愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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兄の想い

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「アリス?」

 目を覚ましたアリスの視界に映ったのはいつもと変わらない見慣れた自分のベッドの天蓋。
 だが、違うのはひどい顔をした兄が顔を覗き込んでいるということ。

「おにい……さ、ッ…!」

 どうしたのかと起きあがろうとした瞬間、ズキッと鋭い痛みが身体に走った。頭だけではなく、背中や手足にまで至る痛み。

「ジッとしてろ。起き上がらなくていい」

 ひどい顔で安堵を見せるカイルの声にアリスはなぜか涙が溢れた。

「一体何が……?」
「覚えていないのか?」
「えっと……」

 思い出そうとしても頭が働かない。何かあったような気がすると感じるのに頭の中はモヤがかかったように鈍い状態。

「フォークランド通りで事故に遭ったんだ」
「事故……あ……」

 霞んだ記憶の中でワンシーンが見えた気がした。

「通りはひどい状態だった。六台の馬車が店や塀に突っ込んで倒れ、道を塞いでいた」
「……思い出した。確か、男性が道端に立っててトランペットを──ッ!」

 確かに見た記憶。歩道ギリギリに立っていたトランペットを持った男が突然吹いた。思わず起き上がろうとしたアリスだが、走る痛みに再度頭を置いた。

「通りを歩いていた人が大勢目撃していてな、明らかにお前の馬車を狙って吹いたという証言もあった。お前の前を四台の馬車が通り過ぎたが、お前の馬車が通るまで男は待っていたと」
「目が、合ったのを覚えています……」
「顔は見たのか?」
「はい。お兄様と買い物に街へ行ったとき、楽器を演奏している人はお金を入れてもらうために足元にケースを置いていました。腰掛けられる場所を選んでいるか、自分で椅子を持ってきているという印象だったのに、その人は違ったんです。だから変だと思って見ていたら目が合って……すぐに大きな音が響きました。馬だけではなく歩道を歩いていた人たちも驚いていて……」

 恨みを買った覚えはないのになぜだと考えるが、考えると痛みが走る。

「……まさか……ティーナが……?」

 正常な精神状態ではなかったティーナなら何をしてもおかしくはないとカイルを見るも首を振られる。

「それはない。ティーナはもうこの国にはいないんだ。爵位剥奪、領土没収を受けたあの家族に人を雇う金なんかないだろう」
「じゃあ、一体誰が……」

 自分を恨んでいる人間などティーナしかいない。敵を作りたくなくて目立たないよう大人しく生きてきたのにとアリスは不安げな表情で口を押さえる。

「それよりお前が無事で良かった。フォークランド通りで事故が遭ったと門番から知らせを受けたとき、心臓が止まるかと思った。時刻的にお前が帰る時間で、フォークランド通りは帰り道だ。駆けつけると馬車が潰れていた。馬が倒れたことで地面を滑り、前で倒れていた馬車にぶつかったあと、後ろから来た馬車がぶつかって悲惨な状態だったんだ」

 手足が動かず、何かに閉じ込められているような気がしたのはそのせいだったかとのんきに納得するアリスは今でも全身が痛むことに目を閉じる。

「夜じゃなくて良かった。火がなかったからな」
「そうですね」

 夜であれば地面を滑った際にランプが割れて油と火が撒き散らされ、馬車は燃えていたかもしれない。馬車が店に突っ込んだことでその店も被害に遭っていたかもしれない。
 被害状況を見ていないためなんとも言えないが、それでも火事が起きなくて良かったと安堵した。

「中で折り畳まれてるお前を見て俺は一度心臓が止まったぞ。また血を流すお前を見るなんて思ってなかったからな」

 十二歳の頃の事件はカイルにとってもトラウマ同然。階段に頭をぶつけて血を流し、気を失った妹を見て激昂した日の恐怖が再び蘇ったのだ。

「お兄様が生き返って良かった」
「それはこっちのセリフだ。一週間も眠ったままで兄様がどれほど心配したか」
「一週間……?」
「そうだ。一度も目を覚さないから……ッ」

 鼻を摘んで黙り込むカイルに手を伸ばすとすぐに握られる。

「また、心配かけてごめんなさい」
「全くだ。やっぱりお前は一人で行動させるわけにはいかないな。これからは兄様と一緒に行動しよう」
「お兄様はお忙しいでしょ」
「お前のためなら時間ぐらい作る。忙しいと言って仕事しかしない奴は単なる無能だ。無能ほど忙しいと口にするからな。お前の兄はこの国で一番優秀なんだ。だから心配するな」

 笑顔を見せるカイルにいつもならアリスはそれを受け入れた。過保護だと笑いながらも兄の傍にいると楽だったから。
 だが、アリスはもうそれを受け入れようとはしない。手を握ったまま首を振って拒否を伝えた。

「アリス、今回のことは兄様が送迎をしていればお前を救えた」
「そうだと思う」
「お前が誘拐されそうになったときも兄様が駆けつけたから未遂で終わったんだ」
「わかってる」
「お前を助けるのは兄様の役目だ。お前を守ることが兄様の使命なんだ」

 昔から言うことは変わらない。まだ掴まり立ちしかできない頃からカイルはよくアリスの傍に行っていたと両親から聞いていた。隣に寝転んで、自分が受け取った物は全てアリスの周りに置いていたと。そして誰かがアリスに触ろうものならひどく怒ったとも。
 カイルにとってアリスは目に見える自我が表れる前から守護対象だった。たった一歳しか違わないのにカイルはいつだってアリスの前に立って背中を見せ続けた。
 小さかった背中はまるでアリスを守るために大きくなったような成長を見せた。
 自分にも他人にも厳しく、妹にだけ甘すぎる兄は今も変わらず現在で、それを嬉しいと思うと同時に苦しさもあった。
 
「私は、自分の足で進むことを決めたんです。今までは変化を怖がってお兄様の後ろにばかり隠れてた。そうすれば嫌なことは全部お兄様が解決してくれたから。お兄様が守ってくれたから私は嫌な思いをせずに生きてこれた。それには感謝してもしきれません。でも、私はそれに甘え続けてた」
「言っただろ、お前を守るのは兄様の使命だって。兄様に甘えることがお前の役目なんだよ。気にしなくていい」

 そうじゃないと首を振るアリスにカイルの手に力がこもる。

「アリス、兄様以上にお前を守れる男がいるか?」
「いないと思います」
「そうだろ? じゃあ──」
「でも」

 ハッキリとした次ぐ言葉にカイルの身体に緊張が走った。

「変わらなきゃいけないんです。私も、お兄様も」
「変わる? 今のままでいいじゃないか。お前は外の世界では上手くやっていけないだろ? だから外の世界は兄様に任せてお前は──」
「お兄様は自分の道を歩んでください。それは私の心からの願いです。私のためではなく、お兄様がお兄様のために生きられる道を歩んでください。でないと、私が辛いんです」
「アリス……」

 辛いと口にするのは卑怯だとわかっている。自分のせいで苦しんでいると妹から言われればカイルは強く出られないとわかっているから。
 それでもアリスはカイルに自分のやりたいことをやってほしかった。妹のためにできること、ではなく自分のためにやりたいことを。
 いつまでも自分が背中に隠れ続けるから兄は妹を守らなければと背中を見せる。
 自分がそうさせてしまったからこそ、アリスはその背中に隠れることをやめようと決めた。

「傷つくのは怖いです。文句を言われることも、睨まれることも怖い。でも、生きていればそんなことは当たり前なんですよね。私は完璧じゃないし、何かあればすぐにお兄様に言って対処してもらってばかりだったから、そんな当たり前のことにも慣れてこなかった」
「慣れる必要なんかない」
「だけど、私はお兄様のようになりたいんです」
「俺のように? 俺はお前に誇ってもらえるような人間じゃない」

 カイルが自分を卑下するような言葉を吐いたのは初めてかもしれないとアリスのほうが驚いた。

「何を言われても平気だと胸を張るお兄様は素敵です。もちろん、少し横暴なところもありますけど、でもお兄様はいつも完璧であろうとした。そして完璧だった。それは誰かの力によるものではなく、全てお兄様の努力の結果です。いつも背中を見せてくれるお兄様は眩しかった。強くて、かっこよくて……そんなお兄様が大好きだから私もそうなりたいと思ったんです。誰かを助けてかっこよかったって言われるのも悪くないですもの」

 カイルの口から震えた息がこぼれる。
 アリスがこれほどハッキリと自分の意思で拒否をして考えを伝えることは少ない。意見をすることはあっても、いつだってカイルの意見に従ってくれた。
 だがもうそれも潮時なのだとカイルも感じていた。
 学校を卒業すればアリスの後ろ盾はなくなる。今までは卒業しても一年経てばまた同じ学校で過ごして妹を守れると楽観視していたが、今回は“また”はもうない。
 レディにこれ以上の学歴は必要なく、受け入れる場所も少なければ、カイルも卒業後は進学せずに父親の仕事を本格的に手伝うことになっている。
 区切りをつけなければならないのだと目を閉じた。

「お前を愛してるよ、アリス」

 その言葉にアリスは頷くだけ同じ言葉は返せない。その言葉に含まれている意味をアリスは理解しているから。

「お前をずっと手元に置いておきたかった。外に出さず、この家の中に閉じ込めて、兄様がずっと守ってやりたかった」
「知ってる」
「でも兄様はお前と兄妹でいたい。この先もずっとな」
「私もです」
「お前が眩しいって目を細めるぐらいの太陽であるために、お前の手を離すよ。それで、兄様はやりたいことをする。この国を変えるために今よりも強い権力を手に入れるつもりだ」
「大きな目標ですね」
「ベンフィールド次期公爵だからな」 
「そうですね」

 目に入れても痛くない。それは親よりも強く思っていたはずだ。だが、いつまでも守ってはいられない。いつまでも背中に隠れ続けてはいない。互いにわかっていた。
 アリスが変わっていくのを感じていたのはアボット姉妹だけではない。カイルも同じだ。
 セシルと出会ってアリスは変わった。だからこそ悔しかった。変えたのが自分ではないことに。

「今まで兄でいさせてくれてありがとう。お前がいたから兄様は兄でいられたんだ」
「それは私も同じです。お兄様がいたから私は楽に生きてこられたんです。お兄様がいたおかげです」

 カイルから感謝の言葉が出てくるなど想像したことさえなかっただけにアリスの目からは涙がこぼれる。それでも笑って感謝を伝えると優しく頭を撫でられた。
 幼い頃から何かあるとすぐに頭を撫でてくれた。この手が大好きだった。

「お前が起きたことを知らせないとな」
「はい」
「ちょっと待ってろ。呼んでくる」
 
 ずっと眠っていなかったのだろうカイルはどこか少し痩せたように見えた。
 部屋に両親はいないのにカイルだけが傍に座っていた。眠らず、アリスの傍で目覚めることだけを祈っていたのだろうかと思うと本当にあのときのようで胸が痛く、申し訳なかった。

「アリス!」

 廊下を走る音が聞こえ、ドアが開くと同時に飛び込んできたのは両親ではなくセシルだった。
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