愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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誰を敵に回そうとも

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「お兄様」
「カ、カイル!」

 カイルが入ってくるとは思っていなかったオリヴィアの驚きは立ち上がったその勢いから伝わってくる。

「お会いできて光栄です、オリヴィア王女」

 うやうやしく頭を下げるカイルに嬉しそうな表情で寄っていくオリヴィアを見てアリスは部屋に帰ってもいいのだろうかと考える。

「待てど暮らせどお返事をくれないものだから私のほうから訪ねたの」

 薄い笑みを浮かべるカイルがやれやれと言わんばかりにゆっくりと首を振る。

「プライベートとはいえ、あなたは王族だ。事前連絡もなしに訪ねるなど非常識だと思いますが」
「だって、会いたかったんだもの。訪ねたいって手紙を書いたら返事をくれた?」
「もちろんです。お断りの手紙を差し上げました」
「ほらね! だからサプライズで来たの! 私の勘は当たってた!」

 自分の都合しか考えていない王女が王子でなくてよかったと他国の人間でありながら二人は安堵する。
 薄い笑みすら浮かべるのが馬鹿馬鹿しいと感じたカイルは呆れ顔でオリヴィアを見てアリスの隣に腰掛けた。

「その考えが非常識だと言っているのですが、おわかりでしょうか?」
「私は王女よ? 突然の訪問だって許されるわ」

 なぜカイルがオリヴィアの話を一切しないのかよくわかった。
 オリヴィアは王女であるが故に非常識なことも『王女だから』で許されてきたのだ。そんな人間をカイルが好きになるはずがない。
 わかっていたことが、よくわかったと納得したアリスがカイルを見ると目が合い、優しい笑みが向けられる。
 それが気に入らないオリヴィアがドスンッと音を立ててソファーに腰掛けた。
 目の前で揺れる今にもこぼれ落ちそうな胸。そこまで強調せずとも存在はわかるだろうにと胸がないアリスは思ってしまう。

「カイル、妹を結婚させたら?」
「そのつもりはありません」
「でも妹がこのまま三十代になっても結婚しなかったらどうするの?」
「どうもしません。老嬢になってもいいとさえ思っているぐらいですから」
「ねえ、今度うちで開くパーティーに来ない? 素敵な男性が山ほど来るのよ。きっと妹に相応しい男性が見つかるわ」
「結構です」

 即答するカイルにオリヴィアの頬が引き攣る。
 自分がパーティーに招待すれば誰もが感謝して頭を下げるのにカイルはアリスの髪を優しく撫でるばかりでオリヴィアの顔は見ようともしない。

「失礼じゃない?」
「突然訪問することより失礼なことはないはずですが」
「どうして!? 私に会えて嬉しくないの!?」
「再会を喜べるぐらいの気持ちがあればお断りはしていません」

 それがどういう意味なのか、オリヴィアにもわからないわけではないが受け入れられない。
 オリヴィアにとってカイルは一目惚れで運命の男性だと感じた相手。ここで腹を立てて帰るわけにはいかなかった。

「妹が結婚しないからあなたも結婚しないんでしょ? じゃあ妹が結婚しちゃえばあなたも結婚の意思を固めるってことよね?」
「妹の結婚相手を決めるのは私です。家柄はもちろん、容姿も重要、頭脳、職業、趣味、作法など、私が出す課題全てに合格した男でなければ認めません。ああ、それから面倒なお考えをなさる前にお伝えしておきますが、もしそれを全て合格した相手がいて妹が結婚したとしても私はあなたとだけは結婚いたしません」
「どうして!? 私と結婚できるのよ!? 王女と結婚できる機会なんてそうそうないのよ!?」

 そこまでハッキリ言っていいのかと聞いているアリスのほうがハラハラしてしまう。
 だが、今はまだ侮辱罪にあたるような言い方していない。膝の上で手を左右に動かしながらセーフだと言い聞かせる。

「非常識を王女だから許されると言うような女性を妻にすると恥をかくのは私です。私は結婚後は仕事に集中し、妻にはそれを支えてもらいたい。忙しい旦那を労いもせず自分の感情を優先する構ってほしがりの女性は吐き気がするほど嫌いなんです」

 言いきったカイルにオリヴィアは全身を震わせている。

「私のことを言ってるの……? 私はそんな女じゃない! 仕事で疲れて帰ってくる夫を労えるわ!」
「ほう、不思議ですね。私のことは以前お会いしたときに少しお話しさせていただきました。その際、あなたは私にこう言った。忙しく働く男性は素敵だと。私が多忙な日々を過ごしていることを知りながらあなたが取った行動は労いではなく非常識そのもの。ですがあなたはそれを王女だから許されると思っている。それは結婚しても変わらないでしょう。いや、結婚すればひどくなるかもしれませんね。だって今は他人でも結婚すれば夫となり、あなたの非常識さをいちいち指摘するという非常に無駄で吐き気がする義務が発生する。そんな人生はお断りです」
「お兄様、言い過ぎです」
 
 小声で伝えるアリスの頬を撫でるカイルは愛おしげに目を細めてその柔らかな頬を軽く揉む。
 人の頬で遊ぶなと手を押し離すアリスが横目でオリヴィアを見るもすぐに逸らした。あの顔は直視してはいけないと本能が訴えかけるほどひどい顔をしている。

「私は王女として立派な教育を受け──」
「そんなことより妹に謝ってください」
「……は? 謝る? 私が?」
「ええ。妹に失礼な発言をしたことを謝ってください」
「失礼な発言なんてしてない」
「それぐらいしか役に立てないと言ったのをこの耳で確かに聞きました。そして何様だ、処刑されたいのかとまで言ったのをもうお忘れですか?」

 一部始終聴いていればこんな言い方では済まなかっただろうとアリスは思う。
 
「事実じゃない! なんの取り柄もなさそうな妹だし、あなたの妹にしては地味すぎるもの! あなたはこんなにもかっこよくて素敵なのに、こんな芋っぽいのがあなたの妹として隣を歩くなんて恥ずかしいでしょ?」

 街を歩けば同じことを言われてきた。一回や二回ではなく何百回も。妹のアリスから見ても兄は整った顔をしているし、背も高いためよく目立つ。だから歩いていてもよく声をかけられる。そのときに令嬢たちはいつも『妹さん?』と聞き、妹だと答えると『ほらね』『やっぱりそうよ』と言う。
 皆こう思っているのだ。『こんな地味な女がこんな素敵な男性の婚約者なわけがない』と。見下す視線を浴び続けたアリスもそういうのにはもう慣れた。
 誰が見てもアリスはカイルには似ていないし、良いところを全て持っていかれた残り物のような顔をしていると鏡を見ながら何度も思った。
 自分で思っていることを言われようと気にはならないが、問題は兄の感情。自分を貶されようと鼻で笑い飛ばして終わるが、妹のこととなると黙っていられない性格なのがカイル・ベンフィールド。

「これ以上その中身の詰まっていない空っぽの頭に何を言っても無駄なのはわかりました。あなたがいかに愚かで非常識なクソ女であるかもわかった」
「クソおんッ……!?」

 声色が低くなり、口調が変わって化けの皮が剥がれ始めたカイルにアリスは天井を見上げて耳を塞ぐ。

「手紙で丁寧に断っても理解できないようだから今ここでハッキリと断ってやる。お前のような頭の悪いクソ女と結婚するぐらいなら言葉の通じない犬や猫と結婚したほうがマシだ。サプライズの意味も知らないバカのくせに何が労えるだ。派手な顔して頭は空っぽ。俺の妹は世界で一番可愛いんだよ。恥晒しのお前と違ってな」

 視界の端に映るカイルの表情から見てもダメなことを言っているのはわかる。言ってはいけないことを言っているに違いないとアリスは目を閉じた。
 
「ッ!?」

 幼子が癇癪を起こした際に発する超音波のような声にハッとして目を開けると顔を両手で押さえながら部屋を飛び出すオリヴィアの背中が見えた。何事かとカイルを見ると手にティーカップを持っていた。

「…………お兄様……そのカップの中身は……飲み干した、の、ですよね?」

 どうかそうだと言ってくれ。カップ全体を持つ変わった持ち方はしているが、それは紳士の間で流行っている持ち方だと言ってくれ。その通りに動いてくれとカイルの口を見つめていたが、カイルの口は笑みを浮かべて「まさか」と言った。

「お前に紅茶をぶっかけようとしたからその前に俺がご馳走してやったんだ。上等な茶葉だったんだろ?」

 王女だとわかっているのだからこの家にある一番上等な紅茶だろうが、今はそんなことはどうでもいい。
 紅茶は既に火傷するほどの温度からは冷めているが、王女に紅茶をかけて許されるのだろうかと何もしていないアリスのほうが不安によって心臓が止まりそうだった。

「侮辱罪というか王族──」
「アリス、心配するな。うちは大丈夫だ。無傷で終わる」

 その妙な自信はどこから来るのだろうと不思議に思うが、恐ろしいので聞かないことにした。

「お兄様、でもオリヴィア王女がおっしゃっていたように──」
「兄様よりあの女の言うことが正しいと思っているんじゃないだろうな?」
「……まさか! オリヴィア王女がおっしゃっていたようにお兄様はかっこよくて素敵だと言いたかっただけです! ふふっ、お兄様ったら怖いお顔」

 カイルは今少し機嫌が悪い。余計なことでも言おうものなら何を言い出すかわからない。幼少期、それで一度後悔したことがある。もう二度と同じ過ちは繰り返さないと幼い日に誓ったのだ。
 カイルの頬を指でつついて笑顔を見せるアリスは紅茶を飲み干してから立ち上がり、ドアへと向かう。

「え?」

 離れようとするアリスの手を掴んだカイルに口から心臓が飛び出しそうなほど驚いたアリスの身体が緊張で硬直する。

「アリス、お前は急いで相手を見つけようなんて思わなくていいからな。お前の相手は兄様が認める相手でなければならない。それはわかっているな?」
「もちろん! だってお兄様の目は確かだもの!」

 怒りませんようにと心の中で三秒で百回唱えた。
 きっと嘘だとバレているとわかっていても怒らなければそれでいい。他人のことで怒っているのなら止める方法はいくらでもあるが、自分が怒らせてしまった場合は両親に頼るしかない。頼ったところで放っておけと言われるだけだが、それでもアリスは兄との厄介事だけは避けたかった。
 
「アリスの絶対は?」
「お兄様」
「アリスのことを一番大事に思っているのは?」
「お兄様」
「兄様の言うことは?」
「絶対」
「よろしい」

 もはや格言のようになっているやりとりを幼い頃から続けているが、ここまで圧を感じたのは初めて。
 婚約者だ結婚だの話になると異常なほど機嫌が悪くなる。
 心に決めた相手ができ、誰かと結婚したいと言ったらどうなってしまうのか、心配になってしまう。
 それでも兄のために結婚しないという選択はしないだろう。
 だからこそアリスは今の環境は良くないと思ってしまう。

「アリス」
「はい」
「兄様はやりすぎか?」

 突然の言葉にアリスは少し戸惑った。暴君主義の兄でもそんな風に思うことがあるのかと。

「……紅茶をかけたのはやりすぎですね」
「言いたいことわかってるだろ?」

 それに対する返事などできるはずがない。
 カイルはいつだってやりすぎだ。妹のこととなると簡単に鬼になってしまう兄を悪鬼と呼ぶ者は多い。妹の復讐のためなら手段を選ばないからだ。恐ろしいのは証拠を残さないこと。
 証拠が残っていたとして、もし万が一にでも密告しようものなら何があるかわからない。カイルはそれだけの情報を握っている。それは絶対の強みではあるが、だからこそアリスはカイルがやりすぎるのを心配していた。

「なんのことでしょう?」
「まあいいか」

 でも言えない。やりすぎだと言ったところで変わるつもりなどないのだ。
 以前、父親が言っていた。

『カイルの中には鬼がいる。とんでもなく大きな鬼が。暴れ出すと手がつけられない厄介な鬼だ』と。
 
 それはアリスも感じている。アリスが傷付けられれば二倍三倍どころではなく、十倍、二十倍、下手すればもっと──周りが止めるまで止まらなくなる。 
 やりすぎだと何度叱られてもカイルはそれをやめようとしない。もし自分で止められないのだとしたら、いつか本当に危険なことになってしまうのではないかと家族全員が危惧している。

「お兄様、どうか心穏やかに生きてくださいね」
「どうした?」
「穏やかなお兄様が好きです」
「そう心がけているつもりだ」
「王女様に紅茶をかけることは穏やかではありませんよ」
「それもそうだな」

 こうして笑ってくれることが嬉しいし安心する。だからアリスは地味のままでいると決めている。
 地味でいれば誰かに注目されることはないし、少し言われたぐらいで口を出さないでとお願いしているためカイルも怒りはしない。
 何より異性が寄ってくることはないのだ。誰だって美人に目がいく。化粧したところでそんなに変わり映えしないのならしないほうが穏やかでいられると思い、そうしている。
 ただし、全くしないのは母親に怒られるため必要最低限だけ。それで今までの人生リオ以外から想いを向けられたことはない。平凡そのものだった。

「アリス、俺は誰を敵に回そうともお前だけは守ってやるからな」

 不穏に感じる発言にアリスは苦笑して首を振る。

「まず敵を作らないようにしてください」
「それは相手次第だな。俺は根っこは穏やかな男なんだ」
「ふふっ、そうですね」
「部屋に戻ってゆっくり休め」
「お兄様も」
「ああ」

 手を離され部屋を出ると座り込みたくなるほどの疲労感に襲われた。
 いつ出てくるかわからない兄に見られる前にと座りこむのは我慢して部屋へと急ぐ。
 
「あー!!!!!! 疲れたー!!!!!!」

 ベッドに飛び込み叫ぶように疲れを訴えるアリスは夕飯の時間まで睡眠という形で記憶を飛ばした。
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