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「オレさ、シェフになりたいんだ」
「知ってる」
「でもさ、ミーナたちはただのシェフじゃなくてスーパーシェフになれって言うんだ」
「スーパーシェフね。かっこいい響きだな。人々を空腹から救うスーパーシェフか」
それならただのシェフでもいいと思う気持ちはあれどシェフとして大きくなるのは悪いことではないとディルも思っていた。毎日毎日レストランで働く中で膨らんでいく夢や思いもたくさんあって、それは頭の中で考えるだけで口に出すことは一度もなかった。
「でも……」
言葉に詰まったディルに「デモーナ」と声をかけるジルヴァの表情は優しく、ディルが何を言おうとしているのか大体の察しがついているから優しい声を出した。
「ここで働いてたら……甘やかされるから……スーパーシェフにはなれないと思うんだ」
返ってくるのは頷きだけ。
「それで……さ、他の……店に……修行に、行こう、かな…って……思って、て……」
しどろもどろになるディルはこんなことを言う自分は恩知らずだと感じていた。十歳で拾ってもらって食べさせてもらって愛をくれた相手に他の店で働いてシェフになりたいと言うのはあまりにも傲慢で身勝手だと。
段々と下がっていく頭。
「恩知らずでごめんなさい」
ジルヴァからの返事がないことは何年経っても怖い。耐えきれずパッと頭を上げて笑いながら頭を掻く。
「やっぱムリ! 他のとこ行って修行したってオレがスーパーシェフになんかなれるわけないし! あはは! 何言ってんだろ!」
「ムリだって言ってる間はムリだろうな」
「え……」
笑い話にしようとしたのはディルだがハッキリ言われると思わず固まってしまう。
「誰かに背中押されるの待ってるうちは挑戦者には慣れねぇよ」
「オレは別に背中押してもらおうなんて……」
「ならなんで言った? 修行したいって思ってたんだろ? 本気でシェフになりてぇ奴なら誰もが考える道だ。おかしな話じゃねぇよ」
「……うん」
「でもな、背中押してもらおうとする奴ってのは道連れ探してんだわ。失敗したときにそいつのせいにするためのな。自分だけのせいじゃねぇ。アイツが言ったからって」
「オレはそんなこと考えてない!」
失敗してもジルヴァのせいにするつもりはなかった。今だってわかっている。努力次第でアルフィオのところまで上がれるほど甘い世界じゃないことも、他店で修行したからといって必ずスーパーシェフと呼ばれるわけじゃないことも。それは全て誰かのせいではなく自分の実力であることはちゃんと理解できる自信があるのにジルヴァはそれを信じていないかのような発言をする。だから悔しくて思わず大声出したが、ジルヴァは強い目でディルを見続ける。
「だったらなんで何も言わず進まねぇんだ? 進めよ。シェフになりてぇって、どうしても叶えたいデケェ夢があんだろうが」
「そ、そうだけど……ジルヴァと離れたくないんだ!」
思わずこぼれた本音に呆れた溜息が返ってくる。
「好きな女の傍にいたいから夢諦めるってのは都合の良い言い訳だよな」
嘲笑うように鼻を鳴らしたジルヴァにカッとなる。
「それって批判されるほどおかしなこと!? ジルヴァは自分がどれほど魅力的かわかってない! いつも誰かがジルヴァを狙ってる! 不安なんだ! オレなんかまだまだガキでジルヴァに好きになってもらえるほどの魅力だってまだない! オレより顔の良い人間なんて山のようにいるのに、離れちゃったら……」
照れるほど嬉しい言葉のはずが、ジルヴァの表情に喜びは一欠片もなく、それどころか怒りを滲ませている。
「テメーの好きな奴はッ!!」
怒りが乗った拳がテーブルに手が振り下ろされることでなった音が店に響く。
「テメーが好きになった奴はデケェ夢追って必死に生きてる男も待てねぇような人間なのか?」
違うと首を振るも「でも……」と言葉が漏れる。
「デモーナ、俺はスーパーシェフなんて称号得られるのは世界でも一握りしかいねぇもんになりてぇなんて現実を知らねぇガキが言い出すような夢叶えようとしてる奴との約束破って他に恋人作っちまう奴なのかって聞いてんだ」
「違う。ジルヴァはそんな人じゃない」
否定の早さにディルの口元が満足げに弧を描く。
「なら行ってこい。スーパーシェフになって帰ってくんだろ?」
「アルフィオ超えるから」
「なら四年だな。アイツは五年で賞取りやがったからよ」
「約束する。トロフィー持って帰ってくるよ」
センスもない自分に四年で何ができるだろう。四年と約束して何も成果が出せなかったらどうしよう。それでもジルヴァは待っていてくれるだろうか。またマイナスなことを考えるもそれを振り払うように頭を振ってテーブルに叩きつけたジルヴァの手を握る。
「あの、さ……スーパーシェフになって帰ってきたら、その……ちゃんとしたプロポーズ、しても、いい?」
乙女のようにチラッと上目遣いするディルに呆れた表情が向く。
「お前さ、そういうのはサプライズとかにするもんじゃねぇのか?」
「それも思ったけど、オレ昔からサプライズ苦手なんだよ。ジルヴァすぐ気付くし」
「言っただろ、顔に全部書いてあるって」
「だから先に言っとく。それに、言葉にしたほうが意識してもらえるんでしょ?」
前にジルヴァが言った言葉だ。そういうことだけはしっかり学習しているディルにジルヴァの喉奥が愉快そうに鳴る。
「しゃーねーから待っててやるよ」
「約束だからね?」
「俺に二言はねぇよ」
手を握っていた手を腕をなぞるように這わせてそのまま上へと向かい、ジルヴァの頬に添えると挑発的な笑みが向けられる。まだこの表情を崩したことは一度もなく、それはまだジルヴァを手玉に取れるほどの男になれていない証拠でもあった。だからこそジルヴァがいない場所で、優しい人たちがいない場所で働きたい気持ちがあった。
こうして触れられない日々が四年も続くと思うと今から心が折れそうだが、修行に行くからには恋しく思う感情は捨てなければならないのだろう。
触れ合う唇が互いの唇を食む。小さな水音が響き、ジルヴァの手が当たり前のようにディルの腰へと回り、シャツの中へと指が入る。その感覚に背筋を震わせるディルを見るのがジルヴァは好きだった。
コンコンコンコンコンコンコンコン
連続したノック音に振り返ると表のガラスを叩くオージたちがいた。
「入ってもよろしいでしょうかー? もし上に行っておっぱじめるのであれば私たちが裏口に回るまでにお上がりくださーい」
入るのは裏口からだが、裏口のドアを開けて慌てる様子を見たくないため声をかけるもジルヴァはチッと舌打ちをして手を引っ込めた。
時計を見るとオージたちの出勤時間で間違いない。早く来たわけではないため文句を言うこともできない。
「いいよ! 全然いいよ! 入ってきて!」
慌てたのはディルだけ。見られてしまったと顔を真っ赤に染めながらそれほど乱れてもいない服を何度も払って整えた。
「修行ねぇ」
オージたちにも話しておこうとランチの準備をしながら説明すると皆賛成してくれた。
「アタシが紹介してあげましょうか?」
「スーパーシェフの知り合いいるの?」
「あーそうか、お前あそこで働いてたんだっけか」
ニコニコするデイヴがちぎっていた野菜を置いてスタッフルームへと一度下がる。戻ってきた手には一枚の写真。長いコック帽をかぶった人を中心にコックコートを着たシェフたちが集まった集合写真。
「この人知ってるかしら?」
中心に立つ人にディルが「あ」と声を上げる。
「こないだ雑誌で見た。確か巨匠って呼ばれてる人」
「ルオーニ・クレッセド。今年で八十三になるんだけどまだまだ現役よ」
「でもお前がここで働いてたのって二十年も前だろ」
「そうよ。でも今でも親交があるの。一年に一度は必ず会ってるし」
意外な情報だった。デイヴは有名人と知り合いだったり会ったことがあっても人に自慢したりしない。だから巨匠と呼ばれるシェフと切れない親交がそれを自慢したことは一度もなかったため誰もそれを知らなかった。彼のもとで働いていたことを知っていたオージでさえ。
「お前がそんな風になっちまって悲しんでなかったか?」
ニヤつきながらからかうオージに向かって立てた人差し指をチッチッチッと口で音を立てながら揺らす。
「どんな場所にあるどんな店だろうとお前がシェフを続けていることが嬉しいって言ってくれるの」
「いい人だね」
ディルの言葉にデイヴが嬉しそうに笑う。
「とっても良い人よ。あの歳であんな人は他にはいないわ。目で盗め、なんて言わず、ちゃんと教えてくれる」
「確かに珍しいな」
「目で盗めって言うのは簡単だが、教えたほうが早いに決まってる。怒鳴り散らすためだけに口が付いてるなら看守にでもなればいい。シェフって仕事の素晴らしさに気付くには料理が楽しいことに気付かなきゃいけない。それに気付かせることも自分たちシェフの仕事なんだ。彼はいつもそう言ってたわ」
写真を見つめながら微笑むデイヴを見て微笑ましくなるもディルは一つだけ疑問が浮かんでいた。
「どうしてそんな素晴らしいシェフの店を辞めたの?」
「辞めたんじゃない、辞めさせられたの」
「何したんだ?」
「彼のルールなの。五年以上働かせない。その代わり、五年間で基礎も技術も叩き込む。だから次の者のために場所を空けろって」
「確かに、お前が店に来たときはオーナーも驚いてたな。どこで働いてたか聞いてすげぇ納得してたし」
「辞めたくなかったけど、ルールだからね。でも彼が好きだから彼と連絡は取り続けてるはずよ」
ディルの中で決意が固まった。
「行きたい」
その言葉にデイヴが嬉しそうに笑って「OK」と答えた。
「連絡しておく。明日すぐにってわけにはいかないけど、数日後には来いって言われるはずよ」
「ありがとう」
長く居れば決心が鈍ってしまう。ある程度のことはやってきたが、ここでは甘やかされてばかり。怒鳴られることも頭に拳骨が落ちることも尻を蹴られることも全て愛情の中にあって、いつも心のどこかが緩んでいた。五年という期間付き。その間に全て叩き込むと言ってくれる人がいるのはありがたい。
「言っとくけど、めちゃくちゃ厳しいわよ」
「ジルヴァより?」
「ジルヴァが赤ちゃんに思えるぐらいに」
「おいおい、ゴリラより上がいんのかよ」
「オージ、お前今日一日庭の草抜きな」
「なんでだよ!」
厳しくていい。こうして笑い合う中ではきっと今より成長するのは難しいからディルは覚悟を決めた。
ミーナがどういう気持ちでスーパーシェフになれと言ったのかはわからない。離れることになるとある程度の覚悟をした上で言ったのだろうか。
まだ子供。まだ子供だが、無邪気なだけの子供じゃないから扱いに困ってしまう。泣くだろうか。泣くかもしれない。
二人が結婚したら、と時間がないことを語っておきながら自分がこうして離れる決断をしてしまったのだからいい加減な兄であることに苦笑する。
「行ってきたら? ね、シーナ?」
「うん! お兄ちゃんがんばれー」
夕食時、二人から寂しがる様子もなく、さも「当然の判断でしょ」と言いたげな雰囲気を感じると同時に深く考えることをやめた。
「知ってる」
「でもさ、ミーナたちはただのシェフじゃなくてスーパーシェフになれって言うんだ」
「スーパーシェフね。かっこいい響きだな。人々を空腹から救うスーパーシェフか」
それならただのシェフでもいいと思う気持ちはあれどシェフとして大きくなるのは悪いことではないとディルも思っていた。毎日毎日レストランで働く中で膨らんでいく夢や思いもたくさんあって、それは頭の中で考えるだけで口に出すことは一度もなかった。
「でも……」
言葉に詰まったディルに「デモーナ」と声をかけるジルヴァの表情は優しく、ディルが何を言おうとしているのか大体の察しがついているから優しい声を出した。
「ここで働いてたら……甘やかされるから……スーパーシェフにはなれないと思うんだ」
返ってくるのは頷きだけ。
「それで……さ、他の……店に……修行に、行こう、かな…って……思って、て……」
しどろもどろになるディルはこんなことを言う自分は恩知らずだと感じていた。十歳で拾ってもらって食べさせてもらって愛をくれた相手に他の店で働いてシェフになりたいと言うのはあまりにも傲慢で身勝手だと。
段々と下がっていく頭。
「恩知らずでごめんなさい」
ジルヴァからの返事がないことは何年経っても怖い。耐えきれずパッと頭を上げて笑いながら頭を掻く。
「やっぱムリ! 他のとこ行って修行したってオレがスーパーシェフになんかなれるわけないし! あはは! 何言ってんだろ!」
「ムリだって言ってる間はムリだろうな」
「え……」
笑い話にしようとしたのはディルだがハッキリ言われると思わず固まってしまう。
「誰かに背中押されるの待ってるうちは挑戦者には慣れねぇよ」
「オレは別に背中押してもらおうなんて……」
「ならなんで言った? 修行したいって思ってたんだろ? 本気でシェフになりてぇ奴なら誰もが考える道だ。おかしな話じゃねぇよ」
「……うん」
「でもな、背中押してもらおうとする奴ってのは道連れ探してんだわ。失敗したときにそいつのせいにするためのな。自分だけのせいじゃねぇ。アイツが言ったからって」
「オレはそんなこと考えてない!」
失敗してもジルヴァのせいにするつもりはなかった。今だってわかっている。努力次第でアルフィオのところまで上がれるほど甘い世界じゃないことも、他店で修行したからといって必ずスーパーシェフと呼ばれるわけじゃないことも。それは全て誰かのせいではなく自分の実力であることはちゃんと理解できる自信があるのにジルヴァはそれを信じていないかのような発言をする。だから悔しくて思わず大声出したが、ジルヴァは強い目でディルを見続ける。
「だったらなんで何も言わず進まねぇんだ? 進めよ。シェフになりてぇって、どうしても叶えたいデケェ夢があんだろうが」
「そ、そうだけど……ジルヴァと離れたくないんだ!」
思わずこぼれた本音に呆れた溜息が返ってくる。
「好きな女の傍にいたいから夢諦めるってのは都合の良い言い訳だよな」
嘲笑うように鼻を鳴らしたジルヴァにカッとなる。
「それって批判されるほどおかしなこと!? ジルヴァは自分がどれほど魅力的かわかってない! いつも誰かがジルヴァを狙ってる! 不安なんだ! オレなんかまだまだガキでジルヴァに好きになってもらえるほどの魅力だってまだない! オレより顔の良い人間なんて山のようにいるのに、離れちゃったら……」
照れるほど嬉しい言葉のはずが、ジルヴァの表情に喜びは一欠片もなく、それどころか怒りを滲ませている。
「テメーの好きな奴はッ!!」
怒りが乗った拳がテーブルに手が振り下ろされることでなった音が店に響く。
「テメーが好きになった奴はデケェ夢追って必死に生きてる男も待てねぇような人間なのか?」
違うと首を振るも「でも……」と言葉が漏れる。
「デモーナ、俺はスーパーシェフなんて称号得られるのは世界でも一握りしかいねぇもんになりてぇなんて現実を知らねぇガキが言い出すような夢叶えようとしてる奴との約束破って他に恋人作っちまう奴なのかって聞いてんだ」
「違う。ジルヴァはそんな人じゃない」
否定の早さにディルの口元が満足げに弧を描く。
「なら行ってこい。スーパーシェフになって帰ってくんだろ?」
「アルフィオ超えるから」
「なら四年だな。アイツは五年で賞取りやがったからよ」
「約束する。トロフィー持って帰ってくるよ」
センスもない自分に四年で何ができるだろう。四年と約束して何も成果が出せなかったらどうしよう。それでもジルヴァは待っていてくれるだろうか。またマイナスなことを考えるもそれを振り払うように頭を振ってテーブルに叩きつけたジルヴァの手を握る。
「あの、さ……スーパーシェフになって帰ってきたら、その……ちゃんとしたプロポーズ、しても、いい?」
乙女のようにチラッと上目遣いするディルに呆れた表情が向く。
「お前さ、そういうのはサプライズとかにするもんじゃねぇのか?」
「それも思ったけど、オレ昔からサプライズ苦手なんだよ。ジルヴァすぐ気付くし」
「言っただろ、顔に全部書いてあるって」
「だから先に言っとく。それに、言葉にしたほうが意識してもらえるんでしょ?」
前にジルヴァが言った言葉だ。そういうことだけはしっかり学習しているディルにジルヴァの喉奥が愉快そうに鳴る。
「しゃーねーから待っててやるよ」
「約束だからね?」
「俺に二言はねぇよ」
手を握っていた手を腕をなぞるように這わせてそのまま上へと向かい、ジルヴァの頬に添えると挑発的な笑みが向けられる。まだこの表情を崩したことは一度もなく、それはまだジルヴァを手玉に取れるほどの男になれていない証拠でもあった。だからこそジルヴァがいない場所で、優しい人たちがいない場所で働きたい気持ちがあった。
こうして触れられない日々が四年も続くと思うと今から心が折れそうだが、修行に行くからには恋しく思う感情は捨てなければならないのだろう。
触れ合う唇が互いの唇を食む。小さな水音が響き、ジルヴァの手が当たり前のようにディルの腰へと回り、シャツの中へと指が入る。その感覚に背筋を震わせるディルを見るのがジルヴァは好きだった。
コンコンコンコンコンコンコンコン
連続したノック音に振り返ると表のガラスを叩くオージたちがいた。
「入ってもよろしいでしょうかー? もし上に行っておっぱじめるのであれば私たちが裏口に回るまでにお上がりくださーい」
入るのは裏口からだが、裏口のドアを開けて慌てる様子を見たくないため声をかけるもジルヴァはチッと舌打ちをして手を引っ込めた。
時計を見るとオージたちの出勤時間で間違いない。早く来たわけではないため文句を言うこともできない。
「いいよ! 全然いいよ! 入ってきて!」
慌てたのはディルだけ。見られてしまったと顔を真っ赤に染めながらそれほど乱れてもいない服を何度も払って整えた。
「修行ねぇ」
オージたちにも話しておこうとランチの準備をしながら説明すると皆賛成してくれた。
「アタシが紹介してあげましょうか?」
「スーパーシェフの知り合いいるの?」
「あーそうか、お前あそこで働いてたんだっけか」
ニコニコするデイヴがちぎっていた野菜を置いてスタッフルームへと一度下がる。戻ってきた手には一枚の写真。長いコック帽をかぶった人を中心にコックコートを着たシェフたちが集まった集合写真。
「この人知ってるかしら?」
中心に立つ人にディルが「あ」と声を上げる。
「こないだ雑誌で見た。確か巨匠って呼ばれてる人」
「ルオーニ・クレッセド。今年で八十三になるんだけどまだまだ現役よ」
「でもお前がここで働いてたのって二十年も前だろ」
「そうよ。でも今でも親交があるの。一年に一度は必ず会ってるし」
意外な情報だった。デイヴは有名人と知り合いだったり会ったことがあっても人に自慢したりしない。だから巨匠と呼ばれるシェフと切れない親交がそれを自慢したことは一度もなかったため誰もそれを知らなかった。彼のもとで働いていたことを知っていたオージでさえ。
「お前がそんな風になっちまって悲しんでなかったか?」
ニヤつきながらからかうオージに向かって立てた人差し指をチッチッチッと口で音を立てながら揺らす。
「どんな場所にあるどんな店だろうとお前がシェフを続けていることが嬉しいって言ってくれるの」
「いい人だね」
ディルの言葉にデイヴが嬉しそうに笑う。
「とっても良い人よ。あの歳であんな人は他にはいないわ。目で盗め、なんて言わず、ちゃんと教えてくれる」
「確かに珍しいな」
「目で盗めって言うのは簡単だが、教えたほうが早いに決まってる。怒鳴り散らすためだけに口が付いてるなら看守にでもなればいい。シェフって仕事の素晴らしさに気付くには料理が楽しいことに気付かなきゃいけない。それに気付かせることも自分たちシェフの仕事なんだ。彼はいつもそう言ってたわ」
写真を見つめながら微笑むデイヴを見て微笑ましくなるもディルは一つだけ疑問が浮かんでいた。
「どうしてそんな素晴らしいシェフの店を辞めたの?」
「辞めたんじゃない、辞めさせられたの」
「何したんだ?」
「彼のルールなの。五年以上働かせない。その代わり、五年間で基礎も技術も叩き込む。だから次の者のために場所を空けろって」
「確かに、お前が店に来たときはオーナーも驚いてたな。どこで働いてたか聞いてすげぇ納得してたし」
「辞めたくなかったけど、ルールだからね。でも彼が好きだから彼と連絡は取り続けてるはずよ」
ディルの中で決意が固まった。
「行きたい」
その言葉にデイヴが嬉しそうに笑って「OK」と答えた。
「連絡しておく。明日すぐにってわけにはいかないけど、数日後には来いって言われるはずよ」
「ありがとう」
長く居れば決心が鈍ってしまう。ある程度のことはやってきたが、ここでは甘やかされてばかり。怒鳴られることも頭に拳骨が落ちることも尻を蹴られることも全て愛情の中にあって、いつも心のどこかが緩んでいた。五年という期間付き。その間に全て叩き込むと言ってくれる人がいるのはありがたい。
「言っとくけど、めちゃくちゃ厳しいわよ」
「ジルヴァより?」
「ジルヴァが赤ちゃんに思えるぐらいに」
「おいおい、ゴリラより上がいんのかよ」
「オージ、お前今日一日庭の草抜きな」
「なんでだよ!」
厳しくていい。こうして笑い合う中ではきっと今より成長するのは難しいからディルは覚悟を決めた。
ミーナがどういう気持ちでスーパーシェフになれと言ったのかはわからない。離れることになるとある程度の覚悟をした上で言ったのだろうか。
まだ子供。まだ子供だが、無邪気なだけの子供じゃないから扱いに困ってしまう。泣くだろうか。泣くかもしれない。
二人が結婚したら、と時間がないことを語っておきながら自分がこうして離れる決断をしてしまったのだからいい加減な兄であることに苦笑する。
「行ってきたら? ね、シーナ?」
「うん! お兄ちゃんがんばれー」
夕食時、二人から寂しがる様子もなく、さも「当然の判断でしょ」と言いたげな雰囲気を感じると同時に深く考えることをやめた。
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