愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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空回り

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「リーオッ、おっはよー!」

 朝から上機嫌なティーナとは対照的に、リオの気分は最低最悪だった。
 アリスはどこへ行ったのか、もうすぐHRが始まるというのにまだ教室に入っていない。
 今日はリオが早めに来たというのもあるが、それにしても遅い。

「あれ? アリスはお休み?」

 昨日のことで休むようなタイプではない。真面目で、何があっても学校には行く。自分の問題一つで休むと決められる性格ではないのだ。
 あれで傷ついたのなら話は別だが、アリスは怒っていた。休む理由にはならない。

「じゃあね、アリス。またお昼に迎えに来るから」

 教室の後方から聞こえたセシルの声に振り向くと手を振ってセシルを見送ったアリスが中へと入ってくるのが見えた。

「来てるじゃん。おはよー、アリス」
「おはよう」

 素っ気ない態度にティーナが不愉快そうな表情を浮かべる。

「なに? 私、アンタに何かした? すっごく感じ悪いんだけど! 私のこと無視することに決めたの?」
「挨拶したでしょ」
「その言い方が気に入らないのよ! 私が挨拶したんだから私の目を見て言いなさいよ!」
「そんな言い方される筋合いない」
「はあ!? 挨拶の基本でしょ!? 公爵令嬢様はお偉いからどんな挨拶してもいいって言うわけ? へー! すごいね! 知らなかった!」
「もうすぐ先生来るよ」
「ハッ、何様のつもりよ! セシル・アッシュバートンに媚び売って一緒にいてもらってるくせに偉そうに!」

 アリスは前ほどティーナに怯えなくなった。
 今まではティーナにどんなことをされるか、言われるのかがわからなくて怖がっていたが、開き直ってみるとどうでもよくなった。
 なにを言われようとかまわない。なにをされようとかまわない。

『上手く生きろ』

 カイルにそう言われてアリスはそう生きることにしたのだ。
 ティーナは男爵で、ベルフォルン家に大した権力はない。なにがあろうと怯える必要はなかった。
 それに気が付くまでに随分と時間がかかってしまった。
 だがもうこれからはそんな必要はない。自分は自分を好いてくれる人と一緒にいる。それでいいのだとわかったから。

「ティーナ・ベルフォルン、何を騒いでいるんだ。さっさと席に着きなさい」

 教室に入ってきた担任の声に振り返るとティーナの演技が始まった。

「アリスが、私を無視するんですッ」

 数秒で涙を流せるのがティーナの得意技。アリスは何百回とその凄技を見てきた。

「リオ・アンダーソン、アリス・ベンフィールドがティーナ・ベルフォルンを無視したのは本当か?」

 本人に聞いても白を切ると考えた担任はアリスの隣の席であるリオに問いかけた。

「いや、アリスはおはようって返した」
「でも冷たかったんです! 私は笑顔で挨拶をしたのにアリスは私を見ないまま呟くようにおはようって言っただけなんです! 酷くないですか!?」

 ティーナの言い分に担任はため息をついて首を振る。

「相手のテンションに合わせて挨拶をしなければならない規則はない。その日によって人の気分は変わる。お前にとって今日が素晴らしい一日だとしても、他者にとってはそうではないこともある。それにいちいち文句を言っていたらキリがないぞ」
「じゃあ私はアリスからの冷たい挨拶を甘んじて受け入れろって言うんですか!? おはよう、って言ったんですよ!? おはよう、ってこんな言い方で!」

 アリスの言い方を真似るティーナに苦笑も浮かべず、担任は無言でティーナの席を手で指した。さっさと座れと無言で伝える。
 それでもティーナは引かない。教卓に両手を叩きつけて担任を見る。

「これがイジメに発展する可能性がないとは言いきれませんよね!? 明日はアリスに無視されるかもしれません!」
「明日のことは明日言いにきなさい」
「今注意してくれないと防げません!」
「無視されるとは言いきれないだろう」
「でも可能性はあります! アリスは公爵令嬢だからお高く気取ってるんです! 私が男爵令嬢だからって見下してるんですよ!」
「証拠はあるのか?」
「私が言ってることが証拠です! 言われた被害者なんですから!」

 頭が痛いと言わんばかりの表情でティーナを見るとティーナは鼻息荒く、どこかドヤッと言いたげな顔で訴えている。
 自分は正しい、自分は間違っていない、自分が法律だと思っていることが伝わってくる。
 アリスを見るもアリスは次の授業の支度をしているだけで焦りも見えなければ弁明のタイミングを待つように教師を見てもいない。
 カイル・ベンフィールドは強烈だが、アリス・ベンフィールドは入学以来問題一つ起こさない、あのカイル・ベンフィールドの妹かと疑ってしまうほど目立たなかった。
 教師たちの間で警戒されていたのは入学してから一ヶ月間だけで、その一ヶ月の間も二年生に上がった今も問題は起こしていない。
 素行調査も問題はなく、アリスの評価は優等生そのもの。
 取り巻きを連れ歩く姿は一度も見たことがなく、逆にティーナに引っ付いているように見えていた。
 アリスは手を引くほうではなく、手を引かれるほうで、それを引っ張っていたのがティーナ。
 だからティーナが見下されている、アリスが見下しているという言い分は担任には納得できないことだった。

「いいから座りなさい」
「それでも担任なの!?」

 もう一度伝えるとティーナがまた教卓を叩いたため、今度は担任が黒板を叩いた。

「いい加減にしなさい!」

 響く怒声にティーナをはじめ、クラスメイト全員が驚いた。
 このクラスの担任は他のクラスの担任と比べると優しめで怒ることはほとんどない。
 どちらかといえば弱気。リオが転入してきたときもそうだった。
 だから本気の怒声に皆が固まっていた。

「お前は明日起こることを予知できるのか!? アリス・ベンフィールドが明日無視すると断言できるのか!? 起こってもいないことをどうやって対応しろと言うんだ!」

 捲し立てる教師の言葉にティーナは唇を噛み締めて睨みつけながら席へと戻り、椅子を乱暴に引いて後ろの席の机にぶつけ、謝罪もせずにそのまま乱暴に座った。担任に聞こえるように大きな舌打ち付きで。

「時間がないので今日伝える予定だったことは廊下の掲示板に貼っておくから忘れず見るように」

 舌打ちをしたいのはこっちだと思いながらも担任の声は穏やかなものへと変わり、一枚の紙を揺らして時計を見てから廊下へと出ていった。
 入れ替わりで入ってくる一限目の担当も怒声は聞こえていたのだろう。少し笑顔がぎこちなかった。

「……アリス」

 ティーナの金魚のフンだったアリスがあんなにもハッキリと伝えるだけの変化があったことを思うとリオは話しかけるのが少し怖かった。話しかけて自分もあんな風に素っ気なく返されたらどうしようと思っていたから。
 でも話しかけないわけにはいかない。このまま怒らせて関係を終わらせるようなことだけはしたくないと勇気を出して声をかけた。

「アリス、朝からセシ──」
「授業始まってるよ」

 ぶった斬るような遮り方にリオはズキンと胸が痛むのを感じた。
 自業自得だ。アリスが仲良くしている相手の秘密を探って、それを手柄にしてアリスと更に接近する予定など立てた自分の過ち。
 自分の友人がアリスの秘密を探ろうと、暴こうとすれば激怒することは容易に想像がつくのに、なぜアリスの感情を想像しなかったのだろうと自分に問いかけても返事はない。
 分かりきっているのだ。自分が大馬鹿者だからだと。
 前を向いて頭に入ってこない授業の内容を見つめるだけしかできない。
 隣で真面目に教師の話を聞いてノートをとるアリスの横顔を見つめることすらできなかった。

「マジでムカつく! なにアイツ! なんであんなに偉そうなわけ!? たかが教師の分際で私にあんな口利いてもいいと思ってんの!?」

 昼休みになってもティーナの怒りは解消されず、燻り続けた怒りが爆発したのは裏庭での作戦会議中のこと。

「こうなったらセシル・アッシュバートンの秘密暴いてアリスにショック受けさせてやる! 退学どころか逮捕よ! 言い寄ってきてた男が逮捕されてショック受ければいいんだわ! そしたらアリスは一人ぼっちだもの!」

 あえて大声を出して怒りをぶつけるように笑うティーナの腐りきった性根にリオはうんざりしていた。

「リオが嫌われてなかったらもっと簡単に暴けたのに」

 セシルはティーナが近付くと警戒して背中を見せない。
 いつも振り向いて嫌味を言ってくる。リオのときも同じ。
 あのブレザーさえめくることができればわかるかもしれないのにとティーナが親指の爪を噛む。

「ねえ、何か良い案ない?」

 ベーグルサンドを頬張りながら問いかけるティーナを見てリオは腰掛けていたベンチから立ち上がる。

「お前に協力すんのやめるわ」
「は?」

 突然の拒絶に慌てて立ち上がったティーナの理解できないという顔にリオは肩を竦める。

「アイツが銃持ってようが持ってなかろうがどうでもいいわ」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 銃を持ってたらどうなるかって話は前にしたよね!? もう忘れたの!?」
「忘れてねぇよ」
「じゃあアリスが巻き込まれてもいいの!?」
「よくねぇよ。でも銃を持ってることを証明できたからなんだってんだよ」

 今更心変わりされるのは困る。復讐を考えるティーナには協力者が必要で、それはセシルと親しくない、好意を持っていない人間でなければならないのだ。
 それにはリオが適任で、アリスをダシに使えると思っていたのに昨日の今日でなにがあったんだと混乱していた。

「犯罪者は罰されるべきでしょ! 誰もがルールを守って生きてるの! 強盗が出てるって聞いて不安で夜も眠れない人がたくさんいる! 護身用のために銃を持ち歩きたい人間だっている! でも法律で許されてないから我慢してるのよ! なのにアイツだけ特別ってわけにいかないでしょ!?」

 ティーナの力説にリオは表情を変えないまま首を振る。

「それを決めるのは俺でもお前でもなく司法だろ」
「司法が捌けるように私たちが協力するんじゃない! 真実を知ってる私たちがね!」

 必死な様子が痛々しく、この口車に乗れば自分は大切なものを全て失うんだと実感し、ため息をついた。

「どうでもいいわ。興味ねぇ」
「あっそ! じゃあアリスがアイツのモノになってもいいんだ!?」

 リオの好意を逆手にとって脅すような台詞にもリオは動じない。それどころか自嘲するように鼻を鳴らして苦い笑みを浮かべ

「アイツが誰かのモノになるよりアイツに嫌われることのがずっとコエーよ」

 どうしてアリスが良いんだとティーナは怒りに震える。
 アリスの良さがティーナにはわからない。
 控えめ? ただ地味で大人しいだけ。
 優しい? 空気が読める自分のほうが優しい。
 可愛さだってスタイルだって自分のほうがいいのにと地団駄を踏みたくなる。

「ッ~~~~~~!! もういいわよ役立たず!!」

 それを我慢して、持っていたオレンジジュースを思いきりリオにかけた。
 上着もシャツも何もかもがベタベタになってしまった状態に苛立つも、これでティーナに協力は切ったと安堵する。
 あれほどティーナと仲が良かったアリスがティーナよりセシルを選んだことに間違いはない。
 ティーナはそれに怒り、アリスは対抗を続けている。
 子供の頃を知っているリオにとって二人の関係が崩れる日が来るなど想像もしていなかったが、実際は簡単に崩れてしまっていた。

『私のほうがアリスよりずっと公爵令嬢に相応しいのに』

 そう言い続けてきたティーナにとって自分より劣っているアリスが公爵令嬢であるということがもはや許せないことなのだ。
 自分のほうが相応しいと言い張って威圧的にアリスを従わせることで自分の引き立て役を演じさせてきたのに、今のアリスはティーナがいなくても平気だと言わんばかりの態度を見せる。
 それがまたティーナの怒りに燃料を投下することとなった。
 リオは二人の関係がこじれることは望んでいなかったが、こじれた以上は仕方ない。あの様子ではティーナは引くことを知らないし、かといってアリスに謝れなどと口が裂けても言えない。
 自分にで着ることはどちらかの味方につくことだけ。
 それは迷う必要もなくアリスだったのにと後悔していた。

「もう喋ってもらえねぇかもな……」

 花壇の近くに行き、聖フォンスの生徒なら絶対に触れることもしないだろう水撒き用のホースを取って軽く背中を曲げて頭から水をかけてオレンジジュースを洗い流す。
 声をかけても顔も向けずに言い放ったアリスの言葉は『授業が始まってる』だけではなく『だから話しかけるな』までがセットだったのだろうと想像すると辛くて仕方ない。
 母親が死んで帰国が許され、リオは何よりもアリスに会えることを楽しみにしていた。
 成長したアリスに心臓が跳ね、当時の気持ちは変わらず胸にあって、ドキドキした。名前を呼ばれただけなのに好きだと思った。
 だからこそ嫌われたくないのに、いつだって上手くいかない。
 仲良くしようと気合を入れれば入れるほど空回りしてしまうのだ。

「ダサ……」

 自虐を吐いて水を止めると保健室に予備の制服を借りに行こうと向かうリオに女子生徒の視線が集まる。
 男のシャツの下などなかなか見る機会がない令嬢たちにとって鍛えられた身体が歩いているのは悲鳴を上げたくなるほどラッキーなハプニング。
 食い入るように見つめながら友人と手を合わせる。
 今のリオは令嬢たちの視線など気にもならず、見られていることすら気付いていない。
 なんとかして仲直りしたい。いや、許してもらいたいという思いで頭がいっぱいだった。

「リオちゃん……?」

 聞き慣れた声。この世で最も愛おしい声にリオの足が止まる。
 聞き間違えるはずがない声に振り返るとやはりアリスが立っていた。

「どうしたの!?」

 なぜ服を着ていないのか、なぜびしょ濡れなのかわからないアリスはリオの身に何があったんだと困惑して駆け寄った。
 ポケットからハンカチを取り出して頬や額を拭き、前髪から滴る水を払おうと手を伸ばすアリスに眉を下げてリオが笑う。
 そのまま腕の中に閉じ込めるとアリスは目を見開き、焦る。

「リ、リオちゃん!?」

 カイルにさえ裸で抱きしめられたことはなく、生肌の熱と上から降ってくる水の冷たさを感じて恥ずかしくなり離れようとするも反動でリオの力が強くなる。
 ここは人がいない場所ではなく、大勢の生徒がいる廊下。引き剥がそうにも服がないため掴めない。胸を押そうにも密着していて腕が入らない。
 どうすればいいんだと焦るアリスは痛みを与えないよう軽く背中を叩いた。

「寒いの?」

 震えているわけではないが、こんな場所で人目も憚らずに抱きしめる理由はそれしか考えられないとアリスが問いかけるもリオは何も答えない。

「リオちゃん、苦しいよ」

 強すぎる腕の力を訴えるとリオが呟いた。

「やっぱお前に嫌われんのが一番怖い」

 頭上から降ってきた呟きはアリスにしか聞こえていない。
 だが、言葉は聞こえずとも皆が見ている。
 それを気に入らないと睨みつける者がいた。
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