白に焦がれる紅き誓い

永江寧々

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二人

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 自分の家。外は大雨。空は今にも雷が鳴り出しそうな雲が広がっている。いや、すでに遠くでは鳴り始めている。雲の動きからここら一帯で鳴り響くのもそう遠くないだろう。
 大きな窓から覗く外はそれほど景色の良いものではないが、気に入っている。
 最上階を選ぶこともできたが、瑞成は三階を選んだ。低すぎず高すぎないこの場所が自分には合っていると思ったから。

「ッ!」

 静かな部屋の中で聞こえるドアの開閉音。ここは自分の家であるはずなのに、瑞成ルイチェンはどうにも落ち着かない。
 奥から聞こえる音一つ一つに聞き耳を立ててしまう。

「お風呂ありがとう。ぬくぬくや」

 傘を持っていなかった雪儿シュエアルは大雨に打たれた。全身ずぶ濡れだった雪儿に風呂に入るよう促した。
 龍瑞成という人間は基本的に自分のテリトリーに誰彼構わず入れはしない。チャラついて見えるが、意外と警戒心が強く、孤独を愛している。
 だからこの家に誰かが足を踏み入れたことはない。腹心の雷真ライシンですらないのだ。
 それなのに雪儿は今、瑞成のシャツを着て立っている。

「おいで。せっかくぬくぬくになった身体が冷えないようにしないと」
「至れり尽くせりやなぁ」
「でしょ? 俺ね、結構甲斐甲斐しいんだよ」
「それは知っとる」
「あれ? そうなの? 意外だって言われるかと思ってたのに」

 毛布を広げて待つ瑞成の前に背を向けて座ると毛布で包まれる。首からかけているタオルで髪を拭いてやる瑞成を見れば雷真は卒倒するだろう。

「これなんていう布? ふわふわやなぁ」
「タオルっていうんだって。輸入品だよ」
「瑞成は色々持っとるんやなぁ」

 薄い布ではなくふわふわとした柔らかいものに驚いた。肌触りが良く、吸水性も良い。

「外国人居留地が近いから色々流れてくるんだよね」
「流行り物好きやからやろ?」
「流行り物を取り入れることでイイ男が出来上がるってわけ」
「せなん?」
「俺のことかっこいいって思わない?」
「んー、思うって言わんと追い出される?」
「かもね」
「ほいたら瑞成はかっこええなぁ」

 調子の良い相手に瑞成が声を上げて笑う。後ろに座って髪を拭いてくれる瑞成が笑って作る振動を感じながら雪儿も目を閉じて微笑む。

「雪儿の髪を手入れするのは杏儿シンアル?」
「わかる?」
「大事にされてるのがわかるよ」
「雪儿かもしれへんで?」
「雪儿は自分の身なりを整えることには興味ないでしょ?」
「うん」

 枝毛一つない滑らかな髪の水分を丁寧に吸い取る。頭皮の水分は特にしっかりと拭き、拭き終わった髪に櫛を通す。
 新しいタオルを持ってきて首にかけてやると前を向いたまま「ありがとう」と呟いた雪儿に首を傾げる。少し元気がない。

「どうかした?」

 かぶりを振って膝を抱える雪儿の顔を横から覗き込むと隠してしまう。

「杏儿のこと考えてる?」

 顔を上げた雪儿が苦笑し、そのまま力のない笑みへと変える。

「読心術でも習得しとるん?」
「雪儿はわかりやすいからね」

 杏儿の存在は雪儿にとって大きな壁で、それを乗り越えない限り、雪儿は杏儿に囚われたままだろう。何をするにも杏儿のことが頭をよぎり、自分の感情を抑え込む。正しいのは自分の意見ではなく杏儿の意見で、自分は妹として姉に従うべきだと思い込んでしまう。
 救ってやりたいと前々から考えているが、雪儿は頑固。杏儿を悪く言えば傷つく。どうすればいいかと、距離を取る宣言をされた日からずっと考えていた。
 毛布に包まる小さな身体を抱きしめると一瞬ビクッと跳ねたが、抵抗はなかった。

「杏儿に言われたことまだ気にしてる?」
ジエちゃんには何も言われてへん。雪儿が自分で思ったって前も言うた」
「そうだったね。でもさ、今は雪儿と俺しかいないんだから気にする必要ないんじゃない?」
「仲良くしてもうとる……。あかんのになぁ……」

 マフィアと親しくすることを良しとする一般人はいない。杏儿の言うことは間違っていないと思うからこそ雪儿も守ろうと思うのに、瑞成の優しさに触れ続けている雪儿にとって杏儿との約束を守ることのほうが難しいと感じていた。
 瑞成の家に行ったことを知れば悲しむだろう。お風呂を借りて、髪を乾かしてもらって、抱きしめられていることを知れば嘆くかもしれない。世界で最も悲しませてはいけない人なのに、秘密は増えるばかり。それがとても心苦しくてたまらない。

「姐ちゃん悲しませたらあかんのに……」
「雪儿は自分のために生きようとは思わないの? 杏儿にはそれを望んでるのに?」
「……意地悪やなぁ」

 たった二人の家族だからこそ自分のために生きてしまうとバラバラになってしまうようで怖い。想像だけでも怖いのに、それが現実となったらと思うと自分勝手には生きられない。従って生きるのはとても楽で、誰も悲しませないと知ってからはずっと杏儿の言うことを聞いてきた。これからもずっとそうしていくつもりだった。

「なんか、瑞成と出会ってから姐ちゃん悲しませる行動ばっか取ってまう」
「俺のことが好きだからじゃない?」
「それはちゃうと思う」
「すごい。こんなにハッキリフラれたの初めてかも」
「ごめんなぁ」

 苦笑が濃くなる雪儿に冗談だと言うも抱えた膝は解けないままで、雪儿の瞳は床に向いている。

「……でも、正直な話、自分の感情がわからんときがある。瑞成を好きとか嫌いとか、姐ちゃんの言うこと聞かなとか聞きたないとか、なんかごちゃごちゃしてわからんくなる。誰も悲しませたないって気持ちは確かやのに、二つに一つしかないのが嫌や。姐ちゃんとの約束守れば瑞成を傷つけるし、瑞成を傷つけんとこってすれば姐ちゃんを悲しませる」
「雪儿のこと幸せにしたいって思ってる人間が雪儿傷つけてんだよね。俺と杏儿、どっちも雪儿を苦しめてる」

 雪儿の瞳にじわりと涙が滲む。苦しんでないと、傷ついていないと言えばいいのに、その言葉が出てこない。杏儿の気持ちはわかっているし、従うべきだともわかっている。でも親切にしてくれる瑞成を拒めと言われると苦しい。
 この涙がなんの意味を含んで溢れ出るものなのかわからない。理解してくれていることへの喜びか。それとも、従えない自分への情けなさか。
 ズッと鼻を鳴らして涙を拭くと顔を上げた。

「瑞成はなんでここに走って来たん?」
「え?」

 急に振り返った雪儿が笑顔を見せる様子に瑞成が眉を下げる。

「ここは紫雫楼と逆方向やん?」
「あー……」

 蜜華坊から走って五分ほどで着く自宅。紫雫楼も同じぐらいで着くのだからそっちに走ることもできたが、そうしなかった。疑問を持って当然だと苦笑する瑞成はまだ濡れている瞳を見つめて答えた。

「雪儿と二人きりになりたかったから」

 目を見開く雪儿だが、すぐに首を傾げる。

「なんで?」
「だって、紫雫楼に送ったら杏儿の監視があって喋れないじゃん? ここだと監視の目はないし、二人きりでなんでも話せる」
「監視の目……」
 
 苦笑するのは当たっていると思う気持ちがどこかにあるからだろう。

「というか、まあ、合理的なんだよね」
「合理的?」
「梅雨だからびしょびしょになった洗濯物は雨が止んでも乾かない。でも雪儿は小さいから俺の服が着れる。雨がやめばその服を着て紫雫楼に送れるでしょ? でも紫雫楼に送って風呂に入ったら俺は着る服がない」
「瑞鳳のがあるで?」
「絶対そう言うと思った。でも男が女物を着るのはちょっとね。紫雫楼の中でだけならいいけど、それを着て帰るのは人の目もあるから。ほら、龍家の三男がそんな格好して街を歩いているなんて親父の耳に入ったら何言われるかわかったもんじゃない。避けたかったんだ」

 嘘でもあり、本音でもある。
 杏儿は気に入らないだろう。今頃、雷真に噛みついているかもしれない。でもそんなことはどうでもいい。大事なのは雪儿との時間を邪魔させないこと。
 雪儿は利口だが純粋。だから汚い大人の言葉に騙されてしまう。嘘にほんの少しの真実を混ぜることによってそれは百パーセントの嘘ではなくなるのだから。疑うには雪儿は懐きすぎている。

「雨、止むやろか……?」
「どうしたの? 寒い?」
「大丈夫……」

 雪儿の身体が小刻みに震え始めている。どうしたのかと毛布の上から身体を擦ってやるも止まらない。

「は……ッ!」

 まだすぐそこまで来ているわけではないが、雷が近くなった。

「怖い?」
「大丈夫……」

 わかりやすい嘘に頷きながら瑞成は真正面から雪儿を抱きしめた。

「大丈夫。こうやって俺が守ってあげるから」
「……大丈夫……」

 瑞成は雪儿が自分の言葉を繰り返しているのではなく、自分に暗示をかけているように見えた。一点を見つめたまま繰り返すその言葉を微笑ましく感じることはできなかった。
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