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スノークルスを見に
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「準備はできたか?」
「アルフローレンス……」
「なんだ?」
「いえ、なんでもありません」
上着が欲しいと言おうと思ったが、毛皮を拒んだのは自分。騎士達が着ているのは鎧であって防寒具ではない。鉄が冷えて寒いようにしか見えないため大丈夫だろうかと心配になる。心配するような相手でもないかと割り切ってアルフローレンスについていく。
前と同じように先にアルフローレンスが馬に乗ってミュゲットを引き上げる。そうすると毛皮で包まれるため暖かい。だがこれも動物を殺して作ったのだと思うと複雑だった。
「この毛皮もスノークルスですか?」
「これはアローペクスの毛皮だ」
聞いたことのない動物だが、どっちにしろ毛皮。
この極寒の地で暮らしていくのに毛皮が必要なことはわかっているが、それをねだろうとは思わない。そこで生きている動物を陰から狙って殺す必要性があるとは思えないのだ。
「あったかいですね」
「欲しくなったか?」
「いいえ。スノークルスは見るだけです。狩りはしません」
「アローぺクスはどうだ?」
「狩りはしません」
「余が聞いてやっているときに言えば叶えてやるものを」
「いりません」
「頑固な女だ」
なぜここまで毛皮のコートを作らせたがるのかがミュゲットにはよくわからない。今日のアルフローレンスは機嫌が良いため怒らせたくはない。頬を打たれるのも乱暴にされるのももう嫌だ。
ミュゲットにはもう耐えると決意するための心の支えがないのだ。悔しいが、今はアルフローレンスの傍にいるしかない。
「落ちるなよ」
馬が走り出せば風を感じる。どこで呼吸をすればいいのかわからなくなるほどあっという間に風による寒さが増し、ミュゲットは毛皮を引っ張って口と鼻を覆う。すると腹部に回っていた腕がグッと身体を引き寄せて密着させる。相手の体温を背中で感じることに抵抗を覚えるミュゲットは少し身体を動かして前に移動しようとするがアルフローレンスがそれを許さない。
「ジッとしていろ。怒られるぞ」
「誰にですか?」
「白馬にだ」
思わず笑ってしまいそうになった。この男でも『怒られる』などと冗談を言うのだと。それも馬が怒ると。冗談で言っているのだろうかと振り返るも表情は何も変わっていないため冗談を言っているのかはわからないが、もし冗談で言っているのだとしたらミュゲットはますますアルフローレンスという男がどういう人間なのかわからなくなる。
人の命をそこらの石ころ同然だと思っているだろう人間が優しくなるのはどういうときか──良い風に考えようとしても結局は全て気まぐれでしかないとわかっている。今ここでアルフローレンスを怒らせればミュゲットはまたきっとこの雪原に置いていかれるか、スノークルスを見ることはなく城に引き返すことになる。そしてまた苛立ちをぶつけるように乱暴に抱かれる。
何をするのも何を言うのも全て彼の気まぐれでワガママ。だが、その気まぐれの差が大きすぎてミュゲットは最近混乱することが増えた。
「アルフローレンス」
「なんだ?」
「どうして狩りをせずに見るだけの退屈な行動に付き合ってくださるのですか?」
「お前が言ったのだぞ。見に行こうと言われたほうが嬉しいと」
ミュゲットは驚いた。自分が言った言葉を覚えていたこともそうだが、自分が言ったから今こうしてくれているのだということに。
アルフローレンスは動物を眺める趣味などないだろう。動物を愛でるという心さえ持っていないはず。
男は狩りが好きだというのは父親に聞いたことがある。狩りは高揚感を高める。本能が騒ぐんだと。
フローラリアの狩りはグラキエスと違って銃で仕留めるものではなく、山の中を駆け回る動物をその身一つで捉えるというもの。だからフローラリアの男たちは身体が鍛えられているし、身体能力も高い。
グラキエスは銃に頼るからフローラリアの男たちよりずっと細身。
アルフローレンスは細身に見えるが、脱ぐとなかなかに筋肉質だった。
「……スノークルスを眺められたことは?」
「あるわけないだろう。狩りもせず獲物を眺めるなど時間の無駄だ。余はそれほど暇ではないのだぞ」
「じゃあどうして今日は眺めてくださるのですか?」
「二度言わせるつもりか?」
「いえ、そうではなく……私だけ置いて帰られてはいかがですか?」
「凍えたいと?」
毛皮だけ貸してほしいとは言えない。自分がいらないと言った毛皮だ。暖かさは確認済みでもそれは言えない。
今日はちゃんとブーツを履かせてもらって雪の上に降りられるが、服は相変わらずネグリジェ一枚。部屋から一歩出ただけで身を震わせる寒さを感じるのに雪の中にこれで立っていることはできない。きっと五分も保たないだろう。
「お前が見たいと言ったのだ」
見たいとは一言も言っていない。アルフローレンスが見に行くかと誘うから誘いに乗っただけで両手をあげて喜んでいるわけではないのだが、相手の中ではそうなっているのだろうと反論はしなかった。
「今日は一緒に見てくださるのですか?」
「そうだ。お前のために余の貴重な時間を割いてやるのだ。感謝しろ」
感謝はしない。アルフローレンスは無抵抗のフローラリアを陥落させた男。いわば敵だ。敵に心を絆されることだけはあってはならない。妹のフランのように──
「どうしてここまでしてくださるのですか?」
「理由が必要か?」
「はい」
「言わねばわからぬのか?」
「はい」
「察しの悪い女だ」
なぜそんな言い方しかできないのか。ミュゲットは小さく首を振ってどうでもいいかと追求しなかった。聞いたところでどうでもいい内容だろうと察しはついている。飽きるまでは抱く女と決めているから優遇している。それだけだろうと。
飽きれば城も追い出される。城を追い出されれば行く場所などないのにどうすればと先のことを考えると落ち込む。
「どうした?」
「あ、いえ、何でもありません」
「お前は嘘が下手だな」
「本当に何でもないんです」
「余が聞いてやっているときに言えば叶えてやると言ったのを忘れたのか?」
覚えている。だがそれも気まぐれに決まっている。そしてそこには“なんでも“と付いていない以上、叶えられる内容など限られている。優遇されていると言えど、どこまで叶えてもらえるのかわからないし、無条件ではないかもしれないと思うと容易に口にはできなかった。
「妹を地下牢に再送するか?」
「やめてください」
「庇うのか?」
「庇うとかではなくて……」
「お前はそのままでは不幸の沼から一生這い上がれぬだろうな」
不幸の沼にいるつもりはない。想像もしていなかったフローラリア陥落。両親の自死。捕虜としての生活──不幸と呼ぶにはじゅうぶんかもしれないが、ミュゲットは自分が不幸という言葉を否定するように首を振る。
フランに聞いた話では地下牢にはまだ多くの捕虜がいる。それも自分たちより若い子供まで。そのことを考えれば自分は地下牢で冷えたパンとスープを食べずに済んでいることは幸運とさえ言えるだろう。
苦労なき世界で生きてきた男からすれば上から見る景色は素晴らしいもので、自分より下を生きる人間は全て不幸なのだろうと思った。
「言ってみろ。叶えてやろう」
「……フローラリアに帰りたいです」
無理だとわかっていることをあえて言ったのは未だその願いを諦めきれていないことを伝えたかったから。
フランのようにここで暮らす覚悟などできていない。いつかはフローラリアに帰りたい。あの美しい暖かな場所へ。
「……いいだろう」
「え……?」
予想もしていなかったまさかの返答にミュゲットは勢いよく後ろを振り返った。ありえない返事だ。よく聞こえなかったのではないだろうかと不安になったミュゲットはもう一度聞いてみることにした。
「フローラリアに帰ってもいいのですか?」
「同じことを二度言わせるな」
何度も目を瞬かせるミュゲットをチラッと見てから再び前を向くアルフローレンスが何を考えているのか本当にわからない。
「じゃ、じゃあ……帰ります」
「後日、連絡する」
「はい!」
この男に笑顔など見せるものかと思っていたのに表情が緩むのを止められない。気まぐれでもなんでもいい。フローラリアに帰れるのならもうなんだっていい。気にしない。
殺された兵士はフローラリアの女たちを奴隷にしたと言っていたが、アルフローレンスの話では元から奔放であるという話だったため、強制的になっただけで惨状状態ではないのかもしれないとミュゲットは考える。
奴隷のように強制的ではなかったとしても、自分が見てきた世界とは正反対の世界が作られている現実がそこにある。想像できないこともあって、ミュゲットはあの暖かな場所に帰りたいと思った。
何も残っていないかもしれない。自分が生まれ育った城も思い出がたくさん詰まった部屋も大好きだった美しい景色も全て壊れてしまっているかもしれない。それでも、自分が生まれ育った場所なのだ。
そこで生きて、そこで死にたい。
ミュゲットは儚い願いに目を閉じる。
「いたぞ、スノークルスだ」
アルフローレンスの声に目を開ければ前方に確かにスノークルスの姿が確認できた。人より遥かに大きいその身体にはふわっふわだろう毛を纏っていて触りたくなる。
馬から降りると裸足とは違った感覚にギュッと雪に足を押し付ける。
「雪遊びがしたいのか?」
「え?」
「幼子のような動きをしている」
「こういう靴も靴で踏む雪もはじめてなのでびっくりしただけです」
「雪遊びがしたいのなら付き合ってやるぞ」
「雪遊びってどういうものが──」
聞く前に顔に押し付けられた雪に驚いたミュゲットは時間が止まったように固まる。
(これが雪遊び? 顔に雪を押し付ける悪質な行為が?)
ミュゲットの中で疑問が溢れるが、それを言葉で問いかける前に雪を両手で持ち上げ思いきり投げつけた。
「甘いな」
「ズルい!」
ミュゲットが投げた雪はアルフローレンスの前に突如現れた薄い膜のような氷の壁に阻まれて当たらなかった。
「何度やろうと同じこと。余には当たらぬ」
「こんなの雪遊びじゃない!」
「そんなことはない。遊んでやっているではないか。こうしてな」
「ッ! も~~~~~ッ!」
ミュゲットが何度投げようとアルフローレンスの前に張られた壁に当たるばかりで意味がない。それなのにアルフローレンスが投げる雪は簡単にミュゲットに当たる。なんの嫌がらせなのかはわからないが、必ず顔に当ててくる。
「……もういいです」
「拗ねたのか?」
「拗ねてません」
「そうか。なら気の済むまでスノークルスを眺め──」
これで怒ってまたやり返しても結局は一発も当たらず無駄に体力を消費することになる。ミュゲットは首を振って顔の雪を落とすとそのままアルフローレンスに近付いて抱きついた。
予想していなかったミュゲットの行動に一瞬言葉が止まったアルフローレンスが突如腰に感じた冷たさに目を見開く。
「これで雪遊びはおしまいです」
抱きついた拍子に服の中へと手を滑り込ませ、握り込んでいた雪を腰にくっつけたのだ。
当たらないのなら直接付けるしかないと考えたミュゲットは自分の思惑がその通りになったことに目を細めて自分の番で終わりだと両手を広げて見せた。
「お前は恐れ知らずだな、ミュゲット・フォン・ランベリーローズ」
「最初に仕掛けたのはそっちです」
「後悔するでないぞ」
「もうおしまいです!」
嫌な予感がしてミュゲットはアルフローレンスから距離を取った。
「余からはじめたのだ。余が飽きるまで相手してやろうではないか」
「あなたからはじめたなら私で終わるのがルールでしょ!?」
「余がそのルールだ」
「信じられない! 卑怯者!」
護衛騎士たちは呆気に取られてポカンと開けた口が塞がらなかった。
氷帝アルフローレンスが捕虜の女一人にこれほど構うことは今まで一度だってなかったこと。狩りに行くことは何度かあってもこうして短い間に二度も出るということもなかった。しかも今日は狩りではなくスノークルスをただ眺めに来ただけ。
そして今、今日の目的はなんだったかと問いたくなるほど二人はスノークルスは見ておらず子供のように雪を手に取って投げ合っている。アルフローレンスはポイッと転がすように放っているだけだが、ミュゲットはムキになって投げ返している。
長年仕えてきた騎士たちにとって今見ている光景に自分たちは夢でも見ているのではないかと疑ってしまうほど奇妙なものだった。
「避けられないからそうやって魔法を使うんでしょ」
「余がお前の雪玉を避けられないと? 随分とナメた口を利くものだな。余を誰だと思っている」
「アルフローレンス・ヴォ・セレン=マクスウェル」
「ヴィ、だ。ヴォなどとみっともない発音に変えるのはやめろ」
「ヴォのほうが素敵ですよ」
「ミュゲット・ヴォン・ランベリーローズでもか?」
そう言われるとミュゲットは雪玉を構えるのをやめて考え込んだ。なんだか妙に聞こえが悪いように感じて眉を寄せながら首を傾げる。濁点が付くだけでこうも変わってしまうのかと自分に置き換えるとわかる。
「素敵だな、ミュゲット・ヴォン・ランベリーローズ」
「訂正し──ッ!」
先に名前を小馬鹿にしたのは自分だと両手を軽く上げて謝ろうとしたミュゲットの顔に雪玉がクリーンヒット。痛くはないが冷たい。
「寒い……」
雪をぶつけていたときはあまり感じなかった寒さを冷静になると途端に感じはじめ、ミュゲットはぶるりと身体を震わせた。
「ミュゲット」
アルフローレンスが少し低めの声で名を呼ぶ。フルネームではなく呼び捨てにするのは別に珍しいことではない。ただ、名前で呼ぶのはベッドの中でだけで人前で呼び捨てにすることはほとんどない。なのに今は呼び捨てにし、どこか怒っているようにも見えた。
今になって急に怒りが込み上げたのだろうかと気まぐれな相手の性格を考えていると
「目を閉じろ」
また殴られるのだろうかと思いながらも置いていかれるよりはマシかと既に男の行動への感覚が麻痺しつつあるミュゲットはその場で立ち止まって目を閉じた。直後、ふわりと包み込まれ、それがアルフローレンスのコートであることはすぐにわかった。温もりがあって匂いがある。こんなことをするために目を閉じさせたのかと今日はどうにも変な感覚になるミュゲットがそーっと目を開けようとすると顔を胸に押しつけられる。
「ッ!? な、なん──ッ!」
獣の声が背後から聞こえ、その距離ほぼゼロ。オオカミの遠吠えより大きく、地鳴りのような音にさえ聞こえるそれがミュゲットの肌をビリつかせる。
何が起こっているのかわからず混乱するミュゲットの耳に次いで聞こえた液体が飛び散る音。大量の液体が壁か何かにぶつかった音だ。雪の上ではない。それが一体なんなのかがわからない。
だが、ミュゲットは鼻につく匂いに肩を撥ねさせる。嗅いだことのある臭い。それもごく最近……
「アルフローレンス……何が……」
「黙っていろ」
美しい白銀の世界に突如血生臭さが広がる。背後から聞こえたのは人の声ではない。あれは獣の声だ。だとすれば可能性が高いのはスノークルス。
ふんふんと大きな鼻を鳴らしながら辺りを見回してはのっそりと歩く。それがスノークルスのイメージだったのだが、もしこの声がスノークルスのだとしたら……ミュゲットの心臓がやけに速く動きだした。
「アルフローレンス……」
「なんだ?」
「いえ、なんでもありません」
上着が欲しいと言おうと思ったが、毛皮を拒んだのは自分。騎士達が着ているのは鎧であって防寒具ではない。鉄が冷えて寒いようにしか見えないため大丈夫だろうかと心配になる。心配するような相手でもないかと割り切ってアルフローレンスについていく。
前と同じように先にアルフローレンスが馬に乗ってミュゲットを引き上げる。そうすると毛皮で包まれるため暖かい。だがこれも動物を殺して作ったのだと思うと複雑だった。
「この毛皮もスノークルスですか?」
「これはアローペクスの毛皮だ」
聞いたことのない動物だが、どっちにしろ毛皮。
この極寒の地で暮らしていくのに毛皮が必要なことはわかっているが、それをねだろうとは思わない。そこで生きている動物を陰から狙って殺す必要性があるとは思えないのだ。
「あったかいですね」
「欲しくなったか?」
「いいえ。スノークルスは見るだけです。狩りはしません」
「アローぺクスはどうだ?」
「狩りはしません」
「余が聞いてやっているときに言えば叶えてやるものを」
「いりません」
「頑固な女だ」
なぜここまで毛皮のコートを作らせたがるのかがミュゲットにはよくわからない。今日のアルフローレンスは機嫌が良いため怒らせたくはない。頬を打たれるのも乱暴にされるのももう嫌だ。
ミュゲットにはもう耐えると決意するための心の支えがないのだ。悔しいが、今はアルフローレンスの傍にいるしかない。
「落ちるなよ」
馬が走り出せば風を感じる。どこで呼吸をすればいいのかわからなくなるほどあっという間に風による寒さが増し、ミュゲットは毛皮を引っ張って口と鼻を覆う。すると腹部に回っていた腕がグッと身体を引き寄せて密着させる。相手の体温を背中で感じることに抵抗を覚えるミュゲットは少し身体を動かして前に移動しようとするがアルフローレンスがそれを許さない。
「ジッとしていろ。怒られるぞ」
「誰にですか?」
「白馬にだ」
思わず笑ってしまいそうになった。この男でも『怒られる』などと冗談を言うのだと。それも馬が怒ると。冗談で言っているのだろうかと振り返るも表情は何も変わっていないため冗談を言っているのかはわからないが、もし冗談で言っているのだとしたらミュゲットはますますアルフローレンスという男がどういう人間なのかわからなくなる。
人の命をそこらの石ころ同然だと思っているだろう人間が優しくなるのはどういうときか──良い風に考えようとしても結局は全て気まぐれでしかないとわかっている。今ここでアルフローレンスを怒らせればミュゲットはまたきっとこの雪原に置いていかれるか、スノークルスを見ることはなく城に引き返すことになる。そしてまた苛立ちをぶつけるように乱暴に抱かれる。
何をするのも何を言うのも全て彼の気まぐれでワガママ。だが、その気まぐれの差が大きすぎてミュゲットは最近混乱することが増えた。
「アルフローレンス」
「なんだ?」
「どうして狩りをせずに見るだけの退屈な行動に付き合ってくださるのですか?」
「お前が言ったのだぞ。見に行こうと言われたほうが嬉しいと」
ミュゲットは驚いた。自分が言った言葉を覚えていたこともそうだが、自分が言ったから今こうしてくれているのだということに。
アルフローレンスは動物を眺める趣味などないだろう。動物を愛でるという心さえ持っていないはず。
男は狩りが好きだというのは父親に聞いたことがある。狩りは高揚感を高める。本能が騒ぐんだと。
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グラキエスは銃に頼るからフローラリアの男たちよりずっと細身。
アルフローレンスは細身に見えるが、脱ぐとなかなかに筋肉質だった。
「……スノークルスを眺められたことは?」
「あるわけないだろう。狩りもせず獲物を眺めるなど時間の無駄だ。余はそれほど暇ではないのだぞ」
「じゃあどうして今日は眺めてくださるのですか?」
「二度言わせるつもりか?」
「いえ、そうではなく……私だけ置いて帰られてはいかがですか?」
「凍えたいと?」
毛皮だけ貸してほしいとは言えない。自分がいらないと言った毛皮だ。暖かさは確認済みでもそれは言えない。
今日はちゃんとブーツを履かせてもらって雪の上に降りられるが、服は相変わらずネグリジェ一枚。部屋から一歩出ただけで身を震わせる寒さを感じるのに雪の中にこれで立っていることはできない。きっと五分も保たないだろう。
「お前が見たいと言ったのだ」
見たいとは一言も言っていない。アルフローレンスが見に行くかと誘うから誘いに乗っただけで両手をあげて喜んでいるわけではないのだが、相手の中ではそうなっているのだろうと反論はしなかった。
「今日は一緒に見てくださるのですか?」
「そうだ。お前のために余の貴重な時間を割いてやるのだ。感謝しろ」
感謝はしない。アルフローレンスは無抵抗のフローラリアを陥落させた男。いわば敵だ。敵に心を絆されることだけはあってはならない。妹のフランのように──
「どうしてここまでしてくださるのですか?」
「理由が必要か?」
「はい」
「言わねばわからぬのか?」
「はい」
「察しの悪い女だ」
なぜそんな言い方しかできないのか。ミュゲットは小さく首を振ってどうでもいいかと追求しなかった。聞いたところでどうでもいい内容だろうと察しはついている。飽きるまでは抱く女と決めているから優遇している。それだけだろうと。
飽きれば城も追い出される。城を追い出されれば行く場所などないのにどうすればと先のことを考えると落ち込む。
「どうした?」
「あ、いえ、何でもありません」
「お前は嘘が下手だな」
「本当に何でもないんです」
「余が聞いてやっているときに言えば叶えてやると言ったのを忘れたのか?」
覚えている。だがそれも気まぐれに決まっている。そしてそこには“なんでも“と付いていない以上、叶えられる内容など限られている。優遇されていると言えど、どこまで叶えてもらえるのかわからないし、無条件ではないかもしれないと思うと容易に口にはできなかった。
「妹を地下牢に再送するか?」
「やめてください」
「庇うのか?」
「庇うとかではなくて……」
「お前はそのままでは不幸の沼から一生這い上がれぬだろうな」
不幸の沼にいるつもりはない。想像もしていなかったフローラリア陥落。両親の自死。捕虜としての生活──不幸と呼ぶにはじゅうぶんかもしれないが、ミュゲットは自分が不幸という言葉を否定するように首を振る。
フランに聞いた話では地下牢にはまだ多くの捕虜がいる。それも自分たちより若い子供まで。そのことを考えれば自分は地下牢で冷えたパンとスープを食べずに済んでいることは幸運とさえ言えるだろう。
苦労なき世界で生きてきた男からすれば上から見る景色は素晴らしいもので、自分より下を生きる人間は全て不幸なのだろうと思った。
「言ってみろ。叶えてやろう」
「……フローラリアに帰りたいです」
無理だとわかっていることをあえて言ったのは未だその願いを諦めきれていないことを伝えたかったから。
フランのようにここで暮らす覚悟などできていない。いつかはフローラリアに帰りたい。あの美しい暖かな場所へ。
「……いいだろう」
「え……?」
予想もしていなかったまさかの返答にミュゲットは勢いよく後ろを振り返った。ありえない返事だ。よく聞こえなかったのではないだろうかと不安になったミュゲットはもう一度聞いてみることにした。
「フローラリアに帰ってもいいのですか?」
「同じことを二度言わせるな」
何度も目を瞬かせるミュゲットをチラッと見てから再び前を向くアルフローレンスが何を考えているのか本当にわからない。
「じゃ、じゃあ……帰ります」
「後日、連絡する」
「はい!」
この男に笑顔など見せるものかと思っていたのに表情が緩むのを止められない。気まぐれでもなんでもいい。フローラリアに帰れるのならもうなんだっていい。気にしない。
殺された兵士はフローラリアの女たちを奴隷にしたと言っていたが、アルフローレンスの話では元から奔放であるという話だったため、強制的になっただけで惨状状態ではないのかもしれないとミュゲットは考える。
奴隷のように強制的ではなかったとしても、自分が見てきた世界とは正反対の世界が作られている現実がそこにある。想像できないこともあって、ミュゲットはあの暖かな場所に帰りたいと思った。
何も残っていないかもしれない。自分が生まれ育った城も思い出がたくさん詰まった部屋も大好きだった美しい景色も全て壊れてしまっているかもしれない。それでも、自分が生まれ育った場所なのだ。
そこで生きて、そこで死にたい。
ミュゲットは儚い願いに目を閉じる。
「いたぞ、スノークルスだ」
アルフローレンスの声に目を開ければ前方に確かにスノークルスの姿が確認できた。人より遥かに大きいその身体にはふわっふわだろう毛を纏っていて触りたくなる。
馬から降りると裸足とは違った感覚にギュッと雪に足を押し付ける。
「雪遊びがしたいのか?」
「え?」
「幼子のような動きをしている」
「こういう靴も靴で踏む雪もはじめてなのでびっくりしただけです」
「雪遊びがしたいのなら付き合ってやるぞ」
「雪遊びってどういうものが──」
聞く前に顔に押し付けられた雪に驚いたミュゲットは時間が止まったように固まる。
(これが雪遊び? 顔に雪を押し付ける悪質な行為が?)
ミュゲットの中で疑問が溢れるが、それを言葉で問いかける前に雪を両手で持ち上げ思いきり投げつけた。
「甘いな」
「ズルい!」
ミュゲットが投げた雪はアルフローレンスの前に突如現れた薄い膜のような氷の壁に阻まれて当たらなかった。
「何度やろうと同じこと。余には当たらぬ」
「こんなの雪遊びじゃない!」
「そんなことはない。遊んでやっているではないか。こうしてな」
「ッ! も~~~~~ッ!」
ミュゲットが何度投げようとアルフローレンスの前に張られた壁に当たるばかりで意味がない。それなのにアルフローレンスが投げる雪は簡単にミュゲットに当たる。なんの嫌がらせなのかはわからないが、必ず顔に当ててくる。
「……もういいです」
「拗ねたのか?」
「拗ねてません」
「そうか。なら気の済むまでスノークルスを眺め──」
これで怒ってまたやり返しても結局は一発も当たらず無駄に体力を消費することになる。ミュゲットは首を振って顔の雪を落とすとそのままアルフローレンスに近付いて抱きついた。
予想していなかったミュゲットの行動に一瞬言葉が止まったアルフローレンスが突如腰に感じた冷たさに目を見開く。
「これで雪遊びはおしまいです」
抱きついた拍子に服の中へと手を滑り込ませ、握り込んでいた雪を腰にくっつけたのだ。
当たらないのなら直接付けるしかないと考えたミュゲットは自分の思惑がその通りになったことに目を細めて自分の番で終わりだと両手を広げて見せた。
「お前は恐れ知らずだな、ミュゲット・フォン・ランベリーローズ」
「最初に仕掛けたのはそっちです」
「後悔するでないぞ」
「もうおしまいです!」
嫌な予感がしてミュゲットはアルフローレンスから距離を取った。
「余からはじめたのだ。余が飽きるまで相手してやろうではないか」
「あなたからはじめたなら私で終わるのがルールでしょ!?」
「余がそのルールだ」
「信じられない! 卑怯者!」
護衛騎士たちは呆気に取られてポカンと開けた口が塞がらなかった。
氷帝アルフローレンスが捕虜の女一人にこれほど構うことは今まで一度だってなかったこと。狩りに行くことは何度かあってもこうして短い間に二度も出るということもなかった。しかも今日は狩りではなくスノークルスをただ眺めに来ただけ。
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「余がお前の雪玉を避けられないと? 随分とナメた口を利くものだな。余を誰だと思っている」
「アルフローレンス・ヴォ・セレン=マクスウェル」
「ヴィ、だ。ヴォなどとみっともない発音に変えるのはやめろ」
「ヴォのほうが素敵ですよ」
「ミュゲット・ヴォン・ランベリーローズでもか?」
そう言われるとミュゲットは雪玉を構えるのをやめて考え込んだ。なんだか妙に聞こえが悪いように感じて眉を寄せながら首を傾げる。濁点が付くだけでこうも変わってしまうのかと自分に置き換えるとわかる。
「素敵だな、ミュゲット・ヴォン・ランベリーローズ」
「訂正し──ッ!」
先に名前を小馬鹿にしたのは自分だと両手を軽く上げて謝ろうとしたミュゲットの顔に雪玉がクリーンヒット。痛くはないが冷たい。
「寒い……」
雪をぶつけていたときはあまり感じなかった寒さを冷静になると途端に感じはじめ、ミュゲットはぶるりと身体を震わせた。
「ミュゲット」
アルフローレンスが少し低めの声で名を呼ぶ。フルネームではなく呼び捨てにするのは別に珍しいことではない。ただ、名前で呼ぶのはベッドの中でだけで人前で呼び捨てにすることはほとんどない。なのに今は呼び捨てにし、どこか怒っているようにも見えた。
今になって急に怒りが込み上げたのだろうかと気まぐれな相手の性格を考えていると
「目を閉じろ」
また殴られるのだろうかと思いながらも置いていかれるよりはマシかと既に男の行動への感覚が麻痺しつつあるミュゲットはその場で立ち止まって目を閉じた。直後、ふわりと包み込まれ、それがアルフローレンスのコートであることはすぐにわかった。温もりがあって匂いがある。こんなことをするために目を閉じさせたのかと今日はどうにも変な感覚になるミュゲットがそーっと目を開けようとすると顔を胸に押しつけられる。
「ッ!? な、なん──ッ!」
獣の声が背後から聞こえ、その距離ほぼゼロ。オオカミの遠吠えより大きく、地鳴りのような音にさえ聞こえるそれがミュゲットの肌をビリつかせる。
何が起こっているのかわからず混乱するミュゲットの耳に次いで聞こえた液体が飛び散る音。大量の液体が壁か何かにぶつかった音だ。雪の上ではない。それが一体なんなのかがわからない。
だが、ミュゲットは鼻につく匂いに肩を撥ねさせる。嗅いだことのある臭い。それもごく最近……
「アルフローレンス……何が……」
「黙っていろ」
美しい白銀の世界に突如血生臭さが広がる。背後から聞こえたのは人の声ではない。あれは獣の声だ。だとすれば可能性が高いのはスノークルス。
ふんふんと大きな鼻を鳴らしながら辺りを見回してはのっそりと歩く。それがスノークルスのイメージだったのだが、もしこの声がスノークルスのだとしたら……ミュゲットの心臓がやけに速く動きだした。
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