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アリスのダンスパーティーは楽しく終わった。あくまでもアリスのダンスパーティーは。
「本当にごめんなさい」
目の前で頭を下げるナディアにアリスは何度も首を振る。
「ナディア様、頭を上げてください!」
「せっかくのダンスパーティーでしたのに、わたくしのせいで台無しにしてしまいました」
「とても楽しかったですよ。台無しになってしまったのはナディア様のほうです」
「わたくしは慣れてますの」
引っ掛かりを覚えたアリスに眉間にシワが寄る。あれが楽しいことや呆れても笑えることであるならいってもいいが、あんな状況を慣れていると言うのは少し異常だと感じた。
「いつもあんな風に言われるのですか?」
「いつもではありませんわ。わたくしが失敗したときなどにエックハルトが注意してくれますの」
アリスは思わずアリシアを見た。小さな苦笑を見せるアリシアもエックハルトには何か感じているのだろうことがわかる笑み。
「……私が……言っていいことではないのかもしれませんが……エックハルト様と結婚されて、幸せになれるのですか?」
ナディアは即答しなかった。どこか困惑したような表情でアリスを見ている。
アリシアは一度ナディアを見てからため息を吐き出して、用意されている紅茶を一口飲んで喉を潤した。
「昨夜のことはやりすぎだったとわたくしも思っていましたの。謝罪をさせたいのであれば学校でもさせられますし、ナディアが謝罪するか怪しんでいるのなら門の前まで同行すればいいだけの話。それをあのような場所で謝罪させようとしたエックハルトには呆れましたわ」
「でも、確かに嫉妬で無視しちゃったのは大人気なかったし……」
「ええ、そうでしょうね。わたくしもそう思いますわ。ですが、ダンスパーティーの最中に謝罪させる必要がどこにありましたの?」
「謝れる間にって……」
「いつだって謝れるでしょ」
昨日からずっと続いているアリシアとナディアの、アリシアとエックハルトの問答。それでもアリシアは納得しておらず、今も腹を立てている。
「わたくしは昨夜のエックハルトの行動をこう思っていますの。ナディアがセシル様に恋をしてしまった嫉妬からナディアに恥をかかせようとしたのではと」
アリスが思っていたのと同じことをアリシアも思っていた。それにはアリスも同じ考えであることを伝えるために何度も頷く。
彼の表情からはアリスやセシルに対し本気で申し訳ないと思っているようには見えなかった。ただナディアを謝らせようとしているようにしか。だからこそ腹が立った。
「エックハルトはプライドが高すぎますの。心が惹かれるのは仕方のないことですし、ナディアの線引きが甘かったというのもありますわ。本気になってしまったとしてもそれを態度に出すべきではなかった。でもね、だからといってあの方法は問題ですわ」
「ミラネス家がどれほどの権力を持っているのかは知りませんが、アボット家は侯爵家。大勢の前で個人的な理由で頭を下げさせるなどあってはならないことです」
「ほら、アリスもわたくしと同じ意見ですわ。これでもまだあのお子ちゃまなエックハルトが正しいと言うつもり?」
「……だって……双子だもん……」
呆れと苛立ちが混ざった強いため息を吐き出したアリシアがナディアの頭を強く叩いた。
「双子と双子が結婚したら面白いと思う気持ちはわかりますわ。わたくしもそう思っていますもの。でもその面白さのためにあなたがこれからもあんな扱いを受けると思うと我慢なりませんのよ! 馬鹿正直に頭を下げようとしたあなたにも腹を立てていますの! おわかり!?」
「だ、だって……」
「だってでも明後日もありませんわ! エックハルトが己を顧みて反省するならお父様には言いつけない。でもエックハルトがいつまでも自分が正しいと思っているようならお父様に報告しますわ」
「わたくしが婚約破棄されてもいいと言うの!?」
親バカで有名なアボット侯爵に言えば間違いなく烈火の如く怒るだろう。公衆の面前で娘に頭を下げさせようとした侮辱を彼が許すはずがない。
「妻になる女に恥をかかせようとする男なんてこちらから願い下げと突き放すぐらいの度胸を見せなさいよ! レディに頭を下げろと言ったのよ、あの男は! わたくしの前でわたくしの姉に頭を下げろと強制した! 婚約破棄上等ですわ!」
「ア、アリシア様、どうか落ち着いてください」
口にすればするほど怒りが燃え上がるのだろうアリシアの怒声が止まらない。
ナディアの中にはエックハルトへの好意があるのだろう。結婚すると断言したぐらいなのだから当然だ。
二人が婚約者の話をするとき、どちらも幸せそうに見えた。婚約者がいることを羨ましいと思ってしまうぐらいに。
しかし、実際に会ってみて驚いた。エックハルトは紳士的ではなかった。ナディアも普段は自信に満ちていながらも夫に従うタイプだった。
このまま結婚することが本当に幸せになる道なのかとアリスもアリシアの考えには賛成している。
だが、どこまで口を出していいのかがわからない。
「ディートハルト様とはお話しされたのですか?」
「もちろんですわ。彼もエックハルトのやり方は許されることではないと」
「エックハルト様は?」
「迷惑をかけたことは謝るべきだとそればかり。バカの一つ覚えで話すのも嫌になってわたくしから切り上げましたの。謝ったと言っても理解できないド低脳ですのよ、彼。本当に笑いも起きませんわ」
言葉通りの表情。傍で見ていたアリシアはアリス以上に思うことがたくさんあるのだろう。砂糖を入れたカップをかき混ぜる手が荒々しい。
「もう話題を変えましょう。腹が立って仕方ありませんわ」
「わたくし、どうしたらいいの?」
「別れたら?」
吐き捨てるような言い方をするアリシアにナディアの表情が悲しみに歪む。言い過ぎのような気もすればそう言いたい気もすると思いながらもアリスは口を出さなかった。
「とにかく、この問題は帰ってまた話し合いましょう。お父様に言うか、婚約破棄か、わたくしの拳を叩き込むか。まだやれることは残っていますわ」
「許すことは?」
「ええ、そうしたいのであればそうなさって。その場合、わたくしはあなたの泣き言は聞かないし、面倒も見ませんのであしからず」
ほぼほぼ脅し。
アリシアは妹でありながら頑固で意思が強く固い。ナディアが何を言おうと自分の意見は曲げない。今回のことは姉の人生に関わる問題だ。妥協するつもりは一切なかった。
「アリスの問題はどうですの?」
「私の問題、ですか?」
なんのことだと首を傾げるアリスにアリシアは砂糖たっぷりの紅茶を一気に飲み干してヤケになっているような顔でアリスに顔を寄せる。
あまりの迫力に思わず顔を引いたアリス。
「セシル様との進展具合はいかが?」
「あ、ああ……えっと……」
ナディアのいる前で振る話題かと焦るアリスだが、ナディアは今それどころではない。
「今週末にセシルの家に招待されています」
「ッ!? 婚約前にご両親に紹介!?」
両手で口を覆い、甲高い声を上げるアリシアのオーバーリアクションに苦笑しながらもアリスは否定しなかった。
「ご両親から招かれたんです」
「ふふーん、セシル様がアリスの話ばかりしていることはこれで確定ですわね」
「あはは……」
誘拐事件があったことは二人は知らないため言えない。
アッシュバートン夫妻には会ったことがなく、二人とも厳格な人間であることしか聞いていない。
誘拐に巻き込まれたことへの謝罪ではないかと父親は言っていたが、もし本当にそうであれば気が重いと喜べない状態だった。
「アリスはセシル様をどう思っていますの?」
「大切な友人です」
「異性としては?」
「……わかりません。でも、彼と一緒にいると楽しいし安心するんです。この一年、彼といる時間が長かったので彼が隣にいることが当たり前になっていて。昨日もセシルに出会った日のことを思い出していたのですが、ふふっ、ロマンも何もない出会いと会話だったなぁって」
パンがなければなかったかもしれない関係の始まりを思い出して小さく笑うアリスを見てアリシアはニヤついていた。
「恋愛すること、考えてますの?」
「……そうかもしれませんね。彼は何を言っても安心させようとするんです。私がネガティブなことを言っても彼はいつもポジティブなことを言う。だから私は彼の気遣いをムダにしないようにポジティブに考えようとするんですけど……」
「失うことを考えてしまう?」
「はい……」
友人でいれば余程の喧嘩でもない限りは別れはない。一生仲良くいられる。だが、そこに特別な関係が入ってしまえば別れが頭をよぎる。
友人なら魅力的な女性が目の前に現れたとしても不安はない。婚約者になれば嫉妬に変わるかもしれない。その嫉妬が関係を拗らせる原因になるかもしれない。
一滴ずつだった不安はあっという間に滝のような量に増え、コップを満たし溢れさせてしまう。
それがどうしようもなく怖かった。
「わたくしたちの結婚に自由はありませんわよね。家のために結婚して、家のために妊娠し、家のために離婚しない。夫を愛していても夫は外で娼婦を愛人にするかもしれないし、家に帰ってこなくなるかもしれない。エックハルトのようなおバカさんじゃないと思っていたけど、実はディートハルトも相当なおバカさんだったと後でわかるかもしれない。わたくしも不安は多いですわ」
「アリシア様も?」
不安とは無縁そうなアリシアの言葉は意外なものだった。
「当然ですわ。だって結婚なんてしたことないんですもの。今は別々の家で暮らしているけれど、結婚したら一つ屋根の下で暮らすでしょう? 本性は見えてきますわよね、お互いに。猫を被っていたと思うかもしれませんわ、お互いに。わたくしはこう見えて家では暴君ですの。でもディートハルトはそれを知らない。だから彼が本当のわたくしを知って愛想を尽かさないか不安がないわけではありませんの」
暴君と言うほど酷くはないが、手が出やすいことは知っている。
両親が決めた婚約者ではなく彼らが申し込んできたから受けた。そこに真実の愛を見つけたからではなく面白いと思ったから。だからこそ不安があるのだろうと納得する。
「セシル様とは婚約関係にないわけだから選択肢はたくさんある。友人でいるもよし、婚約者になるもよし、飛び越えて結婚するもよし。でも一つだけ言わせていただけるのならこれを伝えますわ。あなたはもう変化を幾度も乗り越えてきた立派なレディですのよ」
「え?」
どういう意味かと目を瞬かせるアリスにアリシアが微笑む。
「怖がりで兄の後ろに隠れるばかりだった弱い小さな少女は何が必要で何が不必要か考えて行動するようになった。絶対だった兄に反抗して自分の意見をぶつけるようになった。断固として拒否してきた賑わいに足を踏み入れた。これは全て誰かに強要されてしたことではなく、あなたが自らの意思で行動したことばかりですわ」
言っていることはわかる。だが、理解して反応するのに時間がかかっている。
アリシアの優しい微笑みだけがアリスの視界に映っている。
「親友を捨てることは大きな変化ですわ。でもあなたは自分の意思で縁を切った。暴君の兄に反抗して自分のために行くと告げ、パーティーに出席してダンスを踊った。大きな変化ばかりですわ。一歩ずつ踏み出しているのに、ここで足を止めるなんてそれこそバカバカしく驚かなことだと思いませんこと?」
「で、でも私──」
「大丈夫。あなたが手を伸ばした先にあるのは、あなたの手を待つ人の手。怖がる必要はありませんのよ。変化は怖い。でもそれは頭で考えているから。開き直ってふみだせばきっとこう言いますわよ。なーんだ、ってね」
アリシアと話しているといつも勇気をもらえる。頑張れと言われることはないのに不思議と背中を押されている気分になる。
一歩踏み出すことの恐怖を勇気に変えてくれる人。
「わたくしの破棄も同じことが言える?」
ナディアの震えた声に即答して頷くアリシアがナディアを抱きしめる。
「ええ、もちろんですわ。あなたがあなたらしくいられる時間を取り戻せばきっと言いますわよ、なーんだ、って」
「エックハルトと話し合ってみる。ダメなら破棄する。お父様にも言いますわ」
「それがいいですわね」
「お父様にお話するとき、一緒にいてくれる?」
「最初からそのつもりですわ」
不安がないわけではない。不安はいつだって心の奥にある。それでもアリシアは不安があることなど微塵も感じさせずに日々を過ごしている。
今、アリシアが眩しいほど輝いて見える。
「私も……もう一歩、踏み出してみます」
「向き合うのは恐怖ではなく自分の心。そうすることであなたはまた一つ、強くなれるはずですわ」
「はい」
考えるのは不安ばかりだった。
セシルとの関係を考えると浮かぶのは幸せよりも不安。一つ良いことが浮かべば三つ不安が浮かぶ。十個良いことを浮かべたときには不安は三十個になっている。あっという間に良いことは不安に飲み込まれて消えてしまう。
だから変化は望んでいなかった。怖いだけだと否定ばかりしていた。
だが、アリシアが教えてくれた。もう何度も乗り越えたのだと。だからアリスは不安を先に考えるのをやめることにした。ちゃんと良いことを考えようと。この一年で募っていった想いと向き合って答えを出そうと。
「週明け、絶対にお話聞かせてもらいますわよ」
「ええ、聞いてください。ナディアさんのお話も聞かせてくださいね」
「泣いてしまったらごめんなさい」
「ハンカチ、余分に持ってきます」
「アリス~!!」
「今泣いてどうしますの」
もう既に泣いたナディアに困ったように笑いながらアリスがハンカチを差し出す。
以前は憧れの王子様に渡していたハンカチだが、今はもう、そうする理由がない。
夢だったのだと思う日々。あの頃のように胸の中をヴィンセルが占めることもなくなった。
思い浮かぶのはたった一人。
アリスは今、人生で一番ドキドキしていた。
「本当にごめんなさい」
目の前で頭を下げるナディアにアリスは何度も首を振る。
「ナディア様、頭を上げてください!」
「せっかくのダンスパーティーでしたのに、わたくしのせいで台無しにしてしまいました」
「とても楽しかったですよ。台無しになってしまったのはナディア様のほうです」
「わたくしは慣れてますの」
引っ掛かりを覚えたアリスに眉間にシワが寄る。あれが楽しいことや呆れても笑えることであるならいってもいいが、あんな状況を慣れていると言うのは少し異常だと感じた。
「いつもあんな風に言われるのですか?」
「いつもではありませんわ。わたくしが失敗したときなどにエックハルトが注意してくれますの」
アリスは思わずアリシアを見た。小さな苦笑を見せるアリシアもエックハルトには何か感じているのだろうことがわかる笑み。
「……私が……言っていいことではないのかもしれませんが……エックハルト様と結婚されて、幸せになれるのですか?」
ナディアは即答しなかった。どこか困惑したような表情でアリスを見ている。
アリシアは一度ナディアを見てからため息を吐き出して、用意されている紅茶を一口飲んで喉を潤した。
「昨夜のことはやりすぎだったとわたくしも思っていましたの。謝罪をさせたいのであれば学校でもさせられますし、ナディアが謝罪するか怪しんでいるのなら門の前まで同行すればいいだけの話。それをあのような場所で謝罪させようとしたエックハルトには呆れましたわ」
「でも、確かに嫉妬で無視しちゃったのは大人気なかったし……」
「ええ、そうでしょうね。わたくしもそう思いますわ。ですが、ダンスパーティーの最中に謝罪させる必要がどこにありましたの?」
「謝れる間にって……」
「いつだって謝れるでしょ」
昨日からずっと続いているアリシアとナディアの、アリシアとエックハルトの問答。それでもアリシアは納得しておらず、今も腹を立てている。
「わたくしは昨夜のエックハルトの行動をこう思っていますの。ナディアがセシル様に恋をしてしまった嫉妬からナディアに恥をかかせようとしたのではと」
アリスが思っていたのと同じことをアリシアも思っていた。それにはアリスも同じ考えであることを伝えるために何度も頷く。
彼の表情からはアリスやセシルに対し本気で申し訳ないと思っているようには見えなかった。ただナディアを謝らせようとしているようにしか。だからこそ腹が立った。
「エックハルトはプライドが高すぎますの。心が惹かれるのは仕方のないことですし、ナディアの線引きが甘かったというのもありますわ。本気になってしまったとしてもそれを態度に出すべきではなかった。でもね、だからといってあの方法は問題ですわ」
「ミラネス家がどれほどの権力を持っているのかは知りませんが、アボット家は侯爵家。大勢の前で個人的な理由で頭を下げさせるなどあってはならないことです」
「ほら、アリスもわたくしと同じ意見ですわ。これでもまだあのお子ちゃまなエックハルトが正しいと言うつもり?」
「……だって……双子だもん……」
呆れと苛立ちが混ざった強いため息を吐き出したアリシアがナディアの頭を強く叩いた。
「双子と双子が結婚したら面白いと思う気持ちはわかりますわ。わたくしもそう思っていますもの。でもその面白さのためにあなたがこれからもあんな扱いを受けると思うと我慢なりませんのよ! 馬鹿正直に頭を下げようとしたあなたにも腹を立てていますの! おわかり!?」
「だ、だって……」
「だってでも明後日もありませんわ! エックハルトが己を顧みて反省するならお父様には言いつけない。でもエックハルトがいつまでも自分が正しいと思っているようならお父様に報告しますわ」
「わたくしが婚約破棄されてもいいと言うの!?」
親バカで有名なアボット侯爵に言えば間違いなく烈火の如く怒るだろう。公衆の面前で娘に頭を下げさせようとした侮辱を彼が許すはずがない。
「妻になる女に恥をかかせようとする男なんてこちらから願い下げと突き放すぐらいの度胸を見せなさいよ! レディに頭を下げろと言ったのよ、あの男は! わたくしの前でわたくしの姉に頭を下げろと強制した! 婚約破棄上等ですわ!」
「ア、アリシア様、どうか落ち着いてください」
口にすればするほど怒りが燃え上がるのだろうアリシアの怒声が止まらない。
ナディアの中にはエックハルトへの好意があるのだろう。結婚すると断言したぐらいなのだから当然だ。
二人が婚約者の話をするとき、どちらも幸せそうに見えた。婚約者がいることを羨ましいと思ってしまうぐらいに。
しかし、実際に会ってみて驚いた。エックハルトは紳士的ではなかった。ナディアも普段は自信に満ちていながらも夫に従うタイプだった。
このまま結婚することが本当に幸せになる道なのかとアリスもアリシアの考えには賛成している。
だが、どこまで口を出していいのかがわからない。
「ディートハルト様とはお話しされたのですか?」
「もちろんですわ。彼もエックハルトのやり方は許されることではないと」
「エックハルト様は?」
「迷惑をかけたことは謝るべきだとそればかり。バカの一つ覚えで話すのも嫌になってわたくしから切り上げましたの。謝ったと言っても理解できないド低脳ですのよ、彼。本当に笑いも起きませんわ」
言葉通りの表情。傍で見ていたアリシアはアリス以上に思うことがたくさんあるのだろう。砂糖を入れたカップをかき混ぜる手が荒々しい。
「もう話題を変えましょう。腹が立って仕方ありませんわ」
「わたくし、どうしたらいいの?」
「別れたら?」
吐き捨てるような言い方をするアリシアにナディアの表情が悲しみに歪む。言い過ぎのような気もすればそう言いたい気もすると思いながらもアリスは口を出さなかった。
「とにかく、この問題は帰ってまた話し合いましょう。お父様に言うか、婚約破棄か、わたくしの拳を叩き込むか。まだやれることは残っていますわ」
「許すことは?」
「ええ、そうしたいのであればそうなさって。その場合、わたくしはあなたの泣き言は聞かないし、面倒も見ませんのであしからず」
ほぼほぼ脅し。
アリシアは妹でありながら頑固で意思が強く固い。ナディアが何を言おうと自分の意見は曲げない。今回のことは姉の人生に関わる問題だ。妥協するつもりは一切なかった。
「アリスの問題はどうですの?」
「私の問題、ですか?」
なんのことだと首を傾げるアリスにアリシアは砂糖たっぷりの紅茶を一気に飲み干してヤケになっているような顔でアリスに顔を寄せる。
あまりの迫力に思わず顔を引いたアリス。
「セシル様との進展具合はいかが?」
「あ、ああ……えっと……」
ナディアのいる前で振る話題かと焦るアリスだが、ナディアは今それどころではない。
「今週末にセシルの家に招待されています」
「ッ!? 婚約前にご両親に紹介!?」
両手で口を覆い、甲高い声を上げるアリシアのオーバーリアクションに苦笑しながらもアリスは否定しなかった。
「ご両親から招かれたんです」
「ふふーん、セシル様がアリスの話ばかりしていることはこれで確定ですわね」
「あはは……」
誘拐事件があったことは二人は知らないため言えない。
アッシュバートン夫妻には会ったことがなく、二人とも厳格な人間であることしか聞いていない。
誘拐に巻き込まれたことへの謝罪ではないかと父親は言っていたが、もし本当にそうであれば気が重いと喜べない状態だった。
「アリスはセシル様をどう思っていますの?」
「大切な友人です」
「異性としては?」
「……わかりません。でも、彼と一緒にいると楽しいし安心するんです。この一年、彼といる時間が長かったので彼が隣にいることが当たり前になっていて。昨日もセシルに出会った日のことを思い出していたのですが、ふふっ、ロマンも何もない出会いと会話だったなぁって」
パンがなければなかったかもしれない関係の始まりを思い出して小さく笑うアリスを見てアリシアはニヤついていた。
「恋愛すること、考えてますの?」
「……そうかもしれませんね。彼は何を言っても安心させようとするんです。私がネガティブなことを言っても彼はいつもポジティブなことを言う。だから私は彼の気遣いをムダにしないようにポジティブに考えようとするんですけど……」
「失うことを考えてしまう?」
「はい……」
友人でいれば余程の喧嘩でもない限りは別れはない。一生仲良くいられる。だが、そこに特別な関係が入ってしまえば別れが頭をよぎる。
友人なら魅力的な女性が目の前に現れたとしても不安はない。婚約者になれば嫉妬に変わるかもしれない。その嫉妬が関係を拗らせる原因になるかもしれない。
一滴ずつだった不安はあっという間に滝のような量に増え、コップを満たし溢れさせてしまう。
それがどうしようもなく怖かった。
「わたくしたちの結婚に自由はありませんわよね。家のために結婚して、家のために妊娠し、家のために離婚しない。夫を愛していても夫は外で娼婦を愛人にするかもしれないし、家に帰ってこなくなるかもしれない。エックハルトのようなおバカさんじゃないと思っていたけど、実はディートハルトも相当なおバカさんだったと後でわかるかもしれない。わたくしも不安は多いですわ」
「アリシア様も?」
不安とは無縁そうなアリシアの言葉は意外なものだった。
「当然ですわ。だって結婚なんてしたことないんですもの。今は別々の家で暮らしているけれど、結婚したら一つ屋根の下で暮らすでしょう? 本性は見えてきますわよね、お互いに。猫を被っていたと思うかもしれませんわ、お互いに。わたくしはこう見えて家では暴君ですの。でもディートハルトはそれを知らない。だから彼が本当のわたくしを知って愛想を尽かさないか不安がないわけではありませんの」
暴君と言うほど酷くはないが、手が出やすいことは知っている。
両親が決めた婚約者ではなく彼らが申し込んできたから受けた。そこに真実の愛を見つけたからではなく面白いと思ったから。だからこそ不安があるのだろうと納得する。
「セシル様とは婚約関係にないわけだから選択肢はたくさんある。友人でいるもよし、婚約者になるもよし、飛び越えて結婚するもよし。でも一つだけ言わせていただけるのならこれを伝えますわ。あなたはもう変化を幾度も乗り越えてきた立派なレディですのよ」
「え?」
どういう意味かと目を瞬かせるアリスにアリシアが微笑む。
「怖がりで兄の後ろに隠れるばかりだった弱い小さな少女は何が必要で何が不必要か考えて行動するようになった。絶対だった兄に反抗して自分の意見をぶつけるようになった。断固として拒否してきた賑わいに足を踏み入れた。これは全て誰かに強要されてしたことではなく、あなたが自らの意思で行動したことばかりですわ」
言っていることはわかる。だが、理解して反応するのに時間がかかっている。
アリシアの優しい微笑みだけがアリスの視界に映っている。
「親友を捨てることは大きな変化ですわ。でもあなたは自分の意思で縁を切った。暴君の兄に反抗して自分のために行くと告げ、パーティーに出席してダンスを踊った。大きな変化ばかりですわ。一歩ずつ踏み出しているのに、ここで足を止めるなんてそれこそバカバカしく驚かなことだと思いませんこと?」
「で、でも私──」
「大丈夫。あなたが手を伸ばした先にあるのは、あなたの手を待つ人の手。怖がる必要はありませんのよ。変化は怖い。でもそれは頭で考えているから。開き直ってふみだせばきっとこう言いますわよ。なーんだ、ってね」
アリシアと話しているといつも勇気をもらえる。頑張れと言われることはないのに不思議と背中を押されている気分になる。
一歩踏み出すことの恐怖を勇気に変えてくれる人。
「わたくしの破棄も同じことが言える?」
ナディアの震えた声に即答して頷くアリシアがナディアを抱きしめる。
「ええ、もちろんですわ。あなたがあなたらしくいられる時間を取り戻せばきっと言いますわよ、なーんだ、って」
「エックハルトと話し合ってみる。ダメなら破棄する。お父様にも言いますわ」
「それがいいですわね」
「お父様にお話するとき、一緒にいてくれる?」
「最初からそのつもりですわ」
不安がないわけではない。不安はいつだって心の奥にある。それでもアリシアは不安があることなど微塵も感じさせずに日々を過ごしている。
今、アリシアが眩しいほど輝いて見える。
「私も……もう一歩、踏み出してみます」
「向き合うのは恐怖ではなく自分の心。そうすることであなたはまた一つ、強くなれるはずですわ」
「はい」
考えるのは不安ばかりだった。
セシルとの関係を考えると浮かぶのは幸せよりも不安。一つ良いことが浮かべば三つ不安が浮かぶ。十個良いことを浮かべたときには不安は三十個になっている。あっという間に良いことは不安に飲み込まれて消えてしまう。
だから変化は望んでいなかった。怖いだけだと否定ばかりしていた。
だが、アリシアが教えてくれた。もう何度も乗り越えたのだと。だからアリスは不安を先に考えるのをやめることにした。ちゃんと良いことを考えようと。この一年で募っていった想いと向き合って答えを出そうと。
「週明け、絶対にお話聞かせてもらいますわよ」
「ええ、聞いてください。ナディアさんのお話も聞かせてくださいね」
「泣いてしまったらごめんなさい」
「ハンカチ、余分に持ってきます」
「アリス~!!」
「今泣いてどうしますの」
もう既に泣いたナディアに困ったように笑いながらアリスがハンカチを差し出す。
以前は憧れの王子様に渡していたハンカチだが、今はもう、そうする理由がない。
夢だったのだと思う日々。あの頃のように胸の中をヴィンセルが占めることもなくなった。
思い浮かぶのはたった一人。
アリスは今、人生で一番ドキドキしていた。
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ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
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