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1巻
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しおりを挟むプロローグ
「リリー・アルマリア・ブリエンヌ」
「はい」
幼い頃より決められた婚約者からソレを言い渡される、待ちに待ったこの瞬間。
「お前との婚約を破棄する」
「はい!」
リリーは喜びの笑みを隠せなかった。
「お前は一体何を考えているんだ!」
父フィルマンの怒鳴り声がキーンと響き、耳鳴りを起こす。騒音とも呼べるその怒声に、リリーは目を閉じたまま思わず眉を寄せた。
学園のどこかに、父親直通の情報パイプがあるに違いない。そう疑いたくなるほど、父親の耳に入るのは早かった。
「お父様、室内にいるのですから、そのように声を張られずとも聞こえておりますわ」
「聞こえていても理解せねば意味がないだろう! この馬鹿娘!」
愛しい愛しいと頬ずりをしてくれたのは遠い昔の話。今では頬ずりもなければ頬へのキスもなし。あるのは屋敷中に響き渡る怒鳴り声と、血圧の上昇を知らせる赤い顔、そして蛇よりも鋭い睨み。
あまりの勢いに、テーブルの上に置かれた紅茶が揺れ、こぼれそうになる。それを、カップを持ち上げて防いだ。
「モンフォール家との破談が、ブリエンヌ家にどれほどの被害をもたらすことになるのか、わかっているのか!」
「そのようなことをおっしゃられましても、破談されたのはわたくしの方ですし」
「言い訳はいい! お前はその時、泣くでも縋りつくでもなく、笑顔だったというではないか!」
間違いなく父親のスパイが学園の中にいる。
「驚きと悲しみで涙も出ませんでした。ほら、言うではありませんか。人は悲しみのあまり笑ってしまうと。わたくしもそれと同じ状態で――」
「嘘をつくな」
娘の言葉を毛の先ほども信じていないその親心、娘ながら大変素敵ねと嫌味の一つも言いたくなる。顔を背け、いかにも悲痛な面持ちで口を押さえたのは芝居くさすぎたかと、リリーは表情を戻した。
「周りには大勢の生徒がいたのです。その場で泣き崩れて縋りつくなど、それこそブリエンヌ家の恥だと思いませんこと?」
「むしろブリエンヌ家のためを思うなら、憐れっぽく泣いて縋りつくぐらいはできただろう! 相手は王子だぞ! 公爵家の娘が必死に泣きつくのは何もおかしなことではない!」
「彼は心変わりしたのです! なぜ婚約破棄を言い渡されたわたくしが責められなければいけませんの?」
「お前が彼の心を繋ぎとめておかないからだろう! お前の努力不足だ!」
これはあまりに理不尽というもの。
確かに誠心誠意尽くしたりはしなかったけれど、彼の自尊心を傷つけたりもしなかった。婚約者として誇ってもらえるよう、成績も言動も気をつけてきたつもりなのに、父はそれを当たり前のことのように言い放つだけ。
リリーの生きている社会の一般論では、男性が心変わりするのは女性のせいで、女性の心変わりは女性自身のせい。いつまで経っても消えない女性差別を、ブリエンヌ公爵家の当主が堂々と口にするとは嘆かわしい。
「お父様がなんとおっしゃられようと、彼にはもう新しい恋人がいるのです! わたくしが泣き縋っても彼の心は戻ってきません!」
「努力する前から放棄するな! だからお前は馬鹿だと言うんだ!」
「お父様の娘ですから、それも仕方ありませんわ!」
リリーはカップを丁寧に置いた後、しかしその丁寧さが意味をなくすほど強くテーブルを叩いて立ち上がる。すると、こぼれた紅茶を拭きにメイドがサッと現れた。続いて父親もテーブルを叩いて立ち上がり、拭いたそばから紅茶がこぼれる。それでもメイドは表情を変えることなく黙々と掃除を続けた。
父のお気に入りのメイドは、よく躾けられているのだ。
「お話がこれだけでしたら、部屋に帰らせていただきます!」
「まだ話は終わっていない! 座れ!」
「泣き縋れとおっしゃるのでしたら、答えはノーですわ!」
「待て! リリー!」
声を荒らげる父を振り切り廊下に出るだけで、どっと疲れが出た。
婚約者がリリーに愛想を尽かして破棄を言い渡したのであれば、泣き縋ることもしたかもしれない。けれど、今回のこれは完全に彼の心変わりで、浮気も同然。その上大勢が見守る中で、隣に婚約者以外の女性を連れ、婚約者に婚約破棄を告げた彼の度胸は大したものだ。
しかし結局は親同士が勝手に決めた婚約。相手に対して愛情など欠片もなかったリリーはなんのショックも受けなかった。公爵令嬢でなくあくまでリリー個人としては、だが。
「そんなことより、本の続きを読まなくっちゃ!」
リリーは最近、日課と言ってもいいほど読書に時間を費やしている。窮屈なヒールを脱ぎ捨ててベッドに寝転びながら読む恋愛小説は格別だ。中でも最近流行の、悪役令嬢が主役の恋愛小説は特にお気に入り。
「ああ、なんて素敵なのかしら。嫌われようと自分の信念を曲げないとこが好きなのよね。イジメは良くないけど、ヒロインもたいてい図太い神経してるから悪役令嬢と張り合えちゃうのがまた面白いし、誰かに頼らないと生きていけないようなか弱いヒロインより、自分を持って生きてる悪役令嬢の方が断然いいわ。好き勝手できない身としては、こういう女性に憧れるのよ」
大勢の前で婚約破棄されようと、泣き喚いて命を絶つわけでもなければ無様に縋りつくこともなく、ただ揚々と、王子を奪ったヒロインをイジメ抜く。そんな性根の腐り方も好きで、既に二十冊以上は読み漁っている。
いつの世も女性は強いのに、自分達の方が有能だと思い込んでいる愚かな男性達が『女は男がいなければ何もできない』などと、勝手なことを口々に広めていった結果が、今の男女差別社会を作り上げている……と、リリーは思っている。
女性は決して弱くない。男性に守られずとも生きていける。裁縫、料理、お菓子作り。物を見る目なんかは男性よりも遥かに肥えているだろう。
それに比べて、男性は剣を持つか馬に乗るか、はたまた威張るかしかできないちっぽけな虚栄心の塊だ。おごり高ぶった男性貴族は一度没落でもしなければわからないだろう。
「また靴を脱ぎ散らかして。淑女としての気品を奥様のお腹の中に置いてきたようですね」
「淑女としての気品をお母様のお腹から取り戻す本なら椅子に座ってお上品に読むけど、悪役令嬢ものはベッドに寝転びながら読むのが一番なの」
いつの間にかリリーの背後に立っていたのは、メイド長のアネット。褐色肌が美しい彼女は、メイドとしては屋敷で一番優秀で、武術にも長けた強き女性だ。
地方で踊り子をしていた彼女を父が連れ帰り、メイドとして雇うという名目で寵愛していたものの、暫くしてまた地方へ視察に行った際に今度はアネットとは正反対のゆるふわ美少女に目を付けたことで、お気に入りから外された憐れな女。
どんな境遇だろうが、リリーにとっては唯一飾らずなんでも話せる親友のような相手である。
「そんな本ばかり読んでいるのが旦那様に知られたら、全て燃やされてしまいますよ」
リリーは見せびらかすように、教典のような装いの小説を掲げる。
「カモフラージュは完璧。これは私のバイブル! これから私が悪役令嬢として生きるためのハウツー本! いくらお父様であろうと燃やすなんて絶対に許さないわ!」
リリーは明日から、〝婚約者に捨てられた可哀相なリリー・アルマリア・ブリエンヌ〟ではなく〝悪役令嬢リリー・アルマリア・ブリエンヌ〟として生きることを決めていた。
突如現れた女子生徒に婚約者を奪われ破談に追い込まれるのはどの悪役令嬢も同じ。まず自分がどん底まで落ちてから、ヒロインへの復讐を目論むのが王道。まずはそこから。
「どうなさるおつもりですか?」
「初めは、突然破談を言い渡された可哀相なヒロインを演じるの。ただ、こういう本と少し違って、私は元々意地の悪い女じゃないのよ。品行方正に生きてきたつもりだし、成績優秀で容姿端麗。どう考えても王道のヒロインポジションの女でしょ」
「自分で言いますか」
「で、問題なのはそこなの。最初から意地が悪ければそのままでいいけど、急に性格が変わったように意地悪をしたって、不自然なだけだし、私の評判も下がってしまう」
「悪役令嬢とはそういうものなのでは?」
アネットの言う通り、悪役令嬢はわかりやすく悪役に徹するから魅力的なのであって、陰でコソコソするのは卑怯だし、格好良くない。だが、駆け引きあってこその面白さというのもある。
一冊の本につき主役は一人であるように、リリーの人生も主役はリリー一人だけ。巻き戻ってやり直しなんてできないし、失敗も許されない。
悪役令嬢として楽しい学園生活を送るためには、練りに練った作戦を遂行する必要がある。
「ゴホン。わたくしなりの悪役令嬢で参りますわ。おーっほっほっほ!」
口元に添えるのは手よりも扇子の方が悪役令嬢っぽいのだが、用意ができていないため今は手で我慢。
「ですが、本当によろしかったのですか?」
「何が?」
「王子との婚約解消です。王子がお嬢様の傲慢さに愛想を尽かしたのであれば何も言いませんが、女に奪われたのであれば悔しさもあるのでは?」
アネットの指摘にポカンと口を開けること五秒。リリーは呆れすぎてものも言えないとばかりに、大きく首を振る。
「アネットはあの新しいメイドにお父様を奪われて悔しいの?」
「旦那様の女好きは天性のものですし、私もあの若さだけが自慢の小娘同様、拾われてきた身ですので、悔しさなどありません。誰もが通る道だと理解しています」
顔には出すまいとしているようだが、アネットが心の底から悔しがっているのが語気の強さで伝わってくる。
「しかし、王子は旦那様のようなお方ではございません」
「婚約者がいながら他の女にうつつを抜かすような男は等しくお父様と同じタイプだと思うけど。まあ、どうだっていいかな。それにほら、彼のことあんまり好きじゃなかったし。常に自分が正しい俺様人間、世界は自分を中心に回ってると思っているような傲慢男には興味ないの。だから婚約破棄されて凄く嬉しい! 悪役令嬢にもなれるしね!」
リリー達の婚約は二人が惹かれ合ってこぎつけたものではなく、親が決めたものだ。恋愛感情は一つもない。
それどころか、リリーは相手の性格に嫌悪さえ感じていた。
「そんなことより、明日のために予習しないと!」
(きっと明日から、彼は〝彼女〟を傍につけて片時も離さないはず。そして、私の前に立ちはだかって嫌味の一つや二つ言い放つか、もしくはもう関係ないって態度で無視するか、どっちかはするでしょうね。その時〝彼女〟は彼の後ろに少し隠れてか弱い女性を演じて見せるんだわ。私の目が怖いとか、何かされそうで怖いとか言って少し震えてみたりして。そして、彼はスッと手を伸ばして彼女を守る!)
映像になって鮮やかに浮かぶ光景に、リリーは本を抱きしめてギュッと目を閉じ、興奮に足をバタつかせる。
(私はそれを大きく鼻で笑って「男性に取り入るのが得意ですのね。よろしければわたくしにもやり方を伝授していただけませんこと? ああ、できませんわね。天性の才能ですもの」と高笑いする。このプラン完璧っ!)
カッと目を見開き鼻息荒く起き上がると、大きくガッツポーズ。
「完璧なプランですわ! 自分の才能が恐ろしい! わたくしはきっと悪役令嬢になるために生まれてきたのかもしれない! いえ、悪役令嬢として生まれてきたんだわ……きたのですわ!」
悪役令嬢っぽい「ですの」「ですわ」口調にはまだ慣れないが、上手くやるしかない。
「ごっこ遊びもよろしいですが、あまり夜更かしはしないように」
「わかってる……ますわ!」
婚約破棄されてからがスタートなのだ。
そう、明日から悪役令嬢としての生活が始まるのだと喜びに震え、期待に胸を膨らませていた――はずだったのに……
第一章
「リリー」
登校したばかりの自分を馴れ馴れしく呼び捨てにする声に振り向くと、〝元〟婚約者のクロヴィス・ギー・モンフォールが立っていた。
頭脳明晰、容姿端麗、成績優秀、王の座が約束されている王子と、長所を挙げはじめるとキリがない、神に愛された男。
女子だけでなく男子にとっても憧れの存在である彼だが、昨日の今日で何用だと、リリーは笑顔ではなく素の表情を向けた。
「……おはようございます」
「話がある。ついてこい」
リリーが思っていた展開とは少し違う朝だった。
クロヴィスの傍には確かに人がいた。だがそこにいるのは見慣れた騎士見習いの護衛だけで、〝彼女〟はいない。
悪役令嬢としての登場シーンは最も重要だ。紙に書き出した嫌味な台詞をまるで舞台役者のように何度も発声練習したというのに、肝心のヒロインがいないのでは話が変わってくる。
「ここでどうぞ」
「ついて来いと言ったはずだが?」
「ここでじゅうぶんですから」
「何か問題でもあるのか?」
なぜ問題がないと思っているのだろう?
自分から破談にした女を部屋に招いて話す内容とは?
昨日の今日で部屋に来いなどとどの口が言うのかと、リリーは眉を寄せた。
こうなったら仕方がない。リリーは作戦を変更することにする。完璧なプランAから、何かあった時のためのプランBへ。
「今更わたくしに何用ですの? 昨日、わたくしは大勢の前で婚約破棄を言い渡されるという、それはそれは酷い羞恥と屈辱を与えられました。あなたにとっては心変わりの結果による当然の行為でしょうけど、それを手紙でわたくしだけに伝えるなどの方法もあったのでは? なのに、わざわざあのような場所であのようなやり方を……そんな非常識なお方と話すことは何もありませんわ」
腕組みをして顔を逸らし、フンッと鼻を鳴らしてみせる。そんなリリーを見る護衛の視線に、少し居心地の悪さを感じるも、引く気はなかった。
「リリーちゃん、気持ちはわかるけど、クロヴィスは昨夜からリリーちゃんと話がしたいって言ってたんだよ」
「……はあ?」
「その反応わかるよ、わかる。婚約破棄だって言っておいてその翌朝から話がしたいなんて、馬鹿も休み休み言えって思うよね」
「おい」
クロヴィス同様、リリーに馴れ馴れしく呼びかけるこの男はセドリック・オリオール。オリオール家は代々モンフォール家の護衛をしてきた騎士の家系だ。クロヴィスとは幼馴染だが、家柄のせいもあって従者をしている。
誰にでも、特に女性に優しいセドリックの周りにはいつも、砂糖に群がる蟻のように女子生徒が集まってくる。皆、セドリックの優しさが好きなのだ。
「さほど時間は取らせないだろう。話ぐらい聞いてやれ」
クロヴィスを挟んでセドリックとは反対側に立つ不愛想なこの男は、フレデリック・オリオール。セドリックの双子の弟で、こちらの方が背が高く、がっちりと筋肉質な体つきをしている。兄と同じく端整な顔立ちながら、感情表現も口数も少ない故に女子生徒はあまり近付かない。しかし、剣の腕が立つこともあり、意外にも人気は高い。
「時間が掛からないのであれば、こちらでよろしいのでは? 大勢の前で婚約破棄を突き付けられるのですから、たいていのことはどこででも話せるでしょう?」
「とりあえず部屋に来い。ここで言い合う時間がもったいない。それこそ無駄な時間だ」
どうしても学園内の自分の部屋へ呼びたいらしい。人を殴りたい衝動に駆られた時、皆はどうやって抑えているのか学んでおくべきだったと、リリーは自分の勉強不足を後悔した。
無意識に握り込んだ拳を感情のままに振り下ろしてもフレデリックに止められるのは目に見えているし、まだヒロインが出てきていないのに〝リリー・アルマリア・ブリエンヌは暴力的〟とイメージが変わってしまうのは困る。
だが、リリーは今日からは悪役令嬢なのだ。少しぐらいヒステリーな姿を見せてもいいような気もしていた。
「あなたはもう婚約者ではありませんので、わたくしが言うことを聞く義理はないのですわ。まあ、あなたがどうしてもとお願いするのであれば、聞いてあげないこともありませんけど。どうしてもと、お願い、するのであれば」
我ながら少し悪役令嬢っぽいことが言えたと震えそうになるのを堪え、リリーは一人感動を噛みしめる。これで間違いなく悪役令嬢としての第一歩は踏み出せたはずだ。
あのモンフォール家にこんな口を利けるのは、人を敬うことを知らない悪役令嬢か命知らずの愚か者ぐらいだが、自分は婚約破棄された悪役令嬢なのだから問題ない、とリリーは満足げに頷く。
「リリーちゃん、なんか性格変わった?」
「猫をかぶっていただけだろ」
この脳みそ筋肉男フレデリック・オリオールの言葉選びを、リリーはあまり快く思っていない。
レディへの物言いを知らない男は死罪という法律があれば今すぐギロチンにかけられたのにと、リリーは顔を背けて溜息をつく。
「王家に嫁ぐに相応しいレディとして振る舞っていただけですわ。でもそれももう必要なくなったことですし、これからはありのままの自分で生きようと思いましたの。これが本当のわたくしだと思っていただければよろしいですわ」
「……」
昨日の今日で話し方が変われば誰だって怪しむに決まっている。
フレデリックの言う『猫をかぶっていた』という発言は間違ってはいない。リリーの急変を怪訝に思う気持ちもわかるが、これからはこうして生きると決めたのだから、軽蔑されようとどうだっていい。そんな小さなことを気にしていては悪役令嬢にはなれないのだ。
「話し方おかしいよね。リリーちゃんっぽくない」
「おかしくありませんわ! わ、わたくしは元々、こういう喋り方ですのよ!」
「子供の頃から知ってるけど、絶対違う」
「馬鹿っぽいぞ」
〝馬鹿っぽい〟。それはリリーが言われたくない言葉ベスト3に入るもの。リリーがどういった言葉を嫌うかわかっているくせにサラッと言ってしまうのがフレデリック・オリオールという男だ。リリーの中で彼は〝無神経男〟と呼ばれている。
早く法整備をしてもらわなければ他の女性までこの男に傷つけられかねない。リリーはやることリストにフレデリックの断罪を追加した。
「とにかく来い」
「ですから、来てほしければ頭の一つでもお下げになってはいかが? あなたがそこまでなさるなら、従ってあげてもよろしくてよ」
男のプライドは常に雲の上にあり、地面に立つ女に頭を下げるなど面子が立たない行為だ。それをわかっていて、どうしても来てほしいならその頭を下げろと、リリーはクロヴィスを挑発した。
腕組みをして顎を少し上げたリリーを、オリオール兄弟が困った顔で見る。
「……俺の部屋に来てく――」
「行きます! 行きますわ! さあ行きましょう!」
迷いなく頭を下げようとするクロヴィス。それに耐えられなかったリリーは、とっさに彼の額を両手で支え、それ以上は下げられないようにした。
クロヴィス・ギー・モンフォールが女に頭を下げる様など見ていられない。孤高の王族モンフォール家の長男が公爵家の娘に頭を下げるなど、あってはならないことなのだから。
(ああっ、私の馬鹿! 弱虫! 根性なし!)
そもそもあの堅物がなぜこんなにも馬鹿正直に頭を下げようとしたのかわからないリリーは、何か企んでいるのではないかと不安になっていた。
「ハーブティー、好きだったよね?」
「本当は甘ったるいチョコレートドリンクが好きなんですの。ハーブティーなんて味のない飲み物を好む女性がいると、本当に思っているなら驚きですわ。チョコレートドリンクにしてくださる?」
「クロヴィスは女がキャッキャ言いながら貪るチョコは好まない。知ってるだろ」
「わたくしは食べますの。毎日毎日飽きもせず何十個も、その女がキャッキャとはしゃぐものを貪ってますのよ」
「でも、チョコレートはないからねぇ」
「じゃあ結構ですわ。昨日の今日で話したい大事なお話とやらを聞いたらすぐに帰りますので、さあどうぞお話しなさって」
本当はハーブティーはリリーの大好物である。モンフォール家の用意するハーブティーは特に香り高く、ほんのり甘くてリラックス効果抜群の高級品。この部屋に呼ばれる時はいつも、クロヴィスとの退屈な会話よりハーブティーを楽しみにしていたぐらいだ。
(悪役令嬢ってチョコレートドリンクが好きなのかしら? 令嬢だからハーブティーぐらい飲むわよね? もらえば良かったかな)
セドリックの申し出を突っぱねたものの、まだ掴みきれていない悪役令嬢キャラのせいで大好物を逃したことをリリーは若干後悔した。
「俺は昨日、お前に婚約破棄を言い渡した」
「ええ、驚きましたわ。婚約破棄よりも、まさか他人への敬意の払い方も知らない方が王子だったなんて、と。あれではまるで見世物でしたものね。モンフォール家の跡取りであるクロヴィス・ギー・モンフォールに切り捨てられたわたくしは、父からそれはそれは酷いお叱りを受けましたのよ。あなたの心変わりはあなたの浮気心のせいではなく、わたくしが至らなかったせいだと」
「そうか」
(そうか? そうかって言った?)
肯定こそしていないが、否定なきは肯定も同然。これは男女の脳の違いによる認識の不一致ではなく、幼い頃より王となる存在であれと叩き込まれ、彼を見下す者も存在せず、常に彼の意見が正しいとされる世界で育ったせいだと、リリーはわかっていた。
そして、自分が抱えているこの感情が、爆発寸前の怒りであることも同時に確信する。
「だが悲しんではいないだろう」
「そのようなこと……。あと一年で結婚だと思っていたのに、突然婚約を破棄されて、驚きと悲しみで昨夜は眠れませんでしたわ」
実際はノートに悪役令嬢らしい台詞と行動を書き出していたせいで眠れなかっただけだが、リリーは涙の滲まない目元を押さえ、バレバレの嘘泣きをして見せた。
「そのわりには肌艶が良く、充血も見られないが?」
「一晩眠れなかったぐらいで悲愴がるような、悲劇のヒロインじゃありませんのよ。オーッホッホッホッホ!」
初めての悪役令嬢っぽい笑い方に、使う場面が理想的ではなかろうかと、リリーはニヤつきそうになるのを堪える。
「俺が聞きたいのはただ一つ。お前はなぜあの時笑った?」
「あの時?」
「俺が婚約破棄を告げた時だ」
言われてようやく、自分が満面の笑みで婚約破棄を受け入れたことを思い出した。
リリーは、今回の婚約破棄を前々から予想していた。悪役令嬢ものの小説を読んでいたことも理由の一つではあるが、女の勘でもそれはじゅうぶんに感じ取れた。
転入生として現れた貧民街出身の娘が、いつの間にかクロヴィスの横に立つようになり、リリーが気付いた頃には二人は何かを疑いたくなるほど親しくなっていた。
愛らしい笑顔と小柄な背丈はたいていの男が守ってあげたいと思うだろうもので、〝彼女〟が現れてから、リリーはクロヴィスからお茶に誘われる機会が減り、〝彼女〟とお茶をしている彼の姿を見かけることの方が多くなった。
そして何より、この春に行われたパーティーでは、明らかにリリーより〝彼女〟と話している時間の方が多かった。
これらを経験していながら、自分は婚約者だからと胡坐をかき続けるほど、リリーは馬鹿な女ではない。そのため、近いうちに婚約は解消になるかもしれないと、覚悟していた。
故にリリーは、婚約を破棄してもらえれば悪役令嬢として理想的なスタートが切れるという、目論見通りになった状況に、つい笑顔になってしまったのだ。
応援ありがとうございます!
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