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何かを記していたのだろうノートを閉じて爽やかな笑顔を浮かべる兄にアリスはそっとヴィンセルから距離を取ってカイルの傍に回る。
ヴィンセルとぶつかってからのカイルは監視が厳しくなり、笑顔も威圧感が強くなった。
子供の頃からアリスの周りに男がいることが許せず、様々な手で妨害行為を行ってきた。相手にアリスへの好意がなくとも。
ヴィンセルはアリスと絡むことがなかったから穏やかな関係でいられたが、今回ばかりはカイルの中でそうもいかない事情に変わったこともあり、多忙の中こうして二人の前に現れた。
「ど、どうしたんだ?」
「いやなに、さっきこの場にいた令嬢たち全員の名前を記しただけだ」
「……わかるのか?」
「全校生徒の顔と名前は全てここに入っている」
トントンとこめかみを叩くカイルの頭の中にどれほどの情報が入っているのか想像したことは一度もない。
だが、カイルはいつも何かしらの情報をあげてはそれを有利に使っていく。だから教師さえカイルには逆らえない。
今回もそうするのだろうと笑顔に狂気さえ感じ、若干引き気味の笑顔を浮かべながらアリスを見れば、何も言わないほうがいいと言わんばかりにカイルの隣で小さく首を振っていた。
カイルの狂気は毎日一緒に過ごしているアリスが一番よく知っている。
こういう笑顔を見せているとき下手に発言すべきではないと三年の付き合いでヴィンセルも知っているため、咳払いを一つした。
「カイル、そのメモをどうするんだ?」
「然るべき行動に出るときに使うだけだ」
「お、お兄様、私は怪我もしていませんので———」
「当然だ」
アリスが怪我の一つでもしていたら今頃カイルは何をしているかわからない。
子供の頃のあの件もカイルにとっては相手を病院送りにしたことも大事件ではなく、至極当然の行為としか思っていないだけにカイルがキレるということだけは避けたかった。
「アリス、腕が治るまでいっそ自宅学習に切り替えるのはどうだ?」
突然の提案に驚きを顔に出すも、なぜそんなことを言いだしたのかは聞かずともわかる。それはアリスのためでもあり、カイル自身のためでもあるのだ。
カイルにとってアリスは目に入れても痛くない、世界で一番大切な存在。母や父よりも優先して守るべき存在だと思っている。
だからこそ変な虫が寄りつくのは避けたく、それから守るのは自分の役目と勝手な使命を課してきた。
「カイル、それは———」
「ヴィンセル、いくらアリスがアボット姉妹と一緒にランチに行くからと言っても、そこまで送るのがお前の役目じゃないのか?」
真剣な声色にヴィンセルは黙り込んだ。
今まで女を避け続けてきたヴィンセルが女を傍に置いている。置いているだけならいいが、教室まで迎えに行き、送迎を共にしていると知ればその女を気に入らないと思う令嬢がいて当たり前。皆がヴィンセルにそうしてほしいと思っているし、そういう相手になりたいと願っているのだから。
ヴィンセルにぶつかって怪我をしたらそうしてもらえるのだと思い、行動に出る令嬢が出てくるかもしれない。
今回たまたまアボット姉妹が一緒だったため大事にはならなかったが、もしこれがアリス一人で大勢に囲まれ、アリスに怪我が、一度でも頬を打たれるようなことがあればカイルは黙っていなかっただろう。
これからまたこんなことがないとは言いきれない。そのとき、今回のように駆け付けられるとも限らず、今回のことは間違いなく自分のせいだと自覚があるヴィンセルは反論できなかった。
「お兄様、おやめください」
「アリスも黙っていろ」
「いいえ、お兄様。黙るのはお兄様のほうです」
「アリス……?」
初めて言われた言葉にカイルがひどく驚いた表情を見せる。
今まで何があっても絶対に逆らわなかった妹が黙れと言った衝撃に固まるカイルをヴィンセルが心配する。
「ヴィンセル様はご自分の不注意だと言ってくださいますが、本当は私の不注意なんです。道の真ん中で立ち止まっていたから。あそこが彼が追いかけられるいつもの通り道だとわかっていたのに。そこに立っていたのをワザとだと言いたくなる彼女たちの気持ちはわかりますし、怒ってもいないんです。手首の捻挫もすぐ良くなります。私の不注意で起きたことでヴィンセル様にご迷惑をおかけし、ナディア様とアリシア様にもご迷惑をお掛けすることになってしまいました」
「あら、わたくしたちは結構楽しんでいましたのよ。ねえ、アリシア?」
「ええ、そうですわ。だって彼女、本当に面白い方ですもの」
笑顔で意味深な言い方をする二人に瞬きをして頷きだけ返すとアリスはもう一度カイルに顔を向ける。
「ですから──お、お兄様ッ!?」
脅迫になど使わないでほしいと言おうとしたアリスの目に飛び込んできた光景にアリスは驚きの声を上げる。
「カ、カイル?」
目から滝のような涙を流すカイルが真っ直ぐアリスを見つめて立ち尽くしている。
弱音一つ吐くことがなかったカイルがここまで泣くのは異常だとしか思えず、アリスとヴィンセルは思わず顔を見合わせた。
「兄様のことが嫌いになったのか……?」
「ま、まさか! そんなことありません!」
「お前は兄様に黙れなんて言う子じゃなかったじゃないか……」
「そ、それは言いすぎました。すみません」
「兄様はお前のためを思って言ったんだ。お、お前に嫌われたら兄様は生きていけない……」
大の男が本気で泣いていると若干引いているヴィンセルとは反対にアリスは申し訳ないことをしたと言わんばかりの表情で両手を伸ばして兄の手を強く握った。
「ごめんなさい、お兄様。言いすぎました」
アリスが人に強く言えないのは兄の教育のせいなのではないかとヴィンセルとアボット姉妹は疑う。
自分の意思を持って発言する大切さをカイルは潰してきたのだ。自分が守りやすいように、絶対に守れるようにとアリスの自我を潰し、人の顔色を窺わせるよう意図的にそう育てたような気がした。
誰かが敷いてくれるレールの上を走ることほど楽なことはない。自分で考える必要はなく、失敗もない。自分で考えて行動すると失敗するかもしれないと考えたとき、完璧な兄の言うことに従っていれば間違いないと思ってしまうだろうと。
カイルはそれを望み、アリスは意図せずそのレールの上を走ってしまっている。
「兄様のこと嫌いになったのか?」
「いいえ、嫌いになどなっていません」
「兄様のこと、まだ好きでいてくれるか?」
「ええ、大好きです」
「本当か?」
「もちろんです」
カイルが涙を拭って少し屈むとアリスはそのまま頬に軽く口付けた。
(なるほどな)
カイルの中でアリスは幼い頃で止まっているのだとヴィンセルは浮かんでいた疑問の解を見つけた。
目に入れても痛くない、食べてしまいたいと言うのは親ばかりだと思っていたが、兄でも姉でもそれは同じで、カイルもそうだった。
子供の頃から繰り返していた行為を成長しても繰り返し続ければいつまでもあの頃のままでいられる。可愛い妹はいつまでも可愛いままで、ずっと兄を好きだと言ってくれる。嫁にも行かず自分の傍で『お兄様』と呼んで笑っていてくれる可能性を作りたいのだ。
妹が生まれて兄としての自覚が芽生えたときに見た輝かしい世界はいつまでもカイルをそこに縛り付け、それはアリスまでもを縛り付けることとなってしまった。
アリスが苦痛に感じていなければいいがと心配しながらも、大好きだと言うアリスの笑顔に嘘はなさそうだと安堵もしていた。
「よし、じゃあ自宅学習に切り替えよう」
嘘泣きだったかのようにパッと笑顔に切り替わるカイルにヴィンセルが『待ってくれ』と手を上げる。
「俺は彼女と話がしたい」
「ランチの時に話せばいい」
「いや、それだけじゃなくて……」
「二人きりでなければ話せないことなどないだろう?」
「それは……そう、だが……」
相手を知る話に二人きりになる必要はない。そう言われてしまえば返す言葉もないのだが、カイルがいるとカイルが答えてしまい、誇張されている部分も多くある。
ヴィンセルはアリスの言葉でアリスのことを知りたいと思っていた。
「お兄様、私はここにはお友達もいます。手首を怪我しただけで自宅学習に切り替えるのはあまりにも大袈裟です」
「兄様の考えには反対か?」
「今回のことに関しては反対です」
「アリスは兄様のこと……」
「お兄様」
「すまない」
カイルが落ち込めばなんでも通用するわけではないというのも新しい発見ではあるものの、それはアリス個人のことではないため新情報という感じはない。
「お前はヴィンセルに送迎してほしいのか?」
「いいえ。感謝はしていますが、申し訳ないんです。でもそうしていただくことでヴィンセル様の中に少しでも罪悪感が残らなくなるのであれば治るまで送迎していただこうと思っています」
はなからわかっていたことだが、喜ばれていないという事実の再確認がまたヴィンセルを傷つける。
「お前が断ったからといってそれをいつまでも罪悪感にするのはヴィンセル個人の処理能力の問題であってお前のせいじゃない」
吐き捨てるような言い方に苦笑も浮かばないヴィンセルはゴホンッと咳払いをしてからカイルを見た。
「学長に頼んで彼女の予定を合わせてもらうのはどうだろうか?」
「ふざけるなよ、ヴィンセル。お前がアリスの予定に合わせろ」
「お兄様無茶言わないでください! ヴィンセル様はとても多忙なんですよ!?」
どこの世界に一般貴族の予定に王子が合わせろと言う者がいるのか。
ヴィンセルは学生生活だけではなく王子としての公務があり、騎士としての任務や稽古もある。
そんな多忙な人間に暇な女のスケジュールに合わせろと言いきるカイルの手を引っ張るも逆に引っ張り返されて腕の中に抱き込まれてしまう。
「俺の可愛い妹を傷つけたバカに拒否権なんかあるか」
「バカって……」
「言っておくが、お前より俺の方が忙しいからな」
生徒会には充分な人がいる。だがその中には当然仕事が遅い者もいて、カイルの判断一つで簡単にクビされてしまう。
カイルは仕事をする際、最初から最後まで道筋ができていて、それを邪魔するように横切る者は誰であろうと許さない。その暴君に誰も逆らえないのはその道筋通りにカイルが歩けば人手不足になっても大変さを感じさせないだけの仕事をカイルがしてしまうから。
一人で三人分以上の仕事をこなすカイルは学校だけではなく家にまで仕事を持ち帰るため、その忙しさと努力はヴィンセルも認めている。
「あまり無茶を言うお兄様は好きではありません」
嫌いだと言わないだけでその可能性があることを示唆するアリスにカイルの目にまたじわりと涙が滲む。
「あまり無茶を言わないでください」
それでもアリスは慌てず首を振って念を押す。
「アリスに嫌われたらお前を一生恨んで末代まで祟るからな」
「王族を祟るなよ」
「そうだよ。もしかすると弟になるかもしれない相手だよ?」
「アルフレッド様ッ!」
後ろから聞こえたアルフレッドののんびりとした声に三人が振り向くと今日は花たちはいなかった。
ナディアの次はアリシアが感動の悲鳴を上げる。
「誰が弟になるって?」
「ヒッ!」
暗殺者のように一瞬で間合いを詰めたカイルの手にはボールペンが逆さに握られており、その芯は確かにアルフレッドの喉に当たっていた。
少しでも選択肢を間違えば黒のインクではなく赤のインクが喉から飛び出すのは間違いないとアルフレッドはゆっくり両手を上げる。
「あはっ…あはは……誰、だろうね?」
「うちに弟は必要ない」
「そうだねそうだねそうだね! いらないよね! 弟反対!」
必死に賛成してようやくボールペンが喉から離れるとインクがついていないかと鏡を出して確認する。
結構な力で押し付けられていたのは芯の痕を見ればよくわかる。黒いインクと凹みが軽くではないことを物語っていた。
「今日はお花たちはどうした?」
「今日は一人になりたい気分だったから遠慮してもらったんだ」
「病気か?」
「医者に診てもらった方がいいんじゃないか?」
「医者も暇じゃないんだよ」
「ひどくない? 三人ともひどくない? 俺だって人間だよ? 心はあるんだよ?」
アルフレッドが来た瞬間にサッとハンカチを取り出して押し当てるヴィンセルを見るもカイルがいる以上、寄り添うことができない。
自分が傍にいることでその苦しみが少しでも楽になってくれるならそれでいい。
アリスは自分の中でこれが恋なのかどうか、まだ確定的ではない。だからヴィンセルが傍にいることが天国で、手首が完治次第終わりがくることが地獄とも言えなかった。
あまり苦しまないでほしいと願うアリスは、渡したハンカチで落ち着いてくれていることを願っていた。
「ちょっと! どいつもこいつも私を無視してんじゃないわよ!」
響き渡るティーナの声に誰も、アリスさえもティーナがまだずっとそこに立っていることに気付いていなかった。
ヴィンセルとぶつかってからのカイルは監視が厳しくなり、笑顔も威圧感が強くなった。
子供の頃からアリスの周りに男がいることが許せず、様々な手で妨害行為を行ってきた。相手にアリスへの好意がなくとも。
ヴィンセルはアリスと絡むことがなかったから穏やかな関係でいられたが、今回ばかりはカイルの中でそうもいかない事情に変わったこともあり、多忙の中こうして二人の前に現れた。
「ど、どうしたんだ?」
「いやなに、さっきこの場にいた令嬢たち全員の名前を記しただけだ」
「……わかるのか?」
「全校生徒の顔と名前は全てここに入っている」
トントンとこめかみを叩くカイルの頭の中にどれほどの情報が入っているのか想像したことは一度もない。
だが、カイルはいつも何かしらの情報をあげてはそれを有利に使っていく。だから教師さえカイルには逆らえない。
今回もそうするのだろうと笑顔に狂気さえ感じ、若干引き気味の笑顔を浮かべながらアリスを見れば、何も言わないほうがいいと言わんばかりにカイルの隣で小さく首を振っていた。
カイルの狂気は毎日一緒に過ごしているアリスが一番よく知っている。
こういう笑顔を見せているとき下手に発言すべきではないと三年の付き合いでヴィンセルも知っているため、咳払いを一つした。
「カイル、そのメモをどうするんだ?」
「然るべき行動に出るときに使うだけだ」
「お、お兄様、私は怪我もしていませんので———」
「当然だ」
アリスが怪我の一つでもしていたら今頃カイルは何をしているかわからない。
子供の頃のあの件もカイルにとっては相手を病院送りにしたことも大事件ではなく、至極当然の行為としか思っていないだけにカイルがキレるということだけは避けたかった。
「アリス、腕が治るまでいっそ自宅学習に切り替えるのはどうだ?」
突然の提案に驚きを顔に出すも、なぜそんなことを言いだしたのかは聞かずともわかる。それはアリスのためでもあり、カイル自身のためでもあるのだ。
カイルにとってアリスは目に入れても痛くない、世界で一番大切な存在。母や父よりも優先して守るべき存在だと思っている。
だからこそ変な虫が寄りつくのは避けたく、それから守るのは自分の役目と勝手な使命を課してきた。
「カイル、それは———」
「ヴィンセル、いくらアリスがアボット姉妹と一緒にランチに行くからと言っても、そこまで送るのがお前の役目じゃないのか?」
真剣な声色にヴィンセルは黙り込んだ。
今まで女を避け続けてきたヴィンセルが女を傍に置いている。置いているだけならいいが、教室まで迎えに行き、送迎を共にしていると知ればその女を気に入らないと思う令嬢がいて当たり前。皆がヴィンセルにそうしてほしいと思っているし、そういう相手になりたいと願っているのだから。
ヴィンセルにぶつかって怪我をしたらそうしてもらえるのだと思い、行動に出る令嬢が出てくるかもしれない。
今回たまたまアボット姉妹が一緒だったため大事にはならなかったが、もしこれがアリス一人で大勢に囲まれ、アリスに怪我が、一度でも頬を打たれるようなことがあればカイルは黙っていなかっただろう。
これからまたこんなことがないとは言いきれない。そのとき、今回のように駆け付けられるとも限らず、今回のことは間違いなく自分のせいだと自覚があるヴィンセルは反論できなかった。
「お兄様、おやめください」
「アリスも黙っていろ」
「いいえ、お兄様。黙るのはお兄様のほうです」
「アリス……?」
初めて言われた言葉にカイルがひどく驚いた表情を見せる。
今まで何があっても絶対に逆らわなかった妹が黙れと言った衝撃に固まるカイルをヴィンセルが心配する。
「ヴィンセル様はご自分の不注意だと言ってくださいますが、本当は私の不注意なんです。道の真ん中で立ち止まっていたから。あそこが彼が追いかけられるいつもの通り道だとわかっていたのに。そこに立っていたのをワザとだと言いたくなる彼女たちの気持ちはわかりますし、怒ってもいないんです。手首の捻挫もすぐ良くなります。私の不注意で起きたことでヴィンセル様にご迷惑をおかけし、ナディア様とアリシア様にもご迷惑をお掛けすることになってしまいました」
「あら、わたくしたちは結構楽しんでいましたのよ。ねえ、アリシア?」
「ええ、そうですわ。だって彼女、本当に面白い方ですもの」
笑顔で意味深な言い方をする二人に瞬きをして頷きだけ返すとアリスはもう一度カイルに顔を向ける。
「ですから──お、お兄様ッ!?」
脅迫になど使わないでほしいと言おうとしたアリスの目に飛び込んできた光景にアリスは驚きの声を上げる。
「カ、カイル?」
目から滝のような涙を流すカイルが真っ直ぐアリスを見つめて立ち尽くしている。
弱音一つ吐くことがなかったカイルがここまで泣くのは異常だとしか思えず、アリスとヴィンセルは思わず顔を見合わせた。
「兄様のことが嫌いになったのか……?」
「ま、まさか! そんなことありません!」
「お前は兄様に黙れなんて言う子じゃなかったじゃないか……」
「そ、それは言いすぎました。すみません」
「兄様はお前のためを思って言ったんだ。お、お前に嫌われたら兄様は生きていけない……」
大の男が本気で泣いていると若干引いているヴィンセルとは反対にアリスは申し訳ないことをしたと言わんばかりの表情で両手を伸ばして兄の手を強く握った。
「ごめんなさい、お兄様。言いすぎました」
アリスが人に強く言えないのは兄の教育のせいなのではないかとヴィンセルとアボット姉妹は疑う。
自分の意思を持って発言する大切さをカイルは潰してきたのだ。自分が守りやすいように、絶対に守れるようにとアリスの自我を潰し、人の顔色を窺わせるよう意図的にそう育てたような気がした。
誰かが敷いてくれるレールの上を走ることほど楽なことはない。自分で考える必要はなく、失敗もない。自分で考えて行動すると失敗するかもしれないと考えたとき、完璧な兄の言うことに従っていれば間違いないと思ってしまうだろうと。
カイルはそれを望み、アリスは意図せずそのレールの上を走ってしまっている。
「兄様のこと嫌いになったのか?」
「いいえ、嫌いになどなっていません」
「兄様のこと、まだ好きでいてくれるか?」
「ええ、大好きです」
「本当か?」
「もちろんです」
カイルが涙を拭って少し屈むとアリスはそのまま頬に軽く口付けた。
(なるほどな)
カイルの中でアリスは幼い頃で止まっているのだとヴィンセルは浮かんでいた疑問の解を見つけた。
目に入れても痛くない、食べてしまいたいと言うのは親ばかりだと思っていたが、兄でも姉でもそれは同じで、カイルもそうだった。
子供の頃から繰り返していた行為を成長しても繰り返し続ければいつまでもあの頃のままでいられる。可愛い妹はいつまでも可愛いままで、ずっと兄を好きだと言ってくれる。嫁にも行かず自分の傍で『お兄様』と呼んで笑っていてくれる可能性を作りたいのだ。
妹が生まれて兄としての自覚が芽生えたときに見た輝かしい世界はいつまでもカイルをそこに縛り付け、それはアリスまでもを縛り付けることとなってしまった。
アリスが苦痛に感じていなければいいがと心配しながらも、大好きだと言うアリスの笑顔に嘘はなさそうだと安堵もしていた。
「よし、じゃあ自宅学習に切り替えよう」
嘘泣きだったかのようにパッと笑顔に切り替わるカイルにヴィンセルが『待ってくれ』と手を上げる。
「俺は彼女と話がしたい」
「ランチの時に話せばいい」
「いや、それだけじゃなくて……」
「二人きりでなければ話せないことなどないだろう?」
「それは……そう、だが……」
相手を知る話に二人きりになる必要はない。そう言われてしまえば返す言葉もないのだが、カイルがいるとカイルが答えてしまい、誇張されている部分も多くある。
ヴィンセルはアリスの言葉でアリスのことを知りたいと思っていた。
「お兄様、私はここにはお友達もいます。手首を怪我しただけで自宅学習に切り替えるのはあまりにも大袈裟です」
「兄様の考えには反対か?」
「今回のことに関しては反対です」
「アリスは兄様のこと……」
「お兄様」
「すまない」
カイルが落ち込めばなんでも通用するわけではないというのも新しい発見ではあるものの、それはアリス個人のことではないため新情報という感じはない。
「お前はヴィンセルに送迎してほしいのか?」
「いいえ。感謝はしていますが、申し訳ないんです。でもそうしていただくことでヴィンセル様の中に少しでも罪悪感が残らなくなるのであれば治るまで送迎していただこうと思っています」
はなからわかっていたことだが、喜ばれていないという事実の再確認がまたヴィンセルを傷つける。
「お前が断ったからといってそれをいつまでも罪悪感にするのはヴィンセル個人の処理能力の問題であってお前のせいじゃない」
吐き捨てるような言い方に苦笑も浮かばないヴィンセルはゴホンッと咳払いをしてからカイルを見た。
「学長に頼んで彼女の予定を合わせてもらうのはどうだろうか?」
「ふざけるなよ、ヴィンセル。お前がアリスの予定に合わせろ」
「お兄様無茶言わないでください! ヴィンセル様はとても多忙なんですよ!?」
どこの世界に一般貴族の予定に王子が合わせろと言う者がいるのか。
ヴィンセルは学生生活だけではなく王子としての公務があり、騎士としての任務や稽古もある。
そんな多忙な人間に暇な女のスケジュールに合わせろと言いきるカイルの手を引っ張るも逆に引っ張り返されて腕の中に抱き込まれてしまう。
「俺の可愛い妹を傷つけたバカに拒否権なんかあるか」
「バカって……」
「言っておくが、お前より俺の方が忙しいからな」
生徒会には充分な人がいる。だがその中には当然仕事が遅い者もいて、カイルの判断一つで簡単にクビされてしまう。
カイルは仕事をする際、最初から最後まで道筋ができていて、それを邪魔するように横切る者は誰であろうと許さない。その暴君に誰も逆らえないのはその道筋通りにカイルが歩けば人手不足になっても大変さを感じさせないだけの仕事をカイルがしてしまうから。
一人で三人分以上の仕事をこなすカイルは学校だけではなく家にまで仕事を持ち帰るため、その忙しさと努力はヴィンセルも認めている。
「あまり無茶を言うお兄様は好きではありません」
嫌いだと言わないだけでその可能性があることを示唆するアリスにカイルの目にまたじわりと涙が滲む。
「あまり無茶を言わないでください」
それでもアリスは慌てず首を振って念を押す。
「アリスに嫌われたらお前を一生恨んで末代まで祟るからな」
「王族を祟るなよ」
「そうだよ。もしかすると弟になるかもしれない相手だよ?」
「アルフレッド様ッ!」
後ろから聞こえたアルフレッドののんびりとした声に三人が振り向くと今日は花たちはいなかった。
ナディアの次はアリシアが感動の悲鳴を上げる。
「誰が弟になるって?」
「ヒッ!」
暗殺者のように一瞬で間合いを詰めたカイルの手にはボールペンが逆さに握られており、その芯は確かにアルフレッドの喉に当たっていた。
少しでも選択肢を間違えば黒のインクではなく赤のインクが喉から飛び出すのは間違いないとアルフレッドはゆっくり両手を上げる。
「あはっ…あはは……誰、だろうね?」
「うちに弟は必要ない」
「そうだねそうだねそうだね! いらないよね! 弟反対!」
必死に賛成してようやくボールペンが喉から離れるとインクがついていないかと鏡を出して確認する。
結構な力で押し付けられていたのは芯の痕を見ればよくわかる。黒いインクと凹みが軽くではないことを物語っていた。
「今日はお花たちはどうした?」
「今日は一人になりたい気分だったから遠慮してもらったんだ」
「病気か?」
「医者に診てもらった方がいいんじゃないか?」
「医者も暇じゃないんだよ」
「ひどくない? 三人ともひどくない? 俺だって人間だよ? 心はあるんだよ?」
アルフレッドが来た瞬間にサッとハンカチを取り出して押し当てるヴィンセルを見るもカイルがいる以上、寄り添うことができない。
自分が傍にいることでその苦しみが少しでも楽になってくれるならそれでいい。
アリスは自分の中でこれが恋なのかどうか、まだ確定的ではない。だからヴィンセルが傍にいることが天国で、手首が完治次第終わりがくることが地獄とも言えなかった。
あまり苦しまないでほしいと願うアリスは、渡したハンカチで落ち着いてくれていることを願っていた。
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