『桜の護王』

segakiyui

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15.無限環(1)

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 餓えが人々を襲い弱き者脆き者が強き者猛き者に喰らわれた。
 だがそうして貪った者も天運伴わず次々と死んでいく。
 この里は死人に満ち腐臭に浸された。
 その中でなぜか赤子一人が我が元に置ざ去られていたのだ。
 せめてわが子を喰らうまいとした母親の切なる願いででもあったのだろうか。

 桜の声が語る中で、樹の根元にぼろに包まれた小さな体がぼんやりと浮かび上がった。か細い泣き声があがり、枯れ木のような指が空を掴む。その指に、散る桜の花弁がまとわりつき誘うように滑り落ちた。感触に気づいたのか、あるいは生きるための本能だろうか、赤子は這いずるように桜の根元に近づき、ついにはその幹の節くれだった根が盛り上がったところにむしゃぶりついた。そのまま母親の乳を吸うように、ちゅうちゅうと吸いつき始める。
 花が散り、葉が茂り、紅葉を舞わせ、影絵を落とす枝が広がった。赤子は緩やかに、けれども少しずつ大きくなっていく。真っ黒な目で花が舞うのを見て笑い、葉が騒ぐのに驚いて泣き、舞う赤や黄の葉を拾っては口に入れて楽しみ、冬木の枝の一筋ずつを辿って何やら独りつぶやいていた。が、やがて、赤子は疫病避けの祭をするために御神体を探して山へ入り込んできた里人に見つかり、格好の神降ろしの存在として桜里に連れ去られていく。
(それが護王なのですね)

 元々は人の子、しかし赤子がおらぬようになって我は静けさに気づいた。
 身にしみる傷みである。
 誰も我が花を見て喜んでくれはせぬ。
 誰も恐ろしげな風に脅えて寄り添ってくれはせぬ。
 誰も実りの豊かさに笑ってくれはせぬ。
 誰も冬に長く厳しい夜に数々の物語を聞かせてくれはせぬ。
 赤子が来るまで気づくことはなかった、我がこれほど孤独であったとは。
 出逢わねばよかった、拾わねばよかった、互いの営みに触れあうのではなかった、だがしかし。
 我は関わってしまい、赤子の記憶は我が内にあり、二度ともう戻らぬのだ。
 我の憂いは土地を侵し病を流行らせ、里人は赤子を戻してよこした。
 しかし赤子は泣く、人を求め、温もりを求め泣く。
 そして我が内にそのどれ一つとしてない。
 打ち捨てられた山狼の亡骸に魂を込め、赤子をいとしむ者のみ子どもに見えるように計らい、里へ放った。
 その幻に最初に呼ばれたのがあやじである。

(犬童子…が見えたのですか?)
 洋子は桜の根元に座り込む四つぐらいの護王の幻から桜の方へ振り向いた。

 子を亡くしたばかりであった。見えはしなかったが気配には引き寄せられてきた。
 赤子の名をごおうと言うは我が枝に風が鳴る音、赤子が連れ去られたときに上げた我が嘆きの声である。
 あやじはごおうをいとしみ、我が祈りも聞き届けた、がゆえに、我はあやじの願いも聞き届けた。
 それは我が願いでもあった、ごおうを見守りいとしむことを役目とする桜守となるを示す花王紋を授けた。
 だがしかし、人の命は我が願いを果たすには余りにも短く、人の世は余りにも変わり過ぎる。
 我がごおうは痛み傷つき病むばかりである。
 我はごおうを再度我が内に引き戻し、かの体の傷み、心の傷み、魂の傷みより解き放つ。
 そなたも姫の輪廻転生見たことであろう、そなた達にとってもごおうの存在は無用の長物。
 苦しみを与え哀しみを播き、互いに誤解と後悔に繰り返し縛られるのはもう終わりにするがよい。

(では、護王はどうなるのですか?)
 
 記憶を奪い心を封じ体を我が内に取り込んで眠りにつかせる。
 そうすればごおうも最早傷つかず、我もまたさみしさがまぎれ、そなたもまたこれまでの日々を暮すがよい。
 起こったことは全て悪夢と忘れよ、そなたがここまで降りてきた想いに免じて里人の記憶も奪い、そなたが元の世界に帰るのは妨げまい。

(これまでの日々を?)
 洋子はじっと桜を見上げた。
 病棟で綾子と笑っていた日々。幼い頃の虐待も記憶の底に封じ込めて看護師としてキャリアを積んでいた。
 だがしかし、綾子が殺され、護王に脅され、嵯峨から逃げ出し、日高に襲われ、村上と出逢った。護王に恋われ、洋子も魅かれ、綾香の想いを知り、村上に翻弄された。
 そして今はもう、嵯峨も日高も、村上さえもいない。
(桜よ)
 何か。
(私は、全てを忘れ切ることなんてできない)
 なぜか。
(喜びも哀しみも、いや深く重い傷さえも)
 小さい頃から『普通』の家に憧れた。両親がきちんと親として洋子やあやこを庇い育ててくれる家。子どもとして安心して生きていける場所を探し求めて、求めたままに大人になって、今、洋子はここにいる。
(それら全ては私が私であるという証だからだ)
 傷みの記憶がか。
(そうだ)
 無視され傷つけられ殺されかけた経験がか。
(そうだ……なぜなら)
 洋子は唇を引き締めた。それを口に出すことは過去に屈してしまうような気がする、けれど、あえてそれを口に出す。
(それらの記憶や経験全てがあってこそ、私は人がわかるから)
 人が?
(日高先生や嵯峨さんや綾子や村上さんや……護王が)
 桜は沈黙した。
(私は感じる。今、私は今までのどの瞬間より、自分が価値あるものだと確信できる。辛い過去や傷みはないほうがいい、けれど私はそうしてでしか人を理解する方法を知らなかったのだから、そうしてきたのだ)
 はらはら、と風もないのに花弁が舞い落ちてくる。それを髪に、体に受けながら、洋子はじっと桜を見上げた。
(桜よ、本当にさびしくて辛くて傷ついているのは、あなたではないのか)
 見えない波が渡ったように辺りの闇が震えた気がした。
(あなたがさびしくて苦しいから、護王を呼び戻したいのではないか)
 ……ならば、どうする。
 洋子は桜から目を逸らせた。
 落ちてきた場所は遥かな高みにあり、そこへの道はもう閉ざされている。意識の端では桜里の診療所にいる自分の体がまだ保っていることを感じているが、そこに戻れるほど、そして戻って体を回復させるほどにはエネルギーが残っていないこともわかっている。
 洋子は桜に目を戻した。
(私がここに居よう)
 ぞわ、と桜の枝がざわめいた。
(私が未来永劫ここに居て、護王の代わりにあなたの孤独を慰めよう。だから)
 さよなら、護王。
 胸の内でつぶやく。
(永遠の命の鎖から護王を解き放ってほしい)
 洋子は両こぶしを握って仁王立ちになり、桜を見据えた。
 桜はしばらく黙っていたが、やがてためらうように頼りなげにつぶやいた。
 側に居てくれるのか。
 その響きが護王の声にそっくりで一瞬胸が詰まったのを、洋子は歯を食いしばって振り払った。
(居る)
 未来永劫。
(居る)
 物語をしてくれるか。
(しよう。私は多くの物語を知っているよ。たくさんの人を見て、いろんなことを味わったから)
 思わず笑った洋子に桜がなお甘えるようにつぶやいた。
 詩も歌ってくれるか。
(歌おう、あなたがうるさがるまで)
 舞いも見せてくれるか。
(舞い?)
 これにはさすがに怯む。
(舞う…のはなあ…)
 こんなことなら、あの奉納舞いを護王に教えておいてもらうんだった、と洋子は舌打ちした。だが、ふと思いついて、
(桜、あなたは何度も護王の舞いを見ただろう。それを私に教えてくれまいか)
 我がか?
(覚えていないのか?)
 覚えている。
 むっとしたような気配に洋子は苦笑した。両手を広げて桜に向き合ってみる。
(さあ、これからどうするんだっけ?)
 まず手を打ち合わせるのだ。それが合図だ、願いを送る扉を開くのだ。
(へえ、そうなのか、あの動きは打ち合わせるほうが意味があるのだと思っていたけど)
 両手を合わせてゆっくりと開いていくと、あの夜の金の花弁を散らしながら舞っていた護王の姿が脳裏に蘇った。翻る袖、紅の唇、濡れて洋子を探す黒くきらめく瞳の色。
(きれい…だったなあ)
 護王の舞い姿を思い出しながら、寸分違わぬようにゆっくりと動作を重ねていく。手を上げ、体を捻る。ここへ落ちてくるときのように、きらきらとした粉のような光が自分の体から出て淡い軌跡を残していくのに気づくと、自分がまるであの舞台の上で護王と一緒に奉納舞いを踊っているような気持ちになってくる。
(護王)
 あのときと同じように、けれど今度は洋子の方が、遥か彼方にいる護王を想って舞っている。
(護王)
 もう二度と会えないことだろう。
 洋子は闇に、護王は長い時を光に過ごし、二人の命がまじわる場所は存在しない。
(護王)
 じっと洋子を見つめている護王の視線を、同じ桜の下の舞台で舞っている護王の姿を、影として視界に捉えながら、同じ動きを繰り返す。それはまるで、天と地で、現世と幻で、互いに鏡に映っているような感覚で。
(護王)
 離れないとつぶやいた、一人にしないと誓った、ずっと側に居ようと願った。
 けれどそれを伝えきれないまま、今その全てを裏切っていく。
 微笑んでいた洋子は頬を熱いものが流れるままに振仰いだ。天上遥かに続く闇の彼方を見る。
 許しは請わない、言い訳もしない、なぜならきっと何度だって。
(私は同じ選択をする)
 ただもし、たった一つだけ願いが叶うなら、どうか無事で。
 どうか生きて笑っていて。
(桜)
 …なんだ?
(護王から私の記憶を消してほしい……もう何にも縛られぬように)
 伸ばした洋子の指先から金の光が零れ落ちた。


「……護王」
 響いた声にびくっ、と護王は目を見開いた。
「どうした」
 幸一郎が顔をしかめて尋ねてくるのに眉をひそめる。
「いま…」
「今? 何だ?」
 額に当てられている銃口にたじろぐ様子もない護王に苛立った幸一郎が問い直す声に重なるように、またベッドの上から細い声が護王を呼んだ。
「…護王…」
「は…はは……っ…」
 一瞬大きく目を見開いた護王は乾いた声で笑った。
「姫さん……あんた……まだ…俺を…呼ぶんや…」
「気が触れたのか?」
 幸一郎には聞こえないのか、ますます苛ついたように護王の前に片膝をつき、より強く銃口を押し付ける。
「……あんたを巻き込んだままで……あんたを……助けられへんまま……死ぬつもりの俺を……まだ……呼んで…くれるんや……?…」
 茫然としていた護王がつぶやきながら目を閉じた。苦く厳しい笑みを浮かべる。
「あほ…やなぁ……」
「…護王……」
 三度目のつぶやきにようやく幸一郎は気づいたらしい。ちら、と背後に目をやって、ゆっくりと護王に目を戻す。虚ろで疲れた顔にじわりと奇妙な笑みが広がった。
「そうか……意識が戻ったのか……なら、ますますお前に用はないな」
「なに…?」
 その声に今までなかった気力を感じて護王は目を開けた。依然額に押し付けられたままの銃口の向こう、にやにやと笑み崩れている幸一郎の顔に焦点を合わせる。
「あの娘にもう花王紋はない…と言ったな」
「ああ……そやから……姫さんを喰ろうても無駄やで」
「そんなことはない」
「なんやて…?」
 より一層笑みを深めた幸一郎に護王は顔をしかめた。
「日高……言うてること…ほんまにわかってんのか…?」
「わかってるさ。お前はあの娘と契ったということだろう? お前にそれほどの配慮があったとは思えんからな…お前の子種があの娘の中にある、ということだ」
「!」
 ぬめりとしたいやらしい微笑を零した幸一郎のことばの意味を理解して、護王は残ったわずかの血が一気に流れ出たように真っ青になった。
「不死だの何だのと言っても、お前の死体とあの娘の中にいるお前の『子ども』がいるなら……研究なぞいくらでもできる。飽きるほど長い時間をかけてじっくりと不死の秘密を突き詰めてやるわい」
「なん…やて…」
 衝撃から立ち直るのは早かった。
「こんのぉ……」
 護王が歯噛みしながらうなる。
「くそやろう…俺や姫さんだけやのうて……『子ども』…やて…?」
「せいぜい後悔するがいい。お前は…」
 幸一郎がけらけらと笑う。
「どこまでいっても厄病神だ!」
「くそ…っ」
 動こうとして呻き、悔しそうに俯いた護王、その目にさすがに涙が滲んだ、ように見えた。優越感に浸った笑みで幸一郎が引き金に力を込める。
「全て、終わりだ」
 次の一瞬、だらっと投げ出していた護王の手が弾かれたように飛んだ。額に当てられていた銃身を握って外側へ引き剥がすと同時に顔を避ける。
 ぱんっ……がきっ!
「あほぅ! 十四年式は八発や!」
 逸れた一発が背後の壁にめり込んだとみるや、次の一発を撃とうととした幸一郎の腕を、銃身を掴んだ手ごと引き倒しながら、驚きに開いた相手の口に残った片手を拳にして叩き込む。
「があ!」
「くうぅっ!」
 腹と胸から吹き出る血をものともせず、顔から押し倒した幸一郎の喉に膝頭を落とし込み、そのまま床に穴を開ける勢いで喉仏に体重をのせて割り砕いた。
「げあっ!!」
 大きく震えて硬直し一瞬抵抗しかけたものの、幸一郎はすぐに絶命した。衝撃に反応したように伸びた四肢が腐った植物のようにべたりと床に広がると、護王は激しい息を吐きながら肩を揺らして幸一郎の死体の上に蹲った。
「あ…あああっ……く…そ…おっ…」
 歯が砕けた幸一郎の口から手を引き抜き、銃身を握った手を離し、それだけで呼吸が乱れて身動きできなくなり、喘ぎながら吠える。
「こんな……とき…に…っ……使いもんに……ならへん…のかあっ……俺の……体はぁっ……」
 叫んでむせて血を吐いた。がくがく震える体を抱え、必死にベッドの上の洋子を見上げる。
「俺の……子ども…? 俺と…姫さんの……子どもやて…?…」
 よろめくように体勢を立て直そうとして、膝立ちで動くのがままならず、幸一郎の死体の上から床に転がり落ちる。
「うあ…っ…」
 そのまま傷みをこらえて数分間、やがてほんのわずか戻った気力と体力を掻き集め、洋子の眠るベッドの側に這い寄った。だが、立てない。どうしても足に力が入らない。かろうじてベッドにもたれ差し伸べた右手に触れたのは、さっき布団をひっかぶせたせいか、ベッドからずり落ちている洋子の左手だ。
「姫…さん…」
 その左手をすがるように握りしめながら、護王は呻いた。
「なんやろ……俺……今……死にとうない……」
 左手は血が止まらない腹の傷を押さえている。胸の方はもう感覚がなくなっていて、ぼうんと体中が鈍い。探る洋子の指が余りにもか細く温かで、護王は血でぬめって滑っていきそうになるその手を何度も握り直した。
「俺…生きたい……あんたと……あんたともっと…」
 ぼろぼろと護王の頬を頬を伝った。
「なぁ…姫さん……力……貸してぇや…っ…く…ふ」
 襲ってきためまいに気を失いかけて、何とかしのぎ、苦い笑いを押し上げる。
「今さら……やんな……?…今さら……こんなこと……あほやんな…? あ…っっ!」
 一際強い傷みが襲って護王は仰け反った。体が保てない。すがった洋子の指が護王の掌からすり抜けていく。意識がこれまで味わったことのない暗闇に吸い込まれていく。
「あんた……いつも……こんな…き…」
 こんな気持ちやったんか。
 死んでいくやつは、いつもこんな気持ちで……残していく者にこんなに未練いっぱいで、それでも攫われていくように逝ってしまうんか。
 そんなら俺は。
 そんなら俺は……ほんとはいつも一人やなかった言うことか……?
 あんたに命の際にまで想われてたて…言うことなんか…?
 その護王の問いは開いた口から溢れた血に流された。
 
 どれほど舞っていたのだろう。
 零れた涙ももうかなりが闇に呑み込まれた。所作を繰り返し、幻の護王に気持ちも体もぴたりと重ねて舞っていれば、いるはずのない人、もう洋子がいたことさえ覚えていないだろう人の夢には僅かに届くようで、それがほのかに嬉しかった。
「そこまで」
 ふいにはっきりとした声が響いて洋子は我に返った。
 伸ばしていた両手の先に、見覚えのある割烹着の老婆が居て、にこにこと微笑んで闇の中に立っている。
 気がつけば桜がどこにもなかった。散り落ちた花弁一つも見当たらないばかりか、いつの間にかそこはあの白い鳥居の中、岬のような崖の上になっている。
(あ…あれ?)
 洋子はうろたえて周囲を見回した。
「見事な踊りでしたねえ。まるで天女のようでしたよ、舞いながら上へ上へと浮かび上がってきてね。金の衣を引きずりながら、光の道を開いてくれました。おかげで私も下にゆけ、この子を拾いあげられた」
 老婆はいつの間にか、胸にしっかりと紺色の産着に包まれた一人の赤ん坊を抱いている。
(それは……日高…先生…ですか?)
「はい」
 老婆はぐずり始めた赤ん坊をそっとゆすってあやした。
「また始めからやり直します。あなたが下まで連れていってくれましたから、この子は安心して来た道を振り返れた……今度はもう少し楽しんで生きられることでしょう」
 産着の赤ん坊は朗らかな笑い声を上げている。ついついそれにつられて微笑んだ洋子は、はっと我に返った。
(え、でも、桜は?)
「ほうら、あそこに」
 老婆がすうっと指をさすと、遥か下にほの白く光る明かりが灯っている。
(私……降りなきゃ)
 洋子は慌てた。
(桜に約束したんです、ずっと側に居ると)
「ええ、だからこそ」
 老婆は柔らかく微笑んだ。
「あれはあなたを返してよこしたんですよ。子どもの助けを求める声に耳を塞げる親などいませんから」
(え?…)
「ほら……護王があなたを呼んでいます」
 老婆の声に従って、闇の舞台がまた開いた。
『姫…さ…ん…』
 血染めの部屋の中、そこだけぽつんと清浄な光に包まれて、洋子がベッドに眠っている。そして、その横の床に紅の血膿みにまみれながら、すがりつくように護王が洋子の指を捉えようとまさぐっている。目もあまり見えていないのだろう、体を震わせ真っ青な顔で喘ぎ、掠れた声で洋子を呼び続けて泣いている。
『ひ…め…さ…』
(あ…ああ!)
 そちらへ気持ちを向けたとたん、全身が打ち据えられたように痛くなって、洋子は思わず蹲った。顔に左肩に胸、背中、腹、どこもかしこも抉られたように疼いてじっとしていられない。
「護王は桜の子どもですからね、さあ行きなさい、いくらあの子が不死であっても、あれではそれほどもたないでしょう」
(で…でも)
 洋子は体を抱きしめたまま何とか立ち上がった。
(護王は……私のことは覚えてないはずで…)
「桜が謝っていました」
 老婆がゆっくりと腕の中の赤ん坊を揺らせながら答えた。
「あなたはちゃんと約束を守ってくれたのだが、自分は約束を二つも破った、と」
(二つ…?)
「一つは護王の記憶からあなたを抜き去らなかったこと。もう一つは……」
 老婆はいたずらっぽい顔になった。
「あなたが護王の傍らに戻るまで、護王の不死を解かないということ」
(私が戻るまで……あ…)
 洋子ははっとした。無意識に自分の右手の指を見つめる。そこにはちりちりとしたあの感覚がはっきりと蘇っている。
(戻っても……いいんですか)
「戻らずにいられるのですか?」
『っ…ひっ…め…っ…』
 切れ切れの声が洋子を呼ぶ。それは未だ姫さんであって、やはり洋子、ではないのだけれど。
(戻ります)
 洋子はきっと顔を上げた。
「では、いきなさい……ああ、それからもう一つ」
(はい?)
 老婆がじっと洋子を見つめた。
「桜の約束を覚えていてやってくださいね」
(側に居る以外の……?)
「そうです」
(物語や詩や……)
「舞いも……ときどき思い出してやることも」
 老婆は深い目の色で洋子を見た。
「孤独は魂も傷つけるのですから」
(はい……では…)
 洋子はどんどんひどくなってくる体の傷みをこらえながら走り出した。
(待って……待ってて……護王……今戻るから!)
 鳥居をくぐり抜け、闇に突き出す崖の突端から、目の前に広がる紅の海へ身を投げる、その瞬間。
(…え…?)
 ふいに真後ろに気配を感じた。
 振り向く洋子の前に鳥居の向こうから投げ飛ばされてくる紺色の塊があった。
(あ……ああ…っ!)
 落とすまいと咄嗟に手を伸ばした洋子の腕に、その塊はずしんとした温もりと柔らかさになって振り落ちてきた。中からきゃきゃっ、と嬉しそうにはしゃぐ声が響く。かなりの勢いがあったのか、それを胸に受け止めると同時に、洋子は背中から闇舞台の自分の体の中へと落ちた。

「…っ!」
 一瞬、かなり厚みのある巨大な障子紙を突き破ったような感触で息が詰まった。無意識に手元にあった温もりを離すまいと引き寄せる。
「あぅっ!!」
「!」
 絞り出すような悲鳴があがって洋子ははっとして目を見開いた。
 どんっ、と胸に倒れ込んできたのは生温いべたべたした液体に濡れた体、がたがた震えながら今にも気を失ってしまいそうな弱々しい声で呻く。
「う…くぅ…っ……」
「ご、護王!」
「ひ…め……?…あ……」
 のろのろと上げた顔は真っ青、ベッドに半身乗り上げたせいで傷が開いたのか、どろどろとした赤が抱え込むように庇った体の内側からベッドに広がっていく。目はもう朱紅を宿していない。
「は…すご……ちか…ら…」
 つぶやいたのが精一杯だったらしく、護王は苦しそうに目を閉じた。自分では止められないのか、がくがく痙攣するように動く体を丸めようとして、ずるずるずり落ちていく。
「護王っ…!」
 洋子は急いで上布団ごと、護王を支えながら床に滑り降りた。不思議に左肩が痛まない。頭の傷は動かすと痛いが、護王の状態がそれよりひどいのは明らかだった。上布団で護王を包みこみながら、意識を右手に集中する。ちりちりした例の感覚が広がる間を待つのも惜しく、急いで一番ひどそうな腹の傷へ掌を当てる。
「あっ…くっ……うっ」
 びくっと護王の体が跳ねた。逃げるように離れかけた体を押さえつけ、右手になおも意識を集める。綾が屠られた夜のことを思い出した。
(同じこと…できる…だろうか)
 疑う気持ちを切り捨てて、あの夜と同じ見えない糸を張っていき、その数を増し、圧力を高めていく。と、ふいに自分の指先から金のとろりとした液体のようなものが零れ出すのが目に入った。その液体が、まるで傷そのものに吸い寄せられるように、みるみる護王の体の中へ吸い込まれていく。
「ひっ…!」
 護王がかっと目を見開いて息を引いた。傷みや寒さのせいだけではない、恐怖を浮かべた顔で洋子を見上げ唇を震わせ始める。
「い…いやや…」
 刷り込まれたように掠れた声でつぶやいて、あの夜と同じに護王は首を振った。潤んだ瞳に涙が膨れ上がり、まるで自分が切り刻まれているように脅えた顔で訴える。
「俺…いや…や…」
「大丈夫だよ」
 痛ましくて、その記憶自体も洋子が関わった結果だということが辛くて、洋子はそっと震えている護王を抱きかかえた。
「大丈夫だから」
「あ…あかん…ねん…これ……したら…俺……姫さん…喰ろて…しまう…」
 護王は激しく震えながら、何とか洋子の当てる掌から、そこからにじみ出る金の液体から逃れようと身もがいている。
「何も……わからんようになって…姫さんを……姫さんを…あっ…」
 かちかちと歯があたって鋭い音をたてる口に、洋子はそっと唇を落とした。ぎょっとしたように震えを止める護王の口に深くゆっくりと口付けて、相手の緊張がほどけるのを待つ。やがて、そっと緩やかに護王の体から力が抜けた。そっと口を離して微笑み、護王の瞳を覗き込む。
「大丈夫……それに……」
 訝しそうに自分を見上げる護王に、低くけれどきっぱりと言い放つ。
「私を食べてもいい」
 よほど驚いたのだろう、ふわ、と無防備に護王の口と目が開いた。
「護王が私を必要とするなら……いつでも何度でも……贄になる」
「ひめ……さん…」
「だから、今は護王も力を貸して? この傷を癒そう?」
「姫さん…」
「一緒に暮そう……ずっと一緒に生きていこう…ね……護王?」
「俺…と…?…」
「うん」
「ずっと…?…」
「うん、ずっと。だから…護王」
「ん……」
 護王は体から緊張を解いた。何かに集中するように、目を閉じ唇を引き締める。
 血に汚れた護王の頬に透明な光が次々伝い始め、呼吸が乱れ出した。傷ついた体で回復に集中する苦しさを、洋子ももうよくわかっている。岩屋の中で一人それをやっていたあの寒さきつさ、それを胸痛む強さで思い出す。
 慰めにもならないだろうけど、その零れた光を一つずつ、洋子は唇をあてて吸い取った。苦くて鉄の味がする、それは護王の血を混じらせた涙だったけれど、それだけに一雫たりとも落とさせたくなくて、繰り返し唇を護王の頬に首筋に這わせていく。だが、それはすぐに追い切れぬほど数を増した。
「あ…あ……は…っ」
 切なげな甘い吐息を零して護王が目を閉じる。そのまぶたに唇をのせる。腹へ当てた掌がじんわりと熱を上げていく。その熱を意識して、洋子はもう片方の手にも回復の波を広げた。体の中央を渡って広がる波が左手も満たしたのを見計らって、そのまま背中に差し込み傷を見つけて擦り寄せる。
「はぅ…っん…」
 今度の声は恐怖を帯びていなかった。どちらかというと求めているよりも頼りなげな感触に焦れるような声、そのまま何かを堪えるように眉根を寄せて動きを止める。光の波に応じて仰け反る護王の体を追いながら、少しずつ掌を移動させていく洋子の動きに深い息を何度か吐き、やがて護王は酔ったような瞳を開いた。
「痛い?」
「……だい…じょうぶや……」
 尋ねると揺らめく目で洋子の視線を受け止めて、ためらいがちに口を開いた。
「それより……なんか…俺…」
「うん?」
「キス……ほしい……」
「え?」
「……俺を…生かしてくれるんやろ…? ほな……なぁ…」
 とろりと瞳が蕩けて伏せられた。微かに開いた口に舌を躍らせて洋子を招きながら、腹に当てている洋子の掌を、自分の手で上からより強く身体に押し付ける。その刺激にひくりと震えた自分の動きにも煽られたように吐息を漏らし、
「姫さん…」
 掠れた声で護王は呼んだ。
 誘われるままに洋子は唇を寄せた。まだ何度か回復の波が通りすぎるのが辛い場所があるのだろう、ときどき切なげに眉をひそめて身体を強ばらせる、その苦痛を唇から吸い取るような気持ちで深く口を合わせていく。護王の身体の温もりが掌を伝って戻り始め、その柔らかさと温かさに言いようのない安堵を感じた。
(生きてる…生きているんだ……)
 掌へ戻る感覚が次第に早く強くなってくる。確実に回復してきている手応えが、洋子の緊張を解していく。腕を伝って滑ってきた護王の両手が洋子をそっと抱き締める、幻ではないかと訝るような不安定さで。
 その何もかもが愛おしい、そう思った。
 やがて、洋子の耳に遠くから近づいてくるパトカーのサイレンが聞こえた。
「んっ…姫さん…?」
 離れた唇、不満そうな護王の声に苦笑しながら振り向くと、破れた窓の向こうから迫ってくる幾つもの赤い回転灯が見えた。救急車もいるようだ。
「警察が来た……綾香さん…警察呼んでくれたんだ」
 パトカーが止まり、ばらばらと人が走り降りてくる。回復しつつあるとは言え、まだ身動きままならない護王が不安そうに見上げてくる。
「もう…置いていかへん…やろ…?…」
 ためらいがちに尋ねてくる護王の唇に洋子はもう一度軽く唇を重ねた。
「もう二度と置いていかない……もし先に私が逝きそうになったら……」
 まだゆらゆらとあやしく揺れる瞳に笑いかける。
「殺してあげるよ」
 初めて、満足そうな笑みが護王の唇に広がった。
 だが、それがもう限界だったのだろう。
 護王はそのまま気を失った。
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