『桜の護王』

segakiyui

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8.形代(かたしろ)(2)

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 ずいぶん泣いていた。
 夕焼けがいつ間にか空の隅に追いやられ、紺色の艶のある布が天空いっぱいに広げられても、まだ泣いていたような気もする。
 疲れ切って洋子が布団から這い出したとき、部屋は真っ暗になっていた。
「さむ…って…あたりまえか」
 つぶやくと声が掠れてひび割れた。のろのろとベッドからずりおり、しゃがみこんで、段ボール箱の中からバスタオルと石鹸とスポンジを取り出す。乱れた髪の毛に囲まれた視界、箱の中からそんなものを引きずり出している自分、裸で無防備でしかも体が重苦しい自分が、情けなくて恥ずかしい。
 シャワーをめいっぱい熱くして頭から浴びる。石鹸を泡立てて、思いきり体中を擦りにかかる。痛みが増そうと構わなかった。どんどん傷んで壊れてしまっても全然構わないと思った。
 ニの腕の内側に赤くにじんだような内出血があった。気がつくと、点々とあちこちについている。
「キスマークってやつ…か?」
 なぜかくすくすと笑えた。
「ひどいな…長袖でないと……目立つのに」
 つぶやいて急に体が重くなった気がして座り込む。冷たい霧が額から這い降りてきて耳鳴りがした。胸が詰まって息ができなくなり吐き気がする。
(急に動きすぎたかな)
 これってショック症状ってやつだよね、心身とものショック症状だもん、わかるよなあとひとごとみたいに考えている間に、足下がぐにゃりと崩れた。
(あ……倒れる…)
  どん、と壁に手をついた。その手首に力が入らない。唇を噛みしめる力も奪い去られて、体ごと壁にもたれ込み、そのままずるずる滑って寝そべってしまいそうなのを、必死にこらえる。
(大丈夫だ)
 きんきんと意識を満たす耳鳴りの中で言い聞かせる。
(大丈夫だ)
 こんなことは何度もあった。こんなことは何度もあった。こんなことは何度もあった。
(求められてるのは私じゃない)
 大丈夫だ。
 大丈夫だ。
(今までに何度もあったことだから)
 大丈夫だ、慣れてるから、わかってるから、今回だってちゃんとやれる、切り抜けられる。
 ぬる、と足首にシャワーのお湯とは違う生温かいものが這い降りて目を開き、視界に飛び込んだ光景に思わず喉を鳴らす。
 クリーム色のユニットバスに鮮血の赤。
 視界が見る見る狭まった。冷や汗が流れて目を閉じる。吐き気が込み上げ口からあふれそうになる。
 大丈夫だ。
(あやこ)
 大丈夫だ。
(綾子)
 大丈夫だ。
(嵯峨さん)
 大丈夫だ……いつかの洋子。
 看護師になって初めての緊急患者は大量吐血しながら洋子にすがりついてきた。がくがくと震える体、声にならないおめきを上げて掴まれるニの腕、握りしめられる白衣の裾。まだ年若い男性で、仕事のストレスで肝臓を壊しての療養中、経過は良好なはずだった。
 けれど、深夜、巡回してよく眠っていると部屋を出ていこうとした矢先に、奇妙な叫びをあげて飛び起き、吹き出すように血を吐いた。すがりつかれた洋子はナースコールで同僚を呼び、てきぱきと処置を進め、いつもはのろまな新人だったのに、そのときだけは別人のような冷静さで対処して、同僚の賞賛を浴びた。
(冷静だったわけじゃない)
 思考も何もかもが止まってしまっていただけだ。小さいころからの暴力の中、生き延びるために身につけた呪文が功を奏しただけだ。
 ダイジョウブダ。
 ダイジョウブダ。
 マダ、シンデ、ナイ。
 唇を固く閉じながら、ゆっくりと呼吸を繰り返す。頭の中を埋めている耳鳴りに意識をまかせてしまい、抵抗を減らし、回復に全力を向ける。体が勝手に覚えている緊急時の動かし方、外側の感覚を閉ざし内側の力の配分に集中する。耳鳴りがおさまっていくと、意識をゆっくり体に向ける。どこか痛むところは増えてないか、新しく傷ついたところは見当たらないか。目を閉じたままチェックする。
(大丈夫だ)
「ふ…う…」
 ようやく少し大きな息がつけて、洋子は目を開いた。シャワーの音が少しずつ聞こえてくる。
(大丈夫だ)
 今度は意識してあやこ達のことを思い浮かべた。
(あれほどひどい状態じゃない)
 怪我をしたわけじゃない、初めてのことだっただけだ。体調を崩したわけじゃない、知らない状況に混乱しているだけだ。裏切られたんじゃない、洋子が先走って夢を追い掛けただけだ。
(もっと惨い状況だってある) 
 あやこだって、綾子だって、嵯峨だって、もっときつい出来事を味わった。
(私がここで怯んでるわけにはいかない)
『看護師としてのあなたが、この先歩く世界の豊かさ美しさを感じました。しかし、それは、私にはもう二度と入れない世界でもありました』
(生きている、だけで)
 与えられているものが、どれほどたくさんあるのか、洋子は知っている。
(嵯峨さん)
 立ち上がれ。
「…ふ…っ」
 もう一度大きく息を吐いて、体に力を入れてみた。腕で体を支えながら、壁に沿って立ち上がる。足首もしっかりしているし、捻ってもいない。立ち上がった瞬間に目の前が暗くなったが、出しっぱなしにしているシャワーの熱気でのぼせつつあるのだと気づいて、めまいがおさまってから体を流し、湯を止めた。
「…きつかったな…」
 思わずつぶやいて不安定に揺らめく体をひきずるように風呂場から出た。バスタオルで体を拭う。出血は何とか止まったようだ。わずかに薄紅に染まったタオルを抱えながら部屋に戻り、ようやく下着とかぶるだけで着られる部屋着を身につけたものの、呼吸がまた荒くなってきて、仕方なしにベッドにもたれるように座り込む。
 ふ、と鼻先を鋭い樹の香りが掠めた。
(…気持ちいいな…)
 しばらくぼんやりとその香おりを楽しんでから、突然我に返った。
(これって…護王の…)
 樹の香りはこの間の夜も部屋を満たしていた。体臭、というものなのだろうか、護王が気持ちを高ぶらせて体を寄せてくると強く香ってくるようだ。
(護王こそ、桜の精、みたいだよね)
 百年ニ百年生きる桜。その精が人の形を取っているから、あれほど洋子を惑わせるのか。
(惑わされたままでもよかったのに)
 夢はもう終わってしまった。現実がひたひたと冷たい足音をたてて近づいてくる前では、洋子の気持ちなど幻以外の何ものでもない。
 目を閉じて、またうとうとしてしまったようだ。

「護王は…まだですか……?」
 布団の中で洋子は枕元の女中に問いかけた。
 先日からの高熱で呼吸が早くなったまま、息苦しさが全くとれない。ただの風邪だと迂闊にみていたが、五十を越えた体にはどうにも堪えかねたらしい。
「はい……あの…」
 枕元の頬の赤い三つ編みお下げの女中は困ったように開かないふすまをみやった。
「もうおいでではないかと」
 それから思いたったように、
「わたし、見てまいります、奥様」
「あ……これ…」
 いいのよ、と呼びかけようとした声が咳で遮られてことばにならなかった。咳に追われるようにばたばたと部屋を出ていく豊子をそれ以上引き止める気力がなく、伸ばしかけた手をのろのろと布団に戻す。
 結局大西高明との間に子どもは生まれなかった。
 洋子の体が弱かったのか、高明に問題があったのか、それは明らかにはされなかったけれど、子どもを得られない妻に周囲の風当たりは強かったし、高明自体も次第次第に夫婦の関係からは遠のいてしまった。
 はっきりとは知らされなかったが、里の別家に一人の女性が高明の子どもを身ごもったと言う。母親は丈夫な体をしているたくましい娘で、まだ年も洋子より二十ほど若い。
 初めてそれを知ったときには視界が眩みそうになったけれど、自分がいつまでたっても子どもを宿せないという思いは深く暗い根を洋子の中に張り巡らせて、ついにはちょっとしたことで寝付くようになってしまった。
 そうしてみると、高明のことも家のことも何一つ満足にできない洋子に、居場所というものがありようもなく、いつの間にか母屋の片隅に離れとは名ばかりの小さな部屋をあてがわれ、女中を一人、身の回りの世話に残されて日々をこもって暮すしかなかった。
 護王は、出入りを許されてはいたけれど、高明と結ばれてからはほとんど顔を見せなくなった。
 好きな女をねとられて、おめおめいけるかよ、といつか理由を聞いた洋子に吐き捨ててから、洋子もあえて護王を呼ぶことはなくなった。
「やっぱりこれは……罰なのかねえ……」
 桜の姫たる勤めを忘れ、我が両親を思い我が身安泰を願ったために、こうして一人見捨てられて死んでいく定めなのだろうか。
(護王に一人で生きよと言ったから)
 洋子も一人で生きていくしかないのかもしれない。
(それでも私はここで終わり)
 護王はこの後もまた生きていくしかないのだ。
 ふいに視界を熱い涙が覆った。
(なんとつらい定めだろうね)
 洋子の前にも姫はいたと聞く。その姫が亡くなってから、あやのに花王紋があらわれるまで里には紋の娘が生まれず、護王は里長の家の奥まった一室で暮らしながら、二十年、あやのを待っていたという。
(こんなことなら、護王と一緒に生きてやればよかったのか)
 たとえ洋子は誰と結ばれることなくとも。
 両親は高明と結婚した矢先に悪い風邪が元で亡くなった。人の思いのなんと愚かなことか、洋子が高明を選んだ理由はそのときにもう半分になってしまった。
 過去を見返し悔やんだ矢先、からりと庭に面した障子が乱暴に開けられた。吹き込む春の風に乱された桜の花びらが、くるくると部屋の中に舞い込んでくる。
 障子を開けた人間は、その縁側に仁王立ちになり、じっと洋子を見下ろしている。
「もう…死ぬんか」
 この十年でさすがに低く変わった声がぶっきらぼうに言い放った。
「…護王」
「老いたな、あやの」
 幼いながらも里の守りとしての扱いは護王に年々威厳をもたせた。冷ややかに言い切る口調はとても見かけ通りの十やそこらの子どものものではない。
「……そうやな」
 洋子はそれでもほっとして思わず唇を綻ばせた。
 さすがに今度はだめかと思っている。もう持ちなおせない、そんな気配を体のそこここに感じ取っている。
 ならばこそ、恥も外聞も投げ捨てて、もう一度だけ護王に会いに来てほしいと頼んでいた。来るのを心待ちにしながらも、それでも来てはくれまいとも思っていた。
 洋子は護王の手を振り払った。自分の願いを貫いた。その結果のこの始末なら、もう受け取るしかないものだと覚悟していた。
 けれども、できればもう一度。
 死ぬ前に護王を見納めておきたかった。
「『かおうしづめ』までは……あかんやろ」
「あほやな」
 ぽつんと言った護王が障子を高い音を立てて閉め、洋子の枕元に膝を落として座った。
「そやから、俺とおればよかったんや」
 手を伸ばしてくる。それはまだやはり子どもの手なのだけど、一人前に男の形で顎を支え上げ、一瞬唇を寄せて洋子に口づけ、からかうように皮肉った。
「あんなやつ……おまえのことなんか何にもわからへんあほに」
「…ごめんなあ」
 さすがに唇が触れたのには驚いたけど、洋子は相手の子ども子どもした顔だちに不似合いな大人びた物言いに目を細めて笑った。
「あたしに見る目がなかったんやなぁ…」
「……あんなやつに……おまえを渡すんやなかった…」
 見返した護王が見る見る顔を強ばらせ、うめくように苦しげにつぶやいて、洋子は微笑を引っ込めた。
 洋子の顎から手を引いて、護王は両膝に握りこぶしを押しつけている。ゆっくりと膨れ上がってくる二粒の涙を、洋子は信じられない気持ちで見上げた。
「いや……俺があほや……俺があほやったんや……おまえがあいつに嫁いでも……おまえの顔を見にきたらよかったのに」 
 ぽたぽたと涙が滑らかな頬を伝って零れ落ちる。涙で濡れた声が熱い息にうめいている。
「こんなことになるまで……来ぉへんかった……俺が一番あほなんや…」
「護王」 
 洋子の口をそっと指で押さえて、護王は深い目で洋子を見下ろした。
「大丈夫や……次は間違えへん……離さへん……逃がさへん」
 潤んだ黒い瞳が洋子の目を覗き込む。
「何があっても……側から離れへん……嫌われても……いやがられても……」
「護王…」
 洋子がつぶやくと指にあたった吐息に微かに体を震わせて、護王は低く繰り返した。
「なあ……無理かもしれへん……そやけど…覚えててや」
「え…」
「俺は姫さんの護王や……どんな時代になっても……どんな世界になっても……俺はずっとあんたの護王や………もし」
 一瞬ためらった護王が、初めて見せる弱々しい笑みを浮かべた。
「あんたが俺を拒んだら……次は殺してでも手に入れるし」
「そんなこと…」
 そんなことはしなくていい、と洋子は笑い返そうとした。涙でぐしゃぐしゃになった顔で、殺すの何のと脅しににかかる、その可愛らしさが愛おしかった。
「護王……次はあたしが…」
「え?」
「あたしが…なあ…」
 あんたを守ってあげるからなあ。
「あやの?」
 そやから、もう泣かんとき。
「あやの!」
 もう自分を責めて苦しまんとき。
「あやの…!!!」
 洋子は目を閉じた。
「あやのーーーっ!」

「…めさん?」
 とんとん。
「姫さん」
 とんとん!
「姫さん!」
「ん…」
 洋子は瞬きして顔を上げた。
「姫さん! 入るで、ええか、ええな、入るしな!」
 切羽詰まった声がドアの向こうから響いて、ドアが弾かれたように開いた。ぐっと体を突っ込んだ相手が慌てて洋子の側に寄ってくる。
「大丈夫かっ?」
「あ…うん…」
 頭がくらくらしている。何だか夢が濃厚すぎて、夢に体を乗っ取られたみたいだ。体が幾重にも時空を越えて重なっているようで、身の置きどころがわからない。
「何度呼んでも返事ないし…うわ…髪の毛濡れたままやんか!」
「ああ…うん…あたたっ」
 側に放り出していたタオルでごしごしと乱暴に頭を擦られて、洋子は眉をしかめた。
「痛いよ…」
「風邪引くよりましやろ、何してんのや、こんなとこで……寝てたんか?」
「うん……眠るつもりなかったんだけど…」
 ふあ、とあくびが出た。
 まだまだ全然眠り足りない。頭の一部だけが起きているみたいで、目の前の護王に現実感がない。ふいふいと夢の中の十歳ぐらいの護王が重なり、なぜかもっと小さな顔も重なって、何重にも見えてくる。
 タオルをベッドに置きかけた護王がびくっとしたようにそれを振り放し、きつく唇を噛んだかと思うと、体を屈めていきなり洋子の体を抱き上げた。
「あ」
「こっちの部屋おいで。ここは冷えるし」
 深く抱き直される。そのまま護王の部屋に連れていかれるのかと怯えたのが顔に出たのだろう、一瞬苦しそうに固まった相手は静かに首を振った。
「大丈夫や……もう…何もせえへん」
 わずかに声が震えたように聞こえた。だがすぐに、何ごともなかったように護王は洋子を軽々と運び、居間のソファにそっと座らせた。体の左右にクッションを寄せてくれる。裸足にスリッパをはかせてくれる。どこから出してきたのか、温かそうな格子柄の膝掛けまでかけて、洋子の体を覆った。
「ここ、ソファベッドになるし、後で布団も持ってきたるし、今夜はここで眠り」
 言いながらてきぱきと周囲を整えていくのをぼうっと見ていると、護王はいつの間に用意していたのか、次は湯気のたつ卵おじやをテーブルに運んできた。
「お腹減ったやろ?」
「おいしそ……」
 柔らかで温かな出汁の香りが鼻をくすぐって、洋子は思わず唾を呑んだ。胃のあたりがやんわりと内側に落ち込んで、自分が空腹なのだとようやく気づく。
「食べられるか…?」
「うん」
 心配そうな声になぜそんなことを聞かれるのだろうと相手を見返すと、護王はスプーンを洋子に渡してくれながら微妙にひきつった顔になった。
「あのな……そんな顔して見られると」
「?」
 うっすらと赤くなって、護王は居心地悪そうに洋子から目を逸らせた。それでもついつい、と言った感じで洋子の首の付け根あたりを横目で見る。
「そんなに……した覚えないけど……ついてる、もんやねんなあ…」
「は?」
「そやから……な…?」
 ふう、と熱っぽい息をついて、天井付近へ視線を泳がせる。横顔からいつものきつい線が消えていて、どこか溶けいるような甘い表情、何を思い出したのか、こふ、と妙な咳をして身じろぐ。
「なんか…また…やばいし」
「…?」
 あいかわらずぼうっとしている洋子に、これみよがしに深く大きな息をついて、思い直したようにこちらを振り返る。
「……わかってへんのか…?」
「??」
「そやから……体が辛いかな…思て…」
「……ああ……」
「うん…その、ああ、や」
「うん…」
 洋子はうつむいた。気遣ってくれて嬉しいと一瞬無意識にほころびかけた口元を急いで引き締める。
(違う、違う、勘違い、するな)
「大丈夫」
(これは、私にじゃ、ない)
 そうだ、これは好意ではなくて、まあ言えば責任感の発露、みたいなものだ。
 それでも落ちたい、とふと思ってしまう。
 罠だとわかってても、死んでもいいから、落ちてみたい。
(でも)
 目を閉じる。あやこの泣き顔を思い出す。
(日高を放っておくわけにはいかない、よね?)
 頬が緊張するのがわかる。
「おいしそうだね」
 目を開き、心配そうに覗き込む護王にそっとつぶやいた。
「ほな、食べて? うまいと思うで」
 護王はほっとしたように笑った。
「これは自信あるし」
「ふうん? あ…ほんとだ…おいしい」
 一掬いしたおじやを息を吹きかけて口に運び、洋子は今度は止められずに微笑んだ。うっすらと甘い。出汁と醤油のせいで卵がほんのり甘味を帯びて感じるのだ。
 口に含んだ味に、ふいと真っ暗な闇の中で泣きながら握り飯を食べているような、そんな気持ちになって、洋子は瞬きした。視界が見る間に滲んで、止める間もなく涙が器に零れ落ちる。
「姫…さん…」
 茫然としたような声で護王がつぶやいた。
「ご…めん…」
 洋子は謝った。なぜ急に泣き出してしまったのか、自分でもよくわからない。
「ごめん?」
 護王が険しい顔になる。
「ごめん、て何が?」
「なんか……ちょっと……」
 へへ、と笑ってみせたが、涙が止まらない。
「なんか……ひどく…おいしくて…」
(どうして、こうなるのか)
 ふいにその気持ちがあふれて、ことばを奪った。
(どうして、いつも、こうなってしまうのか)
 卵おじやは温かい。甘くておいしい。履かされたスリッパも、寄せられたクッションも、抱きかかえて運んでもらったことも、みんな温かくて嬉しい。
 けれど、それは。
(私のものじゃない)
 思い出したのは学校帰りの光景だ。
 家に帰るんだ、しっかりしなきゃ、と言い聞かせて、またあやこが泣いてないかと急ぎ足になっていたら角で人にぶつかりそうになった。近所に住む片岡さんで、家族でこれから夕食を食べにでかけると言う。作るの面倒になったからと笑う奥さんと、甘やかしてばっかりだと肩を竦めるご主人と、いーじゃん、食いにいこうよ、なあ、とその両親の手を引っ張る同級生と弟。いってらっしゃい、と手を振った。葛城さんのところもよく出かけるものね、いいわね、仲のいい家族で、と奥さんに微笑まれた瞬間に突き落とされた気がした。
 出かける? 出かけてなんかいない。ただ、誰も家には居なくて。私とあやこしかいなくて、家に何もなくて、電気もついてない、だから、留守に見えるだけだよ。
 そう言ってしまいたい気持ちが滲んでいたのだろうか。
 しばらくしてから、一緒にご飯を食べにいかないかと誘われた。あやこちゃんと洋子ちゃん、お二人誘っていいですかってお尋ねしたら、喜びますって言われてたから。そう笑いかけられて、同じように笑い返しながら答えた、ありがとうございます、でも、家のご飯はおいしいから、また今度誘って下さいね。
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 だから、安心して。私はあなたからそれを奪わない。だって、それは。
 去っていく、手を繋ぎあい笑い合う家族の光景。
 零れ落ち溢れ出し、他者にも分け与えられるほどの、豊かで満ち足りた光。
 胸の中で繰り返していた、それは違う。それは、私のものじゃない。
 どれほど温かくて、嬉しくて、楽しくて、どれほどそれが欲しくても、望んじゃいけない、それは洋子のものじゃない。
 小さなあやこの手を握り、見送って静かに目を閉じた。
 あの時すがりついていれば、あやこは死ななかったのだろうか。
「スプーン、貸し」
「え?」
「ほら」
 突然、護王がきつい声で言って、洋子は記憶の中から引き戻される。差し出された手に硬直した。
 今度、脳裏を掠めたのは、おいしいと言った矢先に取り上げられたお菓子の包みだった。
 何にそれほど苛立ったのだろう、剣幕に驚いて洋子が手放した隙に取り上げたそれを、親はあっさりゴミ箱に投げ入れた。人様からやたらとものをもらうんじゃありません。そんなの意地汚くて卑しいことだから。何でもすぐに人にもらって。嬉しそうにへらへら笑ってるんじゃありません。誰が何を企んでるか、わかったもんじゃないのに、そういうこともわからないの、あんたはホントにバカな子だ。
(どうして…こんなことばっかり…思い出す…?)
 見えないパンドラの箱でも開けてしまったのだろうか。
 洋子からスプーンを受け取ることに揺るぎもなく、差し出し続けられる手を見つめる。
 体の内側も外側もささくれだって敏感になり、傷みの感覚の記憶だけが次々と洋子を責める、選び出しでもしたように。
 今ここで全ての決着をつけるかのように。
「う…ん…」
 ごめん、ともう一度謝ろうかと思った。
 ごめんなさい、何が悪かったのかわからないけど、とにかく、ごめんなさい。とてもおいしかったから、できれば最後まで食べたいんだけど。できたら後一口でいいから、食べたいんだけど。
 それはどこかでこう聞こえた。
 ごめんなさい。あなたがひどく優しくて、なんだかここはずいぶんと気持ちがいいから、できればずっと一緒にいたいんだけど。できたら、もう少しだけでも一緒にいたいんだけど。
 わがままだ。わがままに決まっている。他の人のものだとわかっているのに望む、この気持ちがわがまま以外の何があるのか。
 一緒にいる必要などない。護王は姫さんの護王だから。洋子のためではなく綾香のために時を越えて生きてきたのだから。
 でも、どうかこの一瞬だけでも、側に居たい。
 イジキタナイ、イヤシイコ。
 声にならずにまた涙が溢れた。そろそろとスプーンを護王に返す。
 命綱を手放すのだとわかっていた。
 ご飯の誘いを断ったように。
 それでも、洋子か相手かどちらか一人ならば、奪うわけにはいかない。
(間違ってた…)
 胸が詰まる。殺してとは望まない。それがどれほど酷いことかはよくわかっているから。誰かの命をその人の気持ちを全うさせるために断つことは、気持ちを寄せていなくても心に大きな傷をつける。
 それならきっと。
(生きてること自体が、間違ってた)
 生まれたこと自体から間違っていた、そういうことなのだ。
 死なないで、死なないでと患者に呼び掛けた。それはたぶん、自分がどこかで死にそうな気がして、けれど、死にたくなかったから呼び掛けたのだ。
 護王の作ってくれたおじやは、思い遣りに満ちていて、洋子の胸に同じ祈りを届けてくる。
 死ぬな、死ぬな、生きていろ、こうして大事にしてやるからな、と。
 けれど、生きてることが間違っていたと思ってしまったとき、死ぬなと望まれることがこれほどつらいとは思わなかった。
(どうしてこうなる…? どうしたら生きていける?)
 涙は止まらない。ベッドの中でとっくに流し切ったと思っていたのに。押さえるために、拭うために手を上げるのさえけだるくて、洋子はひたすらうつむいた。
 このまま涙に溶けて消えていってしまいたかった。
「姫さん」
「はい…」
「ほら、口開けて」
「え…?」
 てっきり持ち去られると思っていたおじやを護王がしごく生真面目な顔で掬い上げて差し出し、洋子はぽかんとして顔を上げた。相手の意図をはかりかねて瞬きする。
「ほら、あーん」
 あーん、と護王は口を開けてみせた。まるで幼児に向かってするような仕草だ。あまりの真剣さについ口を開くと、
「もっと大きい口開けんと、入らへんで、ほら、あああん」
 仕方なしに口を開くと、ゆっくりとスプーンを差し込まれる。適度に冷えたおじやを含まされ、じっと見つめられて仕方なしに口を閉じ、もぐもぐ、と洋子は口を動かした。こくん、と呑み下す。
「ほい、あーん」
 護王は何を考えているのか、また次の一掬いを吹きさまして、洋子に突き出してくる。
「……自分で…食べられるよ?」
「そやかて」
 また微かに護王は顔を赤らめた。
「そんなに泣くぐらい……その……痛いんかと…」
「あ…」
「そやったら……俺が面倒見るのは当然やし…何なら明日かて、日延べして一日寝ててもええし」
「ああ……」
 とんでもない勘違い、けれど、その一所懸命さがまたしみじみと胸に響いて、洋子は小さく笑った。
(泣いてちゃ、いけないんだ)
 少なくとも、護王は洋子が消えるのを望んではいない。死ぬのもきっと望んでいない。
 大事な愛しい人が側にいろとは言わないけれど、生きていてくれよと望むなら、たぶんそれを拒んじゃいけない。
 それは今の洋子にはつらいけど。身を切られるよりもつらいけど。
 両手の甲で涙を拭った。
 洋子の涙が護王の不安を煽るなら、せめてそれだけでも取り去ろう。
「うん…ありがと……大丈夫だから」
「ほんまに?」
「うん、ほんまに」
 護王の口調をまねして答えて微笑すると、いきなり相手は真っ赤になった。
「そやから!」
「え?」
「もう……頼むし、やめてえな、そういう顔」
「は?」
「俺の自制心……試す気ちゃうやろな」
「自制心?」
「ああ……もう、ええわ、わかった、ほな、自分で食べて、俺は村上に電話入れるし」
 護王が放り出すようにスプーンを渡して立ち上がり、洋子は慌ててそれを受け取った。
(よかった、もっと食べられる)
 無意識にほころんだ顔でおじやを一口くわえたとたん、護王のことばに気づく。
「え…村上さん…?」
「しっ…ああ、もしもし、谷崎署の村上刑事、お願いします。大鷹です」
 護王は受話器を持ったまま、くる、と向こうを向いた。
「葛城洋子の保護者って言ってもらえばわかります」
「ほごしゃ…ぁ?」
「黙っとれ、電話中や」
 呆気にとられた洋子の声を護王は向こうを向いたまま制した。
「ああ…俺、大鷹です。明日桜里へ発ちます」
 相手が出たらしく、護王の声が冷ややかになる。だが、続いたことばを聞いて、洋子は今度こそ、呑み込みかけたおじやが詰まるほど驚いた。
「日高のことは知ってます。俺も同行しますから、時間合わせましょう」
「ご…」
 ちら、と洋子を振り返った護王の瞳が暗く妖しい光を放っている。
「ええ……向こうでも捜査に協力しますよ、いろいろと…日高には俺も言いたいことがありますから」
 掠れた声が低く笑った。
 
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