愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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事故

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「セシル、本当に大丈夫ですから」
「女の子の手に傷が残ったらどうすんの」
「これぐらいじゃ傷は残りません」
 
 子供ではないのだから擦り傷ぐらいで傷が残ることはない。料理や製菓で切ったり火傷したりは日常茶飯事で、それこそ擦り金で指をガリッと傷つけたこともある。よほど深い傷でない限りは月日と共に薄くなって消えていくのだからと遠慮してもセシルは医務室に着くまで手を離さなかったし、手当てが終わるまで教室には戻らなかった。
 
「セシルは女性が嫌いだと聞きました」
「ヴィンセルでしょ、それ」
「噂ではセシルも、ですね」
 
 カイルが言っていたように、この学園で最も人気の四人は全員婚約者がいない。あの女好きのアルフレッドでさえもだ。
 カイルは適当に流し、ヴィンセルは女から逃げ、セシルは女を無視するというのは有名な話。
 今日接した限りではヴィンセルもセシルも聞いていた噂通りの人物ではなかった。
 女を避けると言われていたヴィンセルは今日、転んだアリスに駆け寄ってくれた。そしてアリスが持っていたハンカチを受け取った。それも自ら借りる形で。
 
「僕はうるさい女性が嫌いなだけ。君はうるさくないし、自分で料理する」
「そういえば…セシルは私が作ったと言ってもどうやって作ったのか疑いませんでしたね?」
「一応軽くは疑ったよ? でも自分で何をどう使ったかって説明してたし、カイルから妹はシェフにも負けない腕を持ってるってずーっと聞いてたから」
「兄がご迷惑おかけしております」
「ホントにね。でも、嘘じゃなかった。美味しかったよ」
 
 素直に嬉しかった。家族に食べてもらっても美味しいと言ってはくれるが、それは家族だから気を遣ってそう言っているのではないかと心の片隅で疑う自分がいた。本当は美味しいと言うほどではないのではないか、イエスともノーとも言えないような味なのではないかと、なんでもネガティブに考えてしまうアリスにとって家族ではない他人に褒めてもらえるのは自信にも繋がる。
 セシルのようになんでもハッキリと言ってしまう人間からの賛辞は特に。
 
「せっかく美味しい物を作り出す手を怪我するのはマズイでしょ」
「すぐ治りますから」
「気を付けてよね。これからも食べたいんだから」
「え?」
 
 大袈裟に巻かれた包帯を見ていたアリスが上げた顔が驚いているのを見てセシルの眉が寄る。
 
「なに? もう食べられないの?」
「い、いえ…そういうわけではなく……これからも、なんて言っていただけると思ってなかったので驚いて……」
「カフェテリアのも美味しいけどさ、新しいシェフのも美味しかったから常連になってあげてもいいなって思ったんだけど……もしかして迷惑だった?」
「まさか! セシルが望んでくれるならなんでも作りますよ」
「言っとくけど、まずい物はまずいって言うから覚悟しといてよ」
「そのほうが嬉しいです」
 
 批判されればきっと落ち込む。でも嘘で褒められるよりずっといいとアリスは人生で初めて覚悟を決めて努力しようと思った。
 同級生でありながらどこか少し年下のように思える愛らしさを持つセシルが噂通りの人ではないと知って少し安心したアリスは初めてできた異性の友人という存在が嬉しかった。
 
「じゃ、また明日」
「ありがとうございました」
 
 廊下までは同じだがクラスが違うためアリスの教室前で手を振って別れると教室に入って思い知る。
 さっきまでの時間は自分が小説の中の主人公に感情移入した際の妄想で、現実はこっちなんだと。
 
「おかえり、アリス」
 
 ティーナの冷たい声に全身が支配されたように冷たくなるのを感じた。
 いっそ無視されたほうが黙っていればいいのだから楽でいられるのにティーナはそれを許さない。
 
「私の声さ、聞こえてたよね? 入り口で怒ってたの聞いてたよね?」
「う、うん……」
「じゃあさ、なんですぐに出てこないの?」
「あ、え、っと……」
「自分の立場利用してヴィンセル様を独り占めしたかったわけ?」
「そんなことない! 独り占めなんてしてない!」
 
 敵を作るようなことを大声で言うのは悪意か、それとも怒りからの突発的なものか。アリスは慌てて否定してティーナの机に手をつこうと手を伸ばすもまた強く叩かれて拒絶されてしまう。
 ティーナは沸点が低く、すぐに怒りに変えるがすぐに笑うほうでもあった。
 それが今回に限っては笑ってはくれず、沸々と湧き続ける怒りにアリスはティーナの目を直視することができない。
 
「せっかく早起きして焼いたのにアンタのせいで渡せなかったじゃん! どうしてくれんの?」
「どうしろっていうの……?」
 
 クラスメイトの中にはティーナ同様に怒りの目をアリスに向けている者もいた。ティーナから歪曲された話を聞いてアリスに怒っているのだろう。
 ティーナは人と話すのが好きで人を惹きつけるのが上手い。そのため嘘を本当のように話すことが得意で、皆がそれを真実だと信じてしまうのだ。
 焼いたのはティーナではなくシェフで、渡せなかったのではなく受け取ってもらえなかった事実もあの場にクラスメイトの目撃がないのであれば真実はティーナの言葉になってしまう。
 
「セシル様まで呼んでさ、ズルいよね。皆がセシル様と話したがってるのに生徒会長の妹だからって図々しく庭園に入り浸ってさ。お昼はずっと一緒に食べようって約束まで破られて私すごい傷付いたんだから」
「本当にごめんなさい」
「アリスって友情を取るタイプだと思ってたけど男を取るタイプだったんだね。でもさ、少し優しくされたからって勘違いしないほうがいいよ。どうせカイル・ベンフィールドの妹だからって気にかけてもらっただけだろうし」
 
 ティーナが笑えば皆が笑う。誰一人としてその場で『やめろ』と庇う者はいない。
 
「わかってる」
「あっそ、ならいいの」
 
 カイル・ベンフィールドの妹だから気にかけてくれているのは間違いない。そうでなければセシルは自分の作ったパンなど食べなかっただろうし、ヴィンセルも転んだからと助けなかっただろう。
 
(言われなくても私が一番よくわかってることだもの……)
 
 セシルの優しさもヴィンセルの優しさも全てカイル・ベンフィールドという完璧な兄のおかげなのだ。
 
「アリスのそういう素直なところ、大好きよ」
 
 抱きついてきたティーナに身体が硬直したのは耳元でティーナの小さな笑い声が聞こえたから。
 
「明日、昨日とは違うパン焼いてきなさいよ。ちゃんとビニールに入れてね」
 
 それが何を意味するのか、アリスはすぐに察した。
 
「うん」
 
 本音を隠して笑顔で答えるアリスに満足げな笑みを浮かべて席に戻ったティーナは上機嫌になっていた。
 好きならシェフに習って自分で焼けばいい。それでも潔癖症のヴィンセルは受け取ってくれないかもしれない。受け取るか否かは相手の自由なのだから拒まれたって仕方ない。それでも相手を思って一から全部自分でやったのだと伝えることはできる。そこにセシルがいたとしても自分でやったのなら答えられる。そうすれば少しは見直してもらえるかもしれないのに、そんな努力さえしようとしないティーナがヴィンセルのことをどこまで本気なのか、アリスにはわからなかった。
 
  それから放課後までアリスはティーナと一言も話さなかった。
 
「アリス、今日は一緒に帰らないから一人で帰って」
「あ、うん」
「じゃあまた明日ね」
「また明日」
 
 用ことがあるからとかではなく、あくまでも自分が一緒に帰る気がないとわかりやすく伝えてくるティーナの意地の悪さも今のアリスには救いだった。
 気分屋のティーナと一緒にいるのは疲れる。
 今はティーナと一緒にいるより一人で今後の歩き方を考えたかった。
 
「ヴィンセル様ぁ! お待ちになって~!」
 
 今日も聞こえる盛大な足音。それでも今のアリスは明日からどう過ごせばいいのか考えるので頭がいっぱいで、ヴィンセルを目で追おうとはしない。
 パンを焼いて、それをティーナに渡せばティーナはまるで自分が焼いたかのような口ぶりでヴィンセルに渡そうとするのだろう。
 馬車の中で使った物と手順を聞いてくるはず。口で言っても覚えられないだろうからメモを作る必要がある。
 親友が恋をしているのだからその手伝いをしていると思えばいい。恋愛小説にだって主人公の背中を押す親友がいる。だから自分は主人公ではなくその親友になって協力していると思えばいいと自分に言い聞かせようとしても、やりたくないと思う自分がいる。

『楽して手に入れた物に価値はないのだよ、アリス』

 父親の口癖だ。
 だから使用人がどれだけいようとも自分のことは自分でする決まりがベンフィールド家にはある。
 使用人に頼っていれば路頭に迷ったときも困らず生きていける。
 料理の仕方、掃除の仕方、物の値、市場の動き、平民たちの暮らし、遊び──色々なことをその目で見なさいと言われた。
 物は注文して運ばれてくるため、アリスは兄と一緒に街に降りて買い物をすることもあった。平民たちの給料がいくらで、生活に必要な物の値はいくらなのかと勉強したこともある。
 パンを作るのは楽なようで楽ではない。その日の気温や湿度に合わせて分量や休ませる時間を変えなければならないし、焼き上げる時間や温度もそう。
 何事にも努力が必要。恋だってそれと同じだとアリスは思っている。
 自分は恋と言うにはまだ幼い気持ちしかなく、これが恋だと言い切れない。憧れから抜け出せない恋に恋しているだけなのかもしれないとさえ思っているのだ。
 だが、ティーナは好きだとハッキリ言った。それなのに努力しようとしないのはなぜか──それだけは何度考えてもわからない。
 こうしてキャアキャアと騒ぎながら追いかける令嬢たちをバカにするくせに一人で十人分の大騒ぎをしながら門番に食ってかかっていく。
 嫌がっているとわかっていながら追いかける令嬢たちと同じことをしたくせにとアリスは悪態を吐きたくなった。
 
「厄介な人を好きになった…か」
 
 友人に言われた言葉に今更納得する。
 相手は王子で、ゲイ疑惑があるほど女性を近付けさせず逃げ回る。まともに話をしたことがある人物はカイル、セシル、アルフレッドの三人だけ。女教師でさえ逃げられると聞く。
 一言二言話せたのが自分だけだとしてもそこにはティーナの言う通り“カイル・ベンフィールドの妹”があるからであって、自分の魅力で話ができたわけではない。
 しかし、アリスの人生の中で最も厄介なのはヴィンセル・ブラックバーンに恋をしたということよりも、ティーナの想い人であるということ。
 カイル・ベンフィールドの妹であるから話をしてくれるとティーナは言いきったが、それがあって会話しているのだとしても気に入らない顔をすることは想像に容易い。
 自分も話さなければとむりやり割り込んで相手の表情など気にもせず自己アピールに走るに違いない。
 パンを押し付けられたときのヴィンセルの表情は何かおぞましいものでも見たかのようにゾッとしていた。それでもティーナはおかまいなしに受け取ってほしいと駄々をこね続けた。
 
(強気と傲慢は全く別物だよ、ティーナ)
 
 何一つ自分から行動しないアリスからすれば自分で動くティーナはすごい。
 カフェテリアで言っていたようにティーナはアリスというチャンスを使った。親友なのだからいいだろうという傲慢さもアリスが許してしまえば通るのだ。ティーナはそれをよくわかっている。
 こんなことを言えば怒られてしまうだろうから実際に両者に言ったことはないのだが、カイルとティーナはよく似ている。
 使うべき瞬間はいつなのか、使える者は誰なのか、どう使えばいいのかまで全て把握した上で人と接している。
 アリスにはそれができない。
 
(嫌だって断ることがどうしてできないんだろ)
 
 たった一言なのに、それが言えない。幼い頃からそうだった。両親の言葉にも兄の言葉にも嫌だと言えずに生きてきた。それは今もあまり変わっていなくて、穏便に済ませたいから自分が我慢すればいいと思っている。
 アリスの人生において“平和”というのは精神状態を安定に保つために必要不可欠。それを引っ掻きまわすティーナと親友を続けていることは矛盾だとわかっていても離れられない。  
 共依存のように見えて依存しているのは自分だけ。それもアリスはわかっている。
 
(でももし強く言い返したらティーナは離れていっちゃう気がする)
 
 利用してくる友達は友達じゃない。縁を切ってしまえばいい。そんな簡単な理屈は何百回と頭に浮かんだ。
 カイルはティーナを嫌っているため縁切りの相談をすれば一秒かからずイエスと答えるだろうから何百回と頭に浮かんだことも相談はしていない。何百回もの全てを胸に留めてきた。
 しかし、今までと今では状況が変わりつつある。
 今まではこんなに酷い利用の仕方はなかった。それがこの学園に入ってから徐々に変わり始めたのだ。
 成長すれば人は賢くなる。正しい賢さやズルい賢さなどいろいろ出てくる。ティーナはその賢さをズルに使うようになった。ワガママなおねだりだけではなく、脅しに使うことも増えた。
 
(私の人生にティーナは本当に必要なの?)

 改めて自分自身に問いかける。
 この瞬間、今までとは違った感情が胸に込み上げていることに気付いたから。
 考えた末に自分の胸の中だけで終わらせるのではなく、まずはカイルに相談することから始めるべきなのではないかと。
 
「いつか、自分が本気で変わりたいと思う日が来たら、そのときはまず鏡を見て自分に誓いなさい。今日から私は変わるのだと」
 
 大好きな小説のヒロインの台詞を呟いたアリスは立ち止まって手鏡を取り出した。誰でもない自分に誓う。変わるのは自分。人の力ではなく自分の力で変わるのだと息を吸い込んて鏡の中の自分と見つめ合い口を開いた。
 
「本当に今日は忙しいんだ!」
「そんな冷たいことおっしゃらないで受け取ってくださいませ! ヴィンセル様ぁ!」
「だから今日は用ことがあって———なッ!?」
 
 ドドドドドドドドドッと近くなる地鳴りの音に振り向いたアリスは目の前にできた壁に目を見開いたときには既に遅く———
 
「キャアアアアアッ! ヴィンセル様ッ!」
 
 全身が吹き飛ぶ感覚に痛みはなく、ただ世界がスローモーションで動いているように見えた。
 手から離れて宙を舞う鏡。驚いた顔のヴィンセル・ブラックバーン。そして令嬢たちが合唱のようにヴィンセルの名を呼ぶ声が響き渡るのがやけにハッキリと聞こえていた。
 
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