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エリスローズは嫌悪する
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身代わりになる契約をしたのは今から三ヶ月前。
三ヶ月前までスラム街にいて、あの腐った人間の代表であるような大臣がやってきたとき、エリスローズはこう思った。
(王太子妃の代わりにパレードに出席すればいいんでしょ)
だが実際はそんなに甘い契約ではなかった。
王太子妃の身代わりになるということは王太子妃の役目を全て代わりに果たさなければならないということ。
字を書くことには慣れたため手紙の返信は苦痛ではなく、むしろ楽しいぐらいだった。
自分で思った言葉を書いてそれが相手に伝わること。
スラム街にいれば絶対にありえなかったことだ。
しかし、それ以外にも仕事はある。
そう、例えば結婚記念日のパーティーとか──
「うん、やっぱりよく似合ってるね」
なぜ自分たちの結婚記念日に他人を呼んで祝ってもらおうとするのかがわからないエリスローズは鏡の前でパレード以来の着飾った自分を見ながら微笑みをはりつけてガラス越しにリオンを見た。
白い衣装を身に纏ったリオンが一人用のソファーに腰掛けてこちらを見つめている。
最高に居心地が悪いエリスローズはお姫様になるという夢を諦めてよかったと心から思った。
「着心地はどうだい?」
今は着付け中のため紙を持っていない。その代わり頷くことで問題ないと伝えると満足げな笑みを宿すリオン。
「よくお似合いですわ」
エリスローズの着付けを担当したうちの一人が笑顔で褒める。
声が封印されていなければエリスローズはここで言っただろう。
「あら、王太子が来るまではエリーナ様とは似ても似つかないドブから生まれたような女にどうして私たちが仕えなきゃいけないのかしらって言ってたじゃない」と。
エリスローズの声が出ないことは国王たちだけではなく使用人たちにとっても都合がよかった。
あとでリオンに報告することもできるが、そんな小さなことで王太子を頼りたくなかった。
言われ慣れている言葉にいちいち目くじらを立てるのはもう五年前にやめたのだ。
「王太子殿下、本当にこちらを使用するのですか?」
「何か問題でもあるのかい?」
「これはエリーナ様のお気に入りのティアラです。それを身代わりの彼女に使用していいもかと……」
「彼女は誰の身代わり代? 王太子妃だ。王太子妃の物を使うのに問題ないなどないだろう」
エリーナの物は全てエリーナの物という認識に間違いはない。エリスローズとてエリーナが使っていたティアラなど使いたくはない。
何かあるとエリーナ云々と言う使用人が鬱陶しいし煩わしい。
さっさと決めてくれと笑顔で固まったままどっちの意見が通るか待っていた。
「だけどまあ、エリーナの物は少し派手すぎるから僕が用意した物を使うよ」
「え? ……それは……」
「衣装合わせのときに来た宝石商のケイレヴが見せてくれたティアラだよ。素敵だろう?」
「素敵ですが……」
使用人が言いたいことは言わずともリオンには伝わっている。エリーナには買わなかったのにどうして身代わりの女にティアラなんか買い与えるのかと言いたいのだろうと。
戸惑う使用人を無視してリオンはティアラ片手にエリスローズに近付いた。
「うん、よく似合ってる。今日の君は完璧だ」
後ろからそっと乗せられたティアラが乗ると王太子妃の完成。
完璧なレディという意味ではなく完璧なエリーナ王太子妃という意味。
公の場に出るメイクをする度に思うのは人は化粧で完璧に化けられるのだということ。
「さあ、行こうか。皆が祝福のために集まってくれたんだ。待たせるわけにはいかないよ」
差し出された腕に一瞬迷いを見せる。
腕を組むのは入場直前でいいのではないかと。
それでもリオンが待ち続けているため腕を通すると歩き出した。
まるで機械仕掛けの玩具のようだと笑うエリスローズがなぜ笑っているのかリオンにはわからないが、緊張した面持ちを見るより嬉しいとリオンも笑顔になる。
「皆、君の喉がダメになっていることを知っているからエリーナと話すときほどの話題を振ってくることはないと思うけど、わからないことがあったら鉛筆の芯を折るといい」
手首にかけているノートに紐で結ばれた鉛筆。何回も折ることにならなければいいがと苦笑するエリスローズの額に口付けるとエリスローズはもちろんのこと、ドアマンや後ろについていた使用人などリオン以外の全員が驚いた顔をする。
最近のリオンは少し積極的で、一ヶ月前の帰宅から手を握ったり隣に座ったりと触れ合うことが多くなった。
不愉快というほどではないが、こういうのが王妃の耳に入ればまた面倒なヒステリーを起こすのではないかと気が気ではない。
「開けてくれ」
リオンの言葉でドアが開くと食事会のときとはまた違った煌びやかさが目の前に広がる。
晴れた日に見上げる空よりずっと眩しいその光景にエリスローズは一瞬足が止まった。
「大丈夫。僕が一緒だよ」
小声でそう告げたリオンに頷くと一緒に歩き始める。
食事会で見た顔ぶれが揃っていることに少し安堵するのはカーラが覚えておいたほうがいいと教えてくれたから。
怪しまれないためには名前を呼んだほうがいいと。
笑顔で会釈を繰り返しながら足を進めると階段を上がって振り返ったリオンとエリスローズがシャンパングラスを受け取る。
「今日は僕たちの十年目の結婚記念日です。もう十年という感じもすればまだ十年という感じもします。それだけ彼女がいるのが当たり前になっていることと、彼女がいる新鮮さを味わっているということなのかと今日のことを考えながら思っていました。美しく優しい妻が僕の自慢であり支えでもあります。これからも、いや、永遠に彼女が僕の伴侶として手を取り合ってくれることを願っています。そして僕たちの記念日を祝いに遠路はるばるお越しくださった皆様に感謝します」
手を繋いだままシャンパングラスを持ち上げてリオンが挨拶を終えると拍手が起こり、生演奏の音楽と共に王族貴族たちのお喋りが始まる。
食事会と違うのは今回は貴族たちもたくさん来ているということ。
「エリーナ様、喉の調子はいかがですか?」
さっそく声をかけてきた女性にリオンが笑顔を見せる。
「これはこれはアステリーぜ王女。今日は一段と麗しいですね」
顔と名前が頭の中でちゃんと一致していることに安堵するとノートを取って『まだ戻りません』と書いた。
「お手紙には元気にしていると書いてあったので喉の調子も良くなったのだとばかり思っていたのですが、残念です」
『私もです。皆様とお話できるのを楽しみにしていたのですが、まだもう少し時間がかかりそうです』
「まだお酒は飲まれないままですか?」
『夫がうるさくて』
「リオン様ったら人が変わったように過保護になってらっしゃるんですもの、驚きましたわ」
「今こそ僕の愛情を示すときだと思って接しているのですが、やりすぎですかね」
『まさか。羨ましいぐらいですわ』
周りがそう言うぐらいなのだからリオンは本当にエリーナに興味がなかったのだろうと妙に感心してしまう。
喋らない女は可愛いと言う男は酒場に大勢いた。口を開けば文句ばかりで可愛げのない女房の悪口を言っては盛り上がる。
女は大抵お喋りで、口を開けば噂話ばかり。だから喋らない女は従順で可愛いと思うのも仕方ないことなのだろうかとエリスローズはリオンを見上げた。
「ね? こうして見上げられると愛おしくてたまらないんです」
「ここだけ火を焚いてるみたいですわね」
わざとらしく手を顔を扇いで見せる王女に皆が笑う。
「でも安心しましたわ。エリーナ様はリオン様が自分に飽きたんじゃないかって心配していましたもの」
「エリーナがそんなことを?」
「ええ。こんなこと言ってもいいのかわかりませんけど、最近は寝室も別にされると」
「寝室を別にするのはおかしなことじゃないだろう。妻と寝ることは義務でもなんでもないんだぞ」
「あら、妻を満足させるのは夫の役目じゃなくて?」
「それは妻にも言えることだ。寝ているだけが妻の役目ではないはずだぞ」
ヒートアップする夫婦の口喧嘩にリオンが間に入って手を揺らす。
「喧嘩するほど仲が良いと言いますが、ここでそういう仲の良さを見せつけられると困ってしまいます」
「お二人は喧嘩はなさらないのですか?」
「妻は自由奔放で、僕はそれを見ているだけでいいんです。だから喧嘩とは無縁ですね。なにより妻を愛していますし、喧嘩になるようなことはなにも」
エリスローズの手の甲に口付けるリオンを見て皆が「まあっ」と声を出して笑う。
よくもまあここまで嘘がつけるものだとエリスローズは呆れてしまうが、こうしてスムーズに言葉が出てくるということはリオンの心の片隅にはまだエリーナへの気持ちが残っているのではないかと考える。
だが、自分とてダンや酒場の男たちに嘘の会話しかしていなかったため思っていなくとも言えることがあるのはわかっている。
リオンという男も大したものだと笑ってしまう。
「エリーナ様が羨ましいですわ。こんなに素敵な男性はなかなかいませんわよ」
エリーナならなんと答えるだろう。自分に飽きているかもしれないと心配するぐらいにはリオンを愛しているのなら甘い言葉ぐらい吐くだろうか。
しかし、リオンから聞いた話によるとエリーナはかなり奔放な性格をしている。人前では取り繕っていたのか、それとも自分というものを全面的に押し出していたのか、その情報がないエリスローズには何が正解なのかわからない。
『運命の相手ですから』
せっかくリオンがエリーナを永遠の伴侶であることを願っていると言ったのだからエリーナもそれに合わせたほうがいいと考え、紙に書いた言葉を見せると皆が固まった。
エリーナらしくなかったかと焦るエリスローズにアステリーゼが口を押さえて吹き出すように笑うと皆が笑いだす。
「エリーナ様ったら相変わらず惚気がお上手ですのね」
間違っていなかったと安堵したエリスローズはグローブの中の手が濡れているのがわかるぐらいには緊張していた。
もしエリーナがリオンのことを惚気もせず文句を言っている女性だったらどうしようと短い時間の中で必死に頭を働かせて考えた。
「リオン王太子」
別のところで呼ばれたリオンが手を上げると「あまり独占してはいけませんわね」とその場はお開きになった。
バラバラと散っては別の場所で話を始める王女たちに安堵すると同時に疲労感を味わっている。
「仕事の話みたいなんだ。少しだけ待っていてくれるかい? すぐ戻るよ」
頷くエリスローズの髪に触れたあと、手を離して去っていく。
繋いでいた手もグローブの中でぐっしょりと濡れている。
この汗のせいでリオンの手も湿っていたのではないかと恥ずかしくなる。
「エリーナ」
「ッ!?」
小声で名前を呼ぶ男の声に振り返ると思った以上に近くに顔があった。
この男は誰だと必死に頭の中の名簿をめくるが顔写真は出てこない。
だがこの男は間違いなくエリーナと親しい関係にあった。でなければ呼び捨てになどするはずがない。
「あなたの美しい声が聞けないのはとても寂しい」
普通に喋っているはずなのになぜか鳥肌が止まらない。
「またあの甘い声で私の名前を呼んでほしいのに」
これ以上距離を縮める必要などないだろうに男はエリスローズが離れるたびに一歩また一歩と距離を詰めてくる。
どこか恍惚とした表情を見せる男の気持ち悪さは酒場で品定めのような視線で見られたときのものによく似ていて嫌悪が増す。
「ッ!」
背を丸めてきた男の顔が近くなったことに咄嗟に手の甲で唇を隠すも男の顔は横にズレて止まった。
「あなたと過ごしたあの熱い夜が忘れられない。どうかまた私を別荘に呼んでください。あの日よりもずっと熱い夜を過ごさせてあげますから」
唇は触れなかったが、耳元で聞こえたリップ音の気持ち悪さにエリスローズが怪訝な表情で男を見た。
今日は二人の結婚記念日。誰もが祝福するその日にとんでもないことを囁きに来た男にもそうだが、エリーナにも虫唾が走る。
「あなたのこの滑らかな肌が忘れられな──ッ!?」
まだ恍惚とした表情で迫ってくる男が伸ばす手をパンッと音が鳴るほど強く叩くと周りにいた貴族たちがザワつく。
王族貴族に暴力は御法度。それはカーラから習ったが、今のは反射的に手が出てしまった。
こんな男に触れられたくない。こんな男の熱は感じたくないと込み上げる吐き気を飲み込むので精一杯でペンを握る気にもならないエリスローズはエリーナとして取り繕うのも忘れて男を睨んでいた。
「エリ──」
驚いた顔でもう一度手を伸ばそうとした男の手を掴んだリオンがエリスローズを隠すように立ちはだかった。
三ヶ月前までスラム街にいて、あの腐った人間の代表であるような大臣がやってきたとき、エリスローズはこう思った。
(王太子妃の代わりにパレードに出席すればいいんでしょ)
だが実際はそんなに甘い契約ではなかった。
王太子妃の身代わりになるということは王太子妃の役目を全て代わりに果たさなければならないということ。
字を書くことには慣れたため手紙の返信は苦痛ではなく、むしろ楽しいぐらいだった。
自分で思った言葉を書いてそれが相手に伝わること。
スラム街にいれば絶対にありえなかったことだ。
しかし、それ以外にも仕事はある。
そう、例えば結婚記念日のパーティーとか──
「うん、やっぱりよく似合ってるね」
なぜ自分たちの結婚記念日に他人を呼んで祝ってもらおうとするのかがわからないエリスローズは鏡の前でパレード以来の着飾った自分を見ながら微笑みをはりつけてガラス越しにリオンを見た。
白い衣装を身に纏ったリオンが一人用のソファーに腰掛けてこちらを見つめている。
最高に居心地が悪いエリスローズはお姫様になるという夢を諦めてよかったと心から思った。
「着心地はどうだい?」
今は着付け中のため紙を持っていない。その代わり頷くことで問題ないと伝えると満足げな笑みを宿すリオン。
「よくお似合いですわ」
エリスローズの着付けを担当したうちの一人が笑顔で褒める。
声が封印されていなければエリスローズはここで言っただろう。
「あら、王太子が来るまではエリーナ様とは似ても似つかないドブから生まれたような女にどうして私たちが仕えなきゃいけないのかしらって言ってたじゃない」と。
エリスローズの声が出ないことは国王たちだけではなく使用人たちにとっても都合がよかった。
あとでリオンに報告することもできるが、そんな小さなことで王太子を頼りたくなかった。
言われ慣れている言葉にいちいち目くじらを立てるのはもう五年前にやめたのだ。
「王太子殿下、本当にこちらを使用するのですか?」
「何か問題でもあるのかい?」
「これはエリーナ様のお気に入りのティアラです。それを身代わりの彼女に使用していいもかと……」
「彼女は誰の身代わり代? 王太子妃だ。王太子妃の物を使うのに問題ないなどないだろう」
エリーナの物は全てエリーナの物という認識に間違いはない。エリスローズとてエリーナが使っていたティアラなど使いたくはない。
何かあるとエリーナ云々と言う使用人が鬱陶しいし煩わしい。
さっさと決めてくれと笑顔で固まったままどっちの意見が通るか待っていた。
「だけどまあ、エリーナの物は少し派手すぎるから僕が用意した物を使うよ」
「え? ……それは……」
「衣装合わせのときに来た宝石商のケイレヴが見せてくれたティアラだよ。素敵だろう?」
「素敵ですが……」
使用人が言いたいことは言わずともリオンには伝わっている。エリーナには買わなかったのにどうして身代わりの女にティアラなんか買い与えるのかと言いたいのだろうと。
戸惑う使用人を無視してリオンはティアラ片手にエリスローズに近付いた。
「うん、よく似合ってる。今日の君は完璧だ」
後ろからそっと乗せられたティアラが乗ると王太子妃の完成。
完璧なレディという意味ではなく完璧なエリーナ王太子妃という意味。
公の場に出るメイクをする度に思うのは人は化粧で完璧に化けられるのだということ。
「さあ、行こうか。皆が祝福のために集まってくれたんだ。待たせるわけにはいかないよ」
差し出された腕に一瞬迷いを見せる。
腕を組むのは入場直前でいいのではないかと。
それでもリオンが待ち続けているため腕を通すると歩き出した。
まるで機械仕掛けの玩具のようだと笑うエリスローズがなぜ笑っているのかリオンにはわからないが、緊張した面持ちを見るより嬉しいとリオンも笑顔になる。
「皆、君の喉がダメになっていることを知っているからエリーナと話すときほどの話題を振ってくることはないと思うけど、わからないことがあったら鉛筆の芯を折るといい」
手首にかけているノートに紐で結ばれた鉛筆。何回も折ることにならなければいいがと苦笑するエリスローズの額に口付けるとエリスローズはもちろんのこと、ドアマンや後ろについていた使用人などリオン以外の全員が驚いた顔をする。
最近のリオンは少し積極的で、一ヶ月前の帰宅から手を握ったり隣に座ったりと触れ合うことが多くなった。
不愉快というほどではないが、こういうのが王妃の耳に入ればまた面倒なヒステリーを起こすのではないかと気が気ではない。
「開けてくれ」
リオンの言葉でドアが開くと食事会のときとはまた違った煌びやかさが目の前に広がる。
晴れた日に見上げる空よりずっと眩しいその光景にエリスローズは一瞬足が止まった。
「大丈夫。僕が一緒だよ」
小声でそう告げたリオンに頷くと一緒に歩き始める。
食事会で見た顔ぶれが揃っていることに少し安堵するのはカーラが覚えておいたほうがいいと教えてくれたから。
怪しまれないためには名前を呼んだほうがいいと。
笑顔で会釈を繰り返しながら足を進めると階段を上がって振り返ったリオンとエリスローズがシャンパングラスを受け取る。
「今日は僕たちの十年目の結婚記念日です。もう十年という感じもすればまだ十年という感じもします。それだけ彼女がいるのが当たり前になっていることと、彼女がいる新鮮さを味わっているということなのかと今日のことを考えながら思っていました。美しく優しい妻が僕の自慢であり支えでもあります。これからも、いや、永遠に彼女が僕の伴侶として手を取り合ってくれることを願っています。そして僕たちの記念日を祝いに遠路はるばるお越しくださった皆様に感謝します」
手を繋いだままシャンパングラスを持ち上げてリオンが挨拶を終えると拍手が起こり、生演奏の音楽と共に王族貴族たちのお喋りが始まる。
食事会と違うのは今回は貴族たちもたくさん来ているということ。
「エリーナ様、喉の調子はいかがですか?」
さっそく声をかけてきた女性にリオンが笑顔を見せる。
「これはこれはアステリーぜ王女。今日は一段と麗しいですね」
顔と名前が頭の中でちゃんと一致していることに安堵するとノートを取って『まだ戻りません』と書いた。
「お手紙には元気にしていると書いてあったので喉の調子も良くなったのだとばかり思っていたのですが、残念です」
『私もです。皆様とお話できるのを楽しみにしていたのですが、まだもう少し時間がかかりそうです』
「まだお酒は飲まれないままですか?」
『夫がうるさくて』
「リオン様ったら人が変わったように過保護になってらっしゃるんですもの、驚きましたわ」
「今こそ僕の愛情を示すときだと思って接しているのですが、やりすぎですかね」
『まさか。羨ましいぐらいですわ』
周りがそう言うぐらいなのだからリオンは本当にエリーナに興味がなかったのだろうと妙に感心してしまう。
喋らない女は可愛いと言う男は酒場に大勢いた。口を開けば文句ばかりで可愛げのない女房の悪口を言っては盛り上がる。
女は大抵お喋りで、口を開けば噂話ばかり。だから喋らない女は従順で可愛いと思うのも仕方ないことなのだろうかとエリスローズはリオンを見上げた。
「ね? こうして見上げられると愛おしくてたまらないんです」
「ここだけ火を焚いてるみたいですわね」
わざとらしく手を顔を扇いで見せる王女に皆が笑う。
「でも安心しましたわ。エリーナ様はリオン様が自分に飽きたんじゃないかって心配していましたもの」
「エリーナがそんなことを?」
「ええ。こんなこと言ってもいいのかわかりませんけど、最近は寝室も別にされると」
「寝室を別にするのはおかしなことじゃないだろう。妻と寝ることは義務でもなんでもないんだぞ」
「あら、妻を満足させるのは夫の役目じゃなくて?」
「それは妻にも言えることだ。寝ているだけが妻の役目ではないはずだぞ」
ヒートアップする夫婦の口喧嘩にリオンが間に入って手を揺らす。
「喧嘩するほど仲が良いと言いますが、ここでそういう仲の良さを見せつけられると困ってしまいます」
「お二人は喧嘩はなさらないのですか?」
「妻は自由奔放で、僕はそれを見ているだけでいいんです。だから喧嘩とは無縁ですね。なにより妻を愛していますし、喧嘩になるようなことはなにも」
エリスローズの手の甲に口付けるリオンを見て皆が「まあっ」と声を出して笑う。
よくもまあここまで嘘がつけるものだとエリスローズは呆れてしまうが、こうしてスムーズに言葉が出てくるということはリオンの心の片隅にはまだエリーナへの気持ちが残っているのではないかと考える。
だが、自分とてダンや酒場の男たちに嘘の会話しかしていなかったため思っていなくとも言えることがあるのはわかっている。
リオンという男も大したものだと笑ってしまう。
「エリーナ様が羨ましいですわ。こんなに素敵な男性はなかなかいませんわよ」
エリーナならなんと答えるだろう。自分に飽きているかもしれないと心配するぐらいにはリオンを愛しているのなら甘い言葉ぐらい吐くだろうか。
しかし、リオンから聞いた話によるとエリーナはかなり奔放な性格をしている。人前では取り繕っていたのか、それとも自分というものを全面的に押し出していたのか、その情報がないエリスローズには何が正解なのかわからない。
『運命の相手ですから』
せっかくリオンがエリーナを永遠の伴侶であることを願っていると言ったのだからエリーナもそれに合わせたほうがいいと考え、紙に書いた言葉を見せると皆が固まった。
エリーナらしくなかったかと焦るエリスローズにアステリーゼが口を押さえて吹き出すように笑うと皆が笑いだす。
「エリーナ様ったら相変わらず惚気がお上手ですのね」
間違っていなかったと安堵したエリスローズはグローブの中の手が濡れているのがわかるぐらいには緊張していた。
もしエリーナがリオンのことを惚気もせず文句を言っている女性だったらどうしようと短い時間の中で必死に頭を働かせて考えた。
「リオン王太子」
別のところで呼ばれたリオンが手を上げると「あまり独占してはいけませんわね」とその場はお開きになった。
バラバラと散っては別の場所で話を始める王女たちに安堵すると同時に疲労感を味わっている。
「仕事の話みたいなんだ。少しだけ待っていてくれるかい? すぐ戻るよ」
頷くエリスローズの髪に触れたあと、手を離して去っていく。
繋いでいた手もグローブの中でぐっしょりと濡れている。
この汗のせいでリオンの手も湿っていたのではないかと恥ずかしくなる。
「エリーナ」
「ッ!?」
小声で名前を呼ぶ男の声に振り返ると思った以上に近くに顔があった。
この男は誰だと必死に頭の中の名簿をめくるが顔写真は出てこない。
だがこの男は間違いなくエリーナと親しい関係にあった。でなければ呼び捨てになどするはずがない。
「あなたの美しい声が聞けないのはとても寂しい」
普通に喋っているはずなのになぜか鳥肌が止まらない。
「またあの甘い声で私の名前を呼んでほしいのに」
これ以上距離を縮める必要などないだろうに男はエリスローズが離れるたびに一歩また一歩と距離を詰めてくる。
どこか恍惚とした表情を見せる男の気持ち悪さは酒場で品定めのような視線で見られたときのものによく似ていて嫌悪が増す。
「ッ!」
背を丸めてきた男の顔が近くなったことに咄嗟に手の甲で唇を隠すも男の顔は横にズレて止まった。
「あなたと過ごしたあの熱い夜が忘れられない。どうかまた私を別荘に呼んでください。あの日よりもずっと熱い夜を過ごさせてあげますから」
唇は触れなかったが、耳元で聞こえたリップ音の気持ち悪さにエリスローズが怪訝な表情で男を見た。
今日は二人の結婚記念日。誰もが祝福するその日にとんでもないことを囁きに来た男にもそうだが、エリーナにも虫唾が走る。
「あなたのこの滑らかな肌が忘れられな──ッ!?」
まだ恍惚とした表情で迫ってくる男が伸ばす手をパンッと音が鳴るほど強く叩くと周りにいた貴族たちがザワつく。
王族貴族に暴力は御法度。それはカーラから習ったが、今のは反射的に手が出てしまった。
こんな男に触れられたくない。こんな男の熱は感じたくないと込み上げる吐き気を飲み込むので精一杯でペンを握る気にもならないエリスローズはエリーナとして取り繕うのも忘れて男を睨んでいた。
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