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3巻
3-3
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「あはは、それで微妙な顔してたのね」
試験を終えたばかりの聖たちから話を聞いて、グレイスは笑って頷いた。
冒険者ギルドにある、ギルドマスターの部屋。
例によって炭酸水の売買のために通されたのだが、ギルドマスターが少々遅れるとのことで、試験のことを話していたのだった。
「外から来る人は大抵そうなのよね……ここの住民は何となくの噂で聞くからわかってるんだけど」
もちろん、大っぴらに言うことはないし、もし聞かれたとしても答えることもない。だが、暗黙の了解として皆知っているのだとグレイスは言う。
「「……へー」」
聖と春樹も誰かに言う気はない。むしろ抜き打ちだなんて知ったら毎日が緊張の連続となり、とても可哀相だろうと思ってしまった。
「それにしても本当に約一月で合格まで行くなんて、さすが落ち人よね」
感心したように言うグレイスだが、そもそも一か月と言い出したのは、聖たちではなく彼女だ。
本当にできるとは思わなかったと言わんばかりの口調に、この一か月の無茶ぶりを思い出した二人は、若干半眼になる。
短い期間で習得できたのはありがたいが、もう少しゆっくりでもよかったと思わないでもなかった。
「いいじゃない、終わりよければすべてよしって言うし! あ、来たわよ」
誤魔化すように笑って言ったグレイスにつられて、開かれるドアに視線を向ける。
そして現れたギルドマスターは、思った以上に小柄で……毛の塊だった。
「すまぬな、遅れた」
聞こえた声は重低音。
見た目とのギャップがすごいなと、ぼんやりと思うも問題はそこではないと、聖も春樹も思い直す。それよりもっと気になるものがあった。
二人は説明を求めて無言でグレイスを見る。
「……?」
視線の意味がわからず首を傾げるグレイスだったが、そう言えばと遅れて気がついた。
「説明してなかったわね。えっと、毛長族っていう種族なの」
「……け?」
「……なが?」
「そう。えっとね……」
毛長族は、小人族のように小柄で、髪の成長速度が尋常じゃない種族だそうだ。
髪の毛には常に薄く魔力が流れており、基本的にはそれで体全体を覆っている。よって、見た目は白い毛の塊というか毛玉。目や口どころか、前と後ろの判別もつかない……とのこと。
(……毛玉……)
(……紛れもない毛玉、だな……)
二人がまじまじと見つめていると、そんなよくわからない毛玉から声が上がる。
「ふむ、種族の説明はそれでいいかの? わしがここのギルドマスターをしとるラジハルじゃ。おじいちゃんと呼んでくれていいぞ?」
「「……」」
なにやら少し前に、似たようなやり取りがあったような気がするのは気のせいだろうか。
「……ギルマス。話を先に進めてください」
「なんじゃグレイス。受付嬢たる者、もう少し愛想が必要じゃよ?」
「安心してください、ギルマスに振る舞う愛想がないだけです」
「ふむ、ならよいか」
「はい」
いいんだ。
そんな聖と春樹の心の突っ込みを知ることなく、グレイスはこちらを見てにこりと笑みを浮かべる。
「それで用件はさっき話した通りなんだけど、まずギルマスにお願いできる?」
聖は頷くと、取り出したコップに炭酸水を注ぎ、それを毛玉、ではなくラジハルの前へと置く。
すると――
「うわっ!?」
「ちょっ、毛!?」
ラジハルの体を覆っていた毛がにょろりと伸びてコップに巻き付き、そのまま毛玉の中へと引き込んだ。
はっきり言ってもはやホラーな現象。というか動くということが驚きだったが、すぐにこれは当たり前の光景らしいとわかった。
グレイスが呆れたように「だから面倒くさがらないでくださいといつもっ」と、なにやら文句を言っている。
「……めんどう、なんだ」
「……まあ、便利と言えば便利、か?」
何ともコメントのし辛い光景を目の当たりにしつつ、二人がラジハルを見ていると、その毛玉の中から奇怪な叫びが聞こえた。
「うひょっ!?」
「「……うひょ?」」
「だから言ったじゃないですか、びっくりしますよって」
ラジハルはちらりとグレイスの方を向いたのか毛がさらりと揺れ、そしてしばし沈黙。
ごくごく、と微かに音がすることから、口に合わなかったわけではないらしいと安堵しつつ、聖たちはラジハルが飲み終わるのを待つ。
そして、再び毛玉からにょろりと毛が伸びて、コップが机の上へと戻された。
「どうします? 三くらいですか?」
「ふむ、五でもよいかの」
「わかりました!」
ラジハルの言葉に、元気よく答えたグレイスは、持っていた袋からもはや見慣れた樽をぽんぽん出していく。そして、お願いねと言わんばかりにイイ笑顔を向けてきた。
「……じゃあ春樹、入れてくるね」
「おう、頑張れ」
ちょっとだけため息をつくも、聖はすべての樽へと炭酸水を入れ、今回の販売も無事終了したのだった。
そして翌日。
聖と春樹は箒に印を押してもらうために、グレイスの案内で塔の奥の部屋へと向かう。
何をするのだろうと少し身構えていた二人だったが、拍子抜けするほどあっさりと終了した。
印を押す道具はどこからどう見ても、見慣れたインク内蔵タイプのハンコだった。
だが、聖も春樹も、まあ便利だよねと深くは追及しない。
なぜなら、どう考えても作ったのが落ち人であることは明白だからだ。
その後は、そのさらに奥にある部屋へと通される。そこで待っていたグレイスに声をかけようとした二人だが、目に飛び込んできた光景に目を見開いた。
「あ……これ?」
「……なるほど」
そこは白一色に染められた不思議な空間。そして正面にある壁には、金色の文字が書かれていた――日本語で。
それは紛れもなくこの国を作ったとされる落ち人、松木楓による、親友へのメッセージ。
箒に印を押した後は、必ずこの部屋へ通される決まりらしいが、それはきっと、グレイスに言葉を届けるためだったのだろうと、よくわかる。
なにせメッセージの最後に『もし、これを読めてしまって意味がわからなかった人は忘れること!』という言葉があるくらいだ。それくらい、当事者にしかわからない内容だった。
「……こんな大々的にメッセージを書くなんて、気づかないわけにはいかないじゃない?」
グレイスがどこか呆れたように、でも楽しげに言う。
「確かに。ていうかこれ、ものすごい職権濫用だよな」
「すごいよね。いくらこっちの人が読めないだろうと思っても」
「ええ、今更消せないし。ものすごく素晴らしいことが書かれてるって信じてる人たちに内容を伝えるなんて無理よ」
これは誰にも言えない。超私的なメッセージだ。
今までここに来た落ち人たちも同じ気持ちだったのだろう、一般に伝えられているのは『大事な人へのメッセージ』くらいだったようだ。聖と春樹もきっと、もし聞かれたら似たようなことを答えるだろうと思った。
「あ、それとこの後なんだけど。少しでいいからちょっと時間貰える? 話したいことがあるの」
「いいよ。じゃあ一度戻って……」
頷きながら聖が振り向いたその瞬間、何の前触れもなく突然、地面が光り輝いた。
「は?」
「え?」
しかも、なぜか聖と春樹の足元限定で。
何事かと思うも咄嗟のことに体は動かず、眩しさに思わず目を閉じると、どこかに引っ張られるような感覚が二人を襲う。
「え? ちょっ、聖!? 春樹!?」
そして、そんなグレイスの声を最後に、聖と春樹は忽然とその姿を消した。
閑話1 グレイスは、現在進行形な親友のやらかしを知る
地球で事故に遭った高校生が、異世界に転生した――デウニッツの冒険者ギルド受付嬢にして落ち人の専属であるグレイスに起こったことを、端的に表すとこうなる。
文字に表すと実に単純に思えるが、当事者としては重大事件だ。
目が覚めて、グレイスが最初に思ったのは「あ、生きてる」だったが、それは無理もないことだった。なにせ最後の記憶は目の前に迫るトラックだ。
だから奇跡的に助かって、病院にいるのだと思った。そして次に思ったのは、何か重大な後遺症を負ったのだろうか、ということ。
よく見えない目に、自由に動かない手足。そして何より、聞こえてくる声に聞き覚えはなく、なぜか言葉が理解できない。
これは脳に障害があるなと、再び薄れていく意識の片隅でそんなことを思った。
しかし徐々に、意識のある時間が増えると共に視力は回復し、手足の自由がきくようになると、疑問が浮上する。
なぜ、両親の姿がなく、病室というにはちょっと古めかしい感じの部屋にいるのか。
それになにより、脳に障害があるはずなのに、うっすら靄がかかった感じはするが、どうしてこんなにもいつも通り考えることができているのだろうか、と。
事故で脳に障害が残った症例など詳しくは知らないので、もしかしたらこれが当たり前なのかもしれないが、それでもさすがに何か違うと心が警鐘を鳴らす。
動かせるようになった手は心なしか小さいし、嬉しそうな知らない男女に持ち上げられるほど、自分の体重は軽くないはずだ。
(もしかしてよ、もしかして……巷で噂の、転生、とかだったりしない、わよね?)
そう思い至った瞬間だった。
(――っ!?)
頭の中にあった靄のようなものが一気に晴れ、嘘みたいな考えが事実だと認識する。
そして同時に、それが彼女にとっての戦いの日々の始まりとなった。
つまり、今まで意識から除外されていた、排せつや食事といったものに対する、羞恥心との戦い。
赤ちゃんなので仕方がないのだが、精神年齢は花も恥じらう乙女である。
なので毎回、声にならない叫びを上げる羽目になった……もちろん対外的には「あうあうう」というとても赤ちゃんらしい声しか出ないのだが。
そんな壮絶な戦いを繰り広げながらも、子供の柔らかく優秀な頭は、見えるものや聞こえるものをどんどん吸収していき、意味がわからなかったはずの言葉もいつの間にか習得していた。
そして理解したのは、この世界では転生や転移といったものが、珍しいとはいえ確かに存在するということ。それから転生と転移の違いについてだった。
転移者は落ち人と呼ばれ、総じて能力が高く、さらに過去の英雄王ナナキの計らいによるサポートが付く。
それを知った当初は不公平だと、少しくらい転生者にもなにか特典があってもいいのにと思った。前世の記憶そのものが特典だという可能性もあるが、それはグレイスにはあまり役に立たない。
けれど、過去の落ち人たちがやらかしたことを知るにつれ、普通でいいと思うようになるのに時間はかからなかった。むしろこの都市に生まれたということがグレイスにとって幸運すぎた。
なぜならばデウニッツに広がっているのは、前世で夢にまで見た光景。
箒で空を飛ぶことが当たり前の場所で、そのための教育が受けられる。これを幸運と言わずになんというのだろうか。
加えて、自身が転生者であることを公表しても、魔法の研究に熱心な住民たちに興味を持たれることも奇異な目で見られることもなかった。
周りと同じように嬉々として、寝ても覚めても勉強に訓練。この都市以外では引かれるであろう日常だが、何一つ疑問に思うことも不満もない。
そうして、十二歳の時に無事箒に印を貰うことができたのだが、この時グレイスは喜びと共に衝撃に見舞われることになる。
塔の奥にある部屋の壁に描かれた、読めてしまったその文章によって。
『たぶん読んでしまう日が来るだろうことが確定の親友へ』
そんな文言から始まったそれは、きっとグレイスにしか理解できない言葉の羅列。
『頑張ったでしょ? アレを実現させたの! すっごく頑張ったの! 今、ここにいないのが残念。でも、わたしはできることは全部した。後悔することもあるけど、全身全霊、全力を出したの。黒猫は見つからなかったけど、今はこれでいいと思う。だから――またね、親友』
変わらない親友がそこにいた。あの日別れたままの親友がそこにはいた。
(……ああ、やっぱり、ね……)
本当は、薄々気づいていたのだ。この都市の成り立ちを知り、落ち人のことを知る過程で、この都市を作った『カエデ』が自らの親友である、その可能性に。
けれど、グレイスは気づきたくなかった。認めたくなかった。だって認めてしまったらそれは――もう、二度と親友と会うことができないということだから。
グレイスとしての生を始めて、グレイスとして両親から愛情いっぱいで育てられて、徐々に前世への執着も記憶も薄れていった。
たった一つを除いて。
己が転生したのだから、あの日一緒にいた親友もひょっとしたら、いや、間違いなくこっちに来ているはずだと、そう思ってもいたのだ。
もちろん助かって幸せに暮らしてくれていればいいとの思いもあるが、あの親友に関してそうはならないだろうという、なんの根拠もない確信がグレイスにはあった。
だから、気づかない振りをした。そうしていればゼロに近い確率でも、再会の希望が持てるから。
けれど今、親友が残したこの文章によって、それは完全にゼロになってしまった。
「……またね、って、無理でしょ」
あまりにもあの親友らしい言葉に、グレイスは思わず笑う。笑ったまま、ぽたりぽたりと、涙が零れ落ちる。
(……ここに来たのがひとりで、よかったな……)
グレイスに前世の記憶があるのは知られているが、それが落ち人たちと同じ世界だということは、一部の人しか知らない。だからグレイスがこれを読めてしまったということは、知られなくて済む。
「だって、言えないじゃない……」
言えるわけがない。こんなにも私的すぎるメッセージ。グレイスのためだけに残された言葉。親友からの贈り物。
それを何度も何度も読み返して、そしてグレイスは泣き笑いのまま心の底から呟いた。
「……会いたかったなぁ」
それからグレイスはすぐに冒険者ギルドで働き始めた。基本的にこの世界では、十四、五歳から働くのが一般的だ。十二歳のグレイスは少しだけ早かったが、驚かれるような年ではない。そもそも、農村などになるともっと早い。
冒険者ギルドを選んだのは、近年では少ないが他の転生者や落ち人に会ってみたかったというのが最たる理由だ。もちろん給料がよかった、というのもあるが。
そして、そんなグレイスの願いは割とすぐに叶えられた。
ある日、一人の落ち人がやって来た。けれどその落ち人は箒で空を飛ぶ魔法を習得するには時間がかかるかもしれないということを説明すると、少しだけ考えて、すぐさま都市を出てしまった。
がっかりするグレイスだったが、その数年後、十七歳の時に新たな落ち人がやって来た。
聖と春樹という名の、大人しそうな少年と目つきの鋭い少年の組み合わせに、グレイスは、聞いてはいたが内心びっくりしていた。
けれどそんなことはおくびにも出さずに、今度はすぐに帰らないよう、蓄えた知識を総動員して約一カ月という期間だが、留まらせることに成功する。
そうして得た繋がりはグレイスにとって、とても楽しい時間だった。
なによりも、聖が作ったあちらの世界を思い出させるような料理の数々は、本当に懐かしく美味しい。材料をどこでどうやって手に入れたのかは知らないが、まあ落ち人だしね、とこの世界で培った常識にのっとり納得することにした。
そして素直に、いいなぁと思った。親友だという彼らに、ひょっとしたらあったかもしれない己と親友の姿を重ね、グレイスは目を細める。それがもう、決して実現することはないと知っていたけれど。
けれど彼らに会ったお蔭で、グレイスはようやく次の一歩を踏み出す勇気が持てた。
すなわち、ヘイゼンに会うこと。
それは、この世界に落ち人として存在した親友を知っている、唯一の人だと言ってもいい人物。
ヘイゼン自体に苦手意識があるというのも確かに嘘ではないが、己が知らない時間を過ごした親友のことを知るのが怖かった、というのが大きい。
けれどついに、自分の人生を全力で生きるための一歩を、グレイスは踏み出した。
試験を終えたばかりの聖たちから話を聞いて、グレイスは笑って頷いた。
冒険者ギルドにある、ギルドマスターの部屋。
例によって炭酸水の売買のために通されたのだが、ギルドマスターが少々遅れるとのことで、試験のことを話していたのだった。
「外から来る人は大抵そうなのよね……ここの住民は何となくの噂で聞くからわかってるんだけど」
もちろん、大っぴらに言うことはないし、もし聞かれたとしても答えることもない。だが、暗黙の了解として皆知っているのだとグレイスは言う。
「「……へー」」
聖と春樹も誰かに言う気はない。むしろ抜き打ちだなんて知ったら毎日が緊張の連続となり、とても可哀相だろうと思ってしまった。
「それにしても本当に約一月で合格まで行くなんて、さすが落ち人よね」
感心したように言うグレイスだが、そもそも一か月と言い出したのは、聖たちではなく彼女だ。
本当にできるとは思わなかったと言わんばかりの口調に、この一か月の無茶ぶりを思い出した二人は、若干半眼になる。
短い期間で習得できたのはありがたいが、もう少しゆっくりでもよかったと思わないでもなかった。
「いいじゃない、終わりよければすべてよしって言うし! あ、来たわよ」
誤魔化すように笑って言ったグレイスにつられて、開かれるドアに視線を向ける。
そして現れたギルドマスターは、思った以上に小柄で……毛の塊だった。
「すまぬな、遅れた」
聞こえた声は重低音。
見た目とのギャップがすごいなと、ぼんやりと思うも問題はそこではないと、聖も春樹も思い直す。それよりもっと気になるものがあった。
二人は説明を求めて無言でグレイスを見る。
「……?」
視線の意味がわからず首を傾げるグレイスだったが、そう言えばと遅れて気がついた。
「説明してなかったわね。えっと、毛長族っていう種族なの」
「……け?」
「……なが?」
「そう。えっとね……」
毛長族は、小人族のように小柄で、髪の成長速度が尋常じゃない種族だそうだ。
髪の毛には常に薄く魔力が流れており、基本的にはそれで体全体を覆っている。よって、見た目は白い毛の塊というか毛玉。目や口どころか、前と後ろの判別もつかない……とのこと。
(……毛玉……)
(……紛れもない毛玉、だな……)
二人がまじまじと見つめていると、そんなよくわからない毛玉から声が上がる。
「ふむ、種族の説明はそれでいいかの? わしがここのギルドマスターをしとるラジハルじゃ。おじいちゃんと呼んでくれていいぞ?」
「「……」」
なにやら少し前に、似たようなやり取りがあったような気がするのは気のせいだろうか。
「……ギルマス。話を先に進めてください」
「なんじゃグレイス。受付嬢たる者、もう少し愛想が必要じゃよ?」
「安心してください、ギルマスに振る舞う愛想がないだけです」
「ふむ、ならよいか」
「はい」
いいんだ。
そんな聖と春樹の心の突っ込みを知ることなく、グレイスはこちらを見てにこりと笑みを浮かべる。
「それで用件はさっき話した通りなんだけど、まずギルマスにお願いできる?」
聖は頷くと、取り出したコップに炭酸水を注ぎ、それを毛玉、ではなくラジハルの前へと置く。
すると――
「うわっ!?」
「ちょっ、毛!?」
ラジハルの体を覆っていた毛がにょろりと伸びてコップに巻き付き、そのまま毛玉の中へと引き込んだ。
はっきり言ってもはやホラーな現象。というか動くということが驚きだったが、すぐにこれは当たり前の光景らしいとわかった。
グレイスが呆れたように「だから面倒くさがらないでくださいといつもっ」と、なにやら文句を言っている。
「……めんどう、なんだ」
「……まあ、便利と言えば便利、か?」
何ともコメントのし辛い光景を目の当たりにしつつ、二人がラジハルを見ていると、その毛玉の中から奇怪な叫びが聞こえた。
「うひょっ!?」
「「……うひょ?」」
「だから言ったじゃないですか、びっくりしますよって」
ラジハルはちらりとグレイスの方を向いたのか毛がさらりと揺れ、そしてしばし沈黙。
ごくごく、と微かに音がすることから、口に合わなかったわけではないらしいと安堵しつつ、聖たちはラジハルが飲み終わるのを待つ。
そして、再び毛玉からにょろりと毛が伸びて、コップが机の上へと戻された。
「どうします? 三くらいですか?」
「ふむ、五でもよいかの」
「わかりました!」
ラジハルの言葉に、元気よく答えたグレイスは、持っていた袋からもはや見慣れた樽をぽんぽん出していく。そして、お願いねと言わんばかりにイイ笑顔を向けてきた。
「……じゃあ春樹、入れてくるね」
「おう、頑張れ」
ちょっとだけため息をつくも、聖はすべての樽へと炭酸水を入れ、今回の販売も無事終了したのだった。
そして翌日。
聖と春樹は箒に印を押してもらうために、グレイスの案内で塔の奥の部屋へと向かう。
何をするのだろうと少し身構えていた二人だったが、拍子抜けするほどあっさりと終了した。
印を押す道具はどこからどう見ても、見慣れたインク内蔵タイプのハンコだった。
だが、聖も春樹も、まあ便利だよねと深くは追及しない。
なぜなら、どう考えても作ったのが落ち人であることは明白だからだ。
その後は、そのさらに奥にある部屋へと通される。そこで待っていたグレイスに声をかけようとした二人だが、目に飛び込んできた光景に目を見開いた。
「あ……これ?」
「……なるほど」
そこは白一色に染められた不思議な空間。そして正面にある壁には、金色の文字が書かれていた――日本語で。
それは紛れもなくこの国を作ったとされる落ち人、松木楓による、親友へのメッセージ。
箒に印を押した後は、必ずこの部屋へ通される決まりらしいが、それはきっと、グレイスに言葉を届けるためだったのだろうと、よくわかる。
なにせメッセージの最後に『もし、これを読めてしまって意味がわからなかった人は忘れること!』という言葉があるくらいだ。それくらい、当事者にしかわからない内容だった。
「……こんな大々的にメッセージを書くなんて、気づかないわけにはいかないじゃない?」
グレイスがどこか呆れたように、でも楽しげに言う。
「確かに。ていうかこれ、ものすごい職権濫用だよな」
「すごいよね。いくらこっちの人が読めないだろうと思っても」
「ええ、今更消せないし。ものすごく素晴らしいことが書かれてるって信じてる人たちに内容を伝えるなんて無理よ」
これは誰にも言えない。超私的なメッセージだ。
今までここに来た落ち人たちも同じ気持ちだったのだろう、一般に伝えられているのは『大事な人へのメッセージ』くらいだったようだ。聖と春樹もきっと、もし聞かれたら似たようなことを答えるだろうと思った。
「あ、それとこの後なんだけど。少しでいいからちょっと時間貰える? 話したいことがあるの」
「いいよ。じゃあ一度戻って……」
頷きながら聖が振り向いたその瞬間、何の前触れもなく突然、地面が光り輝いた。
「は?」
「え?」
しかも、なぜか聖と春樹の足元限定で。
何事かと思うも咄嗟のことに体は動かず、眩しさに思わず目を閉じると、どこかに引っ張られるような感覚が二人を襲う。
「え? ちょっ、聖!? 春樹!?」
そして、そんなグレイスの声を最後に、聖と春樹は忽然とその姿を消した。
閑話1 グレイスは、現在進行形な親友のやらかしを知る
地球で事故に遭った高校生が、異世界に転生した――デウニッツの冒険者ギルド受付嬢にして落ち人の専属であるグレイスに起こったことを、端的に表すとこうなる。
文字に表すと実に単純に思えるが、当事者としては重大事件だ。
目が覚めて、グレイスが最初に思ったのは「あ、生きてる」だったが、それは無理もないことだった。なにせ最後の記憶は目の前に迫るトラックだ。
だから奇跡的に助かって、病院にいるのだと思った。そして次に思ったのは、何か重大な後遺症を負ったのだろうか、ということ。
よく見えない目に、自由に動かない手足。そして何より、聞こえてくる声に聞き覚えはなく、なぜか言葉が理解できない。
これは脳に障害があるなと、再び薄れていく意識の片隅でそんなことを思った。
しかし徐々に、意識のある時間が増えると共に視力は回復し、手足の自由がきくようになると、疑問が浮上する。
なぜ、両親の姿がなく、病室というにはちょっと古めかしい感じの部屋にいるのか。
それになにより、脳に障害があるはずなのに、うっすら靄がかかった感じはするが、どうしてこんなにもいつも通り考えることができているのだろうか、と。
事故で脳に障害が残った症例など詳しくは知らないので、もしかしたらこれが当たり前なのかもしれないが、それでもさすがに何か違うと心が警鐘を鳴らす。
動かせるようになった手は心なしか小さいし、嬉しそうな知らない男女に持ち上げられるほど、自分の体重は軽くないはずだ。
(もしかしてよ、もしかして……巷で噂の、転生、とかだったりしない、わよね?)
そう思い至った瞬間だった。
(――っ!?)
頭の中にあった靄のようなものが一気に晴れ、嘘みたいな考えが事実だと認識する。
そして同時に、それが彼女にとっての戦いの日々の始まりとなった。
つまり、今まで意識から除外されていた、排せつや食事といったものに対する、羞恥心との戦い。
赤ちゃんなので仕方がないのだが、精神年齢は花も恥じらう乙女である。
なので毎回、声にならない叫びを上げる羽目になった……もちろん対外的には「あうあうう」というとても赤ちゃんらしい声しか出ないのだが。
そんな壮絶な戦いを繰り広げながらも、子供の柔らかく優秀な頭は、見えるものや聞こえるものをどんどん吸収していき、意味がわからなかったはずの言葉もいつの間にか習得していた。
そして理解したのは、この世界では転生や転移といったものが、珍しいとはいえ確かに存在するということ。それから転生と転移の違いについてだった。
転移者は落ち人と呼ばれ、総じて能力が高く、さらに過去の英雄王ナナキの計らいによるサポートが付く。
それを知った当初は不公平だと、少しくらい転生者にもなにか特典があってもいいのにと思った。前世の記憶そのものが特典だという可能性もあるが、それはグレイスにはあまり役に立たない。
けれど、過去の落ち人たちがやらかしたことを知るにつれ、普通でいいと思うようになるのに時間はかからなかった。むしろこの都市に生まれたということがグレイスにとって幸運すぎた。
なぜならばデウニッツに広がっているのは、前世で夢にまで見た光景。
箒で空を飛ぶことが当たり前の場所で、そのための教育が受けられる。これを幸運と言わずになんというのだろうか。
加えて、自身が転生者であることを公表しても、魔法の研究に熱心な住民たちに興味を持たれることも奇異な目で見られることもなかった。
周りと同じように嬉々として、寝ても覚めても勉強に訓練。この都市以外では引かれるであろう日常だが、何一つ疑問に思うことも不満もない。
そうして、十二歳の時に無事箒に印を貰うことができたのだが、この時グレイスは喜びと共に衝撃に見舞われることになる。
塔の奥にある部屋の壁に描かれた、読めてしまったその文章によって。
『たぶん読んでしまう日が来るだろうことが確定の親友へ』
そんな文言から始まったそれは、きっとグレイスにしか理解できない言葉の羅列。
『頑張ったでしょ? アレを実現させたの! すっごく頑張ったの! 今、ここにいないのが残念。でも、わたしはできることは全部した。後悔することもあるけど、全身全霊、全力を出したの。黒猫は見つからなかったけど、今はこれでいいと思う。だから――またね、親友』
変わらない親友がそこにいた。あの日別れたままの親友がそこにはいた。
(……ああ、やっぱり、ね……)
本当は、薄々気づいていたのだ。この都市の成り立ちを知り、落ち人のことを知る過程で、この都市を作った『カエデ』が自らの親友である、その可能性に。
けれど、グレイスは気づきたくなかった。認めたくなかった。だって認めてしまったらそれは――もう、二度と親友と会うことができないということだから。
グレイスとしての生を始めて、グレイスとして両親から愛情いっぱいで育てられて、徐々に前世への執着も記憶も薄れていった。
たった一つを除いて。
己が転生したのだから、あの日一緒にいた親友もひょっとしたら、いや、間違いなくこっちに来ているはずだと、そう思ってもいたのだ。
もちろん助かって幸せに暮らしてくれていればいいとの思いもあるが、あの親友に関してそうはならないだろうという、なんの根拠もない確信がグレイスにはあった。
だから、気づかない振りをした。そうしていればゼロに近い確率でも、再会の希望が持てるから。
けれど今、親友が残したこの文章によって、それは完全にゼロになってしまった。
「……またね、って、無理でしょ」
あまりにもあの親友らしい言葉に、グレイスは思わず笑う。笑ったまま、ぽたりぽたりと、涙が零れ落ちる。
(……ここに来たのがひとりで、よかったな……)
グレイスに前世の記憶があるのは知られているが、それが落ち人たちと同じ世界だということは、一部の人しか知らない。だからグレイスがこれを読めてしまったということは、知られなくて済む。
「だって、言えないじゃない……」
言えるわけがない。こんなにも私的すぎるメッセージ。グレイスのためだけに残された言葉。親友からの贈り物。
それを何度も何度も読み返して、そしてグレイスは泣き笑いのまま心の底から呟いた。
「……会いたかったなぁ」
それからグレイスはすぐに冒険者ギルドで働き始めた。基本的にこの世界では、十四、五歳から働くのが一般的だ。十二歳のグレイスは少しだけ早かったが、驚かれるような年ではない。そもそも、農村などになるともっと早い。
冒険者ギルドを選んだのは、近年では少ないが他の転生者や落ち人に会ってみたかったというのが最たる理由だ。もちろん給料がよかった、というのもあるが。
そして、そんなグレイスの願いは割とすぐに叶えられた。
ある日、一人の落ち人がやって来た。けれどその落ち人は箒で空を飛ぶ魔法を習得するには時間がかかるかもしれないということを説明すると、少しだけ考えて、すぐさま都市を出てしまった。
がっかりするグレイスだったが、その数年後、十七歳の時に新たな落ち人がやって来た。
聖と春樹という名の、大人しそうな少年と目つきの鋭い少年の組み合わせに、グレイスは、聞いてはいたが内心びっくりしていた。
けれどそんなことはおくびにも出さずに、今度はすぐに帰らないよう、蓄えた知識を総動員して約一カ月という期間だが、留まらせることに成功する。
そうして得た繋がりはグレイスにとって、とても楽しい時間だった。
なによりも、聖が作ったあちらの世界を思い出させるような料理の数々は、本当に懐かしく美味しい。材料をどこでどうやって手に入れたのかは知らないが、まあ落ち人だしね、とこの世界で培った常識にのっとり納得することにした。
そして素直に、いいなぁと思った。親友だという彼らに、ひょっとしたらあったかもしれない己と親友の姿を重ね、グレイスは目を細める。それがもう、決して実現することはないと知っていたけれど。
けれど彼らに会ったお蔭で、グレイスはようやく次の一歩を踏み出す勇気が持てた。
すなわち、ヘイゼンに会うこと。
それは、この世界に落ち人として存在した親友を知っている、唯一の人だと言ってもいい人物。
ヘイゼン自体に苦手意識があるというのも確かに嘘ではないが、己が知らない時間を過ごした親友のことを知るのが怖かった、というのが大きい。
けれどついに、自分の人生を全力で生きるための一歩を、グレイスは踏み出した。
応援ありがとうございます!
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