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夜明け前に朝食を
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「朝飯食うか」
問いかけではなく独り言のように呟いたジルヴァに賛成してディルも一緒に厨房へと入る。当たり前のように存在する大切な場所。ここがなければ自分はきっとジンや妹からではなく、この世界から逃げ出していただろう。命の大切さなど考えもせず、ただ楽になる方法だけを考えて彷徨っていたはず。でもここがあったから踏ん張れた。
けしてキレイとは言えない厨房。掃除は毎日しているが、それでもあっちもこっちも古くてどれだけ磨こうと顔が映るほどピカピカにはならない。そこが好きだと実感する。
ディルにとってここは暖かくて美味い物を作り出す魔法がかかった場所。料理を作る彼らは魔法使いで、どんな食材でもあっという間に魔法をかけてしまう。子供の頃はそう思っていた。成長した今もそう思うことはある。傷みかけている食材は賄いに使うのだが、食材の状態によって調理法を変える。そうして出来上がっていく物はやはり魔法がかけられたように美味くて六年経った今でも感動するのだ。
「ジルヴァは自分の前世ってなんだと思う?」
「前世ねぇ……」
「そういうの信じてない?」
「考えたこともねぇわ」
ディルも幼い頃から想像していたわけじゃない。マダムシンディの家に居た頃に読んだ本がキッカケ。
「オレはジルヴァは賢者だったんじゃないかなって思う」
「賢者として徳を詰んだのにこんな人生か」
「悪くない人生でしょ?」
「なーに自信持ってんだよ」
否定しないジルヴァに嬉しくなる。包丁の柄でコンッと軽く叩かれてもディルの笑顔は消えず、頬に「オレと出会えたから」と書いてあるのを見てジルヴァが笑う。
「オレは何すればいい? 果物切る?」
「邪魔だから座ってろ」
優しい邪魔の言い方に頷いてテーブルへと向かう。
あと二時間もすれば空は白んであっという間に朝を迎える。一日中働いて一睡もしていない身体は疲れているはずなのに心が弾んでいるせいか疲労も睡魔も感じない。
いつもは大きなサイズを焼くが、今日は一口サイズの小さいパンが出てきた。小麦粉の甘い香りがする焼きたてパンと半熟の目玉焼き、そこに添えられたカリカリのベーコン。そして別の皿には果物が。贅沢すぎる朝食を前に二人で手を合わせてから食べる。
ジルヴァもディルも喋らない静かな空間の中で皿とカトラリーがぶつかる音だけが聞こえる。別に気まずくなっているわけじゃないのにディルは上手く言葉が出てこなかった。ジルヴァは元々それほどお喋りではないためディルが喋らなければ喋らない。でもディルは何か話したかった。せっかく二人きりなのだから何か話したい。このまま朝を迎えてのご馳走様は寂しすぎるから。
「ジルヴァは……その……」
片肘をつきながら食べていたジルヴァの顔がディルに向く。
「何も聞かなかったね」
朝食時に選ぶ会話としては最低だが、今はまだ爽やかな朝ではないと言い訳じみた言葉を心の中で言って目線は下から右へと移動させながらフォークの先でベーコンの端を弄る。
「その身一つで稼いでる人間に何聞けってんだ? 今日の売り上げか? 興味ねぇよ」
ジルヴァはどんな職業でも差別はしない。娼婦だろうとシェフだろうとその身一つで稼いでるのは同じだと言う。ディルはそうは思えなかった。美味しかった、ありがとうと笑顔が見られるシェフと見下されて乱暴に扱われるあの世界の人間のどこが同じなんだと思ってしまう。
「なんでジンから脅されてるって言わなかったの?」
「十歳のお前に何言えってんだ? 何もできねぇガキにお前のせいで脅されてんだが俺はどうすりゃいいか聞けってか? 馬鹿馬鹿しい。お前に知られたことだけが俺の唯一の失敗かもな。馬鹿みてぇに一直線のテメーが知りゃどうするかわかってたのによ」
きっと何もできなかった。怯えて、謝って、震えて、泣くだけ。身体を差し出すことだってできなかっただろう。今だからできたことだ。
「オレはただ……ジルヴァを守りたかったんだ。だから──」
ディルの言葉を遮るようにカチャンッと少し大きめの音がした。食べ終えた皿の上にジルヴァが少し強めにフォークを放ったのだ。
「俺がしてくれって頼んだか? 助けてくれってお前に言ったか?」
「言ってない、けど……ジルヴァだってオレに黙ってオレを助けてくれてたじゃん! オレは頼んでないよ! 助けてなんて言ってない!」
この五年間、ずっとジルヴァに守られていた。あんな乱暴な仕打ちを受けていたのに五年間、ジルヴァの態度は一度だって変わらなかった。ジルヴァが苛立つのは決まって手際が悪いときと客と認めない人間が来たときだけ。プライベートで起こったことでの苛立ちを誰かにぶつけることはないのだ。だから気付かなかった。
この街で生き残れるのは賢い者だけ。選択を間違えない者。ジルヴァは間違えなかった。だからディルは救われた。警察では救えない。この街に住む者なら誰も警察には期待しない。生き残るために必要な行動は何か、選択はどれかわかっていた。ディルもジルヴァも。
でも、納得はできなかった。
「オレは守ってほしいなんて頼んでないよ」
この一年、何度も何度も考えた。十歳のときにジルヴァが脅されていることを知って、自分に何ができただろうと。嫌だと泣いて、ごめんなさいと縋りついて、ジンに土下座するぐらいしかできなかった──それがディルの出した答えだ。
自分はどうなってもいい、と言えるのは自分の身体一つで責任が取れる今だから言えることで十歳ではその強がりも言えなかっただろう。守ってくれた相手に吐き出す言葉としては最低のものだが、ジルヴァが自分を大切にしないことが嫌だった。それは母親殺し、人殺しと言われるほうがきっとここまで辛くはなかったはずだと悔しさが込み上げる。
五年間も守ってもらっておきながらひどいことを言っていると自覚あるディルにジルヴァは言い放った。
「そうだ。だから言わなかった。俺がやりたくてやったことだからわざわざお前に言う必要なんざねぇと判断した」
「ッ!」
ジルヴァは昔からそうだった。いつも『俺がやりたくてやってることだ』と言う。それがどんなに大変なことでも、だ。その言葉に命を救われた。そして次は人生を守られた。将来を、未来を。その現実にディルの頬を涙が伝う。
「オ、オレだってそうだよ! ジルヴァに頼まれたわけじゃないから言わなかったんだ!」
「そうかよ」
なぜ言わなかったとは言われなかった。ジルヴァは全て知った上で止めなかったのだ。それがディルが自分で決めた道だからと尊重して。
辛い道を行くことはわかっていた。それでも気付かぬふりをしたのはディルがなぜその道を行くことにしたのか聞けば気付くのはディルだとわかっていたから。自分がしていることもできれば知られたくはなかった。せめて彼が成人する十六歳までは、と思っていたが詰めが甘かった。それだけが今もジルヴァの中には後悔として残っている。
「オレは……あの日、選択を間違えた。助けるつもりがなくても母親の手を握るべきだった。そしたらジンはオレが彼女を見殺しにしたって思わなかっただろうし、それに──」
唐突に差し出された皿にディルの言葉が止まる。白い皿に半熟の黄身がついており、子供の頃はそれをジルヴァの表情を伺いながら舐めたことがあったと思い出した。
食べ終わった皿を黙って受け取ったディルにジルヴァが顎をしゃくって厨房を指す。
「え?」
「俺が作ったんだからお前は片付けだろ」
「あ、う、うん。でもその前に話を……」
「くだらねぇ話こそ片付けの後だろ」
くだらない話。ジルヴァにとってはそうなのだろう。きっと事情を知ってもオージたちはそういう言い方はしない。涙ぐみながら、眉を寄せながら下げながら、唇を噛み締めながら「言えよ馬鹿野郎」と怒るはず。ジルヴァだけがそういう言い方をする。
自分の分の皿も取って厨房に行き、ジルヴァがどんな顔をしているのか覗くも仕草も表情も変わらない。ポケットから出した煙草を吸うかどうしようか迷っているように見えるだけ。
洗い物は二枚の皿と二本のフォークだけ。それでもディルはジルヴァに厨房の中から明るい声で問いかけた。
「ね、ごほーびある?」
洗い物をしたら“ごほーび”は子供の頃の話だが、ジルヴァは拒まなかった。「二人だからな」と言って立てた二本指をクイクイと曲げて二つ持ってくるよう合図する。
食後のデザートは洗い物のごほーびで、二人きりのときだけ食べられる特別な物だった。ディルはバニラ。ジルヴァはチョコ。フタを開けるときはいつも心が踊っていた。
あの日と同じように笑顔になるディルを見ながらジルヴァはスプーンの背でアイスの表面を叩いて硬さを確認する。まだもう少し溶かしたほうがいいとすぐにスプーンを刺すことはしない。
「驚かなかった?」
笑顔が萎んだディルからの問いにジルヴァが頬杖をつく。
「お前にバレた日に思った。お前はやるだろうなって。ジンがお前に何を言ったのかは聞かなくてもわかるし、そのクソみてぇな誘いに乗ることもわかってた」
「そうなんだ……」
「お前はクソ真面目で馬鹿正直なイイお兄ちゃんだが、理由もなしにあんなクソみてーな世界に足突っ込む馬鹿じゃねぇだろ」
「クソみたいな世界って思ってるんじゃん」
くだらない反論。でも、誰にどう思われるかを考えたとき、ジルヴァに蔑まれることが一番怖かった。だからディルは反論することで防御線を張る。
「望んであの場所にいる奴はいねぇだろ。金を払えば何をしても許されると思ってるクズ共を相手にする場所がクソみてーな場所じゃなかったらなんなんだよ」
「それは……そうだけど……」
「どういう扱いを受けるか、その身に刻まれるほどわかってんのにそこで働き続ける奴は立派だと思ってるぜ。俺と違って客選ぶことも許されねぇ。テメーの身体一つで稼ぐんだからな。金払う奴は神様、みてぇに媚び売って乱暴に扱われても笑顔で、なんてのはオレにはぜってぇ無理だ。だから、あのクソみてぇな世界で生きてる人間ってのは誰にも貶せねぇよ」
その言葉にディルは言おうとしていた言葉を唇を噛むことで飲み込んだ。
「自分のこと汚いって思ってんのか?」
言いたいことは全部顔に書いてある。ジルヴァは昔からディルにそう言ってきた。それが嘘ではないことを証明するかのようにディルが飲み込んだ言葉を当てる。
こくんと頷くディルの額に少し強めの勢いでやってきたスプーンの背が直撃する。
「痛いよ!」
額を押さえて痛みを訴えるディルの目の前にはスプーンをぶらぶらと揺らすジルヴァがいて、声を荒げることも舌打ちもしないが無言の行動が苛立ちを表している。
「必死に考えて必死に生きてる奴を汚いって吐き捨てる権利なんざ誰も持っちゃいねぇよ。お前はもう泣くことしかできねぇ力のねぇガキじゃねぇ。テメーの頭で考えて、テメーの足で歩いて、テメーの身体を使って進んだ道で必死に生きてきただろ。それをテメーで吐き捨てて汚すんじゃねぇ」
ディルの喉が震える。
「で、でも……」
「なあ、デモーナ」
久しぶりの呼び方だ。
「この店を開くための資金を身体で稼いだっつったら、お前は俺を汚ぇって軽蔑するか?」
突然のことに驚き固まるが、その答えが口から飛び出すのに三秒もかからなかった。
「しない。絶対に」
その言葉にジルヴァが微笑む。
「俺も同じだ」
頭に乗せられた優しい手。その手をまだ嬉しいと思っている自分は子供で、まだジルヴァの優しさに縋っている。この執着はいつ終わるのだろう。いつ心の中から消えて無くなってくれるのだろう。そう考えるたびに出る答えは「一生ムリ」で、少し前までは自分の中にいる天使と悪魔に相談していたが、今日は開き直ることにした。きっともう一度アルフィオがやってきてジルヴァとの結婚を正式に発表したら自分の道を見つめ直そうと。それまではまだもう少しジルヴァに甘えていたかった。
問いかけではなく独り言のように呟いたジルヴァに賛成してディルも一緒に厨房へと入る。当たり前のように存在する大切な場所。ここがなければ自分はきっとジンや妹からではなく、この世界から逃げ出していただろう。命の大切さなど考えもせず、ただ楽になる方法だけを考えて彷徨っていたはず。でもここがあったから踏ん張れた。
けしてキレイとは言えない厨房。掃除は毎日しているが、それでもあっちもこっちも古くてどれだけ磨こうと顔が映るほどピカピカにはならない。そこが好きだと実感する。
ディルにとってここは暖かくて美味い物を作り出す魔法がかかった場所。料理を作る彼らは魔法使いで、どんな食材でもあっという間に魔法をかけてしまう。子供の頃はそう思っていた。成長した今もそう思うことはある。傷みかけている食材は賄いに使うのだが、食材の状態によって調理法を変える。そうして出来上がっていく物はやはり魔法がかけられたように美味くて六年経った今でも感動するのだ。
「ジルヴァは自分の前世ってなんだと思う?」
「前世ねぇ……」
「そういうの信じてない?」
「考えたこともねぇわ」
ディルも幼い頃から想像していたわけじゃない。マダムシンディの家に居た頃に読んだ本がキッカケ。
「オレはジルヴァは賢者だったんじゃないかなって思う」
「賢者として徳を詰んだのにこんな人生か」
「悪くない人生でしょ?」
「なーに自信持ってんだよ」
否定しないジルヴァに嬉しくなる。包丁の柄でコンッと軽く叩かれてもディルの笑顔は消えず、頬に「オレと出会えたから」と書いてあるのを見てジルヴァが笑う。
「オレは何すればいい? 果物切る?」
「邪魔だから座ってろ」
優しい邪魔の言い方に頷いてテーブルへと向かう。
あと二時間もすれば空は白んであっという間に朝を迎える。一日中働いて一睡もしていない身体は疲れているはずなのに心が弾んでいるせいか疲労も睡魔も感じない。
いつもは大きなサイズを焼くが、今日は一口サイズの小さいパンが出てきた。小麦粉の甘い香りがする焼きたてパンと半熟の目玉焼き、そこに添えられたカリカリのベーコン。そして別の皿には果物が。贅沢すぎる朝食を前に二人で手を合わせてから食べる。
ジルヴァもディルも喋らない静かな空間の中で皿とカトラリーがぶつかる音だけが聞こえる。別に気まずくなっているわけじゃないのにディルは上手く言葉が出てこなかった。ジルヴァは元々それほどお喋りではないためディルが喋らなければ喋らない。でもディルは何か話したかった。せっかく二人きりなのだから何か話したい。このまま朝を迎えてのご馳走様は寂しすぎるから。
「ジルヴァは……その……」
片肘をつきながら食べていたジルヴァの顔がディルに向く。
「何も聞かなかったね」
朝食時に選ぶ会話としては最低だが、今はまだ爽やかな朝ではないと言い訳じみた言葉を心の中で言って目線は下から右へと移動させながらフォークの先でベーコンの端を弄る。
「その身一つで稼いでる人間に何聞けってんだ? 今日の売り上げか? 興味ねぇよ」
ジルヴァはどんな職業でも差別はしない。娼婦だろうとシェフだろうとその身一つで稼いでるのは同じだと言う。ディルはそうは思えなかった。美味しかった、ありがとうと笑顔が見られるシェフと見下されて乱暴に扱われるあの世界の人間のどこが同じなんだと思ってしまう。
「なんでジンから脅されてるって言わなかったの?」
「十歳のお前に何言えってんだ? 何もできねぇガキにお前のせいで脅されてんだが俺はどうすりゃいいか聞けってか? 馬鹿馬鹿しい。お前に知られたことだけが俺の唯一の失敗かもな。馬鹿みてぇに一直線のテメーが知りゃどうするかわかってたのによ」
きっと何もできなかった。怯えて、謝って、震えて、泣くだけ。身体を差し出すことだってできなかっただろう。今だからできたことだ。
「オレはただ……ジルヴァを守りたかったんだ。だから──」
ディルの言葉を遮るようにカチャンッと少し大きめの音がした。食べ終えた皿の上にジルヴァが少し強めにフォークを放ったのだ。
「俺がしてくれって頼んだか? 助けてくれってお前に言ったか?」
「言ってない、けど……ジルヴァだってオレに黙ってオレを助けてくれてたじゃん! オレは頼んでないよ! 助けてなんて言ってない!」
この五年間、ずっとジルヴァに守られていた。あんな乱暴な仕打ちを受けていたのに五年間、ジルヴァの態度は一度だって変わらなかった。ジルヴァが苛立つのは決まって手際が悪いときと客と認めない人間が来たときだけ。プライベートで起こったことでの苛立ちを誰かにぶつけることはないのだ。だから気付かなかった。
この街で生き残れるのは賢い者だけ。選択を間違えない者。ジルヴァは間違えなかった。だからディルは救われた。警察では救えない。この街に住む者なら誰も警察には期待しない。生き残るために必要な行動は何か、選択はどれかわかっていた。ディルもジルヴァも。
でも、納得はできなかった。
「オレは守ってほしいなんて頼んでないよ」
この一年、何度も何度も考えた。十歳のときにジルヴァが脅されていることを知って、自分に何ができただろうと。嫌だと泣いて、ごめんなさいと縋りついて、ジンに土下座するぐらいしかできなかった──それがディルの出した答えだ。
自分はどうなってもいい、と言えるのは自分の身体一つで責任が取れる今だから言えることで十歳ではその強がりも言えなかっただろう。守ってくれた相手に吐き出す言葉としては最低のものだが、ジルヴァが自分を大切にしないことが嫌だった。それは母親殺し、人殺しと言われるほうがきっとここまで辛くはなかったはずだと悔しさが込み上げる。
五年間も守ってもらっておきながらひどいことを言っていると自覚あるディルにジルヴァは言い放った。
「そうだ。だから言わなかった。俺がやりたくてやったことだからわざわざお前に言う必要なんざねぇと判断した」
「ッ!」
ジルヴァは昔からそうだった。いつも『俺がやりたくてやってることだ』と言う。それがどんなに大変なことでも、だ。その言葉に命を救われた。そして次は人生を守られた。将来を、未来を。その現実にディルの頬を涙が伝う。
「オ、オレだってそうだよ! ジルヴァに頼まれたわけじゃないから言わなかったんだ!」
「そうかよ」
なぜ言わなかったとは言われなかった。ジルヴァは全て知った上で止めなかったのだ。それがディルが自分で決めた道だからと尊重して。
辛い道を行くことはわかっていた。それでも気付かぬふりをしたのはディルがなぜその道を行くことにしたのか聞けば気付くのはディルだとわかっていたから。自分がしていることもできれば知られたくはなかった。せめて彼が成人する十六歳までは、と思っていたが詰めが甘かった。それだけが今もジルヴァの中には後悔として残っている。
「オレは……あの日、選択を間違えた。助けるつもりがなくても母親の手を握るべきだった。そしたらジンはオレが彼女を見殺しにしたって思わなかっただろうし、それに──」
唐突に差し出された皿にディルの言葉が止まる。白い皿に半熟の黄身がついており、子供の頃はそれをジルヴァの表情を伺いながら舐めたことがあったと思い出した。
食べ終わった皿を黙って受け取ったディルにジルヴァが顎をしゃくって厨房を指す。
「え?」
「俺が作ったんだからお前は片付けだろ」
「あ、う、うん。でもその前に話を……」
「くだらねぇ話こそ片付けの後だろ」
くだらない話。ジルヴァにとってはそうなのだろう。きっと事情を知ってもオージたちはそういう言い方はしない。涙ぐみながら、眉を寄せながら下げながら、唇を噛み締めながら「言えよ馬鹿野郎」と怒るはず。ジルヴァだけがそういう言い方をする。
自分の分の皿も取って厨房に行き、ジルヴァがどんな顔をしているのか覗くも仕草も表情も変わらない。ポケットから出した煙草を吸うかどうしようか迷っているように見えるだけ。
洗い物は二枚の皿と二本のフォークだけ。それでもディルはジルヴァに厨房の中から明るい声で問いかけた。
「ね、ごほーびある?」
洗い物をしたら“ごほーび”は子供の頃の話だが、ジルヴァは拒まなかった。「二人だからな」と言って立てた二本指をクイクイと曲げて二つ持ってくるよう合図する。
食後のデザートは洗い物のごほーびで、二人きりのときだけ食べられる特別な物だった。ディルはバニラ。ジルヴァはチョコ。フタを開けるときはいつも心が踊っていた。
あの日と同じように笑顔になるディルを見ながらジルヴァはスプーンの背でアイスの表面を叩いて硬さを確認する。まだもう少し溶かしたほうがいいとすぐにスプーンを刺すことはしない。
「驚かなかった?」
笑顔が萎んだディルからの問いにジルヴァが頬杖をつく。
「お前にバレた日に思った。お前はやるだろうなって。ジンがお前に何を言ったのかは聞かなくてもわかるし、そのクソみてぇな誘いに乗ることもわかってた」
「そうなんだ……」
「お前はクソ真面目で馬鹿正直なイイお兄ちゃんだが、理由もなしにあんなクソみてーな世界に足突っ込む馬鹿じゃねぇだろ」
「クソみたいな世界って思ってるんじゃん」
くだらない反論。でも、誰にどう思われるかを考えたとき、ジルヴァに蔑まれることが一番怖かった。だからディルは反論することで防御線を張る。
「望んであの場所にいる奴はいねぇだろ。金を払えば何をしても許されると思ってるクズ共を相手にする場所がクソみてーな場所じゃなかったらなんなんだよ」
「それは……そうだけど……」
「どういう扱いを受けるか、その身に刻まれるほどわかってんのにそこで働き続ける奴は立派だと思ってるぜ。俺と違って客選ぶことも許されねぇ。テメーの身体一つで稼ぐんだからな。金払う奴は神様、みてぇに媚び売って乱暴に扱われても笑顔で、なんてのはオレにはぜってぇ無理だ。だから、あのクソみてぇな世界で生きてる人間ってのは誰にも貶せねぇよ」
その言葉にディルは言おうとしていた言葉を唇を噛むことで飲み込んだ。
「自分のこと汚いって思ってんのか?」
言いたいことは全部顔に書いてある。ジルヴァは昔からディルにそう言ってきた。それが嘘ではないことを証明するかのようにディルが飲み込んだ言葉を当てる。
こくんと頷くディルの額に少し強めの勢いでやってきたスプーンの背が直撃する。
「痛いよ!」
額を押さえて痛みを訴えるディルの目の前にはスプーンをぶらぶらと揺らすジルヴァがいて、声を荒げることも舌打ちもしないが無言の行動が苛立ちを表している。
「必死に考えて必死に生きてる奴を汚いって吐き捨てる権利なんざ誰も持っちゃいねぇよ。お前はもう泣くことしかできねぇ力のねぇガキじゃねぇ。テメーの頭で考えて、テメーの足で歩いて、テメーの身体を使って進んだ道で必死に生きてきただろ。それをテメーで吐き捨てて汚すんじゃねぇ」
ディルの喉が震える。
「で、でも……」
「なあ、デモーナ」
久しぶりの呼び方だ。
「この店を開くための資金を身体で稼いだっつったら、お前は俺を汚ぇって軽蔑するか?」
突然のことに驚き固まるが、その答えが口から飛び出すのに三秒もかからなかった。
「しない。絶対に」
その言葉にジルヴァが微笑む。
「俺も同じだ」
頭に乗せられた優しい手。その手をまだ嬉しいと思っている自分は子供で、まだジルヴァの優しさに縋っている。この執着はいつ終わるのだろう。いつ心の中から消えて無くなってくれるのだろう。そう考えるたびに出る答えは「一生ムリ」で、少し前までは自分の中にいる天使と悪魔に相談していたが、今日は開き直ることにした。きっともう一度アルフィオがやってきてジルヴァとの結婚を正式に発表したら自分の道を見つめ直そうと。それまではまだもう少しジルヴァに甘えていたかった。
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