愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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想像と妄想

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 学園までの道のり、少し前までは妄想に浸る時間だった。
 王子様との甘い時間を美女となった自分が独占している、そんな妄想。
 それが今は考え込む時間となっている。

「お嬢様、到着しました」
「ありがとう。気をつけて帰ってね」

 御者にお礼を言って降り立ち、教室へと向かおうとするアリスの手が何者かによって引っ張られた。

「アリス、おはよう」

 セシルだ。
 引っ張ったアリスを腕の中に引き込んで抱きしめた。
 男性として背は低めでもアリスを腕の中に閉じ込められるほどには大きい。
 セシルの匂いにはすっかり慣れた。今じゃ目隠しをされていても匂いだけでセシルだと言い当てることができる。
 だが今はそれに身を任せることはできず、アリスは思わずセシルを突き飛ばすように胸を押した。

「アリス?」

 驚くのも無理はない。今まで何をしようとアリスはセシルを拒まなかった。それこそ急にキスをしても。
 それが抱きしめただけで強い拒絶を見せるアリスにセシルは戸惑うが、もう一度手を伸ばす。

「あ、あんまりそういうのは良くないと思う」

 ナディアのことが頭をよぎったアリスが何を考えているのかまではわからないが、その拒絶がアリスの気持ちであるとはセシルは思わなかった。

「アンダーソンとの噂、気にしてるの?」

 リオと深い仲であるという噂はナディアの想像によるものではなく、噂として既に広がっているのだと気付いたアリスは頭を抱えたくなった。

「それともナディアのせい?」

 なぜナディアの名前が出てくるんだろうと驚いた顔を見せるアリスに一歩寄って手を握ったセシルが優しい微笑みを浮かべる。

「アリスはわかりやすいね」
「ナディア様が、何か?」
「昨日、彼女と会った」

 昼休みは一緒にいたことを考えると会ったのは放課後、あのお茶会でナディアが去った後だろう。
 馬車が別であるため一緒に帰ることはほとんどない。それこそセシルが気まぐれに一緒に帰ろうと言わない限りは。
 昨日は一緒に帰らなかったためセシルがナディアと会って話す時間は充分にあった。

「彼女は君がアンダーソンと深い仲にあるかもしれないって言ってた。抱き合ってるのを見た生徒が大勢いる」
「抱き合っていたわけじゃないの」
「わかってるよ」

 即答するセシルにアリスは安堵する。

「アンダーソンが抱きしめただけでしょ?」

 頷くアリスに今度はセシルが安堵した。

「誰にでもイイ顔をするのは僕に失礼だって言ってたけど、誰にでもイイ顔ができるのは優しさだと思うんだよね。僕は誰にでもイイ顔はしたくない。面倒だし、疲れる。人間っていろんな感情持ってるのにそれを隠して優しくするなんて僕がヴィンセルぐらい背が伸びるぐらい難しいことだよ」

 十七歳のセシルに伸び代があるかどうかはわからない。この一年でグッと伸びるかもしれないし、今のままかもしれない。
 アリスは人の頼みを断って嫌われたくない気持ちが大きかったため聞いてきただけ。それもほとんどがティーナの頼みだったが、ナディアが言っているのは男のこと。
 誰にでもというよりは寄ってくる男、と言いたかったのだろうナディアがどんな風に訴えたのかまでは聞かない。
 感情的になっていたといえど、ナディアはティーナほどひどい人間だとは思っていないから。それに、ナディアの訴えを真に受けるかどうかはセシル次第。
 セシルは真に受けてはいなかった。その場面を見ていないのに、ナディアよりアリスを信じたのだ。

「アリスの優しさだよ。アリスが誰にでもイイ顔しなきゃ僕はあの日、パンを貰えてなかったかもしれないわけだしね」
「ティーナもあげようとしたよ?」
「アレはヴィンセント狙いでしょ。君はカイルに持ってきた。そこが違う」

 自分もそうであったと心の中で呟いては苦笑する。

「もし、アリスがアンダーソンと抱き合ってたとしてもアリスが答えを出すまで諦めるつもりないしね」

 真っ直ぐな人だとアリスはいつも思う。
 アリスにだけではなく両親にも、あのカイルにさえも堂々と自分の気持ちを告げた。
 この人と一緒に歳を取ったらどんな風に過ごしているのだろうと少しだけ考える。

「アリス?」

 この美しい顔がシワシワになってもきっと笑顔は変わらない。優しい穏やかな笑みを携えながら片手で杖をつき、もう片方の手は繋ぐ用にする。
 歳を取っても食べることが好きで、年寄りには辛いと言いながらも食べるのだろう。焼いたパンを今と変わらず美味しいと言う。だからいつも作りすぎる。子供や孫たちにそれを届けようとすると「全部食べるのに」と言って拗ねた顔をするかもしれない。
 派手なことはしない。でも二人で過ごす時間は大切にする──セシルとならそんな老後を送りそうだとアリスは容易に想像できた。
 
「どうして笑ってるの?」
「え? あ、ううん、あの、なんでもないの! セシルのご尊顔が今日も美しいなと思って!」
「絶対違うでしょ。何考えてたの?」
「な、何も!」

 想像するだけのつもりが勝手に妄想の中に入ってしまっていたことに慌てるアリスにセシルがニヤつく。

「言ってよ。言わなきゃここで抱きしめてキスするから」
「ちょ、ちょっと待って! 言うから!」

 多くの生徒が登校してきている中で抱き合ってキスなどしたら大騒ぎになる。ただでさえセシルと一緒に過ごすことであれこれ言われているのに。

「ほらあれ」
「ああ、先日の」

 小声で話しているつもりだろうがハッキリ聞こえる。
 リオ・アンダーソンと抱き合っていたくせに今はセシル・アッシュバートンと仲良くしている尻軽だと言いたいのだろう。
 自分もいつか母親のように罵倒を受ける日が来るのだろうかと思うとゾッとする。

「教えてくれないの?」

 すぐに顔を近付けてくるセシルからズザザザッと後方へ早足で下がるとダメだと手を振る。

「じゃあ教えてよ」
「こ、ここではちょっと……」

 こんな場所でセシルとの未来を勝手に妄想していたと言うことはアリスにはできない。
 辺りを見回して小声で告げるアリスにセシルが目を細めてまた距離を詰める。

「じゃあどこならいいの? 二人きりになれる場所?」

 綺麗な顔が艶っぽく変わる様子をアリスは直視できない。
 
「お、お昼に話す! それでいい?」
「お昼まで待ちきれないんだけど」
「お、お願い!」

 ここで下手を打てばこれからの学園生活が生き辛くなる。それだけは避けたい。
 ティーナのことは開き直ることができたといえど、敵に囲まれて平然としていられるほどアリスは強くない。
 公爵令嬢だからハッキリ言われないだけで、陰でコソコソ言われていることはなんとなくわかっている。

「アリスからおねだりされちゃあね」
「お、おねだりはしてない……。お願いしただけ」
「一緒だよ」

 言葉が違うだけで随分聞こえが違うように感じるのは自分の脳がそういう風にできているからだろうかと考えるアリスはなぜ令嬢たちが小説を読むことを禁止されているのかがわかった気がした。

「あっはっはっはっはっはっ! そんなこと想像してたの?」
「わ、笑わないでよ!」

 昼休み、カフェテリアの奥の個室に響くセシルの大きな笑い声。
 おかしそうに笑う姿は何度も見てきたが、こんなにも大笑いする姿を見たのは初めてで、自分の妄想がいかにおかしなものであったかと恥ずかしくなる。

「おかしなことだってわかってる」
「違う違う。僕との未来を想像してくれるなんて嬉しいことしてくれるから笑っちゃったんだ」
「嬉しかったら微笑まない?」
「嬉しさが爆発したって思ってよ」
「怪しいなぁ」
「でも嬉しかったのは本当だよ」

 向かいにいるアリスの手を握って甲にキスするセシルの表情は言葉通り嬉しそうで、アリスもこれ以上の文句は言えない。

「でもどうして急に僕との未来を想像してくれたの?」
「昨日、お母様がお父様を選んだ理由を教えてくれたの。婚約者候補はたくさんいたけど、その人との未来を想像したんだって。だから……」
「だから僕との未来を想像してくれたの?」
「セシルとだったらどうなんだろうって思ったら勝手に想像が進んじゃって……」

 好意を向けてくれているのに何も返していない相手との未来を勝手に想像するなんて失礼だと思うアリスはどこか気まずくなる。

「じゃあさ、アリス。デートしない?」
「デートって……どこか行くの?」
「そうだよ。カフェに行って、競馬場に行って、それから二人きりになれる場所でゆっくり過ごそう」

 二人きりという言葉につい反応してしまうアリスは自分の脳内が既に兄には見せられない状態になっていることを自覚した。

「今週末なんてどう?」
「セシルはいつもいきなりだね」
「だって、早くアリスとデートしたいし」
「デートしたらつまんない女って思うかもしれないよ?」
「何十回二人で過ごしてきたと思ってんの? 延長戦だよ。場所がここじゃなくなるだけ。今もデートだって思ってるけどね」

 セシルのストレートな言葉にどう返していいのかわからなくなることにも慣れた。
 何か言葉を返してほしいわけじゃないとセシルは言っていた。ただ、伝えたい気持ちがあるから伝えるだけで、今はまだそれに対するイエスもノーも期待してないし、欲しくもないと。
 セシル・アッシュバートンという男を知り尽くしてからでも返事は遅くないと言ってくれたのだ。
 それに甘えていいかどうか、アリスはまだ迷っている。
 もしこのままセシルを好きになったとして、自分はまだセシルの隣に立つに相応しいレディになれていない。
 きっと前に立つのがカイルからセシルに変わるだけ。

「じゃあ、週末ね」
「アリスの一生の思い出に残るプランを考えておくよ。おばあさんになっても思い出せるぐらい素敵なプランをね」

 セシルと一緒にいるのは好きだ。楽しいし、心が落ち着く。だが、それでも応えようとしないのは、アリスの中に不安と恐怖があるから。
 出会いがあれば別れがある。もしセシルと婚約者になったとして、もし自分のミスで愛想を尽かされて別れることになったら? 結婚できたとして、もし飽きられて離婚することになったら?
 この楽しい思い出は全て切ない、苦しい思い出へと変わってしまう。思い出すのも辛いほどに。
 このままでいれば関係が壊れることはない。そう思ってしまうのだ。
 だがそれは自分が好意を向けられているから選べる立場なのであって、自分がヴィンセントを思い続けていたときのように追いかける側だったらと考えると辛い。
 傍にいるだけで幸せだと思える日々はどれぐらい続くのだろう。想像もしたくなかった。

「セシル、ごめんね」

 申し訳ないと謝るアリスにセシルはもう一度手の甲にキスをする。今度はリップ音もつけて。そしてそのままアリスの手を自分の頬へと持っていき、目を閉じる。

「答えを出してほしいわけじゃないよ。ただ、アリスを知りたいし、アリスに知ってほしい。だからもっと一緒に過ごしたいと思うんだ。そのためにはアリスを独占しないと。お昼休みもプライベートもね」

 自分にはもったいない人だと心からそう思う。優しくて、明るくて、懐の広い素敵な男性。
 セシル・アッシュバートンが本当はこういう人間だと知れば、今までセシルに苦手意識を抱いていた令嬢でさえ好きになるのではないかと思った。
 あと一歩踏み出せば気持ちに動きがあるかもしれないのに、アリスの足は恐怖心から地面に縫い付けられたように動かない。

「だから今は何も考えなくていいよ。簡単にも難しくも考えなくていい。ただ僕と一緒に過ごしてほしいんだ。申し訳ないからって気持ちで避けないで。アリスと一緒にこうして過ごすことが僕の幸せなんだから、どうかそれだけは奪わないでほしい」 

 セシルの長いまつ毛が震える。
 これがロマンチックな小説の中なら主人公からキスをしたりする。彼の頬を包んで顔を上げさせ、自らキスをして彼を驚かせる。そしてそのまま更に深い口付けへと変わっていく。
 アリスにはまだその勇気がない。これだけ伝えてくれているからこそ、中途半端な気持ちで応えるわけにはいかないのだ。
 応えられるかどうかは今はまだわからなくとも、彼を知ることはできる。

「デート、楽しみにしてる」
「任せてよ」

 目を開けたセシルがウインクをする。自信に満ちたその表情をアリスは微笑ましげに見つめ、頷いた。

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