エリスローズの瞳に映るもの

永江寧々

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エリスローズは学修する

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 それからの一ヶ月はあっという間だった。
 バーバラの代わりに配置された教育係のカーラはスラム街だからと差別的発言をする人ではなかったが、とても厳しい人だった。

「ちゃんと覚えましたか? 言いたいことが全く伝わってきません」
「ペンはこう持つ。字は力を入れて書くのではなく滑らせるようになめらかに」
「綴りが違う」
「それでは蝋を無駄にします。もっと適量で」

 まず字を読むことから始め、紙に書かれた言葉を指して会話をする練習からだったのだが、何百回も注意を受けた。
 それに合格したら次は表を見ながら字を書く練習。
 ペンなど握ったことがないエリスローズにとってまずその握り方から練習しなければならなかった。
 握れるようになったら次は紙の上に書いていくのだが、それがまた大変だった。
 ちゃんと握れるようになったペンで紙に字を書こうとすると力が入ってしまい紙が破れることが何度もあった。
 その度に注意を受けて持ち直しになる。
 逃げ出したくなるほど何度も何度も注意を受けたが、嫌にならなかったのは教育係が「どうしてこんなこともできないのか」「これだからスラム街の人間は」「役目が終わったらどうせ役に立たなくなるんだから」というような言葉を一度も吐かなかったから。
 呆れた顔も溜め息も吐かずに教え続けてくれた。

「いいですね。今日で字の練習は終わりにしましょう」

 一ヶ月ほど経つ頃にはちゃんとした文章で手紙を書けるようになった。
 マナーも覚えなければならないが、それよりも字が書けるようになることが優先だと言われて毎日何時間も続けた猛特訓のおかげで一ヶ月でマスターすることができた。
 封蝋まで完璧にできるようになったエリスローズは満足げに笑う。

「よく頑張りましたね」

 カーラの裏の顔は知らないが、この人は良い人だと思った。
 褒めるときは褒める、叱るときは叱るがちゃんとできる人。
 スラム街出身だという話をしても聞いているの一言で終わった。そこには嘲笑も差別発言もなく、だからどうしたとでも言うような態度だった。
 だからエリスローズもこの人の教えを守ろうと決めた。
 この一ヶ月、辛くなかったと言えば嘘になる。もう嫌だと声を上げようとしても声は出ない。か細い悲鳴すら出せないもどかしさに何度机を叩いたかわからない。
 その度にカーラは『物に当たっても字が書けるようになるわけではありませんよ』と言った。声を荒げることなく冷静に。それが時折ひどくエリスローズの神経を逆撫ですることになったが、カーラが冷静なままなのを見るとすぐに落ち着きを取り戻した。
 自分だけが怒っているのは情けないと。
 こうしてちゃんとした手紙が完成すると達成感に満たされる。 

『カーラのおかげです』
「あなたの努力の結果というだけです」
『私に教えるのは大変だったでしょう? スラム街じゃ字を書く必要も読む必要もないから──』
「生まれた場所のせいで学修環境に恵まれないという不運はあれど、あなたたちは貴族たちよりもずっと根性があると思っています。負けず嫌いは悪いことではありませんし、何かを学ぶのには最も重要なことでもあります。読めない書けないという赤ん坊のような状態から一ヶ月でここまで習得できたのは他でもないあなたの努力ですから、胸を張ってください」

 厳しい人の言葉だからこそ嬉しくなる。
 努力したのはカーラも同じ。呆れることなく何度も同じことを繰り返し続けてくれた結果が今なのだ。
 こうして紙に書いて会話が成り立つことがこんなにも嬉しいことだとは思わなかった。
 なんの道具も必要とせずに口を動かすだけで会話が成立することは当たり前のようで当たり前ではなく、耳が聞こえない人間はペンと紙が必要になる。
 その道具も金がなければ用意できない。
 
「エリーナ、少しいいだろうか?」

 ノックのあとに聞こえたリオンの声に反応したのはカーラ。
 ドアを開けるとカーラがいることに驚いた顔をするリオンだが、すぐに『いたのか』と笑って中へと入ってくる。
 リオンは時々こうしてエリスローズを訪ねていた。

「明日のパレードの確認をしようと思って」
『パレードでは手を振っていればいいんですよね?』

 エリスローズが書いた字を見てリオンがまた驚いた顔を見せる。

「すっかり字が書けるようになったんだね。すごいじゃないか」
「彼女は努力家ですよ、王太子殿下」
『全てカーラのおかげです』

 互いを褒める二人にリオンは目を細める。

「あのあと、国王から君の願いでバーバラと内務大臣を交代させたと聞いた。バーバラを外したのは正解だったよ。彼女はここ一番の古株だが、エリーナに心酔しているから君に強く当たっていただろうね。内務大臣とは会う機会はほとんどないだろうけど、彼は差別主義者だから。カーラを教育係にしたのは君ではないだろうけど、正解だね。彼女は真面目で責任感ある信頼のできる女性だから」
「光栄です、王太子殿下」

 ちゃんと色々見ているのだと意外そうな顔をするエリスローズにハッとして唇に人差し指を当てて内緒だとジェスチャーする。
 間違いではないことでも王太子がそうした批判めいたことを口にするのは良くない。
 その様子に笑いながら頷くエリスローズにリオンも笑顔を見せる。

「読み書きを優先したのでマナーについてはまだ何も。カトラリーの使い方は最低限教えたつもりですが、問題はそれよりも前に……」
「両陛下は彼女を食事の場に呼ぶつもりはない、だろう?」
「おそらくは」

 カーラがチラッとエリスローズを見たのは言っていいことか迷ったから。その迷いを王太子が察し、ハッキリと告げた。
 
『エリーナ様はそういう場に出席していたのですか?』
「いや、エリーナは堅苦しい場が嫌いだったから食事会には出席しなかったんだ。喋ることが好きだからパーティーには出席するけど移動できない食事会は嫌だと出席することはほとんどなかったよ」

 そういうものなのだろうかとエリスローズは首を傾げる。
 貴族の世界など見たこともなければ、どういうものか聞いたことさえない。
 十九年間生きてきて貴族を見たことのだってここに来て初めてなのだからどういう反応を見せていいかわからず表情を変えずにいるとリオンが苦笑する。

「王太子妃としては褒められたことじゃないんだよ。本当はちゃんと食事会に出席して王女や王太子妃たちと話をするべきなんだ。でもエリーナは退屈は嫌いの一点張りでね……」

 大きなため息を吐くリオンが持つ感情は困っているというより呆れのように見えた。

『私は出席しても話せないので』
「そうだね。でも逆にいいのかもしれない。王族は誰よりも責任感を持たなければならないのに自分勝手な振る舞いをするエリーナを嫌悪する人もいたから、今度のパレードでエリーナが声を出せなくなったと公表すれば話せないことは何もおかしなことではないからね」
『でも相手方が気を遣うのでは?』
「それはあるだろうけど、でも欠席するよりずっといいよ。そういう付き合いも大事なんだけど、残念なことにエリーナは理解しない」
『両陛下がなんと言うか……』
「僕が説得するから大丈夫だよ。君は何も心配しなくていい」

 国王は納得しても王妃は納得しないだろう。自分の可愛い息子がスラム街の女にたぶらかされたのではないかと心配するかもしれない。
 心配したところで実際エリスローズはたぶらかしてなどいない。
 リオンは王太子としての責務を全うしようとしているだけ。それが理解できないのであれば王妃は今すぐ王妃の座から降りたほうがいいとさえ思った。
 全てエリスローズの想像に過ぎないが、当たらずも遠からずではないだろうかと予想している。

『王妃様はエリーナ様を気に入っておられるのですか?』
「まるで親子のようだったよ。エリーナは誰とでも仲良くなれる才能があった。人に利用するのが上手い。だから王妃にも積極的に媚びを売って取り入った」

 その言い方に愛は感じなかった。

『リオン様は?』
「僕は……どうかな。王族の結婚なんて政略結婚が当たり前だし、そこに特別な感情はないよ」

 政略結婚は聞いたことがある。だが、結婚というものに縁がないスラム街の人間にとって結婚できるだけ恵まれている。
 両親は夫婦ではあるが、それは本人たちがそう思っているだけで書類上では他人。
 買えるはずもないため結婚指輪もしていない。
 だが、愛だけはある。
 何もかも手にしている王太子が唯一持っていない愛を何も手にできない両親は溢れんばかり持っている。
 それは本人たちにとっても娘にとっても誇りだった。

「たぶん、彼女もそういう僕の感情に気付いてるから遊びまわってるのかもしれない」

 エリスローズは耳を疑った。

『行方不明ではなく、遊びまわっているのですか?』

 行方不明だと聞いていた。

「謎の失踪、というわけではないんだ。ただ連絡がつかないだけ。いつもそうなんだ。ある日突然朝に置き手紙を残していなくなって一ヶ月後に帰ってくる」
『今回もそうだと?』
「たぶんね。ただ、連絡が取れなくなって三ヶ月が経つのは初めてだ」
『心配じゃないんですか?』

 彼が見せる苦笑が何を意味しているのか理解するのは難しいことではない。
 エリスローズを妻だと勘違いして駆け寄ってきたリオンがぶつけてきたのは安堵ではなく怒り。
 痛みを感じるほど強く掴まれた肩は暫く痛かった。
 あれは心配からくる感情ではなく、怒りからくるものだった。
 彼はエリーナを愛していない。
 彼の苦笑からはそれが明確に伝わってきた。

「王太子殿下、あまり内情はお話されませんようお願いします」
「ああ、そうだったね。無用な心配だ。では、最終確認を始めようか」

 遊びまわっている人間の代わりをしにここにいるのかと思うと少し複雑だったが、こんなことでもなければスラム街から出ることはできなかった。
 弟には寂しい思いをさせることとなってしまったが、それでも厳しい環境に置かれることがないことは良いことだと自分に言い聞かせながらリオンが置いた予定表に一緒に目を通した。

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