愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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一般人のように

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「面白かったね」
「なんだか申し訳なかったなぁ」

 あれから何度も覗きに来た女店主は気になりすぎてティーポットをガタガタと大袈裟なほど震わせながらやってきた。
 セシルは終始笑いっぱなしで、アリスは店主が落とす前に受け取ろうとしたのだが、動かないでほしいと言われたため動かなかったのだが、結局店主は落としてしまった。
 結構な値段がするだろう大きなティーポットが割れたことを心配するアリスの足元に跪いて必死に謝りながら片付ける様子にアリスは申し訳なくなった。
 自分が来なければあのティーポットは割れなかったし、店主は今日一日を楽しい気持ちで終えられたかもしれないのにと。

「耐性つけるべきなんだよ」
「耐性?」
「あの店が人気店になれば貴族たちはこぞって買いに行く。それこそ王族の使いだって来るかもしれない。そのときの予行演習みたいなものだよ」
「なるほど……?」
「すごく美味しいもん。人気にならなきゃおかしいよ」
「そうだね」

 それには納得だと頷いたアリスは振り返って外観を見る。
 貴族たちは近寄りもしないだろう古びた店構えから、それなりの年数が経っていることが窺える。
 新しい物好きな貴族は目に留めることもしないだろう外観だが、中身は抜群。
 それこそ流行りに乗っかっただけの店よりもずっと美味しかった。
 あの店主もいい味だったと微笑み、いつかこの店が大繁盛することを願いながら馬車に乗りこんだ。

「公園ってここ?」
「そうだよ。噴水公園……って、そのままだよね」

 馬車が到着したのは大きな噴水が真ん中にあるシンプルな公園。家族連れや恋人だろう男女がベンチに腰掛けて見つめ合っている。手を繋いで身体を寄せ、人前だというのにキスまでしている。

「ここで僕たちがキスしても誰も噂なんてしないよ」
「セシルのほうがずっとエッチだと思うけど」
「男なんて皆そうだよ。好きなレディのことを考えたら自然とそうなるわけだし」

 どの方面でも素直な男だと感心してしまう。
 からかうつもりだったアリスにとって予想外の言葉だが、セシルらしいとも思った。

「アリス、何色の花が好き?」
「んー……」

 手を引っ張られるがままついて行くと入り口前に小さな花束を売る男性がいた。
 花の色に合わせてラッピングされた小さな花束を見てアリスは迷う。

「黄色かな?」
「じゃあこれ一つもらえる?」

 貴族は財布を持ち歩かないが、セシルはいつも財布を持っている。
 食べるのが好きなため帰りにあちこち寄っては買い食いをすると聞いていたが、アリスはずっと謎だった。買い食いをするにしてもアッシュバートン家に請求がいくだろうに、なぜセシルが財布を持つ必要があるのかと。
 それも今日あの店に行ってわかった。市民が行く店に行くから自ら支払いをする必要があったのだと。そのためにセシルは財布を持っている。
 だからこうして当たり前に請求される金をセシルはその場で払うことができる。これがカイルなら絶対にできていない。いや、ヴィンセルだろうとアルフレッドだろうとできてはいないだろう。

「黄色が好きなの?」
「黄色も好きだけど、パンジーが好きなの」
「花言葉知ってる?」
「つつましい幸せ」
「アリスらしいね」

 その花言葉もアリスは好きだった。
 贅沢な暮らしが当たり前なベンフィールド家に生まれて慎ましい幸せと言うのはおかしな話かもしれないが、アリスは結婚後にどういう生活を送ることになるかわからないのが怖い。
 嫁ぎ先によって変わってしまう生活基準に自分がどこまで慣れることができるだろうと不安があり、カイルが過保護なのをいいことにアリスも拒もうとしないのだ。
 贅沢三昧しようとは思わない。慎ましやかでもいいから必ず幸せが欲しいと願っている。

「強欲かな」
「つつましい幸せが?」
「あ、そうじゃなくて……ごめん、独り言」

 いつの間にか口に出ていたことに慌てて否定すると受け取った花束の香りを嗅ぐ。
 家に飾られている花と違って胸いっぱいに吸い込みたくなる香りはしない。
 一般市民たちは香りまで贈り物の基準にはしないだろう。花を贈ってくれたことに喜ぶのだ。
 それこそつつましい幸せだとアリスは思う。
 大きな花束じゃなくていい。良い香りがしなくてもいい。両手で持つことができないぐらい小さくても花を贈ってくれたと喜べる幸せ。
 そんな幸せに浸りたいと思った。

「ありがとう、セシル。嬉しい」
「どういたしまして。じゃあ次はパン屋だね」

 アリスはスコーンとサンドイッチと紅茶で既にお腹いっぱいになった。セシルがよく食べることは知っているが、まだ入るのかと驚いてしまう。

「こういう小さな花って、きっと手を繋ぐのに邪魔にならないようにそのサイズにしてるんだろうね」
「あ、なるほど」
「賢いよね」

 男性が女性に贈る花束は大きくなければならないと法律で決まっているわけではない。だけど、令嬢たちは期待してしまう。大きな花束を持って王子様が現れてくれるのだと。
 片手サイズの小さな花束をもらって喜ぶ令嬢は一体何人いるだろう。
 そう考えると市民たちは賢く生きているのだと学ぶことが多い。
 周りを見てみると花束を片手に手を繋いでいるカップルが多く、その匂いを嗅いでは嬉しそうに笑っている。
 
「すごい行列」
「連日こうらしいよ」
「何がそんなに人気なの?」
「色々。ベーグルサンドもそうだし、肉挟んだサンドイッチもあるんだって」
「ローストビーフサンド?」
「そんな豪華な物じゃないよ。肉を焼いてパンにガッと挟んだだけ」
「美味しそう」

 シンプルな料理ほど難しいとい言うが、シンプルな料理ほど美味しいとも言う。
 アリスはシンプルな料理をあまり作ったことがない。色々と組み合わせたほうが美味しいと思っているし、実際に色々組み合わせて口の中で合わさるほうが好きだ。
 スライスパンの上にクリームチーズを塗り、ザクロと特製のソースを乗せて、ナッツをふりかけて食べるのが好きでよく作るのだが、おかずパンはローストビーフサンドが多い。
 焼いただけの肉を挟んだ料理とはどういう物だろうと想像するも想像がつかない。お腹はいっぱいのはずなのに漂ってくる甘辛い匂いが食欲をそそる。
 満腹なはずなのに段々とお腹がすいてくるような感覚はなんなのかとセシルを見るとニヤついていた。

「お腹すいてくるよね。だからやめられないんだよ、こういうの」
「一人でも並ぶの?」
「いつもは従者が一緒だよ。一人では並ばない」
「よくやってるの?」
「まあね。だって絶対美味しいもん。食べなきゃ損だよ」
「そうだね」

 同意できるのはアリスがあそこのサンドイッチを美味しいと思ったから。そして今、この先の屋台から漂ってくる匂いが絶対に美味しい物であることを確信させるから。
 列に並んで二人で話す。公園に入ったときは行列すぎると思っていたのも並んでしまえば少しずつ前へと進んでいくため気にならなかった。
 前後の人間は自分たちが公爵と伯爵の子供だとは思っていないだろうし、きっと気にしてもいない。自分たちの会話に夢中なのだ。
 それがとても心地いい空間に感じた。

「どれにする?」
「この肉サンドとベーグルサンド、それからピタクリームを全種類一つずつ」
「そんな細身で食べきれるのかい?」
「もちろんだよ。それに、このピタクリームは雲のように繊細で軽いんでしょ?」
「そうだよ。うちの自慢の一品だ」
「じゃあ平気」

 肉サンドは温めた楕円形のパンの真ん中にナイフを入れて開き、そこに焼いて甘辛く味付けした肉をドサッと乗せる。本当にそれだけ。
 ベーグルサンドも温めた柔らかいタイプの物を使用し、その間にクリームチーズと蜂蜜を垂らしてリーフとナッツ、ハーブを入れてサンドした定番の物。
 そして溶いた小麦粉を薄焼きにして間にクリームを挟んでいるピタクリーム。薄いため何枚でも食べられそうな見た目をしているが、問題はクリームの重さ。軽いか重いかで胃への負担が全く変わってくる。

「半分に切ろうか?」
「いい。かぶり合うから」
「ラブラブだね。その熱さだけで肉が焦げちまいそうだ」

 自分たちの格好を見れば貴族であることはわかりそうなものだが、誰も気にしていないのか店主もフレンドリーに話しかけてくる。
 特別な器に入れるわけではなく、紙で包んだだけの物をそのまま手渡し。受け取る前に金を払ってからセシルはアリスと一緒に近くのベンチに腰掛けた。

「先にどうぞ」
「セシルが先に食べて」
「いいよ」

 セシルは『かぶり合う』と言った。サンドイッチと違って大口を開けなければパンと肉を一緒に食べることはできない。だが、大口を開けて食べることはどうにも気が引ける。
 しかもここは外。テーブルもなく、カトラリーも何一つない場所でかぶりつくことを戸惑い、セシルがどうするか見ようと思った。

「ん、美味しい! パンの柔らかさも良いし、甘辛い肉がすごい美味しい!」

 セシルはアリスの悩みなどバカバカしいと言わんばかりに大口を開けて口いっぱいに頬張る。
 数回噛んだ時点で目を輝かせ、口を押さえてその美味しさに感動の声を上げた。

「アリスも食べてみなよ」
「で、でも……」
「誰も見てないって。皆これを食べるのに夢中だからさ」

 確かに周りを見てみると誰もこっちは見ていない。肉サンドに笑ってはかぶりついて感動している。
 一目を気にしているのは自分だけかとそれはそれで恥ずかしくなり、目の前で湯気を上げる肉サンドにごくりと喉を鳴らし、ギュッと目を閉じ覚悟を決めてかぶりついた。

「んっ!?」

 口を押さえて目を見開くアリスの反応にセシルがニヤつく。
 
「ふふっ、美味しいよね。貴族はよく庶民の食べ物を貶すけど、本当は貴族なんかより庶民のほうがずっと美味しい物を知ってるんだよ」

 ごくんと飲み込んでから頷いたアリスはそれを否定できない。

「そう思う。すっごく美味しい! こんなのここでしか食べられない。家じゃ絶対に出てこないもの」
「でしょ? こういうの悪くないって思わない?」
「思う」
「よかった」

 肉を焼くにしてもアリスたち貴族の食卓に出てくるのはステーキ肉で、なんの肉かもわからない薄っぺらい肉を乱雑に焼いて甘辛いタレで炒めた物など絶対に出てこない。出せばそのシェフは間違いなくその場でクビになるだろう。
 パンに挟んで食べるだけなのはサンドイッチと変わらないのになぜ貴族はそうしないのだろうと不思議だった。

「これ食べてみる?」
「それ気になってた」
「僕も。看板に書いてあったから買ってみたんだけど……はい、あーん」
「ンンッ!?」
「おっ」
 
 肉よりも薄いお菓子らしき物に躊躇なく歯を立てると味よりも先に食感に驚いた。パリッなのかサクッなのかわからない音と共に感じた歯触り。繊細で雲のようという謳い文句は嘘ではない。サクサクッと数回噛んだだけですぐになくなった。

「中のクリームがなくても食べられるよ、これ」
「お茶会の席に出すのも悪くないですね」
「お茶会の達人である公爵令嬢様が言うんだから間違いないね」

 貴族たちはなんでも手に入ってしまうが故にすぐに飽きてしまう。定番だからという理由で食べているだけであって、お茶に合う新しい物があるならそれを試すに決まっている。
 これは間違いなく令嬢たちの間で流行ると確信があった。

「僕たちがこれを商売にすればきっと売れるよ」
「セシルが商売? 想像つかない」
「僕もだけど、庶民からは絶対に買わないだろうけど、貴族が売ってるってなったら買うと思う」
「貴族が手焼きの商売?」

 貴族は庶民のように汗水垂らして働くことを禁止されている。汗水垂らして働くのは優雅ではないし、貴族のすることではない。
 だからセシルの話題にアリスは驚いた。
 あくまでも想像の話だが、それでもセシルが自らこれを売ろうと言ったことにも驚いた。そしてセシルが接客をするのかとも。

「そうだよ。これからは改革の時代だからね」
「ふふっ、汗だくになって焼いてるセシル、ちょっと見てみたいかも」
「絶対笑うでしょ」
「想像だけでも笑っちゃうもの」

 あの店主のようにエプロンをつけて汗をかきながら笑顔で人と接するセシルを想像すると違和感しかない。それが完璧に遂行できれば大人気の屋台になるだろうが、セシルは自分の気に入った人間としか仲良くしないため、想像通りにはいかないだろう。問題のある客と対峙するセシルのほうがずっと現実的だとアリスは笑う。
 肉サンドにかぶりついて、ベーグルサンドも食べる。もう既にお腹は限界のはずなのに不思議と入ってしまうのはなぜだと、アリスは生まれて初めて限界を感じながら食べていた。

「お腹いっぱいになった?」
「コルセットの紐が切れちゃいそう」
「細いんだからコルセットしなくていいんじゃないの?」
「マナーだもの」

 男には一生わからないだろう苦しさにアリスは今すぐにでもコルセットを緩めたい気持ちでいっぱいだった。
 頭の中では今すぐ肩からドレスを下げてコルセットを外して投げ捨てている。膨らんだお腹を撫でながら四肢を投げ出し眠りにつく。本当にそうしてしまいたかった。

「でもアリスが食べた量って知れてるよね」
「今日はたくさん食べたほうだけど」
「あれで!? ほとんど僕が食べたよ」
「セシルはいっぱい食べるね」
「胃が膨らむみたい」
「どうして太らないの?」

 普段から食事を人一倍か二倍ほど食べているのに、セシルはそれにおやつまで食べる。ずーっと食べている。それなのにこの細さをキープしているのはどういうことかと不思議で仕方ない。

「僕こう見えて脱いだらすごいんだよ」
「鍛えてるの?」
「見たい?」

 言い方に艶を含んだセシルにアリスはそれがからかいの合図であることを見抜いた。
 
「ベッドの中で、でしょ? もうそんなのには引っかからないんだから」
「え? 僕そんなこと言おうと思ってなかったのに。少しボタンを開けて見せるぐらいできるからって思っただけなんだけど……え、アリスってばそんなこと想像したの?」
「え、や、ちっ違う! いつもセシルそんなことばっかり言うから、そう言うんじゃないかって思っただけ!」
「ヤラシー」
「違うってば! 本当に違うの!」

 墓穴を掘ったと茹で上がったように真っ赤な顔で否定するアリスにニヤニヤとしたからかいの表情を隠さないセシルの意地悪さにアリスが下を向く。
 自分から言わずに心の中で思っているだけにすればよかったと後悔するアリスは目の前に穴があったら飛び込んでいる。それぐらい全身から湧き上がる羞恥に涙が出そうだった。

「ねえ、アリス」

 耳元で名前を呼ばれると肩が跳ねる。

「こっち向いて」
「い、いやよ! 絶対に変な顔してるもの!」
「いいからこっち向いてよ」
「い、意地悪しないで!」
「こっち向かないとアリスの耳、食べちゃうよ?」
「ッ!? 耳って──」

 セシルならやりかねないと勢いよく顔を上げると思った以上に近くにセシルの顔があり、そのまま唇が重なる。
 大通りからの視線を隠すように被っていた帽子を二人の間に持ち上げ、少し長めのキスをした。

「そ、外……」

 ゆっくりと離れる唇。閉じていた瞼が持ち上がる際に見えたセシルの長いまつ毛。
 既にセシルとのキスを受け入れている自分がいることにアリスは気付いた。
 いつも突然ではあるが、触れても嫌悪感はなく、自然と目を閉じている。
 これが好きでなければなんだというのか。高鳴る胸にアリスはセシルを見つめた。

「そんな顔してると誘ってるようにしか見えないよ」
「そういうわけじゃ──」
「森の別荘に連れて行けばよかったって思わせないでよ。我慢してるんだから」

 そういうセリフをサラッと吐けてしまうセシルにアリスは眉を下げる。
 今はまだそれに「いいよ」と返せる度胸はない。返せば新たな関係が始まる。そこにある不安に一歩踏み出すことができないのだ。

「よし、じゃあ次のスポットに行こう」

 アリスの頭を撫でて立ち上がったセシルが差し出す手を握って馬車まで歩く。

「セシルはシルクハットが似合うね」
「マジシャンみたいって母親には笑われたけど」
「……マジシャン……ッ!」
「あ、笑った! アリスもそう思ったの!?」
「ちが、想像しちゃっただけッ」

 笑いを堪えるアリスに抗議するもセシルの顔は笑顔。

「アリス、花束は?」
「え? あ、ベンチに置いてきちゃった! あれ? 花がな──わっ!」

 手に花束がないことに気付き、さっきまで座っていたベンチを振り返るも花はなく、どうしようと慌てるアリスの前にセシルがシルクハットを出した。中から出てきた黄色の花束に目を瞬かせるアリス。

「驚いた?」
「びっくり。さすがはマジシャン」
「じゃあ驚きついでに君のコルセットも外してあげようか?」
「それはマジシャンの仕事じゃないでしょ」
「ふふっ、そうだね」

 どこまでが本気で、どこまでを冗談のように言っているのかがわからないのが余計に困る。
 今日一日こうしてセシルの言動に振り回されるのだと思うと鼓動が静まらない。

「次のスポットは絶対に驚くよ」 
「そうだろうなぁ」
「ッ!?」

 アリスを乗せてからセシルが乗り込んだ直後、閉めるはずのドアが開いて見知らぬ男が数人飛び乗ってきた。
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