愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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戸惑い

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「ヴィンセル、様……」

 彼が見せる表情でわかる。二人のキスを見ていたのだと。
 アリスは焦りはしないが気まずさを感じており、セシルにいたっては驚きも焦りもなくヴィンセルに歩み寄っていく。
 地面にばらまかれた書類を一枚ずつ拾い集めるのをヴィンセルは見ているしかできなかった。

「はい、これ。このままじゃバラバラだから、カイルに渡す前にちゃんと順番整えたほうがいいよ。カイル今、すっごく機嫌悪いから」
「あ、ああ……」

 ヴィンセルの前に書類を差し出すとそれを受け取りはするが、いつもの表情とは違う。
 戸惑いに満ちた表情で立ち尽くしている。
 
「行こう、アリス。時間ないから今日はあそこ行けないや。教室で食べよう」
「あ、うん」

 廊下から呼ばれたアリスはヴィンセルが立っているカイルがドアを壊した前方からではなく、リオが連れて行かれた後方のドアから廊下へと出る。
 セシルに手を引かれて小走りで教室へと戻るアリスをヴィンセルは声をかけることもできずに見送った。

「そう、か……」

 セシルはもともとアリスが好きだと言っていた。それはヴィンセルとアルフレッドだけに話していた秘密の想いではなく、本人にも本人の兄にも告げていた気持ち。
 ヴィンセルの中でセシル・アッシュバートンという男は警戒心の強い食い意地が張った男だと思っていた。それがアリスと出会って人が変わったように見えた。
 もともとそういう部分があったのだろうが、誰にも興味を示さなかっただけにアリスに気持ちを向けたときは驚いた。
 あっという間に仲良くなったセシル。自分のほうが先にプライベートな食事をしたのに、失敗したせいであれからアリスと接点を持てていない。
 カイルに許されただけで、状況としてはリオ・アンダーソンと同じラインに立っている。
 セシルはアリスにキスをした。それに対してアリスはセシルを突き飛ばして拒絶するわけでも顔を真っ赤にするわけでもなかった。
 二人はもうそういう関係なのだろうか? いや、カイルが許すはずがない。もし奇跡的に許したとしても何かしら大騒ぎはしているはず。
 それがないということは二人はまだ恋人ではないということ。
 しかし、手を繋いでいた。キスもしていた。それが恋人でなければなんだと言うのか。ヴィンセルにはわからなかった。
 自分の人気をわかっていながらアリスと手を繋いで教室に向かうセシルの想いはそれだけ本気ということかと驚きか戸惑いかわからない感情に支配されている。
 セシルはアリスを『パンが焼けるお嫁さんは良い』と言った。それは自分がアリスの匂いを欲するのと何が違うのだろうかと考えていた。どちらもアリスの一部。それを欲しがるのはそんなに悪いことかと思いさえした。
 だが、自分はアリスの匂いを欲するばかりで努力しようとはしなかった。セシルは毎日アリスを訪ねて接点を持ち続けている。甘え上手かそうでないかは問題ではなく、努力の問題。
 自分は王子で、簡単に婚約者など決められない。もし自分が気に入ったとしても相手に王子の妻となる器がなければ認められない。
 アリスは奥手で、人と馴染むのに時間がかかる。王子の妻となれば外交が増え、時間をかけていこうなどと悠長なことは言ってられない。
 立場が違えば、と思いはすれど、それが言い訳でしかないことはヴィンセルもわかっている。
 落とすと本人に言うほど本気だったのかと衝撃を受けた。
 何より驚いたのは、そういう男だったのかという発見だが、それ以上に、人に見られたのに焦りも見せず隠そうともしないこと。
 本気だからこそ見られてもいいと思っているのだろう。

「すごいな……」

 自分にはため息をつく権利もない。ヴィンセルは小さくそれだけ呟いた。

「望みはないか……」

 カイルはアリスと同じ空間にいることは許してくれた。だが、馴れ馴れしくはするなと釘を刺された。
 アリスはこちらを見ようとはしなかった。彼女の中で自分はどういう人間として認識されているのだろう。もうあのときのような笑顔は見せてもらえないのだろうか。
 食事会はとても楽しかった。互いの話よりも共通点であるカイルの話で盛り上がったが、屈託のない笑顔で溢れていた。
 使用人たちからも『楽しそうでしたね』と笑顔で言われるぐらい笑い声が響いていたのに、とある話題で全てを台無しにしてしまった。
 それは今更どれだけ後悔してもなかったことにはならないし、アリスの好意を砕き、優しさを無碍にするような行為。
 時間を巻き戻せるなら巻き戻したい。何百回願ったかわからない。
 
「もう一度君と話すにはどうすればいい?」

 窓から下の階を見るとセシルに手を引かれるアリスが見えた。
 手首を捻ったアリスの手に自分も何度か触れた。こんなにも小さいものかと驚いた。丁重に扱わなければと思うほどに。
 でもきっともう一度触れようとすればアリスは戸惑うだろう。
 もともとなかった接点が不慮の事故で繋がっただけ。あの一件がなければ二人は話すこともなかったのだ。それこそ『おひとついかがですか?』と聞かれて『ありがとう』と答えるだけの間柄だったかもしれない。
 自分が壊してしまったからこそ恋しくなってしまう。これがアリスの失態で自分が見限ったのであればここまで思わなかっただろう。
 本人に直接聞けない言葉を呟くも本人に届くはずもなく、消えた。
 これほど胸が締め付けられて痛くなるのは初めてで、窓に額を押し当ててゆっくり息を吐き出す。

「ヴィンセル、早く書類を持ってこい。そんなとこで立ち尽くしているのは時間の無駄だぞ」
「あ、ああ、すぐ行く」

 予定の時間を過ぎていることに痺れを切らせたカイルが生徒会室から廊下に顔を出し、窓の外を見て立ち尽くしているヴィンセルに声をかけた。
 慌てて返事をし、その場にしゃがんで膝の上で書類を整理する。書類の中央下に書いてある数字を順番通りに並べてから生徒会室へと向かった。

「カイル、彼は……」
「今日から生徒会に入った新入りだ。ほら、挨拶しろ」
「リオ・アンダーソン」
「です、だろ?」
「です」
「やり直し」
「リオ・アンダーソン、です」

 生徒会は代々、書類審査と面接、そして素行調査の結果で合否を決める。
 リオ・アンダーソンの噂はヴィンセルの耳にも入っており、この学園でも一二を争うほど素行が悪いと聞く。
 生徒会メンバーには相応しくないと落選した者たちから抗議の声が集まるのは明白だろうに、なぜ入れたのかとヴィンセルは疑問を表情でぶつけた。

「言いたいことはわかるが、これは転入生であるリオ・アンダーソンにこの学園の生徒に相応しい人間へと更生するチャンスを与えているんだ」
「彼はパブリックスクールに通っていたのだろう? そこである程度のマナーなどは身につけているはずだが……」
「マナーを身につけたからといって賢くなるわけじゃあない。お座りを覚えた犬が飼い主の手を噛まないとは限らないのと同じだ」
「更生目的というのであればかまわないが、お前に彼の面倒を見る時間などあるのか?」

 カイルは誰よりも忙しい生徒会長として日々過ごしている。書類と向き合い、呼び出しに応じ、時には学外に出て商談に向かうこともある。
 そんな中で更生させなければならない荒くれ者の対応などできるのかと心配するヴィンセルにカイルは笑顔を見せた。

「問題ない。俺に逆らえばコイツは二度とアリスには近寄らせない。噛み付けば退学だ」

 反論しないのを見るとカイルの前では大人しくしているタイプだと把握する。だが、ヴィンセルに向ける目つきは言葉なき反抗の目で、厄介なことにならなければいいがと思いながらヴィンセルは席についた。

「授業出なくていいのかよ」
「この学園に通う生徒のほとんどが既に進路を決定している者ばかりだ。授業への出欠は自由なんだよ」
「すげーいいじゃん」
「その代わり、素行調査は毎学期行われ、引っ掛かれば面談がある。そして成績の結果次第では親を呼び出す」
「……マジかよ……」
「アンダーソン子爵にこれ以上の心労をかけたくなければ真面目に学生生活を送ることだな」

 二年前までそんなルールはなかった。カイルが生徒会長になってすぐ作られたルールだ。
 大体の生徒が箔をつけるためにこの学園に通っている。誰でも入れる貴族の学校ではなく、成績優秀者だけが入れる学校である聖フォンス学園卒業生という箔。
 だから入ってしまえばあとは卒業するだけと遊んで過ごす生徒が多かったため、カイルが改革に乗り出し、変えた。
 抗議の声は一ヶ月毎日続いたが『生徒会長は俺だ。文句があるなら挑んでこい。もし俺が負ければこの改革案を撤廃する。俺が生徒会長であり続ける限り、このルールにしたがってもらう。横暴だなんだと叫ぶ暇があるなら挑め。なんだって受けてやる』と集会で言った。
 それから反対する貴族たちが射撃、乗馬、模擬テスト、カード、ゴルフ、討論、実績自慢などで対決を挑んできたが、誰一人としてカイルを負かすことはできなかった。
 楽勝だと考えていた学園生活は生徒たちにとって地獄と化して今に至る。
 あまりの横暴さに乗り込んできた親さえも論破してしまうカイルが事実上の学園長と言っても過言ではない聖フォンス学園はそれでも入学希望者が絶えない。

「カイルが赤って言えば青空も夕日になるんだもんな」
「そうだ」

 カイルをよくわかっているリオの発言にヴィンセルは少し笑ってしまう。

「カイルが卒業すりゃ天国だよな」
「そうだな。でも逃げられると思うなよ。お前がアリスと同級生である以上、卒業しても俺はこの学園に顔を出す。運営委員に立候補することもできるからな」
「よし、カフェテリア寄って授業行くわ。二年は授業受けないとな。じゃあな!」

 聞かなかったことにして走って出ていくカイルを引き止めることはせず見送ったカイルをヴィンセルは横目で見る。

「新しい犬を飼うというのはどういう気分だ?」
「骨が折れそうだ」
「折りそうだ、の間違いじゃないのか?」
「いい子にしていればそれはないさ」

 書類に目を通したまま笑うかカイルの本気か冗談かわからない言葉にヴィンセルは小さく笑って返した。
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