先生、わがまま聞いて

香桐れん

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<五> 先生の家

14 先生の家

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     14 先生の家
 
 十二階建ての十階に先生の住まいがあった。
 2LDKの部屋は物が少なくすっきりとしていた。足を踏み入れるなり、花のような良い香りが漂ってきたが、女の子の部屋にありがちな可愛らしい装飾はほとんど見当たらなかった。
 通されたリビングはバルコニーに面していて、昼間はさぞ明るい光が差し込むであろうことが想像できた。
「おなか空いてるよね? 昨日の残りの肉じゃがだったらあるんだけど」
 ご飯は何合ぐらい食べるの? ジャケットを脱いだ先生が冷蔵庫を覗き込みながら尋ねている。
 瑛斗は勝手にガラス窓を開け、バルコニーに出た。両側に小高い山の影が見え、その間に小さな明かりがいくつも灯っている。視界の先は開けて光が密集していて、そのさらに向こうには海とおぼしきのっぺりとした暗い闇が続いている。
 夜景と呼ぶにはあまりにもささやかだけれど、いくつもの光が小さな宝石箱を開けたようにキラキラと瞬き、物思いに耽るには最適な世界が目の前に広がっている。
 パタパタと足音が近づき、腕に体温を感じた。
「夏には花火が見えるんだよ」
 瑛斗のすぐ隣で先生の大きな瞳が海の方を見ている。
 花火大会、いつも誰と見ているの?
 そう尋ねるよりも前に先生はくるりと背を向け、「今日寒いね。中入ろうよ」と部屋に戻ってしまった。
 室内に戻ると先生が窓とカーテンを閉めた。蛍光灯の明るいリビングで眺める先生の見慣れた背中が何故だかとても新鮮なものに見え、瑛斗は胸が高鳴るのを感じた。
 先生は考えごとでもしているのか、カーテンの端を握ったままその場で動きを止めた。
 白いブラウスに包まれた肩がいつも以上に小さく見える。そっと手のひらを置くと、驚かせたつもりはないのにビクッと体が揺れた。
 たまらなくなってその体をこちらへ振り向かせた。
 両腕で引き寄せると、柔らかい胸が瑛斗のみぞおちに当たった。先生は瑛斗の腕の中に小さく収まって、瑛斗の袖を弱く掴んでいた。
「せんせ……しゅーちゃん……」
 俯いたまま目を合わせようとしない先生の顔を覗き込む。
「しゅーちゃん……こっち見て」
「……やだ」
「なんで」
 腰を抱き留めたまま、右手で小さな顔に触れた。
「こっち向いて。何考えてるの?」
 指先で頬をなぞる。先生は細く息を吐きながら、長いまつ毛を震わせている。
「男の人を家に入れたの、初めてで」
「えーほんとに? 嘘でしょ」
「ひどい! 淫乱だと思ってるんでしょ」
 眉をきゅっと寄せ、唇を尖らせながら、泣き出しそうな目をしてやっと瑛斗を見てくれた。
 両手で突き放そうとする。弱い力だったから瑛斗はその体を容易に引き留める。
「不倫してたから? 思うわけないじゃん、そんなこと」
 聞きたくない言葉だったに違いない。にわかにこわばった先生の頬を手のひらで包み込みながら、瑛斗はこれまでの人生で経験したことがなかったほどの真摯な気持ちで、目の前の人を見つめた。
「思ってないし、あんなことももう絶対にさせないから」
 間近の瞳がひどく揺れる。この想いがきちんと伝わってほしくて、祈るような気持ちでささやきかける。
「俺、本気だから。本気でしゅーちゃんのこと好きだから」
「藤代くん」
 先生が言葉を遮ろうとしたが、構わずに続けた。
「俺が一生しゅーちゃんのこと守って、一生寂しい思いなんてさせないって、約束するから」
「一生だなんて……まだ高校生じゃない」
 そう言いながらも先生の瞳がみるみるうちに潤んでいく。
「関係ないよそんなの」
「あるよ」
「ないよ。だって俺、今この世で誰よりもしゅーちゃんのこと大切にできる自信があるから」
「何よその自信」
 笑おうとしたのか先生の顔が歪む。同時に長いまつ毛に縁取られた瞳から、ぽろりと涙が伝い落ちた。
 顔をゆっくり近づけると、先生はほんの少し頭を後ろに反らせた。構わずに濡れた目尻を唇で吸うと、先生はこらえきれないみたいにますます涙をこぼしながら、瞼を閉じた。
 嗚咽をこらえるように噛み締めた唇に、瑛斗は慎重に自分の唇を近づけた。
 先生は逃げなかった。
 だから、そっと唇を重ねた。
 
 
 
 
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