愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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強き兄、妹に弱し

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「来たぞ!」

 爽やかな笑顔で寄ってきたカイルがアリスの前に立つと同時に顔が勢いよく横を向いた。

「ア、アリスちゃん!?」

 何も言わずに思いきり平手打ちをくわらせたのだ。

「アルフレッド様に謝ってください、今すぐに」
「当たらないよう計算した」
「それはアルフレッド様がそこから動かなかった場合の計算ですよね? もし当たっていたら想定外だった、では済まないんですよ? どうするおつもりですか? まさか、そんなことはありえないなんて言いませんよね? 絶対なんてものがないこの世の中で断言できるはずないのですから」

 アリスの言葉には身に覚えがある。カイルがいつも何かを断言する相手に言う言葉だ。

「これは綿でできているのですか?」
「いや」
「ではカップは何でできているのでしょう?」
「陶器だ」
「陶器は地面に落とすとどうなりますか?」
「割れる」
「割れた破片が目に刺さるとどうなりますか?」
「失明する」
「失明したらお兄様はどう責任を取るおつもりですか?」

 詰めるアリスにカイルも淡々と答えるが、表情にいつもの余裕はない。
 カイルはいつもアリスにとっては良い兄だった。少し異常な過保護性はあっても守ってくれる優しい兄。
 しかし、今回のことは別問題だとアリスは万が一のことがあったかもしれないと怒っている。
 アリスがこうして面と向かって怒ってくることなど十七年間で一度だってなかったカイルにとって現状に戸惑いを隠せず、アルフレッドに身体を向けて頭を下げた。

「悪かった。気が動転していたんだ。お前がアリスの手を気安く握るからお前までアリスを狙っているんじゃないかと思って」
「カイル……」

 カイルが頭を下げる姿はレアもレア。他人に頭を下げさせることはあっても自ら頭を下げることなどほとんどない。業務的なことだけ。
 そのカイルが自ら頭を下げたことにアルフレッドは感動して笑顔を見せる。

「カイル、俺は怒ってないよ。そりゃ驚いたけどさ、カイルはアリスちゃんのことになると周りが見えなくなるし、ヴィンセルに言ってたことを聞いてたのに勝手に手を握っちゃった俺も悪いしね」
「だよな」

 自分も悪かったと言ったアルフレッドはカイルの返事に笑顔のまま固まった。
 謝罪はただの演技。アリスに許してもらうためのパフォーマンスだったのだとカップが落ちてきたことよりもショックを受けた。
 だがそれもアリスがカイルの手の甲を思いきり抓ることで解消される。

「私のことでお兄様が誰かを危険に晒すようなことをなさるなら私はお兄様と二度と口を利きませんからね」
「アリス、冗談は言うもんじゃない」
「冗談ではありません。食事も会話もお兄様とは一切しませんから」
「アリス、それがどういうことわかって言ってるのか?」

 まさか妹にまで脅しをかけるのかとハラハラするアルフレッドがカイルとアリスを交互に見つめる。
 厳しい顔でまるで対峙しているような兄妹のどっちが強いのかアルフレッドは決着の瞬間を待っていた。

「お兄様との楽しい時間はもう二度とやってこないということです。四季のイベント事はもちろん、お出かけもしませんし、お兄様の存在はないものとして生活します」
「お前に耐えられるのか? 買い物はいつも兄様と行くじゃないか。母さんとは行きたくないんだろ? 兄様がいなきゃ買い物だってできないのに出かけないなんてよく言えたな」

 ふふっと笑うカイルにニッコリ笑ったアリスがアルフレッドを見た。

「アルフレッド様、お怪我はありませんか?」
「え? あ、うん、大丈夫。制服にはついたけど怪我はないよ」
「急にカップが飛んでくるなんて誰の悪戯でしょう」
「え……?」
「悪戯にしては悪質すぎますね」

 カイルに背を向けるアリスがアルフレッドの制服を見て破片がついていることに気付き、ハンカチでササッと払うとアリスの劇がはじまった。
 何がしたいのかわからないわけではないが、戸惑ってしまうアルフレッドが苦笑しながらどうしたものかと頬を掻く。

「上から降ってきましたよね?」
「そう……だね……」

 上を見上げるアリスと一緒にアルフレッドも見上げようとしたが、カイルの視線が気になってできなかった。

「あ、セシル」

 生徒会室の窓から顔を覗かせるセシルと目が合うと手を振る。

「アリス大丈夫ー?」
「カップが落ちてきたのー」
「カイルが投げてたー」
「カイルって誰ー?」
「え? カイルだよ、カイルー。そこに立ってる世界で一番横暴な男ー」

 言いたい放題のセシルに笑いながら辺りを見渡して見せるアリスは誰も見えないとでも言いたげに肩を竦める。

「誰もいないよー?」
「そこにいるじゃん!」
「セシルには誰が見えてるのー?」
「ちょっとヴィンセルこっち来て! カイルそこにいるよね!?」

 何が起こっているのかわからないセシルがヴィンセルを呼んで下を覗かせるとカイルの姿を確認して頷く。

「カイルと喧嘩でもしたー?」
「だからカイルって誰ー?」
「アリス、兄様を無視するんじゃない」
「君の兄だよー」
「私一人っ子だって知ってるでしょー?」
「あ、これ間違いなくアリスを怒らせたっぽいね」

 窓から飛び出す前にアリスを怒らせたとカイルが言っていたため話がこじれたのだと理解したセシルは面白そうだと笑みを浮かべてアリスに合わせることにした。

「アリスー、もうすぐ終わるから一緒に帰ろー」
「ダメだ! 絶対に認めんぞ!」
「いいよー。じゃあ待ってるー」
「アリス!」

 いつもならカイルの反対にアリスは一応諭すような言葉を言うのだが、今日は自分の意思で返事をした。
 完全にアリスの世界から消えているカイルはアリスの前に回り込んで肩を掴むもアリスはセシルに手を振っているだけで反応しない。

「アリス! 兄様を無視するんじゃない!」
「今日はセシルと帰ります」
「そ、そうなんだね。僕は生徒会室に顔を出そうかな」
「アリス、兄様を見なさい」
「もうすぐ終わるって言ってましたよ?」
「あ、じゃあ急がないとね! 今日はお茶に付き合ってくれてありがとう! じゃあね!」

 この嫌な空間から抜け出す理由ができたと飛び出すように走って行くアルフレッドを見送るとアンベール家の使用人に会釈をして庭園を出ようとするもカイルが目の前に立ちはだかる。

「アリス! 幼稚なことはやめるんだ!」

 両手を広げて引き留めるカイルの横を通ろうとすると邪魔される。

「セシルの言うもうすぐは十分ぐらいだから馬車で待ってようかな」
「アリス! いい加減にしろ!」

 入り口に立たれると抜けられない。
 腕を組んで考え事のふりをするアリスに怒るとようやくアリスと目が合うも怒った表情は変わらない。

「無視されるの嫌ですよね?」
「嫌だ」
「じゃあどうするのが正解ですか?」
「……だが、あれはお前を守るためだ」
「反省はしないとおっしゃるのですね?」
「そうは言ってない。俺が行動するには理由があると言っているだけだ」
「嫌い」
「ッ!?」

 アリスが放つその言葉は無視の十倍以上効果的で、カイルを石化させる。そしてすぐにピシピシと音を立てて砕け散る。
 地面に横たわって静かに涙を流すカイルを恥ずかしいとは思わないが、可哀想だとも言い過ぎたとも思わない。
 この横暴さを許し続ければカイルはいつか本当に刑務所に入ることになる。今日も下手すればアルフレッドを殺す可能性だってあったのだ。
 それを『計算した』の一言で済ませようとするカイルが今日ばかりは許せない。

「お兄様のそういうところ、大嫌いです」
「ア、アリス……!」

 空から降ってきた槍がカイルの心臓を貫き

「嫌い、です」

 もう一本も貫いた。

「ちゃんと心からアルフレッド様に謝るまでお兄様とは口を利きません」
「謝ったじゃないか」
「だよな、と言ったでしょう?」
「抓った」
「抓られて当然のことを言ったからです」
「それで帳消しには──」
「なりません。明日のランチ、私も同席させていただきます。その場でちゃんと謝ってくださいね」
「無視しないか?」
「誠心誠意謝れたらお喋りしましょうね」
「今日は?」
「話しません」
「そんなッ! アリス! 今日は兄様が勉強を見てやる約束じゃないか!」
「セシルとします」

 大の字で寝転んでいるセシルの腕を跨いで早歩きで庭園から出ていったアリスを目で追いかけていたものの、アリスは一度も振り返ることはなかった。
 自分が悪いとわかってはいる。自分の仕事が終わり、他のメンバーの書類待ちで紅茶を飲んでいたところ、窓から二人の様子が見えカッとなってやってしまった。
 絶対に間違うことはないと自負していた人生に汚点が刻まれてしまうとカイルは絶望宿す瞳でぼんやり空を見上げる。アルフレッドに頭を下げ、誠心誠意謝るという汚点はもはや恥だと思っていた。

「ねえ、何があったの?」

 その様子を窓から見ていたセシルが生徒会室に到着したアルフレッドに問いかけると苦笑しながら答えた。

「アリスちゃんがマジギレしたことでカイルが謝ってくれたんだけど演技だったんだよね」
「だろうね」
「それにまたアリスちゃんが怒って言い合いになって、売り言葉に買い言葉って感じでカイルを無視し始めた」
「それに対してカイルは?」
「無視するなって訴えてた」
「で、今あれか。カイルってホント、アリスが関わると異常だしアリスと対峙するとダサいね」
「言い過ぎだぞ」
「事実だし」

 四階の生徒会室からは庭園がよく見え、アリスが去ってもまだ起きあがろうとせず地面に寝転んで空を見上げているカイルが動き出したときが怖いとアルフレッドは震える。
 
「さーてと、僕の仕事は終わったし、もう帰るよ。アリス待たせてるから」
「カイルのチェックが入ってないだろ」
「カイルがここに来るの待ってたら夜が明ける」
「すぐに来るだろ」
「アリス待たせてるんだけど」
「仕事は仕事だ」

 真面目なヴィンセルとセシルの相性はあまり良くはない。
 セシルの何かあればアリスとの仲を自慢してくることもヴィンセルにとっては好ましいことではなかった。
 アリスを優先するせいで生徒会への出席を疎かにするのもヴィンセルは許せない。カイルは仕事をすれば問題はないと言うが、それでは他のメンバーに示しがつかないと何度もカイルと対立した。
 結果は変わらず。セシルに言い聞かせる時間がもったいないと言われたのだ。
 父親の跡を継いで国王になることが決まっているヴィンセルにとって贔屓のようなことは容認できるものではない。
 しかし、それが純粋な感情かどうか断言できないのも事実。アリスのことが絡んでいるからセシルに厳しくしているのではないかと。実際、アリスとセシルが仲良くなるまでセシルのことはヴィンセルも大目に見ていたのだ。

「とにかく自分の仕事はやったんだから帰る。どうせ早く帰りたいから戻ってきてって言ったところで意地でも戻らない気がするしね」
「それはあるねー。一緒に帰る約束しちゃったし」
「でしょ? だから僕はもう帰る。あとはよろしくー」

 鞄を持ってひらひらと手を振りながら出ていったセシルにヴィンセルが大きなため息を吐いた。
 
「ヴィンセルはアリスちゃんのこと、どうするつもり?」
「どうって……俺はやり方を間違えたせいでアリスからの信用を失ってしまったらしい。取り戻すチャンスが欲しかったんだが、透けて見える下心を受け入れる奴はいない。疑心を打ち消すのは至難の業だ」
「そっか。花も水や肥料の量を間違えると枯れちゃうからね。取り返しのつかないことってあるよね」

 婚約者としては申し分ない相手だった。公爵令嬢で、しかもベンフィールド家の娘。両親は息子の過敏症が和らぐ相手が居たとなれば大歓迎しただろうが、本人が失敗した以上はもうお手上げ。
 苦笑するヴィンセルの肩を叩くアルフレッドに頷くもハンカチで鼻を押さえて距離を取る。

「仕方ないけど酷いよね」
「すまないな。お前の匂いが一番受け付けない」

 アルフレッドの香水の匂いだけではなく令嬢たちの香水がブレンドされて吐きそうだった。

「カイル! さっさと戻ってこい! お前が戻ってこないと帰れないだろ!」

 まだ寝転んでいるカイルに怒鳴ると渋々起き上がったのが見え、席へと戻るとアルフレッドに犬を追い払うような仕草を向ける。

「カイルが来るぞ。さっさと帰れ」
「そうだね。じゃあね、王子様、また明日」
「ああ」

 ウインクを飛ばして帰っていくアルフレッドはドドドドッと物凄い足音に悲鳴を上げながら別方向の階段で降りていった。

「酷い顔だな。イケメンが台無しだ」
「黙れ。さっさと帰れ」

 普段の爽やかさはどこへやら、戻ってきたカイルがアルフレッドがいないか部屋を見回して確認するも姿はない。
 泣いていたのがわかる顔に笑うも機嫌は最悪。
 こういうときのカイルは手に負えないため、事情を知る生徒達はヴィンセルのジェスチャーに従って物音を立てないようにして部屋を出ていった。

「お疲れさん」
「失せろ」

 人間失格だと言いたくなる態度だが、一枚一枚ちゃんと目を通して仕事する姿に感心しながらヴィンセルも鞄を持って帰っていった。
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