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エリスローズは回顧する
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馬車の中で二人は静かだった。まるで誰も乗っていないかのように二人は口を開かない。
エリスローズは窓の外を静かに眺め、リオンはエリスローズがの言葉が綴られたノートを見つめている。
問い詰めるような言葉が並んでいるそれを見てリオンは聞きたいことがあるが、その内容の酷さになんと聞けばいいのかわからないでいた。
「エリー」
城に戻ったリオンは着替えてすぐエリスローズの部屋を訪ねた。
「エリー?」
部屋の中を見渡すが姿は見えない。
声をかけながら探しているとカーテンが揺れていることに気付いた。
揺れるカーテンの向こうにあるテラスでエリスローズは寝巻きのまま上着も羽織らず景色を眺めている。
「エリー、夜風は身体を冷やすよ」
ノートは持っていない。
エリスローズは軽く頭を下げるだけでノートを取りに行こうとはせず、これは喋る気がないのだろうかとリオンは考えた。
もうすぐ寝る時間なのだから会話などせずに寝かせるべきだ。今日はエリスローズにとって良い一日ではなかったのだから。
わかっているのにリオンはエリスローズが心配だった。
「もし、嫌だったら話さなくていいんだけど……君にとって教会に良い思い出はない?」
五秒ほど黙ったままだったあと、エリスローズはゆっくり頷いた。
「それはあの神父のせい?」
もう一度頷く。
中へと入っていき、戻ってきた手にはノートとペンが。
『この景色の中のどこにスラム街があるか知っていますか?』
ノートから顔を上げたリオンは景色を見渡し、上げようとした手を拳に変えて首を振る。
「すまない」
スラム街がどこにあるのか、貧困街がどこにあるのかリオンは知らない。
門前から馬車に乗って目的地で降り、そこからまた馬車に乗って城へと戻るのだから貧困街へと続く階段の前を歩いたことさえない。
期待していないと言ったエリスローズの言葉を思い出し、今自分が口にした謝罪にもきっと同じことを思っているのだろうと考えると胸が痛かった。
好きだなんだと言いながら彼女がどういう場所で育ったのか、この四ヶ月間一度だって見に行こうとはしなかったのだからいい加減という言葉が合っていると顔を歪める。
『スラム街はあそこにあります。あの時計塔の奥にある二階建てのお店のすぐ傍の階段を一回降りると貧困街、2回降りるとスラム街が』
「そうなのか」
指された場所は城からそれほど遠くはなく、行こうと思えば歩いてだって行ける場所にあった。
『リオン様はこの国のシステムをどこまでご存知ですか?』
「システム?」
システムという言い方にリオンが眉を寄せる。
『貧困街の者と平民の違いは?』
「納税者かどうか?」
『そうです。税を払えない者は家すらも没収となり、街から追い出されます。それは別の国に行くか階段を降りて貧困街に降りるかのどちらかを選ぶこととなります』
「貧困街の者は皆そうなのかい?」
『貧困街で生まれたという者も多いです。でも、平民として生きてきたのに病気や怪我で仕事を失って貧困街に落ちた者もいるそうです』
「そうだったのか」
初めて知った事実はリオンにとってショックが大きいものだった。
言われたことだけをやっていろという王の命令に従って生きてきた二十五年。
自分はこの国の王太子でありながらこの国が作り上げた美しい部分だけを見て生きてきた。
汚い部分がどれだけ酷いものか想像することさえなく。
「スラム街は? なぜスラム街と貧困街と分けられているんだい?」
『わかりません。両親が言うには彼らが生まれたときから既に分けられていたそうです』
「ご両親はスラム街で生まれたのかい?」
『そう聞いています。スラム街で暮らす者のほとんどがそこで生まれた者だと』
「貧困街で暮らさないのかい? 階段を上がればすぐだろう? 皆で仲良くすればいいのに」
その言葉は何も間違ってはいない。子供に教える純粋で清らかな意見だ。
だが、エリスローズにとっては現実を知らない夢の中で生きてきた者の意見でもあった。
『貧困街の者でさえ仕事にあぶれているんです。スラム街の者が上がれば仕事は更になくなってしまう。誰もが自分の生活を守るのに必死の中で邪魔者を歓迎することはできません。スラム街の人間は仕事を選べない。貧困街にある酒場に行くことさえできないんですよ』
「待ってくれ。じゃあスラム街の人間はどうやって生きているんだ?」
『荷役人夫の仕事をしてお金を稼いでいます』
「どの程度稼げるんだ?」
『朝から夜まで荷を運び続けて銀貨一枚あれば良いほうですね』
「銀貨一枚?」
銀貨一枚の価値がわかるだろうかとリオンを見るエリスローズの目にはいつもの強さは宿っていない。
どこか弱々しく感じる様子にリオンが手を握った。
『パンを買うのに銀貨が何枚いるかご存知ですか?』
「……知らない」
『八枚です』
「八枚? じゃあ君の父親の稼ぎだけではパンも買えないと?」
『だから私も母も働いていたんです』
父親の稼ぎだけで生きている平民とは違う。
子供を駆り出して働いても貧しいのがスラム街に生きる人間の実態。
待っていれば食事が勝手に出てくる彼らにはそれがどういうことか想像もできないだろう。
『両親と私だけなら平気だったんですけど、ロイやシオンやメイはまだ子供ですから我慢させるわけにはいかないんです。だから母が教会に炊き出しをもらいに行ったとき……』
今でも鮮明に思い出せるあの日の光景にエリスローズが震える唇を強く噛む。
『お前はスラム街の人間だろう。ゴミに与える食事などない。毎日上からゴミが落ちてくるのだからそれを拾って食べればいいと言ったんです』
「あの神父が?」
頷くエリスローズが震えた息を吐き出す。
『スラム街で生きる者たちは大抵の暴言には慣れています。貧困街の人間でさえ私たちを見下すので傷つくことなんてほとんどないのですが、彼の言葉はあまりにもひどかった』
「それだね。君は見ていたのかい?」
『母が心配でこっそりついていったんです』
神父に書いて見せた内容が事実であるのだと確信したリオンは上を向いて瞬きを繰り返すエリスローズを見つめる。
『両親はとても愛情深い人たちで、自分たちは食べなくても子供たちだけはと毎日必死に食べ物を手に入れようとしていました。母は何を言われるか、どんな扱いを受けるかわかっていながら教会へ行ったんです。少しでいい。中身はいらない、スープだけでもいいからと何度も頭を地面につけてお願いしたのに……ッ』
瞬きをするだけでは堪えきれなかった涙が目尻から溢れて伝い落ちる。
ペンを握る手が震え、ミシッと音がした。
それだけ彼女の中であの日の光景が焼き付いているのだろうとリオンはエリスローズの肩を抱くと小さなしゃくり上げが聞こえる。
何度も声を殺して息を詰まらせるエリスローズが子供のように泣いたのはいつだろうと彼女の幼少期を想像するが、何不自由なく生きてきた自分が想像するのさえ申し訳ない気がして抱きしめるだけにした。
「落ち着いたかい?」
暫くして自ら離れたエリスローズが頷くとまたペンを走らせる。
『踏み潰された団子を前に痩せ細った身体を震わせて泣く母の姿が忘れられない。でも一番忘れられないのは、涙を拭って立ち上がった母が気丈に振る舞っていたこと。目を真っ赤にして帰ってきた母は私たちに申し訳なさそうに笑ってこう言ったんです』
ノートに書かれた「炊き出しもう終わってたみたい」の言葉にリオンの胸が苦しくなる。
『街はこんなにも明るいのにスラム街にはその灯りは届かない。不公平ですよね』
結婚相手さえ選べない自分が今どう足掻いても国を変えることはできない。
「貧困街やスラム街を潰そうとは思っていないと昔、国王がそう言ったのを覚えている」
静かに話すリオンにエリスローズが顔を向ける。
「彼らは国になんの貢献もしないゴミだが、この国の民であることに変わりはない。だから彼らから全てを奪って追い出すような真似はしない」
あの国王らしい言葉だと納得する。
「ただし、救済もしないと言ったんだ」
三度、ゆっくりと頷くエリスローズがもう一度空を見上げて息を吐いたあと、リオンを見た。
『なぜスラム街がゴミ捨て場と呼ばれているか知っていますか?』
想像もしたくない理由にリオンは首を振る。
『なんでも捨てていくからです。いらなくなった物全部。下に人がいるかもしれないことなど考えずに平民たちは物を捨てていく。食べ残しはもちろんのこと、家具や玩具、服もそう。処分するお金を払いたくないから全部捨てるんです。そして子供さえも』
「子供?」
驚くリオンに頷くと『珍しくないこと』だとエリスローズが書く。
『だからゴミ捨て場なんです。私たちはそのゴミを漁りながら生きてる。必死に働いても食べられないから誰かの食べ残しだろうと地面に落ちていようと食べる。それがスラム街の生き方です』
フォークが落ちてしまっただけで新しい物と交換する生活が当たり前だったリオンには考えられない生活。
想像を絶する生き方をしてきたエリスローズがなぜあれだけ折れずにいられるのかようやく納得がいった。
「君はどんな仕事を?」
『スラム街の男に与えられるのは荷役人夫。女に与えられるのは織物工場か娼婦だけです』
目を見開くリオンが呼吸を止めたのがわかった。
「君は……それを?」
『私は朝から夕方まで織物工場で働いた後に貧困街の酒場で働いていました』
「貧困街で仕事ができたのかい?」
『酒場の店主が私を気に入ってくれたので』
「君は美人だからね……」
どこか少し安堵した様子が見えるリオンにエリスローズは小さく微笑んだ。
『その店主の専属娼婦をしていました』
「ッ!?」
『抱かれた分だけお給料とは別にお金がもらえるんです。食材の仕入れのときに一緒に買い物もしてもらえますし、オマケでいくつか増やしてもらえるので』
「そう……か……」
ショックを受けただろうリオンから景色へと顔を戻すとエリスローズは冷たい夜風に息を吐き出す。
『私はあなたが思ってくれているようなキレイな女ではないんですよ。お金のためなら身体を差し出すことだって厭わない。お金がもらえるのならなんだってする。そんな女なんです』
だからあまり夢は見てくれるなと願うのにリオンの目は真っ直ぐエリスローズを見つめている。
「家族のためにその身を差し出してまで稼ぐ君はすごいよ」
苦笑はしているが、それはエリスローズに向けたものではなく自分に向けたもの。
「僕が今ここを放り出されて無一文になったとしても男娼をやる覚悟があるかと言われたら絶対にない。自分一人の生活費を稼ぐためでさえ決意できないのに、君は家族のためにやったんだ。キレイだよ、君は。汚れてなんかない。その身も心も、誰よりも美しいと僕は思う」
その言葉に瞬きを繰り返したエリスローズがはにかんだ。
『やっぱりあなたは優しい人ですね』
「夫は妻に優しいものだろう?」
『そうでした』
「忘れてたのかい? ひどいなぁ」
優しいのは自分ではないと思うが、それを言ったところでエリスローズは素直に受け入れないだろうからリオンは言わなかった。
すっかり冷えてしまっている相手を暖めるように抱きしめるとそのまま子供を抱っこするように抱き上げて部屋の中へと入っていく。
慌てて手足をバタつかせている相手はきっと何か言っているのだろうが聞こえない。
だからリオンは強引にベッドへと連れていく。
「一緒に寝てもいい?」
『絶対にダメです』
「僕をロイだと思ってくれていいよ」
『気持ち悪いです』
「大きくなったロイだと思えば……」
『ロイの成長を楽しみにしているので結構です。お帰りください。使用人に見られたら何を言われるかわからないんですから』
過度なスキンシップはなしという約束。
どんなに見つめようとも揺らがない相手に降参だと両手を上げて首を振る。
「おでこにキスはしてもいい?」
『ダメです』
「でもロイたちにはしてるよ?」
『愛していますし』
「夫のことは愛してない?」
『仮の夫のことは別に』
「ハッキリ言うなぁ」
楽しげに笑うリオンがゆっくりとベッドを離れてドアへと向かう。
「君が素晴らしい朝を迎えられるよう祈ってるよ」
頷くだけで返事を書こうとはしないエリスローズの淡白さにまた笑うリオンが手を振って出ていった。
(あんな話したところで何かが変わるわけじゃないのにどうして話しちゃったんだろ。同情でもしてもらいたかった? まさか。ありえない。知らないことを教えてあげただけ)
これはいつか終わる生活。
あの優しい笑顔も言葉も温もりも全て幻だったかのように消えてしまう。
だから当たり前に思いたくない。彼が隣にいることが当たり前になってしまいたくなかった。
自問自答してはくだらないと首を振ったエリスローズは上着を返すのを忘れたと畳んで隣に置く。
(いい匂い……)
自分とは違う匂いが上着から香ってくることにエリスローズは目を細めながら上着を抱き寄せて眠りについた。
エリスローズは窓の外を静かに眺め、リオンはエリスローズがの言葉が綴られたノートを見つめている。
問い詰めるような言葉が並んでいるそれを見てリオンは聞きたいことがあるが、その内容の酷さになんと聞けばいいのかわからないでいた。
「エリー」
城に戻ったリオンは着替えてすぐエリスローズの部屋を訪ねた。
「エリー?」
部屋の中を見渡すが姿は見えない。
声をかけながら探しているとカーテンが揺れていることに気付いた。
揺れるカーテンの向こうにあるテラスでエリスローズは寝巻きのまま上着も羽織らず景色を眺めている。
「エリー、夜風は身体を冷やすよ」
ノートは持っていない。
エリスローズは軽く頭を下げるだけでノートを取りに行こうとはせず、これは喋る気がないのだろうかとリオンは考えた。
もうすぐ寝る時間なのだから会話などせずに寝かせるべきだ。今日はエリスローズにとって良い一日ではなかったのだから。
わかっているのにリオンはエリスローズが心配だった。
「もし、嫌だったら話さなくていいんだけど……君にとって教会に良い思い出はない?」
五秒ほど黙ったままだったあと、エリスローズはゆっくり頷いた。
「それはあの神父のせい?」
もう一度頷く。
中へと入っていき、戻ってきた手にはノートとペンが。
『この景色の中のどこにスラム街があるか知っていますか?』
ノートから顔を上げたリオンは景色を見渡し、上げようとした手を拳に変えて首を振る。
「すまない」
スラム街がどこにあるのか、貧困街がどこにあるのかリオンは知らない。
門前から馬車に乗って目的地で降り、そこからまた馬車に乗って城へと戻るのだから貧困街へと続く階段の前を歩いたことさえない。
期待していないと言ったエリスローズの言葉を思い出し、今自分が口にした謝罪にもきっと同じことを思っているのだろうと考えると胸が痛かった。
好きだなんだと言いながら彼女がどういう場所で育ったのか、この四ヶ月間一度だって見に行こうとはしなかったのだからいい加減という言葉が合っていると顔を歪める。
『スラム街はあそこにあります。あの時計塔の奥にある二階建てのお店のすぐ傍の階段を一回降りると貧困街、2回降りるとスラム街が』
「そうなのか」
指された場所は城からそれほど遠くはなく、行こうと思えば歩いてだって行ける場所にあった。
『リオン様はこの国のシステムをどこまでご存知ですか?』
「システム?」
システムという言い方にリオンが眉を寄せる。
『貧困街の者と平民の違いは?』
「納税者かどうか?」
『そうです。税を払えない者は家すらも没収となり、街から追い出されます。それは別の国に行くか階段を降りて貧困街に降りるかのどちらかを選ぶこととなります』
「貧困街の者は皆そうなのかい?」
『貧困街で生まれたという者も多いです。でも、平民として生きてきたのに病気や怪我で仕事を失って貧困街に落ちた者もいるそうです』
「そうだったのか」
初めて知った事実はリオンにとってショックが大きいものだった。
言われたことだけをやっていろという王の命令に従って生きてきた二十五年。
自分はこの国の王太子でありながらこの国が作り上げた美しい部分だけを見て生きてきた。
汚い部分がどれだけ酷いものか想像することさえなく。
「スラム街は? なぜスラム街と貧困街と分けられているんだい?」
『わかりません。両親が言うには彼らが生まれたときから既に分けられていたそうです』
「ご両親はスラム街で生まれたのかい?」
『そう聞いています。スラム街で暮らす者のほとんどがそこで生まれた者だと』
「貧困街で暮らさないのかい? 階段を上がればすぐだろう? 皆で仲良くすればいいのに」
その言葉は何も間違ってはいない。子供に教える純粋で清らかな意見だ。
だが、エリスローズにとっては現実を知らない夢の中で生きてきた者の意見でもあった。
『貧困街の者でさえ仕事にあぶれているんです。スラム街の者が上がれば仕事は更になくなってしまう。誰もが自分の生活を守るのに必死の中で邪魔者を歓迎することはできません。スラム街の人間は仕事を選べない。貧困街にある酒場に行くことさえできないんですよ』
「待ってくれ。じゃあスラム街の人間はどうやって生きているんだ?」
『荷役人夫の仕事をしてお金を稼いでいます』
「どの程度稼げるんだ?」
『朝から夜まで荷を運び続けて銀貨一枚あれば良いほうですね』
「銀貨一枚?」
銀貨一枚の価値がわかるだろうかとリオンを見るエリスローズの目にはいつもの強さは宿っていない。
どこか弱々しく感じる様子にリオンが手を握った。
『パンを買うのに銀貨が何枚いるかご存知ですか?』
「……知らない」
『八枚です』
「八枚? じゃあ君の父親の稼ぎだけではパンも買えないと?」
『だから私も母も働いていたんです』
父親の稼ぎだけで生きている平民とは違う。
子供を駆り出して働いても貧しいのがスラム街に生きる人間の実態。
待っていれば食事が勝手に出てくる彼らにはそれがどういうことか想像もできないだろう。
『両親と私だけなら平気だったんですけど、ロイやシオンやメイはまだ子供ですから我慢させるわけにはいかないんです。だから母が教会に炊き出しをもらいに行ったとき……』
今でも鮮明に思い出せるあの日の光景にエリスローズが震える唇を強く噛む。
『お前はスラム街の人間だろう。ゴミに与える食事などない。毎日上からゴミが落ちてくるのだからそれを拾って食べればいいと言ったんです』
「あの神父が?」
頷くエリスローズが震えた息を吐き出す。
『スラム街で生きる者たちは大抵の暴言には慣れています。貧困街の人間でさえ私たちを見下すので傷つくことなんてほとんどないのですが、彼の言葉はあまりにもひどかった』
「それだね。君は見ていたのかい?」
『母が心配でこっそりついていったんです』
神父に書いて見せた内容が事実であるのだと確信したリオンは上を向いて瞬きを繰り返すエリスローズを見つめる。
『両親はとても愛情深い人たちで、自分たちは食べなくても子供たちだけはと毎日必死に食べ物を手に入れようとしていました。母は何を言われるか、どんな扱いを受けるかわかっていながら教会へ行ったんです。少しでいい。中身はいらない、スープだけでもいいからと何度も頭を地面につけてお願いしたのに……ッ』
瞬きをするだけでは堪えきれなかった涙が目尻から溢れて伝い落ちる。
ペンを握る手が震え、ミシッと音がした。
それだけ彼女の中であの日の光景が焼き付いているのだろうとリオンはエリスローズの肩を抱くと小さなしゃくり上げが聞こえる。
何度も声を殺して息を詰まらせるエリスローズが子供のように泣いたのはいつだろうと彼女の幼少期を想像するが、何不自由なく生きてきた自分が想像するのさえ申し訳ない気がして抱きしめるだけにした。
「落ち着いたかい?」
暫くして自ら離れたエリスローズが頷くとまたペンを走らせる。
『踏み潰された団子を前に痩せ細った身体を震わせて泣く母の姿が忘れられない。でも一番忘れられないのは、涙を拭って立ち上がった母が気丈に振る舞っていたこと。目を真っ赤にして帰ってきた母は私たちに申し訳なさそうに笑ってこう言ったんです』
ノートに書かれた「炊き出しもう終わってたみたい」の言葉にリオンの胸が苦しくなる。
『街はこんなにも明るいのにスラム街にはその灯りは届かない。不公平ですよね』
結婚相手さえ選べない自分が今どう足掻いても国を変えることはできない。
「貧困街やスラム街を潰そうとは思っていないと昔、国王がそう言ったのを覚えている」
静かに話すリオンにエリスローズが顔を向ける。
「彼らは国になんの貢献もしないゴミだが、この国の民であることに変わりはない。だから彼らから全てを奪って追い出すような真似はしない」
あの国王らしい言葉だと納得する。
「ただし、救済もしないと言ったんだ」
三度、ゆっくりと頷くエリスローズがもう一度空を見上げて息を吐いたあと、リオンを見た。
『なぜスラム街がゴミ捨て場と呼ばれているか知っていますか?』
想像もしたくない理由にリオンは首を振る。
『なんでも捨てていくからです。いらなくなった物全部。下に人がいるかもしれないことなど考えずに平民たちは物を捨てていく。食べ残しはもちろんのこと、家具や玩具、服もそう。処分するお金を払いたくないから全部捨てるんです。そして子供さえも』
「子供?」
驚くリオンに頷くと『珍しくないこと』だとエリスローズが書く。
『だからゴミ捨て場なんです。私たちはそのゴミを漁りながら生きてる。必死に働いても食べられないから誰かの食べ残しだろうと地面に落ちていようと食べる。それがスラム街の生き方です』
フォークが落ちてしまっただけで新しい物と交換する生活が当たり前だったリオンには考えられない生活。
想像を絶する生き方をしてきたエリスローズがなぜあれだけ折れずにいられるのかようやく納得がいった。
「君はどんな仕事を?」
『スラム街の男に与えられるのは荷役人夫。女に与えられるのは織物工場か娼婦だけです』
目を見開くリオンが呼吸を止めたのがわかった。
「君は……それを?」
『私は朝から夕方まで織物工場で働いた後に貧困街の酒場で働いていました』
「貧困街で仕事ができたのかい?」
『酒場の店主が私を気に入ってくれたので』
「君は美人だからね……」
どこか少し安堵した様子が見えるリオンにエリスローズは小さく微笑んだ。
『その店主の専属娼婦をしていました』
「ッ!?」
『抱かれた分だけお給料とは別にお金がもらえるんです。食材の仕入れのときに一緒に買い物もしてもらえますし、オマケでいくつか増やしてもらえるので』
「そう……か……」
ショックを受けただろうリオンから景色へと顔を戻すとエリスローズは冷たい夜風に息を吐き出す。
『私はあなたが思ってくれているようなキレイな女ではないんですよ。お金のためなら身体を差し出すことだって厭わない。お金がもらえるのならなんだってする。そんな女なんです』
だからあまり夢は見てくれるなと願うのにリオンの目は真っ直ぐエリスローズを見つめている。
「家族のためにその身を差し出してまで稼ぐ君はすごいよ」
苦笑はしているが、それはエリスローズに向けたものではなく自分に向けたもの。
「僕が今ここを放り出されて無一文になったとしても男娼をやる覚悟があるかと言われたら絶対にない。自分一人の生活費を稼ぐためでさえ決意できないのに、君は家族のためにやったんだ。キレイだよ、君は。汚れてなんかない。その身も心も、誰よりも美しいと僕は思う」
その言葉に瞬きを繰り返したエリスローズがはにかんだ。
『やっぱりあなたは優しい人ですね』
「夫は妻に優しいものだろう?」
『そうでした』
「忘れてたのかい? ひどいなぁ」
優しいのは自分ではないと思うが、それを言ったところでエリスローズは素直に受け入れないだろうからリオンは言わなかった。
すっかり冷えてしまっている相手を暖めるように抱きしめるとそのまま子供を抱っこするように抱き上げて部屋の中へと入っていく。
慌てて手足をバタつかせている相手はきっと何か言っているのだろうが聞こえない。
だからリオンは強引にベッドへと連れていく。
「一緒に寝てもいい?」
『絶対にダメです』
「僕をロイだと思ってくれていいよ」
『気持ち悪いです』
「大きくなったロイだと思えば……」
『ロイの成長を楽しみにしているので結構です。お帰りください。使用人に見られたら何を言われるかわからないんですから』
過度なスキンシップはなしという約束。
どんなに見つめようとも揺らがない相手に降参だと両手を上げて首を振る。
「おでこにキスはしてもいい?」
『ダメです』
「でもロイたちにはしてるよ?」
『愛していますし』
「夫のことは愛してない?」
『仮の夫のことは別に』
「ハッキリ言うなぁ」
楽しげに笑うリオンがゆっくりとベッドを離れてドアへと向かう。
「君が素晴らしい朝を迎えられるよう祈ってるよ」
頷くだけで返事を書こうとはしないエリスローズの淡白さにまた笑うリオンが手を振って出ていった。
(あんな話したところで何かが変わるわけじゃないのにどうして話しちゃったんだろ。同情でもしてもらいたかった? まさか。ありえない。知らないことを教えてあげただけ)
これはいつか終わる生活。
あの優しい笑顔も言葉も温もりも全て幻だったかのように消えてしまう。
だから当たり前に思いたくない。彼が隣にいることが当たり前になってしまいたくなかった。
自問自答してはくだらないと首を振ったエリスローズは上着を返すのを忘れたと畳んで隣に置く。
(いい匂い……)
自分とは違う匂いが上着から香ってくることにエリスローズは目を細めながら上着を抱き寄せて眠りについた。
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