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<九> わがままを聞いて
23 誕生日のお祝い ②
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いつの間に用意したのか、先生の家では既にいくつかの料理が出来上がっていた。
先生はエプロンを着けてキッチンに立つとリーフサラダを手早く盛り、ポークステーキをフライパンで焼いて蜂蜜とマスタードのソースをかけた。瑛斗は隣に並んで、野菜スープの鍋をおたまで無意味に混ぜながら、先生の手つきを眺めていた。温かい料理ができ上がると、冷蔵庫で冷やしてあったトマトとモッツァレラチーズを重ねたカプレーゼもテーブルに並べ、炭酸水で乾杯した。
先生に「お酒飲まないの?」と尋ねると、何故か少し困ったように眉を寄せてから、「今日はやめておく」と言った。先生の冷蔵庫には必ずビールの缶が何本か入っていたが、これまで瑛斗と一緒にいる時にはけっして飲まなかった。
それはいつもの夜であれば瑛斗を車で送らなければならないからだと、瑛斗は考えていた。
今夜は、最初の夜以来、ようやく先生の家に泊まることになっていた。
「飲めばいいのに」ともう一度勧めたが、先生はやはり「ううん」と首を振った。
「ケーキも食べなきゃいけないし」
普段は和食が多い先生の料理は、洋食もやはり美味しかった。
「レストランのディナーコースってこんな感じなの? クリスマスのカップル向けのとか」
花みたいに丸く巻かれたスモークサーモンを皿に取りながら尋ねると、「こんなに質素じゃないと思うよ」と先生が声を立てて笑った。
「充分豪華だよ」
「そうかな。デートでディナーに行ったことないからわかんないけど」
手元のステーキをフォークでつつきながら、呟くように先生が言う。
「ないの? 一度も?」
「うん」
甲斐性がない彼氏ばかりだったの? そう尋ねかけて留まった。
たまたま毎年、特別な日に付き合っている男がいなかったのかもしれない。
もしかしたら、相手の男が仕事の都合でそういう日に休みを取れなかったのかもしれない。
それとも、ずっとあの妻子持ちに心を奪われていて、ひとり寂しく大切な日の夜を過ごしてきたのだろうか……。
気づかれないようにこっそりと頭を振ってから、フォークを置いて先生の顔を見た。
「でも、しゅーちゃんのご飯の方が絶対美味しいから、俺はしゅーちゃんの手料理がいい」
「自分の料理じゃ特別感がないじゃん」
片肘をついて瑛斗を見返す先生の目が、酒を飲んで酔っているかのようにうっとりと細められている。
「来年は瑛斗がご馳走してくれるの楽しみにしてる」
来年、と先生が言った。
来年――この先も、一緒にいることを想定してくれている。
その言葉が嬉しくて、瑛斗は急激に胸が熱くなるのを感じる。
テーブルの上に腕を伸ばし、皿の横に置かれた白い手をぎゅっと握った。
「しゅーちゃん、改めて、おめでとう」
ささやきかけると、先生ははにかみながら静かにフォークを置いた。
「ありがとう。瑛斗も、ちょっと早いけど、おめでとう」
瑛斗を見つめながら「早く追いついてきて」と茶目っ気を込めてささやく。
先生が浮かべたとびきり美しい微笑に、すっかりとろけそうな心地になった。
手の指を絡め取ると、瑛斗は心に誓うような気持ちで先生にささやき返した。
「来年の誕生日は、絶対一緒にいてお祝いしよう」
「うん」
「今年だって、ほんとは傍にいたかった。……早く会いたかった」
「うん……」
いつまでも手を握っていると、先生はわずかに苦笑してから「食べちゃおうよ」とそっと手を押し返した。
先生は空気を変えるように、皿の上の肉を切りながら「試験はどうだった?」と尋ねた。
甘い空気を一瞬で消されてしまったことに内心がっかりしながら、瑛斗は「突然教師みたいなこと言い出した」とからかった。
「だって、瑛斗の成績下がったら責任感じるもん」
「大丈夫だよ、これ以上下がりようがないから」
真顔で返すと先生は呆れたように大きな目をひときわ見開いてから、「ほんとはまだ内緒だけど」と他に誰もいないのに声を潜めた。
「英語は、ものすごく頑張ってたね」
自分なりに努力したことが成果として表れ、こうして大好きな人に褒めてもらえることがこんなにも嬉しいなんて。
先生が目を細めるのを見つめながら、今度は瑛斗がはにかんだ。
「しゅーちゃん、俺、勉強頑張ってみようと思う」
ふと見開いた瞳がまっすぐに瑛斗を見た。
「受かるかどうか、全然自信ないけど、大学行って、野球やりたいなって。そしたらしゅーちゃんに、野球するところまた見てもらえるから」
すると先生は感極まったように瞳を揺らしてから、「うんうん」と何度も小さくうなずいた。
「絶対見に行くよ。スタンドから瑛斗に聞こえるぐらい大きな声で応援するから。『エイトー! 打てー!』って」
先生が拳を握って振り上げる。まるで今、本当にスタンドにいて、グラウンドに声援を送っているみたいで、ふたりで思わず吹き出してしまった。
外はすっかり日が暮れて、室内は天井で灯る蛍光灯の明かりだけなのに、楽しそうに笑う先生の表情は、真夏の太陽に照らされているみたいにキラキラとまばゆく輝いていた。
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