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6.月光(1)
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「姫さん!」
気持ちも心もいっぱいいっぱいだったのだろう。視界が揺れると足下が崩れた。気を失いこそしなかったが、立っていられなくなってへたり込む寸前、護王に体を支えられた。
「そやから、中に入ってなあかんて…」
「暗証…番号…知らないから…」
「あ…」
小さい叫びが護王の口から漏れた。
「ごめん、俺…俺が側にいるからええかって勝手に……」
つぶやきかけて何に気づいたのか、ふいにぐ、と護王がことばを呑み込んだ。
「ごめん!」
「あ」
ふわ、と洋子の足下が浮いた。それほど軽いつもりはなかったが、それでも護王の腕にかかってはたいした重さではなかったらしい。片手で抱えて洋子の体を引き上げると、そのまま部屋の扉を開けて中に入る。玄関で靴を蹴り捨て、すたすたと居間の方に歩いて行くと、まるで荷物を放るようにソファに洋子の体を投げた。
「たっ…」
眩んでいた視界がまた一層歪んで色を薄れさせ、洋子は目を閉じた。その洋子の体を抱きすくめるように護王がのしかかってくる。両腕もろとも抱き込まれて、そのまま左肩に顔を埋められ、洋子は目を見開いた。いつかの抱擁で感じた、鋭いような樹の香りが自分を包み込む。
「ご…」
「…なんでや…?」
うめくように低い声が首筋で吐息とともにこぼれる。
「え…」
「なんで……側におってくれへん……?」
悲痛な響きのつぶやきの後、くやしそうに、
「なんで……他の奴の匂いなんかさせてんのや…っ」
「!」
吐き捨てられたとたん、湿った感触が洋子の首に吸いついた。触れる、ではなく、あきらかに別の意図を持った熱を込めた動きで洋子の肌を探る。
「ご…護王…」
「言うたやんか…? 俺にはあんたしかおらへんのに……俺はあんたの護王やのに…あんたは他のやつに体、まかせて…」
「体って……あ」
さっきまで村上の背広を羽織っていた。手紙を読み込み、その衝撃に驚き怒り悲しみながら一時間を過ごしている。洋子は感じないほどだけど、確かに村上の香りのようなものは移っているかもしれない。
「ちが…」
「何が違う…?」
護王は顔を上げた。少しでも手を放すと洋子がどこかに消えていくのではないかと思っているように、左腕で固く洋子を抱き込んだまま、右手を抜いて洋子の顔を撫でながら凝視する。黒い瞳の中にちろちろと燃えている炎の色は紅、それはいつかの夢の中で見た護王の朱色の瞳のようで洋子は思わず体を竦めた。
「泣いてたやろ?」
「!」
「……あいつに……泣かされた…?」
「護王……」
「何を……されて…?」
唐突にうっすらと冷えた笑みが護王の顔に広がって、洋子はことばを失った。その微笑に含まれていたのは明らかに殺気、それも見る見る護王の内側で音をたてて燃え上がっていく。
「……怯えてる…やて?」
護王は目を細めた。形だけは優しい微笑み、けれど、その笑みは二週間ほど前に洋子を殺しにやってきたときの護王の笑みそのままだ。
「そやなあ……そら…俺は……鬼やもんなあ……」
妙に淡々とした声でつぶやいた護王が洋子の顎を押し上げる。
「鬼やったら……鬼のようにしてもええやんか…なあ…?」
有無を言わさず洋子の口を唇で覆いにかかる。掴まれた手に力が加わって、痛みに開いた口をその呼吸全て呑み込むような勢いで護王が塞ぐ。
(…っ!)
吹き飛びそうな洋子の意識に一瞬綾子の笑顔が過った。同時に重なったのは綾香の笑みだ。嵯峨の儚げな笑みも滑り込んでくる。
看護師の豊かで美しい未来を背負う。祭礼の役割を果たし、幸福な里と護王の未来を約束する。
そして?
洋子には何が残る?
(嵯峨さんは自殺して、綾子は死んでしまって、護王は綾香と結ばれて、私は看護師を辞めて『姫さん』をやって……どこへも行けなくて…日高に狙われてて…?)
体の内で護王に負けず劣らずの怒りがふいに火を吹いた。唇を通り過ぎた相手の舌に目一杯噛みついてやる。
「!!」
まさかの反撃、予想もしていなかったのだろう。護王が小さく悲鳴を上げて身を引いた。両腕を放して飛び退き、口元を押さえて大きく目を見開いたまま固まってしまう。
「いいかげんにしろっ!」
「!」
洋子が喚いて、相手はなお硬直した。
「どいつもこいつも、好き勝手に役を振り当てやがって!」
「…ひめ…」
「姫姫呼ぶんじゃない! いつ納得したよ、うなずいたよ、わかったって言ったよ! そっちが勝手に決めただけだろうが!」
洋子の爆発にごく、と護王の喉が動いた。半分は口の中の血の始末に困ったのだろう、呑み損ねたらしい血がつ、と唇から零れ落ちる。その鮮やかな色に、洋子はようやく我に返った。と同時に胸一杯に詰まっていたものが吹き上げ溢れ出す。
「私に何を期待してるんだ…私に……何をしろって……言うんだ…!!」
わああああ、と声を上げて顔を覆った。世界が砕けていく。何もかもが涙に巻き込まれ、崩れ落ちていく。
(何を…しろと?)
必死に生きてきた。
何度も生きている意味がないと思った。
それでもあやこがいたから。綾子がいたから。すがる患者の手があったから。崩れる寸前で頑張れた、しのいでこれた。
けれど、護王が出現してそれら全てがいきなり手の届かないところへ奪い去られて、看護師としてしか生きることしか知らなかったのに、その道を突然閉ざされた。自分が危ういバランスの上にいるのは重々わかっていたから、堪えて気持ちを揺らさぬようにして、それでも気を抜けば真横に開いた穴に転がり落ちるような恐怖に、ぎりぎりのところで踏み止まっていた。
護王は言わば、その場所にいた、唯一の命綱だったのだ、と泣きながら洋子は思った。
殺されかけて得体が知れなくて何を望まれているかもわからなくて、それでも護王の所にきたのは、そこなら唯一生き延びられそうだったからだ。『姫さん』と呼び、守ると約束し、事実、我を失った洋子を介抱してくれたばかりか、行き場のない自分に居場所を与えてくれた。
けれど、その護王には綾香が居て。
守るべき、もう一人の姫が居て。
(ああ……そうか)
洋子は気づいた。
(私……護王のことが……)
村上の呼び出しにふらふらとついていったのは、自分を暗い部屋に残して帰ることのない男の存在がショックだったからだ。自分と同じように姫と呼ぶもう一人の女を傍らに、平然と出ていける相手に自分がどれほど意味のない存在なのかを思い知ったからだ。
(いつのまにか……護王のことが…)
抱きかかえられた腕の温かさや柔らかく戸惑う声や深く表情が読めなくなる瞳までも、いつの間にか自分のものだと思い込んでいたからだ。
(私は……何も応えなかったのに…?)
最初から洋子が必要だと言い続けた相手に、洋子は何の約束も返さなかった。呼んでくれと言われても呼ばなかったし、自分が急にいなくなっていることに護王が不安がることを承知で黙って部屋を出た。
(勝手なのは私だったのか…?)
ふ、と鼻先に覚えのある樹の清冽な匂いが漂って、洋子は顔を上げた。上げさせまいとするように、柔らかな感触が洋子を包む。涙で濡れた顔が護王の胸に抱え込まれる。その胸の奥で慌ただしく心臓が跳ね躍っているのがわかる。うろたえ焦り苛立っている。だが、少しずつ、少しずつ、そのリズムが速度を落としていく。洋子が腕から逃げないのを確認してでもいるように、リズムがゆっくりになるのとつながりながら、護王の腕に力が戻ってくる。
洋子は体の力を抜いた。察した相手が体をずらせてソファに滑り込み、やがてひょいと洋子を膝の上に横座りに抱き上げた。そのままじっと洋子の体の強ばりがほどけるまで深く抱き締めている。
「…ほへんは」
「…?」
「…ほへ……いほぎ……ふぎは…」
「は?」
耳もとで囁かれた甘い響きの声が奇妙な音をつぶやいて、洋子を顔を上げた。
「ほやはは…」
言いかけた護王が真面目な顔で眉を寄せている。舌を噛まれた痛みのせいなのか、潤んだ瞳が困りきったようにせわしく瞬きし、
「えー…っほ」
「えーっほ?」
「ひがう」
「ひがう?」
「あの…!」
何とかちゃんとことばにしようとしたのか、発音したとたんに護王はびくっと体を震わせた。涙目になって痛そうに顔をしかめる。
「しゃべらないほうがいいんじゃない?」
「はへほ……へいはんや…」
(誰の、せいなんや)
今度はそう聞こえた。
「ごめん」
「あ…ひがう…」
謝った洋子に護王はうろたえた顔になった。
「ほへほ……へい」
(俺の、せい)
「手当て、しなきゃならないね? 見せて?」
推量で相手のことばを読み取りながら、洋子が応じると、護王はそっと薄く血に汚れた唇から舌を差し出した。先から一センチほどのところの端が切れてささくれだっている。何とか血は止まったようだが、まだうっすらと朱色の滲みが広がってくる。
(深くはないし、出血はほぼ止まってる…あれ…?)
護王の口元を、相手の両頬を手で支えて、それこそ看護師的に傷を覗き込んでいた洋子は、あることに気づいて瞬きした。
濡れた舌に滲んだ朱色の血がひどい思い出を引きずり出さない。いつもなら伴ってくる不安な焦りも浮かんでこない。
(終わった…のかな…)
二週間眠り続け、うなされ続けた中で、思い出の苦痛も尽きてしまったのか。
(人は…治るんだ…)
初めてわかった気がした。
改めて護王の傷を見つめる。
「うーん、どうしようかなあ」
洋子は周囲を見回した。病棟ではないから、経口しても大丈夫な薬は置かれていないだろう。いや、そう言えば、この部屋でそういう医薬品の類は見ていないような気がする。
もう一度舌を覗き込むと、ゆら、と先端が動いた。そうしてみると、護王の舌は濡れてとろりとした光を放つ別の生き物のように見える。
(あのへんが切れてるってことは…)
その先はどこにあったのか、と思った瞬間、ざわっと全身が熱くなった。その洋子をじっと見ていたらしい護王が、
「……はへへ」
「え?」
「ははあ……へあへ」
「手当て?」
うん、と洋子に顔を固定されたままうなずく。それから微妙に赤くなりながら、護王は洋子を見ていた目を逸らせた。
「ひょうほふ」
「…えーっと……消毒? 薬、あるの?」
護王は微かに首を横に振って眉をしかめた。むくれるような顔で、一旦舌を引っ込め、こくん、と唾を飲み下し、再びそっと舌を出す。
「……はへへ」
「はへへ?」
「……ほんかん」
「ほんかん?」
護王はじろ、と横目で洋子を睨んだ。抱えていた両腕を離し、そのままソファに仰け反って天井を向き、溜息まじりに舌を突き出したままつぶやく。
「あほ…」
「あほって言ったね?」
「ほへは……ふーひふんは」
「それはつーじるんか?」
「……ひっへへやっへう?」
「知っててやってる?」
護王は深く吐息をついた。ソファの背に乗せた顔をこちらへ向ける。しっとりとした瞳が洋子を見つめ、僅かに頬を染めたまま、ちろ、と唇から舌先を覗かせて見せる。
「痛くないの?」
「ひはい」
「じゃあ、手当てしたほうが」
「ははあ…」
焦れたように護王は洋子を引き寄せた。体勢上、護王の体にのしかかるような状態になった洋子に満足したように微笑み、
「はへへ」
「あ…」
(なめて)
護王の声がふいにことばに変わって、心臓が跳ね上がった。考えてみれば、洋子からキスをしかけた覚えはない。それこそ、唇を触れるだけのものでさえ。
「あ、あの……薬、のほうが」
引きつりながら無駄な抵抗を試みる。たった今、護王への気持ちを確認したばかりだから、密着しているのさえ居畳まれないのに、これ以上のことに及べる自信がない。
「ははあ……ほへ…ふふひ」
(だから、それ、薬)
「う……」
焦って洋子は身もがいた。もちろん護王に洋子を放す気などさらさらなく、逆に相手に体の熱を揉み込むような動きになって、慌てて動くのをやめる。護王は楽しげに目を細めて笑っている。綻ぶ口元でピンクの舌が揺れている。喉を晒して舌をちらつかせている護王は、自分の命を差し出す獲物に見えて、思う存分牙をたてたくなる。
「あ!」
誘いにのって落ちたい気持ちと、綾香はどうなるのかという気持ちの板挟みになって目眩を感じたとたん、ちり、と指先を走った感覚に我に返った。
(この感覚)
きょとんとした顔で瞬きする護王に、に、と笑い返してみせる。
それは長い間忘れ去っていた感覚だった。けれども実家にいるころは慣れ親しんだ感覚で、しかも洋子のしてきたことの中で唯一誰にも迷惑がられたことのないものだ。
「ちょっと、待ってね、護王」
抱きかかえられた姿勢から、護王の脚の上で体を起こした。右手の人さし指と中指をたてて他の指を握り込み、左手でたてた指を包んで軽く摩る。見守っていた護王がぎょっとしたように目を見開き、なぜかより赤くなる。それに構わず摩擦を続け、やがてちりちりした感覚が指先に満ちてくるのに期待が溢れた。
(今ならできるかも)
微かな電気を帯びているように感じるニ本の指を護王の口元へ近づける。
「口、開いて」
緊張した顔で洋子を見返していた護王が体を震わせ、潤んだ瞳を伏せた。少しためらった後でそっと口を開く。血の滲んだ舌が微かに揺れながら待っている、その傷の部分に洋子は指先を当てた。痛かったのか、びくりと体が強ばる。一瞬相手が舌を引きかけたせいで、思わぬ深さで護王の口が指を含んだ。伏せられていたまつげが震えながら持ち上がり、挑発するような視線で洋子を見上げてくる。闇色をした濡れた瞳が洋子の胸の奥を射ぬく。
指先で、護王の口を、より深くまで犯したい。
あやうい気持ちが広がって、息を呑んだ。それがまるで伝わったように、護王が力を抜いて両手を投げ出し、くったりと目を閉じる、快感に堪えかねて意識を手放してしまったように。短い黒髪が仰け反った首筋にからみつく。
(まずい)
我を失いそうになって、洋子は首を振った。無理矢理に意識を指先とそこにある傷に集中する。
やがて、洋子の指に、細かな糸が次々に指先に向かって張られていくようななじんだ感覚が満ちてきた。指先がじんわりと熱くなっていく。
「…?…」
護王が目を開け、いぶかしげに眉を寄せた。舌にあたっている感覚がどこから来るのか探るように、瞳をしばらく空に泳がせていたが、ふいに顔色をなくした。突然洋子の手首を掴んで指を口の中から引き抜き、凍った表情で洋子を見返し、掠れた声で尋ねてくる。
「これ…なんや…?」
◆「あ、治った?」
護王のはっきりした発音にほっとした。愕然とした顔に安心させるように微笑んでみせる。
久しぶりに試してみたからできるかどうか心配だったが、思ったよりうまくいったようだ。
「よかった、まだ使えたんだ」
護王は洋子のことばに一層顔を青ざめさせた。
「なんや、て聞いてる」
「えーと…」
洋子は口ごもった。
護王は洋子の手首をまるで蛇の鎌首を持ってでもいるように握りしめたまま、体を起こして洋子を見つめている。いや、もう睨みつけている、と言ってもいい。
「あの…治癒、能力、というか」
「治癒……?」
「うん……小さいころから……これは使えるんだ……しばらく使ってなかったけど」
それはきっと、あの家で生き延びるためにつけた力だったのだろう。小さな傷や打ち身なら数時間も手を当てていれば回復させられる。けれど、さすがにあやこのときには間に合うものではなかった。
(あれから……か…使ってなかったの…)
何がきっかけなのかはわからない。が、洋子は治癒力を再び取り戻したようだ。
(皮肉だなあ……看護師を離れてから…この力が戻るなんて)
「なんや……それ」
なんだかうれしくてぼんやりと微笑んでいた洋子は、護王が吐いたことばに瞬きした。
「…え…?」
「そんなもん……あるわけない」
護王はほとんど真っ青になっていた。そればかりか、体を細かく震わせながら、たった今まで洋子に身を任せていたのさえ否定するように、洋子の体を押し出すように降ろす。
「あるわけ、ないって?」
突き放されて戸惑いながら尋ね返す。
「そやかて……姫さんは…姫さんなら…」
護王自体も状況がうまく呑み込めないらしく、混乱した口調で続けた。
「そんな、力、あるわけないんや……俺が……それは俺が……」
とんでもなくおぞましいものを側に置いていたのにふいに気づいた、そういう気配で護王はソファから滑り降り、後じさりするように洋子から離れた。
「俺が…って?」
「…姫さんに、そんなもん、あるわけない」
噛み合ない会話のまま、護王が繰り返す。
「それって…どういうことなの…かな」
「どういうことも何も」
問い続ける洋子に改めて気づいたように、不安定につぶやいて見つめ返す。頭の中で必死に忙しく考え続けている、そんな護王の表情が洋子の顔を見たとたん、がさりと変わった。
「やば……」
「え?」
「…俺……姫さん以外に……」
目を見張るほど鮮やかな紅が見る見る護王の顔に広がって驚いた。護王自身も自分の反応に驚いたようで、うろたえて口元を手で覆うと、激しく瞬きしながら残った腕で自分の体を抱き締めた。竦むように身を引き、なお洋子から離れようとする。
「護王…?」
「俺に……触るな…っ!」
「!」
ただ声をかけ手を伸ばしただけなのに、激しく拒否されて洋子は動けなくなった。真っ赤になった護王がそれ以上ことばが出ないと言った風情で身を翻し、左の自分の居室の方へ飛び込んでいってしまうのをぼんやりと眺める。
「……触るな…?」
何が護王を怒らせてしまったのだろうと今の出来事を思い返す。
「………姫さんに…そんなもん、あるわけない…のか」
治癒能力の発動がまずかったのだろうか。
まだちりちりとした感覚が残る指先を見た。護王の舌に触れてわずかに濡れている。
(温かかったな)
柔らかくてしっとりしていて。
護王の口に指を差し入れたときに広がった、妖しくて疼くような気持ちを思い出す。
(それが、まずかった…?)
「ああ……そりゃあ……まずいかも」
思い返して納得してしまう。
それは他ならぬ、護王を手に入れたいという気持ちだ。抵抗がないのをいいことに、舌の傷を癒すのと引き換えに護王の内側まで侵すのを望む気持ち。
遅ればせながら頬に血の気がのぼってくる。
あのまま放っておかれたら、自分はどこまで何をしただろう、護王の傷につけ込んで。
ぞくりと、恐怖のような、それでもそこに踏み込みたいと願ってしまうような感覚が背骨の付け根あたりで蠢いた。
洋子の中のその欲望に気がついて、それで護王は洋子が姫さんではない、と言ったのだろうか。
『そんなもん…あるわけない』
護王の姫さんは、つまりは綾香は、護王にそんなことを求めないということなのだろうか。護王を癒し守り安らがせるためだけに居る人だとでもいうのだろうか。
まるで、聖母、のように。
ただどこまでも与えるだけの。
(そんなの……無理だ)
愛しいと思ったら気持ちは流れ込んでいく。誘われれば崩れ落ちる。踏み込めるなら重なるほどに入りたいと願ってしまう。奪えるものなら攫いたくなる。それが誰かを求めること、ではないのか。
(それとも…全部、勘違いだった?)
脳裏を可愛らしく笑う綾香の顔が過っていった。護王の腕に当然のようにおさまって、出かけていた数時間、護王と綾香はどこで何をしてたのだろう。
(誘われたのじゃ、なかった?)
単に手に入れたはずの姫さんが別の男に取られそうになったからの所有欲で、洋子を欲してのことではなかった、ということなのだろうか。
だから、姫さんではないとわかった今は、もう洋子は護王に必要がなくなったということなのだろうか。
護王に必要だったのは、本当に綾香を支えるための花王紋のある女、だったということなのかもしれない。それは誰でもよかった。綾子でも嵯峨でも洋子でも。ただの器だから。
つまりはそういうことだったのではないだろうか。
俯いて、もう一度指先を見つめる。
もうあの感覚はなくなっている。
(せっかく、取り戻したのに)
胸の底が冷え冷えとして沈み込むような気持ちがしてきた。
どれほど、そうやって茫然としたのだろう、洋子は顔を上げて窓の外を見た。
居間から続くベランダにいつの間に上ったのか、降り注ぐような月光が満ちている。
窓を開けてそろそろと外に出る。さっきより気温が下がっているはずなのに寒さ一つ感じなかった。
「違った…ってことなんだろうなあ?」
月を見上げて誰に問うともなくつぶやいた。
春の月にしては猛々しい。凍るほどくっきりとした光を刃のように突き降ろしてくる。
「触るな…ってか」
確かにいろいろなものを掴みかけては失ってきたけれど、これほど激しく決定的に拒否されたのは初めてだ。頭の一部だけが醒めているのに、残り全てが淡く半透明なベールに覆われてどんどん消え去っていくような気がする。
振り返ったが、護王の部屋のドアは閉ざされたままだ。その向こうで何をしているのか、気配さえ感じ取れない。さっきの出来事で洋子がどうなったか、興味もない、ということらしい。
(なあんだ)
洋子は胸に詰まった答えに気づいて苦笑いした。
「要らない、ってことじゃないか、私は」
必死にしがみついていた最後の箍が外れていくのを感じた。
(姫さん、でもないらしい自分は)
「居ること自体……まずいのかもしれないなあ」
『俺に……触るな…っ!』
真っ赤な顔で自分を守るように身を引いた護王。
風が髪を吹き乱す。虚空に向けて、洋子の自惚れを嘲笑うように。
「今さら……要らないなんて言わなくても」
それでなくとも、とうに気持ちの限界は越えている。
自分の内側に弾けていくことばに洋子は無防備に耳を傾けた。
嵯峨だって、綾子だって、日高だって、護王だって。
目障りだったのなら、さっさと殺してくれればよかったのだ。
お前はこの世界には無用の存在だと。
お前はこの世界には有害な存在だと。
その声が本当はずっと聞こえていた。
生きているつもりなんかなかった。
ただ死ななかっただけだ。
誰かに生きていていいと言ってほしかった。生きていてくれと言ってほしかった。
だから必死に呼び掛けてきた、死なないで、生き延びて、どうか生きていて、と。
けれど、胸の奥では違う声を聞いていた。
もう、十分だ、と。
あやこを助けられなかったときから、洋子の生きている意味なんてどこにもない。
あやこが死んだ瞬間に、洋子もどこかで死んでしまっているのだ。
それを認めたくなくて。
自分がこの世で何一つ得られなかったとわかるのがつらくて。
何もこの腕には抱き締められなかったのだと知るのが悲し過ぎて。
ただ今、このときまで、自分の気持ちに耳を塞いできた。
それでも。
「護王」
今この名前をつぶやけば、胸にしみるほど切なかった。
自分がどうしようもなく護王に魅かれているとわかった後では。その人の心は自分のどこにもないのだとわかった後でも。
何をしたらいいのかわからなくなって、ただぼんやりと月を見る。
遠い遥かな月を見る。
清冽で美しい光、全てを救う祈りのように。
ふいにジーパンのポケットに入れた携帯を思い出した。
日高は警察を抜け出した。遅かれ早かれ洋子の前に現れる、そんな気がする。
そして、そのときに護王がいれば、負わなくていい怪我を負い、受けなくていい傷を受けるかもしれない。
洋子が居ることで、護王は危険に晒される。
(まずい、んだ)
死んだほうがいい、のではなくて。
生きていてはまずい。
護王に思いを寄せていてはまずい。
「そんなこと」
月を見上げたままつぶやく。
(もっとハヤク言ってくれれば)
「イツデモ死んでやったのに」
洋子は暗く笑った。
気持ちも心もいっぱいいっぱいだったのだろう。視界が揺れると足下が崩れた。気を失いこそしなかったが、立っていられなくなってへたり込む寸前、護王に体を支えられた。
「そやから、中に入ってなあかんて…」
「暗証…番号…知らないから…」
「あ…」
小さい叫びが護王の口から漏れた。
「ごめん、俺…俺が側にいるからええかって勝手に……」
つぶやきかけて何に気づいたのか、ふいにぐ、と護王がことばを呑み込んだ。
「ごめん!」
「あ」
ふわ、と洋子の足下が浮いた。それほど軽いつもりはなかったが、それでも護王の腕にかかってはたいした重さではなかったらしい。片手で抱えて洋子の体を引き上げると、そのまま部屋の扉を開けて中に入る。玄関で靴を蹴り捨て、すたすたと居間の方に歩いて行くと、まるで荷物を放るようにソファに洋子の体を投げた。
「たっ…」
眩んでいた視界がまた一層歪んで色を薄れさせ、洋子は目を閉じた。その洋子の体を抱きすくめるように護王がのしかかってくる。両腕もろとも抱き込まれて、そのまま左肩に顔を埋められ、洋子は目を見開いた。いつかの抱擁で感じた、鋭いような樹の香りが自分を包み込む。
「ご…」
「…なんでや…?」
うめくように低い声が首筋で吐息とともにこぼれる。
「え…」
「なんで……側におってくれへん……?」
悲痛な響きのつぶやきの後、くやしそうに、
「なんで……他の奴の匂いなんかさせてんのや…っ」
「!」
吐き捨てられたとたん、湿った感触が洋子の首に吸いついた。触れる、ではなく、あきらかに別の意図を持った熱を込めた動きで洋子の肌を探る。
「ご…護王…」
「言うたやんか…? 俺にはあんたしかおらへんのに……俺はあんたの護王やのに…あんたは他のやつに体、まかせて…」
「体って……あ」
さっきまで村上の背広を羽織っていた。手紙を読み込み、その衝撃に驚き怒り悲しみながら一時間を過ごしている。洋子は感じないほどだけど、確かに村上の香りのようなものは移っているかもしれない。
「ちが…」
「何が違う…?」
護王は顔を上げた。少しでも手を放すと洋子がどこかに消えていくのではないかと思っているように、左腕で固く洋子を抱き込んだまま、右手を抜いて洋子の顔を撫でながら凝視する。黒い瞳の中にちろちろと燃えている炎の色は紅、それはいつかの夢の中で見た護王の朱色の瞳のようで洋子は思わず体を竦めた。
「泣いてたやろ?」
「!」
「……あいつに……泣かされた…?」
「護王……」
「何を……されて…?」
唐突にうっすらと冷えた笑みが護王の顔に広がって、洋子はことばを失った。その微笑に含まれていたのは明らかに殺気、それも見る見る護王の内側で音をたてて燃え上がっていく。
「……怯えてる…やて?」
護王は目を細めた。形だけは優しい微笑み、けれど、その笑みは二週間ほど前に洋子を殺しにやってきたときの護王の笑みそのままだ。
「そやなあ……そら…俺は……鬼やもんなあ……」
妙に淡々とした声でつぶやいた護王が洋子の顎を押し上げる。
「鬼やったら……鬼のようにしてもええやんか…なあ…?」
有無を言わさず洋子の口を唇で覆いにかかる。掴まれた手に力が加わって、痛みに開いた口をその呼吸全て呑み込むような勢いで護王が塞ぐ。
(…っ!)
吹き飛びそうな洋子の意識に一瞬綾子の笑顔が過った。同時に重なったのは綾香の笑みだ。嵯峨の儚げな笑みも滑り込んでくる。
看護師の豊かで美しい未来を背負う。祭礼の役割を果たし、幸福な里と護王の未来を約束する。
そして?
洋子には何が残る?
(嵯峨さんは自殺して、綾子は死んでしまって、護王は綾香と結ばれて、私は看護師を辞めて『姫さん』をやって……どこへも行けなくて…日高に狙われてて…?)
体の内で護王に負けず劣らずの怒りがふいに火を吹いた。唇を通り過ぎた相手の舌に目一杯噛みついてやる。
「!!」
まさかの反撃、予想もしていなかったのだろう。護王が小さく悲鳴を上げて身を引いた。両腕を放して飛び退き、口元を押さえて大きく目を見開いたまま固まってしまう。
「いいかげんにしろっ!」
「!」
洋子が喚いて、相手はなお硬直した。
「どいつもこいつも、好き勝手に役を振り当てやがって!」
「…ひめ…」
「姫姫呼ぶんじゃない! いつ納得したよ、うなずいたよ、わかったって言ったよ! そっちが勝手に決めただけだろうが!」
洋子の爆発にごく、と護王の喉が動いた。半分は口の中の血の始末に困ったのだろう、呑み損ねたらしい血がつ、と唇から零れ落ちる。その鮮やかな色に、洋子はようやく我に返った。と同時に胸一杯に詰まっていたものが吹き上げ溢れ出す。
「私に何を期待してるんだ…私に……何をしろって……言うんだ…!!」
わああああ、と声を上げて顔を覆った。世界が砕けていく。何もかもが涙に巻き込まれ、崩れ落ちていく。
(何を…しろと?)
必死に生きてきた。
何度も生きている意味がないと思った。
それでもあやこがいたから。綾子がいたから。すがる患者の手があったから。崩れる寸前で頑張れた、しのいでこれた。
けれど、護王が出現してそれら全てがいきなり手の届かないところへ奪い去られて、看護師としてしか生きることしか知らなかったのに、その道を突然閉ざされた。自分が危ういバランスの上にいるのは重々わかっていたから、堪えて気持ちを揺らさぬようにして、それでも気を抜けば真横に開いた穴に転がり落ちるような恐怖に、ぎりぎりのところで踏み止まっていた。
護王は言わば、その場所にいた、唯一の命綱だったのだ、と泣きながら洋子は思った。
殺されかけて得体が知れなくて何を望まれているかもわからなくて、それでも護王の所にきたのは、そこなら唯一生き延びられそうだったからだ。『姫さん』と呼び、守ると約束し、事実、我を失った洋子を介抱してくれたばかりか、行き場のない自分に居場所を与えてくれた。
けれど、その護王には綾香が居て。
守るべき、もう一人の姫が居て。
(ああ……そうか)
洋子は気づいた。
(私……護王のことが……)
村上の呼び出しにふらふらとついていったのは、自分を暗い部屋に残して帰ることのない男の存在がショックだったからだ。自分と同じように姫と呼ぶもう一人の女を傍らに、平然と出ていける相手に自分がどれほど意味のない存在なのかを思い知ったからだ。
(いつのまにか……護王のことが…)
抱きかかえられた腕の温かさや柔らかく戸惑う声や深く表情が読めなくなる瞳までも、いつの間にか自分のものだと思い込んでいたからだ。
(私は……何も応えなかったのに…?)
最初から洋子が必要だと言い続けた相手に、洋子は何の約束も返さなかった。呼んでくれと言われても呼ばなかったし、自分が急にいなくなっていることに護王が不安がることを承知で黙って部屋を出た。
(勝手なのは私だったのか…?)
ふ、と鼻先に覚えのある樹の清冽な匂いが漂って、洋子は顔を上げた。上げさせまいとするように、柔らかな感触が洋子を包む。涙で濡れた顔が護王の胸に抱え込まれる。その胸の奥で慌ただしく心臓が跳ね躍っているのがわかる。うろたえ焦り苛立っている。だが、少しずつ、少しずつ、そのリズムが速度を落としていく。洋子が腕から逃げないのを確認してでもいるように、リズムがゆっくりになるのとつながりながら、護王の腕に力が戻ってくる。
洋子は体の力を抜いた。察した相手が体をずらせてソファに滑り込み、やがてひょいと洋子を膝の上に横座りに抱き上げた。そのままじっと洋子の体の強ばりがほどけるまで深く抱き締めている。
「…ほへんは」
「…?」
「…ほへ……いほぎ……ふぎは…」
「は?」
耳もとで囁かれた甘い響きの声が奇妙な音をつぶやいて、洋子を顔を上げた。
「ほやはは…」
言いかけた護王が真面目な顔で眉を寄せている。舌を噛まれた痛みのせいなのか、潤んだ瞳が困りきったようにせわしく瞬きし、
「えー…っほ」
「えーっほ?」
「ひがう」
「ひがう?」
「あの…!」
何とかちゃんとことばにしようとしたのか、発音したとたんに護王はびくっと体を震わせた。涙目になって痛そうに顔をしかめる。
「しゃべらないほうがいいんじゃない?」
「はへほ……へいはんや…」
(誰の、せいなんや)
今度はそう聞こえた。
「ごめん」
「あ…ひがう…」
謝った洋子に護王はうろたえた顔になった。
「ほへほ……へい」
(俺の、せい)
「手当て、しなきゃならないね? 見せて?」
推量で相手のことばを読み取りながら、洋子が応じると、護王はそっと薄く血に汚れた唇から舌を差し出した。先から一センチほどのところの端が切れてささくれだっている。何とか血は止まったようだが、まだうっすらと朱色の滲みが広がってくる。
(深くはないし、出血はほぼ止まってる…あれ…?)
護王の口元を、相手の両頬を手で支えて、それこそ看護師的に傷を覗き込んでいた洋子は、あることに気づいて瞬きした。
濡れた舌に滲んだ朱色の血がひどい思い出を引きずり出さない。いつもなら伴ってくる不安な焦りも浮かんでこない。
(終わった…のかな…)
二週間眠り続け、うなされ続けた中で、思い出の苦痛も尽きてしまったのか。
(人は…治るんだ…)
初めてわかった気がした。
改めて護王の傷を見つめる。
「うーん、どうしようかなあ」
洋子は周囲を見回した。病棟ではないから、経口しても大丈夫な薬は置かれていないだろう。いや、そう言えば、この部屋でそういう医薬品の類は見ていないような気がする。
もう一度舌を覗き込むと、ゆら、と先端が動いた。そうしてみると、護王の舌は濡れてとろりとした光を放つ別の生き物のように見える。
(あのへんが切れてるってことは…)
その先はどこにあったのか、と思った瞬間、ざわっと全身が熱くなった。その洋子をじっと見ていたらしい護王が、
「……はへへ」
「え?」
「ははあ……へあへ」
「手当て?」
うん、と洋子に顔を固定されたままうなずく。それから微妙に赤くなりながら、護王は洋子を見ていた目を逸らせた。
「ひょうほふ」
「…えーっと……消毒? 薬、あるの?」
護王は微かに首を横に振って眉をしかめた。むくれるような顔で、一旦舌を引っ込め、こくん、と唾を飲み下し、再びそっと舌を出す。
「……はへへ」
「はへへ?」
「……ほんかん」
「ほんかん?」
護王はじろ、と横目で洋子を睨んだ。抱えていた両腕を離し、そのままソファに仰け反って天井を向き、溜息まじりに舌を突き出したままつぶやく。
「あほ…」
「あほって言ったね?」
「ほへは……ふーひふんは」
「それはつーじるんか?」
「……ひっへへやっへう?」
「知っててやってる?」
護王は深く吐息をついた。ソファの背に乗せた顔をこちらへ向ける。しっとりとした瞳が洋子を見つめ、僅かに頬を染めたまま、ちろ、と唇から舌先を覗かせて見せる。
「痛くないの?」
「ひはい」
「じゃあ、手当てしたほうが」
「ははあ…」
焦れたように護王は洋子を引き寄せた。体勢上、護王の体にのしかかるような状態になった洋子に満足したように微笑み、
「はへへ」
「あ…」
(なめて)
護王の声がふいにことばに変わって、心臓が跳ね上がった。考えてみれば、洋子からキスをしかけた覚えはない。それこそ、唇を触れるだけのものでさえ。
「あ、あの……薬、のほうが」
引きつりながら無駄な抵抗を試みる。たった今、護王への気持ちを確認したばかりだから、密着しているのさえ居畳まれないのに、これ以上のことに及べる自信がない。
「ははあ……ほへ…ふふひ」
(だから、それ、薬)
「う……」
焦って洋子は身もがいた。もちろん護王に洋子を放す気などさらさらなく、逆に相手に体の熱を揉み込むような動きになって、慌てて動くのをやめる。護王は楽しげに目を細めて笑っている。綻ぶ口元でピンクの舌が揺れている。喉を晒して舌をちらつかせている護王は、自分の命を差し出す獲物に見えて、思う存分牙をたてたくなる。
「あ!」
誘いにのって落ちたい気持ちと、綾香はどうなるのかという気持ちの板挟みになって目眩を感じたとたん、ちり、と指先を走った感覚に我に返った。
(この感覚)
きょとんとした顔で瞬きする護王に、に、と笑い返してみせる。
それは長い間忘れ去っていた感覚だった。けれども実家にいるころは慣れ親しんだ感覚で、しかも洋子のしてきたことの中で唯一誰にも迷惑がられたことのないものだ。
「ちょっと、待ってね、護王」
抱きかかえられた姿勢から、護王の脚の上で体を起こした。右手の人さし指と中指をたてて他の指を握り込み、左手でたてた指を包んで軽く摩る。見守っていた護王がぎょっとしたように目を見開き、なぜかより赤くなる。それに構わず摩擦を続け、やがてちりちりした感覚が指先に満ちてくるのに期待が溢れた。
(今ならできるかも)
微かな電気を帯びているように感じるニ本の指を護王の口元へ近づける。
「口、開いて」
緊張した顔で洋子を見返していた護王が体を震わせ、潤んだ瞳を伏せた。少しためらった後でそっと口を開く。血の滲んだ舌が微かに揺れながら待っている、その傷の部分に洋子は指先を当てた。痛かったのか、びくりと体が強ばる。一瞬相手が舌を引きかけたせいで、思わぬ深さで護王の口が指を含んだ。伏せられていたまつげが震えながら持ち上がり、挑発するような視線で洋子を見上げてくる。闇色をした濡れた瞳が洋子の胸の奥を射ぬく。
指先で、護王の口を、より深くまで犯したい。
あやうい気持ちが広がって、息を呑んだ。それがまるで伝わったように、護王が力を抜いて両手を投げ出し、くったりと目を閉じる、快感に堪えかねて意識を手放してしまったように。短い黒髪が仰け反った首筋にからみつく。
(まずい)
我を失いそうになって、洋子は首を振った。無理矢理に意識を指先とそこにある傷に集中する。
やがて、洋子の指に、細かな糸が次々に指先に向かって張られていくようななじんだ感覚が満ちてきた。指先がじんわりと熱くなっていく。
「…?…」
護王が目を開け、いぶかしげに眉を寄せた。舌にあたっている感覚がどこから来るのか探るように、瞳をしばらく空に泳がせていたが、ふいに顔色をなくした。突然洋子の手首を掴んで指を口の中から引き抜き、凍った表情で洋子を見返し、掠れた声で尋ねてくる。
「これ…なんや…?」
◆「あ、治った?」
護王のはっきりした発音にほっとした。愕然とした顔に安心させるように微笑んでみせる。
久しぶりに試してみたからできるかどうか心配だったが、思ったよりうまくいったようだ。
「よかった、まだ使えたんだ」
護王は洋子のことばに一層顔を青ざめさせた。
「なんや、て聞いてる」
「えーと…」
洋子は口ごもった。
護王は洋子の手首をまるで蛇の鎌首を持ってでもいるように握りしめたまま、体を起こして洋子を見つめている。いや、もう睨みつけている、と言ってもいい。
「あの…治癒、能力、というか」
「治癒……?」
「うん……小さいころから……これは使えるんだ……しばらく使ってなかったけど」
それはきっと、あの家で生き延びるためにつけた力だったのだろう。小さな傷や打ち身なら数時間も手を当てていれば回復させられる。けれど、さすがにあやこのときには間に合うものではなかった。
(あれから……か…使ってなかったの…)
何がきっかけなのかはわからない。が、洋子は治癒力を再び取り戻したようだ。
(皮肉だなあ……看護師を離れてから…この力が戻るなんて)
「なんや……それ」
なんだかうれしくてぼんやりと微笑んでいた洋子は、護王が吐いたことばに瞬きした。
「…え…?」
「そんなもん……あるわけない」
護王はほとんど真っ青になっていた。そればかりか、体を細かく震わせながら、たった今まで洋子に身を任せていたのさえ否定するように、洋子の体を押し出すように降ろす。
「あるわけ、ないって?」
突き放されて戸惑いながら尋ね返す。
「そやかて……姫さんは…姫さんなら…」
護王自体も状況がうまく呑み込めないらしく、混乱した口調で続けた。
「そんな、力、あるわけないんや……俺が……それは俺が……」
とんでもなくおぞましいものを側に置いていたのにふいに気づいた、そういう気配で護王はソファから滑り降り、後じさりするように洋子から離れた。
「俺が…って?」
「…姫さんに、そんなもん、あるわけない」
噛み合ない会話のまま、護王が繰り返す。
「それって…どういうことなの…かな」
「どういうことも何も」
問い続ける洋子に改めて気づいたように、不安定につぶやいて見つめ返す。頭の中で必死に忙しく考え続けている、そんな護王の表情が洋子の顔を見たとたん、がさりと変わった。
「やば……」
「え?」
「…俺……姫さん以外に……」
目を見張るほど鮮やかな紅が見る見る護王の顔に広がって驚いた。護王自身も自分の反応に驚いたようで、うろたえて口元を手で覆うと、激しく瞬きしながら残った腕で自分の体を抱き締めた。竦むように身を引き、なお洋子から離れようとする。
「護王…?」
「俺に……触るな…っ!」
「!」
ただ声をかけ手を伸ばしただけなのに、激しく拒否されて洋子は動けなくなった。真っ赤になった護王がそれ以上ことばが出ないと言った風情で身を翻し、左の自分の居室の方へ飛び込んでいってしまうのをぼんやりと眺める。
「……触るな…?」
何が護王を怒らせてしまったのだろうと今の出来事を思い返す。
「………姫さんに…そんなもん、あるわけない…のか」
治癒能力の発動がまずかったのだろうか。
まだちりちりとした感覚が残る指先を見た。護王の舌に触れてわずかに濡れている。
(温かかったな)
柔らかくてしっとりしていて。
護王の口に指を差し入れたときに広がった、妖しくて疼くような気持ちを思い出す。
(それが、まずかった…?)
「ああ……そりゃあ……まずいかも」
思い返して納得してしまう。
それは他ならぬ、護王を手に入れたいという気持ちだ。抵抗がないのをいいことに、舌の傷を癒すのと引き換えに護王の内側まで侵すのを望む気持ち。
遅ればせながら頬に血の気がのぼってくる。
あのまま放っておかれたら、自分はどこまで何をしただろう、護王の傷につけ込んで。
ぞくりと、恐怖のような、それでもそこに踏み込みたいと願ってしまうような感覚が背骨の付け根あたりで蠢いた。
洋子の中のその欲望に気がついて、それで護王は洋子が姫さんではない、と言ったのだろうか。
『そんなもん…あるわけない』
護王の姫さんは、つまりは綾香は、護王にそんなことを求めないということなのだろうか。護王を癒し守り安らがせるためだけに居る人だとでもいうのだろうか。
まるで、聖母、のように。
ただどこまでも与えるだけの。
(そんなの……無理だ)
愛しいと思ったら気持ちは流れ込んでいく。誘われれば崩れ落ちる。踏み込めるなら重なるほどに入りたいと願ってしまう。奪えるものなら攫いたくなる。それが誰かを求めること、ではないのか。
(それとも…全部、勘違いだった?)
脳裏を可愛らしく笑う綾香の顔が過っていった。護王の腕に当然のようにおさまって、出かけていた数時間、護王と綾香はどこで何をしてたのだろう。
(誘われたのじゃ、なかった?)
単に手に入れたはずの姫さんが別の男に取られそうになったからの所有欲で、洋子を欲してのことではなかった、ということなのだろうか。
だから、姫さんではないとわかった今は、もう洋子は護王に必要がなくなったということなのだろうか。
護王に必要だったのは、本当に綾香を支えるための花王紋のある女、だったということなのかもしれない。それは誰でもよかった。綾子でも嵯峨でも洋子でも。ただの器だから。
つまりはそういうことだったのではないだろうか。
俯いて、もう一度指先を見つめる。
もうあの感覚はなくなっている。
(せっかく、取り戻したのに)
胸の底が冷え冷えとして沈み込むような気持ちがしてきた。
どれほど、そうやって茫然としたのだろう、洋子は顔を上げて窓の外を見た。
居間から続くベランダにいつの間に上ったのか、降り注ぐような月光が満ちている。
窓を開けてそろそろと外に出る。さっきより気温が下がっているはずなのに寒さ一つ感じなかった。
「違った…ってことなんだろうなあ?」
月を見上げて誰に問うともなくつぶやいた。
春の月にしては猛々しい。凍るほどくっきりとした光を刃のように突き降ろしてくる。
「触るな…ってか」
確かにいろいろなものを掴みかけては失ってきたけれど、これほど激しく決定的に拒否されたのは初めてだ。頭の一部だけが醒めているのに、残り全てが淡く半透明なベールに覆われてどんどん消え去っていくような気がする。
振り返ったが、護王の部屋のドアは閉ざされたままだ。その向こうで何をしているのか、気配さえ感じ取れない。さっきの出来事で洋子がどうなったか、興味もない、ということらしい。
(なあんだ)
洋子は胸に詰まった答えに気づいて苦笑いした。
「要らない、ってことじゃないか、私は」
必死にしがみついていた最後の箍が外れていくのを感じた。
(姫さん、でもないらしい自分は)
「居ること自体……まずいのかもしれないなあ」
『俺に……触るな…っ!』
真っ赤な顔で自分を守るように身を引いた護王。
風が髪を吹き乱す。虚空に向けて、洋子の自惚れを嘲笑うように。
「今さら……要らないなんて言わなくても」
それでなくとも、とうに気持ちの限界は越えている。
自分の内側に弾けていくことばに洋子は無防備に耳を傾けた。
嵯峨だって、綾子だって、日高だって、護王だって。
目障りだったのなら、さっさと殺してくれればよかったのだ。
お前はこの世界には無用の存在だと。
お前はこの世界には有害な存在だと。
その声が本当はずっと聞こえていた。
生きているつもりなんかなかった。
ただ死ななかっただけだ。
誰かに生きていていいと言ってほしかった。生きていてくれと言ってほしかった。
だから必死に呼び掛けてきた、死なないで、生き延びて、どうか生きていて、と。
けれど、胸の奥では違う声を聞いていた。
もう、十分だ、と。
あやこを助けられなかったときから、洋子の生きている意味なんてどこにもない。
あやこが死んだ瞬間に、洋子もどこかで死んでしまっているのだ。
それを認めたくなくて。
自分がこの世で何一つ得られなかったとわかるのがつらくて。
何もこの腕には抱き締められなかったのだと知るのが悲し過ぎて。
ただ今、このときまで、自分の気持ちに耳を塞いできた。
それでも。
「護王」
今この名前をつぶやけば、胸にしみるほど切なかった。
自分がどうしようもなく護王に魅かれているとわかった後では。その人の心は自分のどこにもないのだとわかった後でも。
何をしたらいいのかわからなくなって、ただぼんやりと月を見る。
遠い遥かな月を見る。
清冽で美しい光、全てを救う祈りのように。
ふいにジーパンのポケットに入れた携帯を思い出した。
日高は警察を抜け出した。遅かれ早かれ洋子の前に現れる、そんな気がする。
そして、そのときに護王がいれば、負わなくていい怪我を負い、受けなくていい傷を受けるかもしれない。
洋子が居ることで、護王は危険に晒される。
(まずい、んだ)
死んだほうがいい、のではなくて。
生きていてはまずい。
護王に思いを寄せていてはまずい。
「そんなこと」
月を見上げたままつぶやく。
(もっとハヤク言ってくれれば)
「イツデモ死んでやったのに」
洋子は暗く笑った。
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