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9.蒼(1)
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その視線をいつも感じていたように思う。
「葛城少尉、お願いします」
呼ばれて、葛城は仰いでいた目にしみるほど鮮やかな夏の空から目を戻した。飛行服の首元の羽二重のマフラーを直しながら、呼び掛けた相手に向きを変えると、視界の端にやはり自分を凝視している目を感じて、ちらりと横目をつかう。
のんびりとした田舎の光景、設備も不十分だがそれほど荒れた気配ではないところから選ばれた飛行場には緑と青の反射の中でゼロが翼を休めている。その近くに佇む和服の妻の背後にひっそりと隠れるようにして立っていた少年が、はっとしたように目を逸らせるのが映った。
(やはりか)
少年の名前は大鷹省吾、という。妻の遠い親戚の子どもとかで、どこか神経質そうな細い面だちに真っ黒で濡れたような目をしている。子どもとはいえ、そう年齢が違うわけでもない、後五年もすれば、立派に軍人として国のお役に立ってくれるだろう。今は桜里とかいう山奥の小さな里に住んでいるそうだが、近々都会にでてきて進学予定とのことで、しおりが何かと面倒を見ているようだ。自分との間に子どもに恵まれなかったというのも関係しているのかもしれない。
「よろしいですか、では、あちらの山のあたりを見て下さいますように…はい…結構です」
軍から依頼された写真屋はさっきからあれやこれやと姿形にこだわっている。まあ、わからないでもない、と苦笑しながら、再び遠く豊かな緑の稜線をみやった。
ここで撮られた葛城の写真は国民の戦意高揚のために、また軍が将来性豊かな素晴らしい職業であることを印象づけるために使われる。映っている男が疲弊し、倦んだ顔をしていては話にならない。訓練と作戦会議の合間を縫って、わざわざこんな戦地とは関わりのないような穏やかな場所で宣伝用の写真を撮る時間を与えられたのもわかるが…。
(戦況は伝えられている程、かんばしくはない、ということか)
憂いを空の彼方の仲間に向けて見上げてしまう。
今こうしている最中にも何機ものゼロが黒煙と炎の中を飛んでいることだろう。それと対照的な、この見事に穏やかに晴れた、本土の夏の日。
「はい……では、本日の撮影は一通り済みましたが……」
写真屋は問いかけるように葛城を見上げた。小柄な背中をなお丸めるようにして、
「大塚中尉からも伺っております、御家族とのお写真を撮られるそうで」
「ああ…」
葛城は眉をひそめた。
「そうか」
大塚中尉はこの後の葛城の任務について熟知している一人だ。それが内密に行なわれるものであることも、葛城の容貌を生かしてのことであるがゆえに代替えがきかないことも、生きて帰れる可能性がほとんどないことも。
「わかった……甘えさせてもらおう」
「はい」
写真屋はほっとした顔で笑った。おそらくは、その笑みがこの写真撮影後は地獄への片道切符だと知るだろうが、それもまた時局の流れ、巨大な歴史の渦の中では人一人の命など紙切れ同然ということなのだろう。
「あなた…終わったのですか?」
「ああ。最後に写真を撮ってくれるそうだ……こちらへ来なさい」
「え……でも…」
しおりは怯んだ顔になった。敏感な女だから、いつもと違う状況に不安を感じたのだろう。
「ゼロがありますのよ」
しおりは他の女と違い、ゼロを名前で呼ぶ。賢くてしかも大人しい妻だ。しおりに子どもを残してやれないのが本当に残念だとしみじみと思った。子どもが残っていれば、この後崩れ落ちていくような時代をそれなりに強く生き残ってくれるだろうに。
「大丈夫だ、大塚中尉から許可を頂いている」
「そう…ですか…?」
しおりは小首を傾げたが、気持ちを取り直したらしく、後ろを振り返り、
「省吾さんは…?」
「省吾君」
びく、と相手はしおりより数段怯えた顔で葛城を見た。黒い短い髪が額に垂れている顔は端麗といっていいほどの美貌だ。表情が少ないのはその自分の容貌を意識しての警戒からくるのかもしれない。事実、よからぬからかいを冷然とやり過ごしながら、ひそかにきつい目で相手を睨みつけている場に何度も出くわしている。本来の気性は激しく荒いに違いない。
「君も来たまえ」
「僕も、ですか」
「嫌かい?」
「いえ」
淡々とした声で応じて、相手は細身の身体を影が滑ってくるように運んできた。しおりの背後に付き従う姿は何か守りを主とする忍びを思わせる。
「では、頼もう」
ゼロの前に並んで写真屋を振り向くと、さすがに相手もその意味に気づいたのだろう、顔を白く引き締めた。
「ここで…よろしいのですか?」
「どこででもよい、と聞いていなかったのか?」
「聞いておりますが」
写真屋は渇いた唇をなめた。
「……わかりました……」
深々と頭を下げる。しおりが葛城の隣に、そして、その向こうに少年が並んで、写真屋はカメラのレンズを向けて震える声でつぶやいた。
「よろしいですか……よろしいですね……では、撮らせて頂きます」
日射しにシャッターの音がいやに大きく響いた。
「……ここにおられたんですか」
夜の大気にまぎれるように近づいてきた影が消え去りそうな声でつぶやいて、葛城は振り向いた。
「省吾君」
川面に涼しい風が渡っている。岸辺の草は蒸せ返るような濃厚な気をまだ放っている。その中に一人ぼんやりと座っていたのを、いったいどうやって見つけたのか。
「なかなか……帰ってこられないので」
「…しおりは?」
「眠っておいでです」
「そうか」
「はい」
ためらう声で応じて、やがて心を決めたように相手はそっと葛城の隣に腰を降ろした。何かを言いたげにこちらを見やる視線、振り返るといつも逸らされて決して絡むことはない。だが、今ゆっくりと転じた視界の中、温気に霞む月光の下で、相手は珍しく視線を逃がさなかった。そればかりか挑むようにこちらを睨みつけてきながら、
「明日から戦地へ行かれるそうですね」
「…しおりに聞いたのか?」
わざと眉を上げておどけて見せたが通じない。相手はきつい表情のままで唇を噛み締めると、一息に続けた。
「軍務だと理解はしております。けれど、葛城少尉が戦地にて行方不明となり、そのまま失踪するという筋書きは僕の好むところではありません」
「!」
ぎょっとして思わず相手を見ると、表情の読めない黒い目がまっすぐにこちらを見返してきた。
「しかも」
低く尖った声で言い募る。
「葛城少尉がその後敵国に寝返る、などということは、たとえ風聞であったにせよ」
「……誰に聞いた」
こちらの声に籠った殺気に相手は怯みもしなかった。嘲りさえ浮かべて言い返す。
「僕は見かけ通りの人間ではありませんので」
「……中野か?」
ひやりとしたものを感じて問いかける。確かに年齢的には若すぎるが、中野ならあり得ないこともないだろう。むしろ、相手の容貌の華麗さも幼さも利用できる要素に過ぎないのかもしれない。
「繋ぎはありますが……別ものです」
相手が平然と言い放って葛城はことばを失った。こんな間近に日本軍部の懐刀がうろうろしているとは思わなかった。
「……ひょっとして、大塚中尉に圧力をかけたのは君か」
いくら温情派とはいえ、ゼロの前でそれも家族写真を撮っていいなどと言い出すなど、憐憫にしてもおかしすぎるとは思っていた。
「側に来たのは……見張りなのか、逃げないように?」
それなら話がわかる。
「違います」
初めて相手の瞳が揺れた。
「僕は今回の件を止めさせたかった。葛城少尉の名前を利用し、国民の羨望対象が敵国に拉致されて寝返ったということで敵意を煽るなどという愚劣な作戦など。しかもあなたはその後も国のために働き続ける……二重スパイとして…っ」
悔しげに吐き捨てた声に葛城は苦笑した。
「君はえらく俺を買ってくれてるんだな」
「当たり前でしょう…僕は…」
苦しそうに相手は目を逸らせた。
「……護王、だから?」
「!」
跳ね上がるほどに体を震わせて相手は葛城を振り向いた。驚きに見張った瞳が不安気に彷徨って葛城を凝視する。
「なん……て…」
「俺の胸にあるよ、花王紋」
笑ってやると、相手は真っ白になった顔で呆然としてしまった。状況の理解に頭も心もついていかない、そんな表情で葛城を見つめている。
「君は護王だろ? 花王紋を持つ人間を守るためにずっとずっと生きている。俺は詳しくは覚えてないけど、俺と君は何度も出逢っている…運命の相手として。そうだよな?」
「う…」
「信じられない? ほら」
葛城は浴衣の胸元を寛げた。左胸、鎖骨の少し下に桜の図柄に見える赤い痣がある。
「これだろ?」
「く…」
「!」
相手の中でぷつん、と何かが弾けたような気配があって、葛城はいきなり飛びかかられて押し倒された。一瞬首を締められるのかと思ったが、すがりつかれて叫ばれる、悲鳴のような声に抵抗を止める。
「わかって……わかっていて……どうして…どうしてっ……っ!」
「すまん」
熱い吐息が忙しく叩きつけられる胸元の頭を、そっと押さえつける。強ばって動きを止めた相手に静かに、
「俺……ちょっと変わってて、結構おかしな記憶を持ってるんだよ」
「え…?」
護王は顔を上げた。いつもの冷淡な表情はどこへやら、紅潮し泣き出しそうに歪んだ顔が葛城を食い入るように見つめるのに、もう一度苦笑いする。
「転生の記憶というのか…? 生まれ変わってきた、というやつだな。だから、君がずっと生きていて、花王紋の人間の側に寄り添ってきたことも知っている。うーん。厳密に言うと、感じている、と言うべきかもしれないな。だから、君が妻の親戚だと言ってやってきたときは驚いたよ、記憶の中の姿とほとんど変わってないんだな、実際」
「十年に……一度しか……歳…取らないから……」
ゆらゆらと揺れた目が潤んで零れ落ちた涙がぽたりと胸に落ちてきた。
「やっと……探し当てたら……あんたは……男で……奥さんまでいて……」
零れ続ける涙が次々と胸を濡らす。花王紋も浸されてじんわりと柔らかな熱を帯びていく。
「俺は……どうしたらいいのか……わかんなくて……」
「だから、一緒にいた?」
葛城の声に護王は震えながらうなずいた。
「前に約束したんや……次は……離れへん……放さへんて……そやけど……あんたは…幸せそうやった…俺と……俺とおらんでも……幸せそうやった……なら……俺は……? 俺は……どうしたらええ…っ…?」
わあああっ、と泣き出して突っ伏してくる、その体を抱きとめながら、葛城は溜息をついた。
「そうだな……どうしたらいいんだろうなあ」
護王の存在に気づいてからずっと、絡みつくような視線の意味はわかりすぎるほどわかっていた。振り返れば逸らさざるを得ない気持ちの惑いも、そして再び葛城を追い掛けてくる視線の願いも、それこそ十分、痛いほどに。
「なっ……何度も……思った……攫ってやろうて……俺が……本当の相手や……俺が…そやから…あんたを攫って……そやけど……」
身もがくように悶えながら護王はうめいた。
「そやけど……あんたが……あの人を大事にしてるの……わかったし……それはもう……うんとわかったし……そやから……」
できひんかった、と最後は吐息のようにささやいて泣きじゃくる護王に、葛城は無言で寝そべったまま空を見上げた。
紺青の空。無数の星々。
誰かがどこかで人の運命を時間に折り込み、出会いをずらせ、別れを約束しているのだろうか。繰り返し生まれては死ぬ、その営みに神々は何を求められておられるのか。
「……ごめん……」
どれほどそうやって抱きとめていたのか、背中からひんやりとした湿り気が体にしみ渡ってくる感覚に意識を戻してくると、ごそ、と護王が体を離した。
「……こんなこと……言うても……しかたないこと……わかってんねんけど…」
葛城の上でまだ零れ続ける涙を両手の甲で必死に拭き取る護王の顔に、遥か昔、桜の根元で膝を抱えていた小さな男の子の姿が重なる。葛城は微笑んだ。
「なあ、護王」
「……っん?」
くすん、と真っ赤になった鼻を鳴らして見返す顔に笑みを深める。
「俺は知ってるから、約束してやろう」
「な…なにを?」
伸ばした手で頬を濡らしている涙を拭ってやる。
「次に生まれてきたときは、君と会うまで一人でいるよ」
「…え…?」
「君と出逢うまで、誰にも気持ちも預けないで一人でいよう。だから、できるかぎり早く探し出してくれ、いいな?」
「あ…」
不安と哀しみに白くなっていた護王の顔がみるみる薄赤く染まっていく。
「君が一人で過ごした時間を、次には俺が支払ってやる……だから、もう泣くな」
「お…俺…」
潤んだ瞳をなお滲ませて新たな涙が零れ落ちてきた。
「大丈夫だ、君は十年が一年だろう? すぐに会えるさ……少なくとも、俺はそう長くは生きない」
「っ」
葛城が何気なく付け加えたことばに護王は色を失った。
「…だからっ…」
「うん?」
「だから、こんな計画、俺は潰してやるつもりでっ!」
ああ、それで、と納得した。時を重ねて身に付けた才能と美貌で、軍部の中へ入り込んだ理由はそこにあったのか。永遠の命を持つのだから、もっとましなことに使えばいいものを、こんな男一人救おうと孤軍奮闘してきたのか。
胸に広がる愛おしさは恋情とは違う、だが愛情よりも切なかった。小さく息を吐き、ことばを紡ぐ。
「だが、そうすることで」
葛城の声に護王は口を閉じた。くしゃくしゃの泣き顔にそっと微笑みかける。
「俺はこの国の安全を守れる。しおりが居て、君が居るこの国を。君の命を守れる……次に出逢うときまで、な」
「あんたは……」
笑い返そうとした護王の意図は失敗した。ひきつった微笑を裏切って必死に堪えようとした涙が数を増して振り落ちてくる。
「あんたは……ずるい…」
「昔からよく言われる」
「気持ちを攫ったまま…いくんか…」
「そうだな」
「俺を……残して」
「そうなる」
「嫌わせてくれたら……ええのに」
「嫌ってくれてかまわないよ」
「…あほ…っ!」
ふっと護王は顔を葛城の胸元に落とした。花王紋に散った自分の涙を吸い取り噛みつくように唇をあて、視線を上げぬまま低い声でつぶやく。
「俺は……あんたのもんや」
命の限り捧げられた誓い。
「……あんたに従う……未来永劫……あんただけに」
なのに、こんなことを言う馬鹿が居る。
「…しおりを頼むな」
「…うん…」
嵐の到来を告げるように、風が強まる川面に銀の波が散り広がっていった。
風がまつげを掠めていって、洋子は目を開いた。
ぼんやりと正面を見ると、なぜか斜めになった視界に一つの顔が浮かび上がる。
削げた頬の白い顔。能面を思わせる表情のなさ、けれど整いすぎるほど整った顔だちに黒々と底なしの闇を思わせる瞳が開いて、じっと洋子を見つめている。
その視線を、よく知っているような気がした。いつもその目で心の奥底を見つめられていたような気がした。
長い、長い時間。
(護王)
瞬いて目を開けると、相手はふいに顔を逸らせた。何かとても気になるものがあると言った様子で窓の方へ顔を向ける。眉を寄せ、不愉快そうに一文字に引き締めた唇が、それだけでは足りないように噛みしめられるのが見えた。無意識に追い掛けて目をやり、電車の窓の外、流れていく景色の鮮やかさに目を細めると、鼻先に甘い花の香りがした。
「目が覚めましたか?」
「!」
柔らかな声で囁かれてぎょっとして跳ね起きると、が、と妙な声が頭上で響いた。
「んー…」
振仰ぐと、半分仰け反った村上が顎のあたりを押さえて唸っている。
「あっ…ごめん、なさい?」
「ええ…大丈夫……ですよ…」
苦笑いしながら村上が顎を摩った。
「よく眠っておられましたね?」
「あ、ああ、ごめんなさい、肩、かりてたんですね」
「ずいぶん疲れておられたようだから……」
「すみません」
洋子は慌てて座席に座り直して、頭を下げた。また、ふわ、と甘い匂いがして瞬きし、顔をあげる。
「?」
「何ですか?」
「村上さん……香水つけておられます?」
「ああ…少しね…気になりますか?」
淡いベージュの春物タートルネックに白いパンツ、どう見ても刑事というよりは男性ファッション誌のグラビアモデルといった出で立ちの村上は、くすりと笑って眼鏡を押し上げた。
「いえ……フローラル系って……珍しいですよね?」
「まあね……不愉快ですか?」
「いえ、お似合いですけど」
素直に答えると一瞬相手は目を丸くした。続いて小さく吹き出し、失礼、と目を細めながら付け加えた。
「あなたは面白い人ですね」
「そう……ですか?」
「ええ。とても魅力的だと思います」
「…は…?」
「何かあったのかな? ずいぶんきれいになられましたね」
「え…あ…」
ぬけぬけと言いながら、ちらりと村上が護王の方に視線を流して、洋子はうろたえた。
「いえ…あの…」
「何の話や」
地獄の門番もかくやと言わんばかりの殺気立った声で護王がつぶやき、立ち上がる。
「乗り換えやぞ」
「あ、うん…ありがと」
荷物を降ろしてくれたのに礼を言ったが、むっつりとした護王は答えない。電車が止まるのを待たずに出口へ移動を始める。それを追い掛けて歩き出そうとしたところで、駅に入ったせいか車両が大きく揺れ、まだ感覚がどこか半端であやうく転びそうになった。それと察したのか予想していたのか、如才なく村上が腕を掴んで支えてくれる。
「すみません」
「大丈夫ですよ。さ、行きましょう」
先にホームへ降り立っていた護王が冷ややかな視線でこちらをねめつけているのに、急いで足を運ぶ。
◆ 『かおうしづめ』が近いせいなのか、ホームには思った以上に人が多く降りた。村上が周囲に鋭い視線を走らせている。
「日高はまだ現れていないようですね」
「あ、そうだ」
洋子は上着のポケットを探った。今日は珍しく紺色のロングスカートで羽織ったカーディガンに携帯を入れていたのだ。
「これ、お返ししますね」
ちょっと落としてしまって傷ついたんですけど、と言い訳をすると、村上は妙な表情で一瞬動きを止めた。それから、さりげなく洋子のポケットにそれを押し戻しながら、
「少し持っておいてもらえませんか?」
「どうしてですか?」
「え……まあ…」
尋ねられて自分でもなぜか困ってしまった、そんな顔で村上は洋子を見返した。
「持っておいてもらえるといいな、と」
「でも、もうこうして一緒にいるんですから要らないですよね?」
「一緒にいる、ならばね」
奥歯にものの挾まったような口調で応じて、前方を見つめる。村上の視線の先を追って、二人のやりとりを凝視している護王の姿を見つける。
「向こうについたら」
声に振り向く。
「離れてしまいますから」
その護王をなぜか同じように見つめ返したままで、村上はつぶやくように続けた。
「僕が側にいるのは気に入らないようだ」
「何しとんねん」
村上のことばを裏付けるように、苛々と護王が呼び掛けてきた。
「こっちや」
「わかりました。…さ、しまって」
「あ…はい」
受け取るつもりがない村上に、洋子は仕方なしにポケットに携帯を入れた。足を速めて護王の側に近づくと、
「この階段降りて、向こうのホームから桜里までのやつに乗り換えるし」
「うん、わかった」
「次の時間まで少しありますね」
村上が時刻表を確認してつぶやく。
「先に行ってて下さい、ちょっと連絡を取ってから行きます」
「ほーう、俺らに聞かれたらまずいんか」
「護王」
嫌味たっぷりに護王が応じて洋子はぎょっとした。自分から村上と一緒に行くと言い出したのに、朝待ち合わせてから列車を乗り継ぐ間もとにかく不機嫌で、村上に対する警戒を隠そうともしていない。
「ええ、そうですよ」
村上は平然と応じてにっこり笑った。
「いろいろとまずいんです、すいませんね」
「日高が来たら、どないする気や」
「そのときは君がいるでしょう。心配はしていませんよ」
たじろぎもせすに言い返して、村上はさっさと側を離れていく。ホームの端まで行くと、すぐに取り出した携帯で話し始める。
「ちっ」
舌打ちして護王が身を翻した。慌てて追いついた洋子に、階段を降りながらなお足を速め、
「腹立つ奴やな」
「けど……」
唇を尖らせてぷんぷんしている護王が妙に可愛らしくて、洋子は思わず微笑んだ。
「悪い人じゃないと思う」
「そら……そやろな、あんたにとってはな」
地下通路でぴたりと立ち止まる護王に思わず足を止めると、相手は冷ややかな目で洋子を睨みつけている。周囲をざわざわと人が流れていくのもお構いなしで、
「気持ちよさそうに、あいつの肩なんかで寝るんやからな」
不機嫌な顔で文句を言った。
「だって……」
洋子は顔が熱くなった。
「寝るつもり、なかったんだけど」
列車は向い合せの座席で、なぜか護王は洋子の隣に座りたがらなかった。洋子の正面に座ると言って聞かず、しかも村上と同席は嫌だと言い張ったので、仕方なしに洋子は村上と座ることにしたのに。
夕べはおじやを食べて、それでもちゃんと眠ったはずだった。けれど、最近眠りが妙な感じで、眠っても眠っても、まるでどこか違う時空を旅しているかのように疲労していて、またすぐに眠くなる。
(さっきもそうだ)
揺れる列車、穏やかな春の日射し、単調なリズムと静かな人の気配、それらが次々と意識の端を切り崩していって、いつの間にかぐっすりと眠ってしまっていたらしい。いつから村上の肩を借りていたのかさえ覚えていない。
「揺れても全然起きへん。あいつが…頭触っても起きへんし」
「頭?」
「ずれかけたんや。で、あいつが頭支えて直しよったん」
きりきりした声で答えて護王は眉をしかめた。
「誰でもええんか、あんたは」
「だって…!」
誰でもいい、などと言われて思わず洋子はむかっとした。
「だいたい、護王は私の隣が嫌だって言うから」
朝一番に拒まれたときの気持ちを思い出して胸が詰まった。
(ああ、そこは、綾香の席、ってことなんだ)
そう感じて、それ以上はもう望めなかった。自分は身代わりでしかない。本物の姫さんが現れるまでの場繋ぎだ。夕べの思いが胸を塞いで滲みかけた涙をこらえるのがようようだった。
「あたりまえやろ」
(やっぱり)
護王が険しい口調で吐き捨てて、気持ちが凍った。
(やっぱり、私じゃない)
だが。
「村上をあんたの前に座らせられるか?」
「…え?」
思わぬことばが続いて瞬きする。
「ほんまに……あんたを見たとたんにおかしな目つきするような男に、あんたの前に……なんで、今日はスカートなんや!」
口に出してしまったことで何かが外れたのか、護王は神経質な声で苛々と続けた。
「気づいてへんのか? あいつがあんたをどんな目で見とるか。……襲われたらどうする気なんや!」
「ご…護王?」
「あー、また、そんな顔するし!」
周囲の人込みはほとんどがホームへ上がってしまったようだ。人影のなくなった地下通路に素早い一瞥を走らせて、護王は手にした荷物を落とした。呆気に取られている洋子に近づき、風が舞うように壁際に押しつけるや否や、ひた、と体を寄せてきた。
「なあ…頼むし…自覚して…?」
唇を洋子のそれに触れんばかりの位置で囁いてくる。吐息が口元に触れて熱い。
「そんな顔して他のやつ見んとって……? 姫さん…俺のもんやろ…? 俺のもんになってくれたんやろ?」
揺らめくような瞳で覗き込まれて心臓が跳ねた。それを十分意識しているように、わずかにまぶたを伏せて護王が甘い声を耳もとに注ぎ込んでくる。
「なんで急に……そんなにきれいになったん……?」
頬から髪へ額へ、そして再び頬に唇を触れてきながら柔らかな声がじれったそうに掠れる。
「…他のやつが…見よるやんか?」
「そ…」
そんなこと知らないよ、そう言いかけた口が当然のようにゆっくりと塞がれた。それから、すぐに離されて、その代わりに強くきつく抱き込まれた。
「どうしよ……連れていきとぅない……他のやつに…あんたを見せとぅない……なあ…このままどっかいこ…?」
「ど…か…って…」
ふいに洋子のカーディガンのポケットで音が流れ出した。
「!」
びくっとした護王が表情を凍らせて、すぐに洋子のカーディガンのポケットに手を突っ込み、携帯を出す。
「電車が来る時間だけど」
携帯と同時に地下通路の端から声が響いた。
「ぼちぼち僕もそちらへ行きたいな」
振り返った洋子の目に通路に通じる階段を降りたあたりで、背中を向けて手前の壁にもたれているシルエットが映る。護王が目を据わらせて携帯を閉じ異常に静かな動作で洋子のポケットに戻した。そのまま無言で洋子を離し、荷物を拾い上げてぼそりとつぶやく。
「くそがきぃ…」
いきなり、ぎら、と目を光らせて振り返った護王は険しい声を張り上げた。
「はよ、来んかい!」
「電車の本数が少ないらしい。乗り過ごしたくはないからね」
ひやひやする洋子と激怒寸前の護王に村上がしらっとした笑顔で寄ってきた。
「葛城少尉、お願いします」
呼ばれて、葛城は仰いでいた目にしみるほど鮮やかな夏の空から目を戻した。飛行服の首元の羽二重のマフラーを直しながら、呼び掛けた相手に向きを変えると、視界の端にやはり自分を凝視している目を感じて、ちらりと横目をつかう。
のんびりとした田舎の光景、設備も不十分だがそれほど荒れた気配ではないところから選ばれた飛行場には緑と青の反射の中でゼロが翼を休めている。その近くに佇む和服の妻の背後にひっそりと隠れるようにして立っていた少年が、はっとしたように目を逸らせるのが映った。
(やはりか)
少年の名前は大鷹省吾、という。妻の遠い親戚の子どもとかで、どこか神経質そうな細い面だちに真っ黒で濡れたような目をしている。子どもとはいえ、そう年齢が違うわけでもない、後五年もすれば、立派に軍人として国のお役に立ってくれるだろう。今は桜里とかいう山奥の小さな里に住んでいるそうだが、近々都会にでてきて進学予定とのことで、しおりが何かと面倒を見ているようだ。自分との間に子どもに恵まれなかったというのも関係しているのかもしれない。
「よろしいですか、では、あちらの山のあたりを見て下さいますように…はい…結構です」
軍から依頼された写真屋はさっきからあれやこれやと姿形にこだわっている。まあ、わからないでもない、と苦笑しながら、再び遠く豊かな緑の稜線をみやった。
ここで撮られた葛城の写真は国民の戦意高揚のために、また軍が将来性豊かな素晴らしい職業であることを印象づけるために使われる。映っている男が疲弊し、倦んだ顔をしていては話にならない。訓練と作戦会議の合間を縫って、わざわざこんな戦地とは関わりのないような穏やかな場所で宣伝用の写真を撮る時間を与えられたのもわかるが…。
(戦況は伝えられている程、かんばしくはない、ということか)
憂いを空の彼方の仲間に向けて見上げてしまう。
今こうしている最中にも何機ものゼロが黒煙と炎の中を飛んでいることだろう。それと対照的な、この見事に穏やかに晴れた、本土の夏の日。
「はい……では、本日の撮影は一通り済みましたが……」
写真屋は問いかけるように葛城を見上げた。小柄な背中をなお丸めるようにして、
「大塚中尉からも伺っております、御家族とのお写真を撮られるそうで」
「ああ…」
葛城は眉をひそめた。
「そうか」
大塚中尉はこの後の葛城の任務について熟知している一人だ。それが内密に行なわれるものであることも、葛城の容貌を生かしてのことであるがゆえに代替えがきかないことも、生きて帰れる可能性がほとんどないことも。
「わかった……甘えさせてもらおう」
「はい」
写真屋はほっとした顔で笑った。おそらくは、その笑みがこの写真撮影後は地獄への片道切符だと知るだろうが、それもまた時局の流れ、巨大な歴史の渦の中では人一人の命など紙切れ同然ということなのだろう。
「あなた…終わったのですか?」
「ああ。最後に写真を撮ってくれるそうだ……こちらへ来なさい」
「え……でも…」
しおりは怯んだ顔になった。敏感な女だから、いつもと違う状況に不安を感じたのだろう。
「ゼロがありますのよ」
しおりは他の女と違い、ゼロを名前で呼ぶ。賢くてしかも大人しい妻だ。しおりに子どもを残してやれないのが本当に残念だとしみじみと思った。子どもが残っていれば、この後崩れ落ちていくような時代をそれなりに強く生き残ってくれるだろうに。
「大丈夫だ、大塚中尉から許可を頂いている」
「そう…ですか…?」
しおりは小首を傾げたが、気持ちを取り直したらしく、後ろを振り返り、
「省吾さんは…?」
「省吾君」
びく、と相手はしおりより数段怯えた顔で葛城を見た。黒い短い髪が額に垂れている顔は端麗といっていいほどの美貌だ。表情が少ないのはその自分の容貌を意識しての警戒からくるのかもしれない。事実、よからぬからかいを冷然とやり過ごしながら、ひそかにきつい目で相手を睨みつけている場に何度も出くわしている。本来の気性は激しく荒いに違いない。
「君も来たまえ」
「僕も、ですか」
「嫌かい?」
「いえ」
淡々とした声で応じて、相手は細身の身体を影が滑ってくるように運んできた。しおりの背後に付き従う姿は何か守りを主とする忍びを思わせる。
「では、頼もう」
ゼロの前に並んで写真屋を振り向くと、さすがに相手もその意味に気づいたのだろう、顔を白く引き締めた。
「ここで…よろしいのですか?」
「どこででもよい、と聞いていなかったのか?」
「聞いておりますが」
写真屋は渇いた唇をなめた。
「……わかりました……」
深々と頭を下げる。しおりが葛城の隣に、そして、その向こうに少年が並んで、写真屋はカメラのレンズを向けて震える声でつぶやいた。
「よろしいですか……よろしいですね……では、撮らせて頂きます」
日射しにシャッターの音がいやに大きく響いた。
「……ここにおられたんですか」
夜の大気にまぎれるように近づいてきた影が消え去りそうな声でつぶやいて、葛城は振り向いた。
「省吾君」
川面に涼しい風が渡っている。岸辺の草は蒸せ返るような濃厚な気をまだ放っている。その中に一人ぼんやりと座っていたのを、いったいどうやって見つけたのか。
「なかなか……帰ってこられないので」
「…しおりは?」
「眠っておいでです」
「そうか」
「はい」
ためらう声で応じて、やがて心を決めたように相手はそっと葛城の隣に腰を降ろした。何かを言いたげにこちらを見やる視線、振り返るといつも逸らされて決して絡むことはない。だが、今ゆっくりと転じた視界の中、温気に霞む月光の下で、相手は珍しく視線を逃がさなかった。そればかりか挑むようにこちらを睨みつけてきながら、
「明日から戦地へ行かれるそうですね」
「…しおりに聞いたのか?」
わざと眉を上げておどけて見せたが通じない。相手はきつい表情のままで唇を噛み締めると、一息に続けた。
「軍務だと理解はしております。けれど、葛城少尉が戦地にて行方不明となり、そのまま失踪するという筋書きは僕の好むところではありません」
「!」
ぎょっとして思わず相手を見ると、表情の読めない黒い目がまっすぐにこちらを見返してきた。
「しかも」
低く尖った声で言い募る。
「葛城少尉がその後敵国に寝返る、などということは、たとえ風聞であったにせよ」
「……誰に聞いた」
こちらの声に籠った殺気に相手は怯みもしなかった。嘲りさえ浮かべて言い返す。
「僕は見かけ通りの人間ではありませんので」
「……中野か?」
ひやりとしたものを感じて問いかける。確かに年齢的には若すぎるが、中野ならあり得ないこともないだろう。むしろ、相手の容貌の華麗さも幼さも利用できる要素に過ぎないのかもしれない。
「繋ぎはありますが……別ものです」
相手が平然と言い放って葛城はことばを失った。こんな間近に日本軍部の懐刀がうろうろしているとは思わなかった。
「……ひょっとして、大塚中尉に圧力をかけたのは君か」
いくら温情派とはいえ、ゼロの前でそれも家族写真を撮っていいなどと言い出すなど、憐憫にしてもおかしすぎるとは思っていた。
「側に来たのは……見張りなのか、逃げないように?」
それなら話がわかる。
「違います」
初めて相手の瞳が揺れた。
「僕は今回の件を止めさせたかった。葛城少尉の名前を利用し、国民の羨望対象が敵国に拉致されて寝返ったということで敵意を煽るなどという愚劣な作戦など。しかもあなたはその後も国のために働き続ける……二重スパイとして…っ」
悔しげに吐き捨てた声に葛城は苦笑した。
「君はえらく俺を買ってくれてるんだな」
「当たり前でしょう…僕は…」
苦しそうに相手は目を逸らせた。
「……護王、だから?」
「!」
跳ね上がるほどに体を震わせて相手は葛城を振り向いた。驚きに見張った瞳が不安気に彷徨って葛城を凝視する。
「なん……て…」
「俺の胸にあるよ、花王紋」
笑ってやると、相手は真っ白になった顔で呆然としてしまった。状況の理解に頭も心もついていかない、そんな表情で葛城を見つめている。
「君は護王だろ? 花王紋を持つ人間を守るためにずっとずっと生きている。俺は詳しくは覚えてないけど、俺と君は何度も出逢っている…運命の相手として。そうだよな?」
「う…」
「信じられない? ほら」
葛城は浴衣の胸元を寛げた。左胸、鎖骨の少し下に桜の図柄に見える赤い痣がある。
「これだろ?」
「く…」
「!」
相手の中でぷつん、と何かが弾けたような気配があって、葛城はいきなり飛びかかられて押し倒された。一瞬首を締められるのかと思ったが、すがりつかれて叫ばれる、悲鳴のような声に抵抗を止める。
「わかって……わかっていて……どうして…どうしてっ……っ!」
「すまん」
熱い吐息が忙しく叩きつけられる胸元の頭を、そっと押さえつける。強ばって動きを止めた相手に静かに、
「俺……ちょっと変わってて、結構おかしな記憶を持ってるんだよ」
「え…?」
護王は顔を上げた。いつもの冷淡な表情はどこへやら、紅潮し泣き出しそうに歪んだ顔が葛城を食い入るように見つめるのに、もう一度苦笑いする。
「転生の記憶というのか…? 生まれ変わってきた、というやつだな。だから、君がずっと生きていて、花王紋の人間の側に寄り添ってきたことも知っている。うーん。厳密に言うと、感じている、と言うべきかもしれないな。だから、君が妻の親戚だと言ってやってきたときは驚いたよ、記憶の中の姿とほとんど変わってないんだな、実際」
「十年に……一度しか……歳…取らないから……」
ゆらゆらと揺れた目が潤んで零れ落ちた涙がぽたりと胸に落ちてきた。
「やっと……探し当てたら……あんたは……男で……奥さんまでいて……」
零れ続ける涙が次々と胸を濡らす。花王紋も浸されてじんわりと柔らかな熱を帯びていく。
「俺は……どうしたらいいのか……わかんなくて……」
「だから、一緒にいた?」
葛城の声に護王は震えながらうなずいた。
「前に約束したんや……次は……離れへん……放さへんて……そやけど……あんたは…幸せそうやった…俺と……俺とおらんでも……幸せそうやった……なら……俺は……? 俺は……どうしたらええ…っ…?」
わあああっ、と泣き出して突っ伏してくる、その体を抱きとめながら、葛城は溜息をついた。
「そうだな……どうしたらいいんだろうなあ」
護王の存在に気づいてからずっと、絡みつくような視線の意味はわかりすぎるほどわかっていた。振り返れば逸らさざるを得ない気持ちの惑いも、そして再び葛城を追い掛けてくる視線の願いも、それこそ十分、痛いほどに。
「なっ……何度も……思った……攫ってやろうて……俺が……本当の相手や……俺が…そやから…あんたを攫って……そやけど……」
身もがくように悶えながら護王はうめいた。
「そやけど……あんたが……あの人を大事にしてるの……わかったし……それはもう……うんとわかったし……そやから……」
できひんかった、と最後は吐息のようにささやいて泣きじゃくる護王に、葛城は無言で寝そべったまま空を見上げた。
紺青の空。無数の星々。
誰かがどこかで人の運命を時間に折り込み、出会いをずらせ、別れを約束しているのだろうか。繰り返し生まれては死ぬ、その営みに神々は何を求められておられるのか。
「……ごめん……」
どれほどそうやって抱きとめていたのか、背中からひんやりとした湿り気が体にしみ渡ってくる感覚に意識を戻してくると、ごそ、と護王が体を離した。
「……こんなこと……言うても……しかたないこと……わかってんねんけど…」
葛城の上でまだ零れ続ける涙を両手の甲で必死に拭き取る護王の顔に、遥か昔、桜の根元で膝を抱えていた小さな男の子の姿が重なる。葛城は微笑んだ。
「なあ、護王」
「……っん?」
くすん、と真っ赤になった鼻を鳴らして見返す顔に笑みを深める。
「俺は知ってるから、約束してやろう」
「な…なにを?」
伸ばした手で頬を濡らしている涙を拭ってやる。
「次に生まれてきたときは、君と会うまで一人でいるよ」
「…え…?」
「君と出逢うまで、誰にも気持ちも預けないで一人でいよう。だから、できるかぎり早く探し出してくれ、いいな?」
「あ…」
不安と哀しみに白くなっていた護王の顔がみるみる薄赤く染まっていく。
「君が一人で過ごした時間を、次には俺が支払ってやる……だから、もう泣くな」
「お…俺…」
潤んだ瞳をなお滲ませて新たな涙が零れ落ちてきた。
「大丈夫だ、君は十年が一年だろう? すぐに会えるさ……少なくとも、俺はそう長くは生きない」
「っ」
葛城が何気なく付け加えたことばに護王は色を失った。
「…だからっ…」
「うん?」
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ああ、それで、と納得した。時を重ねて身に付けた才能と美貌で、軍部の中へ入り込んだ理由はそこにあったのか。永遠の命を持つのだから、もっとましなことに使えばいいものを、こんな男一人救おうと孤軍奮闘してきたのか。
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葛城の声に護王は口を閉じた。くしゃくしゃの泣き顔にそっと微笑みかける。
「俺はこの国の安全を守れる。しおりが居て、君が居るこの国を。君の命を守れる……次に出逢うときまで、な」
「あんたは……」
笑い返そうとした護王の意図は失敗した。ひきつった微笑を裏切って必死に堪えようとした涙が数を増して振り落ちてくる。
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「嫌ってくれてかまわないよ」
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ふっと護王は顔を葛城の胸元に落とした。花王紋に散った自分の涙を吸い取り噛みつくように唇をあて、視線を上げぬまま低い声でつぶやく。
「俺は……あんたのもんや」
命の限り捧げられた誓い。
「……あんたに従う……未来永劫……あんただけに」
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「…しおりを頼むな」
「…うん…」
嵐の到来を告げるように、風が強まる川面に銀の波が散り広がっていった。
風がまつげを掠めていって、洋子は目を開いた。
ぼんやりと正面を見ると、なぜか斜めになった視界に一つの顔が浮かび上がる。
削げた頬の白い顔。能面を思わせる表情のなさ、けれど整いすぎるほど整った顔だちに黒々と底なしの闇を思わせる瞳が開いて、じっと洋子を見つめている。
その視線を、よく知っているような気がした。いつもその目で心の奥底を見つめられていたような気がした。
長い、長い時間。
(護王)
瞬いて目を開けると、相手はふいに顔を逸らせた。何かとても気になるものがあると言った様子で窓の方へ顔を向ける。眉を寄せ、不愉快そうに一文字に引き締めた唇が、それだけでは足りないように噛みしめられるのが見えた。無意識に追い掛けて目をやり、電車の窓の外、流れていく景色の鮮やかさに目を細めると、鼻先に甘い花の香りがした。
「目が覚めましたか?」
「!」
柔らかな声で囁かれてぎょっとして跳ね起きると、が、と妙な声が頭上で響いた。
「んー…」
振仰ぐと、半分仰け反った村上が顎のあたりを押さえて唸っている。
「あっ…ごめん、なさい?」
「ええ…大丈夫……ですよ…」
苦笑いしながら村上が顎を摩った。
「よく眠っておられましたね?」
「あ、ああ、ごめんなさい、肩、かりてたんですね」
「ずいぶん疲れておられたようだから……」
「すみません」
洋子は慌てて座席に座り直して、頭を下げた。また、ふわ、と甘い匂いがして瞬きし、顔をあげる。
「?」
「何ですか?」
「村上さん……香水つけておられます?」
「ああ…少しね…気になりますか?」
淡いベージュの春物タートルネックに白いパンツ、どう見ても刑事というよりは男性ファッション誌のグラビアモデルといった出で立ちの村上は、くすりと笑って眼鏡を押し上げた。
「いえ……フローラル系って……珍しいですよね?」
「まあね……不愉快ですか?」
「いえ、お似合いですけど」
素直に答えると一瞬相手は目を丸くした。続いて小さく吹き出し、失礼、と目を細めながら付け加えた。
「あなたは面白い人ですね」
「そう……ですか?」
「ええ。とても魅力的だと思います」
「…は…?」
「何かあったのかな? ずいぶんきれいになられましたね」
「え…あ…」
ぬけぬけと言いながら、ちらりと村上が護王の方に視線を流して、洋子はうろたえた。
「いえ…あの…」
「何の話や」
地獄の門番もかくやと言わんばかりの殺気立った声で護王がつぶやき、立ち上がる。
「乗り換えやぞ」
「あ、うん…ありがと」
荷物を降ろしてくれたのに礼を言ったが、むっつりとした護王は答えない。電車が止まるのを待たずに出口へ移動を始める。それを追い掛けて歩き出そうとしたところで、駅に入ったせいか車両が大きく揺れ、まだ感覚がどこか半端であやうく転びそうになった。それと察したのか予想していたのか、如才なく村上が腕を掴んで支えてくれる。
「すみません」
「大丈夫ですよ。さ、行きましょう」
先にホームへ降り立っていた護王が冷ややかな視線でこちらをねめつけているのに、急いで足を運ぶ。
◆ 『かおうしづめ』が近いせいなのか、ホームには思った以上に人が多く降りた。村上が周囲に鋭い視線を走らせている。
「日高はまだ現れていないようですね」
「あ、そうだ」
洋子は上着のポケットを探った。今日は珍しく紺色のロングスカートで羽織ったカーディガンに携帯を入れていたのだ。
「これ、お返ししますね」
ちょっと落としてしまって傷ついたんですけど、と言い訳をすると、村上は妙な表情で一瞬動きを止めた。それから、さりげなく洋子のポケットにそれを押し戻しながら、
「少し持っておいてもらえませんか?」
「どうしてですか?」
「え……まあ…」
尋ねられて自分でもなぜか困ってしまった、そんな顔で村上は洋子を見返した。
「持っておいてもらえるといいな、と」
「でも、もうこうして一緒にいるんですから要らないですよね?」
「一緒にいる、ならばね」
奥歯にものの挾まったような口調で応じて、前方を見つめる。村上の視線の先を追って、二人のやりとりを凝視している護王の姿を見つける。
「向こうについたら」
声に振り向く。
「離れてしまいますから」
その護王をなぜか同じように見つめ返したままで、村上はつぶやくように続けた。
「僕が側にいるのは気に入らないようだ」
「何しとんねん」
村上のことばを裏付けるように、苛々と護王が呼び掛けてきた。
「こっちや」
「わかりました。…さ、しまって」
「あ…はい」
受け取るつもりがない村上に、洋子は仕方なしにポケットに携帯を入れた。足を速めて護王の側に近づくと、
「この階段降りて、向こうのホームから桜里までのやつに乗り換えるし」
「うん、わかった」
「次の時間まで少しありますね」
村上が時刻表を確認してつぶやく。
「先に行ってて下さい、ちょっと連絡を取ってから行きます」
「ほーう、俺らに聞かれたらまずいんか」
「護王」
嫌味たっぷりに護王が応じて洋子はぎょっとした。自分から村上と一緒に行くと言い出したのに、朝待ち合わせてから列車を乗り継ぐ間もとにかく不機嫌で、村上に対する警戒を隠そうともしていない。
「ええ、そうですよ」
村上は平然と応じてにっこり笑った。
「いろいろとまずいんです、すいませんね」
「日高が来たら、どないする気や」
「そのときは君がいるでしょう。心配はしていませんよ」
たじろぎもせすに言い返して、村上はさっさと側を離れていく。ホームの端まで行くと、すぐに取り出した携帯で話し始める。
「ちっ」
舌打ちして護王が身を翻した。慌てて追いついた洋子に、階段を降りながらなお足を速め、
「腹立つ奴やな」
「けど……」
唇を尖らせてぷんぷんしている護王が妙に可愛らしくて、洋子は思わず微笑んだ。
「悪い人じゃないと思う」
「そら……そやろな、あんたにとってはな」
地下通路でぴたりと立ち止まる護王に思わず足を止めると、相手は冷ややかな目で洋子を睨みつけている。周囲をざわざわと人が流れていくのもお構いなしで、
「気持ちよさそうに、あいつの肩なんかで寝るんやからな」
不機嫌な顔で文句を言った。
「だって……」
洋子は顔が熱くなった。
「寝るつもり、なかったんだけど」
列車は向い合せの座席で、なぜか護王は洋子の隣に座りたがらなかった。洋子の正面に座ると言って聞かず、しかも村上と同席は嫌だと言い張ったので、仕方なしに洋子は村上と座ることにしたのに。
夕べはおじやを食べて、それでもちゃんと眠ったはずだった。けれど、最近眠りが妙な感じで、眠っても眠っても、まるでどこか違う時空を旅しているかのように疲労していて、またすぐに眠くなる。
(さっきもそうだ)
揺れる列車、穏やかな春の日射し、単調なリズムと静かな人の気配、それらが次々と意識の端を切り崩していって、いつの間にかぐっすりと眠ってしまっていたらしい。いつから村上の肩を借りていたのかさえ覚えていない。
「揺れても全然起きへん。あいつが…頭触っても起きへんし」
「頭?」
「ずれかけたんや。で、あいつが頭支えて直しよったん」
きりきりした声で答えて護王は眉をしかめた。
「誰でもええんか、あんたは」
「だって…!」
誰でもいい、などと言われて思わず洋子はむかっとした。
「だいたい、護王は私の隣が嫌だって言うから」
朝一番に拒まれたときの気持ちを思い出して胸が詰まった。
(ああ、そこは、綾香の席、ってことなんだ)
そう感じて、それ以上はもう望めなかった。自分は身代わりでしかない。本物の姫さんが現れるまでの場繋ぎだ。夕べの思いが胸を塞いで滲みかけた涙をこらえるのがようようだった。
「あたりまえやろ」
(やっぱり)
護王が険しい口調で吐き捨てて、気持ちが凍った。
(やっぱり、私じゃない)
だが。
「村上をあんたの前に座らせられるか?」
「…え?」
思わぬことばが続いて瞬きする。
「ほんまに……あんたを見たとたんにおかしな目つきするような男に、あんたの前に……なんで、今日はスカートなんや!」
口に出してしまったことで何かが外れたのか、護王は神経質な声で苛々と続けた。
「気づいてへんのか? あいつがあんたをどんな目で見とるか。……襲われたらどうする気なんや!」
「ご…護王?」
「あー、また、そんな顔するし!」
周囲の人込みはほとんどがホームへ上がってしまったようだ。人影のなくなった地下通路に素早い一瞥を走らせて、護王は手にした荷物を落とした。呆気に取られている洋子に近づき、風が舞うように壁際に押しつけるや否や、ひた、と体を寄せてきた。
「なあ…頼むし…自覚して…?」
唇を洋子のそれに触れんばかりの位置で囁いてくる。吐息が口元に触れて熱い。
「そんな顔して他のやつ見んとって……? 姫さん…俺のもんやろ…? 俺のもんになってくれたんやろ?」
揺らめくような瞳で覗き込まれて心臓が跳ねた。それを十分意識しているように、わずかにまぶたを伏せて護王が甘い声を耳もとに注ぎ込んでくる。
「なんで急に……そんなにきれいになったん……?」
頬から髪へ額へ、そして再び頬に唇を触れてきながら柔らかな声がじれったそうに掠れる。
「…他のやつが…見よるやんか?」
「そ…」
そんなこと知らないよ、そう言いかけた口が当然のようにゆっくりと塞がれた。それから、すぐに離されて、その代わりに強くきつく抱き込まれた。
「どうしよ……連れていきとぅない……他のやつに…あんたを見せとぅない……なあ…このままどっかいこ…?」
「ど…か…って…」
ふいに洋子のカーディガンのポケットで音が流れ出した。
「!」
びくっとした護王が表情を凍らせて、すぐに洋子のカーディガンのポケットに手を突っ込み、携帯を出す。
「電車が来る時間だけど」
携帯と同時に地下通路の端から声が響いた。
「ぼちぼち僕もそちらへ行きたいな」
振り返った洋子の目に通路に通じる階段を降りたあたりで、背中を向けて手前の壁にもたれているシルエットが映る。護王が目を据わらせて携帯を閉じ異常に静かな動作で洋子のポケットに戻した。そのまま無言で洋子を離し、荷物を拾い上げてぼそりとつぶやく。
「くそがきぃ…」
いきなり、ぎら、と目を光らせて振り返った護王は険しい声を張り上げた。
「はよ、来んかい!」
「電車の本数が少ないらしい。乗り過ごしたくはないからね」
ひやひやする洋子と激怒寸前の護王に村上がしらっとした笑顔で寄ってきた。
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