の口から聞きたかったのだと思います。病棟の地下更衣室で着替えれば済みました。すぐに綾子さんが見つかって騒ぎになりましたから。
これを書いているのは、たった今、日高が葛城さんに電話を入れたことを知ったからです。綾子さんと平行して、日高は私とも付き合っていましたし、葛城さんも気にしている、と言っていました。綾子さんの死に付け込んで、葛城さんと接近できる。日高がそう喜んでいる側で、私は自分も綾子さんの死を喜んでいるのに気がつきました。
自分は日高とは違う、そう思っていました。けれど、本当のところは、私も日高と同じく、医療の現場にいるべきではない人間でした。自分の望みのために誰かの死を願う気持ちを持っている……そう気づいた以上、私が日高に言える事もできる事もなくなりました。
せめて、葛城さんにだけは、私の気持ちを伝えたかったけれど、ひょっとすると、もう無理かもしれない。私はもう耐えられないかもしれない。あなたを見ていることが。あなたが持っている未来のまぶしさを思うことが。
あなたの発表の原稿を師長さんに見せて頂きました。立派でした。十分なものでした。看護師としてのあなたが、この先歩く世界の豊かさ美しさを感じました。しかし、それは、私にはもう二度と入れない世界でもありました。それは、私にとってどうしようもないものでした。
この手紙を、葛城さん、あなたに託したいと思います。警察に届けてもいい、燃やして下さってもいい、あなたに全ておまかせします。
看護とは、すばらしいものです。
一生をかけ、なお情熱尽きることない鮮やかな命の道だと思います。
それを汚すしかなかった自分の愚かさ疎ましさが、今はただただつらくてなりません。
あなたが歩かれる道の遥か後方でもいいからと、なぜ思えなかったのか。なぜ、日高にこだわって自分の道まで見失ってしまったのか。
万が一にも生き延びたら、私は生涯後悔し続けるでしょう。それを耐えられない、ここがきっと私の脆さなのでしょう。
結局、私は看護師として生きてはいなかった。
さようなら。
最後まで大切にして下さって、ありがとう。
嵯峨 良子
途中から零れ出した涙を、洋子は幾度も拭いながら読み続けた。
「嵯峨…さん…」
大輪の百合のような笑顔が、厳しく叱る視線が、うろたえた洋子をいつも支えた豊かな声が、繰り返し頭を過る。
「私なんか…だめです…」
手紙を胸に抱いて洋子はうめいた。
嵯峨が見据えた心の底の暗闇に、洋子も今どっぷりと浸かってしまっている。
ましてやもう病棟を離れ、看護師を辞め、既に行く先さえ失ってしまった洋子に、嵯峨の願いは重過ぎた。
「…それは、あなた宛の手紙だから」
村上が洋子が読み終えたのを見てとったように、静かに切り出した。
「捜査に必要なものだと思ってもあえて開封しませんでした。もっとも、勝手に開封して、あなたが知っていることをしゃべってくれなくなってしまう方が怖かったのですが」
「…私が……知っていること?」
あふれ出す涙で歪んで曇る視界を何とかはっきりさせようと、洋子はナプキンで目もとを擦った。
「日高は、綾子さんを殺したのは嵯峨さんで、あなたも嵯峨さんに狙われたので自分のマンションにやってきたのだ、と供述しています」
「そんな……嘘です」
「では、あなたはどうして日高のマンションに行ったのですか?」
「私は……」
洋子は俯いた。そう言われれば、確かにあの時には嵯峨を疑っていた。日高が誘ってくれて、護王のことも相談したかった。けれど、それをどこまで言えばいいのかわからない。
「寮の風呂場には何者かが石を投げ込んだ形跡がありました。黒服の男が走り去ったという証言もあります。しかし、その黒服の男は、あなたを日高のマンションから助け出し、二週間もの献身的な看護を続けた……もし、私の情報が間違っていないとしたら、あなたは今、その男のマンションに居るはずですね?」
洋子は目を上げた。村上はあいかわらず表情の読めない目で洋子を見つめている。
「その男は、何者ですか? あなたとどういう関係ですか?」
「彼は…」
洋子は言い淀んだ。
護王が何者かなどとは、それこそ洋子が知りたいことだ。
(私は本当に護王のことを何も知らない…)
「……私は……」
唇を噛む。脳裏に綾香を連れて廊下を立ち去っていく護王の背中が蘇る。
(……護王にとって……何…なのか、って…?)
洋子の混乱を感じ取ったのだろう、村上は溜息をついた。
「……今彼をどうこうしようと言うんじゃありません。ただ、あなたの所在を掴んでおかないと」
ことばを続けながら、村上は傍らの鞄から銀色の塊を取り出した。ありふれたデザインの携帯電話だ。それをテーブルに置き、そっと洋子の手元に押しやって声を低める。
「これを持っていて下さい。短縮で私の携帯に繋がります」
「え…?」
「早く」
急かされて洋子は慌てて携帯電話をポケットに入れた。それを確かめた村上が少しほっとした顔でうなずき、初めて苦々しい表情に顔を歪めた。
「……日高を逃がしました」
「…え……?」
洋子は瞬きした。
「まだ公にはできないんですが、一両日中には広まります。どうやら奴は里の方へ戻ったらしい。後を追いますが、万が一、あなたを再度狙うようなことになっては大変だ」
「どうして…私を…?」
体が震えだしているのを必死に止めようとしながら、洋子は問いを重ねた。
「里って…」
「花王紋」
「!」
護王からしか聞いていなかったことばが村上の口をついてぎょっとする。
「そういう痣がありますか?」
「……」
「なぜか、日高はそういう痣の女を狙っているようなんです。嵯峨良子さんにもありましたし、大西綾子さんにもあったようですし、日高の同僚が、やつが酔っぱらったときに花王紋の女を捕まえるのは大変だと口を滑らせたのを聞いています」
「まさか……だって…あれって…」
洋子は考えをまとめようとして必死に頭を働かせた。
「確か……桜里とか言うところの……そこの祭礼に必要だというだけの…」
「知らなかったんですか?」
今度は村上がいぶかしげな表情で尋ね返した。
「日高貴司も桜里の出身ですよ?」
急に全てが絡んだ衝撃に体がついていかなくて、洋子は村上に支えられながら護王のマンションに戻った。
気づくとあれからなお一時間が過ぎている。手紙を読み込むだけの時間を、辛抱強く待っていた村上には、嵯峨の遺書を渡した。
「嵯峨さんじゃないんです。証拠にはならないかもしれないけど、でも」
「わかりました」
洋子の顔色の悪さを気遣ってくれたのか、村上は頷いて手紙を受け取り、
「捜査に役立てて見せますよ」
そう請け合ってくれた。
マンションの玄関はオートロックで開かないが、もう護王が戻っているかもしれない。それに、他に行くところもない。護王が戻ってくるまでの時間をエントランスで過ごそう、そう思っていた。
だが、それは杞憂だった。
マンションの明るい広々としたエントランスに近づくと、その戸口に腕組みをしてもたれていた人物がむくりと体を起こした。冷える夜気に黒いTシャツ一枚で身を震わせるふうでもない。むしろ、村上の背広を羽織って支えられるように歩いてきた洋子にぴりぴりとした気配を漂わせて近づいてくると、
「寒かったんか」
ぼそりと呟いたとたんに、村上の背広を洋子から剥いだ。いきなり剥き出しにされて固まった洋子の腕を掴んで手荒く自分の背中の後ろに引き寄せ、背広を掴んだ手を無遠慮に村上に突き出す。
「迷惑かけたな」
「無茶しないほうがいい」
村上が眼鏡の奥で苦笑する。
「彼女が怯えているよ」
「……わかっとる」
護王がどんな表情をしたのか、前に立った村上が再び苦笑いした。
「じゃあ、洋子さんが凍えるといけないから失礼する……ああ、君、名前は」
ぴく、と護王の体が固まった。背中から離れようとする洋子の腕をきつく握る。
「大鷹省吾」
「いいマンションに住めてよかったね。それじゃあ」
村上は護王の挑戦的な対応に怯んだ様子もなく、飄々とした足取りで元来た道を戻っていく。
「行くで」
「あ…待って」
洋子はすぐに玄関の中に連れ込もうとした護王の動きを止めた。目一杯不愉快だと言いたげな顔で自分を見下ろす護王を見上げて頼む。
「お願い」
「…わかった」
くやしげな苛立つ瞳が洋子の視線を受け止め切れずに逸れる。
「あの…村上さん」
声がかかるのをわかっていたように、村上はくるっと振り返った。
「今日はありがとうございました」
「…いいんですよ」
村上が目を細め、何を思ったか、ちらっと意味ありげな視線を護王に流して、
「気をつけて下さいね」
「!」
かちんと音がしたほど護王の顔が険しくなった。そのまま平然と背中を向けて立ち去っていく村上を睨みつける。
「……護王」
「…」
洋子の声に護王は無言で向きを変えた。二の腕を掴んだままの手の力は緩まない。素早く暗証番号を入れると洋子をひきずるように連れていく。横顔が暗く強ばっていて振り向きもしない。何かとんでもない出来事のように動いている番号を見ていたが、目の前で開いたエレベーターに有無を言わせず洋子を押し込んだ。
扉が閉まる。洋子を見ないまま、低い声でつぶやく。
「どこへ行ってたんや」
「……あの……電話するように言われてて」
「村上瞬。谷崎署の刑事やったな」
「え…あ…うん」
どうして知っているのかと尋ねかけて、洋子は一度病室に来たのを護王が追い返したというのを思い出した。
「今さら何の用やねん」
「…あ…」
問われて、洋子の頭の中にさっきの出来事が蘇った。嵯峨の切ない願いや、自分の行き場のない気持ちや、綾子の報われなかった想いが、一時に胸に広がってことばが詰まる。
「あいつの……背広なんて…」
「え?」
「寒かったんなら、何で、部屋におらんかったんや」
きりきりしながら護王が殺気立った声でつぶやいた。
「ああ、あの……」
洋子が応えようとした矢先に、エレベーターが止まった。洋子の答えを聞く前に護王はエレベーターを降り、廊下を先へ進む。振り向きもしない背中から苛立ちが響いてきて、洋子は前へ進めなくなった。知らず知らずのうちに立ち止まってしまう。
「…姫さん?」
部屋に入ろうとした護王がようやく洋子が立ち止まっているのに気づき、いぶかしげな顔で呼び掛けてきた。
「寒いんやろ、入ろ?」
「…」
「姫さん?」
戸惑った顔が次第に不安そうに揺れてくる。端整な顔、真っ黒で潤むようなきれいな瞳、不安げな表情さえどこか艶があって。
けれど、その顔が心配するのは洋子だけではない。
「姫さんって何?」
吐き捨てた。
「え?」
何を聞かれたのかわからないと言った顔の護王に、洋子は唇を噛んだ。頭の中が加熱してぐるぐるしている。嵯峨が自殺して、日高が綾子を殺して、その日高は警察から逃げ出している。日高は花王紋の女ばかりを狙っていて、そしてまた護王も花王紋の娘を探していて。
「どうして護王は私が要るの?」
「それは……」
「護王が要るのは……私ではなくて、花王紋がある女、じゃないの?」
くら、と視界が揺れた。
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