14 / 30
8.形代(かたしろ)(7)
しおりを挟む
「桜里は……」
朝昼兼用の食事をゆっくり摂って、洋子と護王はマンションに戻った。
コーヒーを洋子に手渡すと、居間のテーブルを挟んで座った護王が静かに切り出す。
「何でも落ち武者が入って大きゅうなった里らしい。それまでにも小さな集落があって、里の奥の山が御神体というか、まあ、聖地みたいなとこ、やったんやな。そこを守ってるような里やったそうや」
日射しは穏やかに明るく部屋を照らしている。開いた窓から微かに花の香りを含んだ風が入ってくる。きらきらと跳ねる日に、護王のまつげが光を帯びて伏せられた。
「里の祭礼は『かおうしづめ』て、呼ばれてる。里の奥の方に、大きな桜があって、その近くにひょっとしたら奈良平安ぐらいからあったかも知れへん言われてる大きな岩がある。その二つが、『かおうしづめ』の御神体や」
護王はちら、と目を上げて洋子が凝視しているのに気づき、慌てたように目を伏せた。わずかに頬に血の色が上る。
「…まつりは三日間あって」
一瞬掠れた声に眉をしかめ、護王は軽く唇を湿した。
「一日目は御神体にまつりの始まりを告げる。桜の前で奉納舞いがあって、それに巫女が二人で踊る。それから巫女が輿に乗って里を一巡し、里が潔斎に入る。まつりの間は魚や肉は食べられへん。巫女は定められたもんしか食べられへん」
「え…でも」
洋子はぎょっとした。
「私、舞いなんて踊れないよ?」
「……それは、ええね」
護王がまた微妙な表情で口ごもった。
「俺が…やるし」
「え? 護王が?」
「もともと、やってたことやし……」
相手が言いづらそうに語尾を消すのに、ああ、と洋子は気づいた。
(そうだ、ずっと、居た、んだっけ)
護王はずっと里で生きてきたから、そういう祭礼も誰よりよく知っているはずだ。いや、何より、祭礼そのものが、護王を祭るものだったはずで……。
(…え?)
何気なくそう思って洋子は瞬きした。
(護王を祭るものだったはずって……どうしてそんなこと、思ったんだろう)
「…どうしたん?」
黙り込んだ洋子に護王は気掛かりそうに目を上げた。
「あ、ううん」
(そうだ、護王は、私が護王が『姫さん』の転生を待ちながら生きているって知らないと思ってるんだ)
写真のことも、洋子が勝手に見ただけに口にするわけにはいかない。
「ちょっと……その…『かおうしづめ』ってどういう意味があるのかなって思って」
「……他の地方にもあるんやけどな」
護王は揺れた瞳を洋子から逸らせてコーヒーを含んだ。
「もともとは疫病よけ、やったらしい。春先ちょうど桜が散るころになると、昔は病気が流行ったらしい。散る花が流行り病を広げていく、そう考えられたんやろな。そやから、その桜の散る時期に合わせて疫病が流行らんように祈願する、いうことらしいわ」
曖昧な物言いは言いたくないことを無理に自分に納得させているようにも聞こえた。
「で、二日目は『読み上げ』言うて、今度は大岩の前で里の願いを訴えるわけや。里長が今まで読み上げられてきた願いと、それがどのように叶えられたかを文書にして残してるもんを読み上げていくんや。これは、まあ、言うたら、約束の確認、みたいなもんやな。これこれこういうことで、今までやりとりしてきました、そやからこれからもよろしゅうに、て言うことで、最後に今年の願いが読み上げられる。この日の夜は里を上げての宴会になるな」
「えーと……その日は…」
「『姫さん』のすることはあらへん、三日目に備えてもらう…ぐらいで」
「三日目に備える?」
「………うん……そやから…」
護王は目に見えて落ち着きがなくなった。
「コーヒー、淹れ直してこおか」
「ううん、まだあるよ」
「腹減ってこおへん?」
「さっき食べたばかりだもん」
「あ、そや、いっぺんに言うても何やし、後はまた里に行ってからでも」
「ううん、あの…」
洋子は気づいた。
「私が『姫さん』じゃないと、知ってちゃまずいことなのかな?」
「え?」
思ってもいなかったことを尋ねられたように、護王はきょとんとした顔を向けた。
「姫さんや、ない?」
「あ、だから、その…」
洋子はどう言ったものか困りながら、眉を寄せた。
「えーっと……この前の夜……その、治癒能力があるのは……姫さんじゃないって言ってたから」
妖しく濡れていた護王の目を思い出す。ゆらゆらと揺れ始める気持ちを押さえつける。
「あ……うん…でも……」
護王は不安そうに唇を噛んだ。一所懸命に何かを探る表情で考え込みながら、
「今までは……そんな姫さん、いたことなかったし……けど…あんたには花王紋があるし……それに犬童子かて子どもに見えたんやろ?」
「あ、そうだ!」
洋子ははっとした。
「あの子は何? 今どこにいるの?」
「あれは……」
奇妙な笑みが護王の唇に浮かんだ。冷ややかにも見える醒めた笑みだ。
「あれは…ほんとは……人でも犬でもあらへん」
「どういうこと?」
「…俺の歯止め……姫さんを見分けるために桜がよこす遣い、とでも言うたらいいんやろか。姫さん以外にはただの黒い子犬に見えるんやで」
「どうして?」
「……言うても信じひんよ」
淋しい陰りを帯びた声が続けた。
「犬童子は姫さんを見つけて俺に教えてくれるんや。俺が姫さんを確認して、里に言うたら、もう側にはおらへん。里の桜のところに戻ってる」
「……よくわからないけど……じゃあ、『姫さん』の徴って言うのは、花王紋と、犬童子が子どもに見えること、なの?」
「……うん…ほんとうは…」
「え?」
淡く幼いつぶやきが思わず知らずと言ったふうに護王の唇から漏れて、洋子は聞き直した。
「……いや……」
複雑な目の色で護王は洋子を見た。何かを察してほしがるような、それでいて全てを隠したがるような、迷った表情を浮かべながら、
「それは……もう……ええねん……あんたやったら……」
最後の方が途切れて消える。戸惑ってなおも問い直そうとした洋子のことばを遮るように、
「うん、あんたが綾子の墓参りに行きたい、言うのもわかる。そやけど、花王紋もあるし、里もあんたが姫さんで納得してるし、綾香かて待ってるし、まつりにも出てくれると助かるんやけど」
何かを振り切ったように言った。
「うん…」
(綾香も待ってる、か)
洋子は掠めた傷みを一瞬目を伏せて胸の奥へ押し込めた。
「わかった。でも、奉納舞いは護王がやってくれるんだよね? 二日目は特に用事がない。じゃあ、三日目に私は何をすればいいの?」
「え…」
弾かれたように護王が体を強ばらせた。
「姫さんの役割って、祭礼の中で奉納舞い以外に何があるの?」
「いや……だから…それは……」
口ごもりながら、護王は見る見る赤くなり始めた。それと同時に少しずつうつむいていく。
「つまり……その…」
「うん?」
「最後の日には……姫さんが里の栄えについて託宣を受けるんやけど」
「託宣って……神さまのお告げとかじゃないの?」
「ああ、それはええね、里の栄えを約束する、言うてくれたらええて決まってるし」
「ふうん、じゃん、それを言うだけなんだ?」
「いや。あの……そやから、その後に……姫さんは……ほら……姫さんやし……な」
「うん?」
「姫さん言うんは……つまり……神さんの…ほら…」
全く要領を得ない護王の声はどんどん小さくなっていく。
「巫女やし」
「うんん?」
「そやし……巫女は……神さんへの捧げものってことで……」
「捧げもの?」
洋子は首を傾げた。
「二人とも?」
「いや、そうやのうて、その、姫さんは一人やろ? そやし、な?」
じれったがるように護王は溜息をついた。
「え? じゃあ、巫女さんと姫さんの違いって?」
「そやから……つまり……神さんが選んだ方が姫さんで……」
護王の声は顔を近付けなくてはわからないほど掠れていく。
「じゃあ、そこで巫女の中から初めて姫さんが選ばれるんだ?」
「違うて!」
むっとした顔で護王は声を上げた。
「俺が選んでるんやから、あんたが姫さんに決まってるやんか!」
神さんが選んだ方、と言いながら、俺がと言い切っているのに気づかない護王に呆れながら、
「じゃあ、私は捧げものなんだ?」
「う…」
いきなり真っ赤になった護王がことばに詰まった矢先、何かオルゴールのような音が洋子の部屋から流れてきた。驚いた顔で護王が部屋を振り向く。
「何……ケータイ?」
「あ!」
洋子ははっとして立ち上がった。
村上から受け取った携帯は部屋に残してきたままになっている。ひょっとすると、何度か電話がかかっていたのかもしれない。
「ちょっとごめん…っ」
慌てて部屋に飛び込んだ。鳴り続けているベッドの上の携帯を取り上げる。
「もしもしっ」
『ああ、洋子さん?』
「すみません、何度かお電話頂いてましたか?」
『いえ、大丈夫です。今どちらにいらっしゃいますか?』
村上の柔らかな声が響いた。
「…マンションです」
『よかった、もう桜里に発たれたかと心配しました……実は、日高のことなんですが』
「何ですか?」
用心深い声音に 緊張してベッドの端に座り直した。
『こちらの捜査で、日高はまだ桜里に入ってないことがわかったんです。桜里では、もう少しすると「かおうしづめ」のまつりがあって、あちらこちらから医療関係者も里に入ります。それに紛れ込むつもりかもしれない』
「医療関係者?」
『「かおうしづめ」は疫病封じのまつりですからね、その関係では有名なんですよ。もし日高が人出に紛れて入り込むなら、別行動で追い掛けるよりも同行させてもらった方がいいと思いまして』
「ああ……」
村上の穏やかだけど表情の読めない目を思い出した。
(囮半分、てことか)
思わず苦笑する。
「そうですね……でも…」
視線を感じて振り返ると、戸口にもたれて、護王が食い入るような目で洋子を見つめている。整った顔立ちは人目を引く。村上のことだ、既に護王を調べ始めているだろう。
(護王が……まずいか?)
洋子自身は村上の同行は問題ない。日高が一刻でも早く捕まるなら、囮になるぐらい全く構わない。
だが、護王はどうだろう?
村上とのことを誤解しているというだけではなく、護王自身が桜里の出身で祭礼に深い関係があり、しかも花王紋の女を探していたということを、村上はどこまで知っているだろう? どんなふうに考えるだろう?
(それでなくても……護王は村上さんに疑われている)
写真の護王が頭を過った。
時を越えて変わらぬ姿。
護王の不可思議な過去は村上の追及に耐えられるほど巧みに現在に結びつけられているだろうか?
「すみません……少し考えさせてもらえますか? 後でお返事します」
『わかりました。今夜中にはお願いします』
村上は微笑を含んだ声で応じて電話を切った。
携帯を閉じる洋子に、じっと目を据えたままの護王がぽつりとつぶやいた。
「ケータイ、持ってたんや?」
「うん…」
「……今の……村上か?」
顔が強ばったのに、嘘はつけないと護王を見返した。
「…うん」
「……なんて?」
「村上さんが、同行したいって」
「…」
護王の目が一気に冷えた。
息苦しい沈黙が落ちる。穏やかな日射しはさっきと全く変わらないのに、気温だけが数度下がってしまったように空気が凍る。
「……それで……どうするん」
すう、と一歩、護王が部屋の中に入った。
「うん…」
溜息をついた。洋子は日高に狙われている。その日高を護王は憎んでいる。殺意さえ持っている。
もし日高と出くわすことがあれば、今度こそ護王は容赦しないだろう。村上が側にいるときに手荒い反撃に出たとしたら、今度は護王が村上に追われかねない。
ためらいながら口にした。
「…私……村上さんと行ったほうがいいのかもしれない」
ぴく、と体を震わせた護王が目を細めた。またもう一歩洋子に近づき、滑らかな動作で後ろ手にドアを閉めながら、淡々とした声で尋ねてくる。
「なんで?」
「……日高が」
「え?」
「警察から逃げたんだって。私を、追ってる」
「日高?」
ますます護王は目を細めた。その隙間からちろちろと危険な色が滲み出すのに、洋子は急いでことばを継いだ。
「今じゃない、もう少し前。日高も桜里の出身だったんだって。で、なぜか日高も花王紋の女を探していて、それで…」
護王はゆっくりとした動作で洋子に近寄ってきた。
「それで……村上はあんたに会いに来た?」
護王は洋子のことばを取り上げた。細めた目は冷ややかな殺気を宿したままだ。
「うん、たぶん。だから、」
万が一鉢合わせしたなら、護王が困ったことになるから、そう続けようとした矢先、護王が深々と屈み込んできて、ことばを呑んだ。
「なんで……俺に教えてくれへんかったん?」
じっと真っ黒な目で覗き込まれて、洋子は詰まった。
「……いろいろ…ばたばたしてたから…」
「そやけど、日高は花王紋を狙うてるんやろ? …綾子だけやない……あんたも狙ってるんやろ?」
綾子、とあんた、の間に別の名前が挟み込まれるはずだったのを、曖昧に避けたように聞こえた。
(綾香も……だよね)
また胸を辛い気持ちが過っていく。それを目から読み取られそうな気がして、思わず洋子は顔を背けた。
「大丈夫だって」
必死に声を明るませて応じる。
「警察だって気にしてくれてる。村上さんだって心配してくれて…!」
手にしていた携帯をいきなり護王が掴み取って背後へ投げ、洋子はぎょっとした。がん、と閉まったドアにあたって大きな音をたてる銀色の塊を見つめていると、
「俺では…あてにならへん、てか?」
掠れた声が耳もとで響いた。
「そんなこと…」
振り返ってすぐ目の前に護王の顔があるのに、またことばを失う。
護王は笑っていた。唇を吊り上げ目を細め、無邪気な笑みを満面にたたえているのに、皮肉な声を響かせて少し首を傾げてみせる。
「そやろなあ……俺…勘違いして……あんたを殺しにかかるようなやつ、やもんなあ…?」
「誰もそんなこと言ってない」
むっとして洋子は言い返した。
「護王は二週間も私の面倒をみてくれたじゃない、感謝してる」
「感謝、だけなんやろ…?」
「え?」
ぐ、と護王が体を寄せてきて、洋子は身を引いた。ベッドに腰掛けた洋子の両側、ゆっくりとした動作でことさら動きの意味を知らせるように、護王が手を置く。護王の体と腕で結界を作られた、その内側でじわじわと空気の温度が上がっていく。
「俺にくれるのは……感謝だけなんや?」
渇いてきた喉に無理矢理唾を呑み込んだ。護王の熱に押されるように洋子の体も熱くなってくる。心臓の鼓動が速さを増し、音量を上げていく。
「みんな……あんたを欲しがるんやな…」
聞こえるか聞こえないぐらいの声がささやいた。
「え?」
「無理ないわな……あんたは……きれいやもんな」
うっとりとした目でつぶやきながら、瞳はもう全く笑っていなかった。ひんやりとした青白い炎をあげている表情に、笑みの形だけを作った唇が淡々とことばを紡ぐ。
「誰かて……欲しなる……わかるで……他におらへん……あんたみたいな人……他にはおらへんもんなあ…?」
「ご…」
おう、の声は唇を重ねられて呑み込まれた。掬い上げるように両手で包まれた顔を固定され、唇を割ってすぐに濡れた温かな舌が入り込む。強ばったのをなだめるように一瞬唇が離されて、今度は確かにうっすらと笑った護王が、洋子の唇に直接ことばを注ぐように唇を触れさせながらつぶやいた。
「そやけど……あかん」
「ごおう…」
「他のやつには……やらん」
くくっ、と喉の奥で笑った声にきりきりとした怒りがあった。
「なあ……誰が渡す……? ……こんなきれいな……もん……他のやつに砕かれるぐらいやったら…」
「!」
ふいに両手を片手で一纏めに掴まれて押し倒された。影がのしかかるように体の上に乗り上げた護王が、両膝で洋子をベッドに押さえつける。いつぞやの反撃を覚えていたのだろう、洋子の体を跨いで挟みつけ、体重をかけて抵抗を封じられた。驚きに見開いた視界に護王の笑みが殺気立つのが見えた。
「俺が……砕く……!」
吐くようにつぶやいて、護王は洋子の首に唇を落とした。もがこうとした洋子のシャツをもう片方の手がたくしあげる。
「あっ…」
「あかん……今度は逃がさへんで?」
「っ!」
◆ 探る手が脇腹を撫で上げていく。悲鳴を上げようとした口を覆って声を封じられ、舌を拒んで口を閉じたのをいいことに唇を貪られた。呼吸が見る見る上がって、もがく気力が萎えてくる。本当に嫌いならば唇を噛んででも抵抗するのに、手首を押さえた掌も、耳や首に続けざまに落ちてくる唇も、肌を掠めていく吐息も、乱れ落ちてくる髪の毛さえも熱く、それら全てに煽られていくような気がして意識が隅から蕩けていく。
「なあ……姫さん…俺が…あんたを渡すと思たん…?」
短く小刻みに吐かれた息の合間に切なげな声が響いた。
「俺が……あんたにできること……何にもないけど……そやけど…」
吐息の密度が濃くなっていく。汗に濡れた頬が苛立たしそうにすり寄せられる。
「そやから……なあ…? そやから……俺……」
両手首が離された。しっとりと濡れた背中に導かれて、深く体を抱え込まれる。強ばった体を逃がすまいとする、その激しい力に翻弄される。波打ち高まる感覚が自分のものなのか、護王が感じている感覚なのかわからなくなる。かき乱された意識が耳もとで繰り返される早い呼吸と、合間に響く祈るようなつぶやきをかろうじて受け止める。
「……あんたの傷み……引き受けたるわ…」
堪えかねたような一際激しい動きが起こって、洋子は仰け反った。護王の腕から飛び立つような体勢に、すがりつくように引き止めるように、護王がきつく抱き竦めてくる。
「……っあ!!」
感覚を攫う大きな波に洋子は思わず悲鳴を上げた。自分の居場所がわからない。巨大なうねりに巻き込まれ翻弄されて、波の下に呑み込まれる。苦しそうに息を弾ませながら唇を重ねて声を吸い取る護王に、呼吸もまた封じられて意識が朦朧と霞んでいく。
(あつ…い…)
逃れようとした動きもすぐに護王に止められた。気持ちも心も捕われる。指も髪も護王に絡まれ持ち去られていってしまう。身体の全て、洋子の全てが奪い去られて消えていく。違う存在であるはずの互いの輪郭が、僅かなずれも許さない鋭さで重ね合されていく。
焔を上げている身体の奥になお激しく燃え盛るものがある、そう感じた瞬間に護王はうめいて口を離した。より深く洋子の身体を抱き込みながら花王紋に顔を埋め、どこか悲鳴じみた響きの声を吐き出す。
「な……姫…さん…っ!」
(…さ…くら…)
内側を見る視界の奥に白炎に似た鮮やかな花吹雪が弾けるように散り咲いた。
「なんでやねん!」
目の前に白いランニングシャツを着て、半ズボンの護王が目を見開いてぼろぼろ泣きながら、仁王立ちになり叫んでいる。
セピアがかった記憶の断片。
「なんで、あいつと、けっこんすんねん!」
「そやかて……」
洋子は護王の思いもかけない反論に戸惑っていた。
徴兵令が公布され、諸外国の圧力が次第に増してくる時代だった。明治維新以後、鎖国は解かれて急速に世の中は変わっていったが、それでも欧州列強と日本の国力の差は歴然、開国を支えてくれていた時期を通り過ぎて、次第に立場の弱さをたてにさまざまな形でいろいろな国が日本に入り込んできつつあった。
世の不安定さは桜里にも及んでいる。優秀で才能のある男が次々と都市の方に流れつつあった。そうして里に取り残された娘の縁談に気を揉む親も増えている。
「あたしかて、もう二十歳過ぎたしなあ」
心細く笑ってみせる。
父母も老いてきた。先祖からの田畑を守るのには他の家の手をかりなくてはならなくなりつつある。
護王は里の守神、その護王が花王紋のあるあやのを気に入って家に出入りしてくれているおかげで、養い手には今のところ不自由はしていないが、遅かれ早かれ父母は亡くなる。この先のことを考えれば、この度の申し出は願ったりかなったりというところ、護王も満更嫌っている相手でもないし、結婚しても出入り自由との約束で十分だと思っていたのに。
「そやかて……そやかて…」
「護王、大西さんのこと、嫌いなん?」
「……きらいなこと、あらへん」
「そやな、よう遊んでくれはるやろ?」
大西高明は里でも好青年で通っている。いつも穏やかな微笑を浮かべていて、確かに生まれついての弱視と心臓が多少弱いとあって、徴兵にはひっかからずに里にずっといる。子どもにも大人にも評判がいいし、身体の弱さを補う知恵ものでもあって、里では長に継ぐほど尊敬されているし、護王と同様大切にされている。
「そやけど…そやけど……」
護王は口をへの字に曲げてうつむいた。さっきまでの勢いはどこへやら、見る見る年相応の幼い顔に戻って泣きじゃくり始めた。
「おれかて……おれかて…」
「なに?」
洋子は護王を抱きかかえるように覗き込んだ。
「おれかて……あやのとやくそくしたやんか……おれのほうが……はよ…やくそくしたやんか」
しゃくりあげながら訴える護王に洋子は困った。
確かに一年前、花王紋が現れて、それが護王と一緒に暮していく『姫さん』の徴とは知っていた。犬童子を見る「見立て」も済んだし、祭礼も終えた。けれど、それはあくまでも十歳の護王とはまねごとで、儀式の一つにしか過ぎない。次代を得るようなものではない。
「なんで……あかんの……なんで……おれやったら…あかんのや」
肩を震わせながら訴える護王はいくら定めの相手とはいえ、まだ子どもで、この先ずっと子ども、なのだ。
きっと洋子が命を終えるそのときが来ても、護王は十五にもなるまい。
「あのなあ……護王」
洋子はよしよしと護王を抱いて慰めながら、そっと説いた。
「人はなあ、あんたほどは長う生きひんのやで。あんたほど長う生きられへんけど、それでも、人には人の一生、言うもんがあんのん」
「大きうなって……だれかとけっこんして…?」
「うん」
「…あかんぼ……うんで」
「うん」
「……!」
またふいにぼろぼろと大きな涙を護王が零して洋子は相手を見つめた。
「どしたん?」
「おれの……もんやのに」
吐かれたことばに思いもかけない男の気配が漂って洋子はことばを呑んだ。
「あやのは……おれのもん…やのに……ほかのやつが……あかんぼ…うませるんか」
「……ご…おう……」
ふいに護王は身体を突っぱねて、洋子の抱擁を逃れた。きつい瞳で洋子を睨み、嘲るように言い放つ。
「…わかってる……おれは……こども、やねろ。ずっと……一人でいきたらええ、いうことやろ?」
「そんな…」
「どこへでも……いってまえ!」
「護王!」
叩きつけるように叫んで走り去った護王を洋子は呆然と見送った。
「護王…」
「!」
夢のことばを持ち越してつぶやくと、すぐ側で身じろぐ気配があって、洋子は目を開いた。
窓の外に鮮やかな夕焼けが広がっている。サーモンピンクというのか、桜色というのか、その胸痛むような美しい空を背景に灰色の淡い雲が風に吹き飛ばされていく。
「きれい……」
「……そやな」
低い声が応じて、洋子は視線を相手に戻した。
ベッドの中に横になっている自分、その側で黒のタートルネックとスラックスを身に着けた護王が、ベッドの端に腰掛けてじっと空を見ている。
「あ……」
瞬きして額に張りついた髪の毛をかきあげかけて、ふいに自分の腕がむきだしなのに我に返った。閃光のように記憶が蘇って身体を不思議な熱が駆け抜ける。
(私……護王と…)
緩やかに打っていた胸がまた次第に速度を上げていった。無意識に顔が熱くなってくる。けれど、それはどこかくすぐったくなるような嬉しさを含んでいる。
「……もう夕方なんだね」
「ああ」
何を話せばいいのかわからなくて、けれども布団の下で何も着ていない自分の身体を意識するのもまた照れくさくて、洋子は護王に微笑みかけた。うなずいた相手がゆっくりと何か覚悟を決めたような顔で洋子を見下ろす。その静かな、だけど妙に沈んだ気配に洋子は微かな不安を覚えた。
「護王?」
「……すまん」
「…え…?」
「俺」
少しためらった後、護王はまっすぐに洋子を見た。部屋の薄暗さのせいだけではなく、その顔色がほとんど真っ青になっているのに気がついて、洋子は急いで身体を起こした。一瞬身体の奥が鉄棒を呑み込んでいるように重苦しく痛んで息を止める。びくっ、と護王が体を震わせたのに、布団を胸元に押し付けながら、相手を見返す。
「俺……あんたが」
決心したはずなのに怯んでしまった、そんな悔しそうな顔で護王は顔を背けた。
「あんたが、初めてやて、思わへんかったんや」
「……」
ことばが思いつかなかった。一所懸命にぼんやりした頭を働かせて護王のことばの意味をはかろうとする。それでもうまく考えられなくて、何度も護王の顔と布団に入ってる自分の体を見比べた。そうしている間も護王の顔はますます青く苦しそうになっていく。不安そうに唇を噛み、眉を寄せて洋子から顔を背けている。
(ああ……そうか……)
『迷惑かけたんとちゃう? あいつ、あたしのことやと、つい誰でも利用するし』
ふいに耳もとでたった今ささやかれたように綾香の声が弾けた。
(そうか……私じゃ……なかった、のか)
ふんわりと緩んでいた心が、その形のままに凝ってしまった気がした。
(だから……初めてじゃ…まずかったのか……まずいよね…そりゃ……)
確かにこの御時世、二十ニ、三にもなって、しかも男と同居して未経験だと思わないのももっともな話だ。ずきずき、と唐突に体の奥が痛みを増した。
「どうして……初めてって…」
「そら……その……」
護王が眉をますます寄せて不愉快そうに言った。
「シーツ…汚れたし…」
「…ああ…そうか…」
洋子はぼんやりとうなずいて、いきなり火がついたように体が熱くなった。ベッドの上で裸のままでぼんやりとしている女と服装を整えて女が目覚めるのを待っていた男。初体験の責任を告白して、本意じゃなかったと弁解するために、眠ってる女の側で半端な時間を持て余していた……突然そう気づいた。
「あの…」
「だ、だいじょうぶ」
多少声が裏返ったが、かろうじて洋子は護王がそれ以上ことばを重ねる前に応じられた。
「大丈夫、あの、大人だし、うん、今までこういうことも、うん、なかったけど、満更知らないわけじゃないし」
「姫さん…」
呼び掛けられて洋子は凍りついた。
(姫さん)
綾子。綾香。今まで護王は洋子を名前で呼んだことなど一度もない。
(姫さん……なんだ)
どこまでいっても、洋子は『姫さん』であって、洋子、ではない。
(葛城、洋子、なんて)
護王の中にはいないんだ。
「姫さん?」
どこかとても寒いところに突き落とされたような気がして、洋子は護王を見返した。
さっきまでの熱い気配は護王にはない。今はただただ青ざめて不安そうに洋子が何を考えているのかと訝るような表情でこちらを見ている。
「大丈夫」
答える自分の声が遠くに聞こえた。
「でも、ちょっと着替えたりシャワー浴びたりしたいから、部屋を出ていってくれる?」
唇を上げる。にこりと笑えた、と思う。だが、護王はますます不安そうな顔になったので、もう一度笑顔を作って言い放つ。
「ちょっと、驚いただけだから。それから、桜里には」
護王の顔から表情がなくなった。
「村上さんと行こうと思うんだ」
ごく、と護王は唾を呑み込んだ。何かに吸い寄せられるようにじっと洋子を凝視する。その視線が、今の洋子には裂かれるほどにつらいのだが。
「だって、急に襲われるの、苦手だし」
護王の瞳が光を消した。それに痛みを覚えながら、洋子は続けた。
(大丈夫だよ、もう解放してあげるから)
「村上さんに守ってもらうね」
護王は体を震わせた。だが、謝るように少し頭を下げると無言で部屋から出ていった。
「……よし、えらい」
ドアが閉まったのを確かめてから自分を褒めてつぶやいてみる。
零れ出した涙も震え始めた体も閉めたドアの外から見つかるわけはなかったのに、洋子は布団に潜り込んだ。
微かな血の匂いの中、しばらく蹲って泣き続けた。
朝昼兼用の食事をゆっくり摂って、洋子と護王はマンションに戻った。
コーヒーを洋子に手渡すと、居間のテーブルを挟んで座った護王が静かに切り出す。
「何でも落ち武者が入って大きゅうなった里らしい。それまでにも小さな集落があって、里の奥の山が御神体というか、まあ、聖地みたいなとこ、やったんやな。そこを守ってるような里やったそうや」
日射しは穏やかに明るく部屋を照らしている。開いた窓から微かに花の香りを含んだ風が入ってくる。きらきらと跳ねる日に、護王のまつげが光を帯びて伏せられた。
「里の祭礼は『かおうしづめ』て、呼ばれてる。里の奥の方に、大きな桜があって、その近くにひょっとしたら奈良平安ぐらいからあったかも知れへん言われてる大きな岩がある。その二つが、『かおうしづめ』の御神体や」
護王はちら、と目を上げて洋子が凝視しているのに気づき、慌てたように目を伏せた。わずかに頬に血の色が上る。
「…まつりは三日間あって」
一瞬掠れた声に眉をしかめ、護王は軽く唇を湿した。
「一日目は御神体にまつりの始まりを告げる。桜の前で奉納舞いがあって、それに巫女が二人で踊る。それから巫女が輿に乗って里を一巡し、里が潔斎に入る。まつりの間は魚や肉は食べられへん。巫女は定められたもんしか食べられへん」
「え…でも」
洋子はぎょっとした。
「私、舞いなんて踊れないよ?」
「……それは、ええね」
護王がまた微妙な表情で口ごもった。
「俺が…やるし」
「え? 護王が?」
「もともと、やってたことやし……」
相手が言いづらそうに語尾を消すのに、ああ、と洋子は気づいた。
(そうだ、ずっと、居た、んだっけ)
護王はずっと里で生きてきたから、そういう祭礼も誰よりよく知っているはずだ。いや、何より、祭礼そのものが、護王を祭るものだったはずで……。
(…え?)
何気なくそう思って洋子は瞬きした。
(護王を祭るものだったはずって……どうしてそんなこと、思ったんだろう)
「…どうしたん?」
黙り込んだ洋子に護王は気掛かりそうに目を上げた。
「あ、ううん」
(そうだ、護王は、私が護王が『姫さん』の転生を待ちながら生きているって知らないと思ってるんだ)
写真のことも、洋子が勝手に見ただけに口にするわけにはいかない。
「ちょっと……その…『かおうしづめ』ってどういう意味があるのかなって思って」
「……他の地方にもあるんやけどな」
護王は揺れた瞳を洋子から逸らせてコーヒーを含んだ。
「もともとは疫病よけ、やったらしい。春先ちょうど桜が散るころになると、昔は病気が流行ったらしい。散る花が流行り病を広げていく、そう考えられたんやろな。そやから、その桜の散る時期に合わせて疫病が流行らんように祈願する、いうことらしいわ」
曖昧な物言いは言いたくないことを無理に自分に納得させているようにも聞こえた。
「で、二日目は『読み上げ』言うて、今度は大岩の前で里の願いを訴えるわけや。里長が今まで読み上げられてきた願いと、それがどのように叶えられたかを文書にして残してるもんを読み上げていくんや。これは、まあ、言うたら、約束の確認、みたいなもんやな。これこれこういうことで、今までやりとりしてきました、そやからこれからもよろしゅうに、て言うことで、最後に今年の願いが読み上げられる。この日の夜は里を上げての宴会になるな」
「えーと……その日は…」
「『姫さん』のすることはあらへん、三日目に備えてもらう…ぐらいで」
「三日目に備える?」
「………うん……そやから…」
護王は目に見えて落ち着きがなくなった。
「コーヒー、淹れ直してこおか」
「ううん、まだあるよ」
「腹減ってこおへん?」
「さっき食べたばかりだもん」
「あ、そや、いっぺんに言うても何やし、後はまた里に行ってからでも」
「ううん、あの…」
洋子は気づいた。
「私が『姫さん』じゃないと、知ってちゃまずいことなのかな?」
「え?」
思ってもいなかったことを尋ねられたように、護王はきょとんとした顔を向けた。
「姫さんや、ない?」
「あ、だから、その…」
洋子はどう言ったものか困りながら、眉を寄せた。
「えーっと……この前の夜……その、治癒能力があるのは……姫さんじゃないって言ってたから」
妖しく濡れていた護王の目を思い出す。ゆらゆらと揺れ始める気持ちを押さえつける。
「あ……うん…でも……」
護王は不安そうに唇を噛んだ。一所懸命に何かを探る表情で考え込みながら、
「今までは……そんな姫さん、いたことなかったし……けど…あんたには花王紋があるし……それに犬童子かて子どもに見えたんやろ?」
「あ、そうだ!」
洋子ははっとした。
「あの子は何? 今どこにいるの?」
「あれは……」
奇妙な笑みが護王の唇に浮かんだ。冷ややかにも見える醒めた笑みだ。
「あれは…ほんとは……人でも犬でもあらへん」
「どういうこと?」
「…俺の歯止め……姫さんを見分けるために桜がよこす遣い、とでも言うたらいいんやろか。姫さん以外にはただの黒い子犬に見えるんやで」
「どうして?」
「……言うても信じひんよ」
淋しい陰りを帯びた声が続けた。
「犬童子は姫さんを見つけて俺に教えてくれるんや。俺が姫さんを確認して、里に言うたら、もう側にはおらへん。里の桜のところに戻ってる」
「……よくわからないけど……じゃあ、『姫さん』の徴って言うのは、花王紋と、犬童子が子どもに見えること、なの?」
「……うん…ほんとうは…」
「え?」
淡く幼いつぶやきが思わず知らずと言ったふうに護王の唇から漏れて、洋子は聞き直した。
「……いや……」
複雑な目の色で護王は洋子を見た。何かを察してほしがるような、それでいて全てを隠したがるような、迷った表情を浮かべながら、
「それは……もう……ええねん……あんたやったら……」
最後の方が途切れて消える。戸惑ってなおも問い直そうとした洋子のことばを遮るように、
「うん、あんたが綾子の墓参りに行きたい、言うのもわかる。そやけど、花王紋もあるし、里もあんたが姫さんで納得してるし、綾香かて待ってるし、まつりにも出てくれると助かるんやけど」
何かを振り切ったように言った。
「うん…」
(綾香も待ってる、か)
洋子は掠めた傷みを一瞬目を伏せて胸の奥へ押し込めた。
「わかった。でも、奉納舞いは護王がやってくれるんだよね? 二日目は特に用事がない。じゃあ、三日目に私は何をすればいいの?」
「え…」
弾かれたように護王が体を強ばらせた。
「姫さんの役割って、祭礼の中で奉納舞い以外に何があるの?」
「いや……だから…それは……」
口ごもりながら、護王は見る見る赤くなり始めた。それと同時に少しずつうつむいていく。
「つまり……その…」
「うん?」
「最後の日には……姫さんが里の栄えについて託宣を受けるんやけど」
「託宣って……神さまのお告げとかじゃないの?」
「ああ、それはええね、里の栄えを約束する、言うてくれたらええて決まってるし」
「ふうん、じゃん、それを言うだけなんだ?」
「いや。あの……そやから、その後に……姫さんは……ほら……姫さんやし……な」
「うん?」
「姫さん言うんは……つまり……神さんの…ほら…」
全く要領を得ない護王の声はどんどん小さくなっていく。
「巫女やし」
「うんん?」
「そやし……巫女は……神さんへの捧げものってことで……」
「捧げもの?」
洋子は首を傾げた。
「二人とも?」
「いや、そうやのうて、その、姫さんは一人やろ? そやし、な?」
じれったがるように護王は溜息をついた。
「え? じゃあ、巫女さんと姫さんの違いって?」
「そやから……つまり……神さんが選んだ方が姫さんで……」
護王の声は顔を近付けなくてはわからないほど掠れていく。
「じゃあ、そこで巫女の中から初めて姫さんが選ばれるんだ?」
「違うて!」
むっとした顔で護王は声を上げた。
「俺が選んでるんやから、あんたが姫さんに決まってるやんか!」
神さんが選んだ方、と言いながら、俺がと言い切っているのに気づかない護王に呆れながら、
「じゃあ、私は捧げものなんだ?」
「う…」
いきなり真っ赤になった護王がことばに詰まった矢先、何かオルゴールのような音が洋子の部屋から流れてきた。驚いた顔で護王が部屋を振り向く。
「何……ケータイ?」
「あ!」
洋子ははっとして立ち上がった。
村上から受け取った携帯は部屋に残してきたままになっている。ひょっとすると、何度か電話がかかっていたのかもしれない。
「ちょっとごめん…っ」
慌てて部屋に飛び込んだ。鳴り続けているベッドの上の携帯を取り上げる。
「もしもしっ」
『ああ、洋子さん?』
「すみません、何度かお電話頂いてましたか?」
『いえ、大丈夫です。今どちらにいらっしゃいますか?』
村上の柔らかな声が響いた。
「…マンションです」
『よかった、もう桜里に発たれたかと心配しました……実は、日高のことなんですが』
「何ですか?」
用心深い声音に 緊張してベッドの端に座り直した。
『こちらの捜査で、日高はまだ桜里に入ってないことがわかったんです。桜里では、もう少しすると「かおうしづめ」のまつりがあって、あちらこちらから医療関係者も里に入ります。それに紛れ込むつもりかもしれない』
「医療関係者?」
『「かおうしづめ」は疫病封じのまつりですからね、その関係では有名なんですよ。もし日高が人出に紛れて入り込むなら、別行動で追い掛けるよりも同行させてもらった方がいいと思いまして』
「ああ……」
村上の穏やかだけど表情の読めない目を思い出した。
(囮半分、てことか)
思わず苦笑する。
「そうですね……でも…」
視線を感じて振り返ると、戸口にもたれて、護王が食い入るような目で洋子を見つめている。整った顔立ちは人目を引く。村上のことだ、既に護王を調べ始めているだろう。
(護王が……まずいか?)
洋子自身は村上の同行は問題ない。日高が一刻でも早く捕まるなら、囮になるぐらい全く構わない。
だが、護王はどうだろう?
村上とのことを誤解しているというだけではなく、護王自身が桜里の出身で祭礼に深い関係があり、しかも花王紋の女を探していたということを、村上はどこまで知っているだろう? どんなふうに考えるだろう?
(それでなくても……護王は村上さんに疑われている)
写真の護王が頭を過った。
時を越えて変わらぬ姿。
護王の不可思議な過去は村上の追及に耐えられるほど巧みに現在に結びつけられているだろうか?
「すみません……少し考えさせてもらえますか? 後でお返事します」
『わかりました。今夜中にはお願いします』
村上は微笑を含んだ声で応じて電話を切った。
携帯を閉じる洋子に、じっと目を据えたままの護王がぽつりとつぶやいた。
「ケータイ、持ってたんや?」
「うん…」
「……今の……村上か?」
顔が強ばったのに、嘘はつけないと護王を見返した。
「…うん」
「……なんて?」
「村上さんが、同行したいって」
「…」
護王の目が一気に冷えた。
息苦しい沈黙が落ちる。穏やかな日射しはさっきと全く変わらないのに、気温だけが数度下がってしまったように空気が凍る。
「……それで……どうするん」
すう、と一歩、護王が部屋の中に入った。
「うん…」
溜息をついた。洋子は日高に狙われている。その日高を護王は憎んでいる。殺意さえ持っている。
もし日高と出くわすことがあれば、今度こそ護王は容赦しないだろう。村上が側にいるときに手荒い反撃に出たとしたら、今度は護王が村上に追われかねない。
ためらいながら口にした。
「…私……村上さんと行ったほうがいいのかもしれない」
ぴく、と体を震わせた護王が目を細めた。またもう一歩洋子に近づき、滑らかな動作で後ろ手にドアを閉めながら、淡々とした声で尋ねてくる。
「なんで?」
「……日高が」
「え?」
「警察から逃げたんだって。私を、追ってる」
「日高?」
ますます護王は目を細めた。その隙間からちろちろと危険な色が滲み出すのに、洋子は急いでことばを継いだ。
「今じゃない、もう少し前。日高も桜里の出身だったんだって。で、なぜか日高も花王紋の女を探していて、それで…」
護王はゆっくりとした動作で洋子に近寄ってきた。
「それで……村上はあんたに会いに来た?」
護王は洋子のことばを取り上げた。細めた目は冷ややかな殺気を宿したままだ。
「うん、たぶん。だから、」
万が一鉢合わせしたなら、護王が困ったことになるから、そう続けようとした矢先、護王が深々と屈み込んできて、ことばを呑んだ。
「なんで……俺に教えてくれへんかったん?」
じっと真っ黒な目で覗き込まれて、洋子は詰まった。
「……いろいろ…ばたばたしてたから…」
「そやけど、日高は花王紋を狙うてるんやろ? …綾子だけやない……あんたも狙ってるんやろ?」
綾子、とあんた、の間に別の名前が挟み込まれるはずだったのを、曖昧に避けたように聞こえた。
(綾香も……だよね)
また胸を辛い気持ちが過っていく。それを目から読み取られそうな気がして、思わず洋子は顔を背けた。
「大丈夫だって」
必死に声を明るませて応じる。
「警察だって気にしてくれてる。村上さんだって心配してくれて…!」
手にしていた携帯をいきなり護王が掴み取って背後へ投げ、洋子はぎょっとした。がん、と閉まったドアにあたって大きな音をたてる銀色の塊を見つめていると、
「俺では…あてにならへん、てか?」
掠れた声が耳もとで響いた。
「そんなこと…」
振り返ってすぐ目の前に護王の顔があるのに、またことばを失う。
護王は笑っていた。唇を吊り上げ目を細め、無邪気な笑みを満面にたたえているのに、皮肉な声を響かせて少し首を傾げてみせる。
「そやろなあ……俺…勘違いして……あんたを殺しにかかるようなやつ、やもんなあ…?」
「誰もそんなこと言ってない」
むっとして洋子は言い返した。
「護王は二週間も私の面倒をみてくれたじゃない、感謝してる」
「感謝、だけなんやろ…?」
「え?」
ぐ、と護王が体を寄せてきて、洋子は身を引いた。ベッドに腰掛けた洋子の両側、ゆっくりとした動作でことさら動きの意味を知らせるように、護王が手を置く。護王の体と腕で結界を作られた、その内側でじわじわと空気の温度が上がっていく。
「俺にくれるのは……感謝だけなんや?」
渇いてきた喉に無理矢理唾を呑み込んだ。護王の熱に押されるように洋子の体も熱くなってくる。心臓の鼓動が速さを増し、音量を上げていく。
「みんな……あんたを欲しがるんやな…」
聞こえるか聞こえないぐらいの声がささやいた。
「え?」
「無理ないわな……あんたは……きれいやもんな」
うっとりとした目でつぶやきながら、瞳はもう全く笑っていなかった。ひんやりとした青白い炎をあげている表情に、笑みの形だけを作った唇が淡々とことばを紡ぐ。
「誰かて……欲しなる……わかるで……他におらへん……あんたみたいな人……他にはおらへんもんなあ…?」
「ご…」
おう、の声は唇を重ねられて呑み込まれた。掬い上げるように両手で包まれた顔を固定され、唇を割ってすぐに濡れた温かな舌が入り込む。強ばったのをなだめるように一瞬唇が離されて、今度は確かにうっすらと笑った護王が、洋子の唇に直接ことばを注ぐように唇を触れさせながらつぶやいた。
「そやけど……あかん」
「ごおう…」
「他のやつには……やらん」
くくっ、と喉の奥で笑った声にきりきりとした怒りがあった。
「なあ……誰が渡す……? ……こんなきれいな……もん……他のやつに砕かれるぐらいやったら…」
「!」
ふいに両手を片手で一纏めに掴まれて押し倒された。影がのしかかるように体の上に乗り上げた護王が、両膝で洋子をベッドに押さえつける。いつぞやの反撃を覚えていたのだろう、洋子の体を跨いで挟みつけ、体重をかけて抵抗を封じられた。驚きに見開いた視界に護王の笑みが殺気立つのが見えた。
「俺が……砕く……!」
吐くようにつぶやいて、護王は洋子の首に唇を落とした。もがこうとした洋子のシャツをもう片方の手がたくしあげる。
「あっ…」
「あかん……今度は逃がさへんで?」
「っ!」
◆ 探る手が脇腹を撫で上げていく。悲鳴を上げようとした口を覆って声を封じられ、舌を拒んで口を閉じたのをいいことに唇を貪られた。呼吸が見る見る上がって、もがく気力が萎えてくる。本当に嫌いならば唇を噛んででも抵抗するのに、手首を押さえた掌も、耳や首に続けざまに落ちてくる唇も、肌を掠めていく吐息も、乱れ落ちてくる髪の毛さえも熱く、それら全てに煽られていくような気がして意識が隅から蕩けていく。
「なあ……姫さん…俺が…あんたを渡すと思たん…?」
短く小刻みに吐かれた息の合間に切なげな声が響いた。
「俺が……あんたにできること……何にもないけど……そやけど…」
吐息の密度が濃くなっていく。汗に濡れた頬が苛立たしそうにすり寄せられる。
「そやから……なあ…? そやから……俺……」
両手首が離された。しっとりと濡れた背中に導かれて、深く体を抱え込まれる。強ばった体を逃がすまいとする、その激しい力に翻弄される。波打ち高まる感覚が自分のものなのか、護王が感じている感覚なのかわからなくなる。かき乱された意識が耳もとで繰り返される早い呼吸と、合間に響く祈るようなつぶやきをかろうじて受け止める。
「……あんたの傷み……引き受けたるわ…」
堪えかねたような一際激しい動きが起こって、洋子は仰け反った。護王の腕から飛び立つような体勢に、すがりつくように引き止めるように、護王がきつく抱き竦めてくる。
「……っあ!!」
感覚を攫う大きな波に洋子は思わず悲鳴を上げた。自分の居場所がわからない。巨大なうねりに巻き込まれ翻弄されて、波の下に呑み込まれる。苦しそうに息を弾ませながら唇を重ねて声を吸い取る護王に、呼吸もまた封じられて意識が朦朧と霞んでいく。
(あつ…い…)
逃れようとした動きもすぐに護王に止められた。気持ちも心も捕われる。指も髪も護王に絡まれ持ち去られていってしまう。身体の全て、洋子の全てが奪い去られて消えていく。違う存在であるはずの互いの輪郭が、僅かなずれも許さない鋭さで重ね合されていく。
焔を上げている身体の奥になお激しく燃え盛るものがある、そう感じた瞬間に護王はうめいて口を離した。より深く洋子の身体を抱き込みながら花王紋に顔を埋め、どこか悲鳴じみた響きの声を吐き出す。
「な……姫…さん…っ!」
(…さ…くら…)
内側を見る視界の奥に白炎に似た鮮やかな花吹雪が弾けるように散り咲いた。
「なんでやねん!」
目の前に白いランニングシャツを着て、半ズボンの護王が目を見開いてぼろぼろ泣きながら、仁王立ちになり叫んでいる。
セピアがかった記憶の断片。
「なんで、あいつと、けっこんすんねん!」
「そやかて……」
洋子は護王の思いもかけない反論に戸惑っていた。
徴兵令が公布され、諸外国の圧力が次第に増してくる時代だった。明治維新以後、鎖国は解かれて急速に世の中は変わっていったが、それでも欧州列強と日本の国力の差は歴然、開国を支えてくれていた時期を通り過ぎて、次第に立場の弱さをたてにさまざまな形でいろいろな国が日本に入り込んできつつあった。
世の不安定さは桜里にも及んでいる。優秀で才能のある男が次々と都市の方に流れつつあった。そうして里に取り残された娘の縁談に気を揉む親も増えている。
「あたしかて、もう二十歳過ぎたしなあ」
心細く笑ってみせる。
父母も老いてきた。先祖からの田畑を守るのには他の家の手をかりなくてはならなくなりつつある。
護王は里の守神、その護王が花王紋のあるあやのを気に入って家に出入りしてくれているおかげで、養い手には今のところ不自由はしていないが、遅かれ早かれ父母は亡くなる。この先のことを考えれば、この度の申し出は願ったりかなったりというところ、護王も満更嫌っている相手でもないし、結婚しても出入り自由との約束で十分だと思っていたのに。
「そやかて……そやかて…」
「護王、大西さんのこと、嫌いなん?」
「……きらいなこと、あらへん」
「そやな、よう遊んでくれはるやろ?」
大西高明は里でも好青年で通っている。いつも穏やかな微笑を浮かべていて、確かに生まれついての弱視と心臓が多少弱いとあって、徴兵にはひっかからずに里にずっといる。子どもにも大人にも評判がいいし、身体の弱さを補う知恵ものでもあって、里では長に継ぐほど尊敬されているし、護王と同様大切にされている。
「そやけど…そやけど……」
護王は口をへの字に曲げてうつむいた。さっきまでの勢いはどこへやら、見る見る年相応の幼い顔に戻って泣きじゃくり始めた。
「おれかて……おれかて…」
「なに?」
洋子は護王を抱きかかえるように覗き込んだ。
「おれかて……あやのとやくそくしたやんか……おれのほうが……はよ…やくそくしたやんか」
しゃくりあげながら訴える護王に洋子は困った。
確かに一年前、花王紋が現れて、それが護王と一緒に暮していく『姫さん』の徴とは知っていた。犬童子を見る「見立て」も済んだし、祭礼も終えた。けれど、それはあくまでも十歳の護王とはまねごとで、儀式の一つにしか過ぎない。次代を得るようなものではない。
「なんで……あかんの……なんで……おれやったら…あかんのや」
肩を震わせながら訴える護王はいくら定めの相手とはいえ、まだ子どもで、この先ずっと子ども、なのだ。
きっと洋子が命を終えるそのときが来ても、護王は十五にもなるまい。
「あのなあ……護王」
洋子はよしよしと護王を抱いて慰めながら、そっと説いた。
「人はなあ、あんたほどは長う生きひんのやで。あんたほど長う生きられへんけど、それでも、人には人の一生、言うもんがあんのん」
「大きうなって……だれかとけっこんして…?」
「うん」
「…あかんぼ……うんで」
「うん」
「……!」
またふいにぼろぼろと大きな涙を護王が零して洋子は相手を見つめた。
「どしたん?」
「おれの……もんやのに」
吐かれたことばに思いもかけない男の気配が漂って洋子はことばを呑んだ。
「あやのは……おれのもん…やのに……ほかのやつが……あかんぼ…うませるんか」
「……ご…おう……」
ふいに護王は身体を突っぱねて、洋子の抱擁を逃れた。きつい瞳で洋子を睨み、嘲るように言い放つ。
「…わかってる……おれは……こども、やねろ。ずっと……一人でいきたらええ、いうことやろ?」
「そんな…」
「どこへでも……いってまえ!」
「護王!」
叩きつけるように叫んで走り去った護王を洋子は呆然と見送った。
「護王…」
「!」
夢のことばを持ち越してつぶやくと、すぐ側で身じろぐ気配があって、洋子は目を開いた。
窓の外に鮮やかな夕焼けが広がっている。サーモンピンクというのか、桜色というのか、その胸痛むような美しい空を背景に灰色の淡い雲が風に吹き飛ばされていく。
「きれい……」
「……そやな」
低い声が応じて、洋子は視線を相手に戻した。
ベッドの中に横になっている自分、その側で黒のタートルネックとスラックスを身に着けた護王が、ベッドの端に腰掛けてじっと空を見ている。
「あ……」
瞬きして額に張りついた髪の毛をかきあげかけて、ふいに自分の腕がむきだしなのに我に返った。閃光のように記憶が蘇って身体を不思議な熱が駆け抜ける。
(私……護王と…)
緩やかに打っていた胸がまた次第に速度を上げていった。無意識に顔が熱くなってくる。けれど、それはどこかくすぐったくなるような嬉しさを含んでいる。
「……もう夕方なんだね」
「ああ」
何を話せばいいのかわからなくて、けれども布団の下で何も着ていない自分の身体を意識するのもまた照れくさくて、洋子は護王に微笑みかけた。うなずいた相手がゆっくりと何か覚悟を決めたような顔で洋子を見下ろす。その静かな、だけど妙に沈んだ気配に洋子は微かな不安を覚えた。
「護王?」
「……すまん」
「…え…?」
「俺」
少しためらった後、護王はまっすぐに洋子を見た。部屋の薄暗さのせいだけではなく、その顔色がほとんど真っ青になっているのに気がついて、洋子は急いで身体を起こした。一瞬身体の奥が鉄棒を呑み込んでいるように重苦しく痛んで息を止める。びくっ、と護王が体を震わせたのに、布団を胸元に押し付けながら、相手を見返す。
「俺……あんたが」
決心したはずなのに怯んでしまった、そんな悔しそうな顔で護王は顔を背けた。
「あんたが、初めてやて、思わへんかったんや」
「……」
ことばが思いつかなかった。一所懸命にぼんやりした頭を働かせて護王のことばの意味をはかろうとする。それでもうまく考えられなくて、何度も護王の顔と布団に入ってる自分の体を見比べた。そうしている間も護王の顔はますます青く苦しそうになっていく。不安そうに唇を噛み、眉を寄せて洋子から顔を背けている。
(ああ……そうか……)
『迷惑かけたんとちゃう? あいつ、あたしのことやと、つい誰でも利用するし』
ふいに耳もとでたった今ささやかれたように綾香の声が弾けた。
(そうか……私じゃ……なかった、のか)
ふんわりと緩んでいた心が、その形のままに凝ってしまった気がした。
(だから……初めてじゃ…まずかったのか……まずいよね…そりゃ……)
確かにこの御時世、二十ニ、三にもなって、しかも男と同居して未経験だと思わないのももっともな話だ。ずきずき、と唐突に体の奥が痛みを増した。
「どうして……初めてって…」
「そら……その……」
護王が眉をますます寄せて不愉快そうに言った。
「シーツ…汚れたし…」
「…ああ…そうか…」
洋子はぼんやりとうなずいて、いきなり火がついたように体が熱くなった。ベッドの上で裸のままでぼんやりとしている女と服装を整えて女が目覚めるのを待っていた男。初体験の責任を告白して、本意じゃなかったと弁解するために、眠ってる女の側で半端な時間を持て余していた……突然そう気づいた。
「あの…」
「だ、だいじょうぶ」
多少声が裏返ったが、かろうじて洋子は護王がそれ以上ことばを重ねる前に応じられた。
「大丈夫、あの、大人だし、うん、今までこういうことも、うん、なかったけど、満更知らないわけじゃないし」
「姫さん…」
呼び掛けられて洋子は凍りついた。
(姫さん)
綾子。綾香。今まで護王は洋子を名前で呼んだことなど一度もない。
(姫さん……なんだ)
どこまでいっても、洋子は『姫さん』であって、洋子、ではない。
(葛城、洋子、なんて)
護王の中にはいないんだ。
「姫さん?」
どこかとても寒いところに突き落とされたような気がして、洋子は護王を見返した。
さっきまでの熱い気配は護王にはない。今はただただ青ざめて不安そうに洋子が何を考えているのかと訝るような表情でこちらを見ている。
「大丈夫」
答える自分の声が遠くに聞こえた。
「でも、ちょっと着替えたりシャワー浴びたりしたいから、部屋を出ていってくれる?」
唇を上げる。にこりと笑えた、と思う。だが、護王はますます不安そうな顔になったので、もう一度笑顔を作って言い放つ。
「ちょっと、驚いただけだから。それから、桜里には」
護王の顔から表情がなくなった。
「村上さんと行こうと思うんだ」
ごく、と護王は唾を呑み込んだ。何かに吸い寄せられるようにじっと洋子を凝視する。その視線が、今の洋子には裂かれるほどにつらいのだが。
「だって、急に襲われるの、苦手だし」
護王の瞳が光を消した。それに痛みを覚えながら、洋子は続けた。
(大丈夫だよ、もう解放してあげるから)
「村上さんに守ってもらうね」
護王は体を震わせた。だが、謝るように少し頭を下げると無言で部屋から出ていった。
「……よし、えらい」
ドアが閉まったのを確かめてから自分を褒めてつぶやいてみる。
零れ出した涙も震え始めた体も閉めたドアの外から見つかるわけはなかったのに、洋子は布団に潜り込んだ。
微かな血の匂いの中、しばらく蹲って泣き続けた。
0
あなたにおすすめの小説
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
Emerald
藍沢咲良
恋愛
教師という仕事に嫌気が差した結城美咲(ゆうき みさき)は、叔母の住む自然豊かな郊外で時々アルバイトをして生活していた。
叔母の勧めで再び教員業に戻ってみようと人材バンクに登録すると、すぐに話が来る。
自分にとっては完全に新しい場所。
しかし仕事は一度投げ出した教員業。嫌だと言っても他に出来る仕事は無い。
仕方無しに仕事復帰をする美咲。仕事帰りにカフェに寄るとそこには…。
〜main cast〜
結城美咲(Yuki Misaki)
黒瀬 悠(Kurose Haruka)
※作中の地名、団体名は架空のものです。
※この作品はエブリスタ、小説家になろうでも連載されています。
※素敵な表紙をポリン先生に描いて頂きました。
ポリン先生の作品はこちら↓
https://manga.line.me/indies/product/detail?id=8911
https://www.comico.jp/challenge/comic/33031
独占欲全開の肉食ドクターに溺愛されて極甘懐妊しました
せいとも
恋愛
旧題:ドクターと救急救命士は天敵⁈~最悪の出会いは最高の出逢い~
救急救命士として働く雫石月は、勤務明けに乗っていたバスで事故に遭う。
どうやら、バスの運転手が体調不良になったようだ。
乗客にAEDを探してきてもらうように頼み、救助活動をしているとボサボサ頭のマスク姿の男がAEDを持ってバスに乗り込んできた。
受け取ろうとすると邪魔だと言われる。
そして、月のことを『チビ団子』と呼んだのだ。
医療従事者と思われるボサボサマスク男は運転手の処置をして、月が文句を言う間もなく、救急車に同乗して去ってしまった。
最悪の出会いをし、二度と会いたくない相手の正体は⁇
作品はフィクションです。
本来の仕事内容とは異なる描写があると思います。
愛想笑いの課長は甘い俺様
吉生伊織
恋愛
社畜と罵られる
坂井 菜緒
×
愛想笑いが得意の俺様課長
堤 将暉
**********
「社畜の坂井さんはこんな仕事もできないのかなぁ~?」
「へぇ、社畜でも反抗心あるんだ」
あることがきっかけで社畜と罵られる日々。
私以外には愛想笑いをするのに、私には厳しい。
そんな課長を避けたいのに甘やかしてくるのはどうして?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる