あなたを愛している。けれど、あなたを愛したことはない。

lemuria

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あなたを愛している

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――そう、調べたかぎりでは。間違いはないはずだった。

 ――あなたを愛したことなどありません。

 エリオノーラの言葉が、耳の奥にいつまでも残っていた。

 火がパチパチと小さくはぜた。
 男の指が空中で止まり、笑みだけが形のまま残る。
 
「……何を言っているんだ?」
 
 先ほどと同じ声の調子を保とうとしてはいるが、エリオノーラにはしっかりと声色の揺れが聞き取れた。

「からかうのはやめよう。私の顔を忘れてしまったのかい?君が私を愛していないはずがないだろう」

 エリオノーラはまばたきもせず、視線を外さない。

「繰り返しません。下がってください」

 男から笑みが消えた。
 男は膝をついたまま、彼女の肩をつかもうと身を乗り出す。

「なぜだ……! 十年以上だぞ。君と共に過ごし、互いに愛を確かめ合ってきたはずだ」

 彼女は身じろぎせず、声を抑えて言った。

「私は、あなたのことなど知りません」

 男の手が空を切った。
 呼吸が荒くなり、赤褐色の瞳が不規則に揺れる。

「馬鹿な……忘れたのか? 庭で手をつないだことも、手紙を交わしたことも……私の前でだけは君は飾らない表情を見せてくれただろう!」

「私がアドルを、間違えるはずがありません」

 その一言で、男の顔色が変わった。
 掴みかかるように両腕を伸ばし、彼女を寝台に押し倒す。

「お前は俺のものだ!」

 男に跨られ、重さと苦しさが胸にかかる。両手首が寝台に押しつけられ、指の骨が当たり、布越しに痛みが走る。
 寝台の枠木がギシッと小さく鳴り、詰め物が沈んだ。

「私は、あなたに抱かれるぐらいなら、この場で死にます」

 エリオノーラの声は未だ毅然として、一切の揺らぎがない。このような状況にあって、男の方が気圧されている。
 男の顎の筋が動き、歯がぎりと噛み合う音がする。
 握る手にさらに力がこもる。
 
「この……っ!」

 頬に打ちつけられた衝撃で、顔が横を向いた。
 けれど彼女は眉一つ動かさず、静かに元の姿勢へ戻す。

「……なんでわかった」
 
 荒い息の合間に、男が呟いた。
 
「同じ顔だろう、見分けがつくはずがない!」

 彼女は真正面から相手を見返した。

「当然です。私が愛しているのは、あの人だけですから」

  エリオノーラは静かに視線を横へやり、押さえられた手首をねじった。
 男の力が一瞬緩んだ隙をつき、指先を伸ばす。
 寝台の脇に置かれていた燭台に触れると、そのまま力を込めて倒した。

 ガシャンと鈍い音を立てて金属の脚が床を打つ。
 炎のついた蝋が散り、火花が床の絨毯に飛ぶ。そこから円を描くように火は広がり、瞬く間に部屋の温度が上昇していく。

「な……何をする!」

 男はエリオノーラを押さえつけたまま動きを止めた。
 額に汗がにじみ、否が応でも立ちのぼる炎に視線が引きつけられる。
 押さえる腕に力を込めればエリオノーラは簡単に奪える。だが、火の勢いと彼女の言葉が男の動きを縛っていた。

「言ったでしょう。あなたに抱かれるぐらいなら、私は死を選びます」

 エリオノーラの声は静かで、震えがなかった。
 男の指は彼女の手首を押さえたまま硬直し、口を開きかけては閉じる。
 呼吸だけが荒く続いた。


 その間にも、焦げは円を広げ、寝台の裾へ火が移り始めていた。
 パチリと布が弾け、炎が蛇の舌のように伸びる。
 熱気が背中に迫り、煙は次第に濃くなる。

「く、くそ……!」

 ついに男はエリオノーラを突き放すように手を離し、乱れた息のまま寝台から跳び下りた。
 炎を避けるように後退し、扉へと駆け出していった。

 男の足音が遠ざかり、扉が乱暴に閉まる音がした。
 残された寝室には炎と煙だけが広がっていく。

 エリオノーラは身を起こそうとした。
 床に散った蝋がまだ赤く、絨毯の縁は黒く焼けて波のように丸まっている。
 立ち上がろうとした瞬間、肺に熱い煙が流れ込み、胸が強くせり上がった。

 咳がこみあげ、膝をつく。
 喉の奥が焼けるようで、目が痛む。
 衣の裾を押さえて鼻口を覆ったが、煙は止まらず押し寄せた。

 視界が白く霞み、力が抜けていく。
 耳鳴りがして、体が傾いた。
 指先が床を探るように伸びたが、そこから先は動かない。

 ――その時、扉が勢いよく開いた。

 外気が流れ込み、濃い煙が渦を巻いて揺れる。
 立ち込める灰色の中に、背の高い影が現れた。
 迷うことなく寝台へ駆け寄り、崩れかけた布の中からエリオノーラを抱き起こす。

「大丈夫だ。必ず助ける」

 焦げた布の臭いと熱気の中でも、その声だけははっきりと聞こえた。
 死が目前に迫る中であっても、その声を聞いただけでエリオノーラの口元にかすかな笑みが浮かんだ。

 強い腕に支えられた瞬間、胸の奥の緊張がふっとほどけていく。
 背に強い腕の力を感じながら、彼女の意識は闇に沈んでいった。

 
 
 屋敷は夜のうちに全焼した。
 石造りの骨だけが残り、壁に沿って黒い煤が縦に走っている。
 出火先が二階だったこともあり、幸いにも侍女や下働きは早く逃げ出し、命を落とした者はいなかった。

 男が捕えられたのは翌日のことだった。
 火の中から逃げ出す姿を見たという複数の証言があり、城下の宿に潜んでいたところを兵に取り押さえられた。
 縄で縛られ、連行されたその顔は――公爵家の嫡男アドルと寸分違わぬものだった。

  彼は縄に縛られたまま、声を荒らげていた。
 
「違う、火を放ったのはあの女だ! 俺は何もしていない!」

 だが誰も信じなかった。
 火が最初に上がった寝室にはエリオノーラしかいなかった。
 煙に巻かれた彼女が救い出され、倒れていた時――彼の姿はすでに消えていたのだ。
 証言と状況は揃い、逃げ出した時点で疑いは決定的だった。

 アドルとエリオノーラは屋敷の焼け跡を見つめていた。
 未だ立ち上る煙と煤の匂いに、昨夜の熱と苦しさが甦る。
 エリオノーラの呼吸らまだ浅く、体には疲労が色濃く残っていた。
 そんな彼女の隣に、アドルは静かに立っていた。
 エリオノーラを支えるように寄り添い、視線は焼け跡から動かさない。
 アドルが無事に自分をここまで救い出してくれた――その事実だけで胸が満たされていた。

「……捕らえられたそうだ」

 アドルが低く告げた。
 逃げた男は城下に潜んでいたところを見つかり、すでに兵の手で拘束されているという。

「どうして、あの人はあなたと同じ顔をしていたのですか」

 エリオノーラの問いに、アドルは短く息を吐き、焼け跡から目を離した。

「……あいつは、俺の双子の弟なんだ」

 沈痛な面持ちでアドルが口を開いた。
 普段は語られることのない、家の暗い事情が明らかにされる。

 ラルフ――彼の名はそう呼ばれた。
 幼い頃から、兄と比べられて育った。
 学問も武芸もそつなくこなすアドルに対し、ラルフは何事も中途半端で、出来の悪い弟と見られていた。
 その劣等感は幼心に深く刻まれ、やがて歪んだ欲望へと変わっていった。

 兄の持つものを、ことごとく欲しがった。
 書物も玩具も衣服も、そして人の信用すら。
 気に入ったものを平然と盗み、見咎められれば「兄がやった」と言い張った。

 双子で同じ顔をしていたため、周りはそれを信じていった。遠目に見た者には見分けがつかず、噂もすぐに兄へと結びついた。
 なくなった品が兄の部屋から見つかることもあり、ラルフの悪事はしばしばアドルの罪とされた。

 だが、アドルは一計を案じた。
「貴重な品が運び込まれる」と噂を流し、ラルフが盗みに入るよう仕向けたのだ。
そして当日、仕掛けを整えてその場で待ち構えた。
案の定、アドルの狙い通りにラルフは箱に手を伸ばし、盗み出そうとした瞬間、アドルと証人によって取り押さえられた。
 積み重ねた悪事はすべて明らかとなり、ラルフは家から追放された。十年以上前のことだった。
 誰もが二度と顔を合わせることはないと思っていた――はずだった。
 だがラルフは、その時のことをずっと恨み続けていた。
すべてを兄に奪われたと信じ込み、復讐の矛先を定めたのだ。兄が最も大切にしているもの――婚約者エリオノーラを奪い取ってやる、と。

「黙っていてすまなかった」

 言葉を切り、彼は隣に座る彼女を見やった。
 彼女はまだ咳をしながらも、真っ直ぐに視線を返す。

「だが……なぜ俺じゃないとわかったんだ?」

 アドルの問いに、彼女はわずかに眉を上げた。
 疑問として聞かれたこと自体が不思議だと言わんばかりに、はっきりとした声で答える。

「むしろ、なぜわからないと思うのですか。髪の生え際も、爪の形も、耳の大きさも、声の響きの癖も、体から立つ匂いも――何もかも違うじゃありませんか」

 一拍置き、彼女は静かに続けた。

「それに、あなたが私に『緊張しているのか?』なんて言うはずがないでしょう」

 アドルは目を丸くし、次の瞬間、ふっと笑いがこぼれた。声を立てて笑いながら、首を振る。

「そうか……あいつは、そんなことを言ったのか」

「ええ、私の取り柄なんて度胸だけだと言うのに」

 エリオノーラは鼻先をわずかに上げ、唇をきゅっと結び、つんと澄ました表情になる。
 
 そして息を整え、はっきりと言い切った。

「私は、あなたを愛しています」

 その言葉に、アドルは短く息をのみ、炎に照らされた昨夜の光景を思い返した。
 そして静かにうなずいた。

「……俺もだ。無事でいてくれてよかった」

 アドルの言葉に、エリオノーラはゆっくりと瞬きをしてから頷いた。
 少し間を置いて、表情を和らげる。

「久しぶりに、遠乗りでも行きません?」

 唐突な提案に、アドルは目を細める。

「どうしたんだ、急に」

「偽物が、二人で初めて馬に乗った時のことを持ち出しましたの。だから……その時のことを思い出して、行きたくなってしまったのです」

「ああ。君がまだお淑やかなふりをしていた頃のことか」

 エリオノーラは肩をすくめるようにして、わずかに口を尖らせた。

「ふりだなんて酷いですわ。あなたに、少しでも可愛らしく思っていて欲しかっただけです」

「すぐに仮面が剥がれて……逆に俺の方が馬の乗り方を叱られたんだったな」

 アドルは息を吐き、かすかに笑みを浮かべる。

「エリーに手を出そうとするなんて、馬鹿なやつだ」

 エリオノーラは唇を結んだまま彼を見つめ、そして小さく笑った。
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