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理由

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 これ以上、ジルヴァに言わせるわけにはいかない。料理を愛し、シェフであることに誇りを持ち、この店を守っているジルヴァに言わせてはいけない。

「ママ、もう帰ろうよ。お酒は待っててくれたら僕が──」
「そうだわ! この子をもっと働かせてよ!」

 酒屋の店主は大体が酒に酔っているから盗むことは難しくない。街の皆もそうしている。だから家で待っててくれとお願いしようとしたディルの肩を母親が掴んだ。おおよそ母親が息子を掴む力ではない力で引き寄せるとジルヴァへと突き飛ばした。
 転ぶ前にと片腕で受け止めるジルヴァが珍しく眉を寄せる。十歳で働いている子供は別に珍しくはない。工場に働きに行ったり、新聞配達だったり、靴磨きをしている子供だって十歳前後の子供だったりする。そうしているのは親の稼ぎだけでは食べることができない貧乏な家庭の子供で、ディルは当然それに該当する。だから働くのはいいが、ジルヴァが嫌悪しているのはこの母親は自分が酒が飲みたいから息子を差し出そうとしているということ。それが反吐が出るほど気分が悪いことだった。

「住み込みで働かせてもいいわ。だからグラスワインをちょうだい。この子が働いた賃金ってことで」

 これが錯乱状態や酩酊状態であればジルヴァも笑って「名案だ」と言ってやれただろうが、今の相手は素面。真面目に酒に浸った頭で考えた結論を言っているのだ。
 グラスワイン一杯など大した額ではない。こんな店に高級な酒などあるはずもないのだから安酒を飲ませて追い払うこともできたが、そうしないのはディルが気に掛かっているから。
 母親に怒鳴ったときの感情など消え失せているディルはもう俯いた状態で何も言わなくなっている。母親に捨てられた瞬間、と感じているのだろう。ジルヴァにもそう見えた。この母親にとって長男は稼ぐだけのマシーンであり家族ではない。そう伝わってくるから酒を浴びせて追い返すこともできない。そうすれば酷い目に遭うのはジルヴァやこの店ではなくディルだろうから。

「ディル」
「……ん?」

 しゃがみ、目線を合わせて問いかけた。

「料理は好きか?」

 目を瞬かせるディルにジルヴァが笑顔を見せる。

「料理してみたいって言ってただろ」
「う、うん」
「朝の準備、手伝ってみるか?」
「いいの?」

 その提案はディルにとって願ってもないものだった。ずっとジルヴァといられたらどんなにいいだろうと、家に帰ってもずっと考えていた。考えない日などなかった。厨房で寝泊まりできるならそれでもいいからそうしたいとさえ願っていたのだから。
 ジルヴァと離れなくていい。その夢が叶うのだとわかると絶望の中で俯いていたディルの顔に笑顔が戻った。返ってきたのは当然頷き。

「楽なことだって考えるんじゃねぇぞ。朝の仕込みは早いからな」
「大丈夫だよ! 絶対に起きるから!」

 今日はもう仕込みを終わらせてしまっているため、まだ太陽もお目にかかれない時間から起きる必要はないが、早いときは早い。ジルヴァが起きているなら自分も起きられる。ディルにはそんな自信があった。
 幸せだ。こんな幸せなことがあっていいのか。そう思うディルの足に鎖をつける言葉が聞こえた。

「その朝の手伝いが終わったら家に帰るのよ?」
「え?」
「私が働いてる間、妹の面倒はお兄ちゃんが見なきゃ、でしょ?」
「あ……うん……」

 忘れていた。妹たちはまだ幼くて世話が必要だ。良い子にしてくれてはいるが、誰も面倒を見る人間がいないのは危険。双子の女児が二人きりで家にいることがわかれば下卑た大人たちが腹を空かせたハイエナのように群がってくるのだから。
 妹二人の世話をする。それがお兄ちゃんとして当然の毎日だったのに、自分はどうして一瞬でもそんなことを忘れてしまっていたのか。

「あなたもいちいち息子を送らなくて済むから楽で良いでしょ」
「俺はこいつと歩く夜道は嫌いじゃなかったが、朝の手伝いが確保できたのはよかったな」
「じゃ、交渉成立ってことで。お酒、出してちょうだい」

 バーカウンターの椅子に腰掛けて上機嫌にテーブルを爪で叩く。こんな場所での作法など知りもしないくせにと腹の中で母親を見下しながら見ていると目の前に出された一杯のグラスワインに恍惚とした表情を浮かべ始める様が目に映った。
 まるで金持ちにでもなったかのようにグラスの中でワインを回し、香りを楽しみ、軽く一口含んだあとはすぐに飲み込まず、舌で味わっているように見える。それがディルはとてつもなく汚い物に見えた。だが、所詮は酒瓶片手にフラつく人間が蔓延る街の中でも底辺の人間。口の中のワインを飲んだ瞬間に目を見開き、そのあとは一気に飲み干してしまった。
 そして想像に難くない言葉を口にする。

「もう一杯」

 もうなんの感情も湧いてこない。これが自分の母親なんだと受け入れるしかない。

「グラスワイン一杯って約束だろ。守れ」

 即答するジルヴァに強く出られなかったのは今後のことを考えてか、それとも二杯目を要求するだけの交渉材料がなくなったからか。立ち上がり、入って来たとき同様に指先を振って「また明日」と言って帰っていった。明日も当たり前のように食べ物とグラスワインが出てくると思っている母親を見送ることはしなかった。見送ったのはジルヴァだけで。ドアと鍵が閉まるとディルが後ろから抱きついた。

「どうした? ママが帰って寂しくなっちまったか?」

 からかう声にブンブンと頭を振って否定する。

「明日はお前の着替えと歯ブラシを買いに──」
「ジルヴァは嫌じゃないの!?」

 泣き声混じりの声にジルヴァが口元を緩める。

「さっきの酒のことか? 対価を払うって言われちまうとな」
「僕は嫌だった。恥ずかしいよ、あんなの。ママがあんなこと言うならもうここには……」

 言葉を遮るように頭に手が置かれた。

「そう言ってやるな」

 優しい声にディルのほうが戸惑ってしまう。

「だって、あんなのジルヴァに失礼だよ! 食べさせてもらってるだけでも感謝すべきなのに、持ち帰りとか、お酒とか……もっと酷いこと言い出すかもしれないし……」

 怒るディルを軽々と片腕で抱き上げたジルヴァが額を合わせる。間近で見るジルヴァの整った顔にドキッとした。

「お前は優しいな」
「優しいのはジルヴァだよ。どうしてこんなに優しくしてくれるの? 僕はジルヴァが大事に育てたキャベツ、盗もうとしたんだよ?」

 ずっと謎だった。出会った日から今日までジルヴァはずっと親切にしてくれた。一度も邪険に扱うことはしなかった。嫌な顔一つ見せずに。
 濡れた瞳で見つめるディルの鼻先に咥えっぱなしだった火のついていない煙草の先が押し付けられる。ジルヴァからする煙草の匂いだ。ディルの大好きな匂い。その匂いが少し離れるとジルヴァが言った。

「お前が必死に生きてるからだ」
「え……?」

 簡単すぎる理由に思わず声が漏れた。
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