エリスローズの瞳に映るもの

永江寧々

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エリスローズは激怒する

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「やあ、フレッド公子。僕の妻に何か用かな?」
「あ、いや、十周年のお祝いを伝えに……」
「僕に言ってくれればよかったのに。それに、わざわざ妻に触れながら伝えることではないだろう」
「か、彼女の髪に糸くずがついているような気がして……」
「だとしても取るのは僕の役目であって君の役目ではない」
「そ、そうでした! で、では私はこれで」

 顔は笑っているが声は全く笑っていないリオンに掴まれた手の痛みにフレッドが慌てて去っていく。
 
「一人にしてすまなかった。すぐ戻るなんて言っておいて話が盛り上がってしまって」

 平気だと首を振るエリスローズの表情に変化はない。怯えている様子もなければ手が震えているわけでもない。

「怖くなかったかい?」

 頷くだけ。

『皆様を驚かせてしまったこと、謝ります』
「僕が謝るよ」

 紙に書かれた言葉を見てリオンはすぐに振り返って会場にいる全員に謝罪をした。
 その中には嘲笑うような視線を向ける者もいたし「自業自得」と囁く声も聞こえた。それはリオンにも聞こえていただろうが、リオンは反応しなかった。
 王族貴族の世界というのは確かにキラキラしているが、それと同時にドス黒いものも存在している厄介な世界。
 何一つ不自由のない暮らしの保証と引き換えに犠牲にする物が多すぎる。
 虚しい世界だとエリスローズは実感した。

「一緒に回ろうか」

 今度は一人にしないと腕を組むのではなく手を繋いだリオンにマナー的にそれはいいのかと思いながらも任せることにした。
 強い視線を向ける王妃の存在だけが気になるが、エリスローズはそっちを見ないようにして挨拶に回る。
 お喋り好きなエリーナにとってこういう場は愉快でしかなかっただろう。祝ってくれる者たちに好きなだけ話ができるのだから。
 喋れないエリスローズにとって笑顔を浮かべて頷くだけの相槌を打つ時間はやはり苦痛でしかない。
 何を言っているのかわからない崇高な会話についていくこともできず、エリーナが話しかけられても大体はリオンが逸らしてくれる。
 リオンが顔を向けてきたらエリスローズが紙に書いて返事をする。それが合図のようになっていた。

「疲れてないかい?」

 パーティーが終わって部屋へと戻っている最中、リオンからかけられる言葉にエリスローズが返すのは頷きだけ。
 賓客がいなくなるとスッと笑顔が消えてしまった。
 
「フレッド公子はエリーナがこの国に嫁いできてからずっと親しくしている相手なんだ。言っておけばよかったね、ごめん」

 その言葉にエリスローズは繋いだ手を解いて足を止める。

『彼女が他の男性と関係を持っていたのを知っていたのですか?』
「……知ってたよ」

 エリスローズが強い視線を向けるため耐えきれず素直に告白したリオンに眉を寄せる。

『今も彼女はあなたではない他の男性と一緒に?』
「たぶんそうだろうね」

 エリーナが身勝手であることはわかっていた。責任感のない最低な人間であることは知っていた。
 それでもショックを受けているのはリオンがそれを受け入れていたこと。
 今回のことで予想がついたのではなく、最初から知っていたのだ。

(信じられない……)

 エリーナが消えなければ自分にこんな贅沢な仕事が回ってくることはなかった。家族を大きな屋敷で暮らさせることも弟たちに字を学ばせることもできなかった。
 それはエリーナに感謝すべきことなのかもしれないが、エリスローズはどうしても許せなかった。

「エリーナは僕の顔にしか興味がないんだ。僕はエリーナに興味がないし、彼女がどこで誰と一緒だろうとどうでもいいから好きにさせてるんだけど……これらも全て君にはちゃんと話しておくべきだった」

 エリスローズは浮かんできた疑問をぶつける。

『あえて話さなかったのでは?』

 乱暴に書かれた文字にエリスローズの怒りが見え、リオンが表情を歪める。

「言えば、君はきっと僕を嫌うだろう?」
『私に嫌われて困ることなんてないでしょ!? 私は彼女の身代わりをしているのに知らない情報があるのは困るんです! あなたの心配なんてどうだっていい! 私は王太子妃になって遊びに来ているわけではなく仕事をしに来てるんです!』
「言えば君はエリーナを真似てあの男に寄り添ったのか!?」

 突拍子もない言葉にエリスローズの目が丸くなる。

『彼女は公の場でそうしていたのですか? あなたがいようと、王族たちがいようと人目も憚らずに夫ではない男に身を任せていたと!?』
「そんなことはしていない」
『じゃあ言えたことでしょ! 私は彼女がどういう人間だっていい! 淑女だろうと他の男に簡単に股を開くような女だろうと責任感のないいい加減な人だろうとどうだっていい! 私は失敗するわけにはいかないの! 私の一度の失敗が家族の未来を狂わせることになる! 私が失敗しようとあなたはこれからもこの立派なお城で王太子として人に敬われて生きていくけど私たちはそうじゃない! あなたが一度も足を踏み入れたこともない場所に戻って暮らすことになる! 何が起きても助けも呼べない場所で明日を心配しながら生きていくことになる! なんでも持ってるあなたにはそれがどういうことかわからないでしょうけどね!』

 感情が荒ぶっていようと場は静かなもので、エリスローズは筆に怒りを込めて書き殴る。
 もしエリーナが人前で娼婦のような女として振る舞っていたのであればエリスローズもそう振る舞う。それがエリーナになるということだから。
 それをリオンの勝手な判断で怪しまれることだけは避けなければならないのにリオンは何もわかっていない。

「ごめん。でも僕は君がエリーナの代わりに来てくれてよかったと思って──」
『そんなことどうだっていい! あなたの気持ちなんて知らない! 私が知りたいのはあなたの気持ちなんかじゃなくて彼女が他の人の前で、他の男の前でどうしていたかということだけ!』
「エリーナは君とは似ても似つかない女性だ。君がエリーナの根っこまで似せたらそんなの──」
『いい加減にして!』

 声は出ないのに口を開けて怒鳴るエリスローズにリオンが困惑する。

『ずっと思ってた! いい加減なのは彼女だけじゃない! あなたたちも同じよ! 最低な人間の集まり! 彼女がどういう人間か言えば私があなたを嫌いになる? 彼女がどれほどいい加減な人間だろうとあなたがちゃんと教えてくれてたらあなたを嫌いになんてならない! でも自分が嫌われるんじゃないかって保身に走ったあなたは大嫌いよ!』
「エリー、ごめん。僕が悪かっ──」

 嫌いだと言われて焦ったリオンが慌てて手を伸ばすもフレッド同様にパンッと音が鳴るほど強く払われた。

「エリー……」
『あなたには感謝しています。家族をあんな素敵な場所に居させてくれて、勉強させてくれて、何不自由ない暮らしができているのはあなたの恩恵があるからです。たとえ期間限定でも彼らの幸せを守りたい。スラム街に戻るまでに少しでも体力と知恵をつけてほしいんです。だからお願いです。どうか、邪魔をしないでください」

 書いたノートを差し出して深く頭を下げるエリスローズに唇を噛み締めたリオンは何も言えなかった。

『おやすみなさい』

 紙には書かず、口を動かして伝えたエリスローズが戻っていくのをリオンは追いかけることができなかった。
 何を勘違いしていたのだろうとリオンは拳を握る。
 エリスローズはここに働きに来ているだけ。自分の妻の代わりをするためにここにいるだけなのに、浮かれていた。
 リオンはエリスローズが来てから浅ましい考えに満ちていた。
 なんでもかんでも喋りすぎるエリーナが苦手だった。他に男を作り、世継ぎさえ産もうとしない王太子妃などいらないと考える男としての意見などこの国には必要なくて、大事なのは王太子として生きること。
 嫁がダメなら愛人でも作って世継ぎを産めばいいと言う父親。エリーナを繋ぎ止めておかなければならないと必死な母親。
 愛する女と結婚して子供を作り、暖かな家庭を作るという夢を王族が持っても笑われるだけ。
 色のない退屈な毎日の中に現れたのがエリーナの身代わりとしてやってきた少女だった。
 スラム街出身で字の読み書きができず、話すこともできない少女は十九歳にしては大人びた顔をしていて、化粧をすれば二十五歳のエリーナにそっくりだった。
 本当に喋れないのだろうかと何度か驚かせてみたが驚いた顔をするだけで声を出したことはない。
 妻の顔をした全くの別人だが、リオンはすぐにエリスローズを気に入った。
 特にあの強い目を良いと思った。そして気付いた聡明さとこの目で見た家族に向ける愛の大きさに更に興味を惹かれた。
 妻として過ごす彼女をいつしか本当の妻であればいいのにと思うようになっていた。
 まだたった三ヶ月しか共にしていないが、リオンの心の中はエリスローズへの想いでいっぱいだった。
 だからいい加減な女を妻にしていることを知られたら軽蔑されるのではないかと思ったのだが、今更すぎると今になって気付いた。
 既にどういう人間か伝えているのだから夫以外の男と寝ている女だと、今も別の男と暮らしているだろうことを伝えたところで今更なのに、彼女の言う通りリオンは保身に走った。
 そして全く意味のない保身のせいで嫌われた。
 自分がどれだけ彼女を想っても彼女の中には家族への愛しかないとわかっているのに──

「何を期待していたんだ……」

 笑顔を向けてくれたことに何を期待したのか。
 彼女の家族と過ごしたことで何を期待したのか。
 仮の夫婦となったことで何を期待したのか。

 いつから自分はこんなに浅ましい人間になったのだろうとその場にしゃがみこんで俯くリオンは床に落ちたノートに書かれた『大嫌い』の言葉に目を閉じた。
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