顔も知らない婚約者 海を越えて夫婦になる

永江寧々

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愛のために

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 雲一つない快晴の空の下で響いた悲鳴にユズリハとハロルドの耳に届いた。

「やめて!!」

 声の主はルーシィで、何かが割れる音も聞こえた。ガラスが割れる音が続く。
 一体何事だと焦った二人は外に出て屋敷を見上げる。聞こえてくるのはルーシィの他にクリフォードの声もあった。

「和の国に興味を持つのはやめろ! 気持ち悪いんだよ!」
「あなたには関係ないじゃない! 私の物に触らないで!」
「夫に反抗するつもりか!? 誰のおかげで良い暮らしができてると思ってるんだ!」
「あなたのおかげじゃないことは確かね!!」

 ルーシィは気が強い。それを決定付ける言い返しに二人が揃って苦笑を滲ませる。
 和の国を嫌悪しているクリフォードは和の国を愛しているルーシィが許せない。若い和の国の男が来たことで心が揺れ動いていたのではないかと連日疑い続けていた。毎日毎日同じ言葉を繰り返し嫌味のようにぶつけてくるクリフォードにはうんざりだとユズリハに愚痴を言い続けて一ヶ月。ついに爆発した。

「まだ結婚して一年ちょっとしか経っておらぬであろうに……」
「相性ってもんがあるんだよ」

 ルーシィから愚痴を聞かされるたびにユズリハは自分は相性の良い相手と結婚できて幸せだと実感する。
 こうなる可能性も想像の中にはあったのだから。

「触るなって言ってんの!!」
「殴るんじゃねぇ! 夫に手を上げていいと思ってんのか!?」
「触らないでって何度も言ってるのに聞かないからでしょ!」

 ハロルドはルーシィがいつか本当にクリフォードをどこかに沈めると思っている。湖か、海か、風呂か、はたまた水汲み場か。
 夫に手を上げるなど絶対に許されない行為だが、それだけルーシィの気持ちは夫にはないということだ。自分が大切にしている物に触れられるのも嫌なのだから。

「あそこまで言われてお前様の兄は離婚すると言い出さんのじゃからすごいのう」
「義姉さんは外面が良いんだ。見た目だけなら完璧な淑女だし、爵位もそれなり。手放すのが惜しいんだろうな」
「惚れておるのか?」
「兄さんはそうだと思う。唯一許せないのが和の国についてだから、そこだけ直させようとしてるんだと思うけど……」
「ムリじゃろうな」
「だな」

 ルーシィはあれからもあまりリンタロウのことは口にしなかった。『ご家族は和の国に到着した?』と聞くことはあったが、リンタロウ個人のことは何も聞いてこなかった。聞けば恋しくなると思っているからなのか、ユズリハも話題にしようとはしなかった。

『またな』

 リンタロウの言葉を信じているのだろう。

『前に進みたいの』

 ルーシィからそう聞かされたのは数日前。ユズリハは特段驚きはしなかった。ルーシィの心はリンタロウにあってクリフォードにはない。彼に申し訳ない気持ちがないわけではないが、心はどうしたって操作はできない。言い聞かせられるものでもない。
 かといって簡単に切れる関係でもないのだ。
 家同士の関係がある結婚を解消するのは女が一人旅に出るよりずっと難しいことだとハロルドは言った。だからルーシィも『どうするのがベストなのか考えてる』と頼りない笑顔を見せた。
 力になってやりたいが、この家で最も権力を持っていないのはユズリハで、できることは何もない。
 心の中で応援することしかできない無力さを噛み締めていると窓を割らんばかりの怒声で聞こえた言葉に二人は顔を見合わせる。

「それを処分しないなら離婚だぞ!!」

 手放したくない者が脅しに使った言葉に二人は思わず拳を握った。

「私が大事にしている物にを捨てなきゃ離婚だなんて横暴すぎると思わないの?」
「気持ち悪いんだよ! ヘインズ家で和の国が好きなのはお前だけだ! 皆が気味悪がってるんだよ! そんなもん飾り続ける女と夫婦生活やっていけるわけないだろ!」
「そんな……」
「嫌だろ? じゃあ今すぐ捨て──」
「じゃあ離婚しましょ」

 まさに寝耳に水。
 離婚に同意される想像などしていなかったクリフォードの口が開きっぱなしで固まる。
 ルーシィは気は強いが、イイ女だ。手放したくない。ルーシィよりイイ女を探すほうが大変だと思うぐらいにはクリフォードにとっては最高の相手。その相手が脅しに屈することも離婚を嫌がることもなくすんなり受け入れた。それも笑顔で。
 信じられないのはクリフォードのほうだった。

「は、はあ? お前、意味わかってないだろ。離婚だぞ、りーこーん」
「夫婦関係の解消でしょ。わかってる。バカにしないで」

 この話に焦っているのはクリフォードだけだが、それを表に出すのはみっともないからと笑って見せる。

「ヘインズ家の長男に捨てられた女を誰が新しくもらうってんだ? 俺と離婚したらお前は傷物なんだよ。お前は離婚したら痛手しかないけど、俺はすぐにお前より若くて美人な女と再婚する」
「すればいいじゃない」

 ショックを受けた様子もない状況にクリフォードのほうがショックを受けていた。

「俺と離婚してこの先、普通に生きていけると思ってるのか!?」
「言っておくけど、あなたに縋って生きたことなんて一度もないから。養ってやってるとか言ってたけど、あなたの力じゃないしね。お祖父様から分け与えられた物でどうしてそこまで威張れるのかが不思議だわ」

 女に見下されたことがないクリフォードにとってこれほどの侮辱はない。働いたこともない女にここまで偉そうに言われる覚えもない。
 怒りに身体を震わせるクリフォードが机に置いていた簪を手に取って床に投げつけようと振り上げると同時にルーシィが動いた。

「ッ!? な、なんのつもりだ!!」

 悲鳴にも近いクリフォードの声にユズリハとハロルドが顔を見合わせる。

「沈めようとしてるんじゃないよな……」
「まさか。そのようなこと……」

 否定できないが、溺れているような声は聞こえない。ずっと「やめろ!」と何かに怯えている声が聞こえてくる。

「それを離して」
「な、なんなんだよ! 俺は夫だぞ!」
「手を離せって言ってるの。その汚い手を今すぐ離しなさい!!」
「何を大声で言い合って……キャアッ! 何をしてるの!!」

 騒ぎを聞きつけた母親が参戦したことで事態はややこしくなりそうだと溜息をついたハロルドが中へ戻ろうとするもユズリハは動かない。

「ユズリハ」
「先に行ってくれ。わらわはここで状況を見守る。心配じゃからな」
「野次馬かよ」

 面白いことになったと見上げ続けるユズリハに呆れながらも中に戻らず隣に戻った。

「息子にナイフを突きつけるなんてどういうつもり!?」
「彼が私の宝物を壊そうとしたから止めていただけです」
「止めていたですって!? ナイフを突きつけて止める嫁がどこにいるの!!」

 異常行動と取られてもおかしくはない。何を壊そうとしたのかはわからないが、和の国の物であることは確かだ。
 自分がされたわけでもないのに悲鳴を上げ続ける母親のオーバーさに呆れしかないハロルドはあまりの聞き苦しさに思わず耳を押さえた。

「り、離婚だ! お前なんかとは離婚だ!」
「そうよ! 離婚しなさい! 前々から気に入らなかったのよ! あんな和女と仲良くする非常識な女、うちの嫁に相応しくないわ!」

 呆れと怒り。あの日のダイゴロウと同じ感情が込み上げるも行く必要はないと背中を叩くユズリハの指示もあって動きはしないが腹は立つ。
 それはルーシィも同じだったらしく、嘲笑を二人に向けた。

「理由もなく和女というだけで見下すような非常識な家の嫁でいたくないので離婚、謹んでお受けいたします」
「お、お前なんか誰も嫁にもらってくれな──」
「和の国に行くから平気」
「…………は?」

 素っ頓狂な声を出すクリフォードに続ける。

「ヘインズ家なんか関係ない所まで行くの。素晴らしい文化、素晴らしい景色、素晴らしい人たちがいる素晴らしい国に行って新しい人生を始めるつもり。だからヘインズ家の長男に離婚を叩きつけられたからって私の人生に傷はつかないし、そんなくだらないことで私は傷物になったりしない。私にとって離婚は汚点じゃない。クリフォード・ヘインズの妻であったことだけが私の汚点よ。ま、それももう思い出すこともないでしょうけど」

 強い女だ。ハロルドは改めて思った。

「へ、へえ……和の国のブ男と結婚するつもりか? 笑えるな。わざわざ地獄に落ちに行く物好きだったとは知らなかった」
「あなたとの結婚生活って地獄から抜け出せるのよ。それに比べたらどんな生活も天国に感じるでしょうね」
「俺の妻になれたのはありがたいことなんだぞ!!」

 精一杯の強がりにユズリハは苦笑もできず表情が歪み、ハロルドは聴いているだけで恥ずかしかった。
 ルーシィにとっては嘲笑すべき話だが、今は大声で高らかに笑い上げる。自分から言い出したことを撤回できるような人間ではない。もうあとに引けなくなっているのだ。

「もう二度とあなたの顔を見ることがないと思うと嬉しくてスキップしちゃいそう。ああ、これを幸せって言うのね」
「お前のような女は地獄に落ちろ!」
「結婚式の日、必ず幸せにするって約束してくれたわよね。今ようやく守ってくれたのね。ありがとう」

 盛大な嫌味に母親も顔を真っ赤にして「今すぐ出て行きなさい!」と声を荒げ「荷物を詰め終わったらすぐにでも出て行きます」と言うルーシィの強さにユズリハは感心しっぱなし。

「クリス、行くわよ!」

 母親のあとを追って出ていくクリフォードに向かってルーシィの大きな笑い声が響く。

「僕、お前があそこまで気が強い女だったらやっていけないかもしれない」
「わらわが全てを見せておらぬ可能性があるとは思わぬのか?」
「いや、お前の気の強さは知ってるけど、あれは別格だろ」
「女は強くなければやっていけぬ。それはきっと世界中どこでも同じじゃ。男主体の世の中で女は媚びるだけでは生きていけぬ。強くあらねば」
「ほどほどに頼む」

 ルーシィはきっとこのまま出ていってしまうだろう。実家に帰るのか、それともこのまま感情昂るままに船に乗って和の国へと向かうのか。
 どちらにしろルーシィはもうヘインズ家の人間ではない。いきなり和の国に行って受け入れられるかも怪しい。ダイゴロウはまだ「認める」とは言っていない。あの一件でルーシィを“常識がない女”と思ったかもしれない。
 あの一週間で何も話ができなかったからこそ真意がわからない。
 どのみち少し話す必要がありそうだとハロルドと手を繋ぎ、ヘインズ邸の階段近くまで進んでルーシィを待つことにした。
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