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15.無限環(2)
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一ヶ月後。
「起きてて大丈夫なの?」
「うん……もうほとんど傷も塞がったみたいやし」
マンションのソファに座った護王が戻ってきた洋子に気づいて、新聞から顔を上げた。
「綾香……どないしてた?」
「え…うん」
護王の声を背中に部屋に入って着替えにかかる。
(やっぱり、まだ気になるんだよね)
刑務所の面会に行けるほどには護王は復調していない。
桜が約束を守ったのか、桜里ではあれほどスムーズに進んだ護王の回復が、いざ街に運ばれて病院に収容されてみると驚くほど遅々としか進まなかった。そればかりか、微妙に疲れた気配が強くなる護王を見兼ねて、少し早いと引き止められながらも退院し、マンションで療養し始めて三日になる。さすがに自宅は違うのか、病院にいるよりは顔色もよくなってきたようだ。
無理もない、と思う。
常人なら八ミリの銃弾を七発くらって無事で生きていられるわけがない。しかも、そのうち二発は体幹部、幸運で済ませるには確かに難しい怪我だった。遠回しに徹底的な検査を示唆されたのも、早めに退院してきた理由の一つだ。
ふい、と洋子の脳裏についさっきの綾香との会話が蘇る。
『どうして警察を呼んでくれたの?』
洋子の問いかけに、かなりやつれた顔で綾香は笑った。
『そやな……まあ』
ついと苦しそうに洋子から目を逸らせる。
『これ以上、護王に嫌われとう、なかったん』
その横顔は、まだどうにもならないほど護王が好きだと訴えていて。
洋子はもう何も語ることばを持ち合わせずに、黙って面会室を出てきたのだった。
「元気だったよ……頑張って少しでも早く罪を償っていきたいって」
声を無理に明るませながら、リビングに戻ると、護王は感慨深げにまた新聞を読んでいた。
「何?」
「桜里で何が起きたのか、やて」
くすりと苦笑いしながら洋子を見上げる。その左耳が削がれたように欠けている。
同じように自分の頬にもうっすらと白くカッターナイフの傷跡が残っているのだろうな、と思わず洋子は頬を撫でた。
「なんて書いてあるの?」
「住民のほとんどが記憶を失い、男性三人がひどい状態の遺体で見つかった……いったい桜里では何が起こったのか、てテレビ番組やるんやて」
「ふうん…」
洋子は護王の隣に腰を降ろして記事を覗き込んだ。
その記事によれば、桜里で行なわれていた『かおうしづめ』で強力な幻覚作用を起こす薬が誤って用いられた結果、何かの事件が起こり、里人が祭の記憶があやふやとなり、祭を訪れていた観光客と地元出身の医師二人が巻き込まれて死亡したとある。村上の死は刑事というより休暇旅行中の事故という扱いのようだ。怪我をして病院に収容された若いカップルは友人の墓参りに来たせい、ということになっている。言わずと知れた、洋子と護王のことなのだが。
けれど、本当はあそこで何が起こったのか、誰にももうわからないだろう。まさか全身に銃弾を打ち込まれた護王が村上と日高幸一郎を殺した犯人だとは思われないだろうし、洋子が幾つもの違う人生をくぐり抜けた後辿りついた、この世ではない地下の桜が全ての元凶だと、例え打ち明けたところで、誰が本気にするだろうか。
「……よう…無事…やったなあ…」
護王がぼそりとつぶやいて、洋子は我に返った。
「本当だよ」
気持ちを今さっきまで考えながら帰っていたことから切り離して、相槌を打つ。
「いくら不死だからって無茶ばっかりするんだから」
「違う…俺の言うてんのは、姫さん、あんたのことや」
むっとしたように護王が言い返した。
「ちょっとは自分が普通の人間やて、自覚してもらわんと、護るにも限界があるやんか」
(姫さん……か…)
護王はやはり洋子を名前では呼ばない。
(桜里にもう縛られなくてもいいのに)
どこまでいっても、洋子は姫さん、でしかないのかもしれない。
思わずついた吐息を素早く護王が聞き咎めた。
「なんや?」
「ううん……ああ、ほら、朝切ったって指、見せて」
「あ、うん」
護王が一瞬ためらって左の指を差し出した。傷テープがうっすらと赤く染まっている。
「なんか最近治りが悪いんや」
「ああ…そうかも、しれないな」
「そうかもって……困るやんか、そんなん」
「どうして」
「どうしてって……」
護王は僅かに赤くなった。
「怪我の治り悪かったら、姫さん護るのに困るやんか…」
「でも、それだけ一緒に歳がとれるよ、きっと」
洋子が微笑むとまた護王は微妙に赤くなった。
「そやけど……そら……あんたと一緒におられるのは……嬉しいけど……」
「それに」
洋子はぺり、と傷テープを剥がした。痛そうに眉をしかめる護王に苦笑してみせて、そっと右手の指先を当てる。温かな日射しが差し込む中で、それでもはっきりときらきらした光が洋子の指から流れ出て、護王の指を包むようにまとわりつくのが見えた。
「私が治癒力きちんと使えるようになったんだから、何かあったら私が面倒見るよ」
「!」
「あ、ごめん、痛かった?」
びくっ、といきなり護王が体を震わせて、洋子は慌てて指を離した。俯き加減で口元を押さえている護王を覗き込む。
「…いややねん」
「は?」
「……姫さん……それ…他のやつにも使う気やろ?」
護王は顔を上げないまま、むしろどちらかというと洋子の視線を避けるように顔を背けながらつぶやいた。
「ああ……看護師への復帰?」
洋子は溜息をついて苦笑いした。
「大丈夫、今のところは考えてない。話したよね、桜とも約束したし、今は別のことで……」
そこで思わず口をつぐむ。またここ数日考えていたことを堂々巡りで考えてしまいそうになったのだ。
「違う」
「え?」
「違うて」
護王はそっぽを向いたまま気難しい声で応じた。
「そんなこと、言うてへん」
「じゃあ、何?」
ちろ、と護王は横目で洋子を見た。目許がさっきよりかなり赤い。
「気づいてへんのやな?」
「何を?」
「……ずーーっと、気づかへんのやろなあ」
深々と溜息をつかれて洋子もむっとした。
「何よ、いったい」
「あのなあ」
「うん……あ」
ふわ、と護王が身を翻して洋子を押し倒してきた。ふいをつかれて思わずまともに食らってしまい、ソファに寝そべったまま護王を見上げると、相手はちゅ、と軽く唇を落としてきた。
「あのな……それ……やばいん」
「え?」
「タナトスとエロスは表裏一体、言うか」
「は?」
「これ…な…」
洋子の指を握りしめ、引き寄せて口付ける。
「されると……なんかとけそうになる」
「……は…?」
「もう……鈍いやっちゃなあ…」
護王が深く顔を沈めてきた。耳元で低く、
「イきそうに、なる」
「!」
「そやし……他のやつにやるの…いやや」
ばこっ!
「ったああ!」
「ばかっ!」
洋子はこぶしに握った左手を振り回した。
「昼間っから、何を言ってるんだかっ!!」
「……顔…赤いで?」
半分涙目になりながら護王はそれでもにやにやした。
「それに俺怪我人やで? もっと優しゅうしてぇな? ぐーはなし、な?」
思わず怯んだ洋子のこぶしを開かせながら、自分の背中へ導いて、護王はくすくす笑った。
その声に憂いはない。傷みは残っていない。幸せそうで落ち着いている。
洋子は気持ちを決めた。
「護王」
「ん?」
気持ちよさそうに洋子の上に体を重ねながら、どこか眠たげに相手は応じた。
「今度のこと……文章にまとめて…いいかな」
「え…」
ぎょっとしたように体を起こす、その顔に僅かに暗い影が翻る。
「私、桜に約束したんだ。たった一人で現世の地下で咲く孤独を慰めるって。舞いも詩もへただけど、文章なら少しは何とかなるかもしれないから」
「そやけど……姫さん…」
護王は不安そうに唇を噛んだ。
「そんなことしてバレたら…」
あんたをまた失うんか、俺。
声にならないつぶやきが胸の鼓動に重なって届く。
「現実は、手強いよ、護王」
洋子はに、と笑って見せた。
「さっきの新聞見たでしょ。ああやって、いろんな真実が呑み込み易い形に姿を変えていく。伝わってほしい本当のところが、うまく小奇麗にぼかされてしまう……それはそれで安定してていいことだけど」
またふっと綾香の切なげな顔が過った。
綾香はわけのわからない薬で暴走した里人の中で、直接犯罪に関わったとして大西夫妻と一緒に処罰を受けている。けれど、あの悲惨な状態をあやふやな記憶に摺り替えられてしまった大西夫妻とは違って、話せないだけで綾香の中には確かな事件の記憶がある。自分がしたことが何を引き起こし、何を壊したのか、綾香ははっきり覚えている。
けれどそれは語られないことなのだ。
語れない真実、けれど確かに起こったその真実の傷みを、綾香は話せないがために誰にも受け止めてもらえない。だがそれは、おそらく綾香を強く深く傷つけていくだろう。それに。
「綾香さんが護王を好きだったのは……本当だ」
その思いさえも幻になってしまう。綾香自身さえ思い出せなくなってしまい……けれど、封じ込められた記憶が何を引き起こすのか、洋子はたぶん誰より深くわかっているのだ。
(気持ちは全うさせないと……桜はきっと再び病む)
どんな祈りもどんな願いも一度放たれた思いは生きているのだから、それを看取って最後のケリをつけてやらねば、思いは行き場を失って彷徨い亡者を引き寄せる。人の心に悪を成す。
洋子は奉納舞いを思い出していた。
祭の儀式は『読み上げ』が主に思える。人々が楽しむためにあるかのように思える。
だがしかし、祭の意味はもう一つ、人の、それこそ忘れてしまった思いをも受け止めて悲しみ苦しむ存在を慰めるためにあるのだ。永遠を生きる命だからこそ見えてくるものを、一瞬しか生きない人に解らせることができない傷みを嘆く神、すがられて手を出せぬままに破滅していく命を抱きとめながら吠える神、その闇を人の心だけが一瞬照らす。
それゆえ、神は人を慕い、人を求め、人を呼ぶのだ、数々の災害を持ってまでして。
「姫さん……あんた…」
護王はゆっくりと体を起こした。一緒に洋子を引き起こし、そっと静かに抱き締める。
「あんたは…ほんまに……姫さんやねんなぁ……」
「護王…」
「ううん……いや……たぶん違う……俺は桜の護王やない」
護王は重い吐息をついた。
「あんたこそが……桜の護王……人の思いを受け取るもん…やねんや…」
「……それで…俺は…」
ふ、と護王は体を離して、洋子を見た。
「今…初めて…人になった、ような気がする」
それからまた半年後。
洋子は桜里を訪れていた。
里の外れに立ち並んでいる墓石は、半年も前の事件で幾つか新しいものが増えているが、それでもあまり目立った変化は見当たらない。
「これ…本…出たよ、綾子」
洋子はそっと墓石の前に送られてきたばかりの新刊を置いた。
「看護師からオカルト作家だって。妙な転身だよね?」
墓石には新しい花が供えられている。数日前に綾香が出所したと聞いたから、ひょっとすると彼女が立ち寄ったのかもしれないが、その綾香の行方は知れなかった。
「おーい」
遠くの方から声が聞こえて、洋子はゆっくりと立ち上がった。
「あんまり遅いし……迎えにきたで」
護王が急ぎ足に歩み寄ってきながらぼやく。
「あの大西夫婦っていうのは歳とるほどあほになるなあ」
「どうしたの?」
「ぜひこの村でサイン会を、やて。ふざけとるわ」
本気で怒っているらしい護王に腕をからめると、それで多少は機嫌を直したらしい。
「冷えてきてるし、もう帰ろ? お腹の子も寒がってるて」
愛おしそうに洋子の膨らみが目立ち始めた腹をそっと撫でた。
「男やろか、女やろか」
「男」
即答すると護王は目を丸くして洋子を見下ろした。
「なんでわかんの?」
「……母親の勘…ってやつ?」
「へえ……そうなんや」
くすぐったそうに笑う護王に洋子は微笑み返し、ふと視線を感じて目を上げた。
遠く、里外れに大きな桜の樹が見える。すぐ側に大石がしめ縄を張られて鎮座している。
「洋子?」
呼ぶ声に顔を上げると、護王が唇を重ねてきた。
「あ」
「え?」
「初めて、洋子って呼んでくれたね?」
「…そうやっけ?」
「結婚して三ヶ月かあ……長かったなあ」
「……ほっとけ」
みるみる赤くなった護王が顔を背けた。
「ようやく……慣れたんやし」
「ん?」
「洋子、言うて、やばい気持ちにならへんようになったん!」
「は…?」
護王はそっぽを向いたまま、それでも洋子の体を気遣ってか、歩調はゆっくりと静かなままだ。
「……んじゃあ…」
くすくす笑って洋子は少し考えてから、護王を見上げた。
「省吾、って呼ぶ?」
「ぅあ」
なお強く顔を背ける護王の顔が真っ赤なのは想像がつく。二人きりのときならあれほど大胆なのに、こういう場所ではからきしだめなのだ。
「いいよ、二人だけのときにね」
「う…」
忙しく瞬きしながら何とか正面を向いた相手に洋子はまた少し笑って、背後へ一瞬目をやった。
冬枯れの、わずかしか葉がない、枝ばかりの桜の樹。
(あの桜のずっと底に)
現世を支える深い闇があって、そこに桜が咲いている。
人の願いを聞き止め受け止め続ける孤独に、たった独り竦む神が。
「行こうか」
「ああ」
絡めた腕の温もりを感じながら、心をそっと桜に向ける。
(未来永劫)
洋子は胸でつぶやいた。
(未来永劫、あなたのために私は物語を続けます。私の生きる、人生そのもので)
だからどうか。
桜よ。
孤独に病まれるな。
おわり
「起きてて大丈夫なの?」
「うん……もうほとんど傷も塞がったみたいやし」
マンションのソファに座った護王が戻ってきた洋子に気づいて、新聞から顔を上げた。
「綾香……どないしてた?」
「え…うん」
護王の声を背中に部屋に入って着替えにかかる。
(やっぱり、まだ気になるんだよね)
刑務所の面会に行けるほどには護王は復調していない。
桜が約束を守ったのか、桜里ではあれほどスムーズに進んだ護王の回復が、いざ街に運ばれて病院に収容されてみると驚くほど遅々としか進まなかった。そればかりか、微妙に疲れた気配が強くなる護王を見兼ねて、少し早いと引き止められながらも退院し、マンションで療養し始めて三日になる。さすがに自宅は違うのか、病院にいるよりは顔色もよくなってきたようだ。
無理もない、と思う。
常人なら八ミリの銃弾を七発くらって無事で生きていられるわけがない。しかも、そのうち二発は体幹部、幸運で済ませるには確かに難しい怪我だった。遠回しに徹底的な検査を示唆されたのも、早めに退院してきた理由の一つだ。
ふい、と洋子の脳裏についさっきの綾香との会話が蘇る。
『どうして警察を呼んでくれたの?』
洋子の問いかけに、かなりやつれた顔で綾香は笑った。
『そやな……まあ』
ついと苦しそうに洋子から目を逸らせる。
『これ以上、護王に嫌われとう、なかったん』
その横顔は、まだどうにもならないほど護王が好きだと訴えていて。
洋子はもう何も語ることばを持ち合わせずに、黙って面会室を出てきたのだった。
「元気だったよ……頑張って少しでも早く罪を償っていきたいって」
声を無理に明るませながら、リビングに戻ると、護王は感慨深げにまた新聞を読んでいた。
「何?」
「桜里で何が起きたのか、やて」
くすりと苦笑いしながら洋子を見上げる。その左耳が削がれたように欠けている。
同じように自分の頬にもうっすらと白くカッターナイフの傷跡が残っているのだろうな、と思わず洋子は頬を撫でた。
「なんて書いてあるの?」
「住民のほとんどが記憶を失い、男性三人がひどい状態の遺体で見つかった……いったい桜里では何が起こったのか、てテレビ番組やるんやて」
「ふうん…」
洋子は護王の隣に腰を降ろして記事を覗き込んだ。
その記事によれば、桜里で行なわれていた『かおうしづめ』で強力な幻覚作用を起こす薬が誤って用いられた結果、何かの事件が起こり、里人が祭の記憶があやふやとなり、祭を訪れていた観光客と地元出身の医師二人が巻き込まれて死亡したとある。村上の死は刑事というより休暇旅行中の事故という扱いのようだ。怪我をして病院に収容された若いカップルは友人の墓参りに来たせい、ということになっている。言わずと知れた、洋子と護王のことなのだが。
けれど、本当はあそこで何が起こったのか、誰にももうわからないだろう。まさか全身に銃弾を打ち込まれた護王が村上と日高幸一郎を殺した犯人だとは思われないだろうし、洋子が幾つもの違う人生をくぐり抜けた後辿りついた、この世ではない地下の桜が全ての元凶だと、例え打ち明けたところで、誰が本気にするだろうか。
「……よう…無事…やったなあ…」
護王がぼそりとつぶやいて、洋子は我に返った。
「本当だよ」
気持ちを今さっきまで考えながら帰っていたことから切り離して、相槌を打つ。
「いくら不死だからって無茶ばっかりするんだから」
「違う…俺の言うてんのは、姫さん、あんたのことや」
むっとしたように護王が言い返した。
「ちょっとは自分が普通の人間やて、自覚してもらわんと、護るにも限界があるやんか」
(姫さん……か…)
護王はやはり洋子を名前では呼ばない。
(桜里にもう縛られなくてもいいのに)
どこまでいっても、洋子は姫さん、でしかないのかもしれない。
思わずついた吐息を素早く護王が聞き咎めた。
「なんや?」
「ううん……ああ、ほら、朝切ったって指、見せて」
「あ、うん」
護王が一瞬ためらって左の指を差し出した。傷テープがうっすらと赤く染まっている。
「なんか最近治りが悪いんや」
「ああ…そうかも、しれないな」
「そうかもって……困るやんか、そんなん」
「どうして」
「どうしてって……」
護王は僅かに赤くなった。
「怪我の治り悪かったら、姫さん護るのに困るやんか…」
「でも、それだけ一緒に歳がとれるよ、きっと」
洋子が微笑むとまた護王は微妙に赤くなった。
「そやけど……そら……あんたと一緒におられるのは……嬉しいけど……」
「それに」
洋子はぺり、と傷テープを剥がした。痛そうに眉をしかめる護王に苦笑してみせて、そっと右手の指先を当てる。温かな日射しが差し込む中で、それでもはっきりときらきらした光が洋子の指から流れ出て、護王の指を包むようにまとわりつくのが見えた。
「私が治癒力きちんと使えるようになったんだから、何かあったら私が面倒見るよ」
「!」
「あ、ごめん、痛かった?」
びくっ、といきなり護王が体を震わせて、洋子は慌てて指を離した。俯き加減で口元を押さえている護王を覗き込む。
「…いややねん」
「は?」
「……姫さん……それ…他のやつにも使う気やろ?」
護王は顔を上げないまま、むしろどちらかというと洋子の視線を避けるように顔を背けながらつぶやいた。
「ああ……看護師への復帰?」
洋子は溜息をついて苦笑いした。
「大丈夫、今のところは考えてない。話したよね、桜とも約束したし、今は別のことで……」
そこで思わず口をつぐむ。またここ数日考えていたことを堂々巡りで考えてしまいそうになったのだ。
「違う」
「え?」
「違うて」
護王はそっぽを向いたまま気難しい声で応じた。
「そんなこと、言うてへん」
「じゃあ、何?」
ちろ、と護王は横目で洋子を見た。目許がさっきよりかなり赤い。
「気づいてへんのやな?」
「何を?」
「……ずーーっと、気づかへんのやろなあ」
深々と溜息をつかれて洋子もむっとした。
「何よ、いったい」
「あのなあ」
「うん……あ」
ふわ、と護王が身を翻して洋子を押し倒してきた。ふいをつかれて思わずまともに食らってしまい、ソファに寝そべったまま護王を見上げると、相手はちゅ、と軽く唇を落としてきた。
「あのな……それ……やばいん」
「え?」
「タナトスとエロスは表裏一体、言うか」
「は?」
「これ…な…」
洋子の指を握りしめ、引き寄せて口付ける。
「されると……なんかとけそうになる」
「……は…?」
「もう……鈍いやっちゃなあ…」
護王が深く顔を沈めてきた。耳元で低く、
「イきそうに、なる」
「!」
「そやし……他のやつにやるの…いやや」
ばこっ!
「ったああ!」
「ばかっ!」
洋子はこぶしに握った左手を振り回した。
「昼間っから、何を言ってるんだかっ!!」
「……顔…赤いで?」
半分涙目になりながら護王はそれでもにやにやした。
「それに俺怪我人やで? もっと優しゅうしてぇな? ぐーはなし、な?」
思わず怯んだ洋子のこぶしを開かせながら、自分の背中へ導いて、護王はくすくす笑った。
その声に憂いはない。傷みは残っていない。幸せそうで落ち着いている。
洋子は気持ちを決めた。
「護王」
「ん?」
気持ちよさそうに洋子の上に体を重ねながら、どこか眠たげに相手は応じた。
「今度のこと……文章にまとめて…いいかな」
「え…」
ぎょっとしたように体を起こす、その顔に僅かに暗い影が翻る。
「私、桜に約束したんだ。たった一人で現世の地下で咲く孤独を慰めるって。舞いも詩もへただけど、文章なら少しは何とかなるかもしれないから」
「そやけど……姫さん…」
護王は不安そうに唇を噛んだ。
「そんなことしてバレたら…」
あんたをまた失うんか、俺。
声にならないつぶやきが胸の鼓動に重なって届く。
「現実は、手強いよ、護王」
洋子はに、と笑って見せた。
「さっきの新聞見たでしょ。ああやって、いろんな真実が呑み込み易い形に姿を変えていく。伝わってほしい本当のところが、うまく小奇麗にぼかされてしまう……それはそれで安定してていいことだけど」
またふっと綾香の切なげな顔が過った。
綾香はわけのわからない薬で暴走した里人の中で、直接犯罪に関わったとして大西夫妻と一緒に処罰を受けている。けれど、あの悲惨な状態をあやふやな記憶に摺り替えられてしまった大西夫妻とは違って、話せないだけで綾香の中には確かな事件の記憶がある。自分がしたことが何を引き起こし、何を壊したのか、綾香ははっきり覚えている。
けれどそれは語られないことなのだ。
語れない真実、けれど確かに起こったその真実の傷みを、綾香は話せないがために誰にも受け止めてもらえない。だがそれは、おそらく綾香を強く深く傷つけていくだろう。それに。
「綾香さんが護王を好きだったのは……本当だ」
その思いさえも幻になってしまう。綾香自身さえ思い出せなくなってしまい……けれど、封じ込められた記憶が何を引き起こすのか、洋子はたぶん誰より深くわかっているのだ。
(気持ちは全うさせないと……桜はきっと再び病む)
どんな祈りもどんな願いも一度放たれた思いは生きているのだから、それを看取って最後のケリをつけてやらねば、思いは行き場を失って彷徨い亡者を引き寄せる。人の心に悪を成す。
洋子は奉納舞いを思い出していた。
祭の儀式は『読み上げ』が主に思える。人々が楽しむためにあるかのように思える。
だがしかし、祭の意味はもう一つ、人の、それこそ忘れてしまった思いをも受け止めて悲しみ苦しむ存在を慰めるためにあるのだ。永遠を生きる命だからこそ見えてくるものを、一瞬しか生きない人に解らせることができない傷みを嘆く神、すがられて手を出せぬままに破滅していく命を抱きとめながら吠える神、その闇を人の心だけが一瞬照らす。
それゆえ、神は人を慕い、人を求め、人を呼ぶのだ、数々の災害を持ってまでして。
「姫さん……あんた…」
護王はゆっくりと体を起こした。一緒に洋子を引き起こし、そっと静かに抱き締める。
「あんたは…ほんまに……姫さんやねんなぁ……」
「護王…」
「ううん……いや……たぶん違う……俺は桜の護王やない」
護王は重い吐息をついた。
「あんたこそが……桜の護王……人の思いを受け取るもん…やねんや…」
「……それで…俺は…」
ふ、と護王は体を離して、洋子を見た。
「今…初めて…人になった、ような気がする」
それからまた半年後。
洋子は桜里を訪れていた。
里の外れに立ち並んでいる墓石は、半年も前の事件で幾つか新しいものが増えているが、それでもあまり目立った変化は見当たらない。
「これ…本…出たよ、綾子」
洋子はそっと墓石の前に送られてきたばかりの新刊を置いた。
「看護師からオカルト作家だって。妙な転身だよね?」
墓石には新しい花が供えられている。数日前に綾香が出所したと聞いたから、ひょっとすると彼女が立ち寄ったのかもしれないが、その綾香の行方は知れなかった。
「おーい」
遠くの方から声が聞こえて、洋子はゆっくりと立ち上がった。
「あんまり遅いし……迎えにきたで」
護王が急ぎ足に歩み寄ってきながらぼやく。
「あの大西夫婦っていうのは歳とるほどあほになるなあ」
「どうしたの?」
「ぜひこの村でサイン会を、やて。ふざけとるわ」
本気で怒っているらしい護王に腕をからめると、それで多少は機嫌を直したらしい。
「冷えてきてるし、もう帰ろ? お腹の子も寒がってるて」
愛おしそうに洋子の膨らみが目立ち始めた腹をそっと撫でた。
「男やろか、女やろか」
「男」
即答すると護王は目を丸くして洋子を見下ろした。
「なんでわかんの?」
「……母親の勘…ってやつ?」
「へえ……そうなんや」
くすぐったそうに笑う護王に洋子は微笑み返し、ふと視線を感じて目を上げた。
遠く、里外れに大きな桜の樹が見える。すぐ側に大石がしめ縄を張られて鎮座している。
「洋子?」
呼ぶ声に顔を上げると、護王が唇を重ねてきた。
「あ」
「え?」
「初めて、洋子って呼んでくれたね?」
「…そうやっけ?」
「結婚して三ヶ月かあ……長かったなあ」
「……ほっとけ」
みるみる赤くなった護王が顔を背けた。
「ようやく……慣れたんやし」
「ん?」
「洋子、言うて、やばい気持ちにならへんようになったん!」
「は…?」
護王はそっぽを向いたまま、それでも洋子の体を気遣ってか、歩調はゆっくりと静かなままだ。
「……んじゃあ…」
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絡めた腕の温もりを感じながら、心をそっと桜に向ける。
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(未来永劫、あなたのために私は物語を続けます。私の生きる、人生そのもので)
だからどうか。
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