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人生なんて 2
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昼間、母親は働きに出ているからといってディルが暇なわけではなかった。
幼い妹たちは外の危険を自覚せず、散歩に出かけたがる。実際は散歩がしたいのではなく、散歩中に食べ物を見たいだけ。でも、片手で足りるほどしか生きてない妹たちでもそれらを買えないことはわかっていた。
兄に手を引かれ、のんびりと歩く。危ないところは兄に従って早歩きで。
誰も何もくれない。それを不満と思うこともなく、妹たちはこの街では珍しく真っ直ぐ育っている。それがあとどのぐらいで崩れてしまうだろう。そう考えると怖かった。
「おい! 貧乏人!」
兄と散歩していれば嫌でもこういう場面を見ることになる。
売店で売っているチョコレートアイスで口の周りをベトベトにしながら貧乏人というだけで見下す金持ち一家のデブ息子。ちょっとした顔見知りだ。名前はピグニス。
「俺が歩く道をお前みたいな貧乏人が歩いてんじゃねぇよ! 菌が移るだろ!」
それしか知らないのかと呆れるほど同じ言葉を毎回繰り返す。見た目からしてあまり頭が良いようには見えない。それは妹たちも察しているのか、いつの間にか泣かなくなった。だって兄は転ばされてもすぐに立ち上がるから。
弱くとも兄の後ろに隠れながらピグニスを睨みつける。
「ここはな、金を持ってる奴しか歩いちゃいけねぇって知らないのか?」
「知らない。そんなルールないし」
「気取ってんじゃねぇぞ! お前の顔がムカつくんだよ!」
「ごめんね。お金はないけど顔だけは良いんだ」
金はあるけど容姿に恵まれなかった少年と金はないけど容姿に恵まれた少年が火花を散らす。
ディルは余裕の笑みを浮かべてはいるものの、ピグニスが持っているチョコレートアイスが気に入らなくて仕方ない。今すぐにでも叩き落として、地面に落ちたそれを踏み潰してやりたいぐらい腹が立っている。チョコレートアイスはディルにとってジルヴァとの思い出の物。それをこんな豚に汚されたくないと次第に表情を歪ませる。
「な、なんだよその顔は! 貧乏人のくせに金持ちを睨みつけていいと思ってるのかよ!」
「いちいち絡んでくるなよ! 歩いてただけだろ!」
「臭いんだよ! 汚いんだよ! せっかく気分良く歩いてたのにお前のせいで台無しだ!」
ここは自分たちが暮らす街ではない。おおよその人間がそう思っているだろうが、誰も禁止はしていない。警察が駆け寄ってきて「戻れ!」と言うことはないし、服も肌も汚れた靴も履けない人間が歩く自由が認められているということ。金を持っているというだけでそんな言い方をする相手の神経を疑う。
「俺の気分を害した罰にお前は今すぐ死──ピィッ!」
ディルを指差しながら声高らかに命令しようとしたピグニスの目が白目を剥き、急に地面に倒れた。
「え……あ……ジルヴァ?」
「ジルヴァ!」
「ジルヴァ!」
毎日食事を振る舞ってくれるジルヴァに妹たちは良く懐いている。隠れている兄の後ろから飛び出して駆け寄ればそのままの勢いで抱きつく。
買い物にでも言っていたのだろう。片腕に抱えている茶色の紙袋からはりんごが見えている。片手にはその証拠のりんごと齧った形跡。それからジルヴァが顎を動かすたびにシャクシャクと鳴る咀嚼音。
「根性ねぇな」
妹たちの手前、兄として抱きつくことはできないが傍には寄っていく。負けなかったと褒めてほしいと目で訴えるも、ジルヴァは無情にもパンッと頭を軽く叩いた。不満げに両手で叩かれた頭を押さえながら「なんで!?」と問いかける。
「イキリデブに負けてんじゃねぇぞ」
「負けてないよ! 謝らなかったもん!」
「押し負けてんじゃねぇか」
いつから見ていたのだろう。一部始終を見ていたのだとしてもジルヴァはあの局面まで助けようとしなかった。本当は笑って「よくやった」と褒めてほしかったのに、ジルヴァにそうさせられなかったのは自分が押されて転んでもいいと受け入れていたからだと自覚する。
押さえていた手を下ろして深呼吸し、口にするのは「次は負けない」ではない。そんなこと言えるはずもなく、唇は正直に尖っていく。
「だって……アイツ、すごく力が強いんだ。僕よりずっと大きいし……」
「おいおい、ダッテリーナ。お前は男だろ。男の泣き所を知ってんのは男じゃねぇのか?」
でも、と言えば「デモーナ」と呼ばれ、だって、を使えば「ダッテリーナ」と呼ばれる。完全にバカにされている。もう言わないと言ったのは自分だが、それでも使ってしまうときぐらいある。多めに見てほしいのにと拗ねた表情を向けると視線が倒れているピグニスに向けられた。それを目で追うとギョッとする。茶色混じりの泡を吹いてピクピクと痙攣を起こしている。
「金玉一発蹴り上げりゃあこのザマだ」
蹴られていないのに自分の股間まで痛くなってきたような感じがするディルは思わず足を擦り合わせた。
「足掴まれたら困るし……」
弱腰のディルにジルヴァが大きな溜息を吐き出す。りんごの蜜の甘い匂いがする。
「顔が良いとかくだらねぇ自慢してる暇があったら金玉に一発蹴り入れるぐらいしてみろ。男だろ」
何かあればすぐに「男だろ」と言う。「お兄ちゃんだろ」と言われないだけマシだが、時折とても悔しくなる。
だからディルは言い返す。
「ジルヴァは女の人なのに女の人らしくないよね? それはいいの?」
生意気だと思われるだろうか。心臓がドキドキと音を立てるも杞憂であったようにジルヴァが笑う。
「女の人がどんなかも知らねぇガキが生意気言うじゃねぇかよ」
紙袋の中にはりんごがぎっしり入っている。今日のディナーのデザートにでも使う予定だったのではないだろうか。
でもジルヴァは紙袋をディルの胸に押し付けて持たせた。妹たちの頭を撫で、妹たちがくれる頬へのキスに片目を伏せて受け取ったあと、ディルの頭を撫でる。
「美味いぞ。妹たちにも食わせてやれ」
そう言って笑顔で去っていった日がなぜか鮮明に蘇った。
思えばジルヴァが相手だと今まで出せなかった感情を出せていた。拗ねた顔なんて母親に向けることはできなかったし、父親には顔さえ向けなかった。でもジルヴァにはできる。
子供っぽいなんて思われたくないのに、ガキだって言われたくないのに……でも、ありのままの自分を受け入れてほしいとも思っていたから感情が溢れ出てきた。
どっちが大事かなんてそんなこと考えるまでもない。
「ジルヴァ、僕がもっと働くから……妹たちにデザート食べさせてやって。なんでもする。りんごの買い出しも、配達もする。テーブルも床もお皿と同じぐらいピカピカになるまで磨くから」
包丁はまだ持たせてもらえないが、できることは他にもある。この街のことならよく知っている。買い出しだって一人で行けるし、配達も危ない人間が少ない道を知っている自分ならできる。磨くのは得意だからと笑顔を見せるディルにジルヴァは「いいぜ」とは言わなかった。
「そういうときはこう言えって言っただろ? 母さんも、って。もう忘れたのかい!?」
以前のディルならこの怒声に怯んでいただろう。必死に弁明し、必死に母親の機嫌を取っていた。でも今のディルにあるのは、母親に嫌われたくないという幼子のような感情ではなく怒り。
現にディルは小さな手を拳に変えて震わせていた。
「ママ……は……」
そう呼ぶことには葛藤があったが、ここをややこしくしないために「アンタ」とは言わない。
「お酒飲んでるじゃないか……」
「デザートは別の話だろ!」
何も別の話ではない。手土産だって、酒だって、デザートだって何も別の話ではないのだ。自分は楽をして全てを手に入れようとしている異常さに母親は気付いていない。だからこそ自分を重ねてしまう。生まれながらにして恵まれなかった人生。その道を歩いていく中で、たった一つでも願いが叶えばいいと思っていた。それこそ一生に一度でいいからお腹いっぱいご飯を食べるとか、一生に一度でいいから足が凍ってしまわないように靴を履いてみたいとか、そんなことでよかった。でも一つ叶えばもう一つ。それも叶えば次は……と浅ましくなる。全て自分の力で手に入れた物ではないのに望もうとする。ディルもそうだから、同族嫌悪で母親が嫌になる。
「ここに来る人たちは皆、ジルヴァの美味しい料理を食べに来てるんだ! お金も払わないのに何か出せなんて言う人は一人もいない! お酒だってデザートだって、本当はちゃんとお金を払って味わう物なのに、ママはお金がないって言えばそれが通ると思ってる! 恥ずかしいよ!」
怒声は叫びに変わっていた。息子から突き放すように言われた指摘は母親に羞恥と苛立ちを感じさせ、顔を真っ赤に染めながらテーブルが揺れるほど強く叩いて立ち上がった。
「お前がそういう子だってのはわかったよ! やっぱりお前は父親そっくりだね! 育ててもらった恩も忘れて母親に恥をかかせるなんて、お前こそ恥を知れ!」
その言葉が悲しいわけじゃない。悔しいのだ。なぜここまで言ってもわからないのか。子供に恥ずかしいと言わせる己が言動をなぜ少しも振り返ろうとしないのか。
母親には何を言っても届かない。それがとても悔しかった。
「お前を必死で育てた母親を恥ずかしいと思うなら、もう二度と私をママなんて呼ぶんじゃないよ! こんなケチな店主の店、二度と来るもんか!」
表の出口から帰ろうとする母親の前に慌てて回り込んで両手を広げる。言いたいことがあった。
「僕はもういいから、妹たちにはちゃんと食べさせてやって!」
「ハッ! そんなの知ったこっちゃないね! あの子らが飢え死にしたらお前のせいだ! お前が家族を捨てたんだからね! 覚えときな!」
寒い日に店の軒下にぶら下がる氷柱よりも鋭い刃が無情にもディルを傷つける。家族を捨てたつもりはない。妹たちのことは大切に思っている。でも、明日からどうすればいい? あの子たちの食事はどうすればいい? きっと母親は夜に妹たちを連れて食べには来ない。ならきっと、また夜は出かけるに決まっている。朝も昼も食べず、唯一の楽しみである夕飯がなければ我慢などできるはずがない。
「待ってよ! ミーナとシーナには絶対食べさせるって約束してよ!」
踵を返して裏口のドアを乱暴に開けて出ていった母親をディルが追いかける。
あの母親と息子の間にはもう家族としての糸はないだろう。ちゃんと繋がっていたというよりも母親に繋がっている糸を息子が必死に握っていただけの関係。それももう終わり。息子はパッと手を離してしまった。
ジルヴァは何も言わず、追いかけもせず、カウンターチェアに腰掛けて煙草に火をつけた。
幼い妹たちは外の危険を自覚せず、散歩に出かけたがる。実際は散歩がしたいのではなく、散歩中に食べ物を見たいだけ。でも、片手で足りるほどしか生きてない妹たちでもそれらを買えないことはわかっていた。
兄に手を引かれ、のんびりと歩く。危ないところは兄に従って早歩きで。
誰も何もくれない。それを不満と思うこともなく、妹たちはこの街では珍しく真っ直ぐ育っている。それがあとどのぐらいで崩れてしまうだろう。そう考えると怖かった。
「おい! 貧乏人!」
兄と散歩していれば嫌でもこういう場面を見ることになる。
売店で売っているチョコレートアイスで口の周りをベトベトにしながら貧乏人というだけで見下す金持ち一家のデブ息子。ちょっとした顔見知りだ。名前はピグニス。
「俺が歩く道をお前みたいな貧乏人が歩いてんじゃねぇよ! 菌が移るだろ!」
それしか知らないのかと呆れるほど同じ言葉を毎回繰り返す。見た目からしてあまり頭が良いようには見えない。それは妹たちも察しているのか、いつの間にか泣かなくなった。だって兄は転ばされてもすぐに立ち上がるから。
弱くとも兄の後ろに隠れながらピグニスを睨みつける。
「ここはな、金を持ってる奴しか歩いちゃいけねぇって知らないのか?」
「知らない。そんなルールないし」
「気取ってんじゃねぇぞ! お前の顔がムカつくんだよ!」
「ごめんね。お金はないけど顔だけは良いんだ」
金はあるけど容姿に恵まれなかった少年と金はないけど容姿に恵まれた少年が火花を散らす。
ディルは余裕の笑みを浮かべてはいるものの、ピグニスが持っているチョコレートアイスが気に入らなくて仕方ない。今すぐにでも叩き落として、地面に落ちたそれを踏み潰してやりたいぐらい腹が立っている。チョコレートアイスはディルにとってジルヴァとの思い出の物。それをこんな豚に汚されたくないと次第に表情を歪ませる。
「な、なんだよその顔は! 貧乏人のくせに金持ちを睨みつけていいと思ってるのかよ!」
「いちいち絡んでくるなよ! 歩いてただけだろ!」
「臭いんだよ! 汚いんだよ! せっかく気分良く歩いてたのにお前のせいで台無しだ!」
ここは自分たちが暮らす街ではない。おおよその人間がそう思っているだろうが、誰も禁止はしていない。警察が駆け寄ってきて「戻れ!」と言うことはないし、服も肌も汚れた靴も履けない人間が歩く自由が認められているということ。金を持っているというだけでそんな言い方をする相手の神経を疑う。
「俺の気分を害した罰にお前は今すぐ死──ピィッ!」
ディルを指差しながら声高らかに命令しようとしたピグニスの目が白目を剥き、急に地面に倒れた。
「え……あ……ジルヴァ?」
「ジルヴァ!」
「ジルヴァ!」
毎日食事を振る舞ってくれるジルヴァに妹たちは良く懐いている。隠れている兄の後ろから飛び出して駆け寄ればそのままの勢いで抱きつく。
買い物にでも言っていたのだろう。片腕に抱えている茶色の紙袋からはりんごが見えている。片手にはその証拠のりんごと齧った形跡。それからジルヴァが顎を動かすたびにシャクシャクと鳴る咀嚼音。
「根性ねぇな」
妹たちの手前、兄として抱きつくことはできないが傍には寄っていく。負けなかったと褒めてほしいと目で訴えるも、ジルヴァは無情にもパンッと頭を軽く叩いた。不満げに両手で叩かれた頭を押さえながら「なんで!?」と問いかける。
「イキリデブに負けてんじゃねぇぞ」
「負けてないよ! 謝らなかったもん!」
「押し負けてんじゃねぇか」
いつから見ていたのだろう。一部始終を見ていたのだとしてもジルヴァはあの局面まで助けようとしなかった。本当は笑って「よくやった」と褒めてほしかったのに、ジルヴァにそうさせられなかったのは自分が押されて転んでもいいと受け入れていたからだと自覚する。
押さえていた手を下ろして深呼吸し、口にするのは「次は負けない」ではない。そんなこと言えるはずもなく、唇は正直に尖っていく。
「だって……アイツ、すごく力が強いんだ。僕よりずっと大きいし……」
「おいおい、ダッテリーナ。お前は男だろ。男の泣き所を知ってんのは男じゃねぇのか?」
でも、と言えば「デモーナ」と呼ばれ、だって、を使えば「ダッテリーナ」と呼ばれる。完全にバカにされている。もう言わないと言ったのは自分だが、それでも使ってしまうときぐらいある。多めに見てほしいのにと拗ねた表情を向けると視線が倒れているピグニスに向けられた。それを目で追うとギョッとする。茶色混じりの泡を吹いてピクピクと痙攣を起こしている。
「金玉一発蹴り上げりゃあこのザマだ」
蹴られていないのに自分の股間まで痛くなってきたような感じがするディルは思わず足を擦り合わせた。
「足掴まれたら困るし……」
弱腰のディルにジルヴァが大きな溜息を吐き出す。りんごの蜜の甘い匂いがする。
「顔が良いとかくだらねぇ自慢してる暇があったら金玉に一発蹴り入れるぐらいしてみろ。男だろ」
何かあればすぐに「男だろ」と言う。「お兄ちゃんだろ」と言われないだけマシだが、時折とても悔しくなる。
だからディルは言い返す。
「ジルヴァは女の人なのに女の人らしくないよね? それはいいの?」
生意気だと思われるだろうか。心臓がドキドキと音を立てるも杞憂であったようにジルヴァが笑う。
「女の人がどんなかも知らねぇガキが生意気言うじゃねぇかよ」
紙袋の中にはりんごがぎっしり入っている。今日のディナーのデザートにでも使う予定だったのではないだろうか。
でもジルヴァは紙袋をディルの胸に押し付けて持たせた。妹たちの頭を撫で、妹たちがくれる頬へのキスに片目を伏せて受け取ったあと、ディルの頭を撫でる。
「美味いぞ。妹たちにも食わせてやれ」
そう言って笑顔で去っていった日がなぜか鮮明に蘇った。
思えばジルヴァが相手だと今まで出せなかった感情を出せていた。拗ねた顔なんて母親に向けることはできなかったし、父親には顔さえ向けなかった。でもジルヴァにはできる。
子供っぽいなんて思われたくないのに、ガキだって言われたくないのに……でも、ありのままの自分を受け入れてほしいとも思っていたから感情が溢れ出てきた。
どっちが大事かなんてそんなこと考えるまでもない。
「ジルヴァ、僕がもっと働くから……妹たちにデザート食べさせてやって。なんでもする。りんごの買い出しも、配達もする。テーブルも床もお皿と同じぐらいピカピカになるまで磨くから」
包丁はまだ持たせてもらえないが、できることは他にもある。この街のことならよく知っている。買い出しだって一人で行けるし、配達も危ない人間が少ない道を知っている自分ならできる。磨くのは得意だからと笑顔を見せるディルにジルヴァは「いいぜ」とは言わなかった。
「そういうときはこう言えって言っただろ? 母さんも、って。もう忘れたのかい!?」
以前のディルならこの怒声に怯んでいただろう。必死に弁明し、必死に母親の機嫌を取っていた。でも今のディルにあるのは、母親に嫌われたくないという幼子のような感情ではなく怒り。
現にディルは小さな手を拳に変えて震わせていた。
「ママ……は……」
そう呼ぶことには葛藤があったが、ここをややこしくしないために「アンタ」とは言わない。
「お酒飲んでるじゃないか……」
「デザートは別の話だろ!」
何も別の話ではない。手土産だって、酒だって、デザートだって何も別の話ではないのだ。自分は楽をして全てを手に入れようとしている異常さに母親は気付いていない。だからこそ自分を重ねてしまう。生まれながらにして恵まれなかった人生。その道を歩いていく中で、たった一つでも願いが叶えばいいと思っていた。それこそ一生に一度でいいからお腹いっぱいご飯を食べるとか、一生に一度でいいから足が凍ってしまわないように靴を履いてみたいとか、そんなことでよかった。でも一つ叶えばもう一つ。それも叶えば次は……と浅ましくなる。全て自分の力で手に入れた物ではないのに望もうとする。ディルもそうだから、同族嫌悪で母親が嫌になる。
「ここに来る人たちは皆、ジルヴァの美味しい料理を食べに来てるんだ! お金も払わないのに何か出せなんて言う人は一人もいない! お酒だってデザートだって、本当はちゃんとお金を払って味わう物なのに、ママはお金がないって言えばそれが通ると思ってる! 恥ずかしいよ!」
怒声は叫びに変わっていた。息子から突き放すように言われた指摘は母親に羞恥と苛立ちを感じさせ、顔を真っ赤に染めながらテーブルが揺れるほど強く叩いて立ち上がった。
「お前がそういう子だってのはわかったよ! やっぱりお前は父親そっくりだね! 育ててもらった恩も忘れて母親に恥をかかせるなんて、お前こそ恥を知れ!」
その言葉が悲しいわけじゃない。悔しいのだ。なぜここまで言ってもわからないのか。子供に恥ずかしいと言わせる己が言動をなぜ少しも振り返ろうとしないのか。
母親には何を言っても届かない。それがとても悔しかった。
「お前を必死で育てた母親を恥ずかしいと思うなら、もう二度と私をママなんて呼ぶんじゃないよ! こんなケチな店主の店、二度と来るもんか!」
表の出口から帰ろうとする母親の前に慌てて回り込んで両手を広げる。言いたいことがあった。
「僕はもういいから、妹たちにはちゃんと食べさせてやって!」
「ハッ! そんなの知ったこっちゃないね! あの子らが飢え死にしたらお前のせいだ! お前が家族を捨てたんだからね! 覚えときな!」
寒い日に店の軒下にぶら下がる氷柱よりも鋭い刃が無情にもディルを傷つける。家族を捨てたつもりはない。妹たちのことは大切に思っている。でも、明日からどうすればいい? あの子たちの食事はどうすればいい? きっと母親は夜に妹たちを連れて食べには来ない。ならきっと、また夜は出かけるに決まっている。朝も昼も食べず、唯一の楽しみである夕飯がなければ我慢などできるはずがない。
「待ってよ! ミーナとシーナには絶対食べさせるって約束してよ!」
踵を返して裏口のドアを乱暴に開けて出ていった母親をディルが追いかける。
あの母親と息子の間にはもう家族としての糸はないだろう。ちゃんと繋がっていたというよりも母親に繋がっている糸を息子が必死に握っていただけの関係。それももう終わり。息子はパッと手を離してしまった。
ジルヴァは何も言わず、追いかけもせず、カウンターチェアに腰掛けて煙草に火をつけた。
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