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7.桜守(1)
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ああんああんああん。
小さい子どもの泣き声が耳障りに響いている。
闇は濃い。
山に囲まれたこの村では日が落ちてしまってから灯をつけているものなどほとんどいない。
ましてやふらふらとこんな村はずれの山の入り口まで女一人で歩いてくるなど、狼か熊に食われたいのかと罵倒されてもおかしくない、いや、もう既に狐や狸に操られているのかもしれない。
ひょっとしたら、あの泣き声だってそうかもしれない、狐狸妖怪の類なのだろう。それとも洋子の耳には聞こえないはずのものが聞こえているのだろうか。
けれど、もうどちらだって同じことだ。
洋子は深く重く溜息をついて、暗がりの中に立ち尽くし、今朝まで手にあった温もりを思い出そうと両手を見つめた。だが、あのやわやわとした頬も抱き締めれば抱き締めるほどに愛おしい小さな体の感触も感じとれない。
しばらく自分の両腕を睨んでいたが、洋子はまたふらふらと歩き出した。
春が来ているというのに空気は冷えて肌寒い。薄い木綿の着物の裾を、地面をべたべたと裸足で歩く指先を、冷ややかな風が嬲っていく。ばらばらと乱れた髪が風に舞う。
村には疫病がはやっていた。
村だけではない、この数年、太陽の恵みが乏しく、米の実りも悪かった。領主に差し出す米を持っていかれれば、食べるものなどほとんどない。それでも地を這うようにして芋や豆や雑穀を作って生き延びていた村を、あちらこちらで噂になっていた流行り病が襲った。
幼い子どもと老人がまっさきにやられた。看病に髪振り乱す女を、食べ物を掻き集めていた男を、疲れ切ったものから次々と死が食い攫っていくうちに、誰も他のものに構う暇はなくなった。そうして今朝はとうとう洋子の残ったたった一人の子ども、とっくに自分を捨て去って村から離れた愛しい男の子どもを、その鈎爪が連れ去ってしまったのだ。
そうなってしまうと、もうこの世に何の未練もなかった。
笑う顔を見ていられればよかった。
少ない食べ物も何もかも与えても、それでも空腹を感じなかった。
けれど、その小さな体から温みが消えて、洋子の胸からも温かなものを一切合切奪っていった。
本当は助けてくれと頼んだのだ。一口でいいから、子どもに白湯を、安全な水を分けてやってくれ、と。
だが、隣の家の男はけたけたとひきつった笑いを上げながら、男に捨てられた腐れ女に誰がやるかよと言った。子どもが死ぬのはてめえの行ないの悪さを天が罰したのだと。
そうして戸口から蹴り出されて、それでも閉められた戸にすがりついて声を枯らして、ほとんど食べてない体が身動きできなくなりかけたので、何とか体を引きずって家に戻って。
渇きに苦しみ泣く子どもにそっと汲みおいた水をやった。
病を癒す井戸の水は村長の手で囲まれて汲みにいけなかったので、数日前に降った雨水だった。
おまえのように汚れた女がこの村に病を呼び込んだのだ、そう責められて石を投げられ右足は十分に動かなかったが、ひきずって動くことはできたし、何より三つの子どもが居さえすれば、そんなこと、どうでもよかった。
ただ、その雨水は、都で病の死体を焼いた煙が上った天から降っている。それが悪かったのだと村を去った男が言い残していたのも覚えていた。
けれど水はそれしかなかった。
自分の唾でも何でもやりたかったけど、もう洋子もからからで、涙さえも出なかったから、ごめんよ、ごめんよと水を含ませた。
毒の水を。
ただ一時の渇きを癒すためだけに。
あたしはきっと罪人だと思った。
きっと天は許さない。
子どもはおいしそうに涙を浮かべてぐんぐん飲んで、その後今までよりも高い熱を出し、吐き戻し、腹を下し、そうして今朝方洋子の腕の中で身動き一つしなくなって、声が細くなって、体が冷えていって、そうしてもう、すっくり全てが終わってしまった。
そうだ、すっくり全て、終わってしまったのだ。
ああんああんああん。
また子どもの泣き声がした。
それがえらく耳障りなのは、最近ではついぞ聞いたことのない元気な声だからだとふいに気づいた。
村で生き残っていたのは洋子のところの子どもだけだった。あれほど田んぼの畦を、家の外を、社の森を走り回っていた子ども達は、もうとっくにいなくなってしまっていたはずだ。
洋子は身投げをしようと崖に向かっていた足を止めて向きを変えた。
声が聞こえてくる方向に眼をやると、そこは社の森の遥か奥、確か大きな岩が御神体として祀られている社のほうだった。
ああんああんああん。
声は甘く熱っぽく誰かを求めて泣いている。
洋子は右足を引きずりながら、のろのろと山道を歩き続けた。枝が体を刺し、尖った葉が足下を切りつける。足の裏にぎりぎりと石が食い込み、幾度もぬるりとした感触に滑りそうになった。それでもかまわずに歩き続けて、見覚えのある社と、その奥の方の暗がりに真っ白に燃える桜を見たとたん、大きな息が漏れた。
人間がこれほど苦しんで死んでいくというのに、なんて見事に咲き誇って。
それとも人の苦しみを贄に、これほど艶やかに咲いているのかねえ。
確かここの神様は気が荒いと聞かされていた。だからこんなところまで入り込んだことはない、女の身で、まして春をひさぐ女がこんなところに踏み込んではきっといけないに決まってる。
それでももう、あたしは十分に罪人だし、十分に汚れてる、これ以上の罰も苦しみも恐れるほどのもんじゃない。
そう言い聞かせて前へ進んだのは、子どもの泣き声がよりはっきりと桜の根元から聞こえたからだ。
闇を透かして思わず息を呑んだ。
小さな男の子だ。質素ではあるけどしみ汚れ一つないきれいな着物をきせてもらって、回りには鉢に持った握り飯だの、豆だの芋だのがぐるりと並べられている。
ごくりと今度はひもじさに喉が鳴った。
その気配に気づいたのだろうか、両手の甲を顔にあてて泣きじゃくっていたおかっぱの頭を上げて、男の子は洋子を見つけ、みるみる涙をあふれさせた。今度は手放しでああんああんと泣き始める。洋子を呼ぶように、洋子の姿に安心したように。
洋子はゆらゆらと男の子の側に近寄り、ぺたりと腰を落とした。飯の匂いが腹を痛ませる。再びごくんといやしい喉が鳴る。
桜の根元にどうしてこんな子ども一人。しかもこぎれいなべべと山盛りの食べ物。何かのまじないの人身御供ででもあるんだろうか。
あるいはこれは、子どもに見えているけれども子どもではなく、何か妖しい魔性のものが洋子を誘って子どもの姿を取っているのかもしれない。
ふいに思って、周囲に何か恐ろしい物の怪でも迫ってないかとぞくぞくして見回した。
だが、余りにも真っ白な花色ゆえに夜闇に灯をともしたような桜の下で、すりきれたぼろを身につけ髪を振り乱した痩せこけた女が、泣き続けている子どもの側で供えられたかのような食べ物の山に舌舐めずりしているありさまなど、我が身のほうがよほど物の怪に近い。死ぬつもりで来たはずなのに、何と命にいじ汚いのかと情けなくなってうつむいた、と、子どもが泣きやんでいるのに気がついた。
「はら、へってるのか」
四つほど……五つには満たないか。じっと洋子を見つめながらたどたどしい口調で問うと、子どもは握り飯を掴んで洋子にぐいと差し出した。
「くえ」
とっさにつかみ取り口に運んで貪っていた。貪りながら、その飯の甘さが苦しくつらく、身を切るほどにくやしくて、うめきながら飯を口に突っ込んでいると、ふいに柔らかな手が足にあたって体が強ばった。
「あし、けがしとんの」
石を投げられてできた、ささくれ抉れ血と泥とでべたべたに汚れたままに固まった足を、子どもは白く小さな手でそろそろと撫でていた。
「いたかったろ、いたかったろ」
「うぐ…」
とっくに途切れていた涙が溢れかえって目から飛び出し、飯を喉に詰まらせた。ひきつった洋子を見て子どもがぎょっとしたように側にあった竹の水筒を差し出してくれ、ひったくって必死に呑んだ。口があくとまた飯を詰め込み、その間もおんおんと泣き続けて、それでもへたった腹に飯一個は苦しくて、食い切ったころには疲れ果ててしまっていた。
「ふう…!」
吐息をついて口から手を放し、ふいに洋子は体が凍るような思いを味わった。右足のあれほどひどい傷につるりときれいな皮が張り、まるで一瞬に数年も時がたったようにすっかり治ってしまっている。
「うわ…うわわ…」
竹筒を放り出して後じさる。
やはり、この子、人ではないのか。人ではない、だからこそ、この不作のときでも溢れるばかりの供え物、それはこの子がどれほど恐ろしい祟り神かを示すものではなかったか。
それを洋子は食いまくり、荒らしまくってしまった。
これはもう、とても神罰免れまい。
ぐ、と目をつぶって、それでもまあいい、これであの子の側にゆける、もともと捨てる命じゃったもの、と思い定めて身を引き裂かれるのを待っていたが、待てど暮せど子どもが動く気配がない。恐ろしげな殺気が満ちてくる様子もない。
それどころか。
ひ…っく。
しゃくりあげるような切ない吐息が零れて、洋子は慌てて目を開いた。
どうしたことだろう、子どもはまた元のように小さく膝を抱えて縮こまり、両手を握って甲を目にあて、それでも洋子を気遣うように声を殺して泣いている。
「あ…」
洋子は戸惑い途方にくれた。
どう見ても目の前の人でないものは、小さな男の子にしか見えず、しかもその子は洋子の息子がよくやっていたように、誰かの温もりを求めて泣いている。
迷っていた洋子の背中を押すように、潤んだ声がぽつりと言った。
「ええよ、もう、どっかいき」
「え?」
「おれ、こわいんやろ、こうしてるし、どっかいき」
手で両目を塞いだまま。小さな肩が強がった声を裏切ってがたがたっと震えた。それを見るとどうにもたまらなくなって、ええいままよ、どうせ捨てた命じゃものとまた思い直し……それに握り飯一個、末期の贅沢をしたものなと、洋子はそっと子どもの肩に手をかけた。
びくんっ、と激しく相手の体が跳ね上がるほどに戦いて、一瞬手を放してしまったが、すがるように涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げる顔がまともに息子と重なって、洋子は必死に笑ってみせた。
「だっこ、したろか?」
う……わああん!
「!」
耳が潰れるほど大きな声を放って子どもは洋子に飛びついてきた。濡れた頬が、あったかな吐息がすり寄せられくっついてくる。柔らかな体がぐいぐいと熱っぽく押しつけられてくる。それはもう、洋子にとっても心とろかすような快感で。
「うん、よしよし」
怯えさせないようにそっとそっと体を包んでやった。膝の上に乗り上げてすがりついてくる体の苛立つような身悶えを、とんとんと背中を叩きながらなだめてしっかり受け止めてやる。
「おっ……おれ……あかんのやて」
子どもが泣きじゃくりながら訴えてきた。
「おれ……ちっとも大きくならんし……人やないのやて……痛いのなおせるし……里にいたら……あかんのやて」
洋子は驚いて思わず子どもを体から離して顔を覗き込んだ。拒まれたのかと大きな目を見開いて硬直してしまうのに、急いでもう一度しっかりと抱いてやる。安心したように、ああんああんああんと甘えた泣き声をあげながら、子どもはなおも身を揉んで、
「けどなあ……ここにおんの……こわいねん……一人でいんの……こわいねん」
途切れ途切れに話したところによると、いつからかはわからないが、子どもは社を預かる宮司の家にやっかいになっているのだそうだ。家の一番奥の部屋にこもっていて、祭礼のときには出してもらえるが、それ以外は外に出られない。それというのも、子どもは人が十、歳をとるところを一つしかとらないばかりか、さっき洋子の怪我を治したような力を持っていて、今までずっと奥の間で頼まれては怪我や病気を治していたのだという。ところが、今度の流行り病だけは治せない。今までは薄気味悪さにも耐えていたが、こうなってしまっては、この子どもこそが祟りなすものかと、急ぎ社が祀る桜と磐座に連れてこられたのだという。
そうか、それで、村長がらみのところはいつも病気や怪我がなかったのか。
洋子が一人うなずいていると、子どもはのろのろと顔を上げた。
「なあ……おれ……こわないん?」
「うん…」
ふくふくした頬に今もなお涙をぽろぽろと零しながら、真っ赤になった目でしがみつくように見上げている子どもを改めて見つめ、洋子は微笑んだ。
「こわないよ」
「ほんまに?」
「うん、ほんまに」
「ほな…ほななあ…」
語尾が掠れて不安そうに消えていく。子どもは瞬きして必死に涙を瞳から追い出しながら、思いつめた声で言った。
「おれと……いっしょにおってえな……?」
「いっしょに?」
「うん……そやったら…おれ、ここにおってもええ」
にこ、と無理に笑ってみせた目からぼろぼろっと新しい涙がこぼれ落ちた。
「人でなくてもええ……かえれへんでもええ」
強がりなのは震えている声や唇ではっきりわかる。けれども子どもはなおも強がった。
「おれ……ごおう、言うんや……おばちゃんは?」
「あたし? あたしはなあ」
答えかけて洋子は笑った。すっかりこの子と一緒に暮すつもりになっているのにようやく気づいておかしかった。
「あたしはなあ、あやじ、言うんやで」
答えながら微かな違和感を感じる。あやじ? あやじって…誰だ? 誰って? それはもちろん洋子のことだ。洋子? では、洋子というのは、いったい?
(あ……れ…?)
「あや……じ」
ごおうは今度は本当ににこにこと嬉しそうに笑って、洋子の胸に抱きついた。
「そおかあ…あや…じ……ええ名前やなあ……ぜったい……ぜったい…わすれへんとこ」
年月はたった。恐ろしいほどに早く、瞬く間に数十年。
「ふう…」
年のせいで今はほとんど満足に歩けなくなった足をひきずって洋子は桜の元にやってきた。
「む…」
無理をしたせいか、胸のあたりから背中へ向けてえぐるような痛みが突き抜けていく。胸を掴んでうつむき、しばらくその痛みが過ぎ去るのを待ったが、なかなか消えてくれない。
やはりか、と苦い思いを噛みしめた。
少しずつ確実に体が弱り病が洋子を侵していっている。老いさらばえた皺のよった体を、雪が降りたかのような髪を保つのは、護王に供えられたもので十分だったけれど、さすがの護王も洋子の老化を止めることができなかったらしく、心臓が日増しに弱っていっているのだとわかった。
もうそれほど長くはない。
それがわかる。
痛いほどにわかる。
ようやく胸の痛みが引いていって、洋子は重い吐息をついて体を起こした。無意識に背後を振り返る。
護王は今村の祭礼に呼び出されている。
出逢ったときからようやく三つほど年を重ねたか、幼く膝に抱かれるだけだった幼児は時に応じて鋭い表情で村人に供えの不備を指摘する気概を備えるようになっていた。
供えを十分に求め、その代わりに村の祭礼で未来を読み、病や怪我を治す。そうして小さな神として、護王は村の中に密かに君臨しつつあった。
だがしかし、何と言ってもその心の底はまだ子ども。打ち捨てられ見捨てられた思いは、まだ護王の胸のうちを深く傷つけ食んで、眠れぬ夜を過ごさせる時がある。
そうしたときに護王は洋子の胸を求めた。温もりと柔らかさを、しっかりと抱きとめてもらうことを望んだ。そこで思うさまに泣きじゃくり、傷みと孤独を訴えて、ようやく眠りに落ちていく。
護王の傷みはまだ癒えていない。
残していくことはできなかった。
また一人で置き去ってしまえば、今度は取り返しのつかないほどひどく傷ついてしまうかもしれなかった。
そして、それは護王の奥深くに潜みながら息づいている荒々しい神を呼び起こしてしまうかもしれない。
それにもまして、また真っ暗な闇の中、誰にも届かない泣き声を殺しながら、あの子が泣き続けるかと思うとたまらない。
けれど、洋子には時間がない。
それが、わかる。
唇を強く引き締めて洋子は桜を見上げた。
桜はこっくりとした幹に豊かな枝を張り、その先々に満開の花をつけている。背後の暗がりに浮かび上がるかのような、たった一本、後にも先にもこの一本、その気負いと誇りを満身に輝かせている。
「ここにおられるのが……どのような神かは存じません」
洋子は不自由な足を折り曲げて桜の根元に跪き、両手をついて深く頭を下げた。
「あたしが祈れるようなものじゃないことも、知っております」
低い声で呼び掛ける。
「けれど、そのお力を信じて、ただの一回、お願いいたします」
男に捨てられたときもお願い、お願いよと叫んだ。子どもが病で死んだときも、頼む、頼むとうめいた。けれど、ここに頭を下げている今ほど、胸に詰まるものを堪えながら祈ったことはなかったかもしれない。
「どうか、あの子を守ってやってくださいまし」
つぶやいたとたん、はらはらと涙が零れ落ちた。
「ただの人間のあたしには、とても守りきれませんから」
護王はまさに歳を取らない。
人は十年老いるところを、たったの一つしか歳を重ねない。
それは、人が五十年生きるものならば、護王は五百年生きるということだ。八十年生きるならハ百年、百年生きるようなことがあったとしても、そのとき護王は千年生きるということになる。
それほど長く生きられるものはほとんどいない。それはつまり、護王はその生涯の大半を一人で生きなくてはならないということになる。
たとえ誰かと関わるにしても、それは永遠にその相手を失い続けながら生きていくということなのだ。
この三十年、洋子は洋子なりにあちらこちらの話を聞き集めた。昔平安時代には八百比丘尼と呼ばれた方もおられたらしい。しかし、何百年も生きたという人間の話はほとんど聞かない。ましてや、まだ寂しくて温もりを求めて泣くような小さな子どもがこれから数百年、どうやって一人で生きていけるだろう。
「どうかせめて、あの子が一人で生きていけるようになるまででも」
零れた涙が次々と黒い土に吸い込まれていく。
流行り病で子どもをなくしたとき、これほどの不幸はないと思った。子どもが親より先に死ぬ、自然の理を侵すようなひどい出来事だと憤った。
しかし今、我が身が消えていくこのときにおいて、大切なわが子が一人で取り残されていく、無事に生きてくれるかと危ぶまなくてはならないという親もまた、負けず劣らず辛いのだとわかった。
愛おしい、愛おしい。
だがしかし、この腕は支えることが叶わず、この目も届かせることは許されない。
「そのためなら、どんな死に方をしようと構いませんから」
餓鬼に八つ裂きにされようとも、死鬼に貪られようとも。荒々しい禍つ神の如何なる責めを受けようとも。 ざわ、と桜が風もないのに揺れた。
は、と洋子は顔を上げた。
聞き届けよう、と声のない声が応じたように思えた。
じっと闇に燃え上がる白炎のような桜を見つめる。
そのかわり、と今度は確かに周囲の空気を震わせて豊かで深い響きが伝わってきた。
そなたの魂を差し出せ。
「え…?」
そなたの魂、未来永劫、我が護りとして差し出すならば聞き届ける。
桜はゆっくりと噛んで含めるように繰り返した。
そなたは未来永劫天へ還らず、我が桜守として、人の世に繰り返し転生する。それを受け入れるならば、そなたの望み叶えよう、我が名において……花の天たる花王の名において。
洋子は桜を凝視していた目を閉じ、ゆったりと微笑んだ。
「なんだ」
つぶやく。
「そんなことなら雑作もない」
桜が驚き怯んだようにざわめいた。
天へ還れぬということは、人の闇を彷徨い続けるということだ。満たされる思い、届かぬ願い、その間に未来永劫ももまれ続けることなのだぞ。
「それが…どうした?」
護王がそれでわずかでも楽になるのなら。泣きじゃくる夜をたった一夜でも減らせるのなら。
洋子がためらうどんな理由があるのだろう。
目を開きまっすぐに桜を見上げて言い放つ。
「その定め、納得した」
そのとたん、胸に一際鋭い痛みが走って洋子は息を呑んだ。突然激しく打った鼓動がみるみる意識を奪い去っていく。思わず膝立ちになった体が支えを失って前へのめっていく。
「!」
地面に倒れたときに突き出していた桜の根が何にとがれてささくれていたのか、洋子の左の首筋あたりを貫いた。衝撃の痛みは一瞬、吹き出した温かな血が洋子と桜を濡らしていく。
徴を確かに受け取った……。
桜が重くつぶやいた。
やがて、まだ満開の時節であるのに散り始めた花が雪のように洋子の屍を埋めていった。
闇に散る花弁。
きらめくように、泣くように。
祈るように、そして……異変に気づいて駆け寄ってくる護王の悲鳴を包むように。
激しく。
激しく。
はてしなく。
小さい子どもの泣き声が耳障りに響いている。
闇は濃い。
山に囲まれたこの村では日が落ちてしまってから灯をつけているものなどほとんどいない。
ましてやふらふらとこんな村はずれの山の入り口まで女一人で歩いてくるなど、狼か熊に食われたいのかと罵倒されてもおかしくない、いや、もう既に狐や狸に操られているのかもしれない。
ひょっとしたら、あの泣き声だってそうかもしれない、狐狸妖怪の類なのだろう。それとも洋子の耳には聞こえないはずのものが聞こえているのだろうか。
けれど、もうどちらだって同じことだ。
洋子は深く重く溜息をついて、暗がりの中に立ち尽くし、今朝まで手にあった温もりを思い出そうと両手を見つめた。だが、あのやわやわとした頬も抱き締めれば抱き締めるほどに愛おしい小さな体の感触も感じとれない。
しばらく自分の両腕を睨んでいたが、洋子はまたふらふらと歩き出した。
春が来ているというのに空気は冷えて肌寒い。薄い木綿の着物の裾を、地面をべたべたと裸足で歩く指先を、冷ややかな風が嬲っていく。ばらばらと乱れた髪が風に舞う。
村には疫病がはやっていた。
村だけではない、この数年、太陽の恵みが乏しく、米の実りも悪かった。領主に差し出す米を持っていかれれば、食べるものなどほとんどない。それでも地を這うようにして芋や豆や雑穀を作って生き延びていた村を、あちらこちらで噂になっていた流行り病が襲った。
幼い子どもと老人がまっさきにやられた。看病に髪振り乱す女を、食べ物を掻き集めていた男を、疲れ切ったものから次々と死が食い攫っていくうちに、誰も他のものに構う暇はなくなった。そうして今朝はとうとう洋子の残ったたった一人の子ども、とっくに自分を捨て去って村から離れた愛しい男の子どもを、その鈎爪が連れ去ってしまったのだ。
そうなってしまうと、もうこの世に何の未練もなかった。
笑う顔を見ていられればよかった。
少ない食べ物も何もかも与えても、それでも空腹を感じなかった。
けれど、その小さな体から温みが消えて、洋子の胸からも温かなものを一切合切奪っていった。
本当は助けてくれと頼んだのだ。一口でいいから、子どもに白湯を、安全な水を分けてやってくれ、と。
だが、隣の家の男はけたけたとひきつった笑いを上げながら、男に捨てられた腐れ女に誰がやるかよと言った。子どもが死ぬのはてめえの行ないの悪さを天が罰したのだと。
そうして戸口から蹴り出されて、それでも閉められた戸にすがりついて声を枯らして、ほとんど食べてない体が身動きできなくなりかけたので、何とか体を引きずって家に戻って。
渇きに苦しみ泣く子どもにそっと汲みおいた水をやった。
病を癒す井戸の水は村長の手で囲まれて汲みにいけなかったので、数日前に降った雨水だった。
おまえのように汚れた女がこの村に病を呼び込んだのだ、そう責められて石を投げられ右足は十分に動かなかったが、ひきずって動くことはできたし、何より三つの子どもが居さえすれば、そんなこと、どうでもよかった。
ただ、その雨水は、都で病の死体を焼いた煙が上った天から降っている。それが悪かったのだと村を去った男が言い残していたのも覚えていた。
けれど水はそれしかなかった。
自分の唾でも何でもやりたかったけど、もう洋子もからからで、涙さえも出なかったから、ごめんよ、ごめんよと水を含ませた。
毒の水を。
ただ一時の渇きを癒すためだけに。
あたしはきっと罪人だと思った。
きっと天は許さない。
子どもはおいしそうに涙を浮かべてぐんぐん飲んで、その後今までよりも高い熱を出し、吐き戻し、腹を下し、そうして今朝方洋子の腕の中で身動き一つしなくなって、声が細くなって、体が冷えていって、そうしてもう、すっくり全てが終わってしまった。
そうだ、すっくり全て、終わってしまったのだ。
ああんああんああん。
また子どもの泣き声がした。
それがえらく耳障りなのは、最近ではついぞ聞いたことのない元気な声だからだとふいに気づいた。
村で生き残っていたのは洋子のところの子どもだけだった。あれほど田んぼの畦を、家の外を、社の森を走り回っていた子ども達は、もうとっくにいなくなってしまっていたはずだ。
洋子は身投げをしようと崖に向かっていた足を止めて向きを変えた。
声が聞こえてくる方向に眼をやると、そこは社の森の遥か奥、確か大きな岩が御神体として祀られている社のほうだった。
ああんああんああん。
声は甘く熱っぽく誰かを求めて泣いている。
洋子は右足を引きずりながら、のろのろと山道を歩き続けた。枝が体を刺し、尖った葉が足下を切りつける。足の裏にぎりぎりと石が食い込み、幾度もぬるりとした感触に滑りそうになった。それでもかまわずに歩き続けて、見覚えのある社と、その奥の方の暗がりに真っ白に燃える桜を見たとたん、大きな息が漏れた。
人間がこれほど苦しんで死んでいくというのに、なんて見事に咲き誇って。
それとも人の苦しみを贄に、これほど艶やかに咲いているのかねえ。
確かここの神様は気が荒いと聞かされていた。だからこんなところまで入り込んだことはない、女の身で、まして春をひさぐ女がこんなところに踏み込んではきっといけないに決まってる。
それでももう、あたしは十分に罪人だし、十分に汚れてる、これ以上の罰も苦しみも恐れるほどのもんじゃない。
そう言い聞かせて前へ進んだのは、子どもの泣き声がよりはっきりと桜の根元から聞こえたからだ。
闇を透かして思わず息を呑んだ。
小さな男の子だ。質素ではあるけどしみ汚れ一つないきれいな着物をきせてもらって、回りには鉢に持った握り飯だの、豆だの芋だのがぐるりと並べられている。
ごくりと今度はひもじさに喉が鳴った。
その気配に気づいたのだろうか、両手の甲を顔にあてて泣きじゃくっていたおかっぱの頭を上げて、男の子は洋子を見つけ、みるみる涙をあふれさせた。今度は手放しでああんああんと泣き始める。洋子を呼ぶように、洋子の姿に安心したように。
洋子はゆらゆらと男の子の側に近寄り、ぺたりと腰を落とした。飯の匂いが腹を痛ませる。再びごくんといやしい喉が鳴る。
桜の根元にどうしてこんな子ども一人。しかもこぎれいなべべと山盛りの食べ物。何かのまじないの人身御供ででもあるんだろうか。
あるいはこれは、子どもに見えているけれども子どもではなく、何か妖しい魔性のものが洋子を誘って子どもの姿を取っているのかもしれない。
ふいに思って、周囲に何か恐ろしい物の怪でも迫ってないかとぞくぞくして見回した。
だが、余りにも真っ白な花色ゆえに夜闇に灯をともしたような桜の下で、すりきれたぼろを身につけ髪を振り乱した痩せこけた女が、泣き続けている子どもの側で供えられたかのような食べ物の山に舌舐めずりしているありさまなど、我が身のほうがよほど物の怪に近い。死ぬつもりで来たはずなのに、何と命にいじ汚いのかと情けなくなってうつむいた、と、子どもが泣きやんでいるのに気がついた。
「はら、へってるのか」
四つほど……五つには満たないか。じっと洋子を見つめながらたどたどしい口調で問うと、子どもは握り飯を掴んで洋子にぐいと差し出した。
「くえ」
とっさにつかみ取り口に運んで貪っていた。貪りながら、その飯の甘さが苦しくつらく、身を切るほどにくやしくて、うめきながら飯を口に突っ込んでいると、ふいに柔らかな手が足にあたって体が強ばった。
「あし、けがしとんの」
石を投げられてできた、ささくれ抉れ血と泥とでべたべたに汚れたままに固まった足を、子どもは白く小さな手でそろそろと撫でていた。
「いたかったろ、いたかったろ」
「うぐ…」
とっくに途切れていた涙が溢れかえって目から飛び出し、飯を喉に詰まらせた。ひきつった洋子を見て子どもがぎょっとしたように側にあった竹の水筒を差し出してくれ、ひったくって必死に呑んだ。口があくとまた飯を詰め込み、その間もおんおんと泣き続けて、それでもへたった腹に飯一個は苦しくて、食い切ったころには疲れ果ててしまっていた。
「ふう…!」
吐息をついて口から手を放し、ふいに洋子は体が凍るような思いを味わった。右足のあれほどひどい傷につるりときれいな皮が張り、まるで一瞬に数年も時がたったようにすっかり治ってしまっている。
「うわ…うわわ…」
竹筒を放り出して後じさる。
やはり、この子、人ではないのか。人ではない、だからこそ、この不作のときでも溢れるばかりの供え物、それはこの子がどれほど恐ろしい祟り神かを示すものではなかったか。
それを洋子は食いまくり、荒らしまくってしまった。
これはもう、とても神罰免れまい。
ぐ、と目をつぶって、それでもまあいい、これであの子の側にゆける、もともと捨てる命じゃったもの、と思い定めて身を引き裂かれるのを待っていたが、待てど暮せど子どもが動く気配がない。恐ろしげな殺気が満ちてくる様子もない。
それどころか。
ひ…っく。
しゃくりあげるような切ない吐息が零れて、洋子は慌てて目を開いた。
どうしたことだろう、子どもはまた元のように小さく膝を抱えて縮こまり、両手を握って甲を目にあて、それでも洋子を気遣うように声を殺して泣いている。
「あ…」
洋子は戸惑い途方にくれた。
どう見ても目の前の人でないものは、小さな男の子にしか見えず、しかもその子は洋子の息子がよくやっていたように、誰かの温もりを求めて泣いている。
迷っていた洋子の背中を押すように、潤んだ声がぽつりと言った。
「ええよ、もう、どっかいき」
「え?」
「おれ、こわいんやろ、こうしてるし、どっかいき」
手で両目を塞いだまま。小さな肩が強がった声を裏切ってがたがたっと震えた。それを見るとどうにもたまらなくなって、ええいままよ、どうせ捨てた命じゃものとまた思い直し……それに握り飯一個、末期の贅沢をしたものなと、洋子はそっと子どもの肩に手をかけた。
びくんっ、と激しく相手の体が跳ね上がるほどに戦いて、一瞬手を放してしまったが、すがるように涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げる顔がまともに息子と重なって、洋子は必死に笑ってみせた。
「だっこ、したろか?」
う……わああん!
「!」
耳が潰れるほど大きな声を放って子どもは洋子に飛びついてきた。濡れた頬が、あったかな吐息がすり寄せられくっついてくる。柔らかな体がぐいぐいと熱っぽく押しつけられてくる。それはもう、洋子にとっても心とろかすような快感で。
「うん、よしよし」
怯えさせないようにそっとそっと体を包んでやった。膝の上に乗り上げてすがりついてくる体の苛立つような身悶えを、とんとんと背中を叩きながらなだめてしっかり受け止めてやる。
「おっ……おれ……あかんのやて」
子どもが泣きじゃくりながら訴えてきた。
「おれ……ちっとも大きくならんし……人やないのやて……痛いのなおせるし……里にいたら……あかんのやて」
洋子は驚いて思わず子どもを体から離して顔を覗き込んだ。拒まれたのかと大きな目を見開いて硬直してしまうのに、急いでもう一度しっかりと抱いてやる。安心したように、ああんああんああんと甘えた泣き声をあげながら、子どもはなおも身を揉んで、
「けどなあ……ここにおんの……こわいねん……一人でいんの……こわいねん」
途切れ途切れに話したところによると、いつからかはわからないが、子どもは社を預かる宮司の家にやっかいになっているのだそうだ。家の一番奥の部屋にこもっていて、祭礼のときには出してもらえるが、それ以外は外に出られない。それというのも、子どもは人が十、歳をとるところを一つしかとらないばかりか、さっき洋子の怪我を治したような力を持っていて、今までずっと奥の間で頼まれては怪我や病気を治していたのだという。ところが、今度の流行り病だけは治せない。今までは薄気味悪さにも耐えていたが、こうなってしまっては、この子どもこそが祟りなすものかと、急ぎ社が祀る桜と磐座に連れてこられたのだという。
そうか、それで、村長がらみのところはいつも病気や怪我がなかったのか。
洋子が一人うなずいていると、子どもはのろのろと顔を上げた。
「なあ……おれ……こわないん?」
「うん…」
ふくふくした頬に今もなお涙をぽろぽろと零しながら、真っ赤になった目でしがみつくように見上げている子どもを改めて見つめ、洋子は微笑んだ。
「こわないよ」
「ほんまに?」
「うん、ほんまに」
「ほな…ほななあ…」
語尾が掠れて不安そうに消えていく。子どもは瞬きして必死に涙を瞳から追い出しながら、思いつめた声で言った。
「おれと……いっしょにおってえな……?」
「いっしょに?」
「うん……そやったら…おれ、ここにおってもええ」
にこ、と無理に笑ってみせた目からぼろぼろっと新しい涙がこぼれ落ちた。
「人でなくてもええ……かえれへんでもええ」
強がりなのは震えている声や唇ではっきりわかる。けれども子どもはなおも強がった。
「おれ……ごおう、言うんや……おばちゃんは?」
「あたし? あたしはなあ」
答えかけて洋子は笑った。すっかりこの子と一緒に暮すつもりになっているのにようやく気づいておかしかった。
「あたしはなあ、あやじ、言うんやで」
答えながら微かな違和感を感じる。あやじ? あやじって…誰だ? 誰って? それはもちろん洋子のことだ。洋子? では、洋子というのは、いったい?
(あ……れ…?)
「あや……じ」
ごおうは今度は本当ににこにこと嬉しそうに笑って、洋子の胸に抱きついた。
「そおかあ…あや…じ……ええ名前やなあ……ぜったい……ぜったい…わすれへんとこ」
年月はたった。恐ろしいほどに早く、瞬く間に数十年。
「ふう…」
年のせいで今はほとんど満足に歩けなくなった足をひきずって洋子は桜の元にやってきた。
「む…」
無理をしたせいか、胸のあたりから背中へ向けてえぐるような痛みが突き抜けていく。胸を掴んでうつむき、しばらくその痛みが過ぎ去るのを待ったが、なかなか消えてくれない。
やはりか、と苦い思いを噛みしめた。
少しずつ確実に体が弱り病が洋子を侵していっている。老いさらばえた皺のよった体を、雪が降りたかのような髪を保つのは、護王に供えられたもので十分だったけれど、さすがの護王も洋子の老化を止めることができなかったらしく、心臓が日増しに弱っていっているのだとわかった。
もうそれほど長くはない。
それがわかる。
痛いほどにわかる。
ようやく胸の痛みが引いていって、洋子は重い吐息をついて体を起こした。無意識に背後を振り返る。
護王は今村の祭礼に呼び出されている。
出逢ったときからようやく三つほど年を重ねたか、幼く膝に抱かれるだけだった幼児は時に応じて鋭い表情で村人に供えの不備を指摘する気概を備えるようになっていた。
供えを十分に求め、その代わりに村の祭礼で未来を読み、病や怪我を治す。そうして小さな神として、護王は村の中に密かに君臨しつつあった。
だがしかし、何と言ってもその心の底はまだ子ども。打ち捨てられ見捨てられた思いは、まだ護王の胸のうちを深く傷つけ食んで、眠れぬ夜を過ごさせる時がある。
そうしたときに護王は洋子の胸を求めた。温もりと柔らかさを、しっかりと抱きとめてもらうことを望んだ。そこで思うさまに泣きじゃくり、傷みと孤独を訴えて、ようやく眠りに落ちていく。
護王の傷みはまだ癒えていない。
残していくことはできなかった。
また一人で置き去ってしまえば、今度は取り返しのつかないほどひどく傷ついてしまうかもしれなかった。
そして、それは護王の奥深くに潜みながら息づいている荒々しい神を呼び起こしてしまうかもしれない。
それにもまして、また真っ暗な闇の中、誰にも届かない泣き声を殺しながら、あの子が泣き続けるかと思うとたまらない。
けれど、洋子には時間がない。
それが、わかる。
唇を強く引き締めて洋子は桜を見上げた。
桜はこっくりとした幹に豊かな枝を張り、その先々に満開の花をつけている。背後の暗がりに浮かび上がるかのような、たった一本、後にも先にもこの一本、その気負いと誇りを満身に輝かせている。
「ここにおられるのが……どのような神かは存じません」
洋子は不自由な足を折り曲げて桜の根元に跪き、両手をついて深く頭を下げた。
「あたしが祈れるようなものじゃないことも、知っております」
低い声で呼び掛ける。
「けれど、そのお力を信じて、ただの一回、お願いいたします」
男に捨てられたときもお願い、お願いよと叫んだ。子どもが病で死んだときも、頼む、頼むとうめいた。けれど、ここに頭を下げている今ほど、胸に詰まるものを堪えながら祈ったことはなかったかもしれない。
「どうか、あの子を守ってやってくださいまし」
つぶやいたとたん、はらはらと涙が零れ落ちた。
「ただの人間のあたしには、とても守りきれませんから」
護王はまさに歳を取らない。
人は十年老いるところを、たったの一つしか歳を重ねない。
それは、人が五十年生きるものならば、護王は五百年生きるということだ。八十年生きるならハ百年、百年生きるようなことがあったとしても、そのとき護王は千年生きるということになる。
それほど長く生きられるものはほとんどいない。それはつまり、護王はその生涯の大半を一人で生きなくてはならないということになる。
たとえ誰かと関わるにしても、それは永遠にその相手を失い続けながら生きていくということなのだ。
この三十年、洋子は洋子なりにあちらこちらの話を聞き集めた。昔平安時代には八百比丘尼と呼ばれた方もおられたらしい。しかし、何百年も生きたという人間の話はほとんど聞かない。ましてや、まだ寂しくて温もりを求めて泣くような小さな子どもがこれから数百年、どうやって一人で生きていけるだろう。
「どうかせめて、あの子が一人で生きていけるようになるまででも」
零れた涙が次々と黒い土に吸い込まれていく。
流行り病で子どもをなくしたとき、これほどの不幸はないと思った。子どもが親より先に死ぬ、自然の理を侵すようなひどい出来事だと憤った。
しかし今、我が身が消えていくこのときにおいて、大切なわが子が一人で取り残されていく、無事に生きてくれるかと危ぶまなくてはならないという親もまた、負けず劣らず辛いのだとわかった。
愛おしい、愛おしい。
だがしかし、この腕は支えることが叶わず、この目も届かせることは許されない。
「そのためなら、どんな死に方をしようと構いませんから」
餓鬼に八つ裂きにされようとも、死鬼に貪られようとも。荒々しい禍つ神の如何なる責めを受けようとも。 ざわ、と桜が風もないのに揺れた。
は、と洋子は顔を上げた。
聞き届けよう、と声のない声が応じたように思えた。
じっと闇に燃え上がる白炎のような桜を見つめる。
そのかわり、と今度は確かに周囲の空気を震わせて豊かで深い響きが伝わってきた。
そなたの魂を差し出せ。
「え…?」
そなたの魂、未来永劫、我が護りとして差し出すならば聞き届ける。
桜はゆっくりと噛んで含めるように繰り返した。
そなたは未来永劫天へ還らず、我が桜守として、人の世に繰り返し転生する。それを受け入れるならば、そなたの望み叶えよう、我が名において……花の天たる花王の名において。
洋子は桜を凝視していた目を閉じ、ゆったりと微笑んだ。
「なんだ」
つぶやく。
「そんなことなら雑作もない」
桜が驚き怯んだようにざわめいた。
天へ還れぬということは、人の闇を彷徨い続けるということだ。満たされる思い、届かぬ願い、その間に未来永劫ももまれ続けることなのだぞ。
「それが…どうした?」
護王がそれでわずかでも楽になるのなら。泣きじゃくる夜をたった一夜でも減らせるのなら。
洋子がためらうどんな理由があるのだろう。
目を開きまっすぐに桜を見上げて言い放つ。
「その定め、納得した」
そのとたん、胸に一際鋭い痛みが走って洋子は息を呑んだ。突然激しく打った鼓動がみるみる意識を奪い去っていく。思わず膝立ちになった体が支えを失って前へのめっていく。
「!」
地面に倒れたときに突き出していた桜の根が何にとがれてささくれていたのか、洋子の左の首筋あたりを貫いた。衝撃の痛みは一瞬、吹き出した温かな血が洋子と桜を濡らしていく。
徴を確かに受け取った……。
桜が重くつぶやいた。
やがて、まだ満開の時節であるのに散り始めた花が雪のように洋子の屍を埋めていった。
闇に散る花弁。
きらめくように、泣くように。
祈るように、そして……異変に気づいて駆け寄ってくる護王の悲鳴を包むように。
激しく。
激しく。
はてしなく。
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