十歳で運命の相手を見つけた少年は小さな幸せを夢見る

永江寧々

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人生なんて

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 夜はジルヴァの店に住み込むことになり、深夜や早朝に仕込みを手伝うことが多かった。定休日を設けていないジルヴァの店は、この街では常に大繁盛と言っても過言ではないほど賑わっている。ランチタイムもディナータイムもそう。Closedの看板が出るまで客足が途絶えることはない。
 知らなかったわけじゃない。知っていた。ジルヴァと知り合ってから何度も店を覗きに行ったから。知り合いの顔で中に足を踏み入れることも、ガラス越しに中を覗いて手を振ることもできなかったが、ディルはずっと見ていた。だからこうして皆が楽しみだと笑顔を見せる料理の仕込みを手伝えるだけでディルは幸せだった。眠るのが遅くなろうが、朝起きるのが早かろうが、ジルヴァが一緒ならそれでいい。
 朝の仕込みが終われば家に帰って妹たちの面倒を見る。そして店が閉まってから食事をして、ジルヴァを手伝い、一緒に眠る。まだ子供であれど、子供の体力というのは素晴らしいもので、ディルは一切の疲れを見せなかった。
 こうできるのは、認めたくはないが、母親のおかげでもある。毎日当たり前の顔でやってくる母親を邪険にこそしないものの、快くも思ってはいなかった。
 だが、ディルは、ジルヴァの店で住み込みを始めてから一ヶ月。母親のことをますます嫌いになっていた。
 妹たちと一緒に帰ったあと、母親はもう一度やってきて必ず酒を飲む。娘たちの前で酒を飲むことを後ろめたいと思っているのか、ジルヴァが人に揺らされない性格だからか、娘たちの前では絶対に酒を飲もうとはしなかった。母親としての自覚はあるのか。そう心の奥底で呟いてしまうほどには母親が嫌いになっている。

「ねえ、アイスクリームが食べたいわ」

 それに反応したのはディルだ。
 ディルはジルヴァに出されるまでアイスを食べたことなどなかった。母親は知らない。酔っ払った上機嫌な客に買ってもらったことぐらいあるかもしれない。それでも、それならそうすればいい。ここでタダでねだるもんじゃない。
 母親の職業は客に金をもらって自分の身体を差し出すこと。だからねだることも許される。でもここでは許されない。母親は何も差し出していないのだから。そう言えばきっと「息子を働かせてやってる!」と大声を出すのだろうが、ディルを差し出した条件は酒。これ以上に差し出せるものなど母親にはない。どう頑張っても娘二人はまだ店で働くには早すぎる。なんの役にも立たないのは目に見えている。そんな娘をアイスクリームのために差し出したことが外に知れれば客は寄り付かないだろう。いや、寄りついたとしても「自分に寄越せ」と舌舐めずりする変態だけだ。

「持ってきてちょうだい」

 まるでここはお城で、自分はお姫様か何かにでもなったかのような言い方をする。それがディルは気に食わない。
 変な話だが、ディルは痩せこけて荒れている母親のほうが好きだった。口が悪く、暴力を振るってきても「母親は自分たちを捨てずに稼いできてくれる」と自分に言い聞かせることができた。でも今はどうだ? 母親がいなくとも自分たちはお腹を空かせていない。必要ないのだ。愛情をもらうことを諦めてからずっとそんな気持ちでいる。

「酔ってるなら今日は帰れ」

 ジルヴァの言葉にディルも頷く。

「貧乏人はデザート食べるなって言うの?」

 酒を飲ませろと娘以上にゴネた日と同じ言い方だ。一度許可が下りたことで味を占め、ゴネればなんとかなると思っているのだろう。

「そうだ」

 そういう返事しかないこともわかっているだろうに母親は学習しない。

「デザートぐらい出してくれてもいいじゃない! 息子に食べさせてるの知ってるんだから!」

 なぜ知っているのか。その疑問はあれど、問題はそこではない。金を払うつもりもないくせに次から次へと要求することが問題なのだ。

「それは顔が映るぐらいピカピカに皿磨きする褒美だ。雇ってるわけじゃねぇから賃金出すわけにゃいかねぇからな」
「だったら食べに来たときに娘たちにデザートぐらい出してくれてもいいんじゃない?」
「皿磨きしてねぇだろ」
「ディルがしてるじゃない」
「だからコイツにはアイスを出してる。褒美だっつったろ」

 ここまで聞いてなぜまだ不満げな表情を浮かべるのか。なぜ納得できないのかがわからない二人は同時に白目を剥きたい気分だった。
 あまり怒りの感情を露わにしないジルヴァでさえ多少の苛立ちを感じているのか、後頭部を乱暴に掻いている。ディルが許可したところで叫んだりはしないのだろうが、ジルヴァだって人間。こういう物分かりの悪い酔っぱらいがディルの母親でなければ今すぐにでも表に放り出しているだろう。
 でもジルヴァは言った。

『だからお前にしてやるんだよ。お前が大事にしてる家族にもな』と。その想いに嘘はない。だから邪険にしない。その代わり、正当な対応をするだけ。

 本来なら、自分たちが食べさせてもらっている物を「格安で提供する」と言われたっておかしくはないのにジルヴァは善意によるタダで提供してくれている。
 善意による無料以外には全て対価が必要で、それはディルも同じ。一度だってタダでアイスクリームを出してもらったことはない。
 母親は勘違いしていた。

「そのためにディルを住み込みで働かせてるんじゃない!」
「そりゃお前の酒のためだろ」
「同じじゃない! 働いてるんだからいいでしょ!」
「デザートは契約に入ってねぇよ」

 あのとき、酒をねだった日にデザートの契約までしていればジルヴァはきっと許可しただろう。母親のためじゃない。ディルのためだ。ディルがあまりにも煙草を吸い終わるまでの時間を穏やかに待ち、家までの暗い路地を楽しげに歩き、別れ際にいかに寂しそうにするか知っていたから住み込みを許可した。
 ジルヴァは仕込みは一人ですると決めている。仲間を信用していないからじゃない。ずっとそう決めてやってきたからだ。でもそこをあえて緩めて、十歳の少年を招き入れた。
 自分でもおかしいと思うほどの変化がジルヴァにももたらされているのは確かで、それは真正面から問われると否定できない物だが、母親にそこまでの鋭さはない。母親が突くのはジルヴァの心境の変化ではなく、息子の罪悪感だ。

「お兄ちゃんだけがデザート食べてるなんて知ったら妹たちはどう思うかしらね!」

 ビクッとディルの肩が大きく跳ねる。
 忘れていたわけじゃない。自分だけ食べるわけにはいかないと断ったこともあった。でも、それはご褒美だからと言われてしまうと罪悪感は消えていった。それもまた事実だ。
 息子の罪悪感を膨らませようとする母親の狙いは成功し、ディルが震えながらジルヴァのコックコートの裾を掴むと肩に大きな手が乗る。

「言わなきゃいいだろ」

 それが当然もしくは簡単なことだと言わんばかりの口調でジルヴァが言い放った。

「は? どうして言わないなんて選択肢があるのかわからないんだけど」
「お前は母親だろ。わざわざ可愛い我が子を苦しめる真似するこたねぇよ」

 母親だろ。そう言われると母親はいつも不機嫌になる。外で客に『母親じゃなくて女として生きたいの』と甘えているのを何度も見たことがある。それが商売のためか本音かはわからないが、母親の心にもそういう気持ちがあったのは事実だ。
 でも本人は自分が言われて嫌なことを何年も前から息子に言い続けてきた。だからこれは報いだ。ディルはそう思った。

「家族なのに一人だけ特別な物を食べてるなんておかしいじゃない! あの子たちにはお兄ちゃんが自分たちに内緒でデザートを食べてることを知る権利があるし、食べる権利だってあるはずよ!」

 どうして、なぜ、完全に諦めることができないのだろう。冷めきることができないのだろう。愛されていないのはわかっているじゃないか。もういい。この人は生みの親というだけで母親ではない。この人の親はシーナとミーナだけなんだと諦めればいいのに、どうしてこんなにも腹が立つのだろう。
 我が子の権利を主張するなら自分だって愛される権利があるはずなのに、母親は妹に向ける半分の愛さえ向けてはくれない。自分と娘のためならこんなにも感情的になるのに。

 ポタッ ポタッ ポタッ

 どこから垂れているのだろう。不思議なほど近くで水滴が落ちる音がする。黒い何かが腹の底を覆うような怒りと絶望を自覚する。
 ディルの中にドロドロとした負の感情が、心に一滴、また一滴とシミを作っていく。
 口を開けばきっと酷いことを言ってしまうだろう。子が親に言うべきではない言葉を。
 それでも反論しなければならないのは自分だ。もう自分はこの人の息子じゃないと自分に言い聞かせたとしても言わなければならないのはジルヴァじゃないと顔を上げるもジルヴァが先に口を開いた。

「働いて報酬得てんのは、そのお兄ちゃんなんだわ」

 どこか誇らしげな口調にジルヴァを見ると口元には笑みが浮かんでいた。
 その笑顔にあの日のことを思い出す。

 妹にばかり『食べな食べな』と声をかける母親を見ながら泣きそうになっていた日のこと。

(僕のことも見てよ。僕だってママの子供だよ。妹だけじゃないんだよ)

 ジッと見つめて目で訴えても母親は気付いてくれなかった。言葉にすれば叱られてしまうことがわかっていたから言えなかったのに、目で訴えても結局は気付いてもらえない。
 胸が痛くなるほどの辛さに涙が溢れそうになったとき、ジルヴァが皿を大盛りにしてくれた。

『腹が張って歩けなくなるまで食っていいぞ』そう言って背中を叩き『たくさん食って、たくさん働け。それが男の仕事だからな』と笑ってくれたあの日の笑顔によく似ていた。
 大好きだと思った笑顔がそこにある。それでいいじゃないか。自分を見ない母親の愛なんかもう欲しがるな。お前にはジルヴァがいる。もう一度そう言い聞かせて袖で目元を拭った。

「お金、払わないとダメだよ」
「誰にそんな口利いてんだい! うちには金がないんだよ!」

 窓ガラスを破りそうなほどの怒声に肩は跳ねるが隠れはしない。小さな手で作る必要のない拳を握り、もう一度言い返そうとするのをジルヴァが後ろ手で隠すことによって止めた。

「その靴」

 ジルヴァの指摘に今度は母親の肩が跳ねる。

「その靴一足で娘たちは腹いっぱいのデザートが食えるだろうな。プラスでジュースを頼んでもお釣りがくるぜ」

 足を飾っている新品のハイヒールを隠そうとしたところでワンピースの丈が足りない。娼婦はどれだけ肌を出せるかが重要。そんな短い生地をどれほど伸ばしたところで足元は隠せない。

「それ……」

 ディルは信じられなかった。良い物を見てきていないディルにだってそれが良い物だとわかる。どこにそんな金があるんだ。
 息子はここで仕込みの手伝いをするようになり、危険を理由に靴を支給してもらって初めて履いた。妹二人は生まれてこのかたずっとまだ裸足のままだというのに母親だけが新しい、それも上質なハイヒールを履いている。

「こ、これは客に買ってもらったんだよ!」

 嘘だ。母親はいつも『ケチな客ばっかだよ。散々ヤるだけヤっといてチップも満足に払わないんだから!』と怒っていた。
 母親はまだ二十歳だが、見た目は四十に近い。肌は粉を吹き、髪はパサパサ、歯並びも悪く、人を誘う手は噛んでばかりのガタガタの爪が目立つ。化粧はそれらを隠すために驚くほど濃い。
 そんな女性に一体誰が新品の素敵な靴を買い与えるというのか。

「なら、その日の稼ぎでデザートぐらい食わせてやれるだろ」
「私の稼ぎは全部あの子たちの将来のために置いておかなきゃいけないの!」

 “子供たち”ではなく“あの子たち”

 母親が言ったその言葉に自分は入っていない。もう“気がする”なんて勘違いはしない。明白だ。ハッキリ言われたようなものだ。ズキンと胸は痛むが、仕方ない。だって自分はここで何度もアイスを食べたのだから。

 その味と幸福感に慣れてしまうほどに。
 
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