愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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兄として

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「セシルは来るでしょうか?」
「どうだろうな。誘拐はセシルにとってトラウマそのものだ。セシルが抱える根深すぎる問題だから来ないかもしれないな」
「そうですよね……」

 いつもは朝早く登校するカイルがアリスが登校するからと時間を合わせて一緒に馬車に乗った。
 馬車の中で他愛のない話をするわけでもなく、アリスが心配しているのはセシルのこと。
 セシルに気持ちがあるのではないかと心配するカイルがアリスの手を握る。

「お前はよくやった。お前にとっては嫌な経験でしかなかっただろうが、セシルを救ったことは誇りに思っていい」
「……はい」

 アリスが何を気にしているのかカイルは知っている。

「お前は誰も殺してはいない。わかるな?」
「でも私は──」

 カイルの人差し指がアリスの唇に押し当てられ強制的に黙らされる。そのまま首を振るカイルにアリスは眉を下げて黙った。

「お前がしたことは正当防衛だ。お前が銃を構えなければ撃たれていたかもしれないし、セシルは酷い目に遭っていたかもしれない。助かったのはお前が怯えずに銃を構えられたからだ」
「……冷静でいなければ殺してしまう……」

 その言葉を覚えているのはカイルも同じ。アリスが誘拐されかけたとき、救ったカイルが言った言葉だ。
 アリスを失うことには恐怖を感じたが、犯人と対峙することには恐怖はなかった。震えも起きなければ口の中がカラカラになることもなかった。

「セシルが怯えている以上は私は冷静でいなければと思っていたんです。お兄様が言っていたように冷静でいれば必ず勝てると思うようにしていたんです。あの言葉を信じていましたから」
「良い子だ。お前はやっぱり賢いな」

 カイルはただただ嬉しかった。
 ヴィンセルが言ったようにアリスは怖がりで自分から前に出ることは絶対にしないタイプ。だからカイルが常にアリスの前に立って背中で守ってきた。
 銃を持った相手と対峙することは命を懸けているも同然で、アリスにとってもトラウマになるほど怖かったはず。それでもアリスはカイルの言葉を覚え、信じ、震え一つ起こさず一人で対峙し続けた。
 誇りに思うと同時に喜びが込み上げ、思わずアリスを抱きしめたカイルにアリスが笑って背中をトントンと軽く叩く。

「お兄様が来てくれるって信じていたのも大きかったのかもしれません。きっとすぐに来てくれるって」
「当たり前だ。お前がどこにいたって俺はすぐに駆けつける。何があっても兄様が守ってやるって約束しただろ?」
「そうですね」

 貴族の子供を誘拐するリスクは高い。貴族が雇った傭兵が犯人を殺害してしまう場合もあり、必ずしも警察に引き渡されるわけではない。
 それでも上手くいけば彼らがどれだけ真面目に働いても手に入れることができないだけの金が手に入るのだ。一度上手く行けば真面目に働くなどバカバカしいと思ってしまうのだろう。
 誘拐されかけた過去はアリスの中でも一生消えない恐怖として残っていてもカイルが必ず助けに来てくれると信じていた。
 頬を撫でる大きな手に笑顔を見せるとカイルの笑顔が優しくなる。

「これからもそれは変わらない。兄様がずっと守ってやるからな」
「ふふっ、私はもうお兄様の背中に隠れているのはやめることにしたんです」
「それでも俺は兄としてお前を守る。俺の生き甲斐だからな」

 もう誰かの後ろに隠れて守ってもらうことはやめようと決めた。
 自分の問題は自分で解決しなければならない。言い返すのが怖いとか、嫌われるのが怖いと言って自分の内で抱え込んで手に入れる平和は平和などではないとわかったのだ。
 誰かを守る勇気があった。それがアリスの自信に変わった。

「お兄様、一つだけお願いがあります」
「セシルのことだろ?」
「え?」

 なぜわかったのだろうと驚くアリスの頬を軽く摘むとカイルはシートに背を預けた。

「兄様はお前のことはなんでもわかるんだよ」
「じゃあ私が何を言おうとしていたか当ててください」

 セシルのこと、ぐらいなら誰にだって当てられると疑いの眼差しに笑みを加えた表情を向けるアリスに預けたばかりの背を離して顔を近付けたカイルは答えた。

「お咎めなしでお願いします。セシルも被害者でセシルに非はないから、これからもセシルとお友達でいさせてください」
「うそ……」

 驚くアリスにカイルが笑う。

「な? 兄様はすごいだろ」
「すごい……」

 すごいと思うと同時に不気味でもあった。アリスが考えていたことをそのまま当てたのだから、いくら自分がわかりやすいと言われるタイプでもそこまで当てられるのは怖かった。

「犯人は山で野生動物に食われているだろうからセシルを狙うことはないだろうが、もう二度と誘拐は起きないとは言いきれない。別の人間がセシルを狙う可能性だってある。セシルだけが狙われるのならいい。アイツは銃を持っているし、男だ。自らの問題には自らの足で立ち向かわなければならないからな。だがお前は違う。無関係なんだ。セシルと親交を深めればまたお前も被害者になるかもしれない。兄様はそこを心配してるんだ」

 アリスも不安がないわけではない。人生でそう何度も誘拐事件が起こるわけはないと思ってはいてもセシルは今回で二度目、アリスは一回目は未遂、二度目は巻き込みを経験している。三度目がないとは言いきれない。
 それでもアリスはセシルとの付き合いをやめようとは思わなかった。むしろ、だからこそセシルと一緒にいるべきだとさえ思っていた。

「今回のことでお兄様やお母様、お父様には多大なるご心配をおかけしました。でも、今回のことがあったからセシルとは縁を切るなんてできません。起こるかどうかもわからないことに怯えて友達をやめるなんて絶対に嫌です」
「今度は銃を奪われるかもしれないぞ」
「お兄様が助けに来てくれるでしょう?」

 アリスはカイルがなぜ駆け付けられるかのを知っている。そしてカイルもアリスが気付いていることを知っている。

「だが、今回はたまたま上手くいっただけかもしれない。次はセシルではなくお前だけが狙われる可能性だってあるんだ。そのときセシルはきっと役に立たない。兄様が辿り着く前にお前は酷い目に遭っているかもしれない。それでもいいのか?」

 アリスはゆっくりと頷いた。

「セシルは犯人の顔を見るまで私を守ろうとしてくれていたんです。だから大丈夫。心配はしていません」

 犯人を見なければと言うわけではない。同じ状況に陥った際にフラッシュバックすることもある。そうなればセシルはただの足手まといになってしまう。それでもアリスはそんなセシルを置いて逃げることはしないだろう。

「心配かけてばかりでごめんなさい」

 手を握って謝るアリスにカイルは首を振る。

「親が子を心配するように兄が妹の心配をするのは当然のことだ。謝るな」

 謝らなければならないことがたくさんある。それでもカイルはアリスの言葉を遮って謝るなと言うだろう。
 兄として生き続けているカイルにとって妹から受ける謝罪は存在さえしなくてもいいものだとさえ思っている。心配するのはもはや義務だと。

「今回のことだけは謝らせてください。私、お兄様の手を──」
「アリス」

 少し強めに呼ばれたことでアリスの瞳が揺れる。

「犯人は野生動物の餌になった。奴らが気を失っている間にそうなっただけだ」

 あの何発も響いた銃声が何を意味しているのかわからないほどアリスは子供ではない。
 銃に装填されていた弾、全てを撃ちきったカイルが何をしたのかわかっているだけに申し訳ないと謝ろうとするのにカイルはそれを拒否した。
 犯人はあくまでも野生動物に食べられて死んだのだと。

「セシルが銃を持っていたことを黙っていてごめんなさい」

 強盗に襲われた際にセシルが銃を所持していたことをカイルに隠した過去を謝るもカイルはそれにも首を振った。

「銃がなければお前がどうなっていたかわからない。今回はセシルが銃を所持していたから何事もなく済んだんだ」

 銃を見ればわかってしまう。あれだけ上等な代物を出所したばかりの人間に手に入れられるはずがない。
 装填数が多く、装飾がしっかりしているのを見れば貴族の物だと誰にでもわかる。
 
「兄様に嘘をついたことは褒められたことではないが、今こうして嘘をついたと謝れたから良しとしよう」

 兄はいつだって妹を許す立場にある。自分とて妹に隠していることが山のようにある。それは分厚いハードカバーのノートにビッシリ書いても一冊二冊では足りないほど。
 貴族として生まれて清廉潔白では生きていけない。自分を、家族を、妹を守るためなら手を汚すぐらいなんでもない。
 己が手がどれほど汚れていようともアリスにそれが見えないのであればまだ触れられる。

「今日もしっかり勉強するんだぞ。もうすぐ試験が近いから気を抜くな」
「はい」

 馬車が到着し、下車したカイルはアリスの頭をもう一度撫でて頬にキスをした。
 いつもは額なのにと驚くアリスに微笑むカイルは何も言わずそのまま校舎内へと入っていく。

「ふふっ、上機嫌なのね」

 カイルは上機嫌になると頬にキスをすることがある。
 いつも忙しそうに動き回っているカイルが今日一日を笑顔で過ごせることを願いながらアリスも教室へと向かった。

「何よあれ……気持ち悪い……」

 門の外に停まっている馬車の中で女が一人呟いた。
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