冬に出会って春に恋して

永江寧々

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抵抗3

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「もうおやめください!!」

 目が霞んできたとぼんやりそんなことを考えていた時、悲鳴のような声が聞こえた。よく食事を運んできてくれた使用人だ。

「たかが使用人風情が私に意見するつもりか! 誰がお前を雇ってやっていると思ってるんだ!」
「もう、もうおやめください! お嬢様が死んでしまいます!」
「私が孫を殺すと決めつけて喋るんじゃなよ! 殺すはずないだろ! どんな愚かな人間でも飾りとして役立つぐらいできるんだからね! 使用人のお前が口を出す問題じゃない!」

 やまびこにでもなりそうなほど響き渡る怒声に身体を震わせながらも椿に駆け寄り抱きしめて当主を睨みつけた使用人に椿が驚く。
 今まで誰かがこうして助けてくれたことはあっただろうか。山井だけ。山井だけが助けてくれた。言葉巧みに助け舟を出して逃がしてくれた。今回のこともそうだ。解雇されるとわかっていながら家出の協力者となってくれた。ずっと味方なのは彼だけだと思っていたが、まだいた。あの皇葵に楯突く者が。こんなに震えながらも椿を抱きしめる腕の力は弱まることはない。

「なんのつもりだ……」
「椿お嬢様は……楓様の意思を継いでおられるのです! なぜそれが理解できないのですか!」

 額に浮かぶ青筋がピクリと反応する。
 それは解雇よりもずっと酷い目に遭ってもおかしくないほどの言葉だ。理解“してあげない”ではなく“できない”と言った彼女の言葉は侮辱にも等しい。
 皇葵にできないことはない。本人がそう断言しているのにこの使用人はそれを正面から否定した。

「お前のような下劣な生き物が皇の使用人として働いているなんて反吐が出る! お前はクビだ!!」

 解雇されるだけならいい。でも彼女はそれだけでは止まらない。椿に振り下ろした威力と同等のものを使用人にも与えようとした。
 椿を守るように力を込めてギュッと目を閉じた使用人を見た直後、パンッと大きな音が響いた。

「ッ!?」

 目を見開いたのは使用人ではなく祖母だった。使用人の頬に直撃するはずだった手はまるで時間が巻き戻されたように上に戻っていた。代わりに椿の手が使用人の背中近くにあった。

「椿……お前……」

 時間が巻き戻されたのではない。弾かれたのだ。椿の手によって。驚く祖母を睨みつける椿の目はハッキリとしている。明確な意思を持って祖母の手を弾いたことがわかる。
 真正面からの力は横からの力に弱い。ましてや立っていれば座っているより力が込めやすい。でも横からなら力のない椿の手で弾くことができる。
 孫が抵抗すると思っていなかっただけに驚きを隠せない祖母に向かって椿が立ち上がって勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「感情を乱すのは愚者である証、ですよね」

 ずっと言ってやりたかった。でも怖くて言えなかった。今はもうそれが過去の感情となり、恐怖は存在しない。これだけ派手に連打されれば恐怖などなくなる。クスッとわざと音を立てて笑う椿にまたカッと目を見開いて手を振り上げるも派手な音と共にそっぽを向いたのは祖母の方だった。
 皇葵が頬を叩かれたのは初めてではない。自分の母親にも叩かれていた。反論はもちろんのこと言い訳をしても叩かれた。答えは全て「はい」でなければならない環境で育った葵にとって暴力は日常茶飯事だった。恐怖に支配された家庭から逃げ出したいと願ったこともあったが、言うことを聞いていれば安全な世界であることに気付いてからは母親の死ばかり願って過ごすようになった。それから数十年待って手に入れた当主の座。自由を手にした気分だった。開放感に溢れ、当主となった自分の言うことを家の者が頭を下げて「はい」の返事だけを聞かせる。溶けてしまいそうなほど心地良い優越感はまるで麻薬のようだった。抜け出せないほど溺れていく。この当主の座を手に入れるために我慢と努力を続けてきた。自分は間違っていなかった。正しかった。そう思い込むようになり、娘にも自分が受けた教育を受けさせるようになった。いつか娘もこの当主の座に腰を下ろした時、自分に感謝するだろう。幸せだと思うだろう。そう信じて疑わなかった。

「……お前が……お前如きが私に……」

 娘は従わなかった。それどころか反抗して縁を切ろうとした。

『皇の名は私の人生にも彼の人生にも必要ない。ましてやこの子には絶対に与えたくない。皇は足枷でしかないのよ。権力なんていらない。支配力もいらない。私が欲しいのは家族で笑い合う幸せだけよ。でもそれはここじゃ手に入れられない。あなたと一緒じゃあ、絶対にね』

 冷めた目をして言い放った娘の頬を打った。何度も何度も何度も何度も。それこそ打っている手が痛くなるほど。それでも娘の口から謝罪や撤回が飛び出してくることはなく、今の椿と同じことを言った。

「私の言うことを聞いていれば幸せになれるんだ! お前は皇の名を継ぎ、未来永劫この名を残す! それがお前にできる唯一のことだろう!」
「私は傀儡ではありません。あなたの思いどおりには動かない。皇の名は欲しくない。私には必要ない。そんなものは枷でしかない」
「お前までそんなことを言うのか!!」
「船が沈んで、凍えるほど冷たい海の中で愛する人に生きてと言われたから生きると決めたならそれは誰がなんと言おうと幸せなの」
「何を意味のわからないことを──」
「でも愛してもいない相手と親の言いなりになって結婚した不自由のない未来に幸せはない」
「何を言う! 鳳殿と結婚すればお前は幸せになれる! 私がそう言ってるんだよ!」
「私の人生はあなたの物じゃない!!」

 祖母の怒声を掻き消すように響き渡る椿の叫びに思わず口が閉じる。

「幸せなのはあなただけ。あなたも鳳も互いが持っている権力を欲しているだけ。私はあなた達の私欲を満たす駒にはなりたくない。私は私の人生を歩みたい」
「生まれは変えられん! 覚悟はできていたはずだ!」
「そのとおりです。生まれは変えられない。でも未来は変えられる。飾りとして一生を過ごす未来からあなたを捨てて、皇を捨てて生きる未来にね」
「私が許すと思っているのか!?」
「あなたの許しは必要ない。私の道は私が決める」
「ッ~!! ふざけるなッ!!」

 どれほど祖母が怒鳴り散らそうと鬼の形相を見せようと椿の身体に震えはない。もう彼女に恐怖を感じることはないのだ。言い返すことができたと思ったら自信に変わった。そしたら不思議と怖くなくなった。むしろ彼女を哀れにさえ思う。皇という名に縛りつけられた哀れな女。
 椿はふと、連れ戻された翌日のことを思い出していた。鳥の鳴き声もしない静まり返った夜、眠れずジッと天井を見上げていた椿の耳に聞こえた聞き慣れた声。それは蔵の奥の通気口から聞こえていた。

『外の世界はいかがでしたか?』

 優しい声。誰かなんて聞く必要もない。

『とても素敵だったわ。色とりどりで、眩しくて、賑やかで、楽しくて……笑顔に溢れてた』

 思い出しても笑顔になれる光景は生涯忘れないと思った。

『山井、あなたを犠牲にしてしまったこと謝ります』
『何をおっしゃいます。これは山井が臨んだことなのですよ。椿様に外の世界を見ていただきたいとずっとそう考えておりましたから』
『……これからどうするの?』

 椿を逃したと見なされたことにより山井は解雇となった。帰ってきた時には既に皇家にはおらず、もう二度と会えないと思っていただけに声が聞けた事に安堵して涙が滲みそうになる。半世紀以上仕える得た信頼は一瞬にして無へと帰し、驚くほど冷酷に首切りとなった。自分のせいだ。自分が彼の人生をも壊してしまった。そう後悔する椿に山井は柔らかな声をかけた。

『椿様、どうか涙はしまってください。私ももう歳でございます。運転手の期限はもうとっくに切れていたのに椿様の恩義で継続していただけていただけなのです。おかしなことではありません』
『あなたがしてくれるお話が大好きだったから。あなたじゃなきゃあんなに面白い話はできないわ』
『そのお言葉だけで充分でございます』
『本当にごめんなさい。謝ってもあなたの解雇を取り消すことはできないけれど……』

 もう自分にはなんの力も残っていない。発言力もなければお願いする権利もない。使用人ともきっと以前のように笑い合うことはできないだろう。信頼を失ったのは椿も同じ。壁に額を押し当てながら何度も謝る椿に『そうおっしゃってくださるのであれば一つだけ』と山井が言った。

『もし、たった一度だけ、どこかでチャンスが訪れた際には後悔しない選択をすると約束してください』
『チャンス……?』
『自分勝手だとか思わず、周りの意見ではなく自分の気持ちに正直になってください。そして自分の幸せを、心が思うままに従って進むと約束してください』

 チャンスなど来るはずがない。だってもう自分に残されたことは結婚して子供を産むことだけなのだから。子供がいるのに自分勝手には生きられない。来世に期待するぐらいしかできることはないと苦笑しながらも椿は『わかった』と返事をした。

『山井との約束ですよ』

 これがきっと最初で最後のチャンスだから逃しはしない。愛する人と結ばれることはなくても、自分の意思で生きたい。皇の使用人として掉尾を飾ることができたはずなのにそれを自ら手放してまで束の間の自由を与えてくれた山井との約束だから、弱々しく隅で震えて終わりたくなかった。
 あの時のように泣いて謝るだけで終わる日はもう二度と過ごさないと決めた。
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