エリスローズの瞳に映るもの

永江寧々

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エリスローズは力走する

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「すごい賑わいだな」

 身代わりになって五ヶ月、エリーナに似せた顔にもすっかり慣れて王太子妃という呼び方に嫌悪感もなくなっていた。
 馬車に乗ることもドレスを着ることにも違和感はなくなり、リオンが差し出す手を取って馬車を降りることにも慣れた。
 今日はリオンが視察に行きたいと希望していた場所へとやってきた。

「君の父上はここで荷役人夫をしていたんだよね?」

 内緒話をするように小声で問いかけるリオンに「たぶん」の意味を込めて頷いた。
 街を歩いたことがなかったエリスローズは実際に父親が荷役人夫をしている姿を見たわけではないため、父親から聞いていた情報で頷くしかない。
 嘘をついていると疑ったことは一度もない。だって父親の身体はいつだって傷まみれだったから。
 なぜこんなに傷があるのかと聞いたとき、父親は樽などで切ってしまうと言っていた。実際、父親はエリスローズが子供だった頃、慣れたように樽を抱えて帰ってきたことがあった。
 働いている姿は見たことはなかったが、今こうして港に立ってみると実際に器用に樽を転がしたり担いだりしている男たちがいる。
 父親もこうして働いていたのだと思うと感慨深い光景にエリスローズは嬉しくなった。

「殿下、本当にここでよろしいのですか?」
「もちろんだよ。馬車で入って邪魔をしたくはないからね」

 もっと奥まで入ることはできるが、港の入り口で馬車から降りると決めたのはリオン。
 これからゆっくりと民が働く姿を見て回ると決め、第一回目の視察は港で働く者たちの職場。
 これも自分の父親が働いていたからだろうとわかっているエリスローズは贔屓が行われていることに苦笑が滲むもリオンが腕を差し出したことで表情を戻して腕を添えて歩き出した。

「リオン殿下! このようなところまで足をお運びいただきまして恐縮でございます!」
「そんな大きな声を出さないでくれ。皆が萎縮してしまう」

 慌てて駆け寄ってきた現場責任者に人差し指を立てるリオンに合わせて口を押さえた男が小声で改めて挨拶をする。

「民が働く姿をこの目で見たいと思ったんだ。邪魔にならないようにするから見学させてもらってもいいかい?」
「もちろんでございます! 私がご案内致しますのでなんなりとお聞きください」

 エリスローズは品がないとわかっていながらも辺りをキョロキョロと見回すのをやめられない。
 上半身裸の男たちが大量の汗を流しながら働いている姿はもちろんのこと、見渡す限り広がる青い海と巨大な船に感動していた。

「ここで働いてるのは皆、荷役人夫かい?」
「九割そうです。残りは荷造り人夫や石炭積みに荷馬車人夫がいます」
「なるほど。どのぐらいの人数が働いてるんだい?」
「ざっと五百人ほどでしょうか」
「五百人! すごいな」
「彼らがいなければ港は機能しませんよ」

 父親はその中の一人だったんだとニヤつきそうになる頬を引き締めながら男のあとをついていく。

「ぶつけるなよ!」

 大きな声が聞こえるとリオンもエリスローズも目を瞬かせる。

「お前らの命よりも大事な物だ! お前らが骨を折ろうが潰されようがどうでもいいが積荷だけは死守しろ!」
「ひどいな……」

 鞭の音と共に聞こえてくる暴言に二人は眉を寄せる。
 その表情を見た男は軽く頭を下げてから小走りで現場監督の元へと向かっていき、何かを話している。
 現場監督はリオンが王太子だと気付いても愛想良くすることはなかった。
 ジッと数秒ほど見たあと、また鞭を地面に叩きつけて「休みはねぇぞ!」と大声を張り上げる。

「やれやれ……大変申し訳ありません。彼には何度も注意をしてきたのですが一向に変わらなくて困っているのです」
「いつもあんな風に暴言を?」
「お恥ずかしながら……」
「現場監督を変えようとは思わないのかい?」
「彼は口こそ悪いですが、大変優秀なのです。人の数も荷物の数も彼は全て把握できるんです。誰をどこにやるのが適切なのかを判断して毎日指示を与えています。それができるのは彼だけなので……交代はなかなか……」

 優秀な者は弾かれにくい。優秀というだけで守られるのだ。
 自分に身代わりの条件を突きつけてきた大臣もそうだったと小さく首を振るエリスローズは働く男たちの身体が傷まみれなのは樽のせいではなく鞭のせいなのだとようやくわかった。
 いや、最初からわかっていたのだ。でもわざわざ父親に鞭のせいでしょと指摘することはできなかった。指摘したところでなんになるのかと自問した結果、なんにもならないという答えしか出てこなかったから。

「おい、スペンサー!」
「はい!」

 聞き慣れた名前と声にエリスローズの肩が大袈裟なほど跳ねる。
 腕で汗を拭いながら駆け寄ってくる男の顔を見るとやはりスラム街で一緒だったスペンサーだった。

「リオン殿下、彼は荷馬車人夫をやっているのですが大変優秀な若者です。うちはスラム街や貧困街から働きに来る者がほとんどですが、その中でもスペンサーは頭の良い働き者なんです」
「そうか。君はすごいんだね」

 スペンサーの顔はリオンではなくエリスローズに向いていた。
 メイクはしっかりされているため気付かれないだろうとは思っているが、念のため顔を横に向けて髪で隠すもスペンサーの顔はエリスローズに向いたまま。

「エリー……?」
「ッ!」
「おじさ──いてっ!」
「王太子妃を呼び捨てにするとは何事だ! エリーナ様だろう!」
「いや、だってコイツ──いてっ! ごめっ! すいませんでした!」

 メイクは完璧に仕上げてある。エリスローズは自分で鏡を見ても自分の面影がないと思うぐらいなのになぜスペンサーは気付いたのか。
 だが、エリスローズは今それに対する答えを求めるどころではなかった。
 スペンサーが呼びかけようとした「おじさん」が誰なのか、顔を向けてわかった。

(どうして……)

 まるで幽霊でも見たかのような顔で固まっているエリスローズをリオンが覗き込む。

「エリー? どうしたんだい?」

 動かなくなったエリスローズに声をかけるもエリスローズはリオンを見ることなく足を進める。段々と早歩きになっていく足は一刻も早く確かめたいことがあると急いでいた。
 傷だらけの身体で樽と格闘する男。見間違うはずがない。

「!!!!!!!」

 エリスローズは背中を向けて樽を運んでいる男の傍で思いきり床を踏みつけてヒールを鳴らした。

「ん? ッ!?」

 鞭とは違う音に気付いた男が振り返ると目を見開いて固まった。
 いるはずのない相手がなぜここに──互いに同じ思いでいる二人は正反対の表情で見つめ合っている。

「コリン、頭を下げろ! 王太子妃だぞ!」

 仲間が慌てて頭を押して下げさせると男はそれに従って深く頭を下げる。

(どうしてここにいるの……)

 エリスローズはこの五ヶ月間で初めて声が出なくてよかったと思った。
 もし声が出ていればエリーナが言うはずのない言葉を叫んでいただろうから。
 
「ッ!!」
「エリーナ様!?」
 
 ガッと腕を掴んだエリーナに全員が驚いた。
 コリンは何も無礼なことはしていない。樽を運んでいただけ。それなのにどうしてと周りが一番慌てていた。
 大袈裟なほど肩を跳ねさせた男が顔を上げると今にも泣き出しそうな顔をしている。
 泣きたいのはこっちだ。なぜここにいるんだと眉を寄せるエリスローズに何か言おうと口を開くが言葉は出てこない。

「ッ!」

 パンッと乾いた大きな音が響き、全員が固まった。
 何もしていない男が王太子妃から平手打ちをくらった理由はこの二人以外にはわからない。

「エ、エリーナ様、コリンが何か無礼を!?」

 ノートに書く気にもならない。
 怒りで震えるエリスローズは暫く黙って睨みつけていたが、ハッとする。

(まさか……)

 ありえない。あってはならないことだ。
 慌てて駆け出したエリスローズは時計台を目指して走り出した。

「エリー!」

 声を上げたのは三人の男。
 エリスローズはそれを無視して走っていく。
 どこからでも見える大きな時計台。
 王太子妃と声をかけられても一度も止まることなく走り続ける。
 かつてこんなに走ったことはあっただろうか。
 あった。一度だけ。たった一度、死ぬ気で走ったことがあった。そのときもこんな風に嫌な予感に支配を受けながら必死に走った。
 
(いませんように! いませんように!)

 時計台の奥へと進むと見慣れた階段を見つけた。
 一気に下へと駆け降りていくエリスローズに貧困街の者が目を見開く。
 上質なドレスを着た女がこんな場所へ来るわけがない。それも護衛もなしに。
 しかも貧困街を通り過ぎてスラム街へと降りていく。
 何事だと皆が顔を見合わせながら目で追う。

(絶対にいない! いるわけがない! だって約束したもの! これからはロイたちの傍にいるって──……)

 エリスローズの足が止まった。
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