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止められない疑心
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平々凡々に続いていくと思っていた人生が波瀾万丈になるとは思ってもいなかった。
誘拐事件に巻き込まれることも、あれだけ嫌っていた銃を握って人を撃つことも、複数の男性から言い寄られることも全てアリスの人生計画には存在しないものだった。
華のない地味な公爵令嬢として生きて、いつか兄が認めた婚約者と結婚して家庭を持って、特に何かを残すことなく生涯を終える。それがアリスの人生計画だった。
しかし、その計画も彼らのランチタイムにお邪魔したことで全てが変わった。
婚約者でもない男性とキスをし、好きだと言われ、デートの途中で誘拐され、人を撃ち、愛してると言われた。
セシル・アッシュバートンからの猛烈なアプローチにアリスはまだ困惑しながら一緒に過ごしている。
「悩み事か?」
聞こえた声にハッとすると間近にいた男性に驚いた。
「え? ヒッ! ヴィンセル様!? なぜここに!?」
「幽霊でも見たような反応だな」
「す、すみません! まさかヴィンセル様がおられるとは思わなかったので」
「ボーッと歩いていると転んでしまうぞ」
辺りを見渡せば庭園のすぐ傍まで来ていた。教室からここまで歩いてきた記憶がない。夢遊病かと疑ってしまうほど綺麗に記憶が飛んでいる。
「久しぶりだな、アリス」
「そうですね、お久しぶりです」
「今日はここでのランチはなかったはずだが」
「あ……」
思い出したと口を開けるアリス。今日はセシルが生徒会の呼び出しがあってランチを一緒にすることができなかった。
教室で公開告白とキスをしてからセシルのアプローチは加熱するばかり。セシルファンの視線が痛く、陰口の酷さに聞くに堪えず教室から出たのだ。
そして気がついたらここまで歩いてきていた。
ヴィンセルと顔を合わせるのが気まずくないわけではないが、避けるほどでもない。相手が普通に話してくれているのだから自分も普通にしなければと顔を上げる。
「もしよかったらお茶でもどうだ?」
「二人で、ですか?」
「アルフレッドは花たちに呼ばれて行ってしまったからな。もし嫌ならカイルを呼ぶが」
「い、いえ、大丈夫です。お茶に誘っていただき光栄です。謹んでお受けします」
断られるのではないかと思っていたヴィンセルの表情に安堵の笑みが溢れ、一緒に庭園へと入っていく。
手際よく用意されるお茶の準備をアリスは座って待っているだけで会話が浮かんでこない。せっかく憧れの人とのお茶会なのだから何か楽しい話題を、と思っても緊張で出てこない。
「カイルから事件のことを聞いた。大変だったみたいだな」
リオには話していなかったが、ヴィンセルには話したのかと生徒会室の窓を見上げるもカイルの姿は見えない。
「セシルの精神面が心配です。いつも通りのセシルに見えますが、ムリしているのではないかと……」
「トラウマが再発するような出来事だからな。だが、彼はそれほど弱くはない」
「そうですね」
「家に引きこもって震えているより君に会うことが特効薬だと言っていた」
「嬉しいですね」
セシルはロマンチストなだけあって言葉を選ぶ。アリスに話すときも言葉を選んで話す。傷つける言葉は絶対に使わない。いつも笑顔でいてくれる。
だからこそ少し心配なのだ。あんなことがあったのに、すぐに学校に来ていつも通り過ごせるものだろうかと。
アリスは幼い頃から我慢の連続だった。ティーナというワガママの化身のような存在と共にいて、強制ではなく自分で選んで我慢したことだが、それでも限界が来てしまった。長い時間をかけて。
これは自分で選べたことだが、セシルは違う。恐怖とストレスを与えた人間はもういない。だからといって忘れることもできない。また同じ目に遭わないとは言えないのだから。
あれだけ震えて子供のように泣きじゃくっていたセシルが笑ってくれているのは嬉しくともそれに安心していいのかわからないでいる。
「優しいな、君は。セシルが好きになるのもわかる」
「……セシルは過大評価しすぎなんです。私は誰にでも優しい人間ではないですし、特別な美貌があるわけでもないんです。あんな風に特別な想いを寄せてもらえるほど立派なこともしていませんから」
実際、アリスはセシルがなぜこんなにも自分を好きでいてくれるのかわかっていない。
「君が自分をどう思おうが、好きになった者からすればその娘はとても魅力的に見えてしまうものなんだよ」
まるで恋を知っているかのような言い方にアリスは思わず問いかけた。
「ヴィンセル様もそういうお気持ちになったことが?」
「いや……んー……どうだろうな……君の匂いに惹かれてから君を見る目が変わった、というのはある。だがこれは俺の下心にすぎない。恋ではないだろう」
数回ゆっくりと頷くアリスを見て立ち上がったヴィンセルが頭を下げる。
「え? えっ!? お、おやめください! なぜ私に頭を下げるのですか!?」
何事だと慌てるアリスにヴィンセルはそのまま首を振って告げる。
「君を傷つけてしまったことをちゃんと謝りたかったんだ」
「頭を上げてください!」
「どうか許してほしい」
「許しますから頭を上げてください!」
許す許さないなどどうでもいいことだが、許すと言わなければ頭を上げないような気がして許すと言ったアリスにヴィンセルは笑顔を見せる。
困った人が多いと苦笑するも気が済んだならそれでいいとホッと息を吐き出した。
「俺は君の匂いに依存しようとしていた」
再び椅子に座ったヴィンセルの言葉にはアリスもまた頷く。
「何度も言うが、本当に初めてなんだ。誰かと一緒にいてあれほど落ち着いたのは。心から安心できた匂いだった」
「お兄様もですよね?」
「そうだが、カイルはあちこち走り回っているせいで匂いが薄い。たぶん汗や教師の煙草の匂いがついているせいだろう。君はそうじゃない。それがとても心地よかった」
これが純粋な気持ちであればアリスも嬉しかっただろう。そう言ってもらえるだけであれば。だが、ヴィンセルはそうではなかった。
「自分のために君を利用しようとしたのは確かだ。愚かだった」
自分の中身を知ろうとしないで外見と地位だけに価値を見出して寄ってくる令嬢たちと同じだと気付いて後悔したヴィンセルは目の前に置かれた紅茶に映る自分の顔を見つめる。
「さっきは恋ではないと言ったが、それは君のことをよく知らないからだ。君を知っていけば──」
待ってと手のひらを見せて言葉を遮ったアリスにヴィンセルは目を瞬かせる。
王子の話を遮ることがいかに無礼であるかわかっていながらもアリスは核心を聞いておきたかった。
「……ヴィンセル様が私を知っていけば恋に変わるかもしれないと思っているのは……私の匂いのために私を好きになろうとしているということですか?」
最初から上手くいかなかったから、二人きりになるとどうしても上手くいかないから疑ってしまう。これは純粋な好意かもしれないのに傷つきたくない思いが先走って問いかけるアリスは否定せずにまた黙り込んでしまうヴィンセルに苦笑する。
ヴィンセルが自分を好きになる理由が見つからない。妄想の中では都合よく付き合えていた。好きだと言われ、それに応えるだけでよかったのだから。
だが現実はそうもいかない。簡単にでも理由がいる。優しいから、笑顔が可愛いから、人に親切にしているのをいいなと思った……などなんでもいい。しかし、匂いと言われると受け入れ難い。それはアリスだけの匂いではなく、ベンフィールド家の匂いだから。カイルの傍にいても少し落ち着くというのはそういうことだろう。
「もし私がタバコを吸い始めても同じように言ってくださいますか?」
顔を上げたヴィンセルが苦い顔を見せる。
カイルの匂いは汗や煙草の匂いで本来の匂いが薄れていると感じていた。同じ匂いでもアリスの匂いが濃いのはそういうものがないから。
だが、そこに不純物が加わったとしたらどうだろう。恋をしていない今、そういう問いかけをすることにはなんの意味もないが、想像さえできないのならそれが答えだと思っていた。
そしてハッキリと答えは出ている。
「俺は……なぜ君と親しくなりたいのか、自分でもわからない。落ち着かせてくれる匂いを持つ君だから手に入れたいと思ってなのか、君への罪悪感からなのか。だが、確実に言えるのは、セシルと笑顔で話している君を見て、俺も話したいと思った。あのときの……食事会のときのようにもう一度君と笑い合いたいと。君にとっては思い出したくもないことだろうが、俺にとっては楽しい思い出なんだ。だから君の笑顔を自然と引き出せるセシルが羨ましかった」
嬉しい言葉だった。ちゃんとした言葉で伝えてくれること、あの食事会の時間をヴィンセルも楽しいと思っていてくれたこと。カイルの話題で盛り上がっていたのがほとんどだが、それでもあの瞬間はちゃんと笑い合えていたのだ、心から。
だが、どうしても考えてしまう。
「……もし、もしも私以外にもヴィンセル様が落ち着く匂いを持っている方がいたとして──」
「その匂いも含めて君を知りたいんだ。確かに匂いに惹かれて君を食事に誘った。だが今は匂いのためではなく、ちゃんと君を知ろうと、アリス・ベンフィールドという女性のことを知りたいと思ってるんだ」
今度はアリスが黙り込んでしまう。
匂いに惹かれたことの何が悪い。それも自分の一部。そこから始まってもいいはず。自分だってヴィンセルの外側しか見ていなかったのだから同じだともう一人の自分が呆れたように言い、アリスもそれに反論はしないが、やはりずっと考えてしまうだろうことは容易に想像がつく。自分は竹を割ったような性格ではなく、どちらかといえば考えすぎてジメジメとした鬱陶しい性格。
ヴィンセルの言葉を信じようと思っても心の奥ではその言葉を疑い続けてしまう。
「信用がないのも仕方がない」
「そういうわけでは……」
「その信用を取り戻すためのチャンスをくれないか?」
恋とは無縁だったアリスにとって男性からのアプローチへの対処法は必死に本をめくっても載っていない。主人公が男性を虜にして弄ぶ小説は好きではなく、早々に読むのをやめてしまったことを今はじめて後悔している。あの主人公なら上手い方法を語っていたかもしれないのにと。
「チャンスと言われましても……」
「もう心に決めた相手が?」
セシルの顔が頭に浮かぶが、アリスの中でまだ気持ちはハッキリしていない。
母親は『アリスの性格なら引っ張ってくれるぐらい自由な男性のほうがいいのよ』と言っていたが、セシルは自由すぎる。
大事なのは自分の人生であって、他人の戯言に左右されるような人生は歩みたくないと言っていた。だから自分の心のままに行動するのだと。
その決意によってアリスは振り回され続けている。
一緒にいるのは楽しい。だが、ティーナのときも最初はそうだったと思ってしまう。セシルはティーナとは違う。相手を思いやれる人間であり身勝手ではない。
あの日、セシルを守れてよかったと心から思ったのも確かだが──
「まだわからないんです」
「わからない?」
「セシルといると楽しいし、強いようで脆い彼を守ってあげたいと思っています。でもそれが恋なのかと言うと……正直わかりません。もしかしたらもう彼に恋をしているかもしれないし、恋ではなく親愛なだけかもしれない。恋という感情に確信が持てないんです」
「まだ学生だからな。俺だってまだだ。君がその歳でもう真実の愛を見つけたと言ったら俺は驚くよ。手探りで進んでいくうちに自分の心と向き合い、答えが出る日は来るだろう。君が自分の気持ちに気付くまでは俺もチャンスを与えてもらってもいいだろうか?」
自分は本当は今ベッドの中にいてまだ夢を見ているのではないかと思ってしまう。それか馬車の中で妄想に浸りすぎて戻れなくなっているのではないかと。
だからといって自惚れるわけにはいかない。自惚れたが最後、自滅するのは目に見えているから。
「それを決めるのは私ではありませんから」
「君が俺以外の誰かに恋をしたらそのときは正直に言ってほしい。君を諦めるから」
返事はせず頷くだけのアリスは少しぬるくなってしまった紅茶に角砂糖を二つ入れて溶かし、黙って一気に飲み干した。
「豪快だな」
「お誘いありがとうございました」
「ああ、また」
品のない行動だと分かっていても席を立つにはこれしか方法が浮かばなかった。
それを咎めることも注意もしないヴィンセルは面白いと言わんばかりに笑って立ち上がったアリスに手を振って見送った。
「は~……希望はなさそうだな……」
反応が良かったと言い聞かせることもできない反応に空を仰いで苦笑を浮かべる。
あの匂いが欲しい。でもそれだけではない。だからこそもっと知りたいのにアリスはもうそれさえも許してくれなそうだと目を閉じた。
「雨が降る……」
肌で感じる生ぬるい風と湿気に呟くとヴィンセルも紅茶を一気に飲み干して立ち上がり、教室へと向かった。
誘拐事件に巻き込まれることも、あれだけ嫌っていた銃を握って人を撃つことも、複数の男性から言い寄られることも全てアリスの人生計画には存在しないものだった。
華のない地味な公爵令嬢として生きて、いつか兄が認めた婚約者と結婚して家庭を持って、特に何かを残すことなく生涯を終える。それがアリスの人生計画だった。
しかし、その計画も彼らのランチタイムにお邪魔したことで全てが変わった。
婚約者でもない男性とキスをし、好きだと言われ、デートの途中で誘拐され、人を撃ち、愛してると言われた。
セシル・アッシュバートンからの猛烈なアプローチにアリスはまだ困惑しながら一緒に過ごしている。
「悩み事か?」
聞こえた声にハッとすると間近にいた男性に驚いた。
「え? ヒッ! ヴィンセル様!? なぜここに!?」
「幽霊でも見たような反応だな」
「す、すみません! まさかヴィンセル様がおられるとは思わなかったので」
「ボーッと歩いていると転んでしまうぞ」
辺りを見渡せば庭園のすぐ傍まで来ていた。教室からここまで歩いてきた記憶がない。夢遊病かと疑ってしまうほど綺麗に記憶が飛んでいる。
「久しぶりだな、アリス」
「そうですね、お久しぶりです」
「今日はここでのランチはなかったはずだが」
「あ……」
思い出したと口を開けるアリス。今日はセシルが生徒会の呼び出しがあってランチを一緒にすることができなかった。
教室で公開告白とキスをしてからセシルのアプローチは加熱するばかり。セシルファンの視線が痛く、陰口の酷さに聞くに堪えず教室から出たのだ。
そして気がついたらここまで歩いてきていた。
ヴィンセルと顔を合わせるのが気まずくないわけではないが、避けるほどでもない。相手が普通に話してくれているのだから自分も普通にしなければと顔を上げる。
「もしよかったらお茶でもどうだ?」
「二人で、ですか?」
「アルフレッドは花たちに呼ばれて行ってしまったからな。もし嫌ならカイルを呼ぶが」
「い、いえ、大丈夫です。お茶に誘っていただき光栄です。謹んでお受けします」
断られるのではないかと思っていたヴィンセルの表情に安堵の笑みが溢れ、一緒に庭園へと入っていく。
手際よく用意されるお茶の準備をアリスは座って待っているだけで会話が浮かんでこない。せっかく憧れの人とのお茶会なのだから何か楽しい話題を、と思っても緊張で出てこない。
「カイルから事件のことを聞いた。大変だったみたいだな」
リオには話していなかったが、ヴィンセルには話したのかと生徒会室の窓を見上げるもカイルの姿は見えない。
「セシルの精神面が心配です。いつも通りのセシルに見えますが、ムリしているのではないかと……」
「トラウマが再発するような出来事だからな。だが、彼はそれほど弱くはない」
「そうですね」
「家に引きこもって震えているより君に会うことが特効薬だと言っていた」
「嬉しいですね」
セシルはロマンチストなだけあって言葉を選ぶ。アリスに話すときも言葉を選んで話す。傷つける言葉は絶対に使わない。いつも笑顔でいてくれる。
だからこそ少し心配なのだ。あんなことがあったのに、すぐに学校に来ていつも通り過ごせるものだろうかと。
アリスは幼い頃から我慢の連続だった。ティーナというワガママの化身のような存在と共にいて、強制ではなく自分で選んで我慢したことだが、それでも限界が来てしまった。長い時間をかけて。
これは自分で選べたことだが、セシルは違う。恐怖とストレスを与えた人間はもういない。だからといって忘れることもできない。また同じ目に遭わないとは言えないのだから。
あれだけ震えて子供のように泣きじゃくっていたセシルが笑ってくれているのは嬉しくともそれに安心していいのかわからないでいる。
「優しいな、君は。セシルが好きになるのもわかる」
「……セシルは過大評価しすぎなんです。私は誰にでも優しい人間ではないですし、特別な美貌があるわけでもないんです。あんな風に特別な想いを寄せてもらえるほど立派なこともしていませんから」
実際、アリスはセシルがなぜこんなにも自分を好きでいてくれるのかわかっていない。
「君が自分をどう思おうが、好きになった者からすればその娘はとても魅力的に見えてしまうものなんだよ」
まるで恋を知っているかのような言い方にアリスは思わず問いかけた。
「ヴィンセル様もそういうお気持ちになったことが?」
「いや……んー……どうだろうな……君の匂いに惹かれてから君を見る目が変わった、というのはある。だがこれは俺の下心にすぎない。恋ではないだろう」
数回ゆっくりと頷くアリスを見て立ち上がったヴィンセルが頭を下げる。
「え? えっ!? お、おやめください! なぜ私に頭を下げるのですか!?」
何事だと慌てるアリスにヴィンセルはそのまま首を振って告げる。
「君を傷つけてしまったことをちゃんと謝りたかったんだ」
「頭を上げてください!」
「どうか許してほしい」
「許しますから頭を上げてください!」
許す許さないなどどうでもいいことだが、許すと言わなければ頭を上げないような気がして許すと言ったアリスにヴィンセルは笑顔を見せる。
困った人が多いと苦笑するも気が済んだならそれでいいとホッと息を吐き出した。
「俺は君の匂いに依存しようとしていた」
再び椅子に座ったヴィンセルの言葉にはアリスもまた頷く。
「何度も言うが、本当に初めてなんだ。誰かと一緒にいてあれほど落ち着いたのは。心から安心できた匂いだった」
「お兄様もですよね?」
「そうだが、カイルはあちこち走り回っているせいで匂いが薄い。たぶん汗や教師の煙草の匂いがついているせいだろう。君はそうじゃない。それがとても心地よかった」
これが純粋な気持ちであればアリスも嬉しかっただろう。そう言ってもらえるだけであれば。だが、ヴィンセルはそうではなかった。
「自分のために君を利用しようとしたのは確かだ。愚かだった」
自分の中身を知ろうとしないで外見と地位だけに価値を見出して寄ってくる令嬢たちと同じだと気付いて後悔したヴィンセルは目の前に置かれた紅茶に映る自分の顔を見つめる。
「さっきは恋ではないと言ったが、それは君のことをよく知らないからだ。君を知っていけば──」
待ってと手のひらを見せて言葉を遮ったアリスにヴィンセルは目を瞬かせる。
王子の話を遮ることがいかに無礼であるかわかっていながらもアリスは核心を聞いておきたかった。
「……ヴィンセル様が私を知っていけば恋に変わるかもしれないと思っているのは……私の匂いのために私を好きになろうとしているということですか?」
最初から上手くいかなかったから、二人きりになるとどうしても上手くいかないから疑ってしまう。これは純粋な好意かもしれないのに傷つきたくない思いが先走って問いかけるアリスは否定せずにまた黙り込んでしまうヴィンセルに苦笑する。
ヴィンセルが自分を好きになる理由が見つからない。妄想の中では都合よく付き合えていた。好きだと言われ、それに応えるだけでよかったのだから。
だが現実はそうもいかない。簡単にでも理由がいる。優しいから、笑顔が可愛いから、人に親切にしているのをいいなと思った……などなんでもいい。しかし、匂いと言われると受け入れ難い。それはアリスだけの匂いではなく、ベンフィールド家の匂いだから。カイルの傍にいても少し落ち着くというのはそういうことだろう。
「もし私がタバコを吸い始めても同じように言ってくださいますか?」
顔を上げたヴィンセルが苦い顔を見せる。
カイルの匂いは汗や煙草の匂いで本来の匂いが薄れていると感じていた。同じ匂いでもアリスの匂いが濃いのはそういうものがないから。
だが、そこに不純物が加わったとしたらどうだろう。恋をしていない今、そういう問いかけをすることにはなんの意味もないが、想像さえできないのならそれが答えだと思っていた。
そしてハッキリと答えは出ている。
「俺は……なぜ君と親しくなりたいのか、自分でもわからない。落ち着かせてくれる匂いを持つ君だから手に入れたいと思ってなのか、君への罪悪感からなのか。だが、確実に言えるのは、セシルと笑顔で話している君を見て、俺も話したいと思った。あのときの……食事会のときのようにもう一度君と笑い合いたいと。君にとっては思い出したくもないことだろうが、俺にとっては楽しい思い出なんだ。だから君の笑顔を自然と引き出せるセシルが羨ましかった」
嬉しい言葉だった。ちゃんとした言葉で伝えてくれること、あの食事会の時間をヴィンセルも楽しいと思っていてくれたこと。カイルの話題で盛り上がっていたのがほとんどだが、それでもあの瞬間はちゃんと笑い合えていたのだ、心から。
だが、どうしても考えてしまう。
「……もし、もしも私以外にもヴィンセル様が落ち着く匂いを持っている方がいたとして──」
「その匂いも含めて君を知りたいんだ。確かに匂いに惹かれて君を食事に誘った。だが今は匂いのためではなく、ちゃんと君を知ろうと、アリス・ベンフィールドという女性のことを知りたいと思ってるんだ」
今度はアリスが黙り込んでしまう。
匂いに惹かれたことの何が悪い。それも自分の一部。そこから始まってもいいはず。自分だってヴィンセルの外側しか見ていなかったのだから同じだともう一人の自分が呆れたように言い、アリスもそれに反論はしないが、やはりずっと考えてしまうだろうことは容易に想像がつく。自分は竹を割ったような性格ではなく、どちらかといえば考えすぎてジメジメとした鬱陶しい性格。
ヴィンセルの言葉を信じようと思っても心の奥ではその言葉を疑い続けてしまう。
「信用がないのも仕方がない」
「そういうわけでは……」
「その信用を取り戻すためのチャンスをくれないか?」
恋とは無縁だったアリスにとって男性からのアプローチへの対処法は必死に本をめくっても載っていない。主人公が男性を虜にして弄ぶ小説は好きではなく、早々に読むのをやめてしまったことを今はじめて後悔している。あの主人公なら上手い方法を語っていたかもしれないのにと。
「チャンスと言われましても……」
「もう心に決めた相手が?」
セシルの顔が頭に浮かぶが、アリスの中でまだ気持ちはハッキリしていない。
母親は『アリスの性格なら引っ張ってくれるぐらい自由な男性のほうがいいのよ』と言っていたが、セシルは自由すぎる。
大事なのは自分の人生であって、他人の戯言に左右されるような人生は歩みたくないと言っていた。だから自分の心のままに行動するのだと。
その決意によってアリスは振り回され続けている。
一緒にいるのは楽しい。だが、ティーナのときも最初はそうだったと思ってしまう。セシルはティーナとは違う。相手を思いやれる人間であり身勝手ではない。
あの日、セシルを守れてよかったと心から思ったのも確かだが──
「まだわからないんです」
「わからない?」
「セシルといると楽しいし、強いようで脆い彼を守ってあげたいと思っています。でもそれが恋なのかと言うと……正直わかりません。もしかしたらもう彼に恋をしているかもしれないし、恋ではなく親愛なだけかもしれない。恋という感情に確信が持てないんです」
「まだ学生だからな。俺だってまだだ。君がその歳でもう真実の愛を見つけたと言ったら俺は驚くよ。手探りで進んでいくうちに自分の心と向き合い、答えが出る日は来るだろう。君が自分の気持ちに気付くまでは俺もチャンスを与えてもらってもいいだろうか?」
自分は本当は今ベッドの中にいてまだ夢を見ているのではないかと思ってしまう。それか馬車の中で妄想に浸りすぎて戻れなくなっているのではないかと。
だからといって自惚れるわけにはいかない。自惚れたが最後、自滅するのは目に見えているから。
「それを決めるのは私ではありませんから」
「君が俺以外の誰かに恋をしたらそのときは正直に言ってほしい。君を諦めるから」
返事はせず頷くだけのアリスは少しぬるくなってしまった紅茶に角砂糖を二つ入れて溶かし、黙って一気に飲み干した。
「豪快だな」
「お誘いありがとうございました」
「ああ、また」
品のない行動だと分かっていても席を立つにはこれしか方法が浮かばなかった。
それを咎めることも注意もしないヴィンセルは面白いと言わんばかりに笑って立ち上がったアリスに手を振って見送った。
「は~……希望はなさそうだな……」
反応が良かったと言い聞かせることもできない反応に空を仰いで苦笑を浮かべる。
あの匂いが欲しい。でもそれだけではない。だからこそもっと知りたいのにアリスはもうそれさえも許してくれなそうだと目を閉じた。
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