愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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後始末

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 セシルが「アリスが髪を切れらた」と生徒会室に連れて行ったとき、カイルは一分ほど硬直し、その後すぐ学園中に響き渡るほどの絶叫と共にアリスを抱きしめた。そしてすぐに「放課後の生徒会はなしだと伝えてくれ!」と言ってアリスを抱えて帰っていった。
 向かった先は自宅ではなく国一番と評される美容師のいる店。アリスは馬車の中に置いて美容師を誘拐するように馬車の中へと連れ込み、すぐに自宅へと向かった。
 バタバタと足音うるさく帰ってきたカイルが使用人に大きな姿見を用意しろと命じ、あまりの大声に驚いた母親も様子を見にやってきたのだが、カイルによって追い出されてしまった。
 そして用意された姿見の前でアリスは椅子に腰掛け、その後ろに立って丁寧にカットしていく美容師の左右に何度も移動しながら声を上げ続けている。

「髪が伸びるまで学校休むか?」
「行きます。カットしただけだと思えばいいんですから」
「カットしたんじゃない、切られたんだ」
「同じことだと思いますけど……」
「全然違う! お前の意思で切ったのならいい! だからお前はお前の意思に反して切られたんだ! これは傷害事件だ」
「そんな大袈裟な……」

 髪を伸ばすのが好きだった。おしゃれがわかっていないためヘアアレンジなどほとんどすることはなかったが、それでも長いと女性らしさを感じて顔ではなく髪を見るだけでテンションが上がった。
 だがそれももう終わり。片方だけ肩の上まで切られてしまったのだからもう片方もそれに合わせるしかない。サラサラと靡く髪はもうない。

「とびきり可愛くしてくれ。変な髪型にしたら君も許さない。俺は今、地獄の業火を腹の底に抱えている気分なんだ」
「お兄様、やめてください。手元が狂います」
「ああ、それもそうだな」
「どうかお座りになって」
 
 カイルがすぐにティーナを探し出して殴らなかっただけでも奇跡だとアリスは思った。ティーナに構っているより妹のこの髪をどうにかしなければと思ったのだろうと納得はしているが、今の発言から察するに許してはいない。許すはずがない。

「お兄様、ティーナは女の子だから柱に縛り付けて坊主にするとかはやめてくださいね」
「はっはっはっはっはっ! お前は兄様をなんだと思っているんだ? そんな残酷なことするはずがないだろう。そんなことをしたとバレたら学長になんと言われるかわからない」
「そうですよね。よかった」

 安堵するアリスの前に回り込んで笑顔を見せるカイルに「邪魔です」と言って鏡の前から退くように伝えるアリスは自分の髪がどんどん短くなっていくことに緊張で今にも吐きそうだった。
 ずっと手入れしてきた長い髪。傷みに気を付けてきた髪。風で靡く気持ちよさに浸り、自分で自分を褒められる唯一の部分だったのに、あまりにも無惨に切られてしまった。そして今、本来なら切る必要のない髪をどんどん切り落としていく。
 床に散らばっていく髪が鏡に映る。アリスはそれ以上見ていられず、目を閉じた。それでも聞こえてくる髪にハサミを入れる音が不愉快でならなかった。

「できました。いかがでしょうか?」

 まだ緊張しているのだろう強張った声に目を開けると思った以上に美しく整えられていた。
 生まれて初めてのミディアムヘアー。肩より少し上にあって顎よりも少し長め。揺れることはあっても靡くことはない。
 
「アリス、すごく可愛いぞ! よく似合ってるじゃないか! ありがとう、金はそこに立っている母親から受け取ってくれ」

 さっさと帰れと言わんばかりに背中を押して廊下へと放り出し、事が終わるのを廊下で待っていた母親を指差し再びドアを閉めたカイルはアリスの周りをぐるぐると回りながら絶賛し続ける。
 幼い頃からずっとロングだったアリスは一度も短く整えたことはない。

『アリスの髪はキレイだな』

 そう言って褒め続けたせいか、アリスは髪を弄るのをひどく嫌がった。そして髪の手入れに時間をかけるようになった。それはアリスにとって化粧よりもずっと大切な時間だった。
 だからこそ受け入れられない。

「ありがとうございます。髪が短くなるってこんなに軽いんですね。初めて知りました」

 毛先に手のひらを当てて持ち上げながら笑顔を見せるが声が震える。

「似合ってるのならこれでも……いい、かな……って……」

 涙が一筋頬を伝う。一つ溢れてしまうと二つ三つと続き、あっという間に止まらなくなってしまう。
 両手で顔を覆い、肩を震わせるアリスはなんとか声だけはと唇を噛み締めるが小さな音が漏れていく。
 
「アリス」

 震え泣く妹を抱きしめるカイルの表情は心中の複雑さを表しており、唇を噛み締めていた。

「お前はどんな髪型でも似合うよ。お前に似合わない髪型などあるものか。今の髪型もよく似合っている」

 髪を大事にしていたアリスにこんな言葉が慰め程度にもならないことはカイルもわかっている。だが、今かけられる言葉はそれしか思いつかなかった。

「ごめんなさい……」
「アリス……」

 立ち上がったアリスはカイルを見ることなく部屋を飛び出した。
 行き先は自室。わかっていても追いかけることはできない。
 追いかけてどんな言葉をかけたところでアリスの髪は戻ってこない。幼少期から大切にしてきたあの美しい髪はもう戻ってはこないのだ。
 今この瞬間からアリスは新しい髪型を受け入れるしかない。学生生活を終える頃には元通りとはいかないが多少は伸びている。
 それでも切られた過去は変えられない。

「どうしたの?」

 美容師だと名乗る男から請求された金額を執事に言って支払ったあと、部屋を覗き込んだ母親が床の上で胡座を掻く息子を見た。

「……だから俺は嫌だったんだ。アリスを表に出すのは……。あの子が傷つかないためには家に置いておいたほうがよかった。家庭教師でよかったじゃないか」

 悲しみではなく怒りと対峙しているカイルの様子に母親はアリスが座っていた椅子に腰掛けてカイルの頭を撫でる。

「痛みは生きていく上で必要なの」
「髪を切られる痛みや恐怖も階段から突き飛ばされる痛みや恐怖も必要なことか? アリスの人生にそれが必要なのか? あの子は幸せになるために生まれてきたんだ。愛されて穏やかに過ごすために生きている。だから俺はアリスは学校に行かせるなと言ったのに……」
「友達は必要よ」
「アリスに何人友達がいる? いつお茶会に呼ばれた? パーティーに誘ってもらったことが一度でもあったか?」

 学校に通って大勢の友人ができたのならカイルも何も言わない。だが、アリスに友達と呼べる相手はいない。ティーナだけだった。学校に行けば話す友人はいても、その相手はお茶会にもパーティーにも誘ってはくれないような仲だ。
 アリスが学校に行って経験したことは階段から突き飛ばされること、幼馴染から嫌がらせを受けること、乞食されること、見下されること。
 自分に自信がないアリスを学校に行かせること自体反対だったカイルにとってこの結果は許せないもの。
 両親とは何十回と話し合ったが、聞き入れてもらえなかった。口を揃えて『お前の人生じゃないんだ』と言われて、アリスがティーナと一緒に通いたいと言ったせいでもある。
 だからこそカイルは過剰にアリスを守ってきた。傷つかないようにと。
 しかし結局は四六時中、傍にいられないため守ることは不可能。

「何があったの?」

 母親の問いかけにカイルは床に散らばった髪を一束摘み上げた。

「これはアリスの髪だ。俺の可愛い妹の髪。あの子が大切にしていた髪。切るつもりなんてなかったのに……切られたんだ、学校で」

 アリスが階段から突き飛ばされたとき、カイルは言葉もなくリオを殴り続けた。ひどく静かになるのだ。
 怒鳴っている間はまだ冷静だと判断するのはおかしいが、両親はそう判断している。
 今のカイルは不気味なほど静か。母親にも少し緊張が走る。

「セシルの話ではティーナが切ったらしい。朝、訴状を持って乗り込んできた。俺に向けられない感情をアリスに向けてアリスが大切にしていた髪を切ったんだろう。俺はアリスを抱えてすぐに学校を出たから詳細は知らない。あくまでも俺の憶測に過ぎないが、間違ってはいないはずだ」
「ティーナがそこまでするなんて……」
「俺はどうすればいい? どうすることが正しいんだ? 妹のために何をしてやることが兄として正解なんだ? 教えてくれよ……」

 母親のドレスの裾を鷲掴みにして訴えるカイルの手が震えている。必死に感情を抑え込んでいるのだと母親は胸がひどく締め付けられるのを感じ、その手を上から握った。
 
「いつも通りのあなたでいてあげなさい。似合うと連呼して、抱きしめて、笑顔を見せる。あなたが笑ってるとアリスは安心するらしいの。あなたが怒ってると不安になるって。だから笑顔を見せてあげなさい」

 慎重に声をかける母親の言葉にカイルがゆっくりと立ち上がる。それを目で追った母親が目にしたのは笑顔の息子。

「そうだな。アリスを安心させるためにも俺は笑顔でいなくちゃならない」
「カイル、やめなさい」
 
 その笑顔の危険さを母親は知っている。

「全てはアリスの安心のためだ。兄として妹のためにできることをする。それが使命なんだ。そうだろ?」
「カイル、アリスの傍にいなさい」
「いるさ。俺はいつもアリスの傍にいる」
「だったらすぐにアリスの部屋に行きなさい」
「用事を済ませたらな」

 廊下に出たカイルに玄関とは反対方向に向かえと少し強めの口調で命じたが、カイルはそれを無視して玄関へと向かう。

「カイルッ! 怒るわよ」
「俺はもう怒ってる」

 笑顔で告げる不気味さに一瞬喉がごくりと鳴る。嫌な汗が噴き出すのを感じたが、行かせてはならないと走ってカイルを追いかけた。
 追いつき、腕を掴んで引き止める。

「カイル、あなたが怒ってるのはわかる。当然よ。私だって許せない。でもあなたがすべきことは外に出ることじゃない。アリスの傍にいて髪型を褒めてあげることよ。わかるでしょ?」

 諭すように優しい声で話す母親の手を振り払ったカイルは笑顔のまま口を開く。

「何を勘違いしているのか知らないが、俺はアリスのために髪留めを買いに行くだけだ」
「後日、アリスと一緒に行ったら?」
「今の気分を変えるための物が必要だ。心配するな、すぐ戻る」
「カイル待ちなさ──ッ!」

 外に出すことが心配でならない母親がもう一度カイルの腕を掴もうとしたが、逆に手首を掴まれてしまう。掴んだ瞬間は優しかったが、その直後に込められる力の強さに歪む。

「しつこいぞ、母上。これ以上はダメだ。わかるだろ?」
「……わかったわ。でもアリスを悲しませるようなことだけはしないで」
「俺はアリスの兄だぞ? するはずないだろう」
「……そう、ならいいわ……」

 怒っていると宣言したカイルをこれ以上怒らせると何が起こるかわからない。
 折れそうなほど強く握るカイルに母親は手を引き、それに合わせてカイルも手を離した。
 
「行ってくる。夕飯までには戻るから心配するな」

 そう言って出かけたカイルは本当に夕飯の時間までに帰ってきた。アリスへのプレゼントとしていくつかの髪飾りを手にして。
 服には何も変化はない。シワになってもいなければ汚れがついている様子もない。聖フォンスの制服のままだった。
 大人になったのかと安堵したい気持ちはあれど、そう簡単にできるものではない。
 母親としての勘がそう告げている。

 そしてその数日後、最悪な事件が起きた。
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