『桜の護王』

segakiyui

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6.月光(2)

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 部屋には戻ったものの、荷物をほどけるわけもなく、思いついて逆に鞄に荷物を詰め直し、ほとんど眠れないままに洋子は朝を迎えた。
 寝不足のせいか、それとも風邪でも引いてしまったのか、体が重だるい。
(もうここにはいられない)
 日高が洋子を狙いにくるなら、そしてまた、自分は『姫さん』でさえないのだから。
 手にしていたのは綾子の里を示した住所だ。
 N県大石桜里25ー3 大西康隆
「N県か…」
 そこで行なわれている祭礼がどういうものかはまだよくわからなかったし、洋子がどうして花王紋を持っているのかも理解できていないが、どちらにせよ、出向いてしまえば様々な事情もわかるだろうし、必要以上に護王の手を煩わせることもない。
 解きかけた他の荷物はとりあえず一纏めにして段ボールに入れ、この部屋を使う人間がすぐに外へ放り出せるように部屋の隅に置いた。
(この部屋を使う人間?)
 我ながら未練がましくて呆れる。
(綾香に決まってるのに)
 少なくとも洋子でないのは確かだ。あれほど、護王ははっきりと洋子が『姫さん』ではないと断言したのだし、ここは『姫さん』の部屋なのだから。
 苦笑いしながら後ろで髪の毛をまとめて縛った。ふ、と息を吐いて気持ちを切り替えたつもりでドアを開け、そこにいつもならいるはずのない人間を見て固まってしまう。
「…護王…」
「……おはよ…」
「あ…うん…おはよう…」
 いつもの黒いTシャツにジーパンで包んだ体を夕べのソファに埋めるようにして、けれど、洋子に視線をあわせることなく、護王が掠れた声をかけてきた。応えた洋子の目を避けるように立ち上がり、
「コーヒー、飲むか?」
「あ……うん…風邪ひいたの?」
 怯えているように流しに立った護王の背中が強ばった。
「いや……なんで…?」
「声、掠れてるし……眠ってないの?」
 がしゃん!
 返事をしたとたん、相手が流しの中へコップを落として、洋子はぎょっとした。あ……と中途半端な声をたてて動きを止めてしまった護王に慌てて鞄を置いて近寄る。
 護王の寝起きが悪いのはこの二日ほどで気づいている。目は何とか覚ますようなのだが、体が動き出すまでに時間がかかるようで、起きると言った時間から一時間ほどしないと起きてこないようだ。その護王が七時に起きているというのは、最低でも六時ぐらいから起きていたということになる。
 言わば、この時間帯はまだ護王にとっては眠っているはずの時間、どうしてそんなに早くから起きているのかはわからなかったが、寝ぼけてぼんやりしていて手でも切られては洋子が困る。
「…ちゃんと、寝た」
「え、あ、うん」
 隣に立つと突き放すようにぼそっとつぶやかれ、洋子は気づいて距離を取った。
(いけない、いけない)
 なまじ自分の気持ちを確かめたものだから、無意識に護王の側に近づいてしまう。
 流しの中を覗き込むと、転がったコップが茶色の粉をまきながらぐるぐると回っている。だが、流しの縁に乗せた護王の両手はそれを拾い上げる気配さえなく、だらっとしたままだ。
「指とか切ってないね?」
「うん……」
 護王の無事を確認して、洋子はコップに手を伸ばした。相手が身を引く様子がないのに少しだけ安心して、手早く水洗いする。
「私、いれようか?」
 尋ねて改めて振り返ると、どうやらこちらを見つめていたらしい護王の目に出くわした。
 どこか熱に浮かされたようなぼうっとした瞳が緩やかに焦点を合わせていって、ようやく洋子の視線に気がついたのか、いきなり目を奪うような艶やかな光を放つ。戸惑ったような揺らめく視線、何かを言いたそうに開いた護王の口元にちら、とまた舌が動いて昨夜の出来事を蘇らせ、洋子は息苦しくなって目を逸らせた。
(何か……あやういよね)
 今までとは違ったあやうさ、強く引き込めば熱い吐息と一緒にそのまま崩れ落ちてくれそうな。
 せっかく振り切ろうとしている洋子の気持ちが深いところで揺さぶられる。
「護王?」
 目を背けたまま、重ねて尋ねる。
「あ…あ…うん…俺…あの……」
「え?」
 不安そうな声が零れて思わず振仰ぐと、耳もとにささやくほどに近づいていた護王の視線とぶつかった。洋子の振り向くのに慌てて体を引く。
「護王?」
「あ……」
 口ごもった護王の顔を、首の辺りから浮かび上がった赤みが見る見る額まで染め上げていった。ベランダから入った朝日にその表情は信じられないほど初々しくて、しかもどちらかというと冷たく整った容貌にも黒づくめの猛々しい服装にも全く不似合いだ。
 くす、と洋子は思わず笑ってしまった。緊張し固まっていた気持ちが、朝の光に浮かぶ護王の赤面に溶かされほぐれていく。とくんと温かいものが胸の内にあたって砕ける。
(まいったな)
「なんて顔してんの」
 魅かれる気持ちをことさらからかう口調でごまかす。
「え…?」
「顔真っ赤だよ、気づいてる?」
「…え…!」
 とたんに相手が身を翻して自分の部屋に駆け込み、洋子はあっけに取られた。
 今度は籠るつもりではなかったらしく、部屋に飛び込んだとたんに、どん、がしゃん、どがっと続けさまに何かにぶつかり引き倒したような音が開け放ったドアから響き渡る。
「……おーい……」
 洋子は思わず手を止めて護王の部屋を見遣った。
「大丈夫……?」
「く、来るなっ!」
 部屋に近づこうとした洋子の気配を感じ取ったのか、中から悲鳴まじりの声が響いた。がさっばさばさばさっと布だか紙だかを振り回すような音が続く。
(今度は、来るな、か)
「行かないよ!」
 洋子は安心させるように声をかけて苦笑いした。
「もう……近づかない」
 小さく追加してつぶやくと、胸に痛みが走る。
 そうだ、もう、近づかない。
 自分の存在が相手に苦痛を与えているとわかったのに、近づく馬鹿はいない。ましてや、気持ちが残っているなら、なおのこと。
 思わず吐息をついて、洋子はインスタントコーヒーをカップに入れた。沸き始めた湯を止め、そっと注いでいく。香りが湯気とともに立ち上がり、部屋の中に満ちていく。穏やかな日の光が浸すテーブルに置いていると、ようやく護王が部屋から顔を出した。
「熱いよ?」
「う…うん」
 このうえなく居心地悪いと言った顔で、護王はのろのろとテーブルに近寄ってきた。だるそうな仕草で引いた椅子に腰を落とす。
 どこに突っ込んだのか、髪の毛がくしゃくしゃになって一部はねていた。ちら、と洋子に目をやる。何かを確かめるように、視線を落として考え込み、再びちら、と洋子を見る。けれど、何も言わない。洋子が視線を上げると急いで目を伏せ、まだ赤みの残った頬に重ねて紅をのぼらせている。
「…??」
 洋子が凝視すると、護王はあからさまにうろたえた。強いて洋子の視線を無視するようにコーヒーカップに手を伸ばす。
「……舌、大丈夫?」
 がちゃんっ!
「つっ…!」
 気詰まりな沈黙を避けようと洋子が振った話題はまた『まずかった』らしい。
 護王が取り上げようとしていたコーヒーカップから指を滑らせ、数センチ浮いていたカップが熱い飛沫を散らせながらテーブルに落ちる。とっさに支えたのだろう、倒れはしなかったものの、沸き立ての湯を入れた中身を指に浴びて護王が顔をしかめて手を引いた。
「もう、いったい、何をして…!」 
 とっさに伸ばした手で護王の指を掴もうとすると、相手はその手を握り込むようにして身を固めた。
「だ、大丈夫やからっ」
「あ……」
 上ずった声で叫ばれて身を引かれ、洋子も同時に固まって、中途半端な姿勢のまま、中途半端にことばを失う。
「ご、ごめん」
 護王は俯いてことばを重ねた。だが、その体からは緊張が取れない。まるで目の前に巨大な獣でもいるような警戒状態だ。
(怯えて…る…?)
 洋子は突然閃いた理解に目を見開いた。
(私に……護王が…?)
 大柄な護王の体がテーブルの向こうで竦み上がってひどく小さく見える。その姿が伝えてきているのがまぎれもなく恐怖だと気づいて、洋子の体から気力が抜けた。
「何も……しないよ」
 そっとなるべく優しく小さくささやく。それなのに、相手が一層縮み上がって、洋子は寂しいを通り越して情けなくなった。
(私の……おかしな力に怯えてるのか…な…それとも)
 洋子の中に見えた護王への欲望に?
(あんなこと、するんじゃなかった)
 苦い後悔が体に広がる。
「水で冷やした方がいいから」
 できるかぎりのさりげなさを装って促し、洋子はテーブルに散ったコーヒーを布巾で拭き取り始めた。
「後で痛むよ」
「う、うん」
 びくびくした様子で護王が立ち上がって流しに向かう。すぐに水音が聞こえ出して洋子は深く溜息をついた。思った以上に護王に拒まれているのだと感じてどんどん気が重くなる。
 こんなことなら、コーヒーなぞ飲んでいなくて、さっさと桜里へでかけるべきだった。
(うん、そうだ、そうしよう)
 一人うなずいて体を起こし、流しで水を出し続けている護王の背中に呼び掛ける。
「護王」
「うん?」
 護王は振り向かない。
「桜里、さ、一人で先に行こうと思うんだけど」
「は?」
 水音が止まった。
「何…?」
「だからね、桜里へ一人で行きたいんだけど」
 振り返った流しの護王の顔が惚けていた。驚いたような大きな目で洋子を見つめながら、ぽかんと口を開いている。やがて、その顔が突然何かを理解したように、泣き出しそうに歪んだ。
「……あいつと……行くんか?」
「は?」
◆ 今度は洋子がほうける番だった。いきなり護王が泣き出しそうになっているのもよくわからないし、第一、そんな顔など初めて見た。
「あいつ?」
「……村上と行くんか…?」
「へ?」
 いや、確か一人で行くと言ったよな、言ったはずだと洋子が頭の中で自分のことばを繰り返してみていると、護王は白々とした血の気の失せた顔で表情を凍らせている。きつく結んだ唇を微かに震わせていたかと思うと、
「あかん」
 険しい声で吐いた。一度では制止にならないと思ったのか、より口調を強めて、
「あかん、あんたは姫さんやし、俺と行くんや」
「いや、あの、だってさ」
 頑な調子で言い放たれて、洋子は困惑した。
「夕べは……治癒能力なんて姫さんは持ってないって」
「ああ、そや、姫さんはそんな力なんて持ってへん、持ってるわけあらへん」
「だから、私は姫さんじゃないって」
「そや、あんたは姫さんやあらへん」
「……護王」
 必死に言い募る相手に洋子は困惑した。まっすぐにこちらを見つめている護王の瞳は今にも青白い炎をあげそうなほどに怒っている。
「無茶苦茶なこと言ってるってわかってる? 私は姫さんなの、そうではないの?」
「そやかて…」
 急にくしゃくしゃと頼りなく、護王の顔が幼い子どものもののように歪んだ。
「あんたは姫さんやない、姫さんやないけど、花王紋があるし、姫さんのはずや」
 論理にも説得にもなっていないことばだったが、本人は全く気づいていないようだ。今の今まで強く光っていた瞳を潤ませて、
「そうでないとあかんねん、そうでないと、俺」
 うわ言めいた口調で繰り返した。
(ああ、この顔は)
 洋子は思い出した。
 乱れた前髪の下で、見開いた目が朝日を跳ねて黄金の光を弾いている。今にも泣き出しそうに脅えた小さな子どもの顔。少し開いた唇は噛み締めたのだろうか、それとも内からの激情の色か、紅の色をにじませて何かを言おうとするように震えている。
 それは初めて護王を見たときの顔だ。
 それはまた、遠い時間の彼方に、降りしきるような桜吹雪の中に浮かんでいたようにも思える顔で。
 そして、それは今、とても一人では置いていけないほどにあやうげで。
 護王が求めているのが洋子ではないにせよ、放っておけない、と思った。
 調べたところでは桜里への行程は電車とバス数本でしか繋がれていない。あれこれ手間どっているうちに昼近くになってしまうだろう。そうすれば、出かけるにしても宿の確保がいる。
(明日…にするか)
 洋子は思い直して、気持ちを切り替えた。
 どうして護王が急に不安定になってしまったのかはわからないが、それはどうやら桜里へ行くことに関係しているらしいし、村上のことも誤解したままのようだ。
「わかった」
 洋子がうなずくと、ようやく護王の顔が明るんだ。
「今日はやめて明日出かける。ただし、一人で、だよ? 村上さんは一緒じゃないからね」
 続けた洋子のことばに再び護王の瞳が険しくなった。数度詰まったのち、絞り出すように、
「……桜里…」
「ん?」
「行かんでもええやんか」
「…は…?」
 思いつめた声で言われて、洋子はきょとんとした。護王は護王で、話すことで逆に気持ちを固めたのだろう、洋子をまっすぐに凝視したまま、繰り返した。
「桜里、行かんでもええやろ?」
「あの……」
「あんたは姫さん違うんやし、桜里に行く必要ないやんか。行かへんで、どこにも行かへんで」
 一瞬ためらって、その後より切羽詰まった顔になった。眉を寄せて掠れた声で続ける。
「ずっと、俺と」
 洋子は護王が何を言いたいのかわからなくなって戸惑った。
「俺と?」
 問い返すと相手の瞳が苛立ったように揺れた。
「俺と……ここで…」
 肝心な事が言い切れない自分が腹立たしい、そんなふうに取れるきつい顔で唇を噛む。
「でも、護王は姫さんの、護王なんでしょ?」
 まださっきの混乱が続いているのかと洋子は丁寧に繰り返した。
「で、私は姫さんじゃない。だから、祭礼には関係がないし、護王と一緒に行く必要はないよね?」
(そうだ、一緒に居る必要も、ない)
 自分で断言して痛んだ胸を気力で振り切る。
「でも、私は桜里に行きたい。綾子のお墓参りはしたいんだ……だから、そのために桜里には行きたいんだよ」
 護王の言いたいことを読み取ってまとめ、自分の気持ちも伝えたつもりだったのだが、護王にはうまく伝わらなかったらしい。色を失っていた護王の顔がすぐに前より白い顔になった。
「俺と一緒に行く必要…ない…? 俺と一緒には……いられへん…?…」
 護王は神経質な笑みを浮かべて繰り返し、いつの間にか額ににじんできている汗を手で拭った。
「また…そんなこと…言うんや…?…」
 皮肉な口調で続ける、その体が不安定にゆらゆらと揺れている。
「護王?」
 洋子は眉をしかめた。
 やはり、どうもおかしい。言っていることがばらばらで通じていないのに、それに気づいていないようだ。
 瞳が熱っぽいままで光を失っていく。焦点がずれていくのを必死に堪えている、そんな顔で、護王は揺れる体を支えるように流しにもたれて両手をついた。握りしめた指の関節が無機質な白色に変わっていく。
「そうやって……俺を残して…ばっかりや……ははっ」
 乾いた冷ややかな笑い声を漏らして、護王は目を細めた。体を細かく震わせ始める。
「護王、どうしたの?」
「俺が……どんな気持ちで……あんたを見送ったかなんて……いっつも…全然気づいてへんのや…気づいてへんから……そんなこと……言うんや…」
「見送った?」
 ふらふらと危うげに体を揺らせている相手に近寄り、ためらいながら洋子が手を伸ばした矢先、す、と護王の体から力が抜けた。
「護王!」
「っ……!」
 眉をしかめた護王が流しの前の床にへたり込む。
「護王! 護っ…」
 慌てて近寄り、覗き込んだ洋子の腕を護王は掴んだ。額からは次々と汗が零れ落ちている。いや、零れ落ちているのは汗だけではない、朦朧と焦点を失い始めた瞳から溢れ出す涙が紅潮した頬を濡らしていく。
「なあ……もう……置いてかんといて…?…もう……一人は…しんどいねん……」
 儚い、と言ってもいいほどの淡い微笑が顔に浮かんだ。今にも途切れそうな囁き声でつぶやく。
 その口調の必死さに洋子はことばを失った。

「九度八分、か……倒れるはずだよね」
 護王の脇に差し込んだ体温計をTシャツの下から取り出して、洋子は溜息をついた。
 上げていた部屋の温度を少し下げ、カーテンを閉める。窓の外はもう暗い。
 今にも気を失いそうになっている護王を何とか支えて部屋に連れて入ったものの、ベッドの上に散乱したティッシュと空き箱、なぜだかひっぱがされているシーツに戸惑った。とりあえず周囲を探し回り、衣装ケースから新しいシーツを出してベッドを整え、本格的に熱が出始めたのかかたかたと全身を震わせだした護王を押し込み、あちこち探してようやく体温計と常備薬の箱を見つけたが、氷枕の類はなかった。
 今、布団に埋まるように体を丸めて護王は昏々と眠っている。真っ赤に火照った顔に次々と汗が流れ落ち、せわしい呼吸音が静まり返った中に響いている。
「風邪……引いたんだな」
 考えてみれば、夕べはあれほど寒かったのだ。いつから玄関で護王が洋子を待っていたのかは知らないが、かなり長い間だったのだろう。朝からおかしかったのも、きっと熱が出始めていたのだ。
「着替えさせたいけど……今は無理か」
 洋子は氷水で絞ったタオルで眠っている護王の顔を拭った。もう一度絞り直して今度は額に乗せてやる。
「今までどうしてたのかなあ」
(こんなふうに倒れることなんてなかったのかな)
 救急箱には風邪薬も胃腸薬もなかった。体温計と包帯だけ。消毒薬さえない。
『なあ……もう……置いてかんといて…?…もう……一人は…しんどいねん……』
 気を失う前につぶやいた護王の声が切ない響きで胸の内に繰り返す。脆い微笑が胸を刺す。
(たぶん……一人だったんだ)
 風邪で寝込んでも怪我をしても。
 どれほど傷ついても、どれほど苦しくても。
 洋子はゆっくりと部屋を見回した。
 部屋には洋子のものよりひと回り大きなベッドとミニテーブルに椅子、本棚と簡単な衣装ケースがあった。
 ミニテーブルにはコンビニの袋やコーヒーの空き缶、ファイルや雑誌などが載せられている。本棚にはコンピューター関係の本が多く並び、何より意外だったのがどう見ても趣味用とは思えないほど本格的なデスクパソコンで、隣に置かれた書類棚がコンピューターのプログラムやそれに関する契約書類などで一杯だったことだ。はみ出た数枚のものは護王のものらしいサインが入っており、どうやら護王はプログラマーとして収入を得ていたらしい。衣装ケースにあった服もそうだが、全体が黒白灰色で統一されていて、人が住む場所というよりは事務所の一画という印象が強い。
(ずっと……一人で…?)
 マンションの防音設備は完璧だ。夜に入り空気は深く静まり返り、護王の早い呼吸音の他には物音一つ聞こえて来ない。
 ふと護王が洋子の入室を拒んだ原因は何だろうと思った。別にこの程度の散らかり方ならば、勤務がぎっしりのときの洋子の部屋よりよっぽどきれいだし、食べかすやゴミが散らばっているわけでもない。
(プログラマーと知られるのがまずかった……? まさかね)
「うーん…?」
「ん…」
 洋子のうなり声が眠りの底に届いたのか、ふ、と唐突に護王が目を開けた。ぼんやりと洋子を見つめ、
「あれ…」
 記憶を探るように瞬きした。
「倒れたんだよ」
 もう一度熱を測ると七度八分だった。汗をかいたのがよかったのか、少し熱が下がったようだ。また温まってしまっているタオルを取り、絞り直して額にのせる。一瞬身を竦めた護王はその感覚を味わうように目を閉じた。
「気持ち……ええなぁ…」
「あんなところで待ってるから」
 護王の意識が戻ったことに我知らずほっとして、洋子はぼやいた。テーブルに置いていたお茶をストローで護王の口に含ませてやる。こく、こく、とおいしそうにそれを飲み下した相手がストローを離し、詰めていた息を吐くのを見計らって、
「夕べ。冷えてたのに、あんなところで待ってるから、風邪引いたの。道理で朝からおかしかったはずだ」
「そやかて…」
 かろうじて目を覚ましている、そんな曖昧な声で護王はつぶやいた。
「帰ってこぉへんのか……思た……もう……帰ってきてくれへん……そう思たら……部屋におられへんかったんや…」
「!」
 切なそうに眉を潜められて、胸を突かれたような気がした。
(同じ、気持ち)
 洋子もまた、そう思った。このまま護王は戻ってこないのかもしれない、と。
 護王はどこかまばゆげに洋子を見ている。
「ずっと……探して……やっと見つけたのに……戻ってきて……真っ暗な部屋みたら……息がとまりそうやった…」
 声は熱のせいか、まだ掠れていてどこか甘い。夜の空気に融け入りそうだ。
「そやのに……俺……どこ探したらええのかわからへんねん……どこにいったらええのか思いつかへんねん……なんぼでも探しようがあるのに……もう……会えへんかもしれへん……そればっかり思て……足が竦んで動けへんねん…」
 護王は自嘲ぎみにくすくすと笑った。
「待ってよ、て……言い聞かせてた……何度も待ったやんか……大丈夫や、て……姫さんが死んで……生まれてくるの待ったみたいに……待つのなんか……慣れてるやんか、て…」
 洋子の頭にマンションの玄関で腕を組んで立っていた護王が蘇った。厳しい顔で一つの隙も見せない様子だったのに、そんな思いをしていたのか、と胸が痛む。
 が、ふと護王のことばが引っ掛かった。
「護王」
「そしたら……ひどいやんか……他の男の匂いさせて……帰ってくるねん……俺の姫さんやのに……俺以外のやつに肩抱かれて…」
「ちょっと、待って、護王」
「え…?」
 護王は洋子の制止に我に返ったようだ。
「姫さんが死んで、生まれてくるの待つって……それって姫さんって転生してる、ってこと?」
「そうやんか」
 何を今さら驚いているんだと言いたげに護王はにっこり微笑んだ。
「俺が一人になるの……かわいそうや言うて……何度死んでも……何度も生まれてくる言うて……約束してくれたやんか…? その徴の花王紋やんか…? そやから……俺は……一人にならへん……一人でおらんで……すむのに……」
 あどけないほどの幼い笑みのまま、唐突に瞳からぽろぽろと涙が零れだした。
「今度は……なんであんな早うに……黙っていなくなったん………俺……二十年探したんやで……? 里のものも知らへん言う……誰もあんたのこと…桜の元にも埋まってへん……どこにいってたん……俺置いて……どこにいってたんや…?…」
 置き去りにされた小さな子どもが親に問う口調で護王はつぶやいた。
「ちょっと…待ってよ…」
(二十年、探した?)
 そう言えば、出逢ったときにそんなことを言っていたような気がする。
 しかし、それではどういうことになるのだ。『姫さん』という存在が転生を繰り返す存在で、その『徴』が花王紋ということ自体も衝撃だったが、その転生に何度も一緒に居たという護王は、ではいったい何者なのだ? 第一、どう見ても護王はニ十ニ、三にしか見えない。二十年探していたというなら、それだけでこれまでの一生を使い切っているはずだ。なのに、護王はその『前の』姫さんと一緒に居たとも言っている。
 ごく、と洋子は唾を呑んだ。
「護王は……姫さんとずっと居るの? 姫さんが死ぬと花王紋めあてに転生の人を探して、その人とまた一緒に生きてきて…ってこと?」
「なんで……いまさら…」
 護王は不思議そうにつぶやいた。
「そんなこと……聞くんや……? 俺は護王やんか……姫さんの……護王…」
 また熱が上がってきたのだろうか、目を閉じてふう、と護王は熱い息を吐いた。
「姫さんのために生きて……姫さんと居るためだけに……生きてるんやろ…?…」
 身動きした拍子に額からタオルがずれ、慌ててそれを拾い上げた。じっとりとした熱を帯びているのを氷水に浸して冷やし、数回濯いで絞り直し額にのせてやる。一瞬眠っていたのか、額にタオルがのせられると、護王は再びぼんやりと瞳を開いた。
「……けど……なあ……俺……なんかおかしいねん……」
 頼りない声で独り言を続ける。
「……姫さんちゃうのになあ……姫さんちゃうのに……きれいやなぁ…思てしもた……お月さんの下で……研いだ刃物みたいに……きらきらしてて……容赦がのうて」
(月の下?)
 覚えがあることばにどきりとして護王を見る。
 ベランダで浴びていた刃のような冴え冴えとした月光を思い出す。
(あのとき……護王が見ていた?)
「……お月さん浴びて……触ったら切れそうな笑い方して……目ぇ…放せへんかった…」
「それって、夕べの」
 呼び掛けると、急に洋子が居るのに気づいたように、護王は嬉しそうに瞬きした。
「そうや……あんたや……」
 蕩けるような微笑がこぼれる。のろのろと布団の中から手を伸ばし、洋子の右手をとらえた。何をするのかと訝る間に、人さし指と中指、二本の指を探るとゆっくり口元に引き寄せる。熱で乾いた唇をそっと指に押しつけて目を閉じ、祈るようにささやいた。
「…なあ……俺…殺して…?…」
「殺す?」
 あまりにも意外なことばにぎょっとした。体を強ばらせたのが指先に伝わったのだろう、濡れたまつげをあげた護王が再び夢でも見ているような淡さで微笑み、伏せていた瞳を洋子に向けた。瞳には昏い炎が揺らめいている。見ているとこちらが吸い込まれそうな深い黒だ。
「…刃物みたいなあんたやったら……俺を殺してくれるやろ…?…」
 はあ、と護王は悩ましげに息を吐いた。
「あんたは姫さん違う……俺は護王……姫さんの護王や……そやから姫さん以外に応じたらあかん……そんなこと…わかってる……わかってるんや……わかってるんやけど…」
 指を引く間もなく、横になったまま体を寄せてきて、開いた唇で指先を挟み、二度三度口づけを繰り返した。
「あかんね……もう……止まらへん」
 押さえ切れぬように護王は低い声でささやいた。口元に運んだ洋子の指を、ねだるように甘えるように吐息と一緒に舌でなぶる。
「あんたが……ほしいねん……どうしても……ほしいねん……おかしなるほど……ほしいねん……夜じゅう……ずっと…あんた思て……俺……もう……おかしいんかもしれへん…」
 乱れたベッド。
「ご、護王」
 一晩中求めて。
「からだ……とけてまう……」
 熱に潤んだ瞳を伏せ、舌を差し出し口を開く、蹂躙を願うように指を受け入れたまま。汗に濡れた首筋が光っている。
 乾いた喉に唾を呑んだ。頭の芯がくらくらする。
「指……離して」
 頼むのが精一杯、護王の口から指を引き離す動作一つがままならない。自制心をなおも揺らすように、視線を上げた護王がこれみよがしに指を含んだ。びく、と震えた洋子の反応に嫣然と目を細め、ふ、ふ、と息を漏らしながら舌を絡みつける。やがて口からゆっくり引き出して今度は遭わせた指の間を指先から舌で辿り上げ、付け根に尖らせた舌先を押し込んだ。
「…っ」
 駆け上がった感覚に体が震え視界が霞む。それでも護王から目が離せない。
「…俺を一人で……残すぐらいやったら……」
 洋子の視線に満足したように護王は妖しい微笑を浮かべた。強く高く、樹の香りが部屋に満ちていく。
「…なあ……殺して…?…」
 甘いささやき声とともに、瞬きもせず洋子を見つめて微笑する護王の目から、涙がまた零れ落ちた。
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