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1巻
1-2
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「俺達の婚約は親が決めたもので、俺達が愛し合って決まったことではない」
「そうですわね」
「それなら、なぜさっさと言い出さなかったんだ?」
「何をでしょう?」
「婚約解消をだ」
クロヴィスが何を言っているのかすぐには理解できなかったリリーは、ポカンと口を開けたまま数秒固まってしまった。
親が決めた王族との婚約にどうして自分が、公爵の娘が、解消など言い出せるのか。
クロヴィスはリリーの父親がどんな性格かをよく知っているはずなのに、それこそ〝なぜ〟リリーから婚約解消を言い出せると思ったのかが謎だった。
「笑うほど嬉しかったか?」
あの時と同じように笑顔で『はい!』とは言えない。
まさか愛読していた悪役令嬢本の展開と同じように、大勢の前で婚約破棄を突き付けられたのが嬉しかったなんて、言えるはずがなかった。
「そんなの……泣きたくなかったからですわ。父は泣いて縋りつけとわたくしに怒鳴りましたが、心変わりしたあなたをどうして引き留められますの? 皆の前で婚約破棄を言い渡すということは、それは嘘や冗談ではないということ。わたくしにできることは、みっともない姿を晒すことではなく、しっかり現実を受け止めて笑顔でいることだけだったのですわ」
嘘と本音が半分ずつ。
これが愛しい婚約者が相手であれば、数日間泣き続けていたかもしれない。しかし、リリーとクロヴィスの意思による婚約ではない以上、愛情が芽生えることはなかった。愛情がない関係に心変わりがあるのは当然のことだと、リリーは理解している。
「お前は――」
「そんなことより、今日はエステル様はいらっしゃいませんの?」
「……ああ、呼んでいないからな」
「そうですか」
貧民街出身のヒロインが姿を見せてくれれば、悪役令嬢への道をもう一段階ステップアップできるのに、どうして大事なこの場にいないのか。
クロヴィスに呼び出されたことも不満だが、それよりも、ヒロインが同席していないことの方がずっと不満だった。
(ヒロインはいつも主人公の傍にいなきゃ話が進まないのを知らないの?)
苛立ったリリーは、本当に最後まで現れないつもりかと、狭くはない室内を見回す。
「――クロヴィス様!」
「……エステル、なぜ来た。ここには来るなと言ってあっただろう」
「リリー様がご一緒だと伺って……その……」
(来た、来た来た来た!)
〝彼女〟登場。来るなと言われていたのにやってくる。それでこそヒロイン。
彼女――エステル・クレージュは、貧民街出身でありながら貧しさや卑しさを感じさせない。リリー達令嬢に混ざっても違和感のない制服の着こなしか、それとも化粧のおかげかはわからないが。
控えめな声で遠慮がちに話しかけ、体の大部分は部屋の外にあるのに顔はしっかりと中に入っていて、眉の下がった上目がちな視線。これぞまさにヒロインの行動だと、リリーは思わずガッツポーズしそうになった。
こういう展開がなければ綿密に立てた悪役令嬢計画がダメになってしまう。リリー的にはどんどん前に出てきてほしかった。
「あら、エステル様ではありませんか。ごきげんよう。ちょうどエステル様のお話をしていたところですわ」
「え、そうなんですか? リリー様とクロヴィス様が揃って私の話だなんて、恐れ多いです」
話の内容までは言っていないのに良い話と解釈したようでパアッと表情を明るくする。そのままちゃっかり部屋の中に入ってくる辺り、なかなか図太い人物らしい。
「あなたが卑しい貧民だという話をしていましたの」
「え?」
「リリー」
(ここが、ここが私の悪役令嬢としての意地の悪さの見せどころよ。準備は万全。舞台は整い、役者は揃った。プランBからプランAへ移行する!)
相手もいないのに予習し続けた成果を見せる時だと、リリーは頭の中にある【悪役令嬢ノート】を開いてプランAに〝実行〟の判を押す。
「一緒に来てほしいと彼に頭を下げられて、渋々この部屋にやってきましたの。誰かから聞いたのか、それとも陰から盗み見ていたのかは知りませんけれど、わざわざ部屋まで来て顔を覗かせるなんてあざとい真似が、よくできますわね」
「あざ、とい?」
「わたくしを部屋に招いたことが心配だったのでしょう? 可能性は低いけれど、婚約破棄を撤回するかもしれない。もしくはわたくしが泣いて縋りつき、彼が考え直すかもしれない。そうなったら必死に奔走して取り入った自分の立場がなくなってしまいますものね。ふふふっ」
どんなことがあろうと王子に失望されるような人間にはなるなと教育されてきたが、悪役令嬢になれる楽しさを考えると、そんな教育はもうどうだっていい。ただ、扇子を用意していないことだけが悔やまれた。発注はしたがまだ届いていないのだ。
「わ、私、そんな心配は……」
両手を握りしめて小さく震える姿は、悪役令嬢にイジメられるヒロインそのもの。こんな場面を父親に見られでもしたら勘当ものだが、今更やめようなどと思うはずもない。
ずっと憧れていた存在に自分が今なろうとしているこの高揚感を手放すことはできない。性格が悪い、猫かぶり、性根が腐っているなどと言われようと、進み始めた足を止めるつもりはなかった。
「クロヴィス様……」
いつの間にかしれっとクロヴィスの隣に腰かけたエステルが、クロヴィスの袖を摘まみ、今にも泣き出しそうな顔で助けを求める。そんな、リリーが何度も小説で読んだようなシーンがそこに再現された。
「リリー、侮辱はやめろ」
エステルの前に腕を出し、庇うようなポーズでリリーを止めるクロヴィス。
これがヒロインであればクロヴィスの反応に傷付き涙を滲ませて部屋を飛び出すのだろうが、それはあくまでもヒロインの行動であって、悪役令嬢はそんな行動には出ない。
リリーにいたっては泣くどころかむしろ、悪役令嬢ポジションに立てたことへの興奮で、呼吸が乱れそうになっていた。
「男性に取り入るのがお上手ですのね。よろしければわたくしにもやり方を伝授していただけませんこと? ああ、できませんわね。天性の才能ですもの」
「酷い……ッ」
クロヴィスの胸に顔を寄せ、肩を震わせて泣き出したエステルの小さな背中に、長い腕が回る。
ヒロインたるもの、いつ何時も涙を忘れてはならない。その点、リリーは婚約破棄の時に涙どころか笑顔を見せてしまったため、自分は最初からヒロインには向いていなかったのだ。エステルの様子に大いに納得した。
「王子、話は以上ですか?」
「……ああ」
「では、わたくしはこれで失礼いたしますわ」
悪役令嬢は去り際にも余裕を持つこと。感情を乱さず、泣くヒロインの傍を華麗に去る。
それが、理想の悪役令嬢。
「フレデリック、送ってやれ」
「結構ですわ。ブリエンヌ家とモンフォール家はもうなんの関係もありませんもの。あなたとわたくしも今日から、いえ、昨日からすでに赤の他人。ですので今後、もしわたくしの姿を見かけても、話しかけてくださらなくて結構ですわ。浮気男と話すことなど何もありませんし、顔も見たくありませんから」
「リリー」
「さようなら」
リリーは、自分でも驚くほどクロヴィスに未練がなかったことに、少し申し訳なさを感じていた。
親が決めた婚約なのだから愛情などなくても仕方ないが、ここまで相手を想う気持ちがないとは思っていなかった。ほんの少しは胸が痛くなったりするかと思っていたのに、エステルがクロヴィスに抱きついた時でさえ、何も感じなかったのだ。
思ったのはただ一つ。〝エステルは素晴らしいヒロイン気質の持ち主だ〟ということだけ。
リリーは今日、悪役令嬢の素晴らしさを身をもって知った。
こんなにスッキリとした別れが訪れるなんて思ってもいなかった。
婚約解消されただけのブリエンヌ公爵家長女リリー・アルマリア・ブリエンヌだったら、あんなことは絶対に言えない。ちゃんとクロヴィスの話を聞いて、彼を理解しようとしたはず。
それがあんな無礼な言葉を臆することなく言えたのだから、役になりきることの凄さを痛感していた。
(抱きしめてた)
スッと当たり前のように、守るように回された腕。自分が彼に抱きしめられたのはいつだったか、そもそも抱きしめられたことが一度でもあっただろうか。思い出そうとしても出てこない。
(ま、クロヴィスも私と同じだったってことよね)
好き合っていなかったのだから浮気もわかる。公爵令嬢から乗り換える相手としてはエステルの身分は最悪だが、それももう自分には関係ないことだ。
「疲れたぁ……」
「また靴を脱ぎっぱなしにして。制服も、脱いでたたんでからベッドに上がってください」
「少し休んでるだけ。今日はまだすることがあるの」
「せめて制服を脱いでからにしてください」
悪役令嬢が、ただ高笑いをするだけのキャラクターではない理由が、なんとなくわかった。
今日、ああした態度を取ったことへの後悔は微塵もないが、それでも、心配で顔を覗かせたエステルを一方的に傷付ける必要はなかったような気もしていた。あの唐突すぎる侮辱は、凛とした悪役令嬢の行いではなく、ただのいじめっ子だったかもしれない。
悪役令嬢にも色々な性格の持ち主がいるように、リリーも自分がなりたい姿をハッキリ描かなければならない。今後の課題が見つかった以上、今日もまた机に向かって夜更かしすることが決まった。
「アネット、私とクロヴィスって何か婚約者らしいことはしてた?」
「いいえ、何も。いつも退屈そうにお茶をしてましたね。お嬢様は本を読み、王子は政治の話をし、次の逢瀬の時間を決められて別れる。愛の冷めた夫婦のようでしたよ」
「そうよね……」
愛情など欠片もないのだから、それに不満を感じたことはなかった。もしひと欠片でも愛情があったなら、自分を見てくれないクロヴィスに怒ってリリーから婚約解消を口にしたかもしれない。怒りさえ込み上げなかったのは、冷める愛もなかったからで……
思えば、エステルのようにクロヴィスに抱きしめられたり甘えたりということは一度もなかった。だから、自分と比べてクロヴィスの体温が高いのか低いのか、手は大きいのか小さいのか、抱きしめる腕の力は強いのか弱いのか、リリーはそんなことさえ知らなかったし、知ろうともしなかった。
父親が言う〝足りない努力〟とはそれだったのかもしれないと、今になって気付く。しかし、気付いたところで次の機会は存在しない。もう婚約者という関係は終わったのだ。
「ところで、旦那様が次の婚約者探しに奔走しておられるのはご存知ですか?」
「嘘でしょ? 早すぎるわ!」
「悪役令嬢ごっこを満喫している時間はないかもしれませんね」
「嫌よ! 始まったばかりなのにまた相手に合わせるなんて、そんなの嫌!」
しかし、リリーの父親の性格上、娘の待ったなど聞いてくれるはずもなく、翌朝には目の前に座る父の姿が見えないほど高く、数えるのも嫌になる量の見合い写真が積み上げられた。
「どれがいい? お前が好きなのを選ばせてやろう」
「ショッピングではありませんのよ」
「今度は面倒がないよう、次男を選んだぞ。顔良し家良し、まあ性格に難がある男もいるが、そこはお前と同じ。お前が上手くやればいいだけの話だ。今度こそ、な」
「そんなところに娘を嫁がせるなんて、不安じゃありませんの?」
「お前が王子に婚約破棄を言わせたせいだ。反論ではなく反省をしろ」
「わたくしのせいではありませんわ!」
「その馬鹿みたいな喋り方をやめろ!」
フレデリックに続き、二度目の〝馬鹿〟。これは悪役令嬢の基本の喋り方であって、馬鹿な子のように喋っているわけでは決してないのに、女心がわからない男は口を揃えて『馬鹿』と言う。
言葉は人が持てる中で最大の武器だと言われているのを知らないのかと噛みつきたい苛立ちを、リリーは笑顔を貼りつけることで堪えた。
「わたくしはこれからこの喋り方で生きていくと決めましたの!」
「馬鹿を言うな! お前は父親に恥をかかせたいのか!」
「娘を恥だと思うのですか?」
「そんな馬鹿みたいな話し方をする娘を恥だと思わん親はおらん!」
これがなければただの嫌味な人間になってしまうのだが、こうするに至った経緯を話しても、理解してもらえなければ意味がない。その理解力が自分の父親にあるとは思えず、リリーは説明を諦めて顔をしかめるしかなかった。
「おはようございます、リリー様」
「おはようございます」
登校前に父親とやり合ったおかげで、既に疲労困憊のリリー。
こんな日は学校になど行かず、部屋に閉じこもって悪役令嬢が活躍する小説を読み耽りたい。しかしそんなことをしているのがもし父親にバレでもしたらと思うと、考えただけで恐ろしい。そのため笑顔を貼りつけて登校したわけだが……
「リリー」
「……冗談でしょ……」
昨日のことが夢でなければ、昨日リリーは間違いなくクロヴィスにハッキリと伝えたはず。もし姿を見かけても声をかけるな、顔も見たくないと。
それに、ずっと言ってみたかった台詞を言えた感動に身体が震えたあの感覚が夢であるはずがないと、リリーは首を大きく横に振る。
「リリー、話を――」
「王子、わたくしのことはこれからブリエンヌ嬢とお呼びくださいませ」
「なぜだ?」
「わたくしとあなたが他人だからですわ」
「婚約者ではなくなったが、幼馴染だろう」
「幼馴染は他人ですのよ」
「リリー、昨日の話の続きを――」
「結構ですわ!」
昨日話をしたという出来事は覚えていても、その内容は忘れているらしい。多忙な毎日だからクロヴィスも疲れているんだわと理解を示し、リリーは足早にその場を後にした。
正直に言うと、悪役令嬢としては王子という存在はどうだっていい。リリーが読んだ小説の中には叶わぬ恋に身を焦がしてヒロインをイジメる悪役令嬢もいたが、リリーは叶わぬ恋をしたのではなく婚約破棄をされただけ。
対王子用のプランを練っていないため、相手にしたくないというのがリリーの本音だった。何より、今まで微塵も感じなかった〝疲れる〟という感覚に支配されている今、できればクロヴィスとは話をしたくなかった。
「皆さん、おはようございます」
教室に入ると、リリーはいつもと雰囲気が違うことに気が付いた。いつもなら返しきれないほどの挨拶の声がかけられたのに、今はパラパラとしか聞こえてこない。それらの声はどれも小さく、誰一人リリーに寄ってこない上、向けられる視線が変だった。
怪訝に思ったリリーが室内を見渡すと、何事かと聞くまでもなく、原因はそこにいた。
「リリー様! 昨日は大変失礼いたしました! クロヴィス様と大切なお話をなさっていたのにお部屋を訪ねて、私なんかに中断されてしまったことでご気分を悪くされましたよね」
「いえ、いいんですのよ」
「皆さんが親切にしてくださることに甘えすぎていたんだって気付きました。私、親切を受け取っていただけで、取り入ったつもりなんて全然なくて。あざといつもりもなかったんですが、リリー様にはそう見えていたのですね。これからは気を付けます」
小説の中でよく見る〝息を呑む〟という行動を、リリーは初めて自分で経験した。
リリーが来るまで、エステルはきっと昨日のことを歪曲してクラス中に言いふらしていたのだろう。
大きな瞳を必要以上に潤ませて口元を手で覆い、震える。
昨日も今日もそんなに震えて筋肉痛にならないのかとどうでもいい疑問がリリーの頭をよぎるが、さすがにここでそんな無神経なことを聞くわけにはいかない。
「私は確かに貧民街の出で卑しい身分かもしれません。でも、貧民街出身の人間が全て卑しいような言い方はなさらないでください」
今は関係のない話をあえてここで暴露するとは、なんとも賢いヒロイン。
自分を犠牲にしたような言い方で好感度を上げ、全員の前でリリーの言動を晒すことでその評判を落とすという、なんとも隙のない作戦。
(皆の前で堂々とやるって凄い。あざといつもりがないって言ったそばからあざといんだから凄いわ)
しかし、これでエステルがしてやったりと思っているのであればそれは大間違いだと、リリーは笑顔を見せる。リリーにとって今の状況はご褒美であって、窮地にはなりえない。
こうして立っているだけで勝手にリリーの評判を落とし、悪役令嬢への道を歩ませてくれるのだから感謝したいくらいだ。
「傷付けてしまったのなら謝ります。ですが、部屋に来るなという王子の命令を無視して部屋を訪ねるのは感心しませんわね。わたくしとクロヴィス様が二人きりになるのを心配してのことでしょうけど、婚約者でも恋人でもないあなたが間に入っていいことではありませんのよ」
「え、ええ、ですから謝罪を……」
「それから、王子が入っていいと許可を出していないのに中へ入って居座るのも、どうかと思いますわ」
「も、申し訳ございません……!」
「あのような常識外れな振る舞いをなさる方は初めて見たものですから、貧民などと度を過ぎた言い方をしてしまいましたの。そのことについては謝りますわ」
周りの生徒が放つ異様な雰囲気に、リリーは顔を動かさないよう視線だけを周囲の生徒に向けた。
男子生徒達が怒りを滲ませてリリーを睨んでいるのは勘違いではない。それだけ、リリーよりもエステルの人気が高いということだ。
(きっとこうして私は皆から軽蔑の目を向けられ、これからは一人ぼっちで過ごすことになるのね。すれ違い様に何か言われたり、陰口を叩かれたり、実は最低な女だったとあることないこと噂を流されて、それでも己が道を行く。そんなストーリーが浮かんでくるわ! ああ、楽しみで仕方ない!)
期待でニヤつきそうになる口元を、リリーは届いたばかりの扇子を広げて隠す。
「そろそろ授業が始まりますので席に――」
「リリー様はそのようなお方ではありません!」
「え……?」
まずは上々の出来、とエステルを解放しようとしたところで、ふいに女子生徒に遮られ、思わずリリーの口から間の抜けた声が漏れた。
「そうです! もしリリー様がそのようなことをおっしゃられたのだとしたら、それはエステルさんがそれだけ非常識なことをしたからです! この学園では紳士淑女としてのマナーを学ぶ授業があります。この学園にいる以上はそれに基づいて行動すべきです。にもかかわらずそれを学ばず、無礼な行いをしたエステルさんに問題があると思います」
誰かが庇ってくれる展開なんて想像もしていなかった。皆に見放されて一人ぼっちになりながらも悪役令嬢として強く生きていく……つもりが、これはリリーの台本にはなかったことだ。
何か策はないか? もっと侮辱の言葉を、と思っても、焦りで回らない頭では「貧民」というワードしか出てこない。それではあまりにも語彙力に欠け、エステルだけでなく、エステルと同じような境遇の人間をも侮辱することになってしまう。
リリーが悪役令嬢として接する相手は婚約者を奪ったヒロイン――すなわちエステルただ一人。無関係の者まで攻撃するつもりはない。
「庇ってくださってありがとうございます。でもいいのです。私がそう言ったことは確かですし、庇っていただくようなことは何も――」
「腹が立てば誰だって普段言わないことも言ってしまうものです。リリー様がお優しい方であることは皆が知っています。私達はリリー様の味方ですから!」
「あ、ありがとう、ござい、ます……?」
(なぜこうなってしまうの? ここは全員が私をひそひそとけなしながら散っていく場面なのでは?)
あんな嫌味な言い方をした人間になぜ味方が出てきてしまうのか、リリーには全く理解できなかった。
「リリー様、ランチご一緒しませんか?」
「あ、今日はバラ園で人とお茶をする予定なのでごめんなさい」
「そうですか。ではまた午後に」
「ええ」
午前の授業は全く頭に入ってこなかった。
リリーの予定では『差別する人だとは思わなかった』、『あんなに良い子のエステルちゃんに優しくできないなんて心の狭い女だ』、『公爵令嬢だからって言いたい放題ね』とかなんとか、ひそひそと言われるはずだった。それが少しも上手く進んでいない現実に一瞬心が挫けそうになったものの、男子生徒の目は予想通り冷たくなったので、これはこれで成功したと言えるのかもしれないと前向きに考えることにする。
予想外だったのは女子生徒の中に元々エステルを快く思っていない者が多かったということ。リリーから離れていかなかった生徒は思った以上に多かった。
「まだまだ悪役令嬢と名乗れる日は遠そうね……」
「――キャアッ!」
「キャッ!」
ランチを食べながら今後の行動を考えようと、構内にあるバラ園の入り口に着いた時、リリーはドンッと何かにぶつかり、続けて悲鳴のような声と何かが地面に落ちる音を聞いた。
リリーも思わず一緒に悲鳴を上げ、ぶつかった相手に顔を向ける。
「……あら、エステル様」
「リリー様……」
「だいじょう――」
「きゃあぁぁあああ! ごめんなさいリリー様! 申し訳ございません!」
「え?」
お互いそこまで強くぶつかっていないはずなのに一人尻餅をついているエステルが、急に騒ぎ出した。
バラ園は多くの生徒がランチタイムに利用する人気の場所。今の時間帯は、従者を引き連れた令嬢令息達が優雅に歩いている。
エステルの喚く声は、自分の自慢話と他人の噂話にしか興味がない彼らの足を止めるにはじゅうぶんで、リリーとエステルの周囲にはすぐになんだなんだと人が集まり始めた。
「ぶ、ぶたないでください! お許しください!」
「え? ぶつ?」
「申し訳ございません! クッキーを焼いたのでクロヴィス様にお届けしようとしていただけなんです!」
エステルがどこへ何をしに行こうとしていたかはどうでもいいし聞いてもいない。
リリーがエステルへ手を伸ばしたのはぶつつもりではなく助け起こそうとしたからなのだが、エステルの大袈裟な演技により、人によってはリリーが彼女を叩こうとしているように見えただろう。
「私がクロヴィス様にクッキーをお届けするのが気に入らないのですね……」
「え、いえ……あ」
もしかして、エステルは自分の企みを知っていて協力してくれているのではないか、とリリーが勘繰ってしまうほど上手く状況を運んでくれる。ならばこれを利用しない手はない。これは自分に与えられた、またとない機会。
これはヒロイン自ら運んできてくれた、悪役令嬢への更なるステップアップのチャンス。拾わないわけにはいかないと、咳払いをしてから顎を少し上げ、見下す表情を作った。
リリーの足元には、内容が一目でわかる透明の袋にピンクのリボンでラッピングされた、見るからに手作りのハート型クッキー。
手作りという時間と手間のかかる作業をしたことは女として見習うべきところであり、その努力は称えられるところでもある。
しかし、リリーとしては今はそのどちらでもなく、その手間と努力を踏み潰すべき時なのだ。
まるでゴミでも拾うように親指と人差し指で袋を摘まみ上げ、それを嫌そうな表情で見やる。
「ええ、気に入りませんわね。彼とはまだ歩き始める前からの付き合いで、わたくしは彼の全てを知っていると言っても過言ではありませんの。彼はチョコやクッキーは好みませんのに、それを差し入れるだなんて……ふふっ、何もご存知ないのね。この際だから教えてさしあげますわ。貧民街ではこんなあざとさ丸出しのハートの手作りクッキーを渡すだけで男をゲットできたのかもしれませんけど、残念ながら貴族は手作りなんて不気味な物は、受け取らないんですのよ」
〝持てる者は与え、一切の差別をしてはならない〟という学園の教育のモットーを破る発言も忘れない。
「そうですわね」
「それなら、なぜさっさと言い出さなかったんだ?」
「何をでしょう?」
「婚約解消をだ」
クロヴィスが何を言っているのかすぐには理解できなかったリリーは、ポカンと口を開けたまま数秒固まってしまった。
親が決めた王族との婚約にどうして自分が、公爵の娘が、解消など言い出せるのか。
クロヴィスはリリーの父親がどんな性格かをよく知っているはずなのに、それこそ〝なぜ〟リリーから婚約解消を言い出せると思ったのかが謎だった。
「笑うほど嬉しかったか?」
あの時と同じように笑顔で『はい!』とは言えない。
まさか愛読していた悪役令嬢本の展開と同じように、大勢の前で婚約破棄を突き付けられたのが嬉しかったなんて、言えるはずがなかった。
「そんなの……泣きたくなかったからですわ。父は泣いて縋りつけとわたくしに怒鳴りましたが、心変わりしたあなたをどうして引き留められますの? 皆の前で婚約破棄を言い渡すということは、それは嘘や冗談ではないということ。わたくしにできることは、みっともない姿を晒すことではなく、しっかり現実を受け止めて笑顔でいることだけだったのですわ」
嘘と本音が半分ずつ。
これが愛しい婚約者が相手であれば、数日間泣き続けていたかもしれない。しかし、リリーとクロヴィスの意思による婚約ではない以上、愛情が芽生えることはなかった。愛情がない関係に心変わりがあるのは当然のことだと、リリーは理解している。
「お前は――」
「そんなことより、今日はエステル様はいらっしゃいませんの?」
「……ああ、呼んでいないからな」
「そうですか」
貧民街出身のヒロインが姿を見せてくれれば、悪役令嬢への道をもう一段階ステップアップできるのに、どうして大事なこの場にいないのか。
クロヴィスに呼び出されたことも不満だが、それよりも、ヒロインが同席していないことの方がずっと不満だった。
(ヒロインはいつも主人公の傍にいなきゃ話が進まないのを知らないの?)
苛立ったリリーは、本当に最後まで現れないつもりかと、狭くはない室内を見回す。
「――クロヴィス様!」
「……エステル、なぜ来た。ここには来るなと言ってあっただろう」
「リリー様がご一緒だと伺って……その……」
(来た、来た来た来た!)
〝彼女〟登場。来るなと言われていたのにやってくる。それでこそヒロイン。
彼女――エステル・クレージュは、貧民街出身でありながら貧しさや卑しさを感じさせない。リリー達令嬢に混ざっても違和感のない制服の着こなしか、それとも化粧のおかげかはわからないが。
控えめな声で遠慮がちに話しかけ、体の大部分は部屋の外にあるのに顔はしっかりと中に入っていて、眉の下がった上目がちな視線。これぞまさにヒロインの行動だと、リリーは思わずガッツポーズしそうになった。
こういう展開がなければ綿密に立てた悪役令嬢計画がダメになってしまう。リリー的にはどんどん前に出てきてほしかった。
「あら、エステル様ではありませんか。ごきげんよう。ちょうどエステル様のお話をしていたところですわ」
「え、そうなんですか? リリー様とクロヴィス様が揃って私の話だなんて、恐れ多いです」
話の内容までは言っていないのに良い話と解釈したようでパアッと表情を明るくする。そのままちゃっかり部屋の中に入ってくる辺り、なかなか図太い人物らしい。
「あなたが卑しい貧民だという話をしていましたの」
「え?」
「リリー」
(ここが、ここが私の悪役令嬢としての意地の悪さの見せどころよ。準備は万全。舞台は整い、役者は揃った。プランBからプランAへ移行する!)
相手もいないのに予習し続けた成果を見せる時だと、リリーは頭の中にある【悪役令嬢ノート】を開いてプランAに〝実行〟の判を押す。
「一緒に来てほしいと彼に頭を下げられて、渋々この部屋にやってきましたの。誰かから聞いたのか、それとも陰から盗み見ていたのかは知りませんけれど、わざわざ部屋まで来て顔を覗かせるなんてあざとい真似が、よくできますわね」
「あざ、とい?」
「わたくしを部屋に招いたことが心配だったのでしょう? 可能性は低いけれど、婚約破棄を撤回するかもしれない。もしくはわたくしが泣いて縋りつき、彼が考え直すかもしれない。そうなったら必死に奔走して取り入った自分の立場がなくなってしまいますものね。ふふふっ」
どんなことがあろうと王子に失望されるような人間にはなるなと教育されてきたが、悪役令嬢になれる楽しさを考えると、そんな教育はもうどうだっていい。ただ、扇子を用意していないことだけが悔やまれた。発注はしたがまだ届いていないのだ。
「わ、私、そんな心配は……」
両手を握りしめて小さく震える姿は、悪役令嬢にイジメられるヒロインそのもの。こんな場面を父親に見られでもしたら勘当ものだが、今更やめようなどと思うはずもない。
ずっと憧れていた存在に自分が今なろうとしているこの高揚感を手放すことはできない。性格が悪い、猫かぶり、性根が腐っているなどと言われようと、進み始めた足を止めるつもりはなかった。
「クロヴィス様……」
いつの間にかしれっとクロヴィスの隣に腰かけたエステルが、クロヴィスの袖を摘まみ、今にも泣き出しそうな顔で助けを求める。そんな、リリーが何度も小説で読んだようなシーンがそこに再現された。
「リリー、侮辱はやめろ」
エステルの前に腕を出し、庇うようなポーズでリリーを止めるクロヴィス。
これがヒロインであればクロヴィスの反応に傷付き涙を滲ませて部屋を飛び出すのだろうが、それはあくまでもヒロインの行動であって、悪役令嬢はそんな行動には出ない。
リリーにいたっては泣くどころかむしろ、悪役令嬢ポジションに立てたことへの興奮で、呼吸が乱れそうになっていた。
「男性に取り入るのがお上手ですのね。よろしければわたくしにもやり方を伝授していただけませんこと? ああ、できませんわね。天性の才能ですもの」
「酷い……ッ」
クロヴィスの胸に顔を寄せ、肩を震わせて泣き出したエステルの小さな背中に、長い腕が回る。
ヒロインたるもの、いつ何時も涙を忘れてはならない。その点、リリーは婚約破棄の時に涙どころか笑顔を見せてしまったため、自分は最初からヒロインには向いていなかったのだ。エステルの様子に大いに納得した。
「王子、話は以上ですか?」
「……ああ」
「では、わたくしはこれで失礼いたしますわ」
悪役令嬢は去り際にも余裕を持つこと。感情を乱さず、泣くヒロインの傍を華麗に去る。
それが、理想の悪役令嬢。
「フレデリック、送ってやれ」
「結構ですわ。ブリエンヌ家とモンフォール家はもうなんの関係もありませんもの。あなたとわたくしも今日から、いえ、昨日からすでに赤の他人。ですので今後、もしわたくしの姿を見かけても、話しかけてくださらなくて結構ですわ。浮気男と話すことなど何もありませんし、顔も見たくありませんから」
「リリー」
「さようなら」
リリーは、自分でも驚くほどクロヴィスに未練がなかったことに、少し申し訳なさを感じていた。
親が決めた婚約なのだから愛情などなくても仕方ないが、ここまで相手を想う気持ちがないとは思っていなかった。ほんの少しは胸が痛くなったりするかと思っていたのに、エステルがクロヴィスに抱きついた時でさえ、何も感じなかったのだ。
思ったのはただ一つ。〝エステルは素晴らしいヒロイン気質の持ち主だ〟ということだけ。
リリーは今日、悪役令嬢の素晴らしさを身をもって知った。
こんなにスッキリとした別れが訪れるなんて思ってもいなかった。
婚約解消されただけのブリエンヌ公爵家長女リリー・アルマリア・ブリエンヌだったら、あんなことは絶対に言えない。ちゃんとクロヴィスの話を聞いて、彼を理解しようとしたはず。
それがあんな無礼な言葉を臆することなく言えたのだから、役になりきることの凄さを痛感していた。
(抱きしめてた)
スッと当たり前のように、守るように回された腕。自分が彼に抱きしめられたのはいつだったか、そもそも抱きしめられたことが一度でもあっただろうか。思い出そうとしても出てこない。
(ま、クロヴィスも私と同じだったってことよね)
好き合っていなかったのだから浮気もわかる。公爵令嬢から乗り換える相手としてはエステルの身分は最悪だが、それももう自分には関係ないことだ。
「疲れたぁ……」
「また靴を脱ぎっぱなしにして。制服も、脱いでたたんでからベッドに上がってください」
「少し休んでるだけ。今日はまだすることがあるの」
「せめて制服を脱いでからにしてください」
悪役令嬢が、ただ高笑いをするだけのキャラクターではない理由が、なんとなくわかった。
今日、ああした態度を取ったことへの後悔は微塵もないが、それでも、心配で顔を覗かせたエステルを一方的に傷付ける必要はなかったような気もしていた。あの唐突すぎる侮辱は、凛とした悪役令嬢の行いではなく、ただのいじめっ子だったかもしれない。
悪役令嬢にも色々な性格の持ち主がいるように、リリーも自分がなりたい姿をハッキリ描かなければならない。今後の課題が見つかった以上、今日もまた机に向かって夜更かしすることが決まった。
「アネット、私とクロヴィスって何か婚約者らしいことはしてた?」
「いいえ、何も。いつも退屈そうにお茶をしてましたね。お嬢様は本を読み、王子は政治の話をし、次の逢瀬の時間を決められて別れる。愛の冷めた夫婦のようでしたよ」
「そうよね……」
愛情など欠片もないのだから、それに不満を感じたことはなかった。もしひと欠片でも愛情があったなら、自分を見てくれないクロヴィスに怒ってリリーから婚約解消を口にしたかもしれない。怒りさえ込み上げなかったのは、冷める愛もなかったからで……
思えば、エステルのようにクロヴィスに抱きしめられたり甘えたりということは一度もなかった。だから、自分と比べてクロヴィスの体温が高いのか低いのか、手は大きいのか小さいのか、抱きしめる腕の力は強いのか弱いのか、リリーはそんなことさえ知らなかったし、知ろうともしなかった。
父親が言う〝足りない努力〟とはそれだったのかもしれないと、今になって気付く。しかし、気付いたところで次の機会は存在しない。もう婚約者という関係は終わったのだ。
「ところで、旦那様が次の婚約者探しに奔走しておられるのはご存知ですか?」
「嘘でしょ? 早すぎるわ!」
「悪役令嬢ごっこを満喫している時間はないかもしれませんね」
「嫌よ! 始まったばかりなのにまた相手に合わせるなんて、そんなの嫌!」
しかし、リリーの父親の性格上、娘の待ったなど聞いてくれるはずもなく、翌朝には目の前に座る父の姿が見えないほど高く、数えるのも嫌になる量の見合い写真が積み上げられた。
「どれがいい? お前が好きなのを選ばせてやろう」
「ショッピングではありませんのよ」
「今度は面倒がないよう、次男を選んだぞ。顔良し家良し、まあ性格に難がある男もいるが、そこはお前と同じ。お前が上手くやればいいだけの話だ。今度こそ、な」
「そんなところに娘を嫁がせるなんて、不安じゃありませんの?」
「お前が王子に婚約破棄を言わせたせいだ。反論ではなく反省をしろ」
「わたくしのせいではありませんわ!」
「その馬鹿みたいな喋り方をやめろ!」
フレデリックに続き、二度目の〝馬鹿〟。これは悪役令嬢の基本の喋り方であって、馬鹿な子のように喋っているわけでは決してないのに、女心がわからない男は口を揃えて『馬鹿』と言う。
言葉は人が持てる中で最大の武器だと言われているのを知らないのかと噛みつきたい苛立ちを、リリーは笑顔を貼りつけることで堪えた。
「わたくしはこれからこの喋り方で生きていくと決めましたの!」
「馬鹿を言うな! お前は父親に恥をかかせたいのか!」
「娘を恥だと思うのですか?」
「そんな馬鹿みたいな話し方をする娘を恥だと思わん親はおらん!」
これがなければただの嫌味な人間になってしまうのだが、こうするに至った経緯を話しても、理解してもらえなければ意味がない。その理解力が自分の父親にあるとは思えず、リリーは説明を諦めて顔をしかめるしかなかった。
「おはようございます、リリー様」
「おはようございます」
登校前に父親とやり合ったおかげで、既に疲労困憊のリリー。
こんな日は学校になど行かず、部屋に閉じこもって悪役令嬢が活躍する小説を読み耽りたい。しかしそんなことをしているのがもし父親にバレでもしたらと思うと、考えただけで恐ろしい。そのため笑顔を貼りつけて登校したわけだが……
「リリー」
「……冗談でしょ……」
昨日のことが夢でなければ、昨日リリーは間違いなくクロヴィスにハッキリと伝えたはず。もし姿を見かけても声をかけるな、顔も見たくないと。
それに、ずっと言ってみたかった台詞を言えた感動に身体が震えたあの感覚が夢であるはずがないと、リリーは首を大きく横に振る。
「リリー、話を――」
「王子、わたくしのことはこれからブリエンヌ嬢とお呼びくださいませ」
「なぜだ?」
「わたくしとあなたが他人だからですわ」
「婚約者ではなくなったが、幼馴染だろう」
「幼馴染は他人ですのよ」
「リリー、昨日の話の続きを――」
「結構ですわ!」
昨日話をしたという出来事は覚えていても、その内容は忘れているらしい。多忙な毎日だからクロヴィスも疲れているんだわと理解を示し、リリーは足早にその場を後にした。
正直に言うと、悪役令嬢としては王子という存在はどうだっていい。リリーが読んだ小説の中には叶わぬ恋に身を焦がしてヒロインをイジメる悪役令嬢もいたが、リリーは叶わぬ恋をしたのではなく婚約破棄をされただけ。
対王子用のプランを練っていないため、相手にしたくないというのがリリーの本音だった。何より、今まで微塵も感じなかった〝疲れる〟という感覚に支配されている今、できればクロヴィスとは話をしたくなかった。
「皆さん、おはようございます」
教室に入ると、リリーはいつもと雰囲気が違うことに気が付いた。いつもなら返しきれないほどの挨拶の声がかけられたのに、今はパラパラとしか聞こえてこない。それらの声はどれも小さく、誰一人リリーに寄ってこない上、向けられる視線が変だった。
怪訝に思ったリリーが室内を見渡すと、何事かと聞くまでもなく、原因はそこにいた。
「リリー様! 昨日は大変失礼いたしました! クロヴィス様と大切なお話をなさっていたのにお部屋を訪ねて、私なんかに中断されてしまったことでご気分を悪くされましたよね」
「いえ、いいんですのよ」
「皆さんが親切にしてくださることに甘えすぎていたんだって気付きました。私、親切を受け取っていただけで、取り入ったつもりなんて全然なくて。あざといつもりもなかったんですが、リリー様にはそう見えていたのですね。これからは気を付けます」
小説の中でよく見る〝息を呑む〟という行動を、リリーは初めて自分で経験した。
リリーが来るまで、エステルはきっと昨日のことを歪曲してクラス中に言いふらしていたのだろう。
大きな瞳を必要以上に潤ませて口元を手で覆い、震える。
昨日も今日もそんなに震えて筋肉痛にならないのかとどうでもいい疑問がリリーの頭をよぎるが、さすがにここでそんな無神経なことを聞くわけにはいかない。
「私は確かに貧民街の出で卑しい身分かもしれません。でも、貧民街出身の人間が全て卑しいような言い方はなさらないでください」
今は関係のない話をあえてここで暴露するとは、なんとも賢いヒロイン。
自分を犠牲にしたような言い方で好感度を上げ、全員の前でリリーの言動を晒すことでその評判を落とすという、なんとも隙のない作戦。
(皆の前で堂々とやるって凄い。あざといつもりがないって言ったそばからあざといんだから凄いわ)
しかし、これでエステルがしてやったりと思っているのであればそれは大間違いだと、リリーは笑顔を見せる。リリーにとって今の状況はご褒美であって、窮地にはなりえない。
こうして立っているだけで勝手にリリーの評判を落とし、悪役令嬢への道を歩ませてくれるのだから感謝したいくらいだ。
「傷付けてしまったのなら謝ります。ですが、部屋に来るなという王子の命令を無視して部屋を訪ねるのは感心しませんわね。わたくしとクロヴィス様が二人きりになるのを心配してのことでしょうけど、婚約者でも恋人でもないあなたが間に入っていいことではありませんのよ」
「え、ええ、ですから謝罪を……」
「それから、王子が入っていいと許可を出していないのに中へ入って居座るのも、どうかと思いますわ」
「も、申し訳ございません……!」
「あのような常識外れな振る舞いをなさる方は初めて見たものですから、貧民などと度を過ぎた言い方をしてしまいましたの。そのことについては謝りますわ」
周りの生徒が放つ異様な雰囲気に、リリーは顔を動かさないよう視線だけを周囲の生徒に向けた。
男子生徒達が怒りを滲ませてリリーを睨んでいるのは勘違いではない。それだけ、リリーよりもエステルの人気が高いということだ。
(きっとこうして私は皆から軽蔑の目を向けられ、これからは一人ぼっちで過ごすことになるのね。すれ違い様に何か言われたり、陰口を叩かれたり、実は最低な女だったとあることないこと噂を流されて、それでも己が道を行く。そんなストーリーが浮かんでくるわ! ああ、楽しみで仕方ない!)
期待でニヤつきそうになる口元を、リリーは届いたばかりの扇子を広げて隠す。
「そろそろ授業が始まりますので席に――」
「リリー様はそのようなお方ではありません!」
「え……?」
まずは上々の出来、とエステルを解放しようとしたところで、ふいに女子生徒に遮られ、思わずリリーの口から間の抜けた声が漏れた。
「そうです! もしリリー様がそのようなことをおっしゃられたのだとしたら、それはエステルさんがそれだけ非常識なことをしたからです! この学園では紳士淑女としてのマナーを学ぶ授業があります。この学園にいる以上はそれに基づいて行動すべきです。にもかかわらずそれを学ばず、無礼な行いをしたエステルさんに問題があると思います」
誰かが庇ってくれる展開なんて想像もしていなかった。皆に見放されて一人ぼっちになりながらも悪役令嬢として強く生きていく……つもりが、これはリリーの台本にはなかったことだ。
何か策はないか? もっと侮辱の言葉を、と思っても、焦りで回らない頭では「貧民」というワードしか出てこない。それではあまりにも語彙力に欠け、エステルだけでなく、エステルと同じような境遇の人間をも侮辱することになってしまう。
リリーが悪役令嬢として接する相手は婚約者を奪ったヒロイン――すなわちエステルただ一人。無関係の者まで攻撃するつもりはない。
「庇ってくださってありがとうございます。でもいいのです。私がそう言ったことは確かですし、庇っていただくようなことは何も――」
「腹が立てば誰だって普段言わないことも言ってしまうものです。リリー様がお優しい方であることは皆が知っています。私達はリリー様の味方ですから!」
「あ、ありがとう、ござい、ます……?」
(なぜこうなってしまうの? ここは全員が私をひそひそとけなしながら散っていく場面なのでは?)
あんな嫌味な言い方をした人間になぜ味方が出てきてしまうのか、リリーには全く理解できなかった。
「リリー様、ランチご一緒しませんか?」
「あ、今日はバラ園で人とお茶をする予定なのでごめんなさい」
「そうですか。ではまた午後に」
「ええ」
午前の授業は全く頭に入ってこなかった。
リリーの予定では『差別する人だとは思わなかった』、『あんなに良い子のエステルちゃんに優しくできないなんて心の狭い女だ』、『公爵令嬢だからって言いたい放題ね』とかなんとか、ひそひそと言われるはずだった。それが少しも上手く進んでいない現実に一瞬心が挫けそうになったものの、男子生徒の目は予想通り冷たくなったので、これはこれで成功したと言えるのかもしれないと前向きに考えることにする。
予想外だったのは女子生徒の中に元々エステルを快く思っていない者が多かったということ。リリーから離れていかなかった生徒は思った以上に多かった。
「まだまだ悪役令嬢と名乗れる日は遠そうね……」
「――キャアッ!」
「キャッ!」
ランチを食べながら今後の行動を考えようと、構内にあるバラ園の入り口に着いた時、リリーはドンッと何かにぶつかり、続けて悲鳴のような声と何かが地面に落ちる音を聞いた。
リリーも思わず一緒に悲鳴を上げ、ぶつかった相手に顔を向ける。
「……あら、エステル様」
「リリー様……」
「だいじょう――」
「きゃあぁぁあああ! ごめんなさいリリー様! 申し訳ございません!」
「え?」
お互いそこまで強くぶつかっていないはずなのに一人尻餅をついているエステルが、急に騒ぎ出した。
バラ園は多くの生徒がランチタイムに利用する人気の場所。今の時間帯は、従者を引き連れた令嬢令息達が優雅に歩いている。
エステルの喚く声は、自分の自慢話と他人の噂話にしか興味がない彼らの足を止めるにはじゅうぶんで、リリーとエステルの周囲にはすぐになんだなんだと人が集まり始めた。
「ぶ、ぶたないでください! お許しください!」
「え? ぶつ?」
「申し訳ございません! クッキーを焼いたのでクロヴィス様にお届けしようとしていただけなんです!」
エステルがどこへ何をしに行こうとしていたかはどうでもいいし聞いてもいない。
リリーがエステルへ手を伸ばしたのはぶつつもりではなく助け起こそうとしたからなのだが、エステルの大袈裟な演技により、人によってはリリーが彼女を叩こうとしているように見えただろう。
「私がクロヴィス様にクッキーをお届けするのが気に入らないのですね……」
「え、いえ……あ」
もしかして、エステルは自分の企みを知っていて協力してくれているのではないか、とリリーが勘繰ってしまうほど上手く状況を運んでくれる。ならばこれを利用しない手はない。これは自分に与えられた、またとない機会。
これはヒロイン自ら運んできてくれた、悪役令嬢への更なるステップアップのチャンス。拾わないわけにはいかないと、咳払いをしてから顎を少し上げ、見下す表情を作った。
リリーの足元には、内容が一目でわかる透明の袋にピンクのリボンでラッピングされた、見るからに手作りのハート型クッキー。
手作りという時間と手間のかかる作業をしたことは女として見習うべきところであり、その努力は称えられるところでもある。
しかし、リリーとしては今はそのどちらでもなく、その手間と努力を踏み潰すべき時なのだ。
まるでゴミでも拾うように親指と人差し指で袋を摘まみ上げ、それを嫌そうな表情で見やる。
「ええ、気に入りませんわね。彼とはまだ歩き始める前からの付き合いで、わたくしは彼の全てを知っていると言っても過言ではありませんの。彼はチョコやクッキーは好みませんのに、それを差し入れるだなんて……ふふっ、何もご存知ないのね。この際だから教えてさしあげますわ。貧民街ではこんなあざとさ丸出しのハートの手作りクッキーを渡すだけで男をゲットできたのかもしれませんけど、残念ながら貴族は手作りなんて不気味な物は、受け取らないんですのよ」
〝持てる者は与え、一切の差別をしてはならない〟という学園の教育のモットーを破る発言も忘れない。
応援ありがとうございます!
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